書評:スピノザ『エチカ』(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2017.01.29 Sunday
  • 12:39

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第7回)

 

     13

 

 私は、これまでの前半生の中で、四人の偉大な思想者・芸術家と運命的な出逢いを果たしている。

 始めに出逢ったのは、ドストエフスキーで、十四歳の時であった。

 ドストエフスキーは、〈地〉の芸術家である。

 ロシアの大地に跪(ひざまず)き、母なる大地に宿りたる神の懐(ふところ)に抱かれんとした人である。そのことで、〈生活〉という大地を見失い、観念的な根無し草と化した近代人の〈虚無〉を超えんとした。

 次に私がめぐり逢ったのは、中国古代・戦国乱世を孤高の哲人として生き抜いた、〈非知〉の人・荘子(そうじ)である。二十二歳の時であった。

 荘子は〈水〉の人である。

 彼は、紀元前四世紀の戦国乱世という、分立する大国間の抗争の時代、殺戮と不条理に覆われた絶望的な暗黒の時代を、一切の人間的・知的な〈作為〉を捨てて、あるがままの〈自然〉に身をゆだねることで超越せんとした。

 物事への大小・美醜・善悪などの人間的な価値差別を相対化し、解体・一掃せんとした。

 ただひたすらに、生命と虚無の両義性を備えて渦巻く、無限なる闇の渾沌(カオス)=〈水〉の世界(コスモス)との一体化を図ることで、現世の不条理を超越し、解脱せんとしたのである。

 実は、私は、この荘子という思想家に二度、出逢っている。

 初めてその著作に触れたのは、満二十二歳となった一九七四年の秋であった。

 理論物理学者・湯川秀樹のエッセイを通して知り、『荘子』の原典を読みふけった。

 当時の私にとって、荘子は、老子と同様の、「無為自然」を説く、厭世的なアジア的ニヒリストとしてしか映らなかった。しかし荘子は、実は、『老子』にみられるような、没主体的で反生命的な、徹底した脱現世主義=絶望の哲学とは、明確に一線を画する思想の持主であった。

 荘子の主体的な生命思想の真の深み、人性と人間界・宇宙(コスモス)への透徹した畏るべきまなざし、その凄さに真に気づかされるには、自分の二十代後半の実存的な危機の時代、魂の地獄の試練をくぐり抜けた後の、一九八二年の春、二十九歳の時まで待たねばならなかった。その思想的覚惺は、福永光司氏の畢生(ひっせい)の名著『荘子』(中公新書)との出逢いによってもたらされた。福永氏の訳による『荘子・内篇』(中国古典選・朝日新聞社)を、当時私は、繰り返し熟読した。

 三番目に私が運命的な出逢いを果たしたのは、三十代の後半で、D・H・ロレンスであった。ロレンスは、〈火〉の芸術家である。

 彼もまた、ドストエフスキーや荘子と同様、孤高の思想者・表現者であった。

 己れの〈身体〉という窓口を通して、森羅万象のコスモスと共に生き、深々とした水性の〈闇〉の深奥から、情熱的で官能的な〈火〉を紡ぎ出した人物だった。

 そして、最後に、私が運命的にめぐり逢ったのが、〈風〉の人スピノザであった。

 このように振り返ってみると、私は、これまでの前半生の生涯の中で、〈地〉・〈水〉・〈火〉・〈風〉を象徴的に体現する四人の人物と、運命的にめぐり逢ったことになる。(もっとも、ドストエフスキー思想の真髄を「再発見」するには、「四十代初め」まで待たねばならなかったが。)

 それらの出逢いは、いずれも、人生の危機的な節目節目に訪れており、私を支え、ぎりぎりの懸崖から、私を救い出してくれたのである。

 それは、私自身にとっては、まことに霊妙不可思議な縁(えにし)というほかはない。

 というのは、これら四人とのめぐり逢いは、「ソクラテス以前」の古代ギリシア「イオニア派」の自然哲学者エンペドクレスの地・水・火・気の四元素説を想起させるからである。

