東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第11回) 川喜田八潮

  • 2018.07.17 Tuesday
  • 14:38

 

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 悲哀感と不条理感に打ちのめされた、和魂(にぎみたま)偏重の植物的な生存感覚、東洋的な無常感、ニヒリズム(ペシミズム)、諦観といった、前近代的・伝統的な土俗共同体的美意識によって支えられたエートスが、この時期になって一気に浮上してきたのは、一九六〇年代前半という、経済至上主義に蝕まれた肉食動物的な業界人・サラリーマンの増大する世相に対する、いわばアレルギー的な反動が、高度成長という偽りの〈光〉の裏面に秘められた〈闇〉の鬱屈、苦しみ、渇きの〈表現〉となって、溢れ出てきたせいではあるまいか。

 だが、それはすでに、「五〇年代」の表現にみられた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉と、己れの主体の底、身体の底に、闇と光のダイナミズムを感受するというコスミックな感覚を失っていた。(ちなみに、六〇年代前半には、周知のように、こういった〈和魂〉のみに偏した作品群とは逆に、獰猛な生きるエネルギーと闘争の修羅場を描き、〈荒魂〉のみを強調する作風を示した白土三平の劇画世界があったわけだが、彼の作品群もまた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉を逸していたという点では、同じ穴のムジナであり、和魂偏重のペシミスティックな表現と、いわばメダルの表裏のような関係にあったと考えられる。両者は共に、六〇年代という、経済至上主義に汚染された時代の、肉食的な文明によって追いつめられた〈土俗〉の宿命を象徴するものとみなすことができよう。)

 アニメの『安寿と厨子王丸』を覆っている、主人公たちの和魂のみに偏したいびつさ、脆弱(ぜいじゃく)さは、そういう時代の不健康さを如実に物語っている。

 特に、最終部のクライマックスで、山椒大夫とその息子・次郎の罪一切を許すという設定には、唖然とするほかはない。カタルシスも何もあったものではないのだ。

 鷗外の原作では、あたかも〈自然〉現象を記すように、淡々と客観的に姉弟の運命を叙述しているのだから、言語の硬質な〈抽象性〉によって不条理性が緩和され、したがって、このような結末も、「仕方ないなァ」と、変に因果関係のリクツで納得させられて、ついつい、そのまま受け容れさせられてしまうのだが、アニメの方ではそうは行かない。

 姉弟の哀切な運命にわれわれが全身的に感情移入し、悲しみに打ちひしがれてしまうからである。「いくらなんでも、これはないゼ」という気持になってしまう。

 もちろん鷗外の原作を踏まえて創られたアニメなのだから、当然といえば当然の結末ではある。原作では、山椒大夫の一族は、丹後での人買いを禁止され、奴婢の解放を強いられた代わりに、罪を許されたばかりか、解放された元の奴婢たちが大夫から「給料」をもらうことで労働意欲が高まり、その結果、ますます富み栄えることになったというのであるから、考えてみれば、こちらの方も、実にやり切れない、「うさんくさい」設定というべきである。

 私たちは、鷗外の〈文体〉の力に幻惑されて、この作品の背後に隠されている作者の政治理念の「うさんくささ」に対して、判断停止にさせられているのだ。

 この原作の結末は、軍医総監にまで出世し、明治近代国家を支える官僚の一人として、〈治者〉の位相に身を置いていた森鷗外が、天皇制イデオロギーを支える「修身・斉家・治国・平天下」の儒教的教化の理念をさりげなく織り込めた事によるとみてよいだろう。

 

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「目には目を、歯には歯を」の復讐理念を、人情の自然、人間性の道理として、法や掟の内部に一定範囲内で繰り込むことができていた中世や近世のような社会ならともかく、われわれの近代国家において、個人の私的な復讐理念の実力行使を道徳的・法的に容認したならば、収集のつかない、アナーキーな混乱に陥ることは必定(ひつじょう)であるから、国民から、犯罪行為に対する私的な処罰権を取り上げて、それを国家権力による法的判断に委ねるというのは、およそ揺るがすことのできぬ、近代法治主義の理念であり、大義である。

 王朝国家の官吏として出世し、山椒大夫一族に寛仁大度の処置を下す厨子王の〈治者〉としての姿勢の背後には、鷗外が理想として掲げた、明治天皇制イデオロギーと癒着した儒教的な徳治主義が横たわっているとみてよいが、その道徳臭をカッコに入れれば、そこに透けて視えるのは、まぎれもない、近代国民国家の公権力に根拠をもつ、法治主義による裁きの理念なのである。

『山椒大夫』では、怨恨による私的な報復の感情というものは、完全に否定的な扱いを受けており、その徹底ぶりは、丹後での人買いを禁止され、奴婢を解放させられた代わりに、罪一切を許された山椒大夫一族が、その後、かえって「富み栄えた」という叙述によってもうかがうことができる。

 鷗外的理念によれば、一切の不条理は、良き〈法治〉を踏まえた良き〈統治〉によって贖(あがな)われるべきものなのである。

 鷗外の原作を踏まえて作られたアニメの方でも、〈公権力〉に根拠をもつ裁きの理念はそのまま継承されており、所有する奴婢をことごとく解放せよと命ずる厨子王に対して、反抗的な態度を示す山椒大夫と次郎に向かって、「帝(みかど)」の権威を口にし、平伏させるシーンには、それがよく表われている。

 しかもアニメでは、厨子王はなんと、山椒大夫と次郎による過去の奴婢への虐待の罪を許したばかりか、己れを襲撃し暗殺せんとまでした言語道断な所業までも不問に付すのである。アニメの青年・厨子王もまた、王朝国家の一端を担う、理想化された有徳の〈治者〉に成り切っており、己れのこうむった不条理への〈怨恨〉の全てを、ものの美事に抑圧し、法的な〈善政〉の観念へと代償的に昇華してみせているのである。

 もっとも、このアニメの厨子王像は、鷗外の原作のような、明治国家的な儒教的道徳臭をひきずっているというよりは、むしろ、公権力と一体化した戦後民主主義・ヒューマニズムの観念性の象徴とみるのが、当を得ているとおもわれる。

 どっちにしても、同じ穴のムジナである。

 

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 ちなみに、こういった鷗外的理念の行き着く先が、二〇〇〇年代以来、人気テレビ番組としてヒットし続けている周知の刑事ドラマ『相棒』(テレビ朝日放映)の主人公、水谷豊演ずる警視庁特命係の敏腕警部「杉下右京」である事は、言うまでもない。

 杉下右京の信奉する、極度に聖化された法的な〈正義〉の理念とヒューマニズム、そして、そのリゴリズムと矛盾しつつも表裏一体となった、社会へのクールでリアルな観察眼と人間心理の闇への透徹した洞察力……。

 これらの特性は、私には、明治官僚制国家の有能な構成メンバーの一員として勤めながら、その一方で、人間心理にたけた、優れた文学者として日本近代文学の確立に寄与した森鷗外の二面性と重なって視える。

 共に、一面では、極度に観念的な理想主義者でありながら、他面では、それと矛盾する、妙に地に足の着いた、冷徹なリアリストであるという、天上と地上に分裂した〈二重性〉を備えているのである。

『相棒』というドラマが、かくも長年月にわたって根強い人気を保ち、人々を引きつけて止まないのは、杉下右京によるクレバーな謎解きの面白さもさることながら、この主人公の呆れ返るほどに硬直した法治主義的な理想主義がかもし出す、なんとも言えぬ〈息苦しさ〉と、事件の背景に横たわる、不条理な地上の三次元的現実にがんじ絡めとなった被害者や犯人の生態の〈救いの無さ〉のコントラストが、われわれ現代人の視聴者の〈生き難さ〉の感覚、そのマゾヒスティックな痛覚を強烈に刺激するからである。

 われわれ現代人は、これほどにも救いの無い不条理な実相に置かれているのだ、しかもそれは、人間という生き物に元々天から偶然的に与えられた運不運であり、業苦や悪因縁の宿命なのだという、陰惨な近代リアリズム文学的な人生観・世界観が、この社会派刑事ドラマの背後には、常に暗くよどんだように流れている。

 それだけに、杉下右京の振りかざす観念的な理想主義の息苦しさ、押しつけがましさが、(犯人を情け容赦なく追いつめてゆく彼の冷徹な有能さと相まって、)「どこにも出口が無い」というわれわれの〈閉塞感〉を、より一層強く刺激するのである。

 それは一時(いっとき)の間、私たち視聴者を〈マゾヒズム〉の快感によって縛り付ける。

 放送を観終って、そのマゾヒズムの呪縛が解けた時、私たちは、なんという空しさ、うつろさを感じさせられることだろう。

 性懲りもなく何年にもわたって、毎週のように、私はこのテレビドラマを観続けてきた。中には、ごく稀に、後味の悪くない、出来ばえの良い物語の回もあったけれども、総じて後から振り返ってみた時、これほどにうつろで、やり切れない想いにさせられるドラマは他に無い、と言ってもよいくらいだ。*

 このうつろさ、やり切れなさは、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に感じた想いと似ている。(この稿続く)

 

 *この論稿を書いた後、つい先頃(二〇一八年・春)、大田愛の脚本による『相棒―劇場版検戞紛極椣豐篤帖二〇一七年二月公開)のテレビ初放映を観た。私見では、テレビ版・劇場版全て含めた上でも、『相棒』史上、稀有といってもいいほどの、秀逸な出来ばえであった。哀切さが胸に沁みて、しかも後味が悪くなかった。全然期待していなかっただけに、正直驚いた。

 勘どころは、〈国家〉という制度的な虚構と、個々の無名の生活人が置かれた〈生身〉の生の現場の、めくるめくような〈落差〉の痛覚を、きちんと描き切ることで、私たちにとっての真の〈共同性〉のかたちとはいかなるものであるべきか、という問いかけを、観客に真摯に突きつけてみせている点だ。

 風土・民族・伝統といった概念と不可分の「日本人」としてのアイデンティティー、すなわち無名の生活人の「生ける絆」と(あるべき幻としての)〈故郷〉への回帰願望の延長上に紡ぎ出された〈共同性〉のイメージである「日本」という「クニ」のかたちと、「最大多数の最大幸福」の建て前のもとに、法治主義と市民主義的モラルによって強力にガードされた(民主主義的な)「近代国民国家」というメカニックな制度的共同体とを、きちんと峻別し、後者が強いてくる冷酷な世界風景を、能う限り、しりぞけようとしているという点だ。

 特に注目すべきは、この『劇場版検戮梁臈聴Δ竜嗚椶任蓮▲謄譽喩任箍甬遒侶狆貳任之り返し強調されてきた、杉下右京の、法治主義を居丈高(いたけだか)に振りかざす「啓蒙的説教」が全くみられず、ただひたすら、犯人の哀切な心事、心の秘密に迫り、寄り添おうとする優しさがにじみ出ていることである。

 物語の終末部で、私たちは、法・制度・国家といった冷酷な観念の化け物がすーっと風景から消え去り、ひとりの人物の生涯の軌跡、言葉にはならぬ、その無量の哀歓を、ただ静かに受け止めている己れ自身を感受する。

 負傷して車イスに乗った右京が、公園の深々とした樹木の中から、しばし無心に空を見上げているラストシーンも、すばらしい。

 私にとっては、悲しい、嫌な想い出ばかりの『相棒』シリーズだが、この『劇場版検戮蓮⇔匹出逢いの記憶を残してくれた、得がたい作品の一つとなった。

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第14回) 川喜田晶子

  • 2018.07.16 Monday
  • 15:23

 

想い出す世界・忘れる世界

 

 この世界の可視的な成り立ちを根底からひっくり返すことも、定型短詩は得意である。短さのゆえに、読み手は仮構された世界の奥ゆきをいかようにもはるばると想い描くことができる。異世界のほんの欠片を提示されるだけで、私たちは深い呼吸を取り戻すことができる。「もしも」が「ほんとうは」へと壮大に膨らむ。

 

月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ  池田澄子

 

 月の夜の柱の望みを肉感的に感じ取り、応答する作者の口ぶりが微笑ましく躍動的だ。

 そんなに咲きたいのなら、遠慮なくどうぞ。

 家を支える「柱」として加工され、身動きすることを許されなくなってしまった樹木が、「柱」としてなお、呼吸し、世界を感受・感応し、望みを抱きもする。削られた望みが、月の夜には芯からうずくのかもしれない。どこか、社会という建築物の一部として加工され、固定され、本来の息づかいを、芯からうずく望みを、忘れてしまった現代人の姿にも重なる。

 一度咲いた「柱」は、その一夜だけではなく、それからも「咲く」ことのできる命を生き続けるだろう。そんな「柱」とのこれからのひそやかな共同性まで受容しながら、作者は「どうぞ」と勧めているように見える。

 

綿虫に一切をおまかせします  川崎展宏

 

 一切をおまかせするのが神仏ではなく、いかにも非力そうな「綿虫」であることのかわいらしさと切なさ。作者はどれほどの難儀をどのように行き詰まったのだろう。理知の限りを尽くして、神仏にも祈り尽くして、もはや打つ手が無いと感じたときに、冬の日をはかなげにちらほらと舞い飛ぶ「綿虫」に全てをゆだねる愚かしさは、もしや聡明さなのではないだろうか?

