東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第8回) 川喜田八潮

  • 2018.03.23 Friday
  • 18:04

 

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 私は、『白蛇伝』の優れた性質を、以上のような、宮崎アニメとの共通項が象徴する特質とは、全く別の次元に見出している。

 それは、無力で生活力の弱い、無垢な、優しいだけの主人公が、その無力さ・優しさのゆえに、理不尽な憂き目に遭い、死に追いやられると共に、聖なる力をもった妖精との摩訶不思議なえにしを招き寄せ、その献身的な四次元的霊力の助けによって、死の淵から甦り、不条理を乗り超えて、幸せになるという、説話的な型のことである。

 それは『白蛇伝』のような中国の民話に限らず、おそらく、世界の各地に古(いにしえ)より語り継がれてきた「貴種流離譚」の一類型であると思われる。

 わが国でも、古代の神話『古事記』の中に登場する英雄オオクニヌシ(オオナムヂ)の説話が、このような貴種流離譚の構成を備えている。

 ここでも、オオナムヂは無力で優しい主人公であり、邪悪な母違いの兄たちに奴隷のように扱われて理不尽な苦役を課され、あげくの果ては、彼らの嫉妬をこうむり、くり返し死に追いやられるが、そのたびに、母神や女神たちの助力によって甦る。優しいだけで、あまりにも弱々しいオオナムヂの魂を、雄々しいものに鍛え上げようと考えた母神は、「夜見国(よみのくに)」の統治者であるスサノオノミコトの許に息子を送りこみ、身に着いた一切の災厄の汚れを払い捨てさせ、スサノオの荒魂(あらみたま)の力を授けてもらおうとする。夜見におもむいたオオナムヂは、そこで、スサノオの娘「スセリビメ」と運命的にめぐり逢い、恋に陥り、結ばれる。

 娘婿となったオオナムヂの性根を試そうとして、スサノオは、次々と恐ろしい試練を彼に課すが、そのつどオオナムヂは、妻のスセリビメの密かな助力や動物の機転によって、難を逃れる。そして、ついにスセリビメと駆け落ちしたオオナムヂは、スサノオの荒魂の宿った呪宝を手にして、夜見国から脱出し、現世の地上界に転生する。

 優しい、穏やかな和魂(にぎみたま)と猛々しい荒魂の均衡のとれたオオナムヂは、英雄・大国主神(オオクニヌシノカミ)となって、スセリビメに支えられながら、邪悪な神々を一掃し、美事に国土を統一する。

 このオオクニヌシ説話における、和魂と荒魂の〈均衡〉というモチーフは、闇の両義性による葛藤のドラマという前述のモチーフと同様、人が不条理とたたかい、乗り越えてゆくために必要なまなざし、生の心棒を象徴的に表現するものである。

『白蛇伝』では、和魂と荒魂は、許仙と白娘のふたりに、分かち持たれている。

 和魂のまさった、優しい非力な主人公の許仙との純愛を成就せんとして、法海を相手に、妖術の限りを尽くしてたたかいを挑む白娘の姿に、彼女の荒魂の烈しさが生き生きと描出されている。また、妖精としての霊力を失い、ただの〈生身〉の人間の女になった白娘が、法海の妖術のひき起こした嵐の海に揉まれながら、必死に許仙のもとに「命の花」を届けようと、小舟を漕ぎ続ける姿にも、彼女の荒魂の息づかいが活写される。

 この白娘の烈しさ、愛の情熱が、ついに、甦った許仙の内に眠っていた荒魂に火をつけ、青年を、いや応なく嵐の海中へと誘(いざな)うのである。

 舟から投げ出されて、溺れかかっている白娘を救うべく、許仙は無我夢中で必死に泳ぎ続け、ついに恋人のもとに辿り着く。感動のクライマックスである。

 許仙の荒魂をひき出したものが、怖れを知らぬ、白娘の愛の烈しさにあったこと。

 そして、その愛を招き寄せたものが、許仙の無垢な優しさと無力さ、生活者としてのひ弱さという和魂のかたちにあったこと。

 この素朴な説話的原型こそ、『白蛇伝』という地味でつつましい、けなげな恋物語に、不滅の力強さを与えている要因だといっていい。

 オオクニヌシの荒魂をひき出し、スサノオの力を彼に授けたものが、スセリビメの情熱的な愛という荒魂の烈しさにあったこと。そして、そのスセリビメの愛を呼び覚ましたものが、オオクニヌシの優しさ、無力さという和魂にあったこと、と同様に。

 許仙もオオクニヌシも、所有し支配することによる力の快感、貪る心から最も遠い存在である。その非力さ、穏やかさ、優しさこそが、澄んだ静けさの気配を漂わせ、人の心を浄め、愛を招き寄せる。

 許仙においては、それに加えて、孤独で繊細なアーティスト魂を備えた青年であるという特性が与えられている。

 彼は笛を吹く。その笛は、〈異形の者〉である許仙の純粋な哀しみと渇きの表現であり、また寂しい慰めでもある。その孤独な音色が、同じく異形の魂を備えた妖精・白娘の心の琴線に触れる。彼女は、青年の笛に呼応する己れの声を繊細な胡弓の音色によって届け、ふたりの魂は響き合い、運命的な愛が生まれる。

『白蛇伝』は、芸術=表現を通して、すなわち、孤独な固有の魂のふれ合いを通して、人がめぐり逢い、縁(えにし)をとり結ぶことの霊妙不可思議さを描いた作品でもあるのだ。

 

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『少年猿飛佐助』では、〈和魂〉は、佐助の姉「おゆう」によって象徴されている。

 ただ優しいだけの、地味でしとやかな美人なのだが、彼女の存在が、佐助と山の動物たちとの、家族のように親密な、閉じられた生活小宇宙のみずみずしい空気を支え、柔らかく包み込んでいるさまが、さりげなく演出されている。

 しかし、動物たちの牧歌的な戯れのシーンが、いつしか、子鹿のエリと母鹿の不条理劇に発展し、「夜叉姫」の登場へと導かれるという、思いもかけぬ光から闇へのナチュラルでダークな〈変容〉が、佐助を変える。

 光溢れる〈日常性〉の背後に、怖ろしい〈闇〉の深淵が潜んでいる事への覚知と実存的な切迫感が、主人公の少年・佐助の〈荒魂〉への志向を促すことになる。

 彼はもはや、親代わりの姉に庇護されているだけの、頼りない、〈受身〉の少年の場所にとどまることはできない。主体性をもった、ひとりの〈大人〉へと成長・脱皮せんとする冒険のとば口に立たされることになる。

 隠れ里のような山中での姉と動物たちとの平和な暮らしを守るために、佐助は、忍術という四次元の霊力を身につけることで強くならねばならないと覚悟を決め、姉の制止を振り切り、置き手紙を残して、夜中に単身家を出てしまう。その弟のふるまいに対して、おゆうは、ただひたすら神仏に無事を祈り、ゆだねるしかない。姉は弟に対して何もしてやれないのだが、弟の身を案じ、はからいを超えて神仏の導きと加護に全てをゆだねようとする、おゆうの澄んだ〈祈り〉の心と優しさこそが、修業の旅におもむく佐助の孤独な覚悟と不屈の闘志をひそかに後押ししている事を、私たちは、画面の進行と音楽によって、ごく自然に感じ取ることができている。

 佐助の〈荒魂〉への志向を生み出し、支えているのは、実は、姉おゆうの〈和魂〉にほかならなかった。四次元の霊力を身につけることで、佐助は、夜見国から脱出して転生したオオクニヌシのように、己れの内なる和魂と荒魂の〈均衡〉のとれた、真に不条理とたたかえる、優しさと猛々しさをあわせ持った人格として完成する。

〈個性〉という意味での人格のことではなく、魂のあり方の普遍的な〈象徴〉としての人格のことである。

 夜叉姫にその美しさを嫉妬され、配下の山賊たちに家を焼かれたあげく、捕らわれの身となったおゆうは、鬼女によってムチ打たれ、断崖絶壁から呆り下げられるが、彼女を慕う真田幸村の果敢な働きによって、危うく一命をとりとめる。この上田城の若殿・幸村とのえにしを招き寄せたのもまた、おゆうの和魂の力である。

 幸村は、上田城下の民家に火をかけ、容赦なく人を殺し、財物を奪い取ってゆく夜叉姫配下の山賊・野盗たちの討伐のため、その隠れ家をつきとめようと、密かに、家臣の三好清海入道とふたりで山に分け入るが、そこでおゆうにめぐり逢い、ひと目惚れしてしまう。

 おゆうは、根っからの山里育ちとは思えぬ、なにか由緒ありげな、気品ある風貌の女性である。少年の佐助が刀を所持していることからも、姉弟は、なにかいわくありげな武家の出身で、わけあって、密かに山中に身を隠しているのかもしれない。

 そんな背景をちらっと想像してみるのも、楽しい。

 おゆうは、何の欲もなく、弟と二人でその日その日をやりくりしながら、隠れ里のような山の中で、世間の目を逃れて、穏やかな日常を守り抜いている。

 世の中のしきたりや身分による窮屈な制約とも無縁だし、財産とて無さそうである。

 何の贅肉も無い代わりに、何の保障も無い。

 貧しい山小屋に住み、ギリギリの自給自足的な暮らしを送っているが、充ち足りた表情をしている。彼女の周りには、落ち着いた、しっとりとした静けさがある。

 小川で一人、髪を洗い、歌をうたっているおゆうの姿を垣間見ただけで、幸村は、無性に心ひかれるものをおぼえる。

 彼女は、優しいだけがとりえの、とことん非力な女性であるが、その非力さ・優しさこそが、佐助に忍術修業の一念奮起を促し、幸村との良き〈えにし〉を招き寄せるのである。

 ここにも、『白蛇伝』と共通する、和魂と荒魂の〈均衡〉という説話的原型が息づいていることがわかろう。

 この伝統的・古典的な説話性が私たちの〈無意識〉に訴えるリアリティの質というものは、決して、他愛ないものとして一笑に付してもよいものではない。

 それは、人のえにしと絆の霊妙さによって引き出され、支えられた、世界への〈信頼〉の感覚、生命的な〈肯定〉のまなざしを象徴するものである。

 登場人物たちは、改めて言うまでもなく、善・悪のメリハリのきいた素朴な、単純きわまる説話的類型として描かれており、〈個性〉などというものは、問題にならない。

 善と悪とが複雑に混濁し、意識と無意識が分裂したまま、欲望に翻弄される、現代的なキャラクターとは、完全に対極にある。

 それにもかかわらず、物語の展開が私たちに深い感銘を与えうるのは、登場人物たちが、個性的な〈人格〉としてではなく、あくまでも、〈風景〉に包まれ、〈風景〉によって活かされた〈象徴的存在〉として感受されているからである。それでこそ、説話的な〈原型〉というものが活きてくるのである。

『白蛇伝』も『少年猿飛佐助』も、共に、画面構成といい、ストーリーといい、人物デッサンやキャラクター造型といい、大らかでありながら繊細で、みずみずしい。素朴な力強さをもった、リアルにして象徴的な作品である。

 説話的な原型を活かす上で必要な〈抽象度〉の水準というものが、きちんと迷いなく定まっており、演出上の贅肉というものが一切無いのである。

『白蛇伝』は、最も地味な素材を扱いながら、私たちが避けて通ることのできない、世界観や生きることの価値をめぐる本質的な問題性を多元的にはらんだ、渋い、味わい深い、異色のファンタジーとなり得ているし、『少年猿飛佐助』は、気品溢れる、伝統的な日本画的美意識に支えられた、光と闇の奥ゆきとふくらみの中に、四次元的な霊力のダイナミズムのドラマを美事に包摂してみせた、空前絶後の、血湧き肉躍る時代劇の名作となっている。

 演出の薮下泰司をはじめとする東映動画の優秀なスタッフ陣が、一九五〇年代後半という時代に、このような深い思想性をはらんだ美事なカラーアニメーション映画を相次いで創り出すことができたという事実に、私は、改めて、驚異の念を覚えずにはいられない。

 終戦から十年ほどしか経っていない、高度成長初期のこの時代には、無傷の自然はまだゆたかで、農業人口が多く、ゆったりとした時の流れと生活リズムの中で人々は生きており、四季の移ろいへの皮膚感覚が鋭敏で、風景には、深々とした生命的な〈闇〉の気配が立ち込めていた。人間関係には、まだ多分に大らかさが残っており、現代の都会人のごとく、孤立した、神経症的な病理に蝕まれてはいなかった。しかも、一九五〇年代の日本人は、終戦直後のような、飢えと極貧の地獄からようやく脱し、生活にいくらかの安定感と将来への希望が生まれていた。

 人々の理性と感性の間には、無意識のうちに、ある種の均衡と融合が保たれ、精神はすこやかだった。

『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』は、そのような稀有な幸福さを保ち得た時代に生まれ得た名作だったのである。(この稿続く)

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第10回) 川喜田晶子

  • 2018.03.22 Thursday
  • 21:24

まだ見ぬ空

 

 学生たちの表現は、一見、昨今のゲーム感覚に汚染されているかのようだが、短い詩篇の中で、この現実における己れの意味を賭けて静かに闘っていた。ゲーム感覚によって世界が狭窄されたのではなく、狭窄された世界観の喩としてのゲームである。狭窄された世界観との闘いは、むしろ古典的な相貌を帯びるほどだし、そこで彼らが見たいと望んだ「空」の風景は逆に新しい。

 

 

   変身   M・M

 

ある日とつ然

空に亀裂が入る

 

異空間から怪物がやってきた

一変した日常

姿を変えて戦う人々

そんな日はこれからも来ることはないだろう

そんな日が来たらおもしろそう

街を歩きながら

目に見える風景にらくがきをした

 

「そんな日が来たらおもしろそう」という言葉の表層とはうらはらに、この作品には、ヴァーチャルな怪物や戦闘シーンによって、現実世界を更地にしてみることへのはしゃいだ期待感は無い。

 庵野秀明が『エヴァ』でこだわってきたような風景、あるいはゲームの中での戦闘シーンを想起させる風景が描かれ、そこでは異空間から怪物がやってきて、人々が「姿を変えて」戦っているのだが、「そんな日はこれからも来ることはないだろう」「そんな日が来たらおもしろそう」というフレーズには、すでにヴァーチャルになら現実を異化され尽くした〈現在〉へのうんざりした想いが漂う。