 地・水・火・気(風)の四元素は、私たちの〈生身〉の具象世界を司(つかさど)る根元的な存在形態であると同時に、空間的・三次元的な、形而下の物質世界に宿りながら、それを包摂し、超越的に司る不可視の四次元的な形而上的実在を象徴するものである。

 それは、太古以来の人類の神話的な想像力の源泉であり、コスモスとの主・客融合的な一体化と交流の感覚によって支えられ、その中から紡ぎ出された表象である。

 万物の根元をメタフィジカルな〈水〉に視たターレスも、森羅万象を活かしめる生命の根元に〈火〉を求めた、誇り高い情熱の哲人ヘラクレイトスも、宇宙を司る「炎の輪」を想い描いたアナクシマンドロスも、皆、主知主義的な懐疑の哲人ソクラテスの登場以前に活躍した、イオニア派のコスミックで生命的な自然哲学者たちであった。

 わが国でも、十九世紀の前半に活躍した平田篤胤のように、古代の神話宇宙に、イザナギ・イザナミによって産み出された火・風・水・土の四神の働きを幻視した思想家もいる。

 もっとも、篤胤は、「実(げ)に、火ばかり奇霊(くしび)なる物は有(あ)らじ」(『古史伝』)という言葉にもあるように、ヘラクレイトスやニーチェ、ロレンスと同様、あくまでも〈火〉を価値的に優位に据えんとした。

 だが、私の考えでは、地・水・火・風の四つの次元は、いずれかを価値的に優先すべきものではない。

 その全てを等価に扱うことこそが肝心なのであり、この四つの次元が、私たちの魂を支えるまなざし、存在のメタフィジカルな根元として、価値的な〈均衡〉を保ちながら〈円環〉を成すことが必要なのである。

 

     14

 

 もっとも、中心をなすのは、あくまでも〈水〉と〈火〉のイメージである。

〈水〉は、宗教学者のミルチャ・エリアーデも言うごとく、森羅万象を司るメタフィジカルな渾沌(カオス)の次元を象徴するものであり、「生きる」という営みは、生命と虚無の両義性を備えて渦巻く、この〈水〉=〈闇〉の深奥から、〈火〉=〈光〉を紡ぎ出すことだからだ。

 人類にとって、いのちの〈火〉を紡ぎ出し、燃え上がらせることは、大地の〈重力〉に拮抗し、日輪の輝きに呼応することである。それが、「直立二足歩行」するようになった「異形(いぎょう)の猿」である人類の偉大な進化史の〈奇跡〉なのであり、それはそのまま、主・客を分離することによって、自然を対象化し、〈制作〉という行為を通して自然を改造することで、大脳の働きを促し、ひいては、〈文明〉という反自然的な構築物を産み出してゆくプロセスでもあった。

 しかし、その進化史の軌跡は、同時に、人類に、大脳新皮質的な〈知〉の尊大さをもたらし、人類を、自然から切り離された「観念的存在」たらしめるという危うさに導くものでもあった。

 人が「生きる」という営みのエネルギーの源泉は、実は、大脳に在るのではない。

 内臓の働きと血液の流れを支える「自立神経叢」、すなわち、D・H・ロレンスの言う「太陽叢」、近年ヨガや東洋医学で言われるところの「太陽神経叢」の働きにあるのだ。

 脳の視床下部ともつながる、この自立神経叢の働きがあってこそ、内臓はすこやかに機能し、血液が滞りなく全身を循環し、毒素を体外に排出し、栄養が細胞にゆき渡るのである。

 われわれの生きる風景が、五感を通してみずみずしい表情を帯び、生気ある充溢感をもたらしてくれるのは、この太陽神経叢によって司られた内臓や血液の無意識的な働きのおかげなのである。

 この意味で、内臓の働きと血液の流れを支える〈無意識〉の領域は、実は、〈個〉の輪郭を超えた、主・客の融合とダイナミックな交流の感覚の織りなす〈生身〉の生の風景=コスモスを司る、より巨きな、「類的」な〈無意識〉とつながっていることになる。

