〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第17回) 川喜田晶子

  • 2018.10.29 Monday
  • 18:48

 

〈狂〉への転調

 

 日常の中の一こまが、突然〈狂気〉としての象徴性を帯びる。

 一見、地味な写生と見える句の中で、次元を変容させられるモチーフたちの表情には、〈個〉の殻を超えた無意識の渇望がさりげない傲岸さで滲んでいることがある。

 

月光に開きしままの大鋏(おおばさみ)  真鍋呉夫

 

 開いたままうち置かれている大鋏が、月光を浴びて、日常生活の道具から舞台上の主役の趣に変貌する。

 人生において、何か大きなものを切断する不吉さと勇断とを月光に晒しているこの主役の表情は、吉とも凶とも決めつけ難い。〈切断〉したことの意味が、ヤヌス神のようにいつでも反転しそうな不穏さを帯びている。

 この大鋏を見つめる作者の内に、むしろ反転したヤヌスの貌を見てみたいと望む、冴えざえとした狂気が息づいているかのようだ。

 

青き夜の猫がころがす蝸牛(かたつむり)  真鍋呉夫

 

 この句においても、作者にわしづかみにされた情景が舞台に上り、その舞台を統べる「青き夜」の力が、猫に蝸牛をころがすという行為をさせているように見える。

 蝸牛をころがすことに愉悦をおぼえる猫の目は妖しくきらきら輝いている。

 ころがされる蝸牛の殻と地面との接地感も、読み手の五感に拡大されて響く。

 それでいてそこには、猫の欲望や蝸牛の苦痛への人間くさい感情移入を許さぬ、風景としての取替えのきかない絶対感が生じている。猫と蝸牛の、互いに魅入られたように離れられない関係のかたちは、一つの冷たい炎がゆらめく風景のようだ。

「青き夜」の次元で眺めるならば、人の世の関係や意味も変容するだろう。幸か不幸かという色彩としてではなく、善か悪かでもなく、〈個〉を超えたものに統べられることで深まる固有の陰影への、作者の暗く透徹した渇きと洞察。

 

狼の滅びし郷(くに)のぼたん雪  江里昭彦

 

 狼がこの国からいなくなったのは明治三十八年だという。

 この句で〈狼〉が象徴するものは、明治近代国家によって滅ぼされた前近代的な土俗共同体としての〈郷(くに)〉の内実、大衆の魂に、有機的で野性味のあるコスミックな陰影を保持させていた世界観、といえよう。

 しかし作者は、単に昔を懐かしんでいるようには見えない。

 狼の生きていた頃のぼたん雪と違って、今のぼたん雪はわびしい、などと言っているのではない。

〈狼〉が滅んだことで、その郷に降るぼたん雪はむしろ、生きどころを失くした〈狼〉の魂をたっぷりと含んで降るようにおもわれる。深々といつまでも降り続き、のっぺりとした現代をあまねく降りうずめてしまおうとする狂暴な意志を秘めているかのような、ひとひらひとひらの湿潤さと重さ。暗い純白の衝動。

 滅ぶことで得た自在感を駆使する〈狼〉の、魂の姿としてのぼたん雪。

 

春の月ゆらゆらと木をのぼる水  原裕

 

 植物がその生存に必要な水分を地下から吸い上げている姿などではなく、その水分の流れへの作者の想像力などでもなく、私たちの存在を支えている〈水〉、この世界を統べる〈水〉が、闇の底深くから汲み上げられて存在の内を巡る姿の具象化である。

「春の月」におぼろに照らされることで存在の輪郭が曖昧になるとき、存在の本質はかえってくっきりと顕ちあらわれる。

 この〈木〉は、私たちの身体そのものである。〈水〉が身の内を巡る体感に素直に浸される幸福感は、この〈水〉を見ることのできない世界観への、静謐で狂おしいアンチテーゼでもある。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第13回) 川喜田八潮

  • 2018.09.27 Thursday
  • 20:10

     

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 もっとも、大人のみならず、少年少女にも開かれたアニメ『安寿と厨子王丸』のような作品に、説経節の『さんせう太夫』のような、場違いな、殺伐とした残虐な設定を持ち込んでよい、というつもりは毛頭ない。

 ただ、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に垣間見られるような理念、処理の仕方というものは、全くもって、なっていないと言いたいだけである。

 この法治主義と癒着した儒教道徳的な教化理念ないし戦後ヒューマニズムという奴は、アニメで描かれた、和魂(にぎみたま)過剰の、敗け犬根性の強い、めそめそ型の主人公たちのうつろさと、まことにしっくりと調和している。

 なにせ、アニメの安寿ときたら、弟の厨子王を(目と鼻の先にある)山の向こうの国分寺に逃がす時に、なぜか一緒に逃げようとはせず、自分に優しくしてくれる、そのくせ父親の大夫や兄の次郎に対しては一切歯向かうことのできぬ、無力な次男の三郎の、当てにもならない庇護にすがろうとする始末である。

 三郎と愛し合っているのなら、どうして手に手を取って、いちかばちか、駆け落ちしてみようとしないのか。何でも、やってみなければ、わからないではないか。

 三郎も三郎だ。安寿が大切なら、その身を次郎や父親の魔手から命がけで守ろうとするのなら、どうして、彼女を連れて逃げようとしないのか。

 おまけに、安寿に横恋慕し、妻となることを拒んだ彼女に、みせしめに「焼きゴテ」を当てようとした次郎に、必死でつかみかかり、格闘した三郎のおかげで、やっとの想いで「牢」から脱出できたというのに、安寿は、池のほとりまで逃げて来たあげく、「どうせ助かりっこない」と簡単にあきらめて、父母と弟の面影を胸にいだきながら、涙を浮かべ、あっけなく「入水」してしまうのである。

 

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 ここも、鷗外の原作とは、微妙に違うところである。

 原作では、安寿の入水は、前々から彼女が密かに心の準備をし、意を決していた、〈自決〉の覚悟の自然な結果としてなされたものとされている。

 そのきっかけとなったのは、三郎が火箸で、安寿と厨子王の額(ひたい)に十文字の焼き印を押し、地獄の責め苦を味わわせるという、怖ろしい拷問の〈夢〉から、同時に目覚めた直後に、姉弟が視た霊験であった。

 逃亡を企てた科(とが)で、額に十文字の創(きず)をつけられたふたりが、苦痛と恐怖の極みの中で、安寿の守り袋から取り出した地蔵菩薩像にぬかずくと、不思議にも、耐えがたかった額の痛みがひき、創は痕(あと)かたもなく消え失せていた。その時目覚めたふたりは、同じ夢を視たことを語り合い、改めて守り本尊を取り出して、確かめてみると、地蔵菩薩の額には、一対の十文字の疵(きず)が鮮やかに刻み込まれていた。

 安寿は、姉弟を覆っていた災いの〈気〉を、守りの地蔵尊が代わって引き受け、浄化してくれたに違いないと直観する。この体験が、安寿を変える。彼女は、たとえささやかな力であろうとも、自分たち姉弟にたしかに寄り添い、守ってくれている神仏の霊があるのだという信念を抱けるようになったのである。

 この揺るぎない〈信〉の力が、安寿を、孤独な魂を備えた、ひとりの〈大人〉へと脱皮させる。ここは、原作のキイとなる転回点である。

 人が、自己の人生に対して責任感のもてる、きちんとした〈大人〉になるというイニシエーションは、決して、神仏の霊威を嘲笑い、可視的な三次元的現実のみを生きる拠り所とするような、殺伐とした、合理主義的リアリストに脱皮することではない、という思想的メッセージが、ここには込められている。

 人が真に強くなれるのは、〈信〉を否定することによってではなく、逆に、己れに宿りながら己れを超えた不可知なる存在への〈信〉の力、すなわち三次元的現実を包摂する四次元的なはからいの力に身をゆだね、賭ける勇気あればこそなのである。

 守護霊の存在を信ずる安寿は、もはや、逃亡を企てた者には焼き印を押すという三郎の脅しを恐れてはいない。

 己れよりも足腰の強い、男の厨子王に、己れの〈志〉の全てを託そうと決意する。守りの地蔵尊を厨子王に譲り、神仏の加護と導きの力を弟一人に集中させることで、彼が脱出でき、追っ手の目をくらまして、無事に都まで辿り着き、父母を見つけ出して幸せになれるよう、祈念を込め、賭けようとするのである。

 弟の開運に全てを託した安寿にとって、もはや今生(こんじょう)への希み・未練はなかった。

 彼女にとって、「入水」という自決の選択肢は、決して、発作的な衝動に駆られてのことではなく、心の迷い、葛藤を突き抜けた上で、おのずから行き着いた場所であった。

 それは哀しい選択ではあるが、ひとりの自立した、責任ある〈大人〉の、考えに考え抜いたあげくの、孤独な肚(はら)のすわりによって支えられた、潔い〈覚悟〉の表われなのである。原作の安寿の「入水」が、陰惨な匂いを感じさせないのは、そのせいである。

 

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 それに対して、アニメの方は全く違う。

 アニメの安寿の入水には、この世への未練タラタラの、陰湿な恨みがましさが立ち込めている。父母と弟への想いを残し、三郎への愛にうしろ髪をひかれたまま、無力感に打ちひしがれて、無念の自死を遂げるのである。