 表層的な文脈では、これからも変わることが無さそうな「街」を歩きながら、その不変の表情の「街」の風景に「らくがき」をする、つまり想像力で怪物と人々との戦闘シーンを上書きしてみてささやかな気晴らしをしているかのようだ。

 しかし、この作者は、変わることの無い〈日常〉をヴァーチャルに修正したくて「らくがき」をしているのではない。もはや、〈日常〉をヴァーチャルな怪物や戦闘で塗り替える行為ならやり尽くされてきた〈現在〉において、本当の「亀裂」や「一変した日常」とは何か、誰も問うていないことの手触りを、静かに提示していると感じさせるのだ。

〈日常〉と〈非日常〉、〈信〉と〈不信〉、〈責任〉と〈無責任〉、〈社会〉と〈個人〉、そんな対立概念のはざまで、どちらかを択ぶことをやわらかく拒否している文体が、どちらかを択ぶ鋭さよりも不安をそそる。

「ある日とつ然」静かに空に「亀裂」が入り、私たちは静かに魂の「姿を変えて戦う」。そのような「変身」を想い描く行為は、新しい。

 

 

   存在   Y・R

 

見えないはずの彼女を探す

くつもぬぎすてて

彼女はここにいてはいけない

彼はなきながら探す

彼女が早くこの世界に来られるように

彼はついに私を見つけた

泣きながら必死で私を消しに来た彼に一言だけ伝えた

「今度はもっと楽しいのがいいな」

 

 ゲームやパソコンの中では容易に消去できる「存在」。ある世界から「切り取り」、別の世界へ「貼り付け」ることも可能だ。そのような「切り取り」や「コピー&ペースト」が可能な世界ならば、存在も軽いはずなのだが、この作品では、「彼」は「彼女」を探し出し、別の世界へ移動させることに必死である。「くつもぬぎすてて」「泣きながら」、ある世界での「彼女」を消して、別の世界へ移動させようとする「彼」。その「彼」に、「私」は「一言だけ」伝えるのである。「今度はもっと楽しいのがいいな」と。

「今度は」ということは、既に「前回」や「前々回」もあったのかもしれない。何度目かの「貼り付け先」であるところのこの世界の居心地が悪すぎた、そう考えることで、作者はかろうじて息をしている。そして、命賭けで自分を別の世界、いるべき世界へと貼り付け直そうとしてくれる「彼」の存在によって、己れの意味を持ちこたえている。

 

 

   無題   S・H

 

囲め 囲め

机上の空論

すべては碁盤の目の上

0と1の境界

沈んでく 記憶

空の色を2進法で知る時代

嘘つきな数字とたわむれ

捻った頭脳と少しのヒントで

解けるはずの南京錠

まだ開かないままで

かごめかごめ

後ろの正面 立つ君の

目が見えない

自分で作った剣の檻

封じられたまま

まだ見ぬ空を

焦い願う

 

「かごめかごめ」は、集団の輪の中にいる目隠しされた「鬼」が、「後ろの正面」を当てる遊びである。その「後ろの正面」に「立つ君」の「目が見えない」。絶対的な答を持つ者との遥かな距離を感じさせるフレーズだが、「自分で作った剣の檻」の「南京錠」は、「解けるはず」のものだ。ほんの少しだけ何かが変われば。

 だが、作者はその「檻」に「封じられたまま」「まだ見ぬ空を/焦い願う」だけである。それでも、彼女はその「空」を知っている。「机上の空論/すべては碁盤の目の上」に世界が囲い込まれ、「空の色を2進法で知る時代」において、「0と1の境界」に「沈んでく 記憶」。それでも彼女は本当の「空の色」を知っている。彼女の個人史の輪郭を超えて、どこかで知っている。だから「焦い願う」ことが可能なのだ。

 他者や社会によってではなく、「自分で作った剣の檻」であることを察知している彼女には、この「檻」は既に開けられたも同然であろう。

「まだ見ぬ空」を描きながら、私たちにある懐かしさと絶対的なみずみずしさを想起させるこの一篇は、〈個人〉というものの輪郭の強さと、意外にたやすく〈類〉に開かれてゆく私たちの身体の秘密を、鮮やかに示している。(この稿続く)

 

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2018.02.24 Saturday
  • 13:58

 

     12

 

 ここで私が思い浮かべるのは、宮崎駿氏の息子の吾朗氏が監督して制作されたアニメ『ゲド戦記』の「結末」である。

 宮崎吾朗の『ゲド戦記』は、ル=グウィンの原作とは違っている。

 原作者は、アニメの出来ばえに大変不満で、原作に込められたメッセージと人物造型、表現内容の本質が歪められたと激怒しているようだが、原作はあくまでも原作であり、映画は、たとえ原作をふまえていても、芸術作品としては、全く別箇の独立した表現の産物とみなすべきである。

 原作とアニメの違いについて、ここで触れる余地は無い。

 私のここでのこだわりは、次の一点のみである。

 すなわち、宮崎吾朗のアニメ『ゲド戦記』のラストシーンにおいて、主人公の一人である少女の〈本体〉が〈竜〉であることが示され、〈竜〉に化身することが、魂の〈解放〉の象徴として描かれている、という点である。

 このアニメの結末に原作者が激怒したかどうかは、私には分からない。

 だが、宮崎駿氏が、息子の表現した〈竜〉という象徴への〈まなざし〉に対して、内心、ある種の危惧〈きぐ〉の念を覚えたであろうと推察することはできる。

 このアニメを観た後、駿氏がインタビューで、一言、「大人になってない!」と一喝していた光景が、今も私には、印象深く記憶されている。

 はしなくも、ここには、業界人としておそらく空前絶後といっても過言ではないほどの大成功を収めた宮崎駿という天才アニメーターの内に隠された、〈大人主義〉の限界が透かし視える思いがするからだ。

 人間の本体が〈龍〉であって、どこが悪い?

 当時も、今も、私はそう思っている。

 人間は、「人間」などという、ちっぽけなものを超えた、大いなる不可視の〈闇〉としての本体を宿し、その本体によって活かされているにすぎない。

 人間の魂は、三次元の個体としての存在に宿りながら、同時に、その輪郭を超えて森羅万象へと拡がる、広大な〈無意識〉の領域というものを有している。

 フロイトの学説が洞察している通り、私たちの〈身体〉というものは、私たちの〈無意識〉の宿り手である。

 脳は、哲学者のベルクソンもその著書(『物質と記憶』『思想と動くもの』)で明晰に論証してみせているように、私たちの精神を現実生活に向き合わせ、なんらかの形で「適応」させるための、「注意」と「想起」(抽象化ないしは改変を施された過去の経験=「記憶」の想起)の器官であって、心の領域全体をカバーするものでは決してない。

 心は、脳のメカニズムの単なる反映などではなく、逆に、心が脳のあり方を規定し、包摂しているとみるべきではないか、というのが、私の考えである。

 ただし、その心というのは、〈意識〉だけではなく、〈無意識〉の広大な領域を含んでいる。

〈意識〉というものは、私たちの身体が、地上の三次元の生活世界に現実的に(支障なく)「適応」するために、〈無意識〉の中から、そのつど必要な情報やイメージを汲み上げ、知覚や記憶、感情、思考といったかたちを通して、私たちを取り巻く環界や接する対象との間に、固有の〈意味づけ〉を成就せんとする働きにほかならない。(ただし、厳密に言うなら、〈意識〉は〈無意識〉に包摂されているのであり、身体を媒介として、無意識のうちに、知覚所与の喚起や記憶の想起を強いられながら、その「制約」の中で、現実への「適応」を成就せんとするのである。)

 その〈意味づけ〉の現実的なプロセス、すなわち一種の「情報処理過程」を担うのは、たしかに脳という器官なのであろうが、しかし、その脳に情報処理を命ずる力、主体というものは、決して、脳でもなければ、意識でもない。

 いわば、脳というのは、一種の「配電盤」のようなものであって、電源そのものではないのだ。

 脳は、身体という媒体を通して不可知なる電源から送られてきた電流を、適切に配備し、〈意識〉という「照明」を、「種」に固有のかたちで、また個々人に固有のかたちで紡ぎ出す、「配電盤」のごとき役割を果たしているといっていい。

 では、「電源」はどこにあるのか?

 言うまでもなく、私たちの〈無意識〉にある。

 そこにこそ、私たちの〈魂〉の中枢があるのだ。

〈意識〉などというものは、私たちの魂の顕われにとって、実は「氷山の一角」にすぎないのであって、私たちの魂の〈本体〉は、水面下の広大な〈無意識〉をつかさどる目に視えぬ力、エネルギーの源にこそある。

 個的な身体のレベルでこのエネルギーの担い手となるのが、(腎臓を調整機能の中枢とする)「内臓」の働きと「血液」の流れであり、またそれらをつかさどる「自律神経叢」である。

 脳は、「視床下部」を通じて、この「自律神経叢」(ヨガやD・H・ロレンスの言葉で言うところの「太陽神経叢」)と相互作用的に結びつき、自立神経叢に担われた〈無意識〉の力に支えられることによって、はじめてすこやかに機能しうるのだ。

 しかし、私たちの個的な無意識は、実は、より巨きな「類的」な〈無意識〉に包摂されている。

 私たちの身体に宿っている〈無意識〉なるものが、私たちの〈個〉の殻を超えて森羅万象へと拡がっているからこそ、私たちの目にし、感じ取る生身の生の〈風景〉というものは、(それが生命的なものにせよ、虚無的なものにせよ、)単なる〈無意味〉としてのカオスではなく、(主体と客体との相互浸透的な感覚を伴う)〈意味〉と〈価値〉の相貌を帯びた「生ける事象」=知覚所与として、すなわち(過去と未来を〈現在〉の内に包摂し、統合するような)「生ける時間体験」=持続として立ち現われるのである。

 その「時間の発生源」ともいうべき類的な〈無意識〉の領域こそが、生命と虚無、創造と解体の両義性を備えてダイナミックに流動する、不可知なる〈闇〉のコスモスにほかならない。

 フロイトはそれをエスと呼び、東洋の道教やヨガ、仏教の禅では〈龍〉と名付ける。

 西洋では、キリスト教の影響もあって、〈龍〉は、聖者によって退治される「悪役」として形象化されることが多い。(エジプト文明をはじめとする「キリスト教以前」の古代文明にあっては、そうではない。)

 東洋では全く逆に、中国でもインドでも、他の東アジア地域でも、〈龍〉は、基本的に、いのちの根源をつかさどる善なる存在であり、森羅万象に宿り、日輪や月や星辰とコスミックに照応し合う高貴なる生命、魂の霊妙なる導き手であった。苛酷な現世の地上的な生を美事に生き抜かしめる聖なる力の源泉であり、龍や蛇の図像は、その力の象徴として描かれた。

 しかし、人が我欲によって他者の生命を損い、ふみにじる時、〈無意識〉に中心を置く〈魂〉には濁り、汚れが生じ、〈龍〉は「悪しき姿」へと変容する。大小さまざまな龍たちが敵対し合い、闘争を繰り返し、悪因縁の轍(わだち)へと巻き込まれてゆく。

 人に宿った〈龍〉の次元、すなわち個々人の個的な無意識とリンクする類的な無意識の次元というものは、互いに交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発し合いながら、霊妙不可思議な〈えにし〉によって結ばれているのだ。

 洋の東西を問わず、古代以来の文明世界において、優れた哲人・宗教思想家たちが取り組んできた最も重要な課題は、〈悪龍〉の邪気・邪念がもたらした災いからいかにして身をかわし、いかにしてそのまがまがしき力とたたかい、それを克服・解毒し、〈善なる龍〉へと変容させてゆくか、という叡智の追求にあったと言えよう。それは、〈本能〉のもつ正しき力に目覚め、それを活かす道を知るということである。

 真の〈叡智〉は、〈本能〉を敵に回すものではない。

 本能の力を忌み怖れ、敵視し、観念的な道徳や合理主義のみによって己れの生を思い通りに「仕切ろう」とするなら、抑圧された本能はかえって歪み、遅かれ早かれ、〈無意識〉の中で〈悪龍〉と化して荒れ狂うであろう。

 昂進したストレスは、自傷行為的な表現をとるか、あるいは、他者や敵への不毛な攻撃という形をとって、代償的に吐き出されることになる。

 真の叡智は、〈本能〉に正しい居場所を与えてやること、すなわち、〈善なる龍〉としての生命的なかたちを与え、そのエネルギーを適切に解き放ってやることだ。

 それは、己れ自身の生命の充溢を図ると共に、己れとえにしある者たちとの間に、正しき相互扶助や自然分業のかたちをつくり上げてゆく道を模索することである。

 そのためには、私たちは、己れの内なる〈龍〉のささやきに、すなわち〈無意識〉の深みから立ち昇る微かな声に、正しく耳を傾ける術(すべ)を知る必要がある。

 しかし、私たちの個的な〈無意識〉は、さまざまな既成観念によって、がんじ絡めに縛られている。

 その既成観念のとらわれを脱し、心が真に望むものを見つけることは、容易ではない。

 私たちが何にとらわれ、何に苦しみ、何から解放されたいと望んでいるのか?