 もしこの世の深い摂理を取り仕切っているのが実は「綿虫」だとしたら?

 望みとそれが叶うこととの筋道を、強固で冷厳な権力としての非合理に握られ、操られるくらいなら、いっそ、そのような権力からはるかに遠そうな「綿虫」に祈りたい。ゆだねたい。彼らの、我執も強制力も無さそうな存在感に、この世の摂理も己れの一切も、まかせたときに見える風景に賭けながら祈りたい。

 強固な意味を強いられる冷徹さから逃がれ、ぎりぎりのところでニヒリズムからも逃がれ、合わせる掌の内に捉えようとする〈意味〉の軽やかさと温かさ。

 

満開の森の陰部の鰓(えら)呼吸  八木三日女

 

 むせかえるような満開の桜の森。

 群れとしての桜花の息づかいを濃密に浴びた作者は、水に漬かってうごめく生命体として森の総体を感受してしまう。森の存在ゆえに、世界が〈水〉の相貌を帯びる。その森を一つのコスモス(宇宙)たらしめている「陰部」を探り当てるのは、作者の「目」ではなく、魂の拍動ないし呼吸であろう。めくるめくような〈闇〉のカオスとしての「陰部」において、森とともに作者もまた「鰓呼吸」を始める。原始の息づかいとカオスの記憶に浸潤される時間。

 

霧なめて白猫いよよ白くなる  能村登四朗

 

 霧をなめることで、白猫がいよいよ白くなる、という因果律によって、世界が揺さぶられる一句。

 白猫がいよいよ白くなることで、霧の中でその輪郭が消えてしまいそうな映像が喚起される。その映像は不快ではない。不安をそそるが魅力的である。

 では、私たちも霧をなめることで、存在の輪郭を消すことができようか?

 その問いは、自分の存在を霧に同化して消し去りたいという不穏な渇望を、己れの内にまさぐる契機となる。

 存在とは、そもそも霧から生まれて霧に還るものではないのか?

 不穏な問いが連鎖反応のように湧き出でて、輪郭を保持している己れの肉体の、確かさと不確かさをもてあますようになる。世界の輪郭もまた、不確かなものなのだと気づいた肉体を抱えて、あたりを見まわすようになる。

 

炎えるかもしれぬ薊(あざみ)を束ねおり  永井江美子

 

 薊という花は、異形性と押し殺したような情熱を感じさせる。

「炎えるかもしれぬ薊」は、だから作者の内にあるそのような情念の喩であろう。己れの内に、いつ炎えるかわかったものではない何かを抱えている。「束ねる」という行為は、それをなだめるようでもあり、なだめることで炎えるエネルギーをそそっているのかもしれず。己れの手の為す「束ねる」のゆくえを待ち構える目線が艶やかだ。

 

尾をいつか忘れていたり秋の暮  酒井弘司

 

 作者は狐である。人間に変化(へんげ)して、人間の女と出逢って恋をして、今では女房と子どもとともに穏やかな日常を送っている。誰にも、女房にさえも、狐であったことなど気取られずに。

 秋の暮にふと、夕空を眺めていた刹那、「尾をいつか忘れてしまっていた」ことに気づく。自分がもとは狐であったことや、尾を持っていたことを思い出すのではなく、「忘れちまってたな」ということに気づくのである。

 もとの狐の性(さが)が顔を出した、思い出した、という瞬間が詠まれているのではない。尾があったことなどいつか忘れてずいぶんと長く暮らしていたものだ、忘れられるはずもないものをよくも忘れていたことよ。その気づきに感動の焦点がある。

 狐と尾は、作者の内なる異形性の喩であろう。

 この世の仕組みからはみ出してしまいそうな性(さが)を抱えてひりひりと生きていたのに、よくもまあ、生活というやつは、日常というやつは、自分にそれを忘れさせて、生きさせるものよ。

 作者にとって、句作とは、時々己れの「尾」のありようを確かめる営為であるのかもしれない。

 そして、私たちの〈生〉が、とある狐の転生後の時間だとしたら?

「尾」の想い出し方と忘れ方のはざまに、誰の人生も滲むようにおもわれる。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

 

 

 

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第13回) 川喜田晶子

  • 2018.06.30 Saturday
  • 15:28

 

〈けもの〉の匂い

 

〈けもの〉に喩える営みによって解放されるものがある。

 私たち、あるいは私たちの内なるなにものかを、解き放つための十七音、または三十一音の潔さ。

 

 大いなる鹿のかたちの時間かな  正木ゆう子

 

 梟(ふくろう)や森の寝息の漏るるごと  無田真理子

 

 早春の馬はしり過ぎ火の匂い  穴井太

 

 狼(おおかみ)のごとく消えにし昔かな  赤尾兜子

 

 こめかみは鱗(うろこ)のなごり稲光  秋月玄

 

 秋といふ生(いき)ものの牙夕風の中より見えて寂しかりけり  与謝野晶子

 

 夕月を手に取るやうにやすやすと我が鱗(うろくづ)に触るる君かな  桐島絢子(川喜田晶子)

 

「時間」が「鹿のかたち」に喩えられる新鮮さ。

「大いなる」によっておごそかな聖性が、「鹿」であることによって非日常的でありながら遠ざかり切らない、穏やかさと温かさをはらんで息づく生活の「時間」のとしてのたたずまいが、正木ゆう子の句には保たれている。融合の相貌で顕ち現れる、非日常と日常。手に触れられる距離と生身の体温。それでいて侵すべからざる聖性に充ちた、時間。生活の内にありながら、稀有な。稀有でありながら、この時間が無ければ私たちの存在を支える不可知の気配との接点もまた失われてしまうであろう、必須の時間。

 

 梟の啼き声を、森の寝息が漏れるようだと喩える、無田真理子の句。

 聴覚にだけ訴えかける句ではなく、〈存在〉の不可知の領域の気配を全身で触知する瞬間を生々しく想起させる。梟とは、実は森という巨大で得体の知れないけものの寝息が形になった姿ではないのか。あるいはまた、さらに測り知れない〈闇〉という存在の心の臓や魂がそこに横たわって息づいている姿を、私たちは「森」と呼んでいるだけではないのか。

〈闇〉の在り方への想像力を、ほの暗くそそのかす比喩の力。

 

「早春の馬」がはしり過ぎることで感じとる〈火〉の匂いとは何か。

 真夏の馬ではなく、「早春」であることで、穴井太の句からは、凄烈で若々しい切り裂くような危うさが放たれる。危険も伴う生命的な燃焼への予感と期待。まだ解放されていない、まだ燃やしていない、己れの内なる〈未知〉が、燃やすより前に〈火〉の匂いを発する。そんな領域が己れの内にまだあるならば、いかほどの齢であろうと、人は「早春」を生きているのかもしれない。

 

 日本から「狼」がいなくなったのは明治三十八年だという。

 前近代的な風土性と、それに育まれた人々の精神性が、〈近代〉によって駆逐されたことを嗅ぎ取ったかのように、姿を消した「狼」。

 赤尾兜子の句で消えたものは「昔」である。単に「昔」を懐かしんでいるというより、自分たちにふさわしい居場所ではないことを俊敏に察知して消えた「狼」のように、「昔」もまた、今の世に永らえるべきではないことを悟って消えていってしまったのかもしれない、という把握が滲み、苦さが伝わる句。

「時代」もまた、〈けもの〉のような嗅覚を持ち合わせているのだ。

 

「こめかみ」は、実は「鱗」のなごりなのだという、秋月玄。それも龍の鱗である。

 眼前の稲光に龍の荒ぶる姿を見た瞬間、作者の「こめかみ」もその龍に感応してうずいたのであろうか。かつて、己れが〈龍〉であった証をまさぐる恍惚。己(おの)が肉体のどこかに、聖なるものの痕跡を見出すことで、現実の不条理を踏みにじり、地上的な生の枠組みを揺さぶる。十七音の挑戦。

 

「秋といふ生もの」の「牙」を詠む与謝野晶子。

 無常観に己れを差し出すようになじませていた前近代的な情緒から逸脱し、近代的な自我の「寂しさ」を提示する。「秋」という生きものが夕風の中を晶子の魂へ忍び寄る。同じ孤独を、それも〈けもの〉のような孤独を、嗅ぎ分けるのかもしれない。その「牙」に噛まれて確かめられる「寂しさ」は、他の誰の「寂しさ」でもない、己れひとりの誇り高い、飼い慣らされることのない「寂しさ」である。

 

 自作から一首。相聞歌の体裁をとって解き放ちたかったもののかたち。

「君」は、たやすく「夕月」を手に取ることのできる存在である。人の世の理屈から存分に自在にはみ出した力の駆使。〈水〉の象徴としての「夕月」を、身体の延長のように扱うそのたやすさで、「我が鱗(うろくづ)」にも苦も無く触れることができる。そのたやすさは、逆に言えば、「我が鱗」の触れ難さ、扱い難さでもある。

 永く永く、たったひとりで守りぬいてきた「鱗」。誰にも気づかれず触れられず認められず、自らそぎ落とすことなく、守りぬいてきた「鱗」の〈意味〉が、魂の宙宇に潜んでいる。

〈意味〉へのもがきを秘めた「鱗」を、守りぬき解き放つ苦しみと歓びは、短歌という器に載ってどこまで届くだろうか。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第10回) 川喜田八潮

  • 2018.06.28 Thursday
  • 21:38

 

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 ちなみに、森鷗外の原作では、安寿と厨子王の姉弟は、苛酷な労働を強いられるが、同僚の婢(はしため)「小萩」の心づかいや、邪険な山椒大夫の三男「三郎」とは違って、自分たちに憐れみをかけてくれる、次男の「二郎」のおかげもあって、かろうじて息をつきながら、黙々とくぐもるように日常をくぐり抜けてゆく。

 

 隣で汲んでいる女子(おなご)が、手早く杓を拾って戻した。そしてこう云った。「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手(めて)の杓でこう汲んで、左手(ゆんで)の桶でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。

「難有(ありがと)うございます。汲みようが、あなたのお蔭(かげ)で、わかったようでございます。自分で少し汲んで見ましょう」安寿は汐を汲み覚えた。

 隣で汲んでいる女子(おなご)に、無邪気な安寿が気に入った。二人は午餉(ひるげ)を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹(きょうだい)の誓をした。これは伊勢(いせ)の小萩(こはぎ)と云って、二見(ふたみ)が浦(うら)から買われて来た女子である。

 最初の日はこんな工合に、姉が言い附けられた三荷の潮も、弟が言い附けられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進(かんじん)を受けて、日の暮までに首尾好く調った。(森鷗外「山椒大夫」新潮文庫版)

 

 姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日(ひとひひとひ)と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。

 とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬ時が来た。小屋を明ければ、奴(やっこ)は奴、婢(はしため)は婢の組に入(い)るのである。

 二人は死んでも別れぬと云った。奴頭が大夫に訴えた。

 大夫は云った。「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引き摩(ず)って往け。婢は婢の組へ引き摩って往け」

 奴頭が承って起(た)とうとした時、二郎が傍(かたわら)から呼び止めた。そして父に言った。「仰ゃる通に童共(わらべども)を引き分けさせても宜(よろし)ゅうございますが、童共は死んでも別れぬと申すそうでございます。愚なものゆえ、死ぬるかもしれません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗(へら)すのは損でございます。わたくしが好いように計らって遣りましょう」

