〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第12回) 川喜田晶子

  • 2018.05.28 Monday
  • 21:08

 

隠し持つ欲望

 

 無意識を表現してこその文学。

 俳句や短歌といった定型短詩において、無意識に隠されているものはどれほどの振幅で表現され得るだろうか。

 

致死量の遊びせんとや犬ふぐり  三木冬子

 

肉体やとりとめもなく青葉して  鳴戸奈菜

 

能面のくだけて月の港かな  黒田杏子

 

馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ  塚本邦雄

 

「致死量の遊びせんとや」は、もちろん『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」を踏まえているだろう。

 後白河院が夢中になったという今様を集めた『梁塵秘抄』には、ニヒリズムをバネとして現世を享楽的に肯定せんとする、時代の転換期の過剰な律動を感じるのだが、この句では、「犬ふぐり」の幼児的な愛くるしい小花が無数に咲き乱れる姿と取り合わせられて、「致死量」の過剰さもどこか日常的な視野に刈り込まれている。

 だが、その可憐な姿の「数え切れなさ」という非日常性への渇望は、他界へのなだらかな跳躍をイメージさせ、このままその渇望が増殖するなら「致死量」を超えるのではないかという不安・誘惑を喚起しているのだ。そこに『梁塵秘抄』のニヒリズムが適確に招き寄せられている。

 

 鳴戸奈菜の句における感動の中心は「肉体」。

「青葉する」のが樹木でもあり自身の肉体でもあるように感じた時間の、突出した手触りをそのまま読み手に差し出している。

「とりとめもない」のは、肉体の主の意図など蹴散らして青葉しているからであり、青葉することでいったい何をしようとしているのかも定かではないからだ。その、因果律とも目的性とも無縁の、無邪気なエロスを撒き散らす森林のような肉体を、己れが隠し持っていたことに感動しているのだ。その感動の青々とした肉感性に、読み手もまた、とりとめもなく感覚がざわめき始める。

 

「能面」が砕ければ、演者の素顔が顕われる。

 フォルムの固定された〈面〉であるがゆえに、多彩な情念を抽象度の高い形でシンボリックに表現し得るが、演者の固有性を隠匿する〈面〉でもある。

「月の港」と取り合わせられることで、砕け散った能面はきらめくさざ波と化して、情念の舞台としての「港」に浮かぶような映像を喚起する。

 砕けてこそ、女。

 破砕されたペルソナ。

 寄せては返す固有の情念のさざ波。

 大海の無辺に連続する「港」という舞台の、不安的な濃密さと底なしの受容力。

 

 塚本邦雄は周知のように、寺山修司・岡井隆らと並んで前衛短歌の旗手として名を馳せた歌人である。絢爛たる芸術至上主義的作風において散文的・地上的日常を拒み続けた塚本の代表歌。

 三木冬子の句が、ニヒリズムを柔和な日常的視野に刈り込んだのとは対照的に、日常の営みに潜む非日常性への渇望が、当然のように過激な境地へと一線を踏み越えてゆく姿を描き、戦後的な〈現実〉の枠組みを異化しようとした。

 下の句に露呈する単純な芸術至上主義的倒錯性の背骨を、厳しく鍛え上げているかのような上の句には、酸鼻で散文的な〈現実〉の裏返しとしての〈幻想〉、といった枠組みを、内側から突き詰めることで超えようとするかのような、塚本の不敵な気概が滲む。

 その馬に騎乗し、人が己れの命を預けるのであれば、馬を洗うという営みは、その魂が冱(さ)えわたるまで為されなければ意味がない。半端な洗い方では、人と馬の一体感は生まれない。人と馬が一体となってもう一つの存在としての魂を獲得することで、馬の疾駆には〈現実〉を超える澄み切った聖性が伴う。その聖性を引き出すように「洗う」という営みは為されねばならないはずだ。それが為されない洗い方では、人は騎乗によって命を落としかねない。

 では、そのような馬の洗い方に匹敵するように人を恋うならば。

 己れと相手が一体と化して、もう一つの新たな存在として生きられるように「恋う」という覚悟、それは、我執によって相手を殺してしまうといったみすぼらしい現代人の病理などではなく、互いをこの〈現実〉から解き放つ行為であり、〈現実〉を殺し、別の次元を獲得する覚悟であるかもしれない。殺めるのは、三次元的現実に拘束された相手の魂を、である。そのように恋うのでなければ、この〈現実〉のみすぼらしいが酷薄な強制力によって、二人とも魂を圧殺されてしまうだろう。

〈現実〉を認めない、筋金入りのニヒリズムに支えられてこその芸術至上主義であり、矮小だが強固な〈現実〉を不断に殺して、己れを別の次元で生かさんがための、危うい命がけの綱渡りを、塚本は作歌によって繰り広げていたのだとも考えられる。

 人は誰でも己れを無化して誰かと一体化してしまいたいという願望を隠し持っている、という倒錯的命題を無責任に垂れ流すことと、〈現実〉を殺さなければ己れの生きる場所が無いという〈生き難さ〉によって命がけで〈表現〉することとの間には、大きな隔たりがある。

 命がけの〈表現〉は、「この場所を超えてみろ」と体を張って訴えかけてくるのだ。少なくともこの一首には、塚本の並々ならぬその覚悟が端麗に吐露されている。(この稿続く)

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第9回) 川喜田八潮

  • 2018.04.30 Monday
  • 12:11

 

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 ここで、しばらく東映初期アニメから離れて、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本社会の底流に息づいていた生存感覚のかたちに目を向けてみたい。

 一九五〇年代は、日本映画の黄金時代であった。

 北海道を舞台としながら、ドストエフスキーの原作のロシア的な〈闇〉の空気感を美事に映像化してみせた、黒沢明監督の『白痴』(一九五一年公開)や、『七人の侍』(一九五四年)・『隠し砦の三悪人』(一九五八年)といった、野性味ある異色の時代劇、幽暗の気配の濃い、妖艶で情熱的な溝口健二監督の『雨月物語』(一九五三年)や『近松物語』(一九五四年)、何の変哲もない日常の流れの中に潜む、親族間の〈亀裂〉を繊細に凝視した小津安二郎監督の『東京物語』(一九五三年)……など、戦後の映像史の頂点的な位置を示す「モノクローム」の力作が勢揃いしているのである。

 それらは、魂の内に息づく光と闇の〈均衡〉のとれた、あるいはまた、日本人の中に獰猛な野性味の保たれていた、古き良き時代の産物であった。

 この時代の映像は、人間性を、単なる個人的な欲望の化身として類型化したり、孤立した人格の病理的な生態や神経症的な心理劇として描くのではなく、〈風景〉に包まれた、陰翳ある、表情ゆたかな生き物たちの織りなす、生の起伏のドラマとして、象徴的に描き上げている。

 この感覚・手法は、一九六〇年から六一年にかけて公開された市川雷蔵主演の時代劇映画『大菩薩峠』(中里介山原作、三隅研次・森一生監督)三部作までは、たしかに生き生きとした命脈を保っていたようにおもえる。

『大菩薩峠』では、息を呑むほどに美しい、冒頭の「富士」の絶景と、その富士を望む峠道にたたずむ老巡礼と孫娘の鮮やかな映像が美事に象徴しているように、〈風景〉が圧倒的な主役となっているのである。

 たとえ、その直後に、老巡礼が、何の意味もなく、無残に斬り殺されても、また、彼を斬り捨てた「机竜之助」が、その後、奇(く)しき悪因縁に翻弄され、地獄の業苦に責め苛まれようとも、私たちは、主人公の竜之助も含めて、この物語に登場する全ての人物たちの生の浮沈・不条理を、孤立した断片的な〈個性〉のドラマとしてではなく、あくまでも、大いなる〈自然〉=コスモスという〈風景〉によってつかさどられた運命の織りなす、河の流れのごとき、霊妙なる魂の光芒(こうぼう)の軌跡として感受することができるのである。

 しかし、この『大菩薩峠』という作品を真に貫いている底流は、お題目のように掲げられているといってもよい、仏教的な因果応報・業苦の摂理や諦観でもなければ、無常観によるはかなさの美学でもない。

 そんな観念的なメッセージや涙もろい、じめついた虚無感などは、表層的なものにすぎない。

 かといって、悪因縁が織りなす不条理の泥沼の中でのたうち回る、救いようのない人間たちの生態に、倒錯的に酔いしれるという、マゾヒスティックな変態的嗜好でもない。

 この作品を衝(つ)き動かしているものは、もっと烈しい、狂おしく煮えたぎった、デモーニッシュな魂の〈渇き〉であり、それと背中合わせになった、言いようのない〈空しさ〉〈うつろさ〉の感覚である。

 魂の深部に生命的な〈欠落〉の感覚を抱え込み、生の実感、手応えを求めて得られない不幸な主人公が、〈表現〉を求めて、過剰に溢れ出ようとする魔性の狂気に衝き動かされながら、さまよい続ける姿が描かれている。

 それは、虚無的なものではあるが、決して冷笑的なものではなく、むしろ、すさんではいても、求道的とすら言える、烈しい〈情熱〉のかたちなのである。

 しかも、この主人公の狂気・情熱は、単なる個人的な、閉ざされた病理として描かれるのではなく、個人に内在しながら、個人をはるかに超越した、大いなるコスモスとしての〈闇〉のダイナミズムによってつかさどられた、哀切な運命のドラマとして描かれている。

 主人公を取り巻く悪因縁と因果応報・業苦の物語も、主人公と直接・間接に絡み合う、多彩な登場人物たちの置かれた関係の〈場〉が連鎖的に紡ぎ出す、数々の哀歓の物語も、共に、コスミックな〈風景〉の一環として包摂され、活かされている。

 映画『大菩薩峠』は、一見、抹香臭い、仏教色の濃厚な、ドロドロとした因縁話や陰々滅々たる無常感に覆われた作品のようにみえるが、実は、おびただしい登場人物たちによる〈情熱〉のドラマであり、またその情熱に内在しながら超越する、生命的な奔流の物語なのだ。

 そこでは、地獄の業火のような烈しい愛憎の念が渦を巻いているかと思えば、罪びとの魂の救済と浄化を希う、澄んだ祈りと慈愛の心が描かれる。

 暗く険しい魔界の霊風に包まれるかと思えば、冴々と天心に輝く三日月を仰いで心安らぐ、浄福のひと時が紡ぎ出される。

 残忍な主人公が、時に驚くほど心穏やかで、優しい人物に変貌したりもする。

 つらい境遇に置かれたさまざまな男女たちが登場するが、運命に抗い、もがき抜く、猛々しい荒魂(あらみたま)の雄叫びもあれば、すべてをあるがままに受け容れ、忍耐づよくやりすごしながら、心静かに生きようとする、優しい和魂(にぎみたま)の鼓動もある。

 このような彩りゆたかで振幅の大きい情念のドラマの内に息づいていた生存感覚と美意識こそ、戦前昭和初期から終戦後の一九五〇年代までの日本社会に残存していた、前近代的・土俗的な、自然=風景に対する相互浸透的な〈闇〉の感受性にほかならなかった。

 私の考えでは、この〈闇〉の感受性は、六〇年代に入っても生き残っており、一九六四年までは、かろうじてその痕跡をとどめていたが、六五年以降は急速に消滅へと向かい、六七年を最後に、日本社会からはほぼ完全に一掃されてしまうのである。(私はすでに、「闇の喪失――ある戦後世代の追憶」という評論でこの問題に論及しているので、詳しくは、そちらをお読みいただければありがたい。)

『大菩薩峠』三部作が制作・公開された六〇年代初頭は、そのような古き良き時代の感性が、最後の輝きを放つと共に、急速に衰弱と消滅の時を迎えようとする、まさにその〈転回点〉の時期に当たっていたのである。

 

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 ここで再び、アニメ作品に立ち返ることにしよう。

 東映初期カラーアニメーション映画の不滅の金字塔といってよい『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』に比べると、六〇年代初めに公開された『西遊記』(一九六〇年)と『安寿と厨子王丸』(一九六一年)は、残念ながら、見劣りのする失敗作であると言わざるを得ない。

 もっとも、『安寿と厨子王丸』には、まだ、五〇年代日本の空気感の良さが残影をとどめており、それが、独特の優れた芸術性を可能ならしめているという点では、必ずしも失敗作とは言えないのであるが、『西遊記』の方は、全くいただけない。

 DVDの映像を一見していただければ明らかで、わざわざ演出の細部について書くまでもない。

 当時流行していたアメリカや日本の風俗をはじめ、どぎつい、これみよがしの悪ふざけの演出がてんこ盛りになった、ドタバタ劇のオンパレードで、まことにヴァーチャルで空疎なこと、この上ない。