 それを教えてくれるものは、〈無意識〉の宿り手である、私たちの〈身体〉の感覚である。

 私たちの喜怒哀楽の感情から、対象に対する微かな〈異和〉や〈親和〉の感覚に至るまでの、私たちの身体性の〈揺らぎ〉のあり方こそが、既成観念による呪縛の正体を教えてくれる。

 私たちが既成観念の皮膜を一枚ずつはがしてゆくごとに、私たちは、〈無意識〉の深みから立ち昇る〈渇き〉の声に、正直に耳を傾けることができるようになってゆく。

 魂の〈本体〉に、〈龍〉に近づいてゆく。

 魂の本体が〈龍〉であるというのは、個体としての生命存在をつかさどる不可知なる力の源泉が、個に宿り、個を個たらしめながら、同時に、個を超えた大いなる類的な〈主体性〉の次元にあるということだ。

 われわれ個々人の霊のかたち、(中国哲学風に言えば)心身に内在する固有の陰陽の〈気〉の流れと結びついた、その大いなる〈龍〉の次元こそ、われわれに摩訶不思議なる〈えにし〉をもたらしてくれるものであるに違いない。

 われわれにできることは、その己れを超えた不可知なる〈主体性〉=〈龍〉のはからいに心静かに身をゆだね、祈り、念じつつ、自らの心の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な〈渇き〉や〈促し〉の声に、忠実に耳を傾けることである。

 そして、その〈龍〉の促しの方向性に沿って、(己れの資質が許容する範囲内で)聡明な認識と判断を行い、決断し、己れ自身を賭けるという、固有の〈主体性〉を発揮することである。

 われわれの個としての主体性というものは、個を超えた類的な〈無意識〉をつかさどる、より巨きな主体性の内部に包摂され、活かされることによって、はじめて、固有にして肯定的な生の物語性というものを紡ぎ出せるのではあるまいか。

 己れの〈無意識〉の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な渇きや促しの声を無視し続けたり、封印したり、敵対的に取り扱ったりして、幸せになれるなどと思ったら、大間違いだというのが、私の考えである。

 人は至らぬ生き物だが、幸いにして、めぐり逢いの機縁に恵まれるなら、修行し、魂を磨きながら、自分なりに幸せになることはできる。あるいは、少なくとも、幸せになろうと不断につとめることはできる。

 もちろん、〈幸せ〉の形は、人それぞれである。私がここで言う〈幸せ〉とは、「うつろ」ではない、生命的で自己充足的な、その人固有の生のあり方を指す。

 人の生きる営みを〈龍〉の導きと結びつけてとらえるという感覚・モチーフは、人類史における神話的な〈叡智〉の悠久の伝統につながるものである。

 アニメ『ゲド戦記』の難点は、死の恐怖に蒼ざめ、生の意味を見出せぬまま、うつろな魂を抱えてさまよう主人公の少年アレンと、生命の象徴である〈龍〉のイメージとの間の〈ギャップ〉の巨きさを、(少女テルーが代弁する)死生観の観念的な「お説教」によって、強引に埋めようとする不自然さにある。

 観客は、物語の終局部で、死を意識させられ、実存的な不安を励起させられるが、その不安を癒すような身体的な解放感のイメージは得られぬままに、観念的な死生観のメッセージを残像として引きずりながら、くすぶりを抱えた状態で劇場を後にしたのではなかろうか。〈龍〉は、(監督の意欲にもかかわらず)この物語では「生きていない」、つまりリアリティが無いのだ。

 しかし、このような難点にもかかわらず、アニメ『ゲド戦記』は、少なくとも、私たち現代人が直面している〈生き難さ〉の課題を、〈龍〉の伝統的イメージと結びつけているという点で、重要な問題提起をなし得ているといっていい。

 宮崎駿が、息子の勇気ある、優れた挑戦であり結実でもある、記念すべき監督第一作を不当に貶めた事を私は悲しく思うが、しかしながら、駿氏自身の資質からすれば無理もない、とも思うのである。

 彼は、大人社会のまなざしになじめない自身の資質を早くから意識し、子供性(幼児性)を偏愛し、過度に美化せざるをえなかったがゆえに、〈異形の存在〉たる己れ自身をシカトし、はじき出そうとする大人社会を必要以上に怖れ、そこに過剰適応し、成功せんとしたあげく、己れの深奥に宿る、生命的でありながら狂暴でもある〈無意識〉の両義的で広大な〈闇〉の領域への不当な恐怖の念に絡めとられ、〈表現〉を求めて溢れ出ようとする、四次元的な霊力の〈暴発〉を抑えようとして、敢えて、「魔法」に象徴される四次元的感覚そのものを封印し、三次元の〈生身〉のたたかいの内に、人間の生存感覚の〈根拠〉を回収せんとしたのではなかろうか。

『白蛇伝』で、白娘の「妖精」としてのあり方を、不吉なるものとして、かたくなに忌み嫌っていた僧・法海が、霊力を失って、ただの生身の人間の女に成り切った白娘の変身ぶりを見て、許仙との仲をようやく許し、恋人たちの前途を祝福し得たように、「魔法の封印」による絆の成就(幸せの成就)という宮崎アニメの理念的拘束、大衆へのメッセージの背後には、作家・宮崎駿の、己れ自身も含めた人間の内なる異形性に発する非日常的な狂気に対する〈怖れ〉の念が秘められていたようにおもわれる。

 だが、その身構えは、〈生き難さ〉を抱えた人間たちに、生への四次元的なまなざしの〈支え〉無しに、無理矢理強い「大人」になれという、強迫的なメッセージを送ることになりはしまいか?

 例えば、アニメ『もののけ姫』における「生きろ!」のメッセージに、私は、そんな強迫観念を覚えてしまうのである。

 生の内燃機関を枯渇させてしまって、疲労困憊(こんぱい)し切っている人々に対して、無理矢理オーバーヒートした生き方を迫るような〈不自然さ〉を感じてしまうのだ。

 だが、こんなふうに言うと、宮崎アニメファンの人の中には、反発を感じる人もいるかもしれない。

 もちろん私とて、宮崎作品の四次元的なまなざしの深み、その演出の力強さ、〈癒し〉のリアリティのたしかさについては、高く評価している。

『トトロ』論を中心とする宮崎アニメ論(『日常性のゆくえ』1992年刊)によって、評論家としてのスタートを切った自分である。この作家の作品の真価は誰よりもわきまえているという自負はある。

 その上で、敢えて、以上のような批判を行なっているのである。

 問題は、結局、「魔法」という言葉が象徴するものの〈内実〉をどうとらえるかという〈解釈〉の違いに帰着する。

「魔法」を、異形の魂を備えた異能の持主にのみ許された特権的な才能とみなすのか、それとも、人間一人ひとりの内に秘められた、あるべき〈まなざし〉の象徴とみなすのか、という違いだ。

 それはそのまま、私たちの人生への真向かい方、「立ち位置」の違いの問題でもある。

 

     13

 

「魔法」の記憶を温存し、それに「憧れる」ことと、「魔法」を自らの〈身体〉の四次元的な深みにおいて実際に生きることとは、全く違う。

 現代の私たちの社会では、大衆は、大成功を収めた、芸能人・スポーツ選手・アーティストその他の、ひと握りのカリスマ的なヒーローたちに、「魔法」の体現者を幻視し、彼らを崇拝し、魂を収奪されることで、己れの生を鼓舞せんとしている。

 もちろん、それも悪くはなかろう。

 なんらかの偉大な才能に恵まれ、それを磨き、発揮し得た者たちを己れの「神」として敬うことは、生きる上での励みともなり、温かい風を身体に送り込む営みでもありうるからだ。

 だが、「魔法」の体現者としてのカリスマ的な天才たちに、人生の〈奇跡〉の成就を視ようとする現代の大衆の中には、その憧憬とは裏腹に、〈奇跡〉とは縁遠い、不条理な、三次元的・地上的現実に這いつくばらせられている己れ自身の生きざまへの侮蔑や嫌悪の念を抱え込み、人知れず苦しんでいる人たちも、少なからずいるのではなかろうか?

 だとしたら、それは、不幸なことである。

 誰のものでもない、自らの固有の人生に、他者との比較を超えた、真のプライドと生きる手応えを見出し、さまざまな人との〈えにし〉に助けられつつ、幾多の苦難・障害をそのつど〈奇跡〉のようにくぐり抜け、人生における〈出逢い〉の不思議さをかみしめつつ、ひたすら、黙々と一本の道を歩み続けてゆく。

 そこにこそ、真の〈魔法〉があるのだ。真の花道があるのだ。

 生きるとは、己れの内に宿りながら己れを超えた力によって活かされることであり、また、己れの深奥から立ち昇る内的な促しに従って、悔いの無いように、未知の流れに自らを賭け、いのちの〈火〉を紡ぎ出すことだ。

 自らの人生に〈魔法〉の働きを視ずして、どこに視ようというのか。

 自らの人生に、生き抜いてきた事の、生かされてきた事の〈奇跡〉を視ずして、どこに視ようというのか。

 カリスマもけっこうだ。天才もけっこうだ。彼らの偉業や生きざまから、インスピレーションを受けるのも良い。

 私は高校野球ファンで、毎春・毎夏、球児たちが繰り広げる「一期一会」のなまの闘いのドラマには、大いなる感動を与えられている。

 また、テレビの特集番組などで、さまざまな、その道一筋の職人さんや無名の生活者の人たちの仕事ぶりや暮らしぶりの一端に触れるのも好きだ。

 私の知人たちが時に垣間見せてくれる人生の表情・哀歓にも、胸打たれることがある。

 そこには、人生の修羅場を斬り抜け、己れの固有の生を美事に織り上げてきた者の年輪の厚みと、人と人とのえにし、めぐり合わせの不思議さ、人生という〈物語性〉の霊妙さがにじみ出ている。

 こういったさまざまな人たち、同朋の姿を凝視してみることは、実に味わい深いことであり、私たちにとっても大きな励みとなるものだ。

 だが、どんな天才・ヒーローたちの生きざまも、また、有名無名のどんな人たちの生きざまも、そのドラマに感動するだけでは、何にもならない。

 他ならぬ己れ自身の人生の内に、生き抜いてきた事の〈奇跡〉、その霊妙不可思議さに対する、〈畏怖〉の感覚を覚えないならば……。

 改めて、繰り返しておきたい。

「魔法」に「憧れる」ことと、「魔法」を自ら「生きる」こととは、全く違う。

 この「紙一重」の差が指し示す〈まなざし〉の相違こそ、私たちが近代文明の強いてくる〈閉塞感〉を超えて、「脱近代」の生へと転生できるか否かの、〈分岐点〉なのだ。

 宗教的なコスモスを、己れの身体の内に、ひとつの〈実感〉として抱え込んでいた「前近代」の共同体民の、四次元的な生存感覚が、近代人であるわれわれの痩せ細った、三次元的な感覚の〈虚〉をつくのも、そこなのだ。

 己れの身の内に四次元の働き、力を感じ得ぬ者の生は、究極において「うつろ」である。

 そして、「うつろ」であることは、私たちの三次元の〈生活〉という、〈未知〉の恐怖にさらされた現場を生き抜く、究極の拠り所とはなり得ないのである。

 そこには、「生きる」ことの〈絶対感〉というものが欠落しているからである。

『白蛇伝』のアキレス腱、宮崎アニメのアキレス腱は、単にアニメ史だけの問題ではない。私たちの現代文明の暗部の根源を象徴するアキレス腱の問題でもあるのだ。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第9回) 川喜田晶子

  • 2018.02.23 Friday
  • 18:26

〈更新〉への想い

 

 己れを更新することは、そのままこの〈天地〉というコスモスを更新することでもある。そのことへの〈信〉が薄れゆく歴史の中で、表現者は、自傷行為的なアプローチで己れの痛みを掘り起こし、世界との逆説的な連続感を強引に見出そうとしてきた。近現代の表現史をそのように総括することもできよう。

 

名月や笛になるべき竹伐(き)らん   正岡子規

 

 正岡子規の俳句の中で、最も好きな句のひとつだ。

 名月、笛、竹、といった古典的な取り合わせであるが、「笛になるべき」には、「笛になる運命を背負った」という含みがあり、ここで伐られた竹は、他のどの竹とも異質な固有の矜持を抱いて笛となる天命を帯びているのであり、その固有性と天命とが月の光を浴びて融け合う姿は美しい。その竹によって生まれた笛もまた、唯一無二の存在として音色を響かせるとき、この世界を更新しないではおかないだろう。新しい時代へ表現を解き放とうとする者の気概がみなぎる名句である。

 

あかつきの竹の色こそめでたけれ水の中なる髪に似たれば   与謝野晶子

 

「あかつきの竹」が「水の中なる髪」にたとえられることで、「竹」ばかりではなく、この世界すべてが水の中に浸されたような錯覚をおぼえる。「あかつき」という、光と闇の交錯する時間帯に世界が見せる表情のなまめかしさ、艶やかさ。「竹」とともに己れ自身も「あかつき」に浸るならば、自らの〈身体〉の不可視の巨(おお)きさに目覚めないではいられまい。

 

この心葬(はふ)り果てんと秀(ほ)の光る錐(きり)を畳にさしにけるかも   斎藤茂吉

 

 自傷行為的な歌心が時代に兆し始める。己れ自身への鬱屈した粘度の高い異和感が、「秀の光る錐」を畳にさすという行為によって鮮やかに象徴される。錐の秀(つまり先端)の光と、その錐の先が畳にささる瞬間の感触へのフェティッシュなまなざしは、己れの身体と天地との分極をなだめようとして妖しい倒錯性へ傾斜してゆく。

 

さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる   北原白秋

 

 この世界に異形の者として存在する痛みは、その異形性を通して世界を更新し、己れの存在を肯定しようと試みる。「さいかち」は15メートルほどにもなるマメ科の植物。幹や枝にはトゲがある。己れの魂をこの植物に託す白秋。「青さいかちの実」となって風にざわめいてみせるならば、「雪」が降ってくる。その「雪」は、「青さいかちの実」となった白秋の異形意識の鋭さが、孤独な魔法使いのように表現という「杖」を振るって降らせたものだ。

 

   もういいの   金子みすゞ

 

―もういいの。

―まあだだよ。

びわの木のしたと、

ぼたんのかげで、

かくれんぼうの子ども。

 

―もういいの。

―まあだだよ。

びわの木のえだと、

青い実のなかで、

小鳥と、びわと。

 

―もういいの。

―まあだだよ。

お空のそとと、黒い土のなかで、

夏と、春と。

 

「かくれんぼう」において「見つかる」とは、何を意味するのか。童心溢れる一篇のように見えて、ここには生と死のぎりぎりのやりとりが不思議な期待感を帯びて描かれている。「かくれんぼう」で鬼に見つかることは、遊びとはいえ「死」を意味する。びわの実が熟して小鳥に見つかると、食べられるという形の「死」が訪れる。夏が来るのは春の「死」でもある。どこかどきどきしながら「死」に見つかるのを期待していることで輝き、巡る命。透明だが不安定な躍動感がきらめくのだ。

 

もういちど生れかはつてわが母にあたま撫でられて大きくなりたし   前川佐美雄

 

 母にあたまを撫でられた体験の乏しさが滲む。現実にそのような体験がどれくらいあったかということよりも、母にあたまを撫でられることで癒されなければならなかったはずの〈傷〉のかたち、成長過程における〈欠落〉の感覚がくっきりと浮かぶ。

 

つひにわれも石にさかなを彫きざみ山上の沼にふかくしづむる   前川佐美雄

 

 石に魚を彫り刻んで、山上の沼に深く沈めるという行為には、誰にも見られずに己れひとりで世界を変える伝説を創ろうとするような、幻想的革命への屈折した渇望が感じられる。「つひに」には、永く持ちこたえてきたその渇望を、今こそ実行に移す時が来た、とでも言わんばかりの、不穏な感慨がこもっており、「われも」によって、そのような行為が累積されてきた、秘められた伝説の末端に自分も加わるのだ、という表明がひそやかに誇示される。深く沈めた石の魚が、誰の目にも触れることなく生命を得て、超越的な危うい力を駆使し、沼の底からこの濁世を転倒する日を夢見るかのような。