「それもそうか。損になる事はわしも嫌(きらい)じゃ。どうにでも勝手にして置け」大夫はこう云って脇(わき)へ向いた。

 二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。

 或(ある)日の暮に二人の子供は、いつものように父母(ふぼ)の事を言っていた。それを二郎が通り掛かって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐(しいた)げたり、諍(いさかい)をしたり、盗(ぬすみ)をしたりするのを取り締まっているのである。

 二郎は小屋に這入って二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれより又遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つが好い」こう云って出て行った。(「山椒大夫」)

 

 原作の〈文体〉は、淡々とした、無駄のない、的確なリアリズムの目線によって紡ぎ出されており、人が、〈日常〉のささやかな慰藉(いしゃ)の物語によって不条理をくぐり抜けてゆく時の、自然な身構えというものを、ごく簡潔に、象徴的に描き上げてみせている。

『山椒大夫』は鷗外の晩年期の作で、そのさりげない、渋い抑制された文体は、さすがに、日本近代文学確立の一翼を担った作家だけのことはあると感心させられるけれども、残念ながら、アニメの『安寿と厨子王丸』の脚本と演出には、原作のような生活思想的な奥ゆきは感じられない。

 鷗外の原作でも、アニメでも、安寿と厨子王が、邪悪な山椒大夫の息子(原作では三男の「三郎」、アニメでは長男の「次郎」)によって、逃亡を企てた罰に額(ひたい)に「烙印(やきいん)」を押されるという〈悪夢〉を「同時に視る」場面があるが、アニメの方では、ふたりが焼きゴテを当てられる寸前にうなされて目覚めるだけであるのに対して、原作では、悲鳴をあげる中、額に焼け火筯(ひばし)を十文字に当てられた姉弟が、激痛に耐えながら小屋に戻ったあと、安寿の守り袋に入れておいた地蔵菩薩像の霊験によって傷が癒されるという、重要なシーンが描かれている。

 

 二人の子供は創(きず)の痛(いたみ)と心の恐(おそれ)とに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家(こや)に帰る。臥所(ふしど)の上に倒れた二人は、暫く死骸(しがい)のように動かずにいたが、忽(たちま)ち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」と叫んだ。安寿はすぐに起き直って、肌の守袋(まもりぶくろ)を取り出した。わななく手に紐(ひも)を解いて、袋から出した仏像を枕元に据えた。二人は右左にぬかずいた。その時歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛が、掻(か)き消すように失せた。掌(てのひら)で額を撫(な)でて見れば、創は痕(あと)もなくなった。はっと思って、二人は目を醒ました。

 二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じ時に見たのである。安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕元に据えた。二人はそれを伏し拝んで、微かな燈火の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。白毫(びゃくごう)の右左に、鏨(たがね)で彫ったような十文字の疵(きず)があざやかに見えた。(「山椒大夫」)

 

 この霊験を境に、安寿は変貌する。

 

 二人の子供が話を三郎に立聞(たちぎき)せられて、その晩恐ろしい夢を見た時から、安寿の様子がひどく変って来た。顔には引き締まったような表情があって、眉(まゆ)の根には皺(しわ)が寄り、目は遥(はるか)に遠い処を見詰めている。そして物を言わない。日の暮に浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんな時にも詞(ことば)少(すくな)にしている。厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」と云うと、「どうもしないの、大丈夫よ」と云って、わざとらしく笑う。

 安寿の前と変ったのは只これだけで、言う事が間違ってもおらず、為(す)る事も平生(へいぜい)の通である。しかし厨子王は互に慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。二人の子供の境界(きょうがい)は、前より一層寂しくなったのである。(「山椒大夫」)

 

 安寿の秘められた心の変化が、表情とふるまい方への簡潔な叙述を通して、的確に描出されている。

 夢とそれに続く霊験を機に、安寿の中では、弟の厨子王を脱出させるという考えが、ただの絵空事ではなく、確固たる決意として根を下ろしてゆく。

 何でも打ち明けていた弟に対しても心を閉ざし、ひそかに〈自決〉の覚悟を定める。

 十五歳になった彼女は、ひとりの孤独な〈大人〉へと脱皮したのである。

 守りの地蔵菩薩像を厨子王に譲り、神仏の導きと加護に弟の未知の運命をゆだね、父母との再会の志を託した安寿は、もはやこの世に一切の未練はなく、厨子王を脱走させた直後に「入水」してしまう。

 そこには、なぜか、陰惨な匂いが無い。

 しかし、アニメの方は全く違う。原作に比べて、はるかに湿っぽく、めそめそした空気感が漂っているのである。

 同じような不条理を扱いながら、どうして、このような差異が生じたのであろうか。

 

     19

 

 もちろん、小説という、言語による表現手段と、映像との違いということもある。

 言葉による表現には、たとえそれがどんなに真に迫った、リアルな描写であろうとも、必ず、大なり小なり硬質な〈抽象性〉というものが備わっている。

 なまなましい、陰惨な写実的描写に溺れる作家はごまんといるが、映像や画像のリアリズムには及ばないのだ。(もっとも、一つひとつの言葉の表現に、そのつど、自分なりのなまなましい具象的なイメージを喚起させられてしまうという「ヴィジュアル派」の人もおり、そういう人にとっては、言葉と映像・画像の間の〈ギャップ〉は少ないのかもしれないのだが。)

『山椒大夫』も、実写映像にしてしまうと、たとえ原作に則していても、全く空気感の違うものになってしまう。溝口健二監督の作品のように。

 もちろん、アニメの『安寿と厨子王丸』の方は、溝口作品のような、泥臭い、酷薄でどぎつい写実主義的演出による映像とは全く違う。

 少年少女向きの作品でもあるから、悪役の表情は陰険でどす黒いが、主人公の姉弟は素朴に可愛らしく描かれている。登場人物のデッサンは、今風の細密なアニメ画像とは違って大らかなものだが、陰翳と奥ゆきのある繊細な風景描写と身体表現の丁寧な演出に包摂されることで、見事にリアルな感覚を誘発することに成功しているのである。(この辺は、宮崎アニメの作りにも似ている。)

 ファンタジックな場面もあるが、全体としては、ひき裂かれた親子・姉弟の哀切な不条理ドラマとしての、手堅いリアリズムの感触を伝えるものとなっており、「映像」表現としての強味はいかんなく発揮されているといっていい。

 一方、「書き言葉」の表現は、刺激の強さという点ではたしかに映像には及ばないけれども、その代わりに、その場その場で読者を立ち止まらせ、時に釘付けにする力をもっている。映像や音楽・歌・会話の場合には、瞬時瞬時に繰り出される新たな刺激の流れの中で、過ぎ去ったシーンや音声は、たちどころに忘れ去られ、あるいは、残像・残響として無意識の内に沈み込んでゆくが、書き言葉の作品では、そうはいかない。

 映像のような「どぎつさ」は免れる代わりに、読者を言葉づかいや描写の前で立ち止まらせ、意識を絡め取ってしまう。絵画や写真のようにである。

 その描写が、陰惨酷薄なものであれば、読み手の柔らかな感性・魂を、とり返しのつかないほどに傷つけてしまうことも起こりうる。

 生老病死の救いようのない地獄を冷徹に描き切ったリアリズム小説やルポルタージュ、私小説の恐ろしさ、害毒というものも、そこにある。

 鷗外は、さすがに、写実的な陰惨さに溺れるような愚は犯していない。

 原作の文体は、幼い姉弟とその母親の不条理な運命を、ひたすら客観的に、能う限り簡潔に、淡々と叙述してゆくだけで、いささかも安っぽい感傷は無く、かといって、乾き切った、潤いの無いものでもない。主人公を中心とする登場人物たちへの、作者の内在的共感の距離感が、ほど良いのである。

 それが、散文的な書き言葉としての硬質な〈抽象度〉の水準と相まって、美事に落着きのある、ほど良い抒情性をかもし出している。

 虚構の時代劇という形式をとることで、現代小説にありがちな、生臭い息苦しさを免れ、私小説的な濁り、思い入れ、偏執といったものも拭い去られている。

〈物語〉を、人生の実相の象徴として、ごく自然に、無意識的に感得させることができているのである。

 無理もないことではあるが、その原作のもつ象徴的な思想性、姉弟の生きざまを通して感受される生活思想的な奥ゆき、生存感覚というものは、アニメの『安寿と厨子王丸』の方には、全く描かれていない。

 不条理をくぐり抜けてゆく時の、生活者としてのくぐもるような目線、苛酷な生の内に立ち顕われる一瞬の癒し、恐怖と安堵、痛覚と手応え、放心と充足、休息と眠り、……といったような、一日一日の〈瞬間〉の繰り返しと点綴(てんてつ)によって織りなされる哀歓の起伏、日常的な〈物語性〉のもつ思想性は、当然のことながら、当時の(黎明期の段階にある)アニメ表現の手に負えるモチーフではない。(ちなみに、この地味で困難なモチーフに対しては、すでに、一九九二年刊行の拙著『日常性のゆくえ』の中で詳細に論じたように、宮崎アニメ『となりのトトロ』が、牧歌的な空間ではあるが、美事に象徴的な取り組み方をしてみせている。)

 アニメ『安寿と厨子王丸』にみられるまなざしは、ただ、不条理を運命として甘受し、耐え忍び、やりすごしてゆくだけの、風になびく葦のような、優しいけれども、あまりにも悲哀感の強い、無常感に彩られたペシミスティックな生存感覚なのである。

 

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 この和魂(にぎみたま)のみに生きることの意味と根拠を一元的に回収せんとする植物的な生存感覚・世界観が、奇妙なことに、よりにもよって「一九六〇年代前半」という、高度経済成長が加速してゆく日本社会において蔓延していくのである。

 この現象は、(もちろん例外はあるが)当時の小説・演劇・映画・テレビドラマ・少年少女マンガ・歌謡などのさまざまな芸術・エンターテインメントに広くみとめられる傾向といってよいだろう。

 私は、六〇年代前半に小学生時代をすごしたが、当時の少女マンガの主要モチーフが、不条理な運命に翻弄される主人公の哀切極まるメロドラマにあった事を、よく覚えている。大人向けのテレビドラマも、このような感覚が強かったし、演劇でも、例えば、中村嘉葎雄と森光子が主演した、水上勉原作の『越前竹人形』の舞台などは、子供なりにも紅涙を絞らされて、忘れがたい。

 私にとっては沁み入るような、懐かしい作品が、この時代には多いのであるが、このような、和魂に偏した、陰鬱で湿っぽい植物的な生存感覚(もちろん、大衆的には、演歌的な抒情性[例えば、橋幸夫のダークで不条理感の強いヒット曲である「江梨子」のような]にも通じる心性であるといってよいが)は、「一九六四年」頃までは濃厚に息づいており、この年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通を境として、急速に消えてゆくエートスなのである。

 ただし正確に言えば、「一九六七年」までは、この感性は、まだ残影をとどめていたといってよい。

 日本人のエートスが、大衆的な規模で、植物的ないし草食的なものから肉食動物的なものに変容したのは、正確には、「一九六八年」という年である。この年から〈現在〉までは、ある意味で「地続き」なのである。

 しかし、その〈変容〉は、すでに、「六〇年代前半〜半ば」という高度成長の加速化の時期に進行していたのであり、アニメ『西遊記』にみなぎる資本主義根性丸出しの演出姿勢などは、ほんのささやかな一例にすぎないが、その〈予兆〉のシンボルであったといっていい。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第12回) 川喜田晶子

  • 2018.05.28 Monday
  • 21:08

 

隠し持つ欲望

 

 無意識を表現してこその文学。

 俳句や短歌といった定型短詩において、無意識に隠されているものはどれほどの振幅で表現され得るだろうか。

 

致死量の遊びせんとや犬ふぐり  三木冬子

 

肉体やとりとめもなく青葉して  鳴戸奈菜

 

能面のくだけて月の港かな  黒田杏子

 

馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ  塚本邦雄

 

「致死量の遊びせんとや」は、もちろん『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」を踏まえているだろう。

 後白河院が夢中になったという今様を集めた『梁塵秘抄』には、ニヒリズムをバネとして現世を享楽的に肯定せんとする、時代の転換期の過剰な律動を感じるのだが、この句では、「犬ふぐり」の幼児的な愛くるしい小花が無数に咲き乱れる姿と取り合わせられて、「致死量」の過剰さもどこか日常的な視野に刈り込まれている。