 ヴァーチャルならヴァーチャルで、原作の『西遊記』特有の、生臭い人間劇の寓喩的パロディーが見られるかといえば、そうではなく、全くといってよいほど主人公や登場人物のキャラクターが立っていない。

 人間という生き物の弱さ・愚かしさ・さもしさを衝(つ)くという、どぎついパロディーに、力強いリアリティを与えるのに必要なキャラ設定が、まるっきり出来ていないのだ。

 ただの俗悪な娯楽作品であって、風景描写には、いかにも東映初期作品らしい繊細な美しさがみられるが、それが、物語に奥ゆきとふくらみを与えるようないのちを持たず、芸術的な香りとはほど遠い。(手塚治虫が、「原作者」として、アニメ制作に「参画」しているというのに、情けないことである。)

 一口で言えば、ウケ狙いの〈商品〉の匂いがプンプンしているのである。

 これが、高度経済成長が一気に加速する、イケイケドンドンの「六〇年代日本」の業界の、あられもない姿なのだ。(ちなみに、一九六二年には、あの愛すべきシャイなコメディアンであり、コミックバンド「クレイジー・キャッツ」のミュージシャンでもあった「植木等」主演の、サラリーマン・ギャグ映画の傑作「無責任男」シリーズが上映されている。)

 五〇年代までの映像が保ち得ていた慎しみ、はにかみ、気品というものが徐々に衰弱し、希薄化し、やがて「六〇年代後半」には、急速に失われてゆくという、その流れを、いわば〈予兆〉のように、先取り的に表現してみせた作品なのである。

 この作品への反動というわけでもないのだろうが、『西遊記』の翌年の一九六一年に公開された『安寿と厨子王丸』では、『白蛇伝』や『少年猿飛佐助』のような、繊細で気品溢れる、絵画的な演出が復活している。

 周知の森鴎外の小説『山椒大夫』を原作に、田中澄江の丁寧な脚本によって、独自のファンタジックな設定も混じえながら、哀切な平安絵巻が展開する。

 悪どい陸奥の国司の奸計によって流罪となった父親・岩木判官の冤罪(えんざい)を晴らすため、都に向かった母と子(安寿と厨子王丸の姉弟)が、人買いにだまされて生き別れとなり、奴隷として売り飛ばされる。

 姉弟は、丹後の由良(ゆら)の港の長者・山椒大夫(さんしょうだゆう)とその長男・次郎によって、散々に虐待・酷使されるが、次男の三郎だけは、無力ながらも姉の安寿をかばい、優しくしてくれる。ふたりは、いつしか慕い合うようになる。

 密かに弟の厨子王を逃がした安寿は、次郎に焼きごてを当てられるところを、三郎によって助けられ、危うく難を逃れるが、しょせん逃げ切れぬと観念して、入水(じゅすい)してしまう。安寿の魂は〈白鳥〉に生まれ変わり、厨子王の行く手を導く。やがて、白鳥は、安寿の霊を弔う三郎のもとにも顕われ、自らが安寿の魂の化身である事を、恋人に悟らせるのである。

 山椒大夫の追っ手をかろうじてかわした厨子王丸は、都に向かい、関白・藤原師実(もろざね)の姫を助けた事が縁で、師実に庇護されるが、父の岩木判官は、流罪の地・九州ですでに亡くなっていた。

 少年の境遇を哀れに思った師実は、厨子王をひき取り、わが子同様に育てる。

 厨子王丸は、師実のもとで武術の鍛錬に励み、たくましい青年に成長する。

 帝(みかど)に祟(たた)りをなす大蛛(おおぐも)の妖怪を退治した功績によって陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた厨子王は、任地に向かう途中、丹後の由良を訪れるが、報復を恐れた山椒大夫と次郎は、厨子王の一行を待ち伏せ、一斉に矢を射かけ、暗殺せんと図る。次々と矢を打ち落とし、敵の刃(やいば)の群れをかわした厨子王は、大夫の館に乗り込み、厳罰を下すと思いきや、「寛仁大度」の姿勢を示し、奴婢の解放を命じただけで、過去の罪状の全てを許してしまうのである。

 出家した三郎の告白で、姉の安寿がすでにこの世に亡いことを知り、彼女の魂が、一羽の白鳥に化身した事を告げられる。

 白鳥の導きで、盲目となった母親を佐渡で見つけ出した厨子王は、母と共に、任地の陸奥へ向かう。ふたりの乗る船の行く手には、共に寄り添う白鳥の優しい姿があった。

 

 このアニメは、冒頭から、息を呑むほどに美しい、繊細この上ない陰翳に包まれた、日本画の四季折々の風景が華麗に繰り出され、その風景をバックに、木下忠司作曲の気品ある哀切なメロディーが静かに流れることで、私たちを、しっとりとした、抒情的な気配の内に誘(いざな)ってくれる。

 酷(むご)い、陰惨な不条理劇も、この伝統的・日本画的な抒情性のゆったりとした時の流れの内に包摂され、溶かし込まれることで巧みに緩和され、全ての愛憎・哀歓・運不運のめぐり合わせを、(恐ろしい悪因縁も含めて)無常なる〈自然〉の一風景として受け流してゆくという、東洋的な諦観・忍従の哲学の内へと回収させられてゆく。

 この世界観のもとにあっては、個人的なもがき、生の意味や価値は、本質的に無力なものとされ、人の運命は、己れ自身の力をはるかに超越した非人間的な〈自然〉、〈気〉のうねりの渦中で翻弄されるほかはない。不条理とたたかう荒々しさは空しい悪あがきにすぎず、人はただ、心を穏やかに保ち、祈りながら、風になびく葦(あし)のように、全ての災いを自然のはからいとしてやりすごし、耐え忍んでゆくほかはないのである。

 五〇年代との大きな違いは、不条理な運命とたたかう猛々しい〈荒魂〉が影をひそめ、〈和魂〉のみに生きる支えを求めようとする、植物的な生存感覚が前面に出た作りとなっている、という点である。(この稿続く)

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第11回) 川喜田晶子

  • 2018.04.29 Sunday
  • 12:52

〈少年〉の居場所

 

 学生たちの作品についてはほぼ語りつくした感がある。

 彼らの提出してくれた作品を論じることが授業の中心になった分、じっくり鑑賞するつもりであった近現代の作品をそれほど論じられず、残念な想いもないではなかった。ここでは、準備しておいた作品群からいくらかなりともピックアップして、〈現在〉に通じる〈生き難さ〉の質感について、それを超えようとする表現営為について、今しばらく語ってみたい。

 

少年のかくれ莨(たばこ)よ春の雨  中村汀女

 

この家も誰かが道化揚羽(あげは)高し  寺山修司

 

花匂う無辺(むへん)少年は呪詛(じゅそ)を鍛(う)つ  森山光章

 

 中村汀女(1900-1988)の句は、手短な叙景であるのに、〈少年〉という語がみるみる象徴的なふくらみを帯びてゆくことに感銘を受ける。

「かくれ莨」の少年は、大人と子どものはざまでこっそりタブーを破っているのだが、その背伸びによって露呈する気負いの青さと、「春の雨」の取り合わせがみずみずしい。ちょっとばかりとんがった気負いも、隠れてタブーを破る喜悦も、やわらかで湿潤な「春の雨」に包摂されてしまう風景。そんな青臭さもあればこそ、ものみな熟すのだ、といった世界観に許容されている〈少年〉の姿に、誰もが己れの内なる〈少年〉にもそのような居場所を与えたいという望みをそそられる。青々とした艶を帯びた〈少年〉の居場所を。

 

 寺山修司(1935-1983)の句には「少年」の語は無いのだが、「道化」は寺山自身のことでもあり、彼の内なる〈少年〉の居場所の痛さを伝えてくる。

 その痛さはしかし、寺山だけのものではなく、時代に蔓延する痛さでもあった。

 伝統的な土俗を引きずりながら〈近代〉によって荒廃し、空洞化した「家」の姿。空洞化しながら表面的には「家」を保持しようとする時代のいびつさが、どの家にもその内部にドッペルゲンガーのような一人の「道化」を飼わせた、とでも言えようか。ちょうど、時代の表層的な向日性が寺山というドッペルゲンガーを必要としたように。

 荒廃した地上の「家」に閉じ込められた「道化」の魂は、そこから何かに憧れて舞い出てしまう。「揚羽」は、「家」の垣根を越境し、「家」の酸鼻な荒廃を洞察しながら高く舞うことで、「家」の崩壊をかろうじて食い止めているようにも見える。荒廃の犠牲者でありながら、「家」の物語の鍵を握ってもいる「道化」。その痛さと背中合わせのプライドが、「揚羽」を舞わせる。時代に緊縛された「道化」を自認する寺山が、「揚羽」として社会の枠組みを越境せんと、過食症的な表現を多彩に撒き散らしたように。

 

 森山光章(1952-)の句には、天上と地上の寺山的な分極がさらに押し進められた風景に対し、ダンディズム的に超越する豪胆な〈少年〉の覚悟が濃密に閉じ込められている。

「花匂う」の「匂う」は、古語としての「匂う」であろう、花が艶やかにその生命を顕ち上げる風景がどこまでもどこまでも広がっている。「無辺」であることによって、幻想的な強度を獲得したその風景に対置されているのは、「呪詛」を鍛え上げる〈少年〉。

「花匂う無辺」といった天上的・超越的な風景の中にあって、「呪詛を鍛つ」必要があるのは、現実があまりにも酸鼻だからだ。決して現実に肌身を許すことなく、現実への甘い期待や馴れによって己れの〈少年〉の純度を汚すことなく、より強く、より深く、呪い続けるのは、エネルギーが要ることだ。内なる〈少年〉を汚さぬためにこそ、「花匂う無辺」の幻想的強度を昂進させる必要がある、とも言えよう。

 いわゆる「芸術至上主義」の硬質な〈核〉が端的に表出された一句でもある。

 

 たった三つの句だが、これらを同時に視野に収めるとき、時代とともに〈少年〉の居場所が狭窄され、非日常性・幻想的領域への過剰な傾斜が募っていることに気づく。また、無自覚な叙景が象徴性を獲得し得ていた時代から、社会や己れの病理に対する自覚的な批判精神の濃密さによって〈少年〉の象徴性を浮かび上がらせる時代へと推移していることにも痛みをおぼえる。痛みながら、〈少年〉の居場所を憧憬し、確かに問え、と煽動される想いもする。

 内なる〈少年〉に居場所を与えながら真に大人になるとは、地上的な現実の醜悪さと闘うことなのか。地上的な現実と天上的な幻想とに分極した世界観と闘うことなのか。そのような問いを立てねばならない〈現在〉は、何を喪失してきたのか。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第8回) 川喜田八潮

  • 2018.03.23 Friday
  • 18:04

 

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 私は、『白蛇伝』の優れた性質を、以上のような、宮崎アニメとの共通項が象徴する特質とは、全く別の次元に見出している。

 それは、無力で生活力の弱い、無垢な、優しいだけの主人公が、その無力さ・優しさのゆえに、理不尽な憂き目に遭い、死に追いやられると共に、聖なる力をもった妖精との摩訶不思議なえにしを招き寄せ、その献身的な四次元的霊力の助けによって、死の淵から甦り、不条理を乗り超えて、幸せになるという、説話的な型のことである。

 それは『白蛇伝』のような中国の民話に限らず、おそらく、世界の各地に古(いにしえ)より語り継がれてきた「貴種流離譚」の一類型であると思われる。

 わが国でも、古代の神話『古事記』の中に登場する英雄オオクニヌシ(オオナムヂ)の説話が、このような貴種流離譚の構成を備えている。

 ここでも、オオナムヂは無力で優しい主人公であり、邪悪な母違いの兄たちに奴隷のように扱われて理不尽な苦役を課され、あげくの果ては、彼らの嫉妬をこうむり、くり返し死に追いやられるが、そのたびに、母神や女神たちの助力によって甦る。優しいだけで、あまりにも弱々しいオオナムヂの魂を、雄々しいものに鍛え上げようと考えた母神は、「夜見国(よみのくに)」の統治者であるスサノオノミコトの許に息子を送りこみ、身に着いた一切の災厄の汚れを払い捨てさせ、スサノオの荒魂(あらみたま)の力を授けてもらおうとする。夜見におもむいたオオナムヂは、そこで、スサノオの娘「スセリビメ」と運命的にめぐり逢い、恋に陥り、結ばれる。