 神話的・形而上的表象を通して言い換えるなら、われわれの〈無意識〉の世界は、森羅万象に宿り、それを司る、大いなる〈水〉のコスモスに連動し、拡がっているのだということになる。

 人間にとって「生きる」という営みは、この〈水〉の中から〈火〉を紡ぎ出さんとすることであり、それはそのまま、大脳新皮質的な理知=意識によってではなく、〈無意識〉の担い手たる自立神経叢に支えられた内臓の働きと血液の流れによって生きること、すなわち、みずみずしい官能的で生命的な身体感覚によって生きることにほかならない。

 スピノザの思想が示すように、理性・知性というものは、その生気ある無意識的な身体性の逆説的な〈解放〉のためにこそ、行使されなければならないのだ。透徹した、澄み切った叡智・聡明さという〈風〉が、それを可能ならしめるのである。

 創造行為における芸術的な直観や手仕事における職人的な技も、本当は、この生気ある身体性に支えられてこそ可能となる。

 だが、人のいのちの〈火〉は、〈生活〉という「大地」に包まれてこそ、すこやかで幸せなものたりうる。そして大地とは、固有の〈風土〉に包まれた存在である。

 風土とは、その土地に固有の風景であり、動植物・自然であり、建造物であり、人々の無数の記憶・想いが沁み込んだ歴史的な場である。

 そしてまた風景とは、そこに縁(えにし)をもった一人ひとりの人間と対象との間に生ずる主・客融合的な固有の〈意味づけ〉によって、日々形作られる固有の感覚にほかならず、人々のその感覚の総体こそが、〈風土〉という生命的な場を紡ぎ出し、織り上げるのである。

 個々の人間の生きる風景が風土をつくり出し、逆に、風土は個々の人間を包摂し、そのいのちを賦活(ふかつ)すると共に、良きにつれ悪しきにつれ、その生を規定するのである。

 風土に根ざした人と人、人と風景のつながりに支えられてこそ、〈生活〉もまた、個々人に固有の輪郭を与え、他者には伝え難い、無量の哀歓の歴史を通して、個々人の身体に生の年輪=厚みを刻みつけ、「生き抜いてきた」ことのたしかな証し、生涯の物語性というものを可能ならしめるのである。

 〈個〉としての真の〈主体性〉というものも、その風土、〈生活〉という大地に支えられてこそ、初めて、人に生の充実をもたらしてくれるものとなりうる。

 だから、大地とは、人間にとって、一方的に征服すべき対象ではないし、また、たまたま「仮りずまい」を強いられて「点在」しているだけの、無機的な生活空間でもない。

「生かされながら共に生きる」という、〈共生〉の場としての風土でなければならないのだ。

 しかし、〈地〉とは、〈水〉の位相のひとつである。

 〈水〉が、海・月・闇と連なる、生命と虚無の両義性を備えた渾沌(カオス)の象徴であり、森羅万象を四次元的に包摂し、司るメタフィジカルな実体である以上、大地もまた、〈水〉によって司られている。

 実際、三次元的な存在としても、大地は〈水〉の一種なのである。

 地球物理学の「大陸移動説」に言うごとく、地球上の大陸や島々もまた、海と同様に、常に地殻と共に移動している流体=〈水〉なのであり、その「マントル対流」の中で、地震やマグマの活動による火山の噴火などの非日常的で不連続的な暴発も発生したりするわけである。人の〈生活〉を成り立たしめ、恵みをもたらしてくれる大地とて、渾沌(カオス)としての〈水〉によって司られている以上、人間を不条理に陥れる危険を併せもった両義的存在であることを忘れてはならない。