 だが、その可憐な姿の「数え切れなさ」という非日常性への渇望は、他界へのなだらかな跳躍をイメージさせ、このままその渇望が増殖するなら「致死量」を超えるのではないかという不安・誘惑を喚起しているのだ。そこに『梁塵秘抄』のニヒリズムが適確に招き寄せられている。

 

 鳴戸奈菜の句における感動の中心は「肉体」。

「青葉する」のが樹木でもあり自身の肉体でもあるように感じた時間の、突出した手触りをそのまま読み手に差し出している。

「とりとめもない」のは、肉体の主の意図など蹴散らして青葉しているからであり、青葉することでいったい何をしようとしているのかも定かではないからだ。その、因果律とも目的性とも無縁の、無邪気なエロスを撒き散らす森林のような肉体を、己れが隠し持っていたことに感動しているのだ。その感動の青々とした肉感性に、読み手もまた、とりとめもなく感覚がざわめき始める。

 

「能面」が砕ければ、演者の素顔が顕われる。

 フォルムの固定された〈面〉であるがゆえに、多彩な情念を抽象度の高い形でシンボリックに表現し得るが、演者の固有性を隠匿する〈面〉でもある。

「月の港」と取り合わせられることで、砕け散った能面はきらめくさざ波と化して、情念の舞台としての「港」に浮かぶような映像を喚起する。

 砕けてこそ、女。

 破砕されたペルソナ。

 寄せては返す固有の情念のさざ波。

 大海の無辺に連続する「港」という舞台の、不安的な濃密さと底なしの受容力。

 

 塚本邦雄は周知のように、寺山修司・岡井隆らと並んで前衛短歌の旗手として名を馳せた歌人である。絢爛たる芸術至上主義的作風において散文的・地上的日常を拒み続けた塚本の代表歌。

 三木冬子の句が、ニヒリズムを柔和な日常的視野に刈り込んだのとは対照的に、日常の営みに潜む非日常性への渇望が、当然のように過激な境地へと一線を踏み越えてゆく姿を描き、戦後的な〈現実〉の枠組みを異化しようとした。

 下の句に露呈する単純な芸術至上主義的倒錯性の背骨を、厳しく鍛え上げているかのような上の句には、酸鼻で散文的な〈現実〉の裏返しとしての〈幻想〉、といった枠組みを、内側から突き詰めることで超えようとするかのような、塚本の不敵な気概が滲む。

 その馬に騎乗し、人が己れの命を預けるのであれば、馬を洗うという営みは、その魂が冱(さ)えわたるまで為されなければ意味がない。半端な洗い方では、人と馬の一体感は生まれない。人と馬が一体となってもう一つの存在としての魂を獲得することで、馬の疾駆には〈現実〉を超える澄み切った聖性が伴う。その聖性を引き出すように「洗う」という営みは為されねばならないはずだ。それが為されない洗い方では、人は騎乗によって命を落としかねない。

 では、そのような馬の洗い方に匹敵するように人を恋うならば。

 己れと相手が一体と化して、もう一つの新たな存在として生きられるように「恋う」という覚悟、それは、我執によって相手を殺してしまうといったみすぼらしい現代人の病理などではなく、互いをこの〈現実〉から解き放つ行為であり、〈現実〉を殺し、別の次元を獲得する覚悟であるかもしれない。殺めるのは、三次元的現実に拘束された相手の魂を、である。そのように恋うのでなければ、この〈現実〉のみすぼらしいが酷薄な強制力によって、二人とも魂を圧殺されてしまうだろう。

〈現実〉を認めない、筋金入りのニヒリズムに支えられてこその芸術至上主義であり、矮小だが強固な〈現実〉を不断に殺して、己れを別の次元で生かさんがための、危うい命がけの綱渡りを、塚本は作歌によって繰り広げていたのだとも考えられる。

 人は誰でも己れを無化して誰かと一体化してしまいたいという願望を隠し持っている、という倒錯的命題を無責任に垂れ流すことと、〈現実〉を殺さなければ己れの生きる場所が無いという〈生き難さ〉によって命がけで〈表現〉することとの間には、大きな隔たりがある。

 命がけの〈表現〉は、「この場所を超えてみろ」と体を張って訴えかけてくるのだ。少なくともこの一首には、塚本の並々ならぬその覚悟が端麗に吐露されている。(この稿続く)

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第9回) 川喜田八潮

  • 2018.04.30 Monday
  • 12:11

 

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 ここで、しばらく東映初期アニメから離れて、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本社会の底流に息づいていた生存感覚のかたちに目を向けてみたい。

 一九五〇年代は、日本映画の黄金時代であった。

 北海道を舞台としながら、ドストエフスキーの原作のロシア的な〈闇〉の空気感を美事に映像化してみせた、黒沢明監督の『白痴』(一九五一年公開)や、『七人の侍』(一九五四年)・『隠し砦の三悪人』(一九五八年)といった、野性味ある異色の時代劇、幽暗の気配の濃い、妖艶で情熱的な溝口健二監督の『雨月物語』(一九五三年)や『近松物語』(一九五四年)、何の変哲もない日常の流れの中に潜む、親族間の〈亀裂〉を繊細に凝視した小津安二郎監督の『東京物語』(一九五三年)……など、戦後の映像史の頂点的な位置を示す「モノクローム」の力作が勢揃いしているのである。

 それらは、魂の内に息づく光と闇の〈均衡〉のとれた、あるいはまた、日本人の中に獰猛な野性味の保たれていた、古き良き時代の産物であった。

 この時代の映像は、人間性を、単なる個人的な欲望の化身として類型化したり、孤立した人格の病理的な生態や神経症的な心理劇として描くのではなく、〈風景〉に包まれた、陰翳ある、表情ゆたかな生き物たちの織りなす、生の起伏のドラマとして、象徴的に描き上げている。

 この感覚・手法は、一九六〇年から六一年にかけて公開された市川雷蔵主演の時代劇映画『大菩薩峠』(中里介山原作、三隅研次・森一生監督)三部作までは、たしかに生き生きとした命脈を保っていたようにおもえる。

『大菩薩峠』では、息を呑むほどに美しい、冒頭の「富士」の絶景と、その富士を望む峠道にたたずむ老巡礼と孫娘の鮮やかな映像が美事に象徴しているように、〈風景〉が圧倒的な主役となっているのである。

 たとえ、その直後に、老巡礼が、何の意味もなく、無残に斬り殺されても、また、彼を斬り捨てた「机竜之助」が、その後、奇(く)しき悪因縁に翻弄され、地獄の業苦に責め苛まれようとも、私たちは、主人公の竜之助も含めて、この物語に登場する全ての人物たちの生の浮沈・不条理を、孤立した断片的な〈個性〉のドラマとしてではなく、あくまでも、大いなる〈自然〉=コスモスという〈風景〉によってつかさどられた運命の織りなす、河の流れのごとき、霊妙なる魂の光芒(こうぼう)の軌跡として感受することができるのである。

 しかし、この『大菩薩峠』という作品を真に貫いている底流は、お題目のように掲げられているといってもよい、仏教的な因果応報・業苦の摂理や諦観でもなければ、無常観によるはかなさの美学でもない。

 そんな観念的なメッセージや涙もろい、じめついた虚無感などは、表層的なものにすぎない。

 かといって、悪因縁が織りなす不条理の泥沼の中でのたうち回る、救いようのない人間たちの生態に、倒錯的に酔いしれるという、マゾヒスティックな変態的嗜好でもない。

 この作品を衝(つ)き動かしているものは、もっと烈しい、狂おしく煮えたぎった、デモーニッシュな魂の〈渇き〉であり、それと背中合わせになった、言いようのない〈空しさ〉〈うつろさ〉の感覚である。

 魂の深部に生命的な〈欠落〉の感覚を抱え込み、生の実感、手応えを求めて得られない不幸な主人公が、〈表現〉を求めて、過剰に溢れ出ようとする魔性の狂気に衝き動かされながら、さまよい続ける姿が描かれている。

 それは、虚無的なものではあるが、決して冷笑的なものではなく、むしろ、すさんではいても、求道的とすら言える、烈しい〈情熱〉のかたちなのである。

 しかも、この主人公の狂気・情熱は、単なる個人的な、閉ざされた病理として描かれるのではなく、個人に内在しながら、個人をはるかに超越した、大いなるコスモスとしての〈闇〉のダイナミズムによってつかさどられた、哀切な運命のドラマとして描かれている。

 主人公を取り巻く悪因縁と因果応報・業苦の物語も、主人公と直接・間接に絡み合う、多彩な登場人物たちの置かれた関係の〈場〉が連鎖的に紡ぎ出す、数々の哀歓の物語も、共に、コスミックな〈風景〉の一環として包摂され、活かされている。

 映画『大菩薩峠』は、一見、抹香臭い、仏教色の濃厚な、ドロドロとした因縁話や陰々滅々たる無常感に覆われた作品のようにみえるが、実は、おびただしい登場人物たちによる〈情熱〉のドラマであり、またその情熱に内在しながら超越する、生命的な奔流の物語なのだ。

 そこでは、地獄の業火のような烈しい愛憎の念が渦を巻いているかと思えば、罪びとの魂の救済と浄化を希う、澄んだ祈りと慈愛の心が描かれる。

 暗く険しい魔界の霊風に包まれるかと思えば、冴々と天心に輝く三日月を仰いで心安らぐ、浄福のひと時が紡ぎ出される。

 残忍な主人公が、時に驚くほど心穏やかで、優しい人物に変貌したりもする。

 つらい境遇に置かれたさまざまな男女たちが登場するが、運命に抗い、もがき抜く、猛々しい荒魂(あらみたま)の雄叫びもあれば、すべてをあるがままに受け容れ、忍耐づよくやりすごしながら、心静かに生きようとする、優しい和魂(にぎみたま)の鼓動もある。

 このような彩りゆたかで振幅の大きい情念のドラマの内に息づいていた生存感覚と美意識こそ、戦前昭和初期から終戦後の一九五〇年代までの日本社会に残存していた、前近代的・土俗的な、自然=風景に対する相互浸透的な〈闇〉の感受性にほかならなかった。

 私の考えでは、この〈闇〉の感受性は、六〇年代に入っても生き残っており、一九六四年までは、かろうじてその痕跡をとどめていたが、六五年以降は急速に消滅へと向かい、六七年を最後に、日本社会からはほぼ完全に一掃されてしまうのである。(私はすでに、「闇の喪失――ある戦後世代の追憶」という評論でこの問題に論及しているので、詳しくは、そちらをお読みいただければありがたい。)

『大菩薩峠』三部作が制作・公開された六〇年代初頭は、そのような古き良き時代の感性が、最後の輝きを放つと共に、急速に衰弱と消滅の時を迎えようとする、まさにその〈転回点〉の時期に当たっていたのである。

 

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 ここで再び、アニメ作品に立ち返ることにしよう。

 東映初期カラーアニメーション映画の不滅の金字塔といってよい『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』に比べると、六〇年代初めに公開された『西遊記』(一九六〇年)と『安寿と厨子王丸』(一九六一年)は、残念ながら、見劣りのする失敗作であると言わざるを得ない。

 もっとも、『安寿と厨子王丸』には、まだ、五〇年代日本の空気感の良さが残影をとどめており、それが、独特の優れた芸術性を可能ならしめているという点では、必ずしも失敗作とは言えないのであるが、『西遊記』の方は、全くいただけない。

 DVDの映像を一見していただければ明らかで、わざわざ演出の細部について書くまでもない。

 当時流行していたアメリカや日本の風俗をはじめ、どぎつい、これみよがしの悪ふざけの演出がてんこ盛りになった、ドタバタ劇のオンパレードで、まことにヴァーチャルで空疎なこと、この上ない。

 ヴァーチャルならヴァーチャルで、原作の『西遊記』特有の、生臭い人間劇の寓喩的パロディーが見られるかといえば、そうではなく、全くといってよいほど主人公や登場人物のキャラクターが立っていない。

 人間という生き物の弱さ・愚かしさ・さもしさを衝(つ)くという、どぎついパロディーに、力強いリアリティを与えるのに必要なキャラ設定が、まるっきり出来ていないのだ。

 ただの俗悪な娯楽作品であって、風景描写には、いかにも東映初期作品らしい繊細な美しさがみられるが、それが、物語に奥ゆきとふくらみを与えるようないのちを持たず、芸術的な香りとはほど遠い。(手塚治虫が、「原作者」として、アニメ制作に「参画」しているというのに、情けないことである。)