 娘婿となったオオナムヂの性根を試そうとして、スサノオは、次々と恐ろしい試練を彼に課すが、そのつどオオナムヂは、妻のスセリビメの密かな助力や動物の機転によって、難を逃れる。そして、ついにスセリビメと駆け落ちしたオオナムヂは、スサノオの荒魂の宿った呪宝を手にして、夜見国から脱出し、現世の地上界に転生する。

 優しい、穏やかな和魂(にぎみたま)と猛々しい荒魂の均衡のとれたオオナムヂは、英雄・大国主神(オオクニヌシノカミ)となって、スセリビメに支えられながら、邪悪な神々を一掃し、美事に国土を統一する。

 このオオクニヌシ説話における、和魂と荒魂の〈均衡〉というモチーフは、闇の両義性による葛藤のドラマという前述のモチーフと同様、人が不条理とたたかい、乗り越えてゆくために必要なまなざし、生の心棒を象徴的に表現するものである。

『白蛇伝』では、和魂と荒魂は、許仙と白娘のふたりに、分かち持たれている。

 和魂のまさった、優しい非力な主人公の許仙との純愛を成就せんとして、法海を相手に、妖術の限りを尽くしてたたかいを挑む白娘の姿に、彼女の荒魂の烈しさが生き生きと描出されている。また、妖精としての霊力を失い、ただの〈生身〉の人間の女になった白娘が、法海の妖術のひき起こした嵐の海に揉まれながら、必死に許仙のもとに「命の花」を届けようと、小舟を漕ぎ続ける姿にも、彼女の荒魂の息づかいが活写される。

 この白娘の烈しさ、愛の情熱が、ついに、甦った許仙の内に眠っていた荒魂に火をつけ、青年を、いや応なく嵐の海中へと誘(いざな)うのである。

 舟から投げ出されて、溺れかかっている白娘を救うべく、許仙は無我夢中で必死に泳ぎ続け、ついに恋人のもとに辿り着く。感動のクライマックスである。

 許仙の荒魂をひき出したものが、怖れを知らぬ、白娘の愛の烈しさにあったこと。

 そして、その愛を招き寄せたものが、許仙の無垢な優しさと無力さ、生活者としてのひ弱さという和魂のかたちにあったこと。

 この素朴な説話的原型こそ、『白蛇伝』という地味でつつましい、けなげな恋物語に、不滅の力強さを与えている要因だといっていい。

 オオクニヌシの荒魂をひき出し、スサノオの力を彼に授けたものが、スセリビメの情熱的な愛という荒魂の烈しさにあったこと。そして、そのスセリビメの愛を呼び覚ましたものが、オオクニヌシの優しさ、無力さという和魂にあったこと、と同様に。

 許仙もオオクニヌシも、所有し支配することによる力の快感、貪る心から最も遠い存在である。その非力さ、穏やかさ、優しさこそが、澄んだ静けさの気配を漂わせ、人の心を浄め、愛を招き寄せる。

 許仙においては、それに加えて、孤独で繊細なアーティスト魂を備えた青年であるという特性が与えられている。

 彼は笛を吹く。その笛は、〈異形の者〉である許仙の純粋な哀しみと渇きの表現であり、また寂しい慰めでもある。その孤独な音色が、同じく異形の魂を備えた妖精・白娘の心の琴線に触れる。彼女は、青年の笛に呼応する己れの声を繊細な胡弓の音色によって届け、ふたりの魂は響き合い、運命的な愛が生まれる。

『白蛇伝』は、芸術=表現を通して、すなわち、孤独な固有の魂のふれ合いを通して、人がめぐり逢い、縁(えにし)をとり結ぶことの霊妙不可思議さを描いた作品でもあるのだ。

 

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『少年猿飛佐助』では、〈和魂〉は、佐助の姉「おゆう」によって象徴されている。

 ただ優しいだけの、地味でしとやかな美人なのだが、彼女の存在が、佐助と山の動物たちとの、家族のように親密な、閉じられた生活小宇宙のみずみずしい空気を支え、柔らかく包み込んでいるさまが、さりげなく演出されている。

 しかし、動物たちの牧歌的な戯れのシーンが、いつしか、子鹿のエリと母鹿の不条理劇に発展し、「夜叉姫」の登場へと導かれるという、思いもかけぬ光から闇へのナチュラルでダークな〈変容〉が、佐助を変える。

 光溢れる〈日常性〉の背後に、怖ろしい〈闇〉の深淵が潜んでいる事への覚知と実存的な切迫感が、主人公の少年・佐助の〈荒魂〉への志向を促すことになる。

 彼はもはや、親代わりの姉に庇護されているだけの、頼りない、〈受身〉の少年の場所にとどまることはできない。主体性をもった、ひとりの〈大人〉へと成長・脱皮せんとする冒険のとば口に立たされることになる。

 隠れ里のような山中での姉と動物たちとの平和な暮らしを守るために、佐助は、忍術という四次元の霊力を身につけることで強くならねばならないと覚悟を決め、姉の制止を振り切り、置き手紙を残して、夜中に単身家を出てしまう。その弟のふるまいに対して、おゆうは、ただひたすら神仏に無事を祈り、ゆだねるしかない。姉は弟に対して何もしてやれないのだが、弟の身を案じ、はからいを超えて神仏の導きと加護に全てをゆだねようとする、おゆうの澄んだ〈祈り〉の心と優しさこそが、修業の旅におもむく佐助の孤独な覚悟と不屈の闘志をひそかに後押ししている事を、私たちは、画面の進行と音楽によって、ごく自然に感じ取ることができている。

 佐助の〈荒魂〉への志向を生み出し、支えているのは、実は、姉おゆうの〈和魂〉にほかならなかった。四次元の霊力を身につけることで、佐助は、夜見国から脱出して転生したオオクニヌシのように、己れの内なる和魂と荒魂の〈均衡〉のとれた、真に不条理とたたかえる、優しさと猛々しさをあわせ持った人格として完成する。

〈個性〉という意味での人格のことではなく、魂のあり方の普遍的な〈象徴〉としての人格のことである。

 夜叉姫にその美しさを嫉妬され、配下の山賊たちに家を焼かれたあげく、捕らわれの身となったおゆうは、鬼女によってムチ打たれ、断崖絶壁から呆り下げられるが、彼女を慕う真田幸村の果敢な働きによって、危うく一命をとりとめる。この上田城の若殿・幸村とのえにしを招き寄せたのもまた、おゆうの和魂の力である。

 幸村は、上田城下の民家に火をかけ、容赦なく人を殺し、財物を奪い取ってゆく夜叉姫配下の山賊・野盗たちの討伐のため、その隠れ家をつきとめようと、密かに、家臣の三好清海入道とふたりで山に分け入るが、そこでおゆうにめぐり逢い、ひと目惚れしてしまう。

 おゆうは、根っからの山里育ちとは思えぬ、なにか由緒ありげな、気品ある風貌の女性である。少年の佐助が刀を所持していることからも、姉弟は、なにかいわくありげな武家の出身で、わけあって、密かに山中に身を隠しているのかもしれない。

 そんな背景をちらっと想像してみるのも、楽しい。

 おゆうは、何の欲もなく、弟と二人でその日その日をやりくりしながら、隠れ里のような山の中で、世間の目を逃れて、穏やかな日常を守り抜いている。

 世の中のしきたりや身分による窮屈な制約とも無縁だし、財産とて無さそうである。

 何の贅肉も無い代わりに、何の保障も無い。

 貧しい山小屋に住み、ギリギリの自給自足的な暮らしを送っているが、充ち足りた表情をしている。彼女の周りには、落ち着いた、しっとりとした静けさがある。

 小川で一人、髪を洗い、歌をうたっているおゆうの姿を垣間見ただけで、幸村は、無性に心ひかれるものをおぼえる。

 彼女は、優しいだけがとりえの、とことん非力な女性であるが、その非力さ・優しさこそが、佐助に忍術修業の一念奮起を促し、幸村との良き〈えにし〉を招き寄せるのである。

 ここにも、『白蛇伝』と共通する、和魂と荒魂の〈均衡〉という説話的原型が息づいていることがわかろう。

 この伝統的・古典的な説話性が私たちの〈無意識〉に訴えるリアリティの質というものは、決して、他愛ないものとして一笑に付してもよいものではない。

 それは、人のえにしと絆の霊妙さによって引き出され、支えられた、世界への〈信頼〉の感覚、生命的な〈肯定〉のまなざしを象徴するものである。

 登場人物たちは、改めて言うまでもなく、善・悪のメリハリのきいた素朴な、単純きわまる説話的類型として描かれており、〈個性〉などというものは、問題にならない。

 善と悪とが複雑に混濁し、意識と無意識が分裂したまま、欲望に翻弄される、現代的なキャラクターとは、完全に対極にある。

 それにもかかわらず、物語の展開が私たちに深い感銘を与えうるのは、登場人物たちが、個性的な〈人格〉としてではなく、あくまでも、〈風景〉に包まれ、〈風景〉によって活かされた〈象徴的存在〉として感受されているからである。それでこそ、説話的な〈原型〉というものが活きてくるのである。

『白蛇伝』も『少年猿飛佐助』も、共に、画面構成といい、ストーリーといい、人物デッサンやキャラクター造型といい、大らかでありながら繊細で、みずみずしい。素朴な力強さをもった、リアルにして象徴的な作品である。

 説話的な原型を活かす上で必要な〈抽象度〉の水準というものが、きちんと迷いなく定まっており、演出上の贅肉というものが一切無いのである。

『白蛇伝』は、最も地味な素材を扱いながら、私たちが避けて通ることのできない、世界観や生きることの価値をめぐる本質的な問題性を多元的にはらんだ、渋い、味わい深い、異色のファンタジーとなり得ているし、『少年猿飛佐助』は、気品溢れる、伝統的な日本画的美意識に支えられた、光と闇の奥ゆきとふくらみの中に、四次元的な霊力のダイナミズムのドラマを美事に包摂してみせた、空前絶後の、血湧き肉躍る時代劇の名作となっている。

 演出の薮下泰司をはじめとする東映動画の優秀なスタッフ陣が、一九五〇年代後半という時代に、このような深い思想性をはらんだ美事なカラーアニメーション映画を相次いで創り出すことができたという事実に、私は、改めて、驚異の念を覚えずにはいられない。

 終戦から十年ほどしか経っていない、高度成長初期のこの時代には、無傷の自然はまだゆたかで、農業人口が多く、ゆったりとした時の流れと生活リズムの中で人々は生きており、四季の移ろいへの皮膚感覚が鋭敏で、風景には、深々とした生命的な〈闇〉の気配が立ち込めていた。人間関係には、まだ多分に大らかさが残っており、現代の都会人のごとく、孤立した、神経症的な病理に蝕まれてはいなかった。しかも、一九五〇年代の日本人は、終戦直後のような、飢えと極貧の地獄からようやく脱し、生活にいくらかの安定感と将来への希望が生まれていた。

 人々の理性と感性の間には、無意識のうちに、ある種の均衡と融合が保たれ、精神はすこやかだった。

『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』は、そのような稀有な幸福さを保ち得た時代に生まれ得た名作だったのである。(この稿続く)

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第10回) 川喜田晶子

  • 2018.03.22 Thursday
  • 21:24

まだ見ぬ空

 

 学生たちの表現は、一見、昨今のゲーム感覚に汚染されているかのようだが、短い詩篇の中で、この現実における己れの意味を賭けて静かに闘っていた。ゲーム感覚によって世界が狭窄されたのではなく、狭窄された世界観の喩としてのゲームである。狭窄された世界観との闘いは、むしろ古典的な相貌を帯びるほどだし、そこで彼らが見たいと望んだ「空」の風景は逆に新しい。

 

 

   変身   M・M

 

ある日とつ然

空に亀裂が入る

 

異空間から怪物がやってきた

一変した日常

姿を変えて戦う人々

そんな日はこれからも来ることはないだろう

そんな日が来たらおもしろそう

街を歩きながら

目に見える風景にらくがきをした

 

「そんな日が来たらおもしろそう」という言葉の表層とはうらはらに、この作品には、ヴァーチャルな怪物や戦闘シーンによって、現実世界を更地にしてみることへのはしゃいだ期待感は無い。

 庵野秀明が『エヴァ』でこだわってきたような風景、あるいはゲームの中での戦闘シーンを想起させる風景が描かれ、そこでは異空間から怪物がやってきて、人々が「姿を変えて」戦っているのだが、「そんな日はこれからも来ることはないだろう」「そんな日が来たらおもしろそう」というフレーズには、すでにヴァーチャルになら現実を異化され尽くした〈現在〉へのうんざりした想いが漂う。