 その安寿の怨念の深さは、入水シーンの直後に描かれた、凄まじい、天の怒りのような、雷鳴とどろく大嵐のシーンとなって顕われる。

 その嵐は、山椒大夫一族を見舞い、造りかけていた新しい館を一気に崩し、吹き飛ばしてしまう。

 その館の工事には、かつて、安寿と厨子王の姉弟が人夫として駆り出され、酷使されていたのだ。嵐はまさに、亡き安寿の内に秘められていた怨念の深さ、憤怒の凄まじさがひき起こした、荒魂(あらみたま)のうねりなのである。

 実際こちらの方が、〈白鳥〉に化身した姿などより、はるかに、安寿の〈本音〉としては説得力がある。

 精一杯、力の限りを尽くして、生きて生きて生き抜いたあげく、ついに力尽きて倒れたのなら、その魂は、想いは、美しい白鳥にも転生しようというものだ。日本神話のヤマトタケルのように。

 しかし、アニメの安寿のように、現世への未練がましい想いを中途半端に抱えたまま、無念の自死を強いられてしまった魂が、易々と成仏して、美しい白鳥に化身できるとは思えない。

 このアニメの敗け犬根性の強さ、空虚さは、ラストシーンにおける、厨子王の母親のセリフで、極まっているといっていい。

 陸奥の任地に向かう青年・厨子王と晴れて解放された母親を乗せた船の上を、安寿の化身である白鳥が優雅に飛んでゆく。

 その姿を息子と共に見上げる盲目の母の瞼(まぶた)には、うっすらと白鳥の幻が映し出される。そして、こう言うのである。

「ねえ厨子王、あの子もあれで、幸せなのかもしれませんね」と。

 冗談ではない。花の蕾(つぼみ)の若さで、愛する人と想いを遂げることもできずに、いのちを燃焼することもなく、自死の道を選ばされているのだぞ。

 どんなに、無念の想い、未練を残して、逝ってしまったことか。

 そのような魂魄(こんぱく)が、どうして浮かばれることがあろう。

 この作品でも描かれているように、出家した三郎が、安寿の霊を手厚く弔(とむら)い、成仏させんと祈り続けることはできよう。

 この世に未練を残したまま、恨みを呑んで死んだ者の霊も、手厚く祀(まつ)ることで、逆に「守護霊」と化し、縁(えにし)ある者たちを守ってくれるという「御霊(ごりょう)信仰」が、古来、わが国には生き続けている。

 しかし、それはそれとして、このアニメで描かれた安寿の入水の「後味の悪さ」は、いかんともしがたい。

 われわれの心は、少しも晴ればれとしないし、癒されはしない。

 これは違う、違うぞ。こんな結末は、絶対におかしい。

 そう私の心はささやくのである。

 このような、主人公たちの、和魂のみに偏し、荒魂の自然な解放=表現というものが封じられてしまった不健康さは、困ったことに、息を呑むほどに美しい、例の繊細この上ない、気品溢れる日本画的風景の織りなす、透きとおった〈水〉の流れのような、ゆったりとした農耕社会的時空の内に、すっぽりと矛盾なく包摂されてしまっていて、そのために、この哀切きわまりない不条理劇には、その陰惨さにもかかわらず、なんともいえない、しっとりとした優しい抒情性が息づいている。

 田中澄江の脚本も、その演出の空気感にふさわしい、まことにデリケートな言葉づかいや間合いを紡ぎ出している。

 私たちは、その抒情的な潤いにすっかり浸り切ってしまい、主人公たちの〈うつろさ〉に対して判断停止にさせられ、カタルシスの無いままに映像を観終り、不完全燃焼の後味の悪さだけをひきずって、退席させられるのである。

『源氏物語』にも流れている、うつろさと日本的無常感が一体となった、独特のはかなさの美学にも通底するものである。

 正直に言わせてもらえば、私は、この作品が好きなのである。

 このアニメに息づいている麗わしい和魂のかたち、主人公の姉弟やその父母の優しい植物的な生存感覚というものは、私自身にとっては、幼少年期の体験と深く結びついた、この上もなく懐かしいものだからである。

 先にも述べたように、私にとって、一九六〇年代前半から半ば頃にかけて接してきた、このような日本的な花鳥風月の美意識、〈水〉の感覚というものは、己れの資質の半面とも結びついた、郷愁の対象であるといっていい。幼児期に親しんだ絵本の風景とも重なるものがある。

 しかしだからこそ、今の私は、このようなまなざしのいびつさに対して、批判的にならざるを得ないのである。

 一九七〇年代以降の肉食的な高度産業文明のうつろさに対して、そしてまた、現代人が追いつめられている〈生き難さ〉の懸崖、生老病死の酸鼻な実態に対して、このようなアジア的な無常観・諦念と結びついた、非哀感と不条理感に蝕まれた陰鬱な死臭、植物的な生存感覚によってたたかうことはできない。

 かといって、魂の〈内燃機関〉を欠落させたままで、不条理に抗う獰猛なエネルギーをひき出そうとするのも、痛々しく不自然なことである。

 動物は、本能の力によって、大自然の中に過不足なく適応しながら、即自的に生き、たたかい、その生涯を全うする。

 植物もまた、大自然の中に過不足なく収まり、生の自然な循環を全うする。

 しかし、余計な自意識をもて余す、人という生き物は、動植物のように即自的・本能的には生きられない。

 だからこそ、血縁・地縁的な土俗共同体の一員として生きた前近代の民は、己れの身体、己れの生を、大いなる〈自然〉の一部として、ひとつの〈風景〉として、肯定的に感受することのできるような、(〈風土〉の個性と結びついた)宗教的でコスミックな世界観(宇宙観)を紡ぎ出し、それを何千年にもわたって、変容・衰弱させつつも、継受し続けてきたのである。

 しかし、共同体の桎梏(しっこく)と共に、その庇護(ひご)をも失った、先進国に生きる私たち現代人は、メカニックで非情な産業社会のシステムとそれを取り囲む、巨大で非人間的な宇宙的カオスのただ中に、無意味な〈断片〉のように放り出されてしまっている。

 私たちは、かつての共同体とは全く異なった形で、自身の内なる〈自然〉、内なる生命的なコスモスを紡ぎ出さねばならないという課題を負わされている。

 そのコスモスの支えがあってこそ、人と人の絆、共同性もまた、うつろではない、幸せな良き形を成就することが可能となるからである。

 そう考える時、私は、改めて、日本アニメーション映画の黎明期であった一九五〇年代の名作『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』が象徴的に表現してみせた世界観・まなざしの現在的な意義というものを、じっくりと振り返ってみる必要性を痛感する。

 その想いを最後に今一度かみしめつつ、この論考を終えたいとおもう。(了)

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第16回) 川喜田晶子

  • 2018.09.26 Wednesday
  • 17:49

 

〈うそ〉と〈ほんと〉

 

 人は、表層を裏切るものをたっぷりと抱えて生きている。そのことが、危うさや悲哀でもあれば救いでもある。

 

高々と蝶こゆる谷の深さかな  原石鼎

 

 己れの内にざっくりと深く切れ込んだ〈谷〉があることを憶い出させる一句。平らかに穏やかに見える他者の内にもまた、そのような〈谷〉の底知れぬ深さがあるかもしれない。人生の表層の浮き沈みの激しさと必ずしも比例するわけではない、その深さ。

 その〈谷〉が深ければ深いほど、〈蝶〉はより高々と、悠然と、こともなげに谷を越えてゆく。軽やかな飛翔と目くるめく深さとの対比の鮮やかさ。

 このような〈谷〉を一つ、また一つ、越えるたびにこの〈蝶〉の内に育つ〈闇〉の、他者にも己れ自身にも測りがたい重さと、取り替えのきかなさ。

 

無時間の猫抱けば芒また芒  北原志満子

 

 誕生から死までを線分として、終点を意識しながら青ざめた細切れの時間をせわしなく消費してしまう人間と、そのような時間意識の枠外をまどろんだり、時に爪や牙で枠を蹴散らしたりしている〈猫〉との対比。

 線分を蹴散らし、その延長の直線も蹴散らし、くるりと円環を成して〈無〉を獲得する〈猫〉の時間。

〈無時間〉の猫を抱くことで、その〈猫〉の持つ光景が人の魂に映り込む。「芒また芒」の光景は、誕生以前と死後に時空を拡張しながら、万象を〈無〉に抱き取ろうとするような、甘やかなニヒリズムを感じさせる。有限の「線分」意識に疲弊する魂の裏側に潜む、甘美な〈無〉への前のめりな憧憬。

 

たましひのまはりの山の蒼さかな  三橋敏雄

 

 視覚器官としての目がとらえる山の蒼(あお)さではなく、「たましひ」がとらえた山の蒼さ。

「たましひ」と「山」とは、主体と客体として別物ではなく、「たましひ」のありよう次第でその蒼さを変える「山」である。「山の蒼さ」への感動は、そのまま、そのような蒼さを感受し得る己れの「たましひ」への想定外の讃嘆の念でもあろう。

 己れを真に肯定する力を汲み上げられるのは、このような「たましひ」のドラマの水底からである。

 

時計屋の時計春の夜どれがほんと  久保田万太郎

 