 

生命線ひそかに変えむためにわが抽出(ひきだ)しにある一本の釘   寺山修司

 

 自分の「生命線」という変えがたいものへの、ほぐし難く絡まり合った愛憎。己れを規定するものへの憎しみと、それによって生かされてもいることの甘やかさ。抽出しにしのばせた「一本の釘」で、生命線を変えようとの欲動を、そのまま抽出しにいつまでもしのばせておく行為。己れを変えることよりも、変え難さによって身もだえする痛みを、釘をながめては掘り起こし、〈生〉のいびつさを確かめようとする衝動のかたち。

 

じゃんけんで負けて螢に生まれたの   池田澄子

 

「じゃんけん」で勝ったら人間に生まれるのだろうか。負けて「螢」に生まれるのなら、勝ち負けの意味は転倒される。この人間の構成する価値とは別の「螢」の次元があり、その「螢」の目で、世界を一瞬にしてほほえましく更新することも可能だ。

 

空蝉(うつせみ)ほど全(まった)き殻(から)を脱ぎたしや   花谷和子

 

 空蝉ほど完全な殻の脱ぎ方を、人はなかなか出来ないでいる。成長、老い、死。鮮やかに脱ぎ切って己れを、世界を、更新するための条件が奪われ、薄れゆく。〈生き難さ〉が蔓延する。空蝉への憧れが身体を解き放つのではなく、人の解き放たれ難さを地上的に印象づける。

 

 己れの〈身体〉を通した天地〈更新〉への渇望が、時代が進むにつれて地上的に、あるいは痩せ細った地上の逆立ちした幻想への跳躍として、想い描かれるようになる。己れと天地との分極を、病む。

 一瞬で、全てを。それが可能だった世界観の豊潤さから、可能にするための息苦しくも逆説的なアプローチへと、遷移してきた表現の触れ幅の大きさが確かめられる。(この稿続く)

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2018.01.28 Sunday
  • 15:34

 

     10

 

 相似た魂をもつ者同士の愛、すなわち、同化=一体化への渇望を秘めた、男女や同性の対(ペア)、さらには、なんらかの観念や教義、信仰、理想などを共有する同志的結合や共同体の絆がはらむ第二の危険は、彼らの閉ざされた、自己完結的な〈愛〉のかたちが、〈孤絶〉と表裏一体となった、エロス的な幻想的システムの表現行為となっているという点である。

 彼らのみの間で幻想的に紡ぎ出され、共有された〈まなざし〉によって負のレッテルを貼られた外界の〈異物〉、すなわち、彼ら以外の周囲の人間・事物・世界のもつ〈他者性〉というものを、あるがままに受け止めることができぬままに、尊大な誇大妄想や権力意志、あるいは迫害妄想などの狂気に、知らず知らずのうちに追い込まれてしまうという危険性である。

 人間一人ひとりは、実は、恐竜とアリの隔たりにもたとえられるほどの、生き物としての異質さ・多様性を秘めているのである。

 極論したたとえ方をするなら、人類という種の中に、ありとあらゆる生物種の多様性がはらまれていると言っても過言ではないほどの、恐るべき無数の多様性、普遍性の組み合わせがありうるのだ。

 それは、人間にとって、偉大な分業を可能ならしめるベースともなりうるが、同時に、孤独と脅威の源ともなりうる。

 われわれは、無限に多様な人という生き物の関係の渦中で生きねばならないのだ。

 己れの〈個〉としてのアイデンティティーとプライドを保ちながらである。

 前近代の共同体社会・伝統社会の中では、人は、血縁・地縁の濃密な関係によって結ばれ、生活様式を共にする共同体民として、ひとつの宗教的で習俗的な生活小宇宙(コスモス)の内に包摂されることによって、己れの役割分担とアイデンティティーを安定的に了解し得ていた。

 そこでは、人間本来の個性の〈差異〉は、均一の共同幻想の下に、いわば覆い隠されていた。

 しかし、そのような共同体社会の伝統的な足枷を壊し、〈個〉としての自我意識を拠り所として生きるほかはない、われわれ現代人にとっては、人間一人ひとりの「生き物としての差異」というものは、もはや、覆い隠すことのできないもの、己れのアイデンティティーを常に脅かすものとして、立ち顕われてこざるをえない。

 貨幣と情報の魔力によって、欲望が無限に多様化し、神経が細分化し、自意識が肥大化してしまった近現代人にとっては、隣人も、世間の他者も、親類・縁者や家族でさえも、大なり小なり、生きる場所を異にする、内面的には互いに触れ合うことのない、恐るべき異類のような存在へと変貌していく。

 互いに、どんなに親愛感情を抱いていても、根底においては、孤独なのである。

 私たちは互いに〈個〉として分断されながらも、身内や他者からさまざまな〈関係〉を強いられ、絶えず油断なく身構えている。

〈個〉は、常に、己れの〈個〉としての固有のあり方・生きざまを否定し、打ち消さんとする負の力の脅威の下に置かれている。仲間との生命的な絆を求めながらも、敵の脅威におびえている。

 人間は、生命と虚無の両義性を備え、生死をつかさどる、大いなる宇宙的なカオスの中を漂流している。人は、そのカオスの中で、己れ自身の「立ち位置」を定め、安心立命を得なければならないのだ。

 個人は、他の誰でもない、固有の生命と輪郭を備えた個人として生き抜き、幸せにならんとするなら、同時に、個人の生死という有限性を超え、〈個〉としての輪郭を超えて、〈類〉的な生命の次元に生きることができねばならない。

 西田幾多郎流に言えば、この「絶対矛盾」を、「自己同一性」として生き抜かねばならないのだ。

 個人は、視えている風景も感覚も全く異なる、己れとは「生き物」として異質なる存在といってもよいほどの〈他者〉の存在・脅威にとり巻かれながら、そのあつれきを超え、絶えず、己れの存在を「卑小」なるものとして意識させ、「相対化」して止まない世界のあり方という「否定的な媒介」を通して、逆説的に、〈個〉と〈類〉の矛盾を「止揚」してみせることで、「生きること」の〈絶対感〉を獲得してみせねばならないという、困難な課題を抱えている。

 魂の相似た者同士、あるいは、共通の不遇感や疎外感を抱く者同士が、感覚やまなざしを共有することで、閉じられた〈愛〉や同志的な絆の世界を紡ぎ出し、幻想的な〈一体化〉の渇望を充たし、己れにとって〈異物〉となる〈他者性〉に対して、一方的・一面的に〈負〉のレッテルを貼り付けて、これを貶め、「排除」せんとすることは、「類と個の止揚」という困難な課題に対して、尊大で不幸な、一人よがりの場所に立つことで、安易な解決を図らんとする、痛ましい錯誤の道でしかない。

 それは、人々を精神病理へと追い込み、恐ろしい抗争・害悪をもたらす陥穽(かんせい)に転落することである。

 対(ペア)においては、それは愛の〈強制〉の病となり、集団においては、共同幻想による閉鎖的なイデオロギーの支配をもたらす。

 その結果、「内側」では、愛や絆を腐らせ、「外部」に対しては、断絶意識と攻撃性によって、妄想や狂気の表現形態をとって溢れ出る。

 周囲の人間たちや世間・社会の生態から浮いた、孤独な存在である〈異形の者〉にとっては、その誘惑への危険性は、とりわけ高いものとなる。

『白蛇伝』の主人公「白娘」と「許仙」は、まさに、その危険性にさらされた異形の者たちであり、宮崎駿にとっての〈子供性〉〈幼児性〉というものも、また、そのような危うさにさらされた異形の魂のかたちにほかならないのである。

 

     11

 

 異形の者たちが駆使しうる「魔法」の霊力とは、実は、精神病理と反社会的な狂気、己れの人生と他の人間たちに対する〈尊大さ〉のもたらす害悪と〈紙一重〉の危うさをはらんだものなのだ。

 宮崎駿が、己れの作品において、「魔法」の力、その存在意義というものに対して過度に警戒的になるのは、おそらくそのためである。

「魔法の力」というものは、異形の能力を備えた者を、「選ばれたる貴種」としての「神の使い」であるという〈使命感〉によって、尊大にしてしまう危険性をもつのだ。

 それは、人を不幸にし、己れ自身の人生をも不幸なものにする。

『白蛇伝』では、許仙と白娘が結ばれて、人間社会に受け容れられ、幸せになるには、白娘が妖精としての霊力と、霊的存在として永遠に生き続けるという不死の魂を失い、ただの三次元的な〈生身〉の女にならねばならない、とされている。

 この結末はそのまま、宮崎アニメのモチーフに通底するものである。

 宮崎駿の表現理念には、異形の人間が社会から受け容れられ、己れの固有の居場所を持ち、幸せになるには、「魔法」を封印しなければならない、という強迫観念が付きまとっているようにおもえる。『崖の上のポニョ』しかり。『千と千尋の神隠し』でも、竜の化身であるハクは、千尋と最終的には一緒になれず、千尋はハクを振り向かずに親元に帰る。『となりのトトロ』でも、サツキとメイの姉妹は、森の妖精トトロと一体となって〈風〉に化身するが、それはあくまでも〈夢〉の中での出来事であって、死の恐怖と不条理に立ち向かうには、ひたすら、トトロへの「神頼み」にすがるしかないのである。

 もっとも、『となりのトトロ』では、サツキとメイの姉妹が〈風景〉と交感する時の身体感覚の丁寧な描写が精緻に積み重ねられ、その延長上に、森の妖精トトロとのファンタジックな交感の物語が紡ぎ出されることで、〈個〉としての三次元的・可視的な存在の〈輪郭〉を超えて森羅万象へと拡がる、四次元的で不可視的な〈類的身体〉のかたちが象徴的に描出されており、その特質は、『少年猿飛佐助』の演出姿勢と世界観にも通ずるものがあるといっていい。

 しかしその類的な身体感覚は、『トトロ』にあっては、あくまでも、「幼児期」と「児童期(少年期)」の子供に特有の〈一過性〉の体験として、〈大人〉の場所からは巧妙に排除されているのである。

 私たちは、映像の中で、サツキとメイが精霊トトロと一体となって〈風〉に化身するさまを見つめることで、すばらしい四次元的な身体的解放感を味わうことができる。

 だが、その四次元的なまなざしは、この作品世界にあっては、あくまでも夢の中の出来事であるか、あるいは、子供時代に限って一瞬味わうことの可能な、神秘な異界体験=異形感覚の象徴として、大人的な現実世界からは疎外され、成長過程の中で「封印」させられた能力として処理されている。

 四次元のパワー、霊力は、人間の〈生身〉の身体感覚の延長上に、微かに〈気配〉のようなものとして感じ取られてはいるが、それは、三次元の散文的な現実世界を生きる大人のまなざしからは、常に〈外部〉にある客体として位置づけられているのである。

 四次元的なまなざし・生存感覚に対する、このような位置づけは、宮崎作品の〈枠組〉を理念的に拘束するものとなっている。

 もっとも、『風の谷のナウシカ』の「原作」のマンガでは、宮崎駿の〈無意識〉は、そのような理念(イデオロギー)の強迫観念にあらがい、主人公ナウシカの〈生身〉の体感の延長上に、有毒な瘴気(しょうき)の充満する死の森である「腐海」と共存しながら、それを超える生命的な四次元的霊力のかたちを幻視してみせている。

 SFという設定の下でではあるが、生命と虚無の両義性を備えた渾沌(カオス)としての〈闇〉のうねりを、自らの身体の深奥より紡ぎ出し、その生存感覚を心棒として「生きる」という、実存的な身構えを、美事に象徴的に演出してみせているのである。(なお、原作『風の谷のナウシカ』における、この〈闇〉への両義的なまなざしをめぐる問題については、雑誌「現代詩手帖」一九九五年十月号に掲載された拙論「〈光〉の源泉としての〈闇〉―――宮崎駿『風の谷のナウシカ』の世界視点」を参照していただければ、ありがたい。)

 そのような例外的な作品もあるけれども、基本的には、宮崎作品の理念的な建て前は、『白蛇伝』と同様、「魔法の封印」という代償による絆の成就(幸せの成就)という強迫観念に拘束されているといっていい。

「魔法」「魔物」といった四次元的な霊性は、常に、三次元的な実生活の〈外部〉に置かれている。

 宮崎アニメ、とりわけ『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』は偉大な作品群であるが、この理念的制約という一点に焦点を合わせる限り、『少年猿飛佐助』が象徴的に表現してみせた、闇と光の交錯する四次元的なカタルシスには、及ぶべくもないのである。

 宮崎アニメにみとめられる、このような理念的拘束には、二つの背景がみてとれるようにおもえる。

 一つには、先にも強調したような、プライドの強い異形の魂の持主が陥りやすい、孤絶感と表裏一体となった、己れの魔性の能力・霊力への尊大な過信がもたらす病理・狂気への危惧(きぐ)の念である。

 しかし、そのような怖れの念にもかかわらず、もちろん宮崎駿には、子供性によって象徴される異形の魂に対する、過剰なまでの思い入れがある。

 異形の魂の持主が、そうではない、普通の俗世間の人々の中に在って、他者や己れを損ねることなく幸せになるには、「魔法」を封印したままで、己れの内なる宝を守り通さねばならないというのが、おそらく、この作家の表現者的な立ち位置である。

 宮崎駿は、倫理的な作家である。

 もし彼が、己れの異形の魂に発するデモーニッシュな非日常的衝迫を、ただ「吐き出す」だけの〈表現〉に甘んずることができたとしたら、彼は、そのような〈闇〉の湧出のかたちを、病理や狂気に追い込まれた人間の破滅的な〈悲劇〉の物語として造型するという、いわゆる「芸術至上主義」の作家への道を歩んだに違いない。

 しかし、彼は、日常や社会を超越して、非日常的な〈闇〉の時空に魂を自在に羽ばたかせたいという渇望と共に、人が日常と実生活に着地して幸せになる道を指し示したいという、倫理的な使命感をあわせ持った表現者であった。

 しかも、少年期・思春期の子供から大人までの巾広い世代を「受け手」とする、アニメーターという職業作家の道を択びとった人である。

 是が非でも、その業界で「成功」し続けなければ「後が無い」という場所に置かれた産業戦士=業界人なのだ。大衆の支持は、彼にとって必須要件だった。

 異形の魂の持主に思う存分に「魔法」の力をふるわせたあげく、物語の終局部で、敢えてその魔法を「封印」させてしまうという宮崎アニメの微温的な理念的拘束が、ここに生まれる。これが、第二の背景である。