 一口で言えば、ウケ狙いの〈商品〉の匂いがプンプンしているのである。

 これが、高度経済成長が一気に加速する、イケイケドンドンの「六〇年代日本」の業界の、あられもない姿なのだ。(ちなみに、一九六二年には、あの愛すべきシャイなコメディアンであり、コミックバンド「クレイジー・キャッツ」のミュージシャンでもあった「植木等」主演の、サラリーマン・ギャグ映画の傑作「無責任男」シリーズが上映されている。)

 五〇年代までの映像が保ち得ていた慎しみ、はにかみ、気品というものが徐々に衰弱し、希薄化し、やがて「六〇年代後半」には、急速に失われてゆくという、その流れを、いわば〈予兆〉のように、先取り的に表現してみせた作品なのである。

 この作品への反動というわけでもないのだろうが、『西遊記』の翌年の一九六一年に公開された『安寿と厨子王丸』では、『白蛇伝』や『少年猿飛佐助』のような、繊細で気品溢れる、絵画的な演出が復活している。

 周知の森鷗外の小説『山椒大夫』を原作に、田中澄江の丁寧な脚本によって、独自のファンタジックな設定も混じえながら、哀切な平安絵巻が展開する。

 悪どい陸奥の国司の奸計によって流罪となった父親・岩木判官の冤罪(えんざい)を晴らすため、都に向かった母と子(安寿と厨子王丸の姉弟)が、人買いにだまされて生き別れとなり、奴隷として売り飛ばされる。

 姉弟は、丹後の由良(ゆら)の港の長者・山椒大夫(さんしょうだゆう)とその長男・次郎によって、散々に虐待・酷使されるが、次男の三郎だけは、無力ながらも姉の安寿をかばい、優しくしてくれる。ふたりは、いつしか慕い合うようになる。

 密かに弟の厨子王を逃がした安寿は、次郎に焼きごてを当てられるところを、三郎によって助けられ、危うく難を逃れるが、しょせん逃げ切れぬと観念して、入水(じゅすい)してしまう。安寿の魂は〈白鳥〉に生まれ変わり、厨子王の行く手を導く。やがて、白鳥は、安寿の霊を弔う三郎のもとにも顕われ、自らが安寿の魂の化身である事を、恋人に悟らせるのである。

 山椒大夫の追っ手をかろうじてかわした厨子王丸は、都に向かい、関白・藤原師実(もろざね)の姫を助けた事が縁で、師実に庇護されるが、父の岩木判官は、流罪の地・九州ですでに亡くなっていた。

 少年の境遇を哀れに思った師実は、厨子王をひき取り、わが子同様に育てる。

 厨子王丸は、師実のもとで武術の鍛錬に励み、たくましい青年に成長する。

 帝(みかど)に祟(たた)りをなす大蛛(おおぐも)の妖怪を退治した功績によって陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた厨子王は、任地に向かう途中、丹後の由良を訪れるが、報復を恐れた山椒大夫と次郎は、厨子王の一行を待ち伏せ、一斉に矢を射かけ、暗殺せんと図る。次々と矢を打ち落とし、敵の刃(やいば)の群れをかわした厨子王は、大夫の館に乗り込み、厳罰を下すと思いきや、「寛仁大度」の姿勢を示し、奴婢の解放を命じただけで、過去の罪状の全てを許してしまうのである。

 出家した三郎の告白で、姉の安寿がすでにこの世に亡いことを知り、彼女の魂が、一羽の白鳥に化身した事を告げられる。

 白鳥の導きで、盲目となった母親を佐渡で見つけ出した厨子王は、母と共に、任地の陸奥へ向かう。ふたりの乗る船の行く手には、共に寄り添う白鳥の優しい姿があった。

 

 このアニメは、冒頭から、息を呑むほどに美しい、繊細この上ない陰翳に包まれた、日本画の四季折々の風景が華麗に繰り出され、その風景をバックに、木下忠司作曲の気品ある哀切なメロディーが静かに流れることで、私たちを、しっとりとした、抒情的な気配の内に誘(いざな)ってくれる。

 酷(むご)い、陰惨な不条理劇も、この伝統的・日本画的な抒情性のゆったりとした時の流れの内に包摂され、溶かし込まれることで巧みに緩和され、全ての愛憎・哀歓・運不運のめぐり合わせを、(恐ろしい悪因縁も含めて)無常なる〈自然〉の一風景として受け流してゆくという、東洋的な諦観・忍従の哲学の内へと回収させられてゆく。

 この世界観のもとにあっては、個人的なもがき、生の意味や価値は、本質的に無力なものとされ、人の運命は、己れ自身の力をはるかに超越した非人間的な〈自然〉、〈気〉のうねりの渦中で翻弄されるほかはない。不条理とたたかう荒々しさは空しい悪あがきにすぎず、人はただ、心を穏やかに保ち、祈りながら、風になびく葦(あし)のように、全ての災いを自然のはからいとしてやりすごし、耐え忍んでゆくほかはないのである。

 五〇年代との大きな違いは、不条理な運命とたたかう猛々しい〈荒魂〉が影をひそめ、〈和魂〉のみに生きる支えを求めようとする、植物的な生存感覚が前面に出た作りとなっている、という点である。(この稿続く)

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第11回) 川喜田晶子

  • 2018.04.29 Sunday
  • 12:52

〈少年〉の居場所

 

 学生たちの作品についてはほぼ語りつくした感がある。

 彼らの提出してくれた作品を論じることが授業の中心になった分、じっくり鑑賞するつもりであった近現代の作品をそれほど論じられず、残念な想いもないではなかった。ここでは、準備しておいた作品群からいくらかなりともピックアップして、〈現在〉に通じる〈生き難さ〉の質感について、それを超えようとする表現営為について、今しばらく語ってみたい。

 

少年のかくれ莨(たばこ)よ春の雨  中村汀女

 

この家も誰かが道化揚羽(あげは)高し  寺山修司

 

花匂う無辺(むへん)少年は呪詛(じゅそ)を鍛(う)つ  森山光章

 

 中村汀女(1900-1988)の句は、手短な叙景であるのに、〈少年〉という語がみるみる象徴的なふくらみを帯びてゆくことに感銘を受ける。

「かくれ莨」の少年は、大人と子どものはざまでこっそりタブーを破っているのだが、その背伸びによって露呈する気負いの青さと、「春の雨」の取り合わせがみずみずしい。ちょっとばかりとんがった気負いも、隠れてタブーを破る喜悦も、やわらかで湿潤な「春の雨」に包摂されてしまう風景。そんな青臭さもあればこそ、ものみな熟すのだ、といった世界観に許容されている〈少年〉の姿に、誰もが己れの内なる〈少年〉にもそのような居場所を与えたいという望みをそそられる。青々とした艶を帯びた〈少年〉の居場所を。

 

 寺山修司(1935-1983)の句には「少年」の語は無いのだが、「道化」は寺山自身のことでもあり、彼の内なる〈少年〉の居場所の痛さを伝えてくる。

 その痛さはしかし、寺山だけのものではなく、時代に蔓延する痛さでもあった。

 伝統的な土俗を引きずりながら〈近代〉によって荒廃し、空洞化した「家」の姿。空洞化しながら表面的には「家」を保持しようとする時代のいびつさが、どの家にもその内部にドッペルゲンガーのような一人の「道化」を飼わせた、とでも言えようか。ちょうど、時代の表層的な向日性が寺山というドッペルゲンガーを必要としたように。

 荒廃した地上の「家」に閉じ込められた「道化」の魂は、そこから何かに憧れて舞い出てしまう。「揚羽」は、「家」の垣根を越境し、「家」の酸鼻な荒廃を洞察しながら高く舞うことで、「家」の崩壊をかろうじて食い止めているようにも見える。荒廃の犠牲者でありながら、「家」の物語の鍵を握ってもいる「道化」。その痛さと背中合わせのプライドが、「揚羽」を舞わせる。時代に緊縛された「道化」を自認する寺山が、「揚羽」として社会の枠組みを越境せんと、過食症的な表現を多彩に撒き散らしたように。

 

 森山光章(1952-)の句には、天上と地上の寺山的な分極がさらに押し進められた風景に対し、ダンディズム的に超越する豪胆な〈少年〉の覚悟が濃密に閉じ込められている。

「花匂う」の「匂う」は、古語としての「匂う」であろう、花が艶やかにその生命を顕ち上げる風景がどこまでもどこまでも広がっている。「無辺」であることによって、幻想的な強度を獲得したその風景に対置されているのは、「呪詛」を鍛え上げる〈少年〉。

「花匂う無辺」といった天上的・超越的な風景の中にあって、「呪詛を鍛つ」必要があるのは、現実があまりにも酸鼻だからだ。決して現実に肌身を許すことなく、現実への甘い期待や馴れによって己れの〈少年〉の純度を汚すことなく、より強く、より深く、呪い続けるのは、エネルギーが要ることだ。内なる〈少年〉を汚さぬためにこそ、「花匂う無辺」の幻想的強度を昂進させる必要がある、とも言えよう。

 いわゆる「芸術至上主義」の硬質な〈核〉が端的に表出された一句でもある。

 

 たった三つの句だが、これらを同時に視野に収めるとき、時代とともに〈少年〉の居場所が狭窄され、非日常性・幻想的領域への過剰な傾斜が募っていることに気づく。また、無自覚な叙景が象徴性を獲得し得ていた時代から、社会や己れの病理に対する自覚的な批判精神の濃密さによって〈少年〉の象徴性を浮かび上がらせる時代へと推移していることにも痛みをおぼえる。痛みながら、〈少年〉の居場所を憧憬し、確かに問え、と煽動される想いもする。

 内なる〈少年〉に居場所を与えながら真に大人になるとは、地上的な現実の醜悪さと闘うことなのか。地上的な現実と天上的な幻想とに分極した世界観と闘うことなのか。そのような問いを立てねばならない〈現在〉は、何を喪失してきたのか。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第8回) 川喜田八潮

  • 2018.03.23 Friday
  • 18:04

 

     14

 

 私は、『白蛇伝』の優れた性質を、以上のような、宮崎アニメとの共通項が象徴する特質とは、全く別の次元に見出している。

 それは、無力で生活力の弱い、無垢な、優しいだけの主人公が、その無力さ・優しさのゆえに、理不尽な憂き目に遭い、死に追いやられると共に、聖なる力をもった妖精との摩訶不思議なえにしを招き寄せ、その献身的な四次元的霊力の助けによって、死の淵から甦り、不条理を乗り超えて、幸せになるという、説話的な型のことである。

 それは『白蛇伝』のような中国の民話に限らず、おそらく、世界の各地に古(いにしえ)より語り継がれてきた「貴種流離譚」の一類型であると思われる。

 わが国でも、古代の神話『古事記』の中に登場する英雄オオクニヌシ(オオナムヂ)の説話が、このような貴種流離譚の構成を備えている。

 ここでも、オオナムヂは無力で優しい主人公であり、邪悪な母違いの兄たちに奴隷のように扱われて理不尽な苦役を課され、あげくの果ては、彼らの嫉妬をこうむり、くり返し死に追いやられるが、そのたびに、母神や女神たちの助力によって甦る。優しいだけで、あまりにも弱々しいオオナムヂの魂を、雄々しいものに鍛え上げようと考えた母神は、「夜見国(よみのくに)」の統治者であるスサノオノミコトの許に息子を送りこみ、身に着いた一切の災厄の汚れを払い捨てさせ、スサノオの荒魂(あらみたま)の力を授けてもらおうとする。夜見におもむいたオオナムヂは、そこで、スサノオの娘「スセリビメ」と運命的にめぐり逢い、恋に陥り、結ばれる。

 娘婿となったオオナムヂの性根を試そうとして、スサノオは、次々と恐ろしい試練を彼に課すが、そのつどオオナムヂは、妻のスセリビメの密かな助力や動物の機転によって、難を逃れる。そして、ついにスセリビメと駆け落ちしたオオナムヂは、スサノオの荒魂の宿った呪宝を手にして、夜見国から脱出し、現世の地上界に転生する。