 人も風景も真実も、輪郭がおぼろになる春の夜。

 時計屋の時計がどれも別の時刻を告げている。どれか一つを信じるならば、他の時計は全て嘘になる。しかも、その一つが真実だという保証も無い。

 人の人生は、時計屋の時計のどれか一つだけを買い求めるような大ばくちなのであり、その危うくて切ない賭博性という人生の本質を、ゆらりと一枚の絵にして差し出されたような。相対化され、指の隙間をこぼれ落ちてゆく〈生〉の意味を、「春の夜」が甘くけだるく融かし合わせたような。

 

満開のこみ上げてくる櫻かな  安田鈴彦

 

「櫻」の肉体の雄々しさ、みずみずしさ。

 観念を蹴散らして、有無を言わせぬ欲動としての「満開」が、肉体の深奥からこみ上げてくる。

「肉体」がそのまま清冽な魂ならば、どれほど美しく生きられることか。

 満開の後の散りざまの潔さだのはかなさだのに浸食されぬ、素の肉体の雄渾。意味に満ちた「櫻」への讃美。

「桜」として安易に消費されない「櫻」を感受した瞬間の躍動感が読み手を包む。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

 

 

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第15回) 川喜田晶子

  • 2018.08.31 Friday
  • 12:49

 

〈生き残り〉の哀歓

 

人はみな鬼の裔(すえ)にて芒原(すすきはら)  木内彰志

 

 何かが一面にひろがる風景の〈無辺〉の感触は、私たちを、どこから来てどこへゆくのか、という問いへと誘うのだが、「人はみな鬼の末裔なのだ」という認識も、〈芒原〉にたたずむことで自然に受け容れられてしまう。

 鬼の領域と人の領域が隣接しながらも険しく排除し合い、切なく惹きつけ合い、混じり合って、いつか人がかつて鬼であったことを忘れ去るまでの壮大な時間が、そこには〈芒〉の姿をとって見はるかされるのだ。

 間歇泉のように突如濃く噴き出す鬼の血を帯びて歴史を揺るがす者もいたであろう。トゲのように、十字架のように、歴史に刺さっている彼らの矜持と哀しみ。あるいは、誰にもその血の濃さを気取られずに一生をまっとうした者の、いぶし銀のような生の充溢や鬱屈もまた、〈芒原〉には沁みていよう。

 遺伝子なるものが〈らせん〉を描いているとすれば、〈鬼〉の血と〈人〉の血、あるいは、〈鬼〉を忌む血と〈人〉を忌む血のせめぎ合いが表現を求めてやまぬからかもしれない。

 

絵ぶみして生きのこりたる女かな  高浜虚子

 

 キリストの像を踏んでみせるか、踏まずに信者であることを告白して処刑されるか。

 この女は踏んで生きのこってみせた。

「生きのこりたる」には、信仰を共にする仲間たちは処刑されたけれども、この女だけは生きのこってしまった、というドラマが簡潔に提示されている。生きのこって、今、眼前に存在している。心を占めるのは悔いなのかふてぶてしい安堵なのか、その両方なのか、詮索されないままがつんと提示された存在の、ひたすらな生々しさもまた、十七音を溢れて迫ってくる。

 正岡子規の〈写生〉理念を受け継ぎ、「客観写生」「花鳥諷詠」を俳句のスタンダードとして樹立した、高浜虚子。伝統という母胎に育まれてこそ〈写生〉の近代性が革新的であり得た子規、その理念を逆説的に支えていたコスミックな世界観が衰微し、空洞化してゆくしかなかった明治・大正・昭和という時代に、〈表現〉が生き残るとはどういうことであったのか。

 虚子の内に、「絵ぶみ」することで生き残る道を択んだけれども、心の底で信じ続けたうらはらな何かが疼くことはあったろうか。

 

方舟(はこぶね)に誰をのこすか霜の声  鈴木明

 

 凍てついた冬の夜。〈霜の声〉だけが世界を領しているような、人の気配の希薄さ。

 ふと、世界が更地になる瞬間の究極のディバイドに立ち会っているような冷気に包まれる。

 方舟に誰をのこすのか。その時、どんな基準が適用されるのか。新世界で役に立つかどうか、美醜、強弱、旧世界での功績、倫理、純・不純、清濁、あるいは偶然?それとも気まぐれ?

 ひとたびこの冷気の選択権が発動してしまえば、人間にとっては酷薄な不条理の風景がひろがるだけなのかもしれない。その酷薄な世界の更新は、人間が握り締めたがっている〈意味〉とは異質な水準で発動する。

 そのような不条理な超越性に身体を開かざるを得なかった者の、不敵な風貌がちらつく。己れと世界の〈意味〉の手触りを冷ややかに拉し去られながら、今一度、異次元の冬の荒野に傲然と着地するような。

 

   幻影     中原中也

 

私の頭の中には、いつの頃からか、

薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、

それは、紗(しゃ)の服かなんかを着込んで、

そして、月光を浴びてゐるのでした。

 

ともすると、弱々しげな手付をして、

しきりと 手真似をするのでしたが、

その意味が、つひぞ通じたためしはなく、

あはれげな、思ひをさせるばつかりでした。

 

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、

古い影絵でも見てゐるやう―

音はちつともしないのですし、

何を云つてるのかは、分りませんでした。

 

しろじろと身に月光を浴び、

あやしくもあかるい霧の中で、

かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、

眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 

 

 詩歌という表現形式を駆使してもなお、中也の中には他者に伝わり切らない〈闇〉を抱えたピエロが棲んでいたようだ。

 現実をサバイバルする能力に乏しい「薄命さうな」ピエロは、「紗」の服を着込んで月光を身に沁ませながら何かを訴えかけている。

 弱々しい手真似の意味は「つひぞ通じたためしはなく」、つまり、中也自身にも己れの無意識を白昼の言語に置き換えることが完全にできたためしはなく、「あはれげな、思ひをさせるばつかり」であった。「唇」を動かしてみても、「古い影絵でも見てゐるやう」。時代の表層からずれている自身の無意識がもどかしくてならない。

 しかし、そのピエロの「眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした」。時代と意識は白昼の太陽に照らされており、その光から逃げることを許されないのだが、そこで生き抜くことのできない中也の無意識は、夜の霧と月光に包まれて、「かすかな姿態をゆるやかに動かしながら」やさしい存在であり続けている。

 真昼の太陽でもなく、漆黒の闇でもなく、「あやしくもあかるい霧の中」でやさしい眼をしたピエロの柔和な強靭さを、中也はつつましく遺してくれた。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第12回) 川喜田八潮

  • 2018.08.29 Wednesday
  • 15:32

 

     24

 

『山椒大夫』に透かし視える、観念的・道徳的な理想主義と表裏一体となった、法治主義による〈治者〉の位相という奴は、本当にぞっとしない。

 哀切な姉弟の不条理劇の結末がこれでは、あまりにもひどいではないか。

 私がこんな風に言うと、もちろん、近代文学の作家・評論家・学者先生たちは、「文学は勧善懲悪じゃないんだゼ」と、口を揃えてなじることであろう。

「この世には、はらわたが煮えくり返るような不条理が無数に、いたる所にあるんだゼ」とも。

 だが、彼らは、「勧善懲悪」という思想の真の〈意義〉というものが、まるで分かっていないのだ。

 それは、虚構作品に織り込められた〈象徴性〉の意義がまるで分かっていないということであり、ひいては、私たちの生活風景、経験の内に立ち顕われる、さまざまな事象の〈象徴的意義〉が、まるで視えていないということでもある。

 つまり、「勧善懲悪」を貶める彼らの論法は、地上的・三次元的な物的対象のニュートラルでメカニックな運動や、人間心理と社会・自然現象への客観的な観察や、因果関係の理念のみに意識を拘束された、近代合理主義者(モダニスト)としてのまなざしの狭さ、貧寒なリアリズム的世界観の限界を、まざまざと露呈させるものでしかない、ということだ。

 彼らモダニストたちの人間認識や人間観察がどれほど精緻なものであろうとも、また、人間の深層心理への洞察がどれほど透徹していようとも、私たちの固有の人生に立ち顕われる、固有の〈出逢い〉、固有の〈えにし〉、固有の〈めぐり合わせ〉というものは、それらのニュートラルで合理主義的な認知なるものをはるかに超えた、霊妙不可思議な象徴的相貌を帯びて、私たちの身体感覚を揺さぶるのである。

 そのような、怖ろしくも美しい、主・客融合的で不可知なる存在の実相こそ、私たちを真に活かしめるものである。

 ただ、身体的なレベルにおける〈象徴的感受〉という体験ないしは表現方法を通してのみ、私たちは、三次元に意識を拘束された近代合理主義の狭量さを超えることができるのであり、地上的な不条理感を超える四次元的な生存感覚を(たとえ一時(いっとき)であろうとも)体感することができるのである。

「勧善懲悪」という手法は、〈虚構〉による物語的な造形を通して、己れの三次元的な不条理感の苦しみを吐き出すと共に、それを打破し、塗り変える四次元的な身体感覚を象徴的に紡ぎ出すエンターテインメントの表現形式として、立派に、その芸術性を主張できるものである。

 ただし、私がここでいう善悪とは、観念的な規範としての道徳的な善悪のことではない。

〈悪〉とは、人の固有の生命を圧殺し、不条理に陥れようとする、まがまがしき邪気・邪念のことであり、〈善〉とは、それに抗(あらが)い、不条理の底から立ち上がり、闇の深奥から、生気ある光を紡ぎ出し、幸せにならんとする不屈の意志、情熱のことである。