 まさに、己れの資質を活かすための、アクロバティックな苦肉の策であるといってもよいだろう。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第8回) 川喜田晶子

  • 2018.01.27 Saturday
  • 14:28

 

〈更新〉への想い

 

 己れの無意識を浸す不条理感を超えてその〈生〉を更新したいという想い、更新すべきだという想いが、学生たちの作品には〈生き難さ〉の痛みとともに十字架のように貼りついている。

 

   誰かの人形   N・M

 

たくさん辛いことが重なった

僕は必死に生きようとした

たくさんの人を傷つけた

私は自分のために「愉しいこと」だと錯覚した

たくさんの努力が認めてもらえなかった

俺は結局何にもできなかった

 

誰かに愛してもらいたかった

 

私はきっと、人でなし

 

「僕」「私」「俺」「私」と、一人称が転変することで、苦闘の角度が変わる。

「たくさん辛いことが重なった」によって、個人の責任を超えてのしかかる不条理の存在をまず提示する。「僕」は「必死に生きようとした」。かろうじて個人に可能な努力をしてみた「僕」。

「たくさんの人を傷つけた」では、他者との関係の網の目に翻弄され、人が人をいつの間にか傷つけてしまう不毛さ、無力感が指摘される。「私」はそれを「愉しいこと」だと「錯覚」しようとした。

「たくさんの努力が認めてもらえなかった」では、個人の努力が他者には評価の対象とならないことで、〈無意味〉へと放逐される「俺」の姿が浮上する。「俺」は「結局何にもできなかった」。

「僕」「私」「俺」に共通するのは、他者、関係、世界に対して個人の〈意味〉を必死で模索するが、空転してしまう存在の空虚さである。

 本当は「誰かに愛してもら」うことで、その〈意味〉を得たいと望んでいるだけである。そのシンプルな願望をきちんとこの現実に定着できない「私」とは、「人でなし」なのだろう、と総括する。人である以上、本来、誰かに愛されて〈意味〉を得られるように、不条理と闘い、人を損ねず、努力を評価されなければならない。そのような営みをなし得ない自分は、本当の主体性を持ち得ているとはいえないのであり、「誰かの人形」でしかない、と、作品のタイトルが作者の洞察を語っている。

 個人の「主体性」が、ある限定をこうむっており、そのことが、〈意味〉ある人生への己れの存在の更新を阻んでいる。限定の厳しさ、わびしさを明晰に洞察しているのに、その限定を超えられないという絶望感。

 しかし、「私はきっと、人でなし」というフレーズは、卑下には見えない。「人」であるための「主体性」についてこれほど高精度に突き詰めることなく、誰もがほどほどの自己肯定感を維持して生き延びている。精確に「人」であるためのハードルを認識してしまった作者の方が「生まれてすみません」といった気分になってしまうのはなぜか、という問いかけは、太宰治的な、確信犯的な批判精神、とも読める。

 

 

   私   I・T

 

汚れきったキャンバスを

真っ白な絵の具で塗りつぶそう。

何も知らない私、

何色にも染まってない私。

全て最初からやりなおし。

次こそ素敵な作品にするんだ。

また汚くなったら最初から。

 

 絵画作品の創作になぞらえた、人生の「更新」についての想い。

「次こそ素敵な作品にするんだ」には、何度も何度も自身を「汚れきった」キャンバスにしてしまった苦さが滲む。そして、「真っ白な絵の具で塗りつぶ」しても、本当はその下には過去が累積してしまっていることも、よく承知している。それでも、「何も知らない私」「何色にも染まってない私」を再現すること、何度でも「全て最初からやりなおし」ができることにこだわる作者。

 社会や関係の中で染みつけられてしまったもの、観念的な「知」に汚されて「色」のついてしまった自分、への、強い忌避感が発せられている。

 繰り返し「真っ白」に戻そうとするその「忌避感」にはしかし、神経症というよりは、自分のこだわる「白」、守りたい自分、へのあくなき追求の心映えが感じられる。

 

 

   海   M・M

 

つめたい色につめたい水

音は聴こえないし息もできない

私はつめたいものにつつまれる

耳をすますとあたたかいものにつつまれている感じがした

 

「つめたい色につめたい水」「音は聴こえないし息もできない」「私はつめたいものにつつまれる」が、この現実のことであるなら、日常的に作者の生存感覚がどのような場所に追い詰められているのかが、シンプルに伝わる。

 唐突に、「耳をすますとあたたかいものにつつまれている感じがした」と作品が結ばれる。耳をすます必要があるのだが、かすかに聴こえてくるものによって、つめたい現実が塗りかえられた感覚。別のどこか、ここではないどこか、に行かなくても、そのままで、「あたたかいものにつつまれている感じ」は実現するのだ。

 まだ、全身的に解放感をもってその「あたたかいもの」を享受できている文体とは言い難いが、かすかな予感・予兆を捕まえようとしている。バーチャルな幻想への逃避行ではない。そのまま、現実が「更新」され得る予感がする。魂の感じた「海」は、物理的に作者を取り囲む「海」のもう一つの貌なのだ。(この稿続く)

 

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『右大臣実朝』と宿命(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2018.01.26 Friday
  • 11:01

 

     6

 

『右大臣実朝』前半における実朝像は、ひと言でいうなら、〈生活者〉として、微塵も曇りやぜい肉というものが無く、まことにみずみずしい、あたたかい生の息吹に満ち溢れている。

 その〈光〉の強さは、次第に拡散し浸透する時代の暗鬱な妖気や滅びの気配によく拮抗し得るものとなっている。

 このような実朝像が、作品後半では劇的に崩壊していく。

 この鮮烈な逆転の構図が、『右大臣実朝』の哀しい美しさをひときわ際立たせている。

 実朝の生活意識を曇らせ、徐々に蝕み、崩壊に導いたものは何か。

 結局、じわじわと目に見えぬ形で無数に繁殖していく「北条的なるもの」の、真綿で首を絞めつけるような隠微な重圧に、実朝もまた抗し得なかったことによる。

「北条的なるもの」は、心ある御家人たちの間に、次第に息苦しさと強烈な憎悪を醸成していく。そのストレスは、やがて、泉小次郎親平の反乱とそれに加担した和田義盛一族のメンバーやその他の御家人たちの罪科に発展する。

 実朝は、反徒たちに対しても一向に怒らず、むしろ寛大な処置をもって臨むが、首謀者の一人である義盛の甥「胤長(たねなが)」に対する、北条義時の、挑発的ともいえる無神経な処罰のやり口に逆心を抱いた和田一族の乱が勃発してしまう。そこには、義時や大江広元に対する御家人たちの積年の怨恨が横たわっていた。

 実朝は、すでにはるか以前から、その趨勢を、漠とした妖気のようなものとして鋭く感受しており、あたかもその妖気を象徴するかのように、この時期には、年々、天変地異が相次いでいる。そのためか和田の乱の一年前頃から、義盛への愛顧も一段と深まり、また、寺社への尊崇のふるまいも強まっていく。

 しかし、それにもかかわらず、その妖気を押しとどめることが結局は不可能であること、北条への反発はやがて内乱につながり、自分もまた、その歯車の内に〈体制〉の象徴として巻き込まれざるをえないこと、政治的な責任者としての自分には、結局、何ひとつ良き解決は計り得ぬ事を知っていた。内乱時の「大義名分」は、結局、幕府方(御所方)勝利の暁には、北条氏の手に帰することになるからである。

 和田一族への手厚い鎮魂と、彼らの酸鼻な滅亡の修羅の形相(ぎょうそう)やそれによって受けた傷心のおもいを精一杯うたうことしか、実朝にできることはなかった。

 

「五月二日、酉剋(とりのこく)に至って和田四郎左衛門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代えがたくお可愛がりになっていた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになって、落馬せんばかりに驚き、人まえもはばからず身を震わせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになった、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよい歩き、ついに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、ようやくおさまり、その夜は由比浦の汀(みぎわ)に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明(たいまつ)の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいといなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠っておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになって、けれども流石(さすが)にその夜はお気軽の御冗談もおっしゃらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。

 焔(ほのほ)ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ

 カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀(あはれ)トヤ云ハン

 神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ

 などという和歌のお出来になったのもその夜の事でございまして、五月雨(さみだれ)がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまいりまして、それから二十数年経った今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。」

 

 小説では、ここに引用された歌を和田合戦終結直後の作品として位置づけているのだが、説得力のある解釈だとおもう。

「神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは」の歌は、近代主義的に解すべきではあるまい。時代の〈妖気〉も人の心がつくり出すものならば、それに抗し、不可視の浄化力の〈光〉を放つのも、また、「人の心」なのだ。それを「神」といい、「仏」というならば、時代の巨大な〈悪〉のオーラに抗し得なかった人々の、また己れ自身の、〈気〉の衰弱をうたうものだともいいうる。

 ある意味では、源家嫡流の呪われた〈血〉の衰弱ぶりに、また、政治家としての最高の象徴にあずかる自身の〈矜持(きょうじ)〉の重さのしからしめる制約に、どうしようもなく圧しつぶされたのだといえないこともない。

 現世の政治世界、権力意志の関係の場というものは、そもそも、北条のような手合いがのさばらずにはおかない、どうしようもない汚濁の巷(ちまた)なのであり、頼朝死後の幕府のような〈秩序〉の冷酷な形成期には、ことのほかそうなのだ、という開き直りと断念の場所に徹することもできなかった。その分だけ、個人としての実朝の魂は、本来の強靭な〈光〉を保ち続けることができなかったのだともいいうる。

 和田の乱の直前頃から、颯爽とした「政治家」実朝の姿は急速に影をひそめ、何かががくりと崩れ去るように、「それまで固く握りしめ」ていた何物かを「その時からりと投げ出して」しまったようになる。

 和田合戦終結以後の実朝は、朝廷と神仏への帰依を除いては、すっかり政治への関心もなくし、投げやりになる。和歌への情熱も、乱の起こった建暦三年(建保元年)を境にほとんど消えうせ、酒宴に興じる日々だけが際立つようになり、幕府おもいの武骨の御家人の心も、次第に実朝から離れていく。*

 執権義時のみは、そういう将軍のありさまも見て見ぬふりをしつつ、実務に忙殺される日々を送っている。

 そして、宋人陳和卿との出会いと将軍の前身が宋朝医王山の長老であったという夢告を口実に、「渡宋」計画を立て、唐船の建造を企図するなど、厭世のおもいのみがつのってゆくようにみえる。

 生活者としての実朝の〈光〉は急速に衰弱してゆく。鎌倉を中心とする不吉の妖気は、年ごとに色濃くなり、天変地異が相次ぎ、人々の不安をつのらせてゆく。

 和田合戦の二年後の建保三年の十一月末には、義盛以下の将卒の亡霊が、将軍の夢枕に群参したという記事が『吾妻鏡』に見え、翌朝、にわかに鎮魂の仏事がとり行われたという。

 和田一族の滅亡は、実朝にとって、おそらく、世界風景の癒しがたい裂傷の象徴だった。だからこそ、それは、生存の本源的な寂寥感に根をもつ強靭で純潔な生活思想の持ち主としての実朝にとって、致命傷となるものであった。そして、実朝特有の理想化された政治=国家イメージにとってもまた、修復不能な汚点を刻みつけるものとなった。

 政治力学上のあり方からいえば、畠山や和田のような誠忠廉潔の士が滅び、北条のような秩序意識とリアリズムが勝利を得ることは、いわば必然の成り行きである。

 政治とは、その時代に支配的な〈倫理〉や〈理念〉を口実として利用しつつ、ひとつの統一的な〈法〉秩序を編み出すことで、諸々の集団ないし個人の利害を調整しつつ、社会全体の粗大な合意の下で、富の分配と階級支配を貫徹しようとする〈技術〉のことにすぎぬからである。

 だからこそ、本質的な意味で最も〈生身〉の倫理に鈍感で、易々とそれを踏みにじれる者の中から、しばしば有能な「政治家」「権力のプランナー」が出現しうるのだ。

 ひとつの強大で安定した〈秩序〉が精緻に構築され、社会の深部に「根をおろす」時期には、ことのほかそうである。

 義時のような、生身の人情や倫理に対して何らのデリカシーも痛覚も持たぬ、本質的に鈍感な実務官僚型の「能吏」が幅をきかすのである。

 巨大化した政治や経済のメカニズムというものは、そういう、私情を殺して何ら苦しむことがなく、また何ら良心に恥じることもなく、社会的な〈理念〉やら組織的な〈要請〉のために、黙々と歯車のようにコンスタントに働けるような無数のリアリストたちによって支えられているのだ。

 実朝のような、真に孤独で気高い魂の持ち主が、大江広元や北条義時に象徴される、こういう種族の人間たちのボスに祀(まつ)り上げられるなどということは、およそ、これ以上滑稽で悲惨なことはない。

 実朝が、ひとりの〈生活人〉として、純粋な力強い〈光〉を放ち続けるには、断じてこのような境遇に身を置くべきではなかった。

 しかし、もちろん、源家嫡流の唯一の正統的継承者である彼には、そこから真に逃れる術(すべ)はあり得ようはずもなかった。仮に、彼の「渡宋計画」が本気であったとしても、真剣に、衷心より己れの境遇を打破せんとする意志は、内的な何ものかによって封じられてしまったであろう。

 源家の〈血筋〉の矜持か、その血のもたらす業の深さか、あるいは、「美しきもの」を滅ぼしてゆく、時代の不吉な〈妖気〉の有無をいわさぬ予兆か。

 ともかく、作品「後半」の実朝の道程には、決してそこから逸脱することを許容しないかのような、奈落に向かってひたすら吸い込まれてゆく、ギリシア悲劇の如き〈滅び〉への不可避の直線が、太く、たしかに刻みつけられているのだ。

 この実朝の〈滅び〉の道程は、奇妙なことに、終戦直後から自死に至るまでの「後期」太宰治の歩みと、見事に軌を一にしている。あたかも、実朝の道を、忠実に、より大きな振幅をもってひたすら真っ直に歩み通し、自らを〈自死〉に追い込んでみせたかのようですらある。

 事実はどうあれ、少くとも次の点において、この作品における実朝の〈滅び〉への道程は、後期太宰、より正確に言うなら、既に大戦期の中期「後半」の太宰作品の担っていた本質的な悲劇性=ジレンマを鮮やかに象徴しえているし、その意味において、後期太宰の運命を「予兆」するものでありえた。