 表層的な文脈では、これからも変わることが無さそうな「街」を歩きながら、その不変の表情の「街」の風景に「らくがき」をする、つまり想像力で怪物と人々との戦闘シーンを上書きしてみてささやかな気晴らしをしているかのようだ。

 しかし、この作者は、変わることの無い〈日常〉をヴァーチャルに修正したくて「らくがき」をしているのではない。もはや、〈日常〉をヴァーチャルな怪物や戦闘で塗り替える行為ならやり尽くされてきた〈現在〉において、本当の「亀裂」や「一変した日常」とは何か、誰も問うていないことの手触りを、静かに提示していると感じさせるのだ。

〈日常〉と〈非日常〉、〈信〉と〈不信〉、〈責任〉と〈無責任〉、〈社会〉と〈個人〉、そんな対立概念のはざまで、どちらかを択ぶことをやわらかく拒否している文体が、どちらかを択ぶ鋭さよりも不安をそそる。

「ある日とつ然」静かに空に「亀裂」が入り、私たちは静かに魂の「姿を変えて戦う」。そのような「変身」を想い描く行為は、新しい。

 

 

   存在   Y・R

 

見えないはずの彼女を探す

くつもぬぎすてて

彼女はここにいてはいけない

彼はなきながら探す

彼女が早くこの世界に来られるように

彼はついに私を見つけた

泣きながら必死で私を消しに来た彼に一言だけ伝えた

「今度はもっと楽しいのがいいな」

 

 ゲームやパソコンの中では容易に消去できる「存在」。ある世界から「切り取り」、別の世界へ「貼り付け」ることも可能だ。そのような「切り取り」や「コピー&ペースト」が可能な世界ならば、存在も軽いはずなのだが、この作品では、「彼」は「彼女」を探し出し、別の世界へ移動させることに必死である。「くつもぬぎすてて」「泣きながら」、ある世界での「彼女」を消して、別の世界へ移動させようとする「彼」。その「彼」に、「私」は「一言だけ」伝えるのである。「今度はもっと楽しいのがいいな」と。

「今度は」ということは、既に「前回」や「前々回」もあったのかもしれない。何度目かの「貼り付け先」であるところのこの世界の居心地が悪すぎた、そう考えることで、作者はかろうじて息をしている。そして、命賭けで自分を別の世界、いるべき世界へと貼り付け直そうとしてくれる「彼」の存在によって、己れの意味を持ちこたえている。

 

 

   無題   S・H

 

囲め 囲め

机上の空論

すべては碁盤の目の上

0と1の境界

沈んでく 記憶

空の色を2進法で知る時代

嘘つきな数字とたわむれ

捻った頭脳と少しのヒントで

解けるはずの南京錠

まだ開かないままで

かごめかごめ

後ろの正面 立つ君の

目が見えない

自分で作った剣の檻

封じられたまま

まだ見ぬ空を

焦い願う

 

「かごめかごめ」は、集団の輪の中にいる目隠しされた「鬼」が、「後ろの正面」を当てる遊びである。その「後ろの正面」に「立つ君」の「目が見えない」。絶対的な答を持つ者との遥かな距離を感じさせるフレーズだが、「自分で作った剣の檻」の「南京錠」は、「解けるはず」のものだ。ほんの少しだけ何かが変われば。

 だが、作者はその「檻」に「封じられたまま」「まだ見ぬ空を/焦い願う」だけである。それでも、彼女はその「空」を知っている。「机上の空論/すべては碁盤の目の上」に世界が囲い込まれ、「空の色を2進法で知る時代」において、「0と1の境界」に「沈んでく 記憶」。それでも彼女は本当の「空の色」を知っている。彼女の個人史の輪郭を超えて、どこかで知っている。だから「焦い願う」ことが可能なのだ。

 他者や社会によってではなく、「自分で作った剣の檻」であることを察知している彼女には、この「檻」は既に開けられたも同然であろう。

「まだ見ぬ空」を描きながら、私たちにある懐かしさと絶対的なみずみずしさを想起させるこの一篇は、〈個人〉というものの輪郭の強さと、意外にたやすく〈類〉に開かれてゆく私たちの身体の秘密を、鮮やかに示している。(この稿続く)

 

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2018.02.24 Saturday
  • 13:58

 

     12

 

 ここで私が思い浮かべるのは、宮崎駿氏の息子の吾朗氏が監督して制作されたアニメ『ゲド戦記』の「結末」である。

 宮崎吾朗の『ゲド戦記』は、ル=グウィンの原作とは違っている。

 原作者は、アニメの出来ばえに大変不満で、原作に込められたメッセージと人物造型、表現内容の本質が歪められたと激怒しているようだが、原作はあくまでも原作であり、映画は、たとえ原作をふまえていても、芸術作品としては、全く別箇の独立した表現の産物とみなすべきである。

 原作とアニメの違いについて、ここで触れる余地は無い。

 私のここでのこだわりは、次の一点のみである。

 すなわち、宮崎吾朗のアニメ『ゲド戦記』のラストシーンにおいて、主人公の一人である少女の〈本体〉が〈竜〉であることが示され、〈竜〉に化身することが、魂の〈解放〉の象徴として描かれている、という点である。

 このアニメの結末に原作者が激怒したかどうかは、私には分からない。

 だが、宮崎駿氏が、息子の表現した〈竜〉という象徴への〈まなざし〉に対して、内心、ある種の危惧〈きぐ〉の念を覚えたであろうと推察することはできる。

 このアニメを観た後、駿氏がインタビューで、一言、「大人になってない!」と一喝していた光景が、今も私には、印象深く記憶されている。

 はしなくも、ここには、業界人としておそらく空前絶後といっても過言ではないほどの大成功を収めた宮崎駿という天才アニメーターの内に隠された、〈大人主義〉の限界が透かし視える思いがするからだ。

 人間の本体が〈龍〉であって、どこが悪い?

 当時も、今も、私はそう思っている。

 人間は、「人間」などという、ちっぽけなものを超えた、大いなる不可視の〈闇〉としての本体を宿し、その本体によって活かされているにすぎない。

 人間の魂は、三次元の個体としての存在に宿りながら、同時に、その輪郭を超えて森羅万象へと拡がる、広大な〈無意識〉の領域というものを有している。

 フロイトの学説が洞察している通り、私たちの〈身体〉というものは、私たちの〈無意識〉の宿り手である。

 脳は、哲学者のベルクソンもその著書(『物質と記憶』『思想と動くもの』)で明晰に論証してみせているように、私たちの精神を現実生活に向き合わせ、なんらかの形で「適応」させるための、「注意」と「想起」(抽象化ないしは改変を施された過去の経験=「記憶」の想起)の器官であって、心の領域全体をカバーするものでは決してない。

 心は、脳のメカニズムの単なる反映などではなく、逆に、心が脳のあり方を規定し、包摂しているとみるべきではないか、というのが、私の考えである。

 ただし、その心というのは、〈意識〉だけではなく、〈無意識〉の広大な領域を含んでいる。

〈意識〉というものは、私たちの身体が、地上の三次元の生活世界に現実的に(支障なく)「適応」するために、〈無意識〉の中から、そのつど必要な情報やイメージを汲み上げ、知覚や記憶、感情、思考といったかたちを通して、私たちを取り巻く環界や接する対象との間に、固有の〈意味づけ〉を成就せんとする働きにほかならない。(ただし、厳密に言うなら、〈意識〉は〈無意識〉に包摂されているのであり、身体を媒介として、無意識のうちに、知覚所与の喚起や記憶の想起を強いられながら、その「制約」の中で、現実への「適応」を成就せんとするのである。)

 その〈意味づけ〉の現実的なプロセス、すなわち一種の「情報処理過程」を担うのは、たしかに脳という器官なのであろうが、しかし、その脳に情報処理を命ずる力、主体というものは、決して、脳でもなければ、意識でもない。

 いわば、脳というのは、一種の「配電盤」のようなものであって、電源そのものではないのだ。

 脳は、身体という媒体を通して不可知なる電源から送られてきた電流を、適切に配備し、〈意識〉という「照明」を、「種」に固有のかたちで、また個々人に固有のかたちで紡ぎ出す、「配電盤」のごとき役割を果たしているといっていい。

 では、「電源」はどこにあるのか?

 言うまでもなく、私たちの〈無意識〉にある。

 そこにこそ、私たちの〈魂〉の中枢があるのだ。

〈意識〉などというものは、私たちの魂の顕われにとって、実は「氷山の一角」にすぎないのであって、私たちの魂の〈本体〉は、水面下の広大な〈無意識〉をつかさどる目に視えぬ力、エネルギーの源にこそある。

 個的な身体のレベルでこのエネルギーの担い手となるのが、(腎臓を調整機能の中枢とする)「内臓」の働きと「血液」の流れであり、またそれらをつかさどる「自律神経叢」である。

 脳は、「視床下部」を通じて、この「自律神経叢」(ヨガやD・H・ロレンスの言葉で言うところの「太陽神経叢」)と相互作用的に結びつき、自立神経叢に担われた〈無意識〉の力に支えられることによって、はじめてすこやかに機能しうるのだ。

 しかし、私たちの個的な無意識は、実は、より巨きな「類的」な〈無意識〉に包摂されている。

 私たちの身体に宿っている〈無意識〉なるものが、私たちの〈個〉の殻を超えて森羅万象へと拡がっているからこそ、私たちの目にし、感じ取る生身の生の〈風景〉というものは、(それが生命的なものにせよ、虚無的なものにせよ、)単なる〈無意味〉としてのカオスではなく、(主体と客体との相互浸透的な感覚を伴う)〈意味〉と〈価値〉の相貌を帯びた「生ける事象」=知覚所与として、すなわち(過去と未来を〈現在〉の内に包摂し、統合するような)「生ける時間体験」=持続として立ち現われるのである。

 その「時間の発生源」ともいうべき類的な〈無意識〉の領域こそが、生命と虚無、創造と解体の両義性を備えてダイナミックに流動する、不可知なる〈闇〉のコスモスにほかならない。

 フロイトはそれをエスと呼び、東洋の道教やヨガ、仏教の禅では〈龍〉と名付ける。

 西洋では、キリスト教の影響もあって、〈龍〉は、聖者によって退治される「悪役」として形象化されることが多い。(エジプト文明をはじめとする「キリスト教以前」の古代文明にあっては、そうではない。)

 東洋では全く逆に、中国でもインドでも、他の東アジア地域でも、〈龍〉は、基本的に、いのちの根源をつかさどる善なる存在であり、森羅万象に宿り、日輪や月や星辰とコスミックに照応し合う高貴なる生命、魂の霊妙なる導き手であった。苛酷な現世の地上的な生を美事に生き抜かしめる聖なる力の源泉であり、龍や蛇の図像は、その力の象徴として描かれた。

 しかし、人が我欲によって他者の生命を損い、ふみにじる時、〈無意識〉に中心を置く〈魂〉には濁り、汚れが生じ、〈龍〉は「悪しき姿」へと変容する。大小さまざまな龍たちが敵対し合い、闘争を繰り返し、悪因縁の轍(わだち)へと巻き込まれてゆく。

 人に宿った〈龍〉の次元、すなわち個々人の個的な無意識とリンクする類的な無意識の次元というものは、互いに交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発し合いながら、霊妙不可思議な〈えにし〉によって結ばれているのだ。

 洋の東西を問わず、古代以来の文明世界において、優れた哲人・宗教思想家たちが取り組んできた最も重要な課題は、〈悪龍〉の邪気・邪念がもたらした災いからいかにして身をかわし、いかにしてそのまがまがしき力とたたかい、それを克服・解毒し、〈善なる龍〉へと変容させてゆくか、という叡智の追求にあったと言えよう。それは、〈本能〉のもつ正しき力に目覚め、それを活かす道を知るということである。

 真の〈叡智〉は、〈本能〉を敵に回すものではない。

 本能の力を忌み怖れ、敵視し、観念的な道徳や合理主義のみによって己れの生を思い通りに「仕切ろう」とするなら、抑圧された本能はかえって歪み、遅かれ早かれ、〈無意識〉の中で〈悪龍〉と化して荒れ狂うであろう。

 昂進したストレスは、自傷行為的な表現をとるか、あるいは、他者や敵への不毛な攻撃という形をとって、代償的に吐き出されることになる。

 真の叡智は、〈本能〉に正しい居場所を与えてやること、すなわち、〈善なる龍〉としての生命的なかたちを与え、そのエネルギーを適切に解き放ってやることだ。

 それは、己れ自身の生命の充溢を図ると共に、己れとえにしある者たちとの間に、正しき相互扶助や自然分業のかたちをつくり上げてゆく道を模索することである。

 そのためには、私たちは、己れの内なる〈龍〉のささやきに、すなわち〈無意識〉の深みから立ち昇る微かな声に、正しく耳を傾ける術(すべ)を知る必要がある。

 しかし、私たちの個的な〈無意識〉は、さまざまな既成観念によって、がんじ絡めに縛られている。

 その既成観念のとらわれを脱し、心が真に望むものを見つけることは、容易ではない。

 私たちが何にとらわれ、何に苦しみ、何から解放されたいと望んでいるのか?