〈虚構〉としての「勧善懲悪」は、そのような、生命的な価値としての善と、それを圧殺せんとする反生命、虚無、死の象徴としての悪の、四次元的な葛藤のドラマを演出するものでなければならない。

 時代劇という虚構の手法は、そのような象徴的演出にとって、まさにうってつけの舞台を提供してくれる。

 

     25

 

 すでに詳細に論じたように、一九五九年公開のアニメ『少年猿飛佐助』は、和魂と荒魂の均衡、光と闇の両義性の葛藤による勧善懲悪のドラマを通して、美事な身体的解放感を演出することができていた。

『安寿と厨子王丸』のような酷い設定の制約下にあっても、やろうと思えば、それは可能であったはずだ。

 ちなみに、鷗外の創作のベースとなった、中世の語り物「説経節」の『さんせう太夫』では、弟を逃がした姉の安寿は、山椒太夫の三男「三郎」によって、残忍きわまる拷問を受けて、殺される。神仏の加護によって守られ、窮地を脱し、都まで逃れた厨子王は、梅津の院という公家に見出されて、その養子となり、帝(みかど)に引き立てられて、陸奥五十四郡と日向・丹後の国を与えられる。

 丹後の由良におもむいた厨子王は、山椒太夫とその息子・三郎によって姉が責め殺された事を知り、復讐の鬼と化す。

 彼は、昔、奴婢であった姉弟に情けをかけてくれた太夫の長男・太郎と次男の二郎は許すが、三男の三郎だけは、父親共々、決して許さない。

 まず、太夫を土中に埋め、息子の三郎に、父親の首を竹鋸(たけのこぎり)で引かせて処刑し、さらにその後に、三郎を浜に連れて行き、道行く山人たちに、七日七夜、首を引かせて、極限的な地獄の責め苦を味わわせたあげく、死に至らしめるのである。まさに、「目には目を」の、凄まじいリベンジというべきである。

 これは、実際にも、中世で行使されていた処刑法であって、中世後期の室町時代に創られたと推定される説経節の語り物の中で、このような私的怨恨を晴らす報復の権利が、公(おおやけ)の「仕置(しおき)」として認められていたのは、当時としては、リアルな風景であったと考えられる。

 安寿への酸鼻な拷問の描写といい、厨子王による処刑といい、近代の私たちの眼から視れば、野蛮きわまる、耐えがたい設定のように思われるかもしれないが、極度の低生産力水準のもとで、天変地異や疫病や飢饉の脅威にさらされ、戦乱に明け暮れる、アナーキーな中世後期のカオスの世を、必死に生き抜いていた民にとって、「目には目を」の復讐物語は、さぞや深いカタルシスを覚えさせてくれるものであったに違いない。

 それは、民にとっておそらく、己れの人生の不条理感の全てを、一瞬吹き飛ばしてくれるほどの、身体的な〈解放感〉を与えてくれるものであったろう。

 この語り物の魅力の真髄は、主人公の姉弟がこうむった不条理性の凄惨さと、それに対する、これまた残虐きわまる復讐の情念の、シンプルな〈対比〉の鋭さにあるといっていい。

 それは、荒ぶる神と荒ぶる神の〈激突〉のドラマである。

 その対比の鋭さが大衆に異様な感銘を与え得たとすれば、それは、多分に稚拙なところのある説経節のリアリズム的な描写のせいではなく、「語り物」としての、音楽的な〈リズム〉と〈声音(こわね)〉によって喚起された身体感覚のインパクトのせいであったに違いない。

〈観念〉ではなく、身体感覚の深奥に息づいている、三次元的・可視的な〈個〉の殻を超えた、森羅万象に拡がる、四次元的・不可視的な〈無意識〉のエネルギーが、物語的な〈暗喩〉という、メタフィジカルな〈象徴性〉の形をとって、一気に解放されたからである。

 中世の語り物・唱導文学を担った、琵琶法師や「ささら説経」の徒のような芸能の民によって受け継がれ、定着していった舞い、曲、語りというものは、おそらく、そのような、個を超えた類的な生命感と結びついた共同的無意識と鋭く共振し、それを喚起するものであったに違いない。

 その無意識が励起され、意識面に浮上することは、己れを包み込んでいる大自然の〈気配〉をまざまざと肌で感じ取るということであり、その気配・流れと一体化して生きることは、己れの深奥に宿る闇と光のダイナミズムのエネルギーを、本能的・官能的に解き放つという営みだったのではあるまいか。

 ニーチェ風に言うなら、それはまさに、ディオニュソス的な陶酔・乱舞による祝祭的な時間の顕現であったということになろう。

〈芸能〉の源泉とは、元来、そのような古代・中世的な四次元的生存感覚の象徴的解放を通じて、地上的な不条理感を超え、生の風景を更新することで、「生き抜こう」とする気力を鼓舞せんとする、ささやかな試みであったはずである。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第11回) 川喜田八潮

  • 2018.07.17 Tuesday
  • 14:38

 

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 悲哀感と不条理感に打ちのめされた、和魂(にぎみたま)偏重の植物的な生存感覚、東洋的な無常感、ニヒリズム(ペシミズム)、諦観といった、前近代的・伝統的な土俗共同体的美意識によって支えられたエートスが、この時期になって一気に浮上してきたのは、一九六〇年代前半という、経済至上主義に蝕まれた肉食動物的な業界人・サラリーマンの増大する世相に対する、いわばアレルギー的な反動が、高度成長という偽りの〈光〉の裏面に秘められた〈闇〉の鬱屈、苦しみ、渇きの〈表現〉となって、溢れ出てきたせいではあるまいか。

 だが、それはすでに、「五〇年代」の表現にみられた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉と、己れの主体の底、身体の底に、闇と光のダイナミズムを感受するというコスミックな感覚を失っていた。(ちなみに、六〇年代前半には、周知のように、こういった〈和魂〉のみに偏した作品群とは逆に、獰猛な生きるエネルギーと闘争の修羅場を描き、〈荒魂〉のみを強調する作風を示した白土三平の劇画世界があったわけだが、彼の作品群もまた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉を逸していたという点では、同じ穴のムジナであり、和魂偏重のペシミスティックな表現と、いわばメダルの表裏のような関係にあったと考えられる。両者は共に、六〇年代という、経済至上主義に汚染された時代の、肉食的な文明によって追いつめられた〈土俗〉の宿命を象徴するものとみなすことができよう。)

 アニメの『安寿と厨子王丸』を覆っている、主人公たちの和魂のみに偏したいびつさ、脆弱(ぜいじゃく)さは、そういう時代の不健康さを如実に物語っている。

 特に、最終部のクライマックスで、山椒大夫とその息子・次郎の罪一切を許すという設定には、唖然とするほかはない。カタルシスも何もあったものではないのだ。

 鷗外の原作では、あたかも〈自然〉現象を記すように、淡々と客観的に姉弟の運命を叙述しているのだから、言語の硬質な〈抽象性〉によって不条理性が緩和され、したがって、このような結末も、「仕方ないなァ」と、変に因果関係のリクツで納得させられて、ついつい、そのまま受け容れさせられてしまうのだが、アニメの方ではそうは行かない。

 姉弟の哀切な運命にわれわれが全身的に感情移入し、悲しみに打ちひしがれてしまうからである。「いくらなんでも、これはないゼ」という気持になってしまう。

 もちろん鷗外の原作を踏まえて創られたアニメなのだから、当然といえば当然の結末ではある。原作では、山椒大夫の一族は、丹後での人買いを禁止され、奴婢の解放を強いられた代わりに、罪を許されたばかりか、解放された元の奴婢たちが大夫から「給料」をもらうことで労働意欲が高まり、その結果、ますます富み栄えることになったというのであるから、考えてみれば、こちらの方も、実にやり切れない、「うさんくさい」設定というべきである。

 私たちは、鷗外の〈文体〉の力に幻惑されて、この作品の背後に隠されている作者の政治理念の「うさんくささ」に対して、判断停止にさせられているのだ。

 この原作の結末は、軍医総監にまで出世し、明治近代国家を支える官僚の一人として、〈治者〉の位相に身を置いていた森鷗外が、天皇制イデオロギーを支える「修身・斉家・治国・平天下」の儒教的教化の理念をさりげなく織り込めた事によるとみてよいだろう。

 

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「目には目を、歯には歯を」の復讐理念を、人情の自然、人間性の道理として、法や掟の内部に一定範囲内で繰り込むことができていた中世や近世のような社会ならともかく、われわれの近代国家において、個人の私的な復讐理念の実力行使を道徳的・法的に容認したならば、収集のつかない、アナーキーな混乱に陥ることは必定(ひつじょう)であるから、国民から、犯罪行為に対する私的な処罰権を取り上げて、それを国家権力による法的判断に委ねるというのは、およそ揺るがすことのできぬ、近代法治主義の理念であり、大義である。

 王朝国家の官吏として出世し、山椒大夫一族に寛仁大度の処置を下す厨子王の〈治者〉としての姿勢の背後には、鷗外が理想として掲げた、明治天皇制イデオロギーと癒着した儒教的な徳治主義が横たわっているとみてよいが、その道徳臭をカッコに入れれば、そこに透けて視えるのは、まぎれもない、近代国民国家の公権力に根拠をもつ、法治主義による裁きの理念なのである。