 だからこそ、人は、「祈る」という心、祈りつつ身を「ゆだねる」という、大いなる存在への〈畏怖〉の心を大切にしなければならぬのである。

 人もまた、大地・風土と共に、動植物と共に、不可視の〈水〉によって活かされ、〈水〉によって司られている両義的存在にほかならない。

 ドストエフスキーの言うように、人が「大地に跪(ひざまず)く」という行為は、たしかに、大いなる存在=神への〈畏怖〉の心を表わすものではあるが、同時に、己れを超えた自然、運命のはからいによって不条理の淵に叩き落とされ、翻弄されるという不幸に対する、圧倒的な無力感を象徴するものでもある。無常感に蝕まれ、虚無の淵に呑み込まれることを甘受するという、アジア的な諦観=ニヒリズムに通底するものである。

 それはまた、大地によって象徴される〈闇〉のカオスの中から紡ぎ出され、大地に育まれ、包摂されながらも、母胎たる大地との闘争によって自らの世界を開示せんとする、存在の生成史のドラマを、酒神の戯れのごときものとみなし、その興亡の物語を通して、逆説的に、存在を回収する根源としての大地=〈闇〉の圧倒的な巨大さを浮上させるという、ハイデガーのドイツ・ロマン主義風の陰鬱な〈無〉の思想にも通じている。

 大地の〈重力〉に屈服し、全身をまるごと〈闇〉に包み込まれる事を運命として甘受し、それをもって、存在の母胎たる大いなる原初の〈自然〉(ピュシス)への回帰とみなす、歪んだ「地母神」信仰の姿だ。

 同じく、ディオニュソス的な生の陶酔をうたいながら、闇の深奥から炎を紡ぎ出し、日輪に向かって屹立(きつりつ)し、生命的に飛翔せんとしたニーチェの思想との、紙一重の、しかし決定的な、倫理の身構えの差異でもある。

 世界を盲目的な〈意志〉の戯れによって司られた不条理な幻影(マーヤ)とみなすショーペンハウアーの被虐的なペシミズムも、もちろん、ハイデガーの陰鬱な地母神崇拝と同じ穴のムジナであるといっていい。

 ハイデガーもショーペンハウアーも、重々しい深刻ぶった哲学者づらをしながら、陰鬱な諦観を披瀝したり、ロマン主義的な挽歌をうたい上げたりしてみせるが、その背後には、死と不条理の想念を弄び、絶えざる痙攣的な刺激の中で感覚をマヒさせ、苦痛の中に快楽の昂進を求めて止まない、倒錯的な美学のカラクリという奴が透かし視える。

 人間のサド・マゾ的病理の底知れぬ闇という奴が。

 人類が、〈文明〉と呼ばれる巨大システムを生み落としてからこのかた、何千年も昔から、性懲りもなく繰り返してきた、陳腐極まりないニヒリズムの系譜だ。

 それこそ、まさに、スピノザが凝視してみせた「悲しみの受動的感情」の一種にほかならない。

 それは、己れの本性に根ざした、純粋で内発的な欲望を解き放ち、開花させ、生気溢れる喜びに満ちた感情の内に生きんとする姿勢とは対極にあるものであり、〈生活〉を肯定し、幸せになりたいと希う者にとっては、明瞭に悪なのである。

 人類が大地の〈重力〉に拮抗して直立二足歩行し、太陽に向かって屹立することが、人類にのみ許された、偉大な進化史の第一歩であり、日輪と呼応する、いのちの〈炎〉を赤々と燃え上がらせる営みであった事、〈水〉の深奥から〈火〉を紡ぎ出さんとする官能的で生命的な力わざであった事を忘れてはならないのだ。

 だから、私たちには、二つの次元へのまなざしの〈均衡〉が必要なのである。

 大いなる〈水〉への畏怖の心と、〈水〉に拮抗し、いのちの〈火〉を立ち上がらせんとする雄々しき魂の二つが必要なのだ。

 そして、この二元的均衡を支えるものこそ、透徹した理性・知性の導きによるスピノザ的な〈風〉であり、また、〈火〉を生活の内に根づかせる、風土=〈地〉への共生と畏怖の両義的なまなざしなのである。