 それを教えてくれるものは、〈無意識〉の宿り手である、私たちの〈身体〉の感覚である。

 私たちの喜怒哀楽の感情から、対象に対する微かな〈異和〉や〈親和〉の感覚に至るまでの、私たちの身体性の〈揺らぎ〉のあり方こそが、既成観念による呪縛の正体を教えてくれる。

 私たちが既成観念の皮膜を一枚ずつはがしてゆくごとに、私たちは、〈無意識〉の深みから立ち昇る〈渇き〉の声に、正直に耳を傾けることができるようになってゆく。

 魂の〈本体〉に、〈龍〉に近づいてゆく。

 魂の本体が〈龍〉であるというのは、個体としての生命存在をつかさどる不可知なる力の源泉が、個に宿り、個を個たらしめながら、同時に、個を超えた大いなる類的な〈主体性〉の次元にあるということだ。

 われわれ個々人の霊のかたち、(中国哲学風に言えば)心身に内在する固有の陰陽の〈気〉の流れと結びついた、その大いなる〈龍〉の次元こそ、われわれに摩訶不思議なる〈えにし〉をもたらしてくれるものであるに違いない。

 われわれにできることは、その己れを超えた不可知なる〈主体性〉=〈龍〉のはからいに心静かに身をゆだね、祈り、念じつつ、自らの心の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な〈渇き〉や〈促し〉の声に、忠実に耳を傾けることである。

 そして、その〈龍〉の促しの方向性に沿って、(己れの資質が許容する範囲内で)聡明な認識と判断を行い、決断し、己れ自身を賭けるという、固有の〈主体性〉を発揮することである。

 われわれの個としての主体性というものは、個を超えた類的な〈無意識〉をつかさどる、より巨きな主体性の内部に包摂され、活かされることによって、はじめて、固有にして肯定的な生の物語性というものを紡ぎ出せるのではあるまいか。

 己れの〈無意識〉の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な渇きや促しの声を無視し続けたり、封印したり、敵対的に取り扱ったりして、幸せになれるなどと思ったら、大間違いだというのが、私の考えである。

 人は至らぬ生き物だが、幸いにして、めぐり逢いの機縁に恵まれるなら、修行し、魂を磨きながら、自分なりに幸せになることはできる。あるいは、少なくとも、幸せになろうと不断につとめることはできる。

 もちろん、〈幸せ〉の形は、人それぞれである。私がここで言う〈幸せ〉とは、「うつろ」ではない、生命的で自己充足的な、その人固有の生のあり方を指す。

 人の生きる営みを〈龍〉の導きと結びつけてとらえるという感覚・モチーフは、人類史における神話的な〈叡智〉の悠久の伝統につながるものである。

 アニメ『ゲド戦記』の難点は、死の恐怖に蒼ざめ、生の意味を見出せぬまま、うつろな魂を抱えてさまよう主人公の少年アレンと、生命の象徴である〈龍〉のイメージとの間の〈ギャップ〉の巨きさを、(少女テルーが代弁する)死生観の観念的な「お説教」によって、強引に埋めようとする不自然さにある。

 観客は、物語の終局部で、死を意識させられ、実存的な不安を励起させられるが、その不安を癒すような身体的な解放感のイメージは得られぬままに、観念的な死生観のメッセージを残像として引きずりながら、くすぶりを抱えた状態で劇場を後にしたのではなかろうか。〈龍〉は、(監督の意欲にもかかわらず)この物語では「生きていない」、つまりリアリティが無いのだ。

 しかし、このような難点にもかかわらず、アニメ『ゲド戦記』は、少なくとも、私たち現代人が直面している〈生き難さ〉の課題を、〈龍〉の伝統的イメージと結びつけているという点で、重要な問題提起をなし得ているといっていい。

 宮崎駿が、息子の勇気ある、優れた挑戦であり結実でもある、記念すべき監督第一作を不当に貶めた事を私は悲しく思うが、しかしながら、駿氏自身の資質からすれば無理もない、とも思うのである。

 彼は、大人社会のまなざしになじめない自身の資質を早くから意識し、子供性(幼児性)を偏愛し、過度に美化せざるをえなかったがゆえに、〈異形の存在〉たる己れ自身をシカトし、はじき出そうとする大人社会を必要以上に怖れ、そこに過剰適応し、成功せんとしたあげく、己れの深奥に宿る、生命的でありながら狂暴でもある〈無意識〉の両義的で広大な〈闇〉の領域への不当な恐怖の念に絡めとられ、〈表現〉を求めて溢れ出ようとする、四次元的な霊力の〈暴発〉を抑えようとして、敢えて、「魔法」に象徴される四次元的感覚そのものを封印し、三次元の〈生身〉のたたかいの内に、人間の生存感覚の〈根拠〉を回収せんとしたのではなかろうか。

『白蛇伝』で、白娘の「妖精」としてのあり方を、不吉なるものとして、かたくなに忌み嫌っていた僧・法海が、霊力を失って、ただの生身の人間の女に成り切った白娘の変身ぶりを見て、許仙との仲をようやく許し、恋人たちの前途を祝福し得たように、「魔法の封印」による絆の成就(幸せの成就)という宮崎アニメの理念的拘束、大衆へのメッセージの背後には、作家・宮崎駿の、己れ自身も含めた人間の内なる異形性に発する非日常的な狂気に対する〈怖れ〉の念が秘められていたようにおもわれる。

 だが、その身構えは、〈生き難さ〉を抱えた人間たちに、生への四次元的なまなざしの〈支え〉無しに、無理矢理強い「大人」になれという、強迫的なメッセージを送ることになりはしまいか?

 例えば、アニメ『もののけ姫』における「生きろ!」のメッセージに、私は、そんな強迫観念を覚えてしまうのである。

 生の内燃機関を枯渇させてしまって、疲労困憊(こんぱい)し切っている人々に対して、無理矢理オーバーヒートした生き方を迫るような〈不自然さ〉を感じてしまうのだ。

 だが、こんなふうに言うと、宮崎アニメファンの人の中には、反発を感じる人もいるかもしれない。

 もちろん私とて、宮崎作品の四次元的なまなざしの深み、その演出の力強さ、〈癒し〉のリアリティのたしかさについては、高く評価している。

『トトロ』論を中心とする宮崎アニメ論(『日常性のゆくえ』1992年刊)によって、評論家としてのスタートを切った自分である。この作家の作品の真価は誰よりもわきまえているという自負はある。

 その上で、敢えて、以上のような批判を行なっているのである。

 問題は、結局、「魔法」という言葉が象徴するものの〈内実〉をどうとらえるかという〈解釈〉の違いに帰着する。

「魔法」を、異形の魂を備えた異能の持主にのみ許された特権的な才能とみなすのか、それとも、人間一人ひとりの内に秘められた、あるべき〈まなざし〉の象徴とみなすのか、という違いだ。

 それはそのまま、私たちの人生への真向かい方、「立ち位置」の違いの問題でもある。

 

     13

 

「魔法」の記憶を温存し、それに「憧れる」ことと、「魔法」を自らの〈身体〉の四次元的な深みにおいて実際に生きることとは、全く違う。

 現代の私たちの社会では、大衆は、大成功を収めた、芸能人・スポーツ選手・アーティストその他の、ひと握りのカリスマ的なヒーローたちに、「魔法」の体現者を幻視し、彼らを崇拝し、魂を収奪されることで、己れの生を鼓舞せんとしている。

 もちろん、それも悪くはなかろう。

 なんらかの偉大な才能に恵まれ、それを磨き、発揮し得た者たちを己れの「神」として敬うことは、生きる上での励みともなり、温かい風を身体に送り込む営みでもありうるからだ。

 だが、「魔法」の体現者としてのカリスマ的な天才たちに、人生の〈奇跡〉の成就を視ようとする現代の大衆の中には、その憧憬とは裏腹に、〈奇跡〉とは縁遠い、不条理な、三次元的・地上的現実に這いつくばらせられている己れ自身の生きざまへの侮蔑や嫌悪の念を抱え込み、人知れず苦しんでいる人たちも、少なからずいるのではなかろうか?

 だとしたら、それは、不幸なことである。

 誰のものでもない、自らの固有の人生に、他者との比較を超えた、真のプライドと生きる手応えを見出し、さまざまな人との〈えにし〉に助けられつつ、幾多の苦難・障害をそのつど〈奇跡〉のようにくぐり抜け、人生における〈出逢い〉の不思議さをかみしめつつ、ひたすら、黙々と一本の道を歩み続けてゆく。

 そこにこそ、真の〈魔法〉があるのだ。真の花道があるのだ。

 生きるとは、己れの内に宿りながら己れを超えた力によって活かされることであり、また、己れの深奥から立ち昇る内的な促しに従って、悔いの無いように、未知の流れに自らを賭け、いのちの〈火〉を紡ぎ出すことだ。

 自らの人生に〈魔法〉の働きを視ずして、どこに視ようというのか。

 自らの人生に、生き抜いてきた事の、生かされてきた事の〈奇跡〉を視ずして、どこに視ようというのか。

 カリスマもけっこうだ。天才もけっこうだ。彼らの偉業や生きざまから、インスピレーションを受けるのも良い。

 私は高校野球ファンで、毎春・毎夏、球児たちが繰り広げる「一期一会」のなまの闘いのドラマには、大いなる感動を与えられている。

 また、テレビの特集番組などで、さまざまな、その道一筋の職人さんや無名の生活者の人たちの仕事ぶりや暮らしぶりの一端に触れるのも好きだ。

 私の知人たちが時に垣間見せてくれる人生の表情・哀歓にも、胸打たれることがある。

 そこには、人生の修羅場を斬り抜け、己れの固有の生を美事に織り上げてきた者の年輪の厚みと、人と人とのえにし、めぐり合わせの不思議さ、人生という〈物語性〉の霊妙さがにじみ出ている。

 こういったさまざまな人たち、同朋の姿を凝視してみることは、実に味わい深いことであり、私たちにとっても大きな励みとなるものだ。

 だが、どんな天才・ヒーローたちの生きざまも、また、有名無名のどんな人たちの生きざまも、そのドラマに感動するだけでは、何にもならない。

 他ならぬ己れ自身の人生の内に、生き抜いてきた事の〈奇跡〉、その霊妙不可思議さに対する、〈畏怖〉の感覚を覚えないならば……。

 改めて、繰り返しておきたい。

「魔法」に「憧れる」ことと、「魔法」を自ら「生きる」こととは、全く違う。

 この「紙一重」の差が指し示す〈まなざし〉の相違こそ、私たちが近代文明の強いてくる〈閉塞感〉を超えて、「脱近代」の生へと転生できるか否かの、〈分岐点〉なのだ。

 宗教的なコスモスを、己れの身体の内に、ひとつの〈実感〉として抱え込んでいた「前近代」の共同体民の、四次元的な生存感覚が、近代人であるわれわれの痩せ細った、三次元的な感覚の〈虚〉をつくのも、そこなのだ。

 己れの身の内に四次元の働き、力を感じ得ぬ者の生は、究極において「うつろ」である。

 そして、「うつろ」であることは、私たちの三次元の〈生活〉という、〈未知〉の恐怖にさらされた現場を生き抜く、究極の拠り所とはなり得ないのである。

 そこには、「生きる」ことの〈絶対感〉というものが欠落しているからである。

『白蛇伝』のアキレス腱、宮崎アニメのアキレス腱は、単にアニメ史だけの問題ではない。私たちの現代文明の暗部の根源を象徴するアキレス腱の問題でもあるのだ。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第9回) 川喜田晶子

  • 2018.02.23 Friday
  • 18:26

〈更新〉への想い

 

 己れを更新することは、そのままこの〈天地〉というコスモスを更新することでもある。そのことへの〈信〉が薄れゆく歴史の中で、表現者は、自傷行為的なアプローチで己れの痛みを掘り起こし、世界との逆説的な連続感を強引に見出そうとしてきた。近現代の表現史をそのように総括することもできよう。