 すなわち、「中期」太宰のすこやかな〈生活人〉としての持ちこたえ方、〈存在の痛覚〉に根ざした〈生身〉の接触・ぬくもりと、〈自然〉のはからいのうちにすべてを純化しつつ受け流してゆく、独特の透明な生存感覚に支えられた日常のくぐり抜け方というものが、鈍感な小人(しょうじん)どもの冷酷なリアリズムと規範性によってじわじわと囲繞され、押しつぶされていく、というイメージである。

 このイメージは、胎乳児期以来の成長過程に根をもつ太宰特有の生き難さの感覚(関係の障害感の深さ)と、中期における、家族を抱える職業作家としての苛烈なたたかいの実感を通して、繰り返し凝視されてきたものだ。

 このイメージは、太宰にとって、自然な倫理性を支える血の通ったあたたかさと神聖さの感覚を踏みにじる、なんともいえぬ野卑な暗く濁った〈空気〉が人々の魂を覆い、容赦なく蝕んでゆくという閉塞感につながっていた。

 おそらく大戦期の〈滅び〉の予兆はここから醸成し、次第に太宰の生の風景全体に拡散・浸透していったに違いない。

 実朝が、〈国家〉や〈政治〉という磁場・位相から真の内的離脱をとげることができなかったように、ひとりの生身の〈生活人〉として、この卑俗さの泥沼、小人どもの充満する倫理の荒廃と血の衰弱に覆われた腐食土を脱却し、飛翔するには、太宰はあまりにも、〈国家〉や〈社会〉という化け物が発散する〈献身〉という理念に魂を食われすぎていた。天皇制ナショナリズムと同調(シンクロナイズ)したキリスト的理念への純粋な忠誠が、肌身を押しつけてくる生き難さの痛覚と拮抗しうるために太宰がどうしようもなく必要とした〈支柱〉のひとつなのであった。

 実朝が、現実の幕府体制の内実を、北条氏に象徴される冷酷な法治主義的リアリズムの具現にすぎぬことを冷静に見きわめていたにもかかわらず、敢えて、朝廷への〈赤心〉を貫き、〈神聖なるもの〉への自然な尊崇に根をもつ道義的国家の夢想を抱き続けたように、太宰治もまた、戦中の天皇制国家の見せかけの美しさや敗戦後のアメリカ流民主主義の〈自由〉の建て前の背後によどむ、卑俗なエゴイズムの修羅の実相を冷徹に洞察しつつ、その〈不能〉を百も承知で、あるべき幻の倫理共同体(コミューン)の夢に殉じようとしたのだった。

 この逆説的な〈袋小路〉が、後期太宰治の悲劇性の核心にあるものだ。

 この袋小路の包摂する問題の巨大さを実感するには、後期太宰が異様なまでの執念をもってこだわり、掘り下げ、恐ろしいふくらみを付与して肉体化してみせた〈悪〉の病像の本質と、その悪に拮抗すべく肥大化させられたキリスト的〈観念〉の、生身の実生活への軋轢(あつれき)のもつ意味についてのトータルな考察が必要となる。(了)

 

 *現存する『金槐和歌集』のテキストの中で原本の姿を忠実に伝えていると考えられる「藤原定家所伝本」(後鳥羽院に献呈された原本を藤原定家が転写したものと思われる)には「建暦三年十二月十八日」の奥書があり、『金槐和歌集』の成立が「和田義盛の乱」(建暦三年五月)の直後に当たることがわかる。定家本には六六三首が収められているが、それ以外に知られる実朝の歌は現在まで九五首にすぎず、彼の和歌の大半は『金槐和歌集』にある。当時実朝は若冠二十二歳であり、彼の作歌歴と作品の出来ばえを考慮に入れれば、この歌集の歌は少なくともそのほとんどが過去数か年以内に作られたものであることは明らかだ。それに比して『金槐和歌集』以後、死までの六年足らずの間の作歌量は見る影もない。「建暦三年」は、実朝の歌人としての生命がその最後の燃焼を果たし終えた運命の年であったといってよい。その背景には、和田の乱によって受けた傷心の深さが透けて見えるのである。(ちなみに『吾妻鏡』によれば、建暦三年十二月三日に、実朝自ら寿福寺におもむき、和田義盛とその一族郎党の冥福を祈るために仏事を修している。)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第7回) 川喜田晶子

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 12:10

 

〈自分〉が痛むとき

 

 学生たちの作品における〈自分〉の痛みは、「なぜ自分だけがこんなおもいを抱えているのか」といった問いというよりは、誰だって痛みは抱えているだろうけれども、決して共有などできないのだ、伝わることはないのだ、といった関係全般の不毛性の喩のように感じられる。関係とは不毛なものだ、世界は自分と他者とを繋いではいない、という風景を生きている。そこで発せられる個人の〈痛み〉は、掘り下げても掘り下げても類的な貌にはならない、という意味でのみ、〈現在〉という時代の普遍性に通じてしまっている。

 近現代の詩人たちの作品には、もう少し、言わば剛胆な異形意識のようなものが滲む。時代から非常に突出したかたちで異形性を担わねばならなかった表現者とその作品、という存在感を主張しているのだ。大衆から浮き上がった異形の魂を表現することが、ネガのように、当時の大衆の病理や不条理感を浮かび上がらせるのである。

 異形性や個人史の井戸を掘れば、大海にも通じていたと言えばよいだろうか。

 

足たたば不尽(ふじ)の高嶺(たかね)のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを   正岡子規

 

菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし   夏目漱石

 

しろがねの笛の細きも燃ゆる火の焔(ほのお)の端も嘗(な)むるくちびる   与謝野晶子

 

晝(ひる)の海にうかべる月をかきくだき真(ま)青(さお)き鰭(ひれ)となりて沈まむ   若山牧水

 

鳳仙花(ほうせんか)うまれて啼(な)ける犬ころの薄き皮膚より秋立ちにけり   北原白秋

 

指さきのあるかなきかの青き傷それにも夏は染(し)みて光りぬ   北原白秋

 

うすみどり/飲めば身体(からだ)が水のごと透(す)きとほるてふ/薬はなきか   石川啄木

 

怒る時/かならずひとつ鉢(はち)を割り/九百九十九割りて死なまし   石川啄木

 

床(とこ)の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見ていし   前川佐美雄

 

 

   居直りりんご   石原吉郎

 

ひとつだけあとへ

とりのこされ

りんごは ちいさく

居直ってみた

りんごが一個で

居直っても

どうなるものかと

かんがえたが

それほどりんごは

気がよわくて

それほどこころ細かったから

やっぱり居直ることにして

あたりをぐるっと

見まわしてから

たたみのへりまで

ころげて行って

これでもかとちいさく

居直ってやった

 

磔(はりつけ)の釘打つ如く咳きはじむ   野見山朱鳥

 

螢来てともす手相の迷路かな   寺山修司

 

 正岡子規や与謝野晶子の剛胆な歌いっぷりには脱帽せざるを得ない。

「足たたば」どれほどこの世界を己れの生命で自在に活かしめることだろう、といった連作を、子規は病床にあって激烈に歌った。世界に己れが生かされていることで、世界を生かすのは自分だ、といった近代的自我を謳歌し得る魂があった。

 晶子もまた、繊細な情趣の極みも情熱的な恋慕の業火も怖れぬ身体で、この世界を押し拡げながら生きて歌うことができた歌人だ。

 

「菫ほどな小さき人」に生れたいという漱石が可愛く見える。初発の近代のエネルギーが充満する社会の、そのエネルギーに疲れていただろうか。近代的自我というしろものが、それほど結構なものではないことに、表現者は早々に気づいてゆく。

 

 牧水・白秋・啄木の異質さと同世代性についてはすでに触れてきた。彼ら〈藤村操世代〉以降、表現者の異形意識は、大衆の中に潜む異形意識に少しずつ近づいてゆく。

 真っ青な「鰭」や、犬ころの「薄き皮膚」や、指先のかすかな「青き傷」や、飲めば身体が透きとおる薬への渇望や、九百九十九の怒りのたびに鉢を割って死にたいおもい。それらは、華厳の滝に投身自殺した藤村操や、その後追いに走った青少年たちの無意識の深層にも潜んでいた、この世界への鋭い異和の念であり、明晰にはとらえ難い不条理感に身体の根を蝕まれつつあった大衆の、不穏な魂のきしみをシンボリックに掬い上げた表現であった。

 

 前川佐美雄の表現は、さらに〈現在〉に近づく。エキセントリックな表現に見えるが、昭和初期の大衆の無意識には、床の間に己れの首が祭られているのを泣きながら凝視するような、自分自身への極北の異和感が蔓延していたのだ。誰が何のために祭ったのかが、作品には歌い込まれていない。その不気味さこそが、世界によって生かされるどころか、世界によって不断に殺されているような生存感覚の不毛を強いられ、ほんのひと押しでウルトラナショナリズムへとなだれ込む、時代の空気だったのだろう。

 

 石原吉郎(大正4年生まれ)の作品は、「りんごがちいさく居直る」情景だけを想像すれば微笑ましい詩篇と見えるが、作者にシベリア抑留体験があったことを知ると、「りんご」の「居直り」にはらまれた苦しげな息づかいがしのばれる。そしてそのことで逆に、この「居直り」によって、時代が抱えていた不条理感の質を、個人的な文脈を超えて普遍的なものとして把握できるようにもおもうのだ。作者もまた、そのように読まれることを望んだのではなかったか。

「個人」というものの心細さをとことんまで推し進めたのが実は「近代」ではなかったのか。「近代的自我」の確立、というのは一度も実現されたことなどなくて、「個人」というしろものがいかに心細いものであるかを知らしめただけではなかったのか。

 この問いは、今も消えてはいない。

 

 野見山朱鳥(大正6年生まれ)の「磔(はりつけ)の釘打つ如く咳きはじむ」には、キリストと、キリストを十字架にかける大衆の心理との対比を喩として、「聖なるもの」のゆくえが歌い込まれていて面白い。どこかで自分の中のキリストを殺して生き延びながら、そのことへのうしろめたさを感じるときの異和感が「咳」となって表現されている、と読める。

 作者は生涯の長きにわたって肺を病んでいたようだが、「咳」の苦しみが聖性抹殺の苦しみに喩えられているところに、句に内包された批判精神を感じることができる。戦後、美しいもの、聖なるものの居場所に困窮する魂の表現として秀逸だ。

 石原の表現についても言えることだが、個人的な感慨や苦悩が普遍性を獲得してゆく臨場感が凛としている。

 

「螢来てともす手相の迷路かな」も、寺山らしい戦後的表現だ。前近代的な「螢」なら、個人の手相を、その個人の人生を包み込む自然・コスモスへと押しひろげてみせるのだが、寺山の「螢」は、狭窄された意味しか持たぬ個人の「手相」の貧しい迷走ぶりを侮辱し、「手相」は、場違いな「螢」の灯りによって曝される己れの迷走に赤面するかのようだ。

 

 近代的に〈自分〉を解放する歓びはつかの間、表現者のゆくてを照らしたが、解放はやがて、不毛な〈痛み〉だけが連鎖する断絶の叫びへと遷移して、〈現在〉の個人の足もとを小さく照らしている。

 嘘っぱちの太陽を掲げるよりも、ごまかしの無い小さな灯りを掘り下げてゆく、現在の若者たちの〈表現〉は、近現代の詩人たち以上に厳しい十字架を背負っているのだとおもう。(この稿続く)

 

 

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『右大臣実朝』と宿命(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2017.12.26 Tuesday
  • 15:40

 

     4

 

 実朝の敬神崇仏の念の厚さや朝廷への赤心の根底には、魂の穏やかさと静謐(せいひつ)さをなによりも重んずる、融和的な世界視線が息づいていたようにおもえる。

 それは、彼の和歌をよく味わってみればわかることだが、太宰治の描く実朝像では、詩歌・管弦や宴を楽しみ、〈軽さ〉や〈笑い〉を好む日常の暮らしぶりに表われている。

『右大臣実朝』には、琵琶法師の『平家物語』の語りに好んで耳を傾ける将軍の姿が活写されている。ここでの実朝は、太宰治自身とそのまま重ね合わせられるかのように、〈滅亡〉に向かってひた走る平家一門の中に、最後まで〈死〉と背中合わせのある種の「アカルサ」が絶えなかったさまに、心ひかれている。

「那須与一」の段で、「扇の要」を鮮やかに射抜いた与一の離れ業に感興をおぼえ、思わず「舞」を披露した粋な平家の兵士の一人を、残忍にも与一に命じて射殺させて喝采する九郎判官義経や源氏一党の姿に、不快の念を隠さず席を立つ実朝の像には、「戦争」という不条理な地上的現実の渦中に平然と身を置き、酷薄なリアリズム的視線によって物事を果断に処理し、勝ったの負けたのと血ぬられた雄叫びをあげている人間どもへの強烈な〈嫌悪〉のおもいが、さりげなく込められている。

 太宰は、生きる切なさへの共感というものを毛ほども持ち合わせていない、こういう、ずさんな神経をもつ残忍なリアリスト・現世主義者の手合いを、心底嫌悪していた。

「平家ハ、アカルイ」「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という実朝のことばには、幼児退行的な正義への〈憧憬〉と〈希望〉によって、かろうじて、地上的な酷薄さをもちこたえている戦時下の日本大衆への憐れみ・共感の念と共に、大戦末期という時代の暗鬱さ、〈滅び〉の気配に、日常風景の〈変容〉というたたかい方を通して精一杯あらがおうとする、当時の太宰治の苦しみがにじみ出ているようにおもう。

 太宰の希求する「アカルサ」には、単なる幼児退行的な逃避やデカダン的ニヒリズムには解消されないような、生きる哀しみの本体を真にわきまえた者のみが持ちうる、ある強固な実質が含まれていた。その志向が、実朝の生きざまの深部に息づいている純潔な魂の主調音と鋭く共振しうるのだ。

 実朝の「アカルサ」には、モーツァルトの調べのような、不思議な透明感を帯びた非日常的なアカルサが宿っており、いささかも感傷に毒されない、存在の原初的なかなしみの上に軽やかに花ひらいた、みずみずしい赤児のような自然で繊細ないのちの旋律が流れている。