 このように、人が幸せに生きんとする上で、地・水・火・風の四つの次元へのまなざしは、相補いつつ均衡を保ちながら、円環を成すべきなのである。

 私がこれまでの己れの恥多き、試行錯誤の繰り返しであった悪業深い前半生を、とにもかくにも生き抜いてこられたのは、もちろん己れの力を超えた摩訶不思議な加護と導きがあったればこそであったが、それと同時に、その過程で、四人の思想家・芸術家たちに象徴される四つの次元によって、からくも、奇跡的に支えられてきたからであった。この四大次元の円環的均衡を握りしめて離さぬこと、内省的な導きの糸とすること。それが、これからの、六十代以後の自分の後半生を支えてくれるまなざし、生の心棒であると、私は確信している。

 スピノザとの運命的な出逢いは、私にとって、その円環の最終局面、すなわち完成の局面を準備してくれるものとなった。

 この私のささやかな主観的感慨・思想が、私以外の縁(えにし)ある読者にとっても、どうか、普遍的な意義をもつものとなりますように。(了)
 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2016.12.21 Wednesday
  • 12:08

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第6回)

 

     11

 

 スピノザは、己れ自身も含めて、人間が自らの「本性」に目覚め、その本性にもとづいて内発的な欲望を解き放ち、活動能力を高めることで、みずみずしい生の歓喜・充溢を味わう姿を視るたびに、そこに、人間をそのように生かしめてくれる「神」の霊妙なる働きを感じないわけにはいかなかった。

 個の内に宿りながら個を超えて森羅万象の無限に拡がり、息づいている、永遠なる実体としての「汎神論」的な神の働きを認めないわけにはいかなかった。

 知性を研ぎ澄ますことで、己れの固有の人生において遭遇する、人も含むさまざまな存在との情動的な〈関係性〉を、ありのままに凝視し、そこに立ち顕われる自他の形相的本質を「明瞭判然」と認識すること。

 その意識的・理知的な鍛練、内省力の行使が、逆説的に、潜在する、自身に固有の身体的・無意識的な欲望を目覚めさせ、生への情熱を正しく解き放ち、「感情」への「隷属」を超え、感情を適切に「制御」することを可能にし、ひいては人を幸福ならしめる力となること。

 スピノザは、そこに、神の働きの霊妙さ・不思議さを想わないではいられなかった。

 スピノザの「神」は、たしかに、人間に憐みや恩恵を垂れる神ではなく、人間的な愛憎とも、人間的な生の意味や価値とも無関係な唯物論的実体なのかもしれぬが、透徹した「認識」の力を通して、存在の「本性」を覚知させてくれることで、逆説的に、人間に生の充溢をもたらしてくれる究極的存在でもあるという、霊妙不可思議な神なのである。

 スピノザは、人をはじめ、さまざまな存在の間に形成される普遍的な形相的特質への認知、すなわち存在の特質についての「共通概念」の形成を、「第二種」の認識と呼び、その第二種の認識がそのまま、無数の存在間の〈関係〉を決定し、存在を存在たらしめている究極の根拠としての「神」の観念につながると考えた。

 その「神」への直感的覚知を、彼は、「第三種」の認識と呼んでいる。

 スピノザは、「第二種」の、存在間に成立する普遍的・形相的特質への認識を、万有に内在する無限なる唯一の実体である「神」の概念と結びつけることで、「第三種」の認識という、存在の究極の〈本質〉(本性)を開示する概念へとリンクさせてみせる。

 そのことで、個々の存在の間に生ずる「反発」と「牽引(けんいん)」のダイナミズムの様相は、単に、個々の存在の〈本質〉(本性)に起因する〈形相〉の表われに還元されるのではなく、存在に内在しながらそれを包摂する、より大きな実体である「神」の本性の〈必然性〉として理解されることになる。

 すなわち、個々の存在の「本質」(本性)という概念は、「神の本性」の分有、「神の属性」の顕われとして、三次元の個物を超える、メタフィジカルな(四次元的な)実在概念の内に包摂される。

 スピノザは、「第三種」の認識という立ち位置をとることによって、本質と形相の分裂を統合し、個と類の矛盾を