 

名月や笛になるべき竹伐(き)らん   正岡子規

 

 正岡子規の俳句の中で、最も好きな句のひとつだ。

 名月、笛、竹、といった古典的な取り合わせであるが、「笛になるべき」には、「笛になる運命を背負った」という含みがあり、ここで伐られた竹は、他のどの竹とも異質な固有の矜持を抱いて笛となる天命を帯びているのであり、その固有性と天命とが月の光を浴びて融け合う姿は美しい。その竹によって生まれた笛もまた、唯一無二の存在として音色を響かせるとき、この世界を更新しないではおかないだろう。新しい時代へ表現を解き放とうとする者の気概がみなぎる名句である。

 

あかつきの竹の色こそめでたけれ水の中なる髪に似たれば   与謝野晶子

 

「あかつきの竹」が「水の中なる髪」にたとえられることで、「竹」ばかりではなく、この世界すべてが水の中に浸されたような錯覚をおぼえる。「あかつき」という、光と闇の交錯する時間帯に世界が見せる表情のなまめかしさ、艶やかさ。「竹」とともに己れ自身も「あかつき」に浸るならば、自らの〈身体〉の不可視の巨(おお)きさに目覚めないではいられまい。

 

この心葬(はふ)り果てんと秀(ほ)の光る錐(きり)を畳にさしにけるかも   斎藤茂吉

 

 自傷行為的な歌心が時代に兆し始める。己れ自身への鬱屈した粘度の高い異和感が、「秀の光る錐」を畳にさすという行為によって鮮やかに象徴される。錐の秀(つまり先端)の光と、その錐の先が畳にささる瞬間の感触へのフェティッシュなまなざしは、己れの身体と天地との分極をなだめようとして妖しい倒錯性へ傾斜してゆく。

 

さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる   北原白秋

 

 この世界に異形の者として存在する痛みは、その異形性を通して世界を更新し、己れの存在を肯定しようと試みる。「さいかち」は15メートルほどにもなるマメ科の植物。幹や枝にはトゲがある。己れの魂をこの植物に託す白秋。「青さいかちの実」となって風にざわめいてみせるならば、「雪」が降ってくる。その「雪」は、「青さいかちの実」となった白秋の異形意識の鋭さが、孤独な魔法使いのように表現という「杖」を振るって降らせたものだ。

 

   もういいの   金子みすゞ

 

―もういいの。

―まあだだよ。

びわの木のしたと、

ぼたんのかげで、

かくれんぼうの子ども。

 

―もういいの。

―まあだだよ。

びわの木のえだと、

青い実のなかで、

小鳥と、びわと。

 

―もういいの。

―まあだだよ。

お空のそとと、黒い土のなかで、

夏と、春と。

 

「かくれんぼう」において「見つかる」とは、何を意味するのか。童心溢れる一篇のように見えて、ここには生と死のぎりぎりのやりとりが不思議な期待感を帯びて描かれている。「かくれんぼう」で鬼に見つかることは、遊びとはいえ「死」を意味する。びわの実が熟して小鳥に見つかると、食べられるという形の「死」が訪れる。夏が来るのは春の「死」でもある。どこかどきどきしながら「死」に見つかるのを期待していることで輝き、巡る命。透明だが不安定な躍動感がきらめくのだ。

 

もういちど生れかはつてわが母にあたま撫でられて大きくなりたし   前川佐美雄

 

 母にあたまを撫でられた体験の乏しさが滲む。現実にそのような体験がどれくらいあったかということよりも、母にあたまを撫でられることで癒されなければならなかったはずの〈傷〉のかたち、成長過程における〈欠落〉の感覚がくっきりと浮かぶ。

 

つひにわれも石にさかなを彫きざみ山上の沼にふかくしづむる   前川佐美雄

 

 石に魚を彫り刻んで、山上の沼に深く沈めるという行為には、誰にも見られずに己れひとりで世界を変える伝説を創ろうとするような、幻想的革命への屈折した渇望が感じられる。「つひに」には、永く持ちこたえてきたその渇望を、今こそ実行に移す時が来た、とでも言わんばかりの、不穏な感慨がこもっており、「われも」によって、そのような行為が累積されてきた、秘められた伝説の末端に自分も加わるのだ、という表明がひそやかに誇示される。深く沈めた石の魚が、誰の目にも触れることなく生命を得て、超越的な危うい力を駆使し、沼の底からこの濁世を転倒する日を夢見るかのような。

 

生命線ひそかに変えむためにわが抽出(ひきだ)しにある一本の釘   寺山修司

 

 自分の「生命線」という変えがたいものへの、ほぐし難く絡まり合った愛憎。己れを規定するものへの憎しみと、それによって生かされてもいることの甘やかさ。抽出しにしのばせた「一本の釘」で、生命線を変えようとの欲動を、そのまま抽出しにいつまでもしのばせておく行為。己れを変えることよりも、変え難さによって身もだえする痛みを、釘をながめては掘り起こし、〈生〉のいびつさを確かめようとする衝動のかたち。

 

じゃんけんで負けて螢に生まれたの   池田澄子

 

「じゃんけん」で勝ったら人間に生まれるのだろうか。負けて「螢」に生まれるのなら、勝ち負けの意味は転倒される。この人間の構成する価値とは別の「螢」の次元があり、その「螢」の目で、世界を一瞬にしてほほえましく更新することも可能だ。

 

空蝉(うつせみ)ほど全(まった)き殻(から)を脱ぎたしや   花谷和子

 

 空蝉ほど完全な殻の脱ぎ方を、人はなかなか出来ないでいる。成長、老い、死。鮮やかに脱ぎ切って己れを、世界を、更新するための条件が奪われ、薄れゆく。〈生き難さ〉が蔓延する。空蝉への憧れが身体を解き放つのではなく、人の解き放たれ難さを地上的に印象づける。

 

 己れの〈身体〉を通した天地〈更新〉への渇望が、時代が進むにつれて地上的に、あるいは痩せ細った地上の逆立ちした幻想への跳躍として、想い描かれるようになる。己れと天地との分極を、病む。

 一瞬で、全てを。それが可能だった世界観の豊潤さから、可能にするための息苦しくも逆説的なアプローチへと、遷移してきた表現の触れ幅の大きさが確かめられる。(この稿続く)

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2018.01.28 Sunday
  • 15:34

 

     10

 

 相似た魂をもつ者同士の愛、すなわち、同化=一体化への渇望を秘めた、男女や同性の対(ペア)、さらには、なんらかの観念や教義、信仰、理想などを共有する同志的結合や共同体の絆がはらむ第二の危険は、彼らの閉ざされた、自己完結的な〈愛〉のかたちが、〈孤絶〉と表裏一体となった、エロス的な幻想的システムの表現行為となっているという点である。

 彼らのみの間で幻想的に紡ぎ出され、共有された〈まなざし〉によって負のレッテルを貼られた外界の〈異物〉、すなわち、彼ら以外の周囲の人間・事物・世界のもつ〈他者性〉というものを、あるがままに受け止めることができぬままに、尊大な誇大妄想や権力意志、あるいは迫害妄想などの狂気に、知らず知らずのうちに追い込まれてしまうという危険性である。

 人間一人ひとりは、実は、恐竜とアリの隔たりにもたとえられるほどの、生き物としての異質さ・多様性を秘めているのである。

 極論したたとえ方をするなら、人類という種の中に、ありとあらゆる生物種の多様性がはらまれていると言っても過言ではないほどの、恐るべき無数の多様性、普遍性の組み合わせがありうるのだ。

 それは、人間にとって、偉大な分業を可能ならしめるベースともなりうるが、同時に、孤独と脅威の源ともなりうる。

 われわれは、無限に多様な人という生き物の関係の渦中で生きねばならないのだ。

 己れの〈個〉としてのアイデンティティーとプライドを保ちながらである。

 前近代の共同体社会・伝統社会の中では、人は、血縁・地縁の濃密な関係によって結ばれ、生活様式を共にする共同体民として、ひとつの宗教的で習俗的な生活小宇宙(コスモス)の内に包摂されることによって、己れの役割分担とアイデンティティーを安定的に了解し得ていた。

 そこでは、人間本来の個性の〈差異〉は、均一の共同幻想の下に、いわば覆い隠されていた。

 しかし、そのような共同体社会の伝統的な足枷を壊し、〈個〉としての自我意識を拠り所として生きるほかはない、われわれ現代人にとっては、人間一人ひとりの「生き物としての差異」というものは、もはや、覆い隠すことのできないもの、己れのアイデンティティーを常に脅かすものとして、立ち顕われてこざるをえない。

 貨幣と情報の魔力によって、欲望が無限に多様化し、神経が細分化し、自意識が肥大化してしまった近現代人にとっては、隣人も、世間の他者も、親類・縁者や家族でさえも、大なり小なり、生きる場所を異にする、内面的には互いに触れ合うことのない、恐るべき異類のような存在へと変貌していく。

 互いに、どんなに親愛感情を抱いていても、根底においては、孤独なのである。

 私たちは互いに〈個〉として分断されながらも、身内や他者からさまざまな〈関係〉を強いられ、絶えず油断なく身構えている。

〈個〉は、常に、己れの〈個〉としての固有のあり方・生きざまを否定し、打ち消さんとする負の力の脅威の下に置かれている。仲間との生命的な絆を求めながらも、敵の脅威におびえている。

 人間は、生命と虚無の両義性を備え、生死をつかさどる、大いなる宇宙的なカオスの中を漂流している。人は、そのカオスの中で、己れ自身の「立ち位置」を定め、安心立命を得なければならないのだ。

 個人は、他の誰でもない、固有の生命と輪郭を備えた個人として生き抜き、幸せにならんとするなら、同時に、個人の生死という有限性を超え、〈個〉としての輪郭を超えて、〈類〉的な生命の次元に生きることができねばならない。

 西田幾多郎流に言えば、この「絶対矛盾」を、「自己同一性」として生き抜かねばならないのだ。

 個人は、視えている風景も感覚も全く異なる、己れとは「生き物」として異質なる存在といってもよいほどの〈他者〉の存在・脅威にとり巻かれながら、そのあつれきを超え、絶えず、己れの存在を「卑小」なるものとして意識させ、「相対化」して止まない世界のあり方という「否定的な媒介」を通して、逆説的に、〈個〉と〈類〉の矛盾を「止揚」してみせることで、「生きること」の〈絶対感〉を獲得してみせねばならないという、困難な課題を抱えている。

 魂の相似た者同士、あるいは、共通の不遇感や疎外感を抱く者同士が、感覚やまなざしを共有することで、閉じられた〈愛〉や同志的な絆の世界を紡ぎ出し、幻想的な〈一体化〉の渇望を充たし、己れにとって〈異物〉となる〈他者性〉に対して、一方的・一面的に〈負〉のレッテルを貼り付けて、これを貶め、「排除」せんとすることは、「類と個の止揚」という困難な課題に対して、尊大で不幸な、一人よがりの場所に立つことで、安易な解決を図らんとする、痛ましい錯誤の道でしかない。

 それは、人々を精神病理へと追い込み、恐ろしい抗争・害悪をもたらす陥穽(かんせい)に転落することである。

 対(ペア)においては、それは愛の〈強制〉の病となり、集団においては、共同幻想による閉鎖的なイデオロギーの支配をもたらす。

 その結果、「内側」では、愛や絆を腐らせ、「外部」に対しては、断絶意識と攻撃性によって、妄想や狂気の表現形態をとって溢れ出る。

 周囲の人間たちや世間・社会の生態から浮いた、孤独な存在である〈異形の者〉にとっては、その誘惑への危険性は、とりわけ高いものとなる。

『白蛇伝』の主人公「白娘」と「許仙」は、まさに、その危険性にさらされた異形の者たちであり、宮崎駿にとっての〈子供性〉〈幼児性〉というものも、また、そのような危うさにさらされた異形の魂のかたちにほかならないのである。

 

     11

 

 異形の者たちが駆使しうる「魔法」の霊力とは、実は、精神病理と反社会的な狂気、己れの人生と他の人間たちに対する〈尊大さ〉のもたらす害悪と〈紙一重〉の危うさをはらんだものなのだ。