 こういう姿は、とりわけ、歌人としての実朝のあり方に鮮やかににじみ出ている。

 実朝の和歌は、もちろん、生活意識の〈空洞〉を逃避的に代償しようとする趣味・道楽の〈技巧(レトリック)〉の産物でもなければ、現世的な自信に満ちた生活者のエネルギーの〈余剰〉としての芸術でもなく、また、現世・世俗への〈憎悪〉の裏返しとしての〈幻想の砦〉でもない。

 彼の歌は、あくまで、〈生活人〉としての己れをすこやかに全うするための、ぎりぎりの必需品として生み出されたものというべきだ。

 和歌という形式を通じて、己れの苦しみや渇きや祈りの感触を率直にあるがままに吐き出し、そうすることで、おそらくは、己れをとり囲む漠とした陰鬱な妖気に抗い、生死の危うい均衡をかろうじて保とうとするような、痛切な営みであったようにおもえる。

 実朝の和歌は、その意味で、彼の生活人としての身丈にぴたっと過不足なく収まる、生理的に自然体の歌であった。

 小説には、己れの身体的な感興のおもむくままに、さらさらと凝滞することなく作歌する将軍の姿が描かれている。

 今ここで、『金槐和歌集』の諸歌を論ずる気は毛頭ないが、折角のことだから、『右大臣実朝』に引用されている作品の中から一首だけをとり上げておこう。

 

 はるさめの露のやどりを吹く風にこぼれて匂(にほ)ふやまぶきの花

 

「私」は、この歌について、「天真爛漫とでも申しましょうか。心に少しでも屈託があったなら、こんな和歌などはとても作れるものではございませぬ」と語っている。

 世界が「春雨の露」の一瞬の動きの内に完璧に封じ込められ、鮮やかに修復されている。

 この「露」は、未知の領域からやって来て未知のかなたに吹き過ぎてゆく一塵の〈風〉のまっただ中に翻弄されながら、この上もなく安らかに身を横たえている。

 一瞬にして移ろい、消え去るようなはかなさにもかかわらず、それをはかないと感じさせるような「もののあはれ」の美学を微塵も感じさせない、あるたしかな〈いのち〉の転生の揺るぎないかたちが、静けさとなって微(かす)かに息づいている。

 この〈いのち〉の柔らかなぬくもりを沁み込むように伝えてくれるのが「やまぶきの花」の立ち姿だ。「露」のつかの間の宿りと移ろいの内に、〈縁(えにし)〉をとり結んだ「やまぶきの花」の麗しいひっそりとしたたたずまいが、優しく寄り添っている。

 この歌は、私(たち)の痛めつけられた神経と身体に驚くほど素直に沁み込み、自意識の険しさを溶解させ、外界との裂け目を瞬時に修復させてくれる。

 実朝の幼児性が最もみずみずしい形で凝縮された名品であり、『金槐和歌集』には、他に、無常感や悲愁の色彩の濃い重厚な和歌や現世の不条理な険しさを凝視した、ドスのきいた傑作もあるけれども、この作品は、それらとは対照的な極にある、数少ない、優しい秀歌のひとつであるといえよう。

 しかしどのような傾向の歌であれ、実朝の秀歌の多くには、人間存在の本源的な〈孤独〉を基底に据え、その存在の痛覚を、万物の自然なありさまとしてどこまでも静かに受容し、涼やかに微風のように受け流してゆこうとする、限りなく透明なかなしさともいうべき資質が息づいている。

 有限な存在としての人間どもの、ありとあらゆる悪あがきを的確に凝視しつつも、それを〈存在の痛覚〉という一点に凝縮・純化し、透明な〈自然〉のとどこおりの無い流れのうちに浄化してゆく、無類の匂いやかな〈抽象度〉の高さが、実朝の秀歌に固有の〈方法〉だとおもえる。

 こういう実朝の資質と鮮やかなコントラストをなすのが、鴨長明の、世俗的な悪臭の濃厚な、脂ぎった生活者の苦しみである。

 長明と実朝という、生きざまにおいても芸術の質においても、水と油のように相容れようのない両者の出会いと対決は、『右大臣実朝』のひとつの白熱したヤマ場を構成しているといっていい。

 

     5

 

 源平内乱の渦中に相次いだ飢饉・疫病・大地震によって、腐臭に満ちた死者累々の酸鼻な地獄図と化した「末法」の京の都に生きた、長明ら平安貴族層の実存は、どす黒い虚無と不条理の感触によってただれきっていた。彼らは、死の不安に日夜おびえつつ、迫り来る〈終末〉の意識から逃れようとするかのように、富や権力をめぐる欲望のゲームに狂奔し、己れの血族やライバルたちとの抗争に明け暮れていた。

 しかし、仏教や漢学の博識に裏うちされ、当時の突出した近代知識人であった、長明や藤原定家らのようなインテリ貴族層は、繊細で過敏な神経によって肥大化した〈自意識〉を持て余していた。彼らは、こういう世俗的な抗争によって己れの空虚感を埋めることができるほどに、単純で粗雑な神経の持ち主ではなかった。

 知的な意識を細分化し、高度化すればするほど、また、富や権力や名声を求めて欲望のゲームに精を出せば出すほど、彼らは、ますます、他者との対立・疎隔の自覚を深め、神経症的な対人意識にさいなまれ、癒しがたい〈個我〉の孤独地獄の内にのたうち回るほかはない。それは、己れの無力感と虚無感を一層深めるものでしかなかった。

 長明の出家・隠遁・センチメンタルな無常感の表出もまた、自らの我執の強さが生み出す関係の地獄から観念的に逃避したいという、裏返された悲鳴にほかならない。

 彼らインテリ貴族層にとって、和歌の表現世界は、そういう己れの近代知識人的な苦しみを、象徴的な手法を使ってさりげなく吐き出すと同時に、それを逆立ちした新古今風の言葉遣いによる人工的な幻想美の創出によって癒そうとする、ささやかな試みの場であった。「幽玄」だの「有心」だのといった概念で説明される、独特の仏教的な悲哀感のこもった、陰翳に富んだ繊細な美意識も、そういうダンディズム的な虚構による〈つっぱり〉の一形式であった。

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空(藤原定家)

 見わたせば花も紅葉(もみぢ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮(藤原定家)

 白妙(しろたへ)の袖(そで)の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(藤原定家)

 かきやりしその黒髪の筋(すぢ)ごとにうち伏すほどは面影ぞ立つ(藤原定家)

 ながむれば千々(ちぢ)にものおもふ月にまたわが身ひとつの峰の松風(鴨長明)

 枕とていづれの草に契(ちぎ)るらんゆくを限りの野べの夕暮(鴨長明)

 夜もすがらひとりみ山の槙(まき)の葉に曇るも澄める有明の月(鴨長明)

 

 定家と長明では、表現者としての格が違うという気がするが、一見、余裕のある優雅な遊び心で作られたかのように見えるこのような『新古今集』の秀歌も、実は、生身の身体をぎりぎりと締めつけてくる現世的地上的な地獄に、あくまでも、言葉のモザイクがかもし出すヴァーチャルな心象風景の鮮やかな喚起力によって対峙せんとした、凄まじい観念的な膂力(りょりょく)の産物にほかならなかった。

 定家の秀歌には、一貫して、現世的な肉体を完全に突っぱね、言葉の共同的無意識的な伝統美がおのずから喚起する非日常的な身体感覚の精緻な組み合わせによって構築された〈幻想の砦〉に、生きることのぎりぎりの根拠を託そうとするような、傲岸で強靭な芸術至上主義的プライドが脈うっているが、長明のほうは、晩年の『方丈記』に見られるような、この世の不条理と人間の肉体的煩悩の浅ましさを粘っこく凝視する、散文的地上的なリアリストの視線を、中途半端に芸術の中に引きずっており、それを、センチメンタルな無常感の表出によって甘く流そうとする通俗性がつきまとっている。その分だけ、長明の歌は、非日常的天上的な跳躍力が乏しく、散文的な平板さを免れ得ない。

 両者の表現者としての力量の差は歴然としているが、それでも、作歌の新古今的な根本姿勢は共通するものがあるといってよい。

 しかし、容赦の無い地上的な酷薄さによって染め上げられた、彼らのどす黒いひび割れた世界風景と神経症的な孤独地獄の苦しみは、諸々の欲望ゲームによって、また、芸術や隠遁生活によって修復しうるような、生やさしいものではなかった。

〈虚無〉の渦中に幻影の美を打ち樹てることで世俗に「拮抗」しようとする、近代主義的・芸術至上主義的(ダンディズム的)な美意識では到底処理し切れない、絶えず内部発酵してやまぬヘドロのような〈毒念〉から逃れる術(すべ)は皆無であった。

 そういう長明や定家のような近代インテリにとって、実朝の、とらわれのない直截な、透明感のある歌は、ひとつの衝撃として受けとられたに違いない。

 新鮮な驚きをおぼえ、〈不安〉をかき立てられると共に、新たな芸術的境地を求めて、長明は敢えて六十に近い老齢にムチ打って東下する。

 この鎌倉行きは、定家ほどに己れの芸術至上主義に徹することができず、人間らしい生臭い肉体を持てあましていた長明ならではの、それなりに悲壮な決死行だったようにおもえる。

 ほんとは〈自意識〉が強く、ピリピリと身構えているくせに、将軍の問いかけにわざと鷹揚(おうよう)にとぼけてみせる、ひねこびた長明入道と、涼やかでとらわれのない貴公子実朝の、好対照の出会いには、中期太宰治の芸術観の真髄が、隠し味のように、慎重にさりげなく散りばめられている。

「チト、都ノ話デモ」と老師に話しかけるように遠慮がちに語りかける将軍に対して、長明入道は、「は?」と聞き耳を立て、「いや、この頃は、さっぱり何事も存じませぬ」と空とぼけてみせる。

「けれども将軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさって居られるような、また、なんにもご存じなさらぬような、ゆったりした御態度で」少し笑いながら「世ヲ捨テタ人ノオ気持ハ」とさらに尋ねる。

 長明は、またも「は?」と聞き耳を立て、それから、うつ向いて「何か口の中で烈しくぶつぶつ」言ったあと、意を決したように顔を挙げ「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の気持も全く同様、一切を放下(ほうげ)し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦(みょうてい)を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難かろうかと存じまする」と、もったいぶった態度で、己れの心境を流暢に申し述べる。

 けれども、将軍家は一向に平気で、「一切ノ放下」とほほ笑んでうなずき、「デキマシタカ」と問いかける。

 今度は入道も、言下に迷いなく、「惣慾を去る事は、むしろ容易に出来もしまするが、名誉を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論(ゆがろん)にも『出世ノ名声ハ譬(たと)ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするように、この名誉心というものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました」と語り、さらに、自分は、世捨人とは言っても、姿は聖人に似ていながら、心は不平に濁って騒ぎ、「すみかを山中に営むといえども人を恋わざる一夜も無く、これ貧賤の報のみずから悩ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問いかけてみましても更に答えはござりませぬ。御念仏ばかりが救いでござりまする」と正直に胸中を澱みなく吐露してみせる。それでいながら、いささかも悪びれるふうはない。

 この世の人間とは、しょせん、その程度の、煩悩多き浅ましい生き物であり、そういう人間どもの織りなすはかない悪あがき、脂ぎった狂態こそが、この現世のありのままの哀しい地上的実相であって、オレは、そういう現実の痴態をしっかりと踏まえた上で、はじめて、芸術という〈虚構〉の楼閣を構築しているのだぞ、という傲然たる自我意識が秘められているようにおもえる。

 世間知らずの、箱入りのボンボンであるお前さんなんぞには分かりはすまいが、というしたり顔が透けて視えるのだ。

「ドノヨウナ和歌ガヨイカ」と尋ねる将軍に対して、長明は、実朝の歌の爽やかな姿をほめたたえつつも「恋歌」の稚拙ぶりを批判し、将軍家は恋というものをご存じなさらぬと断じ、「嘘」を詠まぬように、ヘタに都ぶりの真似はしない方がよいと苦言を呈する。

 さらに勢い込んで、将軍に己れの歌道を披瀝し、〈指南役〉を買って出ようとする気配まで漂わせるのだが、実朝は、笑いながら立って「モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ」と言って、奥へ引き上げてしまう。

 そして、「ナカナカ、世捨人デハナイ」と嘆息する。

 実朝は、己れの魂を「強制」しようとする長明老人の浅ましい魂胆を見抜いている。

 太宰の描く実朝は、長明の「何ひとつ信じてはいない」酷薄なリアリストのまなざしと、その裏返しにすぎない芸術至上主義者としての凄まじい偏執ぶりを誤たず見破っている。

 長明の孤独地獄の険しさと、それゆえに、己れとははるかにかけ離れた天衣無縫ぶりを示す実朝との〈接触〉にいちるの解脱の望みを託して、はるばる鎌倉までやって来た執念の凄みというものを知り抜いているようにおもえる。

 しかし長明は、しょせん、己れのダンディズム的な芸術理念を捨て去ることのできない、我執の強い不幸な近代知識人にすぎず、実朝の和歌に根底を揺さぶられ不安をおぼえながらも、相手を強引に己れの〈器〉の中にはめ込み、〈同化〉させることで、孤独から逃れようともがいている、「さみしがりや」の根無し草でしかなかった。

 実朝の器を、世俗に汚されてはいないがこの世の地獄の実相を知らぬ「無邪気な」子供のような若者だとみくびり、優位に立った気でいる、小ざかしい大人ぶったインテリなのだ。両者の生へのまなざしの隔たりは、あまりにも大きすぎた。

 長明は、その後も、繰り返し御所におもむくが、将軍にはとりつくシマが無いと感じたのか、いつも「あいさつ」だけで早々に退出してしまう。

 その老人の姿に、「信仰ノ無イ人ラシイ」と、実朝はつぶやいている。

 結局、長明は、深い失望を抱いたまま鎌倉を去るほかはなかった。

 ただ、この老人には、本人も言うように、実朝のような資質の人間には完全に欠落していた、凄まじいばかりの現世的地上的な脂ぎった生活欲が生得的に備わっていた。

 帰洛して間もなく書かれた『方丈記』には、無常感をてらう隠遁者的位相のポーズとは似ても似つかぬ、そういう彼の「悪業深い体臭」が込められていると、「私」=太宰治は喝破している。

 

 ただし、長明との出会いは、実朝にとって決して無意味なものではなかったと「私」はみる。

 作品には、長明との対決の後、彼からけなされた「恋歌」はあまり作らぬようになり、和歌の精進に鬼気迫る打ち込み方をするようになる将軍の姿が描かれている。

 