『山椒大夫』では、怨恨による私的な報復の感情というものは、完全に否定的な扱いを受けており、その徹底ぶりは、丹後での人買いを禁止され、奴婢を解放させられた代わりに、罪一切を許された山椒大夫一族が、その後、かえって「富み栄えた」という叙述によってもうかがうことができる。

 鷗外的理念によれば、一切の不条理は、良き〈法治〉を踏まえた良き〈統治〉によって贖(あがな)われるべきものなのである。

 鷗外の原作を踏まえて作られたアニメの方でも、〈公権力〉に根拠をもつ裁きの理念はそのまま継承されており、所有する奴婢をことごとく解放せよと命ずる厨子王に対して、反抗的な態度を示す山椒大夫と次郎に向かって、「帝(みかど)」の権威を口にし、平伏させるシーンには、それがよく表われている。

 しかもアニメでは、厨子王はなんと、山椒大夫と次郎による過去の奴婢への虐待の罪を許したばかりか、己れを襲撃し暗殺せんとまでした言語道断な所業までも不問に付すのである。アニメの青年・厨子王もまた、王朝国家の一端を担う、理想化された有徳の〈治者〉に成り切っており、己れのこうむった不条理への〈怨恨〉の全てを、ものの美事に抑圧し、法的な〈善政〉の観念へと代償的に昇華してみせているのである。

 もっとも、このアニメの厨子王像は、鷗外の原作のような、明治国家的な儒教的道徳臭をひきずっているというよりは、むしろ、公権力と一体化した戦後民主主義・ヒューマニズムの観念性の象徴とみるのが、当を得ているとおもわれる。

 どっちにしても、同じ穴のムジナである。

 

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 ちなみに、こういった鷗外的理念の行き着く先が、二〇〇〇年代以来、人気テレビ番組としてヒットし続けている周知の刑事ドラマ『相棒』(テレビ朝日放映)の主人公、水谷豊演ずる警視庁特命係の敏腕警部「杉下右京」である事は、言うまでもない。

 杉下右京の信奉する、極度に聖化された法的な〈正義〉の理念とヒューマニズム、そして、そのリゴリズムと矛盾しつつも表裏一体となった、社会へのクールでリアルな観察眼と人間心理の闇への透徹した洞察力……。

 これらの特性は、私には、明治官僚制国家の有能な構成メンバーの一員として勤めながら、その一方で、人間心理にたけた、優れた文学者として日本近代文学の確立に寄与した森鷗外の二面性と重なって視える。

 共に、一面では、極度に観念的な理想主義者でありながら、他面では、それと矛盾する、妙に地に足の着いた、冷徹なリアリストであるという、天上と地上に分裂した〈二重性〉を備えているのである。

『相棒』というドラマが、かくも長年月にわたって根強い人気を保ち、人々を引きつけて止まないのは、杉下右京によるクレバーな謎解きの面白さもさることながら、この主人公の呆れ返るほどに硬直した法治主義的な理想主義がかもし出す、なんとも言えぬ〈息苦しさ〉と、事件の背景に横たわる、不条理な地上の三次元的現実にがんじ絡めとなった被害者や犯人の生態の〈救いの無さ〉のコントラストが、われわれ現代人の視聴者の〈生き難さ〉の感覚、そのマゾヒスティックな痛覚を強烈に刺激するからである。

 われわれ現代人は、これほどにも救いの無い不条理な実相に置かれているのだ、しかもそれは、人間という生き物に元々天から偶然的に与えられた運不運であり、業苦や悪因縁の宿命なのだという、陰惨な近代リアリズム文学的な人生観・世界観が、この社会派刑事ドラマの背後には、常に暗くよどんだように流れている。

 それだけに、杉下右京の振りかざす観念的な理想主義の息苦しさ、押しつけがましさが、(犯人を情け容赦なく追いつめてゆく彼の冷徹な有能さと相まって、)「どこにも出口が無い」というわれわれの〈閉塞感〉を、より一層強く刺激するのである。

 それは一時(いっとき)の間、私たち視聴者を〈マゾヒズム〉の快感によって縛り付ける。

 放送を観終って、そのマゾヒズムの呪縛が解けた時、私たちは、なんという空しさ、うつろさを感じさせられることだろう。

 性懲りもなく何年にもわたって、毎週のように、私はこのテレビドラマを観続けてきた。中には、ごく稀に、後味の悪くない、出来ばえの良い物語の回もあったけれども、総じて後から振り返ってみた時、これほどにうつろで、やり切れない想いにさせられるドラマは他に無い、と言ってもよいくらいだ。*

 このうつろさ、やり切れなさは、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に感じた想いと似ている。(この稿続く)

 

 *この論稿を書いた後、つい先頃(二〇一八年・春)、太田愛の脚本による『相棒―劇場版検戞紛極椣豐篤帖二〇一七年二月公開)のテレビ初放映を観た。私見では、テレビ版・劇場版全て含めた上でも、『相棒』史上、稀有といってもいいほどの、秀逸な出来ばえであった。哀切さが胸に沁みて、しかも後味が悪くなかった。全然期待していなかっただけに、正直驚いた。

 勘どころは、〈国家〉という制度的な虚構と、個々の無名の生活人が置かれた〈生身〉の生の現場の、めくるめくような〈落差〉の痛覚を、きちんと描き切ることで、私たちにとっての真の〈共同性〉のかたちとはいかなるものであるべきか、という問いかけを、観客に真摯に突きつけてみせている点だ。

 風土・民族・伝統といった概念と不可分の「日本人」としてのアイデンティティー、すなわち無名の生活人の「生ける絆」と(あるべき幻としての)〈故郷〉への回帰願望の延長上に紡ぎ出された〈共同性〉のイメージである「日本」という「クニ」のかたちと、「最大多数の最大幸福」の建て前のもとに、法治主義と市民主義的モラルによって強力にガードされた(民主主義的な)「近代国民国家」というメカニックな制度的共同体とを峻別し、後者が強いてくる冷酷な世界風景を、能う限り、しりぞけようとしているという点だ。

 特に注目すべきは、この『劇場版検戮梁静聴Δ竜嗚椶任蓮▲謄譽喩任箍甬遒侶狆貳任之り返し強調されてきた、杉下右京の、法治主義を居丈高(いたけだか)に振りかざす「啓蒙的説教」が全くみられず、ただひたすら、犯人の哀切な心事、心の秘密に迫り、寄り添おうとする優しさがにじみ出ていることである。

 物語の終末部で、私たちは、法・制度・国家といった冷酷な観念の化け物がすーっと風景から消え去り、ひとりの人物の生涯の軌跡、言葉にはならぬ、その無量の哀歓を、ただ静かに受け止めている己れ自身を感受する。

 負傷して車イスに乗った右京が、公園の深々とした樹木の中から、しばし無心に空を見上げているラストシーンも、すばらしい。

 私にとっては、悲しい、嫌な想い出ばかりの『相棒』シリーズだが、この『劇場版検戮蓮⇔匹出逢いの記憶を残してくれた、得がたい作品の一つとなった。

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第14回) 川喜田晶子

  • 2018.07.16 Monday
  • 15:23

 

想い出す世界・忘れる世界

 

 この世界の可視的な成り立ちを根底からひっくり返すことも、定型短詩は得意である。短さのゆえに、読み手は仮構された世界の奥ゆきをいかようにもはるばると想い描くことができる。異世界のほんの欠片を提示されるだけで、私たちは深い呼吸を取り戻すことができる。「もしも」が「ほんとうは」へと壮大に膨らむ。

 

月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ  池田澄子

 

 月の夜の柱の望みを肉感的に感じ取り、応答する作者の口ぶりが微笑ましく躍動的だ。

 そんなに咲きたいのなら、遠慮なくどうぞ。

 家を支える「柱」として加工され、身動きすることを許されなくなってしまった樹木が、「柱」としてなお、呼吸し、世界を感受・感応し、望みを抱きもする。削られた望みが、月の夜には芯からうずくのかもしれない。どこか、社会という建築物の一部として加工され、固定され、本来の息づかいを、芯からうずく望みを、忘れてしまった現代人の姿にも重なる。

 一度咲いた「柱」は、その一夜だけではなく、それからも「咲く」ことのできる命を生き続けるだろう。そんな「柱」とのこれからのひそやかな共同性まで受容しながら、作者は「どうぞ」と勧めているように見える。

 

綿虫に一切をおまかせします  川崎展宏

 

 一切をおまかせするのが神仏ではなく、いかにも非力そうな「綿虫」であることのかわいらしさと切なさ。作者はどれほどの難儀をどのように行き詰まったのだろう。理知の限りを尽くして、神仏にも祈り尽くして、もはや打つ手が無いと感じたときに、冬の日をはかなげにちらほらと舞い飛ぶ「綿虫」に全てをゆだねる愚かしさは、もしや聡明さなのではないだろうか?

 もしこの世の深い摂理を取り仕切っているのが実は「綿虫」だとしたら?