 宮崎駿が、己れの作品において、「魔法」の力、その存在意義というものに対して過度に警戒的になるのは、おそらくそのためである。

「魔法の力」というものは、異形の能力を備えた者を、「選ばれたる貴種」としての「神の使い」であるという〈使命感〉によって、尊大にしてしまう危険性をもつのだ。

 それは、人を不幸にし、己れ自身の人生をも不幸なものにする。

『白蛇伝』では、許仙と白娘が結ばれて、人間社会に受け容れられ、幸せになるには、白娘が妖精としての霊力と、霊的存在として永遠に生き続けるという不死の魂を失い、ただの三次元的な〈生身〉の女にならねばならない、とされている。

 この結末はそのまま、宮崎アニメのモチーフに通底するものである。

 宮崎駿の表現理念には、異形の人間が社会から受け容れられ、己れの固有の居場所を持ち、幸せになるには、「魔法」を封印しなければならない、という強迫観念が付きまとっているようにおもえる。『崖の上のポニョ』しかり。『千と千尋の神隠し』でも、竜の化身であるハクは、千尋と最終的には一緒になれず、千尋はハクを振り向かずに親元に帰る。『となりのトトロ』でも、サツキとメイの姉妹は、森の妖精トトロと一体となって〈風〉に化身するが、それはあくまでも〈夢〉の中での出来事であって、死の恐怖と不条理に立ち向かうには、ひたすら、トトロへの「神頼み」にすがるしかないのである。

 もっとも、『となりのトトロ』では、サツキとメイの姉妹が〈風景〉と交感する時の身体感覚の丁寧な描写が精緻に積み重ねられ、その延長上に、森の妖精トトロとのファンタジックな交感の物語が紡ぎ出されることで、〈個〉としての三次元的・可視的な存在の〈輪郭〉を超えて森羅万象へと拡がる、四次元的で不可視的な〈類的身体〉のかたちが象徴的に描出されており、その特質は、『少年猿飛佐助』の演出姿勢と世界観にも通ずるものがあるといっていい。

 しかしその類的な身体感覚は、『トトロ』にあっては、あくまでも、「幼児期」と「児童期(少年期)」の子供に特有の〈一過性〉の体験として、〈大人〉の場所からは巧妙に排除されているのである。

 私たちは、映像の中で、サツキとメイが精霊トトロと一体となって〈風〉に化身するさまを見つめることで、すばらしい四次元的な身体的解放感を味わうことができる。

 だが、その四次元的なまなざしは、この作品世界にあっては、あくまでも夢の中の出来事であるか、あるいは、子供時代に限って一瞬味わうことの可能な、神秘な異界体験=異形感覚の象徴として、大人的な現実世界からは疎外され、成長過程の中で「封印」させられた能力として処理されている。

 四次元のパワー、霊力は、人間の〈生身〉の身体感覚の延長上に、微かに〈気配〉のようなものとして感じ取られてはいるが、それは、三次元の散文的な現実世界を生きる大人のまなざしからは、常に〈外部〉にある客体として位置づけられているのである。

 四次元的なまなざし・生存感覚に対する、このような位置づけは、宮崎作品の〈枠組〉を理念的に拘束するものとなっている。

 もっとも、『風の谷のナウシカ』の「原作」のマンガでは、宮崎駿の〈無意識〉は、そのような理念(イデオロギー)の強迫観念にあらがい、主人公ナウシカの〈生身〉の体感の延長上に、有毒な瘴気(しょうき)の充満する死の森である「腐海」と共存しながら、それを超える生命的な四次元的霊力のかたちを幻視してみせている。

 SFという設定の下でではあるが、生命と虚無の両義性を備えた渾沌(カオス)としての〈闇〉のうねりを、自らの身体の深奥より紡ぎ出し、その生存感覚を心棒として「生きる」という、実存的な身構えを、美事に象徴的に演出してみせているのである。(なお、原作『風の谷のナウシカ』における、この〈闇〉への両義的なまなざしをめぐる問題については、雑誌「現代詩手帖」一九九五年十月号に掲載された拙論「〈光〉の源泉としての〈闇〉―――宮崎駿『風の谷のナウシカ』の世界視点」を参照していただければ、ありがたい。)

 そのような例外的な作品もあるけれども、基本的には、宮崎作品の理念的な建て前は、『白蛇伝』と同様、「魔法の封印」という代償による絆の成就(幸せの成就)という強迫観念に拘束されているといっていい。

「魔法」「魔物」といった四次元的な霊性は、常に、三次元的な実生活の〈外部〉に置かれている。

 宮崎アニメ、とりわけ『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』は偉大な作品群であるが、この理念的制約という一点に焦点を合わせる限り、『少年猿飛佐助』が象徴的に表現してみせた、闇と光の交錯する四次元的なカタルシスには、及ぶべくもないのである。

 宮崎アニメにみとめられる、このような理念的拘束には、二つの背景がみてとれるようにおもえる。

 一つには、先にも強調したような、プライドの強い異形の魂の持主が陥りやすい、孤絶感と表裏一体となった、己れの魔性の能力・霊力への尊大な過信がもたらす病理・狂気への危惧(きぐ)の念である。

 しかし、そのような怖れの念にもかかわらず、もちろん宮崎駿には、子供性によって象徴される異形の魂に対する、過剰なまでの思い入れがある。

 異形の魂の持主が、そうではない、普通の俗世間の人々の中に在って、他者や己れを損ねることなく幸せになるには、「魔法」を封印したままで、己れの内なる宝を守り通さねばならないというのが、おそらく、この作家の表現者的な立ち位置である。

 宮崎駿は、倫理的な作家である。

 もし彼が、己れの異形の魂に発するデモーニッシュな非日常的衝迫を、ただ「吐き出す」だけの〈表現〉に甘んずることができたとしたら、彼は、そのような〈闇〉の湧出のかたちを、病理や狂気に追い込まれた人間の破滅的な〈悲劇〉の物語として造型するという、いわゆる「芸術至上主義」の作家への道を歩んだに違いない。

 しかし、彼は、日常や社会を超越して、非日常的な〈闇〉の時空に魂を自在に羽ばたかせたいという渇望と共に、人が日常と実生活に着地して幸せになる道を指し示したいという、倫理的な使命感をあわせ持った表現者であった。

 しかも、少年期・思春期の子供から大人までの巾広い世代を「受け手」とする、アニメーターという職業作家の道を択びとった人である。

 是が非でも、その業界で「成功」し続けなければ「後が無い」という場所に置かれた産業戦士=業界人なのだ。大衆の支持は、彼にとって必須要件だった。

 異形の魂の持主に思う存分に「魔法」の力をふるわせたあげく、物語の終局部で、敢えてその魔法を「封印」させてしまうという宮崎アニメの微温的な理念的拘束が、ここに生まれる。これが、第二の背景である。

 まさに、己れの資質を活かすための、アクロバティックな苦肉の策であるといってもよいだろう。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第8回) 川喜田晶子

  • 2018.01.27 Saturday
  • 14:28

 

〈更新〉への想い

 

 己れの無意識を浸す不条理感を超えてその〈生〉を更新したいという想い、更新すべきだという想いが、学生たちの作品には〈生き難さ〉の痛みとともに十字架のように貼りついている。

 

   誰かの人形   N・M

 

たくさん辛いことが重なった

僕は必死に生きようとした

たくさんの人を傷つけた

私は自分のために「愉しいこと」だと錯覚した

たくさんの努力が認めてもらえなかった

俺は結局何にもできなかった

 

誰かに愛してもらいたかった

 

私はきっと、人でなし

 

「僕」「私」「俺」「私」と、一人称が転変することで、苦闘の角度が変わる。

「たくさん辛いことが重なった」によって、個人の責任を超えてのしかかる不条理の存在をまず提示する。「僕」は「必死に生きようとした」。かろうじて個人に可能な努力をしてみた「僕」。

「たくさんの人を傷つけた」では、他者との関係の網の目に翻弄され、人が人をいつの間にか傷つけてしまう不毛さ、無力感が指摘される。「私」はそれを「愉しいこと」だと「錯覚」しようとした。

「たくさんの努力が認めてもらえなかった」では、個人の努力が他者には評価の対象とならないことで、〈無意味〉へと放逐される「俺」の姿が浮上する。「俺」は「結局何にもできなかった」。

「僕」「私」「俺」に共通するのは、他者、関係、世界に対して個人の〈意味〉を必死で模索するが、空転してしまう存在の空虚さである。

 本当は「誰かに愛してもら」うことで、その〈意味〉を得たいと望んでいるだけである。そのシンプルな願望をきちんとこの現実に定着できない「私」とは、「人でなし」なのだろう、と総括する。人である以上、本来、誰かに愛されて〈意味〉を得られるように、不条理と闘い、人を損ねず、努力を評価されなければならない。そのような営みをなし得ない自分は、本当の主体性を持ち得ているとはいえないのであり、「誰かの人形」でしかない、と、作品のタイトルが作者の洞察を語っている。

 個人の「主体性」が、ある限定をこうむっており、そのことが、〈意味〉ある人生への己れの存在の更新を阻んでいる。限定の厳しさ、わびしさを明晰に洞察しているのに、その限定を超えられないという絶望感。

 しかし、「私はきっと、人でなし」というフレーズは、卑下には見えない。「人」であるための「主体性」についてこれほど高精度に突き詰めることなく、誰もがほどほどの自己肯定感を維持して生き延びている。精確に「人」であるためのハードルを認識してしまった作者の方が「生まれてすみません」といった気分になってしまうのはなぜか、という問いかけは、太宰治的な、確信犯的な批判精神、とも読める。

 

 

   私   I・T

 

汚れきったキャンバスを

真っ白な絵の具で塗りつぶそう。

何も知らない私、

何色にも染まってない私。

全て最初からやりなおし。

次こそ素敵な作品にするんだ。

また汚くなったら最初から。

 

 絵画作品の創作になぞらえた、人生の「更新」についての想い。

「次こそ素敵な作品にするんだ」には、何度も何度も自身を「汚れきった」キャンバスにしてしまった苦さが滲む。そして、「真っ白な絵の具で塗りつぶ」しても、本当はその下には過去が累積してしまっていることも、よく承知している。それでも、「何も知らない私」「何色にも染まってない私」を再現すること、何度でも「全て最初からやりなおし」ができることにこだわる作者。

 社会や関係の中で染みつけられてしまったもの、観念的な「知」に汚されて「色」のついてしまった自分、への、強い忌避感が発せられている。

 繰り返し「真っ白」に戻そうとするその「忌避感」にはしかし、神経症というよりは、自分のこだわる「白」、守りたい自分、へのあくなき追求の心映えが感じられる。

 

 

   海   M・M

 

つめたい色につめたい水

音は聴こえないし息もできない

私はつめたいものにつつまれる

耳をすますとあたたかいものにつつまれている感じがした

 

「つめたい色につめたい水」「音は聴こえないし息もできない」「私はつめたいものにつつまれる」が、この現実のことであるなら、日常的に作者の生存感覚がどのような場所に追い詰められているのかが、シンプルに伝わる。

 唐突に、「耳をすますとあたたかいものにつつまれている感じがした」と作品が結ばれる。耳をすます必要があるのだが、かすかに聴こえてくるものによって、つめたい現実が塗りかえられた感覚。別のどこか、ここではないどこか、に行かなくても、そのままで、「あたたかいものにつつまれている感じ」は実現するのだ。

 まだ、全身的に解放感をもってその「あたたかいもの」を享受できている文体とは言い難いが、かすかな予感・予兆を捕まえようとしている。バーチャルな幻想への逃避行ではない。そのまま、現実が「更新」され得る予感がする。魂の感じた「海」は、物理的に作者を取り囲む「海」のもう一つの貌なのだ。(この稿続く)

 

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『右大臣実朝』と宿命(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2018.01.26 Friday
  • 11:01

 

     6

 

『右大臣実朝』前半における実朝像は、ひと言でいうなら、〈生活者〉として、微塵も曇りやぜい肉というものが無く、まことにみずみずしい、あたたかい生の息吹に満ち溢れている。

 その〈光〉の強さは、次第に拡散し浸透する時代の暗鬱な妖気や滅びの気配によく拮抗し得るものとなっている。

 このような実朝像が、作品後半では劇的に崩壊していく。

 この鮮烈な逆転の構図が、『右大臣実朝』の哀しい美しさをひときわ際立たせている。

 実朝の生活意識を曇らせ、徐々に蝕み、崩壊に導いたものは何か。

 結局、じわじわと目に見えぬ形で無数に繁殖していく「北条的なるもの」の、真綿で首を絞めつけるような隠微な重圧に、実朝もまた抗し得なかったことによる。

「北条的なるもの」は、心ある御家人たちの間に、次第に息苦しさと強烈な憎悪を醸成していく。そのストレスは、やがて、泉小次郎親平の反乱とそれに加担した和田義盛一族のメンバーやその他の御家人たちの罪科に発展する。