 優しい、穏やかな和魂(にぎみたま)と猛々しい荒魂の均衡のとれたオオナムヂは、英雄・大国主神(オオクニヌシノカミ)となって、スセリビメに支えられながら、邪悪な神々を一掃し、美事に国土を統一する。

 このオオクニヌシ説話における、和魂と荒魂の〈均衡〉というモチーフは、闇の両義性による葛藤のドラマという前述のモチーフと同様、人が不条理とたたかい、乗り越えてゆくために必要なまなざし、生の心棒を象徴的に表現するものである。

『白蛇伝』では、和魂と荒魂は、許仙と白娘のふたりに、分かち持たれている。

 和魂のまさった、優しい非力な主人公の許仙との純愛を成就せんとして、法海を相手に、妖術の限りを尽くしてたたかいを挑む白娘の姿に、彼女の荒魂の烈しさが生き生きと描出されている。また、妖精としての霊力を失い、ただの〈生身〉の人間の女になった白娘が、法海の妖術のひき起こした嵐の海に揉まれながら、必死に許仙のもとに「命の花」を届けようと、小舟を漕ぎ続ける姿にも、彼女の荒魂の息づかいが活写される。

 この白娘の烈しさ、愛の情熱が、ついに、甦った許仙の内に眠っていた荒魂に火をつけ、青年を、いや応なく嵐の海中へと誘(いざな)うのである。

 舟から投げ出されて、溺れかかっている白娘を救うべく、許仙は無我夢中で必死に泳ぎ続け、ついに恋人のもとに辿り着く。感動のクライマックスである。

 許仙の荒魂をひき出したものが、怖れを知らぬ、白娘の愛の烈しさにあったこと。

 そして、その愛を招き寄せたものが、許仙の無垢な優しさと無力さ、生活者としてのひ弱さという和魂のかたちにあったこと。

 この素朴な説話的原型こそ、『白蛇伝』という地味でつつましい、けなげな恋物語に、不滅の力強さを与えている要因だといっていい。

 オオクニヌシの荒魂をひき出し、スサノオの力を彼に授けたものが、スセリビメの情熱的な愛という荒魂の烈しさにあったこと。そして、そのスセリビメの愛を呼び覚ましたものが、オオクニヌシの優しさ、無力さという和魂にあったこと、と同様に。

 許仙もオオクニヌシも、所有し支配することによる力の快感、貪る心から最も遠い存在である。その非力さ、穏やかさ、優しさこそが、澄んだ静けさの気配を漂わせ、人の心を浄め、愛を招き寄せる。

 許仙においては、それに加えて、孤独で繊細なアーティスト魂を備えた青年であるという特性が与えられている。

 彼は笛を吹く。その笛は、〈異形の者〉である許仙の純粋な哀しみと渇きの表現であり、また寂しい慰めでもある。その孤独な音色が、同じく異形の魂を備えた妖精・白娘の心の琴線に触れる。彼女は、青年の笛に呼応する己れの声を繊細な胡弓の音色によって届け、ふたりの魂は響き合い、運命的な愛が生まれる。

『白蛇伝』は、芸術=表現を通して、すなわち、孤独な固有の魂のふれ合いを通して、人がめぐり逢い、縁(えにし)をとり結ぶことの霊妙不可思議さを描いた作品でもあるのだ。

 

     15

 

『少年猿飛佐助』では、〈和魂〉は、佐助の姉「おゆう」によって象徴されている。

 ただ優しいだけの、地味でしとやかな美人なのだが、彼女の存在が、佐助と山の動物たちとの、家族のように親密な、閉じられた生活小宇宙のみずみずしい空気を支え、柔らかく包み込んでいるさまが、さりげなく演出されている。

 しかし、動物たちの牧歌的な戯れのシーンが、いつしか、子鹿のエリと母鹿の不条理劇に発展し、「夜叉姫」の登場へと導かれるという、思いもかけぬ光から闇へのナチュラルでダークな〈変容〉が、佐助を変える。

 光溢れる〈日常性〉の背後に、怖ろしい〈闇〉の深淵が潜んでいる事への覚知と実存的な切迫感が、主人公の少年・佐助の〈荒魂〉への志向を促すことになる。

 彼はもはや、親代わりの姉に庇護されているだけの、頼りない、〈受身〉の少年の場所にとどまることはできない。主体性をもった、ひとりの〈大人〉へと成長・脱皮せんとする冒険のとば口に立たされることになる。

 隠れ里のような山中での姉と動物たちとの平和な暮らしを守るために、佐助は、忍術という四次元の霊力を身につけることで強くならねばならないと覚悟を決め、姉の制止を振り切り、置き手紙を残して、夜中に単身家を出てしまう。その弟のふるまいに対して、おゆうは、ただひたすら神仏に無事を祈り、ゆだねるしかない。姉は弟に対して何もしてやれないのだが、弟の身を案じ、はからいを超えて神仏の導きと加護に全てをゆだねようとする、おゆうの澄んだ〈祈り〉の心と優しさこそが、修業の旅におもむく佐助の孤独な覚悟と不屈の闘志をひそかに後押ししている事を、私たちは、画面の進行と音楽によって、ごく自然に感じ取ることができている。

 佐助の〈荒魂〉への志向を生み出し、支えているのは、実は、姉おゆうの〈和魂〉にほかならなかった。四次元の霊力を身につけることで、佐助は、夜見国から脱出して転生したオオクニヌシのように、己れの内なる和魂と荒魂の〈均衡〉のとれた、真に不条理とたたかえる、優しさと猛々しさをあわせ持った人格として完成する。

〈個性〉という意味での人格のことではなく、魂のあり方の普遍的な〈象徴〉としての人格のことである。

 夜叉姫にその美しさを嫉妬され、配下の山賊たちに家を焼かれたあげく、捕らわれの身となったおゆうは、鬼女によってムチ打たれ、断崖絶壁から呆り下げられるが、彼女を慕う真田幸村の果敢な働きによって、危うく一命をとりとめる。この上田城の若殿・幸村とのえにしを招き寄せたのもまた、おゆうの和魂の力である。

 幸村は、上田城下の民家に火をかけ、容赦なく人を殺し、財物を奪い取ってゆく夜叉姫配下の山賊・野盗たちの討伐のため、その隠れ家をつきとめようと、密かに、家臣の三好清海入道とふたりで山に分け入るが、そこでおゆうにめぐり逢い、ひと目惚れしてしまう。

 おゆうは、根っからの山里育ちとは思えぬ、なにか由緒ありげな、気品ある風貌の女性である。少年の佐助が刀を所持していることからも、姉弟は、なにかいわくありげな武家の出身で、わけあって、密かに山中に身を隠しているのかもしれない。

 そんな背景をちらっと想像してみるのも、楽しい。

 おゆうは、何の欲もなく、弟と二人でその日その日をやりくりしながら、隠れ里のような山の中で、世間の目を逃れて、穏やかな日常を守り抜いている。

 世の中のしきたりや身分による窮屈な制約とも無縁だし、財産とて無さそうである。

 何の贅肉も無い代わりに、何の保障も無い。

 貧しい山小屋に住み、ギリギリの自給自足的な暮らしを送っているが、充ち足りた表情をしている。彼女の周りには、落ち着いた、しっとりとした静けさがある。

 小川で一人、髪を洗い、歌をうたっているおゆうの姿を垣間見ただけで、幸村は、無性に心ひかれるものをおぼえる。

 彼女は、優しいだけがとりえの、とことん非力な女性であるが、その非力さ・優しさこそが、佐助に忍術修業の一念奮起を促し、幸村との良き〈えにし〉を招き寄せるのである。

 ここにも、『白蛇伝』と共通する、和魂と荒魂の〈均衡〉という説話的原型が息づいていることがわかろう。

 この伝統的・古典的な説話性が私たちの〈無意識〉に訴えるリアリティの質というものは、決して、他愛ないものとして一笑に付してもよいものではない。

 それは、人のえにしと絆の霊妙さによって引き出され、支えられた、世界への〈信頼〉の感覚、生命的な〈肯定〉のまなざしを象徴するものである。

 登場人物たちは、改めて言うまでもなく、善・悪のメリハリのきいた素朴な、単純きわまる説話的類型として描かれており、〈個性〉などというものは、問題にならない。

 善と悪とが複雑に混濁し、意識と無意識が分裂したまま、欲望に翻弄される、現代的なキャラクターとは、完全に対極にある。

 それにもかかわらず、物語の展開が私たちに深い感銘を与えうるのは、登場人物たちが、個性的な〈人格〉としてではなく、あくまでも、〈風景〉に包まれ、〈風景〉によって活かされた〈象徴的存在〉として感受されているからである。それでこそ、説話的な〈原型〉というものが活きてくるのである。

『白蛇伝』も『少年猿飛佐助』も、共に、画面構成といい、ストーリーといい、人物デッサンやキャラクター造型といい、大らかでありながら繊細で、みずみずしい。素朴な力強さをもった、リアルにして象徴的な作品である。

 説話的な原型を活かす上で必要な〈抽象度〉の水準というものが、きちんと迷いなく定まっており、演出上の贅肉というものが一切無いのである。

『白蛇伝』は、最も地味な素材を扱いながら、私たちが避けて通ることのできない、世界観や生きることの価値をめぐる本質的な問題性を多元的にはらんだ、渋い、味わい深い、異色のファンタジーとなり得ているし、『少年猿飛佐助』は、気品溢れる、伝統的な日本画的美意識に支えられた、光と闇の奥ゆきとふくらみの中に、四次元的な霊力のダイナミズムのドラマを美事に包摂してみせた、空前絶後の、血湧き肉躍る時代劇の名作となっている。

 演出の薮下泰司をはじめとする東映動画の優秀なスタッフ陣が、一九五〇年代後半という時代に、このような深い思想性をはらんだ美事なカラーアニメーション映画を相次いで創り出すことができたという事実に、私は、改めて、驚異の念を覚えずにはいられない。

 終戦から十年ほどしか経っていない、高度成長初期のこの時代には、無傷の自然はまだゆたかで、農業人口が多く、ゆったりとした時の流れと生活リズムの中で人々は生きており、四季の移ろいへの皮膚感覚が鋭敏で、風景には、深々とした生命的な〈闇〉の気配が立ち込めていた。人間関係には、まだ多分に大らかさが残っており、現代の都会人のごとく、孤立した、神経症的な病理に蝕まれてはいなかった。しかも、一九五〇年代の日本人は、終戦直後のような、飢えと極貧の地獄からようやく脱し、生活にいくらかの安定感と将来への希望が生まれていた。

 人々の理性と感性の間には、無意識のうちに、ある種の均衡と融合が保たれ、精神はすこやかだった。

『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』は、そのような稀有な幸福さを保ち得た時代に生まれ得た名作だったのである。(この稿続く)

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第10回) 川喜田晶子

  • 2018.03.22 Thursday
  • 21:24

まだ見ぬ空

 

 学生たちの表現は、一見、昨今のゲーム感覚に汚染されているかのようだが、短い詩篇の中で、この現実における己れの意味を賭けて静かに闘っていた。ゲーム感覚によって世界が狭窄されたのではなく、狭窄された世界観の喩としてのゲームである。狭窄された世界観との闘いは、むしろ古典的な相貌を帯びるほどだし、そこで彼らが見たいと望んだ「空」の風景は逆に新しい。

 

 

   変身   M・M

 

ある日とつ然

空に亀裂が入る

 

異空間から怪物がやってきた

一変した日常

姿を変えて戦う人々

そんな日はこれからも来ることはないだろう

そんな日が来たらおもしろそう

街を歩きながら

目に見える風景にらくがきをした

 

「そんな日が来たらおもしろそう」という言葉の表層とはうらはらに、この作品には、ヴァーチャルな怪物や戦闘シーンによって、現実世界を更地にしてみることへのはしゃいだ期待感は無い。

 庵野秀明が『エヴァ』でこだわってきたような風景、あるいはゲームの中での戦闘シーンを想起させる風景が描かれ、そこでは異空間から怪物がやってきて、人々が「姿を変えて」戦っているのだが、「そんな日はこれからも来ることはないだろう」「そんな日が来たらおもしろそう」というフレーズには、すでにヴァーチャルになら現実を異化され尽くした〈現在〉へのうんざりした想いが漂う。