 望みとそれが叶うこととの筋道を、強固で冷厳な権力としての非合理に握られ、操られるくらいなら、いっそ、そのような権力からはるかに遠そうな「綿虫」に祈りたい。ゆだねたい。彼らの、我執も強制力も無さそうな存在感に、この世の摂理も己れの一切も、まかせたときに見える風景に賭けながら祈りたい。

 強固な意味を強いられる冷徹さから逃がれ、ぎりぎりのところでニヒリズムからも逃がれ、合わせる掌の内に捉えようとする〈意味〉の軽やかさと温かさ。

 

満開の森の陰部の鰓(えら)呼吸  八木三日女

 

 むせかえるような満開の桜の森。

 群れとしての桜花の息づかいを濃密に浴びた作者は、水に漬かってうごめく生命体として森の総体を感受してしまう。森の存在ゆえに、世界が〈水〉の相貌を帯びる。その森を一つのコスモス(宇宙)たらしめている「陰部」を探り当てるのは、作者の「目」ではなく、魂の拍動ないし呼吸であろう。めくるめくような〈闇〉のカオスとしての「陰部」において、森とともに作者もまた「鰓呼吸」を始める。原始の息づかいとカオスの記憶に浸潤される時間。

 

霧なめて白猫いよよ白くなる  能村登四朗

 

 霧をなめることで、白猫がいよいよ白くなる、という因果律によって、世界が揺さぶられる一句。

 白猫がいよいよ白くなることで、霧の中でその輪郭が消えてしまいそうな映像が喚起される。その映像は不快ではない。不安をそそるが魅力的である。

 では、私たちも霧をなめることで、存在の輪郭を消すことができようか?

 その問いは、自分の存在を霧に同化して消し去りたいという不穏な渇望を、己れの内にまさぐる契機となる。

 存在とは、そもそも霧から生まれて霧に還るものではないのか?

 不穏な問いが連鎖反応のように湧き出でて、輪郭を保持している己れの肉体の、確かさと不確かさをもてあますようになる。世界の輪郭もまた、不確かなものなのだと気づいた肉体を抱えて、あたりを見まわすようになる。

 

炎えるかもしれぬ薊(あざみ)を束ねおり  永井江美子

 

 薊という花は、異形性と押し殺したような情熱を感じさせる。

「炎えるかもしれぬ薊」は、だから作者の内にあるそのような情念の喩であろう。己れの内に、いつ炎えるかわかったものではない何かを抱えている。「束ねる」という行為は、それをなだめるようでもあり、なだめることで炎えるエネルギーをそそっているのかもしれず。己れの手の為す「束ねる」のゆくえを待ち構える目線が艶やかだ。

 

尾をいつか忘れていたり秋の暮  酒井弘司

 

 作者は狐である。人間に変化(へんげ)して、人間の女と出逢って恋をして、今では女房と子どもとともに穏やかな日常を送っている。誰にも、女房にさえも、狐であったことなど気取られずに。

 秋の暮にふと、夕空を眺めていた刹那、「尾をいつか忘れてしまっていた」ことに気づく。自分がもとは狐であったことや、尾を持っていたことを思い出すのではなく、「忘れちまってたな」ということに気づくのである。

 もとの狐の性(さが)が顔を出した、思い出した、という瞬間が詠まれているのではない。尾があったことなどいつか忘れてずいぶんと長く暮らしていたものだ、忘れられるはずもないものをよくも忘れていたことよ。その気づきに感動の焦点がある。

 狐と尾は、作者の内なる異形性の喩であろう。

 この世の仕組みからはみ出してしまいそうな性(さが)を抱えてひりひりと生きていたのに、よくもまあ、生活というやつは、日常というやつは、自分にそれを忘れさせて、生きさせるものよ。

 作者にとって、句作とは、時々己れの「尾」のありようを確かめる営為であるのかもしれない。

 そして、私たちの〈生〉が、とある狐の転生後の時間だとしたら?

「尾」の想い出し方と忘れ方のはざまに、誰の人生も滲むようにおもわれる。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

 

 

 

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第13回) 川喜田晶子

  • 2018.06.30 Saturday
  • 15:28

 

〈けもの〉の匂い

 

〈けもの〉に喩える営みによって解放されるものがある。

 私たち、あるいは私たちの内なるなにものかを、解き放つための十七音、または三十一音の潔さ。

 

 大いなる鹿のかたちの時間かな  正木ゆう子

 

 梟(ふくろう)や森の寝息の漏るるごと  無田真理子

 

 早春の馬はしり過ぎ火の匂い  穴井太

 

 狼(おおかみ)のごとく消えにし昔かな  赤尾兜子

 

 こめかみは鱗(うろこ)のなごり稲光  秋月玄

 

 秋といふ生(いき)ものの牙夕風の中より見えて寂しかりけり  与謝野晶子

 

 夕月を手に取るやうにやすやすと我が鱗(うろくづ)に触るる君かな  桐島絢子(川喜田晶子)

 

「時間」が「鹿のかたち」に喩えられる新鮮さ。

「大いなる」によっておごそかな聖性が、「鹿」であることによって非日常的でありながら遠ざかり切らない、穏やかさと温かさをはらんで息づく生活の「時間」のとしてのたたずまいが、正木ゆう子の句には保たれている。融合の相貌で顕ち現れる、非日常と日常。手に触れられる距離と生身の体温。それでいて侵すべからざる聖性に充ちた、時間。生活の内にありながら、稀有な。稀有でありながら、この時間が無ければ私たちの存在を支える不可知の気配との接点もまた失われてしまうであろう、必須の時間。

 

 梟の啼き声を、森の寝息が漏れるようだと喩える、無田真理子の句。

 聴覚にだけ訴えかける句ではなく、〈存在〉の不可知の領域の気配を全身で触知する瞬間を生々しく想起させる。梟とは、実は森という巨大で得体の知れないけものの寝息が形になった姿ではないのか。あるいはまた、さらに測り知れない〈闇〉という存在の心の臓や魂がそこに横たわって息づいている姿を、私たちは「森」と呼んでいるだけではないのか。

〈闇〉の在り方への想像力を、ほの暗くそそのかす比喩の力。

 

「早春の馬」がはしり過ぎることで感じとる〈火〉の匂いとは何か。

 真夏の馬ではなく、「早春」であることで、穴井太の句からは、凄烈で若々しい切り裂くような危うさが放たれる。危険も伴う生命的な燃焼への予感と期待。まだ解放されていない、まだ燃やしていない、己れの内なる〈未知〉が、燃やすより前に〈火〉の匂いを発する。そんな領域が己れの内にまだあるならば、いかほどの齢であろうと、人は「早春」を生きているのかもしれない。

 

 日本から「狼」がいなくなったのは明治三十八年だという。

 前近代的な風土性と、それに育まれた人々の精神性が、〈近代〉によって駆逐されたことを嗅ぎ取ったかのように、姿を消した「狼」。

 赤尾兜子の句で消えたものは「昔」である。単に「昔」を懐かしんでいるというより、自分たちにふさわしい居場所ではないことを俊敏に察知して消えた「狼」のように、「昔」もまた、今の世に永らえるべきではないことを悟って消えていってしまったのかもしれない、という把握が滲み、苦さが伝わる句。

「時代」もまた、〈けもの〉のような嗅覚を持ち合わせているのだ。

 

「こめかみ」は、実は「鱗」のなごりなのだという、秋月玄。それも龍の鱗である。

 眼前の稲光に龍の荒ぶる姿を見た瞬間、作者の「こめかみ」もその龍に感応してうずいたのであろうか。かつて、己れが〈龍〉であった証をまさぐる恍惚。己(おの)が肉体のどこかに、聖なるものの痕跡を見出すことで、現実の不条理を踏みにじり、地上的な生の枠組みを揺さぶる。十七音の挑戦。

 

「秋といふ生もの」の「牙」を詠む与謝野晶子。

 無常観に己れを差し出すようになじませていた前近代的な情緒から逸脱し、近代的な自我の「寂しさ」を提示する。「秋」という生きものが夕風の中を晶子の魂へ忍び寄る。同じ孤独を、それも〈けもの〉のような孤独を、嗅ぎ分けるのかもしれない。その「牙」に噛まれて確かめられる「寂しさ」は、他の誰の「寂しさ」でもない、己れひとりの誇り高い、飼い慣らされることのない「寂しさ」である。

 

 自作から一首。相聞歌の体裁をとって解き放ちたかったもののかたち。

「君」は、たやすく「夕月」を手に取ることのできる存在である。人の世の理屈から存分に自在にはみ出した力の駆使。〈水〉の象徴としての「夕月」を、身体の延長のように扱うそのたやすさで、「我が鱗(うろくづ)」にも苦も無く触れることができる。そのたやすさは、逆に言えば、「我が鱗」の触れ難さ、扱い難さでもある。

 永く永く、たったひとりで守りぬいてきた「鱗」。誰にも気づかれず触れられず認められず、自らそぎ落とすことなく、守りぬいてきた「鱗」の〈意味〉が、魂の宙宇に潜んでいる。

〈意味〉へのもがきを秘めた「鱗」を、守りぬき解き放つ苦しみと歓びは、短歌という器に載ってどこまで届くだろうか。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第10回) 川喜田八潮

  • 2018.06.28 Thursday
  • 21:38

 