「将軍家は、恋のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬようになりました。また、ほかのお歌も、以前のように興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるというようなことは、少くなりまして、そうして、たまには、紙に上の句をお書きになっただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さえ見受けられるようになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かった事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思いが致しました。けれども将軍家は、お破りになりながらも別段けわしいお顔をなさるわけではなく、例のように、白く光るお歯をちらと覗かせて美しくお笑いになり、

 コノゴロ和歌ガワカッテ来マシタ

 などとおっしゃって、またぼんやり物案じにふけるのでございました。」

 

 将軍家は恋というものを知らぬと断言した長明の指摘は、実朝の〈幼児性〉の強さ、女性への「淡泊の御性情」を、鋭く見抜くものだった。

 この沈痛な老芸術家との出会い以後、実朝は、己れの表現者的な〈資質〉に、以前にも増してきちんとした自意識をもつようになり、得手でない新古今風の技巧によるヴァーチャル・リアリティの色彩の強いものは排除するようになってゆく。

 ともかく、長明と実朝という印象深い対決は、独特の反リアリズム的な文学理念をベースとしつつ、アジア的な自然思想に根ざした融和的な〈信〉のまなざしによって、時代の滅びの気配と実生活の地上的な酷薄さに精一杯対峙せんとした、中期「後半」=大戦期の太宰治の最高の思想的稜線を、凝縮した形で象徴してみせている。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2017.12.25 Monday
  • 17:28

 

     6

 

 宮崎駿が、大人の恋愛感情の〈純粋さ〉を、子供の恋愛感情(彼によれば、その最も純粋な形態は「幼児期」に認められるものらしい)に還元せんとするのは感心しないけれども、私は、だからといって、幼児的なエロスの世界・感覚を、大人への成長過程の脱皮を強いられる中で「切り捨ててもかまわない」未熟な心性とみなして貶めているわけでは決してない。

 人見知りしないで済む、幼児的な兄弟―姉妹的感覚ないし双子的感覚による、閉ざされた親密さの世界・絆というものは、たしかに、男女の恋愛の内に〈核〉のように包摂されていてもよい感情だと、私も思う。

 本当に魂が通い合う関係、心からの安心と充足をもたらしてくれる〈愛〉というものは、そういうものではないか、とも思う。

 けれども、同時に、そのような親密さの内には危うさもはらまれているというのが、私の考えなのである。

 相似た魂を持つ者同士の〈愛〉というものは、互いに相手に対する〈同化〉への渇望を秘めたものであり、それは、二重の意味において危険なものなのである。

 第一に、それは、無意識のうちに、他者の魂を「強制」するという悪を生み出す危険性をもつ。相手が自分にとって、どんなに身近な存在に感じられ、その苦しみや渇きを我が事のように共感できるように思われても、人間一人ひとりの魂というものは、絶対的に独立した固有のかたちを有するのであって、必ず、己れ自身とは異質なる〈他者性〉を備えているからである。

〈他者性〉とは、己れの感情移入という方法の通用しえない、他者の絶対的な〈異質性〉のことである。それは人を脅かし、安易な延長感を拒絶させ、人を孤独に立ち返らせる。

 われわれにできる事は、ただ、己れの愛する者の内に息づいている、その〈他者性〉を、あるがままに受け止め、可能な限り理解した上で、その固有の〈重さ〉をきちんと「了解」できるように努めることだけである。

 他者への真の〈共感〉とは、他者の内に認められる己れとの〈同質性〉への共感、すなわち他者への感情移入にとどまらず、そのような狭義の共感を拒絶する、他者のどうしようもない〈異質性〉に対するビターな「了解」を含んだものでなければならない。

 異質性を排除したところに成立する「同質性への共感」とは、真の共感ではない。

 身近に感じられる存在、自分と相似た魂をもつ相手への「一体化願望」というものは、知らず知らずのうちに、相手の魂の中に息づく、己れ自身とは異質な、しかしその当人にとっては決して損なわれてはならない、かけがえのない何ものかを、〈強制〉によって歪め、あるいは抑圧することで、その人をその人自身ではない、偽りの対象へと変えてしまうのだ。

 男と女とが、同性同士が、〈愛〉という美名のもとに、そのような魂への〈強制〉によって苦しみ、荒廃させられている。親子の関係においてもしかりである。

 自分にとって〈異物〉と感じられる、愛する者の〈他者性〉というものを、視界から排除することで、己れ自身を偽り、相手にもその偽りを強制するのである。

 特に、男女の対(ペア)の内、一方が、相手を圧倒するような強烈なエロス的個性を備えている場合には、その危険は一層高まり、そのもたらす害悪は一層恐ろしいものとなる。

 男のロマンや甲斐性に魅入られ、食いものにされる女、あるいは逆に、男の魂を地母神(グレート・マザー)のごとく呑み込むような、強烈な〈ナルシシズム〉によるエロス的な吸引力の磁場を紡ぎ出す、孤独な女が、その典型である。

 後者の女は、特に怖ろしい。

 なぜなら、彼女は、本当は自分自身しか愛していない、天性のナルシシストだからだ。

 彼女にとって男とは、ただ、己れのナルシシスティックな身体の〈延長〉でしかないからだ。

 

     7

 

 困ったことに、このようなタイプの女性は、性的な魅力に富んでいることが多い。

 なぜなら、彼女は、「あるがままの己れ自身」に真に充ち足りていないからだ。

 彼女は、愛に飢えた、孤独で不幸な表情をしている。

 その不幸な面影、翳(かげ)りが男をひきつけるのである。

 男もまた、魂の奥に、一匹の凍えた幼児(おさなご)を抱えているからである。

 その幼児の渇きを触発された男は、女にひきつけられる。

 女もまた、男の内に、己れの渇きと響き合い、重なり合う何かを感じ取った時、男を愛するようになる。

 彼女の愛のメッセージは純粋で、烈しい。

 なぜか?

 それは、「異質なる存在」としての〈他者〉へのメッセージではなく、彼女自身の〈分身〉として捏造(ねつぞう)された〈虚構〉の男性像に向けて発せられた、いわば〈自己愛〉(ナルシシズム)の変形としてのメッセージだからだ。

 彼女にとっての恋愛とは、実は、〈一人称〉の物語でしかない。

 真の恋人の〈他者性〉は、最初から巧妙に視界から排除されている。

 恋人は、彼女にとって、あるがままの彼女のすべてを無条件に受け容れ、包み込んでくれる、慈愛に満ちた理想的な男性像でなければならないのだ。

 彼女は、恋人の内に、己れとよく似た魂のかたちを発見する。

 同質の悲しみ、同質の孤独の表情を見出して、「双子」のようによく似た魂をもった男性と、「運命的」にめぐり逢ったと思い込む。

 恋人との魂の「一体化」を痛切に希求し、「閉じられた」ふたりだけの愛の世界を紡ぎ出し、その中に、繭(まゆ)のように籠ろうとする。

 なるほど、ふたりはたしかに、ある角度から視るなら、「双子」のように相似た魂を持つ者同士であったかもしれない。その意味では、「運命的」な出逢いであったのかもしれない。

 だが、幸福なものであるべきその運命の愛は、恋人への〈同化〉の情熱となって表現されるとき、必然的に、一方が他方に食い尽くされるという、痛ましい自己抹殺的な〈代償〉形態を強いられることになる。

 むろん、エロス的な磁場のより強い方が、相手を呑み込んでしまうのである。

 この点で、己れの孤独と不幸と愛の渇きを全身から発散させている、天性のナルシシストの女ほど、強烈なエロスを紡ぎ出せる者はいない。

 女に魅入られた男の方は、ひとたまりもないのだ。

 

     8

 

 このようなタイプの女性は、愛する男の魂を、己れ自身の感覚の〈鋳型〉に合わせて刈り込んだ上で、その生き血を吸血鬼のように吸い尽くそうとする。

 恋人の魂を「所有」せんとし続けることで、己れの〈ナルシシズム〉のエネルギーを絶えず燃え上がらせ、更新し、生きる糧(かて)とするのである。

 そのようなナルシシストの女がひとかどの〈芸術家〉(表現者)であった場合、恋の対象となる男は、女の〈芸術〉(表現)を産み出し続けるための、いわば「肥やし」のような存在にすぎないものとなる。

 真の、あるがままの男の〈全体像〉などは、本当は、彼女にとっては、どうでもよいものなのだ。

 男との恋愛は、女にとって、己れの生きがいである〈芸術〉(表現)を産むための新鮮な〈刺激〉を与えてくれる、素材や触媒のようなものでしかないからだ。

 哀れなのは、女に魂を食われてしまった男の方である。

 このようなナルシシスト型の女性は、男が絶えず彼女を「みつめ続けている」ことを要求する。自分自身の嫌な所も含めて、自分の何もかもを男が「受け容れ」、愛してくれることを求める。

 自分が持っていない何かを恋人が持っていても、それが彼女にとって〈憧れ〉の対象であったなら、それもまた、彼女にとっては、愛すべき「彼女自身の一部」なのである。

 彼女にとって、己れ自身の内には見当たらない、そしてまた彼女自身が承認したくないような恋人の〈他者性〉は、無視されてしかるべき、「存在しないも同然」の、とるに足らない〈異物〉でしかない。

 それが、当の恋人にとって、どんなに「かけがえのない」大切なものであっても、だ。

 男がそのような女の「身勝手さ」を百も承知でありながら、なおも彼女に振り回されてしまうのは、ひとえに、女の〈ナルシシズム〉が発散する、強烈なエロス的磁場の吸引力のせいである。

 クモの糸に絡めとられた哀れな虫のように、彼は、彼女から逃れられないのだ。

 しかも彼女は、己れのそのような身勝手なナルシシズムを、こともあろうに、〈愛〉と称するのである。

 己れのエゴイズムがいかに恋人を傷つけ、心身共にボロボロにし、罪もない他者を巻き添えにしようとも、その恐るべき罪深さを恥じようともしない。いや、それ以前に、己れの罪深さに「気付かない」のである。

 彼女自身は、一人遊びをする、孤独でいたいけな子供のように、いたって無邪気なのである。

 純情一途な男にとっては、身を滅ぼす元となる、蟲惑(こわく)的な、最も怖ろしい魔女であるといっていい。

 宮崎駿が『崖の上のポニョ』で描いた「幼女ポニョ」や『ハウルの動く城』に登場する「荒地の魔女」は、一見、荒唐無稽なファンタジックな像として描かれているがゆえにごまかされてしまうが、その仮装の裏には、実は、このような悪女の本性が透けて視えるのである。

 愛する男の魂を強引に己れ自身と同化させずにはやまぬ、ナルシシズムの妄執の化身という奴が。

 それこそが、宮崎アニメで美化されている「幼児的恋愛」「双子的(兄弟―姉妹的)恋愛」の隠された暗部なのであり、ひいては、『白蛇伝』の「白娘」と「許仙」の愛の内にも秘められた恐ろしさなのだ。

 

     9

 

 言うまでもなく、人間の内なる〈幼児性〉というものを無邪気に美化する宮崎駿も、『白蛇伝』の制作者たちも、この幼児的な「双子的」恋愛感覚のはらむ危うさというものに、全く気付いていないようにおもえる。

 彼らだけではない。現代人の多くは、〈愛〉という言葉の美しさに惑わされて、その真の怖ろしさ、おぞましさというものが、全く視えていない。

 他者とエロス的に合体せずにはやまぬ、〈同化〉願望の狂気、魂への〈強制〉の病という奴が。

 この病は、人間の内に潜む幼児的な魂の歪んだ顕われにほかならない。

 万物がそこから生み出され、また回帰してゆく原初の渾沌(カオス)、すなわち生死一如をつかさどる宇宙(コスモス)との幻想的な〈一体化〉を希求してやまぬ、人間の隠された深層の渇望、子宮回帰願望の歪んだ表現だといってもいい。

 この世に誕生した時から人が背負わざるをえない、生命としてのエロス的な〈欠損〉の感覚を、同化による〈他者性の抹殺〉という歪んだやり口によって、幻想的に代償せんとする、悪あがきにすぎないのである。

 変態的な愛憎の表現であるサド・マゾ的な狂気というのも、片やエスカレートする攻撃性によって、片や自己抹殺的な被虐性によって、〈他者性〉を消し、世界との幻想的な〈一体化〉を図らんとする、幼児的な退行の一形態にほかならない。

 それは、相手の魂を「所有」し、また「所有される」という、救いようのない〈我執〉の病、うつろな魂の地獄でしかない。

 仏文系文学の影響を受けた多くの作家が、その地獄を、こともあろうに〈愛〉と呼び、〈美〉と呼んでいるのである。

 怖ろしい病である。

 このような、エロス的な〈同化〉への渇望、すなわち、他者の魂を「所有」せんとする〈我執〉の病、幼児的な魂の病理的な表現は、人間の精神と肉体の双方を極度に歪め、痛めつけずにはおかない。

 それは、ある場合には、極度に「精神主義的」な、観念的な愛の幻想となって、対(つい)の相手を強制し、魂の生き血を吸おうとする。先に触れた〈ナルシシズム〉の妄執の病理というのもその一形態であるが、エドガー・アラン・ポウが描いたような、精神主義的なサド・マゾの世界、殺人願望の狂気もまた、その一類型である。

 他者の魂を「理解」し、「所有」し、「しゃぶり尽くしたい」という渇望がエスカレートして、ついには、可愛さ余って、殺人に至るのである。

 また、ある場合には、貪婪(どんらん)極まる「肉欲」への耽溺となって顕われることもある。有名な昭和初期の「阿部定」事件もその一例であるが、それとよく似た、渡辺淳一のポルノ小説の力作『失楽園』における主人公の男女の、延々と飽くことなく繰り返される、死と背中合わせになった極限的なセックスの灼熱のごとき燃焼も、その典型である。

 精神主義的な愛にせよ、肉欲への耽溺にせよ、いずれも、社会からの非日常的な〈超越〉の表現であるにはちがいない。

 しかしそれは、精神と肉体が〈分裂〉したまま、痙攣的な刺激のみがエスカレートする中で、死と虚無の想念に蝕まれながら、暗黒の淵に向かってすべり落ちてゆく、無間地獄の世界にすぎない。

 何ひとつ本気で信じられない不幸な男女が、蒼白い死と孤立の恐怖から逃れようとして、互いの魂を「貪り合う」という、餓鬼道の生き地獄なのだ。

 それは、孤独な魂と背中合わせになった真の優しさ、霊と肉の一致した真の温かさというものを知らぬということだ。

 だとすれば、それは痛ましいことである。(この稿続く)

 

 

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