 表層的な文脈では、これからも変わることが無さそうな「街」を歩きながら、その不変の表情の「街」の風景に「らくがき」をする、つまり想像力で怪物と人々との戦闘シーンを上書きしてみてささやかな気晴らしをしているかのようだ。

 しかし、この作者は、変わることの無い〈日常〉をヴァーチャルに修正したくて「らくがき」をしているのではない。もはや、〈日常〉をヴァーチャルな怪物や戦闘で塗り替える行為ならやり尽くされてきた〈現在〉において、本当の「亀裂」や「一変した日常」とは何か、誰も問うていないことの手触りを、静かに提示していると感じさせるのだ。

〈日常〉と〈非日常〉、〈信〉と〈不信〉、〈責任〉と〈無責任〉、〈社会〉と〈個人〉、そんな対立概念のはざまで、どちらかを択ぶことをやわらかく拒否している文体が、どちらかを択ぶ鋭さよりも不安をそそる。

「ある日とつ然」静かに空に「亀裂」が入り、私たちは静かに魂の「姿を変えて戦う」。そのような「変身」を想い描く行為は、新しい。

 

 

   存在   Y・R

 

見えないはずの彼女を探す

くつもぬぎすてて

彼女はここにいてはいけない

彼はなきながら探す

彼女が早くこの世界に来られるように

彼はついに私を見つけた

泣きながら必死で私を消しに来た彼に一言だけ伝えた

「今度はもっと楽しいのがいいな」

 

 ゲームやパソコンの中では容易に消去できる「存在」。ある世界から「切り取り」、別の世界へ「貼り付け」ることも可能だ。そのような「切り取り」や「コピー&ペースト」が可能な世界ならば、存在も軽いはずなのだが、この作品では、「彼」は「彼女」を探し出し、別の世界へ移動させることに必死である。「くつもぬぎすてて」「泣きながら」、ある世界での「彼女」を消して、別の世界へ移動させようとする「彼」。その「彼」に、「私」は「一言だけ」伝えるのである。「今度はもっと楽しいのがいいな」と。

「今度は」ということは、既に「前回」や「前々回」もあったのかもしれない。何度目かの「貼り付け先」であるところのこの世界の居心地が悪すぎた、そう考えることで、作者はかろうじて息をしている。そして、命賭けで自分を別の世界、いるべき世界へと貼り付け直そうとしてくれる「彼」の存在によって、己れの意味を持ちこたえている。

 

 

   無題   S・H

 

囲め 囲め

机上の空論

すべては碁盤の目の上

0と1の境界

沈んでく 記憶

空の色を2進法で知る時代

嘘つきな数字とたわむれ

捻った頭脳と少しのヒントで

解けるはずの南京錠

まだ開かないままで

かごめかごめ

後ろの正面 立つ君の

目が見えない

自分で作った剣の檻

封じられたまま

まだ見ぬ空を

焦い願う

 

「かごめかごめ」は、集団の輪の中にいる目隠しされた「鬼」が、「後ろの正面」を当てる遊びである。その「後ろの正面」に「立つ君」の「目が見えない」。絶対的な答を持つ者との遥かな距離を感じさせるフレーズだが、「自分で作った剣の檻」の「南京錠」は、「解けるはず」のものだ。ほんの少しだけ何かが変われば。

 だが、作者はその「檻」に「封じられたまま」「まだ見ぬ空を/焦い願う」だけである。それでも、彼女はその「空」を知っている。「机上の空論/すべては碁盤の目の上」に世界が囲い込まれ、「空の色を2進法で知る時代」において、「0と1の境界」に「沈んでく 記憶」。それでも彼女は本当の「空の色」を知っている。彼女の個人史の輪郭を超えて、どこかで知っている。だから「焦い願う」ことが可能なのだ。

 他者や社会によってではなく、「自分で作った剣の檻」であることを察知している彼女には、この「檻」は既に開けられたも同然であろう。

「まだ見ぬ空」を描きながら、私たちにある懐かしさと絶対的なみずみずしさを想起させるこの一篇は、〈個人〉というものの輪郭の強さと、意外にたやすく〈類〉に開かれてゆく私たちの身体の秘密を、鮮やかに示している。(この稿続く)

 

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2018.02.24 Saturday
  • 13:58

 

     12

 

 ここで私が思い浮かべるのは、宮崎駿氏の息子の吾朗氏が監督して制作されたアニメ『ゲド戦記』の「結末」である。

 宮崎吾朗の『ゲド戦記』は、ル=グウィンの原作とは違っている。

 原作者は、アニメの出来ばえに大変不満で、原作に込められたメッセージと人物造型、表現内容の本質が歪められたと激怒しているようだが、原作はあくまでも原作であり、映画は、たとえ原作をふまえていても、芸術作品としては、全く別箇の独立した表現の産物とみなすべきである。

 原作とアニメの違いについて、ここで触れる余地は無い。

 私のここでのこだわりは、次の一点のみである。

 すなわち、宮崎吾朗のアニメ『ゲド戦記』のラストシーンにおいて、主人公の一人である少女の〈本体〉が〈竜〉であることが示され、〈竜〉に化身することが、魂の〈解放〉の象徴として描かれている、という点である。

 このアニメの結末に原作者が激怒したかどうかは、私には分からない。

 だが、宮崎駿氏が、息子の表現した〈竜〉という象徴への〈まなざし〉に対して、内心、ある種の危惧〈きぐ〉の念を覚えたであろうと推察することはできる。

 このアニメを観た後、駿氏がインタビューで、一言、「大人になってない!」と一喝していた光景が、今も私には、印象深く記憶されている。

 はしなくも、ここには、業界人としておそらく空前絶後といっても過言ではないほどの大成功を収めた宮崎駿という天才アニメーターの内に隠された、〈大人主義〉の限界が透かし視える思いがするからだ。

 人間の本体が〈龍〉であって、どこが悪い?

 当時も、今も、私はそう思っている。

 人間は、「人間」などという、ちっぽけなものを超えた、大いなる不可視の〈闇〉としての本体を宿し、その本体によって活かされているにすぎない。

 人間の魂は、三次元の個体としての存在に宿りながら、同時に、その輪郭を超えて森羅万象へと拡がる、広大な〈無意識〉の領域というものを有している。

 フロイトの学説が洞察している通り、私たちの〈身体〉というものは、私たちの〈無意識〉の宿り手である。

 脳は、哲学者のベルクソンもその著書(『物質と記憶』『思想と動くもの』)で明晰に論証してみせているように、私たちの精神を現実生活に向き合わせ、なんらかの形で「適応」させるための、「注意」と「想起」(抽象化ないしは改変を施された過去の経験=「記憶」の想起)の器官であって、心の領域全体をカバーするものでは決してない。

 心は、脳のメカニズムの単なる反映などではなく、逆に、心が脳のあり方を規定し、包摂しているとみるべきではないか、というのが、私の考えである。

 ただし、その心というのは、〈意識〉だけではなく、〈無意識〉の広大な領域を含んでいる。

〈意識〉というものは、私たちの身体が、地上の三次元の生活世界に現実的に(支障なく)「適応」するために、〈無意識〉の中から、そのつど必要な情報やイメージを汲み上げ、知覚や記憶、感情、思考といったかたちを通して、私たちを取り巻く環界や接する対象との間に、固有の〈意味づけ〉を成就せんとする働きにほかならない。(ただし、厳密に言うなら、〈意識〉は〈無意識〉に包摂されているのであり、身体を媒介として、無意識のうちに、知覚所与の喚起や記憶の想起を強いられながら、その「制約」の中で、現実への「適応」を成就せんとするのである。)

 その〈意味づけ〉の現実的なプロセス、すなわち一種の「情報処理過程」を担うのは、たしかに脳という器官なのであろうが、しかし、その脳に情報処理を命ずる力、主体というものは、決して、脳でもなければ、意識でもない。

 いわば、脳というのは、一種の「配電盤」のようなものであって、電源そのものではないのだ。

 脳は、身体という媒体を通して不可知なる電源から送られてきた電流を、適切に配備し、〈意識〉という「照明」を、「種」に固有のかたちで、また個々人に固有のかたちで紡ぎ出す、「配電盤」のごとき役割を果たしているといっていい。

 では、「電源」はどこにあるのか?

 言うまでもなく、私たちの〈無意識〉にある。

 そこにこそ、私たちの〈魂〉の中枢があるのだ。

〈意識〉などというものは、私たちの魂の顕われにとって、実は「氷山の一角」にすぎないのであって、私たちの魂の〈本体〉は、水面下の広大な〈無意識〉をつかさどる目に視えぬ力、エネルギーの源にこそある。

 個的な身体のレベルでこのエネルギーの担い手となるのが、(腎臓を調整機能の中枢とする)「内臓」の働きと「血液」の流れであり、またそれらをつかさどる「自律神経叢」である。

 脳は、「視床下部」を通じて、この「自律神経叢」(ヨガやD・H・ロレンスの言葉で言うところの「太陽神経叢」)と相互作用的に結びつき、自立神経叢に担われた〈無意識〉の力に支えられることによって、はじめてすこやかに機能しうるのだ。

 しかし、私たちの個的な無意識は、実は、より巨きな「類的」な〈無意識〉に包摂されている。

 私たちの身体に宿っている〈無意識〉なるものが、私たちの〈個〉の殻を超えて森羅万象へと拡がっているからこそ、私たちの目にし、感じ取る生身の生の〈風景〉というものは、(それが生命的なものにせよ、虚無的なものにせよ、)単なる〈無意味〉としてのカオスではなく、(主体と客体との相互浸透的な感覚を伴う)〈意味〉と〈価値〉の相貌を帯びた「生ける事象」=知覚所与として、すなわち(過去と未来を〈現在〉の内に包摂し、統合するような)「生ける時間体験」=持続として立ち現われるのである。

 その「時間の発生源」ともいうべき類的な〈無意識〉の領域こそが、生命と虚無、創造と解体の両義性を備えてダイナミックに流動する、不可知なる〈闇〉のコスモスにほかならない。

 フロイトはそれをエスと呼び、東洋の道教やヨガ、仏教の禅では〈龍〉と名付ける。

 西洋では、キリスト教の影響もあって、〈龍〉は、聖者によって退治される「悪役」として形象化されることが多い。(エジプト文明をはじめとする「キリスト教以前」の古代文明にあっては、そうではない。)

 東洋では全く逆に、中国でもインドでも、他の東アジア地域でも、〈龍〉は、基本的に、いのちの根源をつかさどる善なる存在であり、森羅万象に宿り、日輪や月や星辰とコスミックに照応し合う高貴なる生命、魂の霊妙なる導き手であった。苛酷な現世の地上的な生を美事に生き抜かしめる聖なる力の源泉であり、龍や蛇の図像は、その力の象徴として描かれた。

 しかし、人が我欲によって他者の生命を損い、ふみにじる時、〈無意識〉に中心を置く〈魂〉には濁り、汚れが生じ、〈龍〉は「悪しき姿」へと変容する。大小さまざまな龍たちが敵対し合い、闘争を繰り返し、悪因縁の轍(わだち)へと巻き込まれてゆく。

 人に宿った〈龍〉の次元、すなわち個々人の個的な無意識とリンクする類的な無意識の次元というものは、互いに交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発し合いながら、霊妙不可思議な〈えにし〉によって結ばれているのだ。

 洋の東西を問わず、古代以来の文明世界において、優れた哲人・宗教思想家たちが取り組んできた最も重要な課題は、〈悪龍〉の邪気・邪念がもたらした災いからいかにして身をかわし、いかにしてそのまがまがしき力とたたかい、それを克服・解毒し、〈善なる龍〉へと変容させてゆくか、という叡智の追求にあったと言えよう。それは、〈本能〉のもつ正しき力に目覚め、それを活かす道を知るということである。

 真の〈叡智〉は、〈本能〉を敵に回すものではない。

 本能の力を忌み怖れ、敵視し、観念的な道徳や合理主義のみによって己れの生を思い通りに「仕切ろう」とするなら、抑圧された本能はかえって歪み、遅かれ早かれ、〈無意識〉の中で〈悪龍〉と化して荒れ狂うであろう。

 昂進したストレスは、自傷行為的な表現をとるか、あるいは、他者や敵への不毛な攻撃という形をとって、代償的に吐き出されることになる。

 真の叡智は、〈本能〉に正しい居場所を与えてやること、すなわち、〈善なる龍〉としての生命的なかたちを与え、そのエネルギーを適切に解き放ってやることだ。

 それは、己れ自身の生命の充溢を図ると共に、己れとえにしある者たちとの間に、正しき相互扶助や自然分業のかたちをつくり上げてゆく道を模索することである。

 そのためには、私たちは、己れの内なる〈龍〉のささやきに、すなわち〈無意識〉の深みから立ち昇る微かな声に、正しく耳を傾ける術(すべ)を知る必要がある。

 しかし、私たちの個的な〈無意識〉は、さまざまな既成観念によって、がんじ絡めに縛られている。

 その既成観念のとらわれを脱し、心が真に望むものを見つけることは、容易ではない。

 私たちが何にとらわれ、何に苦しみ、何から解放されたいと望んでいるのか?