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 ちなみに、森鷗外の原作では、安寿と厨子王の姉弟は、苛酷な労働を強いられるが、同僚の婢(はしため)「小萩」の心づかいや、邪険な山椒大夫の三男「三郎」とは違って、自分たちに憐れみをかけてくれる、次男の「二郎」のおかげもあって、かろうじて息をつきながら、黙々とくぐもるように日常をくぐり抜けてゆく。

 

 隣で汲んでいる女子(おなご)が、手早く杓を拾って戻した。そしてこう云った。「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手(めて)の杓でこう汲んで、左手(ゆんで)の桶でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。

「難有(ありがと)うございます。汲みようが、あなたのお蔭(かげ)で、わかったようでございます。自分で少し汲んで見ましょう」安寿は汐を汲み覚えた。

 隣で汲んでいる女子(おなご)に、無邪気な安寿が気に入った。二人は午餉(ひるげ)を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹(きょうだい)の誓をした。これは伊勢(いせ)の小萩(こはぎ)と云って、二見(ふたみ)が浦(うら)から買われて来た女子である。

 最初の日はこんな工合に、姉が言い附けられた三荷の潮も、弟が言い附けられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進(かんじん)を受けて、日の暮までに首尾好く調った。(森鷗外「山椒大夫」新潮文庫版)

 

 姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日(ひとひひとひ)と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。

 とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬ時が来た。小屋を明ければ、奴(やっこ)は奴、婢(はしため)は婢の組に入(い)るのである。

 二人は死んでも別れぬと云った。奴頭が大夫に訴えた。

 大夫は云った。「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引き摩(ず)って往け。婢は婢の組へ引き摩って往け」

 奴頭が承って起(た)とうとした時、二郎が傍(かたわら)から呼び止めた。そして父に言った。「仰ゃる通に童共(わらべども)を引き分けさせても宜(よろし)ゅうございますが、童共は死んでも別れぬと申すそうでございます。愚なものゆえ、死ぬるかもしれません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗(へら)すのは損でございます。わたくしが好いように計らって遣りましょう」

「それもそうか。損になる事はわしも嫌(きらい)じゃ。どうにでも勝手にして置け」大夫はこう云って脇(わき)へ向いた。

 二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。

 或(ある)日の暮に二人の子供は、いつものように父母(ふぼ)の事を言っていた。それを二郎が通り掛かって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐(しいた)げたり、諍(いさかい)をしたり、盗(ぬすみ)をしたりするのを取り締まっているのである。

 二郎は小屋に這入って二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれより又遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つが好い」こう云って出て行った。(「山椒大夫」)

 

 原作の〈文体〉は、淡々とした、無駄のない、的確なリアリズムの目線によって紡ぎ出されており、人が、〈日常〉のささやかな慰藉(いしゃ)の物語によって不条理をくぐり抜けてゆく時の、自然な身構えというものを、ごく簡潔に、象徴的に描き上げてみせている。

『山椒大夫』は鷗外の晩年期の作で、そのさりげない、渋い抑制された文体は、さすがに、日本近代文学確立の一翼を担った作家だけのことはあると感心させられるけれども、残念ながら、アニメの『安寿と厨子王丸』の脚本と演出には、原作のような生活思想的な奥ゆきは感じられない。

 鷗外の原作でも、アニメでも、安寿と厨子王が、邪悪な山椒大夫の息子(原作では三男の「三郎」、アニメでは長男の「次郎」)によって、逃亡を企てた罰に額(ひたい)に「烙印(やきいん)」を押されるという〈悪夢〉を「同時に視る」場面があるが、アニメの方では、ふたりが焼きゴテを当てられる寸前にうなされて目覚めるだけであるのに対して、原作では、悲鳴をあげる中、額に焼け火筯(ひばし)を十文字に当てられた姉弟が、激痛に耐えながら小屋に戻ったあと、安寿の守り袋に入れておいた地蔵菩薩像の霊験によって傷が癒されるという、重要なシーンが描かれている。

 

 二人の子供は創(きず)の痛(いたみ)と心の恐(おそれ)とに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家(こや)に帰る。臥所(ふしど)の上に倒れた二人は、暫く死骸(しがい)のように動かずにいたが、忽(たちま)ち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」と叫んだ。安寿はすぐに起き直って、肌の守袋(まもりぶくろ)を取り出した。わななく手に紐(ひも)を解いて、袋から出した仏像を枕元に据えた。二人は右左にぬかずいた。その時歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛が、掻(か)き消すように失せた。掌(てのひら)で額を撫(な)でて見れば、創は痕(あと)もなくなった。はっと思って、二人は目を醒ました。

 二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じ時に見たのである。安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕元に据えた。二人はそれを伏し拝んで、微かな燈火の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。白毫(びゃくごう)の右左に、鏨(たがね)で彫ったような十文字の疵(きず)があざやかに見えた。(「山椒大夫」)

 

 この霊験を境に、安寿は変貌する。

 

 二人の子供が話を三郎に立聞(たちぎき)せられて、その晩恐ろしい夢を見た時から、安寿の様子がひどく変って来た。顔には引き締まったような表情があって、眉(まゆ)の根には皺(しわ)が寄り、目は遥(はるか)に遠い処を見詰めている。そして物を言わない。日の暮に浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんな時にも詞(ことば)少(すくな)にしている。厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」と云うと、「どうもしないの、大丈夫よ」と云って、わざとらしく笑う。

 安寿の前と変ったのは只これだけで、言う事が間違ってもおらず、為(す)る事も平生(へいぜい)の通である。しかし厨子王は互に慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。二人の子供の境界(きょうがい)は、前より一層寂しくなったのである。(「山椒大夫」)

 

 安寿の秘められた心の変化が、表情とふるまい方への簡潔な叙述を通して、的確に描出されている。

 夢とそれに続く霊験を機に、安寿の中では、弟の厨子王を脱出させるという考えが、ただの絵空事ではなく、確固たる決意として根を下ろしてゆく。

 何でも打ち明けていた弟に対しても心を閉ざし、ひそかに〈自決〉の覚悟を定める。

 十五歳になった彼女は、ひとりの孤独な〈大人〉へと脱皮したのである。

 守りの地蔵菩薩像を厨子王に譲り、神仏の導きと加護に弟の未知の運命をゆだね、父母との再会の志を託した安寿は、もはやこの世に一切の未練はなく、厨子王を脱走させた直後に「入水」してしまう。

 そこには、なぜか、陰惨な匂いが無い。

 しかし、アニメの方は全く違う。原作に比べて、はるかに湿っぽく、めそめそした空気感が漂っているのである。

 同じような不条理を扱いながら、どうして、このような差異が生じたのであろうか。

 

     19

 

 もちろん、小説という、言語による表現手段と、映像との違いということもある。

 言葉による表現には、たとえそれがどんなに真に迫った、リアルな描写であろうとも、必ず、大なり小なり硬質な〈抽象性〉というものが備わっている。

 なまなましい、陰惨な写実的描写に溺れる作家はごまんといるが、映像や画像のリアリズムには及ばないのだ。(もっとも、一つひとつの言葉の表現に、そのつど、自分なりのなまなましい具象的なイメージを喚起させられてしまうという「ヴィジュアル派」の人もおり、そういう人にとっては、言葉と映像・画像の間の〈ギャップ〉は少ないのかもしれないのだが。)

『山椒大夫』も、実写映像にしてしまうと、たとえ原作に則していても、全く空気感の違うものになってしまう。溝口健二監督の作品のように。

 もちろん、アニメの『安寿と厨子王丸』の方は、溝口作品のような、泥臭い、酷薄でどぎつい写実主義的演出による映像とは全く違う。

 少年少女向きの作品でもあるから、悪役の表情は陰険でどす黒いが、主人公の姉弟は素朴に可愛らしく描かれている。登場人物のデッサンは、今風の細密なアニメ画像とは違って大らかなものだが、陰翳と奥ゆきのある繊細な風景描写と身体表現の丁寧な演出に包摂されることで、見事にリアルな感覚を誘発することに成功しているのである。(この辺は、宮崎アニメの作りにも似ている。)

 ファンタジックな場面もあるが、全体としては、ひき裂かれた親子・姉弟の哀切な不条理ドラマとしての、手堅いリアリズムの感触を伝えるものとなっており、「映像」表現としての強味はいかんなく発揮されているといっていい。

 一方、「書き言葉」の表現は、刺激の強さという点ではたしかに映像には及ばないけれども、その代わりに、その場その場で読者を立ち止まらせ、時に釘付けにする力をもっている。映像や音楽・歌・会話の場合には、瞬時瞬時に繰り出される新たな刺激の流れの中で、過ぎ去ったシーンや音声は、たちどころに忘れ去られ、あるいは、残像・残響として無意識の内に沈み込んでゆくが、書き言葉の作品では、そうはいかない。

 映像のような「どぎつさ」は免れる代わりに、読者を言葉づかいや描写の前で立ち止まらせ、意識を絡め取ってしまう。絵画や写真のようにである。

 その描写が、陰惨酷薄なものであれば、読み手の柔らかな感性・魂を、とり返しのつかないほどに傷つけてしまうことも起こりうる。

 生老病死の救いようのない地獄を冷徹に描き切ったリアリズム小説やルポルタージュ、私小説の恐ろしさ、害毒というものも、そこにある。

 鷗外は、さすがに、写実的な陰惨さに溺れるような愚は犯していない。

 原作の文体は、幼い姉弟とその母親の不条理な運命を、ひたすら客観的に、能う限り簡潔に、淡々と叙述してゆくだけで、いささかも安っぽい感傷は無く、かといって、乾き切った、潤いの無いものでもない。主人公を中心とする登場人物たちへの、作者の内在的共感の距離感が、ほど良いのである。