 実朝は、反徒たちに対しても一向に怒らず、むしろ寛大な処置をもって臨むが、首謀者の一人である義盛の甥「胤長(たねなが)」に対する、北条義時の、挑発的ともいえる無神経な処罰のやり口に逆心を抱いた和田一族の乱が勃発してしまう。そこには、義時や大江広元に対する御家人たちの積年の怨恨が横たわっていた。

 実朝は、すでにはるか以前から、その趨勢を、漠とした妖気のようなものとして鋭く感受しており、あたかもその妖気を象徴するかのように、この時期には、年々、天変地異が相次いでいる。そのためか和田の乱の一年前頃から、義盛への愛顧も一段と深まり、また、寺社への尊崇のふるまいも強まっていく。

 しかし、それにもかかわらず、その妖気を押しとどめることが結局は不可能であること、北条への反発はやがて内乱につながり、自分もまた、その歯車の内に〈体制〉の象徴として巻き込まれざるをえないこと、政治的な責任者としての自分には、結局、何ひとつ良き解決は計り得ぬ事を知っていた。内乱時の「大義名分」は、結局、幕府方(御所方)勝利の暁には、北条氏の手に帰することになるからである。

 和田一族への手厚い鎮魂と、彼らの酸鼻な滅亡の修羅の形相(ぎょうそう)やそれによって受けた傷心のおもいを精一杯うたうことしか、実朝にできることはなかった。

 

「五月二日、酉剋(とりのこく)に至って和田四郎左衛門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代えがたくお可愛がりになっていた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになって、落馬せんばかりに驚き、人まえもはばからず身を震わせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになった、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよい歩き、ついに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、ようやくおさまり、その夜は由比浦の汀(みぎわ)に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明(たいまつ)の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいといなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠っておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになって、けれども流石(さすが)にその夜はお気軽の御冗談もおっしゃらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。

 焔(ほのほ)ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ

 カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀(あはれ)トヤ云ハン

 神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ

 などという和歌のお出来になったのもその夜の事でございまして、五月雨(さみだれ)がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまいりまして、それから二十数年経った今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。」

 

 小説では、ここに引用された歌を和田合戦終結直後の作品として位置づけているのだが、説得力のある解釈だとおもう。

「神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは」の歌は、近代主義的に解すべきではあるまい。時代の〈妖気〉も人の心がつくり出すものならば、それに抗し、不可視の浄化力の〈光〉を放つのも、また、「人の心」なのだ。それを「神」といい、「仏」というならば、時代の巨大な〈悪〉のオーラに抗し得なかった人々の、また己れ自身の、〈気〉の衰弱をうたうものだともいいうる。

 ある意味では、源家嫡流の呪われた〈血〉の衰弱ぶりに、また、政治家としての最高の象徴にあずかる自身の〈矜持(きょうじ)〉の重さのしからしめる制約に、どうしようもなく圧しつぶされたのだといえないこともない。

 現世の政治世界、権力意志の関係の場というものは、そもそも、北条のような手合いがのさばらずにはおかない、どうしようもない汚濁の巷(ちまた)なのであり、頼朝死後の幕府のような〈秩序〉の冷酷な形成期には、ことのほかそうなのだ、という開き直りと断念の場所に徹することもできなかった。その分だけ、個人としての実朝の魂は、本来の強靭な〈光〉を保ち続けることができなかったのだともいいうる。

 和田の乱の直前頃から、颯爽とした「政治家」実朝の姿は急速に影をひそめ、何かががくりと崩れ去るように、「それまで固く握りしめ」ていた何物かを「その時からりと投げ出して」しまったようになる。

 和田合戦終結以後の実朝は、朝廷と神仏への帰依を除いては、すっかり政治への関心もなくし、投げやりになる。和歌への情熱も、乱の起こった建暦三年(建保元年)を境にほとんど消えうせ、酒宴に興じる日々だけが際立つようになり、幕府おもいの武骨の御家人の心も、次第に実朝から離れていく。*

 執権義時のみは、そういう将軍のありさまも見て見ぬふりをしつつ、実務に忙殺される日々を送っている。

 そして、宋人陳和卿との出会いと将軍の前身が宋朝医王山の長老であったという夢告を口実に、「渡宋」計画を立て、唐船の建造を企図するなど、厭世のおもいのみがつのってゆくようにみえる。

 生活者としての実朝の〈光〉は急速に衰弱してゆく。鎌倉を中心とする不吉の妖気は、年ごとに色濃くなり、天変地異が相次ぎ、人々の不安をつのらせてゆく。

 和田合戦の二年後の建保三年の十一月末には、義盛以下の将卒の亡霊が、将軍の夢枕に群参したという記事が『吾妻鏡』に見え、翌朝、にわかに鎮魂の仏事がとり行われたという。

 和田一族の滅亡は、実朝にとって、おそらく、世界風景の癒しがたい裂傷の象徴だった。だからこそ、それは、生存の本源的な寂寥感に根をもつ強靭で純潔な生活思想の持ち主としての実朝にとって、致命傷となるものであった。そして、実朝特有の理想化された政治=国家イメージにとってもまた、修復不能な汚点を刻みつけるものとなった。

 政治力学上のあり方からいえば、畠山や和田のような誠忠廉潔の士が滅び、北条のような秩序意識とリアリズムが勝利を得ることは、いわば必然の成り行きである。

 政治とは、その時代に支配的な〈倫理〉や〈理念〉を口実として利用しつつ、ひとつの統一的な〈法〉秩序を編み出すことで、諸々の集団ないし個人の利害を調整しつつ、社会全体の粗大な合意の下で、富の分配と階級支配を貫徹しようとする〈技術〉のことにすぎぬからである。

 だからこそ、本質的な意味で最も〈生身〉の倫理に鈍感で、易々とそれを踏みにじれる者の中から、しばしば有能な「政治家」「権力のプランナー」が出現しうるのだ。

 ひとつの強大で安定した〈秩序〉が精緻に構築され、社会の深部に「根をおろす」時期には、ことのほかそうである。

 義時のような、生身の人情や倫理に対して何らのデリカシーも痛覚も持たぬ、本質的に鈍感な実務官僚型の「能吏」が幅をきかすのである。

 巨大化した政治や経済のメカニズムというものは、そういう、私情を殺して何ら苦しむことがなく、また何ら良心に恥じることもなく、社会的な〈理念〉やら組織的な〈要請〉のために、黙々と歯車のようにコンスタントに働けるような無数のリアリストたちによって支えられているのだ。

 実朝のような、真に孤独で気高い魂の持ち主が、大江広元や北条義時に象徴される、こういう種族の人間たちのボスに祀(まつ)り上げられるなどということは、およそ、これ以上滑稽で悲惨なことはない。

 実朝が、ひとりの〈生活人〉として、純粋な力強い〈光〉を放ち続けるには、断じてこのような境遇に身を置くべきではなかった。

 しかし、もちろん、源家嫡流の唯一の正統的継承者である彼には、そこから真に逃れる術(すべ)はあり得ようはずもなかった。仮に、彼の「渡宋計画」が本気であったとしても、真剣に、衷心より己れの境遇を打破せんとする意志は、内的な何ものかによって封じられてしまったであろう。

 源家の〈血筋〉の矜持か、その血のもたらす業の深さか、あるいは、「美しきもの」を滅ぼしてゆく、時代の不吉な〈妖気〉の有無をいわさぬ予兆か。

 ともかく、作品「後半」の実朝の道程には、決してそこから逸脱することを許容しないかのような、奈落に向かってひたすら吸い込まれてゆく、ギリシア悲劇の如き〈滅び〉への不可避の直線が、太く、たしかに刻みつけられているのだ。

 この実朝の〈滅び〉の道程は、奇妙なことに、終戦直後から自死に至るまでの「後期」太宰治の歩みと、見事に軌を一にしている。あたかも、実朝の道を、忠実に、より大きな振幅をもってひたすら真っ直に歩み通し、自らを〈自死〉に追い込んでみせたかのようですらある。

 事実はどうあれ、少くとも次の点において、この作品における実朝の〈滅び〉への道程は、後期太宰、より正確に言うなら、既に大戦期の中期「後半」の太宰作品の担っていた本質的な悲劇性=ジレンマを鮮やかに象徴しえているし、その意味において、後期太宰の運命を「予兆」するものでありえた。

 すなわち、「中期」太宰のすこやかな〈生活人〉としての持ちこたえ方、〈存在の痛覚〉に根ざした〈生身〉の接触・ぬくもりと、〈自然〉のはからいのうちにすべてを純化しつつ受け流してゆく、独特の透明な生存感覚に支えられた日常のくぐり抜け方というものが、鈍感な小人(しょうじん)どもの冷酷なリアリズムと規範性によってじわじわと囲繞され、押しつぶされていく、というイメージである。

 このイメージは、胎乳児期以来の成長過程に根をもつ太宰特有の生き難さの感覚(関係の障害感の深さ)と、中期における、家族を抱える職業作家としての苛烈なたたかいの実感を通して、繰り返し凝視されてきたものだ。

 このイメージは、太宰にとって、自然な倫理性を支える血の通ったあたたかさと神聖さの感覚を踏みにじる、なんともいえぬ野卑な暗く濁った〈空気〉が人々の魂を覆い、容赦なく蝕んでゆくという閉塞感につながっていた。

 おそらく大戦期の〈滅び〉の予兆はここから醸成し、次第に太宰の生の風景全体に拡散・浸透していったに違いない。

 実朝が、〈国家〉や〈政治〉という磁場・位相から真の内的離脱をとげることができなかったように、ひとりの生身の〈生活人〉として、この卑俗さの泥沼、小人どもの充満する倫理の荒廃と血の衰弱に覆われた腐食土を脱却し、飛翔するには、太宰はあまりにも、〈国家〉や〈社会〉という化け物が発散する〈献身〉という理念に魂を食われすぎていた。天皇制ナショナリズムと同調(シンクロナイズ)したキリスト的理念への純粋な忠誠が、肌身を押しつけてくる生き難さの痛覚と拮抗しうるために太宰がどうしようもなく必要とした〈支柱〉のひとつなのであった。

 実朝が、現実の幕府体制の内実を、北条氏に象徴される冷酷な法治主義的リアリズムの具現にすぎぬことを冷静に見きわめていたにもかかわらず、敢えて、朝廷への〈赤心〉を貫き、〈神聖なるもの〉への自然な尊崇に根をもつ道義的国家の夢想を抱き続けたように、太宰治もまた、戦中の天皇制国家の見せかけの美しさや敗戦後のアメリカ流民主主義の〈自由〉の建て前の背後によどむ、卑俗なエゴイズムの修羅の実相を冷徹に洞察しつつ、その〈不能〉を百も承知で、あるべき幻の倫理共同体(コミューン)の夢に殉じようとしたのだった。

 この逆説的な〈袋小路〉が、後期太宰治の悲劇性の核心にあるものだ。

 この袋小路の包摂する問題の巨大さを実感するには、後期太宰が異様なまでの執念をもってこだわり、掘り下げ、恐ろしいふくらみを付与して肉体化してみせた〈悪〉の病像の本質と、その悪に拮抗すべく肥大化させられたキリスト的〈観念〉の、生身の実生活への軋轢(あつれき)のもつ意味についてのトータルな考察が必要となる。(了)

 

 *現存する『金槐和歌集』のテキストの中で原本の姿を忠実に伝えていると考えられる「藤原定家所伝本」(後鳥羽院に献呈された原本を藤原定家が転写したものと思われる)には「建暦三年十二月十八日」の奥書があり、『金槐和歌集』の成立が「和田義盛の乱」(建暦三年五月)の直後に当たることがわかる。定家本には六六三首が収められているが、それ以外に知られる実朝の歌は現在まで九五首にすぎず、彼の和歌の大半は『金槐和歌集』にある。当時実朝は若冠二十二歳であり、彼の作歌歴と作品の出来ばえを考慮に入れれば、この歌集の歌は少なくともそのほとんどが過去数か年以内に作られたものであることは明らかだ。それに比して『金槐和歌集』以後、死までの六年足らずの間の作歌量は見る影もない。「建暦三年」は、実朝の歌人としての生命がその最後の燃焼を果たし終えた運命の年であったといってよい。その背景には、和田の乱によって受けた傷心の深さが透けて見えるのである。(ちなみに『吾妻鏡』によれば、建暦三年十二月三日に、実朝自ら寿福寺におもむき、和田義盛とその一族郎党の冥福を祈るために仏事を修している。)

 

 

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