 それを教えてくれるものは、〈無意識〉の宿り手である、私たちの〈身体〉の感覚である。

 私たちの喜怒哀楽の感情から、対象に対する微かな〈異和〉や〈親和〉の感覚に至るまでの、私たちの身体性の〈揺らぎ〉のあり方こそが、既成観念による呪縛の正体を教えてくれる。

 私たちが既成観念の皮膜を一枚ずつはがしてゆくごとに、私たちは、〈無意識〉の深みから立ち昇る〈渇き〉の声に、正直に耳を傾けることができるようになってゆく。

 魂の〈本体〉に、〈龍〉に近づいてゆく。

 魂の本体が〈龍〉であるというのは、個体としての生命存在をつかさどる不可知なる力の源泉が、個に宿り、個を個たらしめながら、同時に、個を超えた大いなる類的な〈主体性〉の次元にあるということだ。

 われわれ個々人の霊のかたち、(中国哲学風に言えば)心身に内在する固有の陰陽の〈気〉の流れと結びついた、その大いなる〈龍〉の次元こそ、われわれに摩訶不思議なる〈えにし〉をもたらしてくれるものであるに違いない。

 われわれにできることは、その己れを超えた不可知なる〈主体性〉=〈龍〉のはからいに心静かに身をゆだね、祈り、念じつつ、自らの心の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な〈渇き〉や〈促し〉の声に、忠実に耳を傾けることである。

 そして、その〈龍〉の促しの方向性に沿って、(己れの資質が許容する範囲内で)聡明な認識と判断を行い、決断し、己れ自身を賭けるという、固有の〈主体性〉を発揮することである。

 われわれの個としての主体性というものは、個を超えた類的な〈無意識〉をつかさどる、より巨きな主体性の内部に包摂され、活かされることによって、はじめて、固有にして肯定的な生の物語性というものを紡ぎ出せるのではあるまいか。

 己れの〈無意識〉の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な渇きや促しの声を無視し続けたり、封印したり、敵対的に取り扱ったりして、幸せになれるなどと思ったら、大間違いだというのが、私の考えである。

 人は至らぬ生き物だが、幸いにして、めぐり逢いの機縁に恵まれるなら、修行し、魂を磨きながら、自分なりに幸せになることはできる。あるいは、少なくとも、幸せになろうと不断につとめることはできる。

 もちろん、〈幸せ〉の形は、人それぞれである。私がここで言う〈幸せ〉とは、「うつろ」ではない、生命的で自己充足的な、その人固有の生のあり方を指す。

 人の生きる営みを〈龍〉の導きと結びつけてとらえるという感覚・モチーフは、人類史における神話的な〈叡智〉の悠久の伝統につながるものである。

 アニメ『ゲド戦記』の難点は、死の恐怖に蒼ざめ、生の意味を見出せぬまま、うつろな魂を抱えてさまよう主人公の少年アレンと、生命の象徴である〈龍〉のイメージとの間の〈ギャップ〉の巨きさを、(少女テルーが代弁する)死生観の観念的な「お説教」によって、強引に埋めようとする不自然さにある。

 観客は、物語の終局部で、死を意識させられ、実存的な不安を励起させられるが、その不安を癒すような身体的な解放感のイメージは得られぬままに、観念的な死生観のメッセージを残像として引きずりながら、くすぶりを抱えた状態で劇場を後にしたのではなかろうか。〈龍〉は、(監督の意欲にもかかわらず)この物語では「生きていない」、つまりリアリティが無いのだ。

 しかし、このような難点にもかかわらず、アニメ『ゲド戦記』は、少なくとも、私たち現代人が直面している〈生き難さ〉の課題を、〈龍〉の伝統的イメージと結びつけているという点で、重要な問題提起をなし得ているといっていい。

 宮崎駿が、息子の勇気ある、優れた挑戦であり結実でもある、記念すべき監督第一作を不当に貶めた事を私は悲しく思うが、しかしながら、駿氏自身の資質からすれば無理もない、とも思うのである。

 彼は、大人社会のまなざしになじめない自身の資質を早くから意識し、子供性(幼児性)を偏愛し、過度に美化せざるをえなかったがゆえに、〈異形の存在〉たる己れ自身をシカトし、はじき出そうとする大人社会を必要以上に怖れ、そこに過剰適応し、成功せんとしたあげく、己れの深奥に宿る、生命的でありながら狂暴でもある〈無意識〉の両義的で広大な〈闇〉の領域への不当な恐怖の念に絡めとられ、〈表現〉を求めて溢れ出ようとする、四次元的な霊力の〈暴発〉を抑えようとして、敢えて、「魔法」に象徴される四次元的感覚そのものを封印し、三次元の〈生身〉のたたかいの内に、人間の生存感覚の〈根拠〉を回収せんとしたのではなかろうか。

『白蛇伝』で、白娘の「妖精」としてのあり方を、不吉なるものとして、かたくなに忌み嫌っていた僧・法海が、霊力を失って、ただの生身の人間の女に成り切った白娘の変身ぶりを見て、許仙との仲をようやく許し、恋人たちの前途を祝福し得たように、「魔法の封印」による絆の成就(幸せの成就)という宮崎アニメの理念的拘束、大衆へのメッセージの背後には、作家・宮崎駿の、己れ自身も含めた人間の内なる異形性に発する非日常的な狂気に対する〈怖れ〉の念が秘められていたようにおもわれる。

 だが、その身構えは、〈生き難さ〉を抱えた人間たちに、生への四次元的なまなざしの〈支え〉無しに、無理矢理強い「大人」になれという、強迫的なメッセージを送ることになりはしまいか?

 例えば、アニメ『もののけ姫』における「生きろ!」のメッセージに、私は、そんな強迫観念を覚えてしまうのである。

 生の内燃機関を枯渇させてしまって、疲労困憊(こんぱい)し切っている人々に対して、無理矢理オーバーヒートした生き方を迫るような〈不自然さ〉を感じてしまうのだ。

 だが、こんなふうに言うと、宮崎アニメファンの人の中には、反発を感じる人もいるかもしれない。

 もちろん私とて、宮崎作品の四次元的なまなざしの深み、その演出の力強さ、〈癒し〉のリアリティのたしかさについては、高く評価している。

『トトロ』論を中心とする宮崎アニメ論(『日常性のゆくえ』1992年刊)によって、評論家としてのスタートを切った自分である。この作家の作品の真価は誰よりもわきまえているという自負はある。

 その上で、敢えて、以上のような批判を行なっているのである。

 問題は、結局、「魔法」という言葉が象徴するものの〈内実〉をどうとらえるかという〈解釈〉の違いに帰着する。

「魔法」を、異形の魂を備えた異能の持主にのみ許された特権的な才能とみなすのか、それとも、人間一人ひとりの内に秘められた、あるべき〈まなざし〉の象徴とみなすのか、という違いだ。

 それはそのまま、私たちの人生への真向かい方、「立ち位置」の違いの問題でもある。

 

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「魔法」の記憶を温存し、それに「憧れる」ことと、「魔法」を自らの〈身体〉の四次元的な深みにおいて実際に生きることとは、全く違う。

 現代の私たちの社会では、大衆は、大成功を収めた、芸能人・スポーツ選手・アーティストその他の、ひと握りのカリスマ的なヒーローたちに、「魔法」の体現者を幻視し、彼らを崇拝し、魂を収奪されることで、己れの生を鼓舞せんとしている。

 もちろん、それも悪くはなかろう。

 なんらかの偉大な才能に恵まれ、それを磨き、発揮し得た者たちを己れの「神」として敬うことは、生きる上での励みともなり、温かい風を身体に送り込む営みでもありうるからだ。

 だが、「魔法」の体現者としてのカリスマ的な天才たちに、人生の〈奇跡〉の成就を視ようとする現代の大衆の中には、その憧憬とは裏腹に、〈奇跡〉とは縁遠い、不条理な、三次元的・地上的現実に這いつくばらせられている己れ自身の生きざまへの侮蔑や嫌悪の念を抱え込み、人知れず苦しんでいる人たちも、少なからずいるのではなかろうか?

 だとしたら、それは、不幸なことである。

 誰のものでもない、自らの固有の人生に、他者との比較を超えた、真のプライドと生きる手応えを見出し、さまざまな人との〈えにし〉に助けられつつ、幾多の苦難・障害をそのつど〈奇跡〉のようにくぐり抜け、人生における〈出逢い〉の不思議さをかみしめつつ、ひたすら、黙々と一本の道を歩み続けてゆく。

 そこにこそ、真の〈魔法〉があるのだ。真の花道があるのだ。

 生きるとは、己れの内に宿りながら己れを超えた力によって活かされることであり、また、己れの深奥から立ち昇る内的な促しに従って、悔いの無いように、未知の流れに自らを賭け、いのちの〈火〉を紡ぎ出すことだ。

 自らの人生に〈魔法〉の働きを視ずして、どこに視ようというのか。

 自らの人生に、生き抜いてきた事の、生かされてきた事の〈奇跡〉を視ずして、どこに視ようというのか。

 カリスマもけっこうだ。天才もけっこうだ。彼らの偉業や生きざまから、インスピレーションを受けるのも良い。

 私は高校野球ファンで、毎春・毎夏、球児たちが繰り広げる「一期一会」のなまの闘いのドラマには、大いなる感動を与えられている。

 また、テレビの特集番組などで、さまざまな、その道一筋の職人さんや無名の生活者の人たちの仕事ぶりや暮らしぶりの一端に触れるのも好きだ。

 私の知人たちが時に垣間見せてくれる人生の表情・哀歓にも、胸打たれることがある。

 そこには、人生の修羅場を斬り抜け、己れの固有の生を美事に織り上げてきた者の年輪の厚みと、人と人とのえにし、めぐり合わせの不思議さ、人生という〈物語性〉の霊妙さがにじみ出ている。

 こういったさまざまな人たち、同朋の姿を凝視してみることは、実に味わい深いことであり、私たちにとっても大きな励みとなるものだ。

 だが、どんな天才・ヒーローたちの生きざまも、また、有名無名のどんな人たちの生きざまも、そのドラマに感動するだけでは、何にもならない。

 他ならぬ己れ自身の人生の内に、生き抜いてきた事の〈奇跡〉、その霊妙不可思議さに対する、〈畏怖〉の感覚を覚えないならば……。

 改めて、繰り返しておきたい。

「魔法」に「憧れる」ことと、「魔法」を自ら「生きる」こととは、全く違う。

 この「紙一重」の差が指し示す〈まなざし〉の相違こそ、私たちが近代文明の強いてくる〈閉塞感〉を超えて、「脱近代」の生へと転生できるか否かの、〈分岐点〉なのだ。

 宗教的なコスモスを、己れの身体の内に、ひとつの〈実感〉として抱え込んでいた「前近代」の共同体民の、四次元的な生存感覚が、近代人であるわれわれの痩せ細った、三次元的な感覚の〈虚〉をつくのも、そこなのだ。

 己れの身の内に四次元の働き、力を感じ得ぬ者の生は、究極において「うつろ」である。

 そして、「うつろ」であることは、私たちの三次元の〈生活〉という、〈未知〉の恐怖にさらされた現場を生き抜く、究極の拠り所とはなり得ないのである。

 そこには、「生きる」ことの〈絶対感〉というものが欠落しているからである。

『白蛇伝』のアキレス腱、宮崎アニメのアキレス腱は、単にアニメ史だけの問題ではない。私たちの現代文明の暗部の根源を象徴するアキレス腱の問題でもあるのだ。(この稿続く)

 

 

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