 それが、散文的な書き言葉としての硬質な〈抽象度〉の水準と相まって、美事に落着きのある、ほど良い抒情性をかもし出している。

 虚構の時代劇という形式をとることで、現代小説にありがちな、生臭い息苦しさを免れ、私小説的な濁り、思い入れ、偏執といったものも拭い去られている。

〈物語〉を、人生の実相の象徴として、ごく自然に、無意識的に感得させることができているのである。

 無理もないことではあるが、その原作のもつ象徴的な思想性、姉弟の生きざまを通して感受される生活思想的な奥ゆき、生存感覚というものは、アニメの『安寿と厨子王丸』の方には、全く描かれていない。

 不条理をくぐり抜けてゆく時の、生活者としてのくぐもるような目線、苛酷な生の内に立ち顕われる一瞬の癒し、恐怖と安堵、痛覚と手応え、放心と充足、休息と眠り、……といったような、一日一日の〈瞬間〉の繰り返しと点綴(てんてつ)によって織りなされる哀歓の起伏、日常的な〈物語性〉のもつ思想性は、当然のことながら、当時の(黎明期の段階にある)アニメ表現の手に負えるモチーフではない。(ちなみに、この地味で困難なモチーフに対しては、すでに、一九九二年刊行の拙著『日常性のゆくえ』の中で詳細に論じたように、宮崎アニメ『となりのトトロ』が、牧歌的な空間ではあるが、美事に象徴的な取り組み方をしてみせている。)

 アニメ『安寿と厨子王丸』にみられるまなざしは、ただ、不条理を運命として甘受し、耐え忍び、やりすごしてゆくだけの、風になびく葦のような、優しいけれども、あまりにも悲哀感の強い、無常感に彩られたペシミスティックな生存感覚なのである。

 

     20

 

 この和魂(にぎみたま)のみに生きることの意味と根拠を一元的に回収せんとする植物的な生存感覚・世界観が、奇妙なことに、よりにもよって「一九六〇年代前半」という、高度経済成長が加速してゆく日本社会において蔓延していくのである。

 この現象は、(もちろん例外はあるが)当時の小説・演劇・映画・テレビドラマ・少年少女マンガ・歌謡などのさまざまな芸術・エンターテインメントに広くみとめられる傾向といってよいだろう。

 私は、六〇年代前半に小学生時代をすごしたが、当時の少女マンガの主要モチーフが、不条理な運命に翻弄される主人公の哀切極まるメロドラマにあった事を、よく覚えている。大人向けのテレビドラマも、このような感覚が強かったし、演劇でも、例えば、中村嘉葎雄と森光子が主演した、水上勉原作の『越前竹人形』の舞台などは、子供なりにも紅涙を絞らされて、忘れがたい。

 私にとっては沁み入るような、懐かしい作品が、この時代には多いのであるが、このような、和魂に偏した、陰鬱で湿っぽい植物的な生存感覚(もちろん、大衆的には、演歌的な抒情性[例えば、橋幸夫のダークで不条理感の強いヒット曲である「江梨子」のような]にも通じる心性であるといってよいが)は、「一九六四年」頃までは濃厚に息づいており、この年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通を境として、急速に消えてゆくエートスなのである。

 ただし正確に言えば、「一九六七年」までは、この感性は、まだ残影をとどめていたといってよい。

 日本人のエートスが、大衆的な規模で、植物的ないし草食的なものから肉食動物的なものに変容したのは、正確には、「一九六八年」という年である。この年から〈現在〉までは、ある意味で「地続き」なのである。

 しかし、その〈変容〉は、すでに、「六〇年代前半〜半ば」という高度成長の加速化の時期に進行していたのであり、アニメ『西遊記』にみなぎる資本主義根性丸出しの演出姿勢などは、ほんのささやかな一例にすぎないが、その〈予兆〉のシンボルであったといっていい。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第12回) 川喜田晶子

  • 2018.05.28 Monday
  • 21:08

 

隠し持つ欲望

 

 無意識を表現してこその文学。

 俳句や短歌といった定型短詩において、無意識に隠されているものはどれほどの振幅で表現され得るだろうか。

 

致死量の遊びせんとや犬ふぐり  三木冬子

 

肉体やとりとめもなく青葉して  鳴戸奈菜

 

能面のくだけて月の港かな  黒田杏子

 

馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ  塚本邦雄

 

「致死量の遊びせんとや」は、もちろん『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」を踏まえているだろう。

 後白河院が夢中になったという今様を集めた『梁塵秘抄』には、ニヒリズムをバネとして現世を享楽的に肯定せんとする、時代の転換期の過剰な律動を感じるのだが、この句では、「犬ふぐり」の幼児的な愛くるしい小花が無数に咲き乱れる姿と取り合わせられて、「致死量」の過剰さもどこか日常的な視野に刈り込まれている。

 だが、その可憐な姿の「数え切れなさ」という非日常性への渇望は、他界へのなだらかな跳躍をイメージさせ、このままその渇望が増殖するなら「致死量」を超えるのではないかという不安・誘惑を喚起しているのだ。そこに『梁塵秘抄』のニヒリズムが適確に招き寄せられている。

 

 鳴戸奈菜の句における感動の中心は「肉体」。

「青葉する」のが樹木でもあり自身の肉体でもあるように感じた時間の、突出した手触りをそのまま読み手に差し出している。

「とりとめもない」のは、肉体の主の意図など蹴散らして青葉しているからであり、青葉することでいったい何をしようとしているのかも定かではないからだ。その、因果律とも目的性とも無縁の、無邪気なエロスを撒き散らす森林のような肉体を、己れが隠し持っていたことに感動しているのだ。その感動の青々とした肉感性に、読み手もまた、とりとめもなく感覚がざわめき始める。

 

「能面」が砕ければ、演者の素顔が顕われる。

 フォルムの固定された〈面〉であるがゆえに、多彩な情念を抽象度の高い形でシンボリックに表現し得るが、演者の固有性を隠匿する〈面〉でもある。

「月の港」と取り合わせられることで、砕け散った能面はきらめくさざ波と化して、情念の舞台としての「港」に浮かぶような映像を喚起する。

 砕けてこそ、女。

 破砕されたペルソナ。

 寄せては返す固有の情念のさざ波。

 大海の無辺に連続する「港」という舞台の、不安的な濃密さと底なしの受容力。

 

 塚本邦雄は周知のように、寺山修司・岡井隆らと並んで前衛短歌の旗手として名を馳せた歌人である。絢爛たる芸術至上主義的作風において散文的・地上的日常を拒み続けた塚本の代表歌。

 三木冬子の句が、ニヒリズムを柔和な日常的視野に刈り込んだのとは対照的に、日常の営みに潜む非日常性への渇望が、当然のように過激な境地へと一線を踏み越えてゆく姿を描き、戦後的な〈現実〉の枠組みを異化しようとした。

 下の句に露呈する単純な芸術至上主義的倒錯性の背骨を、厳しく鍛え上げているかのような上の句には、酸鼻で散文的な〈現実〉の裏返しとしての〈幻想〉、といった枠組みを、内側から突き詰めることで超えようとするかのような、塚本の不敵な気概が滲む。

 その馬に騎乗し、人が己れの命を預けるのであれば、馬を洗うという営みは、その魂が冱(さ)えわたるまで為されなければ意味がない。半端な洗い方では、人と馬の一体感は生まれない。人と馬が一体となってもう一つの存在としての魂を獲得することで、馬の疾駆には〈現実〉を超える澄み切った聖性が伴う。その聖性を引き出すように「洗う」という営みは為されねばならないはずだ。それが為されない洗い方では、人は騎乗によって命を落としかねない。

 では、そのような馬の洗い方に匹敵するように人を恋うならば。

 己れと相手が一体と化して、もう一つの新たな存在として生きられるように「恋う」という覚悟、それは、我執によって相手を殺してしまうといったみすぼらしい現代人の病理などではなく、互いをこの〈現実〉から解き放つ行為であり、〈現実〉を殺し、別の次元を獲得する覚悟であるかもしれない。殺めるのは、三次元的現実に拘束された相手の魂を、である。そのように恋うのでなければ、この〈現実〉のみすぼらしいが酷薄な強制力によって、二人とも魂を圧殺されてしまうだろう。

〈現実〉を認めない、筋金入りのニヒリズムに支えられてこその芸術至上主義であり、矮小だが強固な〈現実〉を不断に殺して、己れを別の次元で生かさんがための、危うい命がけの綱渡りを、塚本は作歌によって繰り広げていたのだとも考えられる。

 人は誰でも己れを無化して誰かと一体化してしまいたいという願望を隠し持っている、という倒錯的命題を無責任に垂れ流すことと、〈現実〉を殺さなければ己れの生きる場所が無いという〈生き難さ〉によって命がけで〈表現〉することとの間には、大きな隔たりがある。

 命がけの〈表現〉は、「この場所を超えてみろ」と体を張って訴えかけてくるのだ。少なくともこの一首には、塚本の並々ならぬその覚悟が端麗に吐露されている。(この稿続く)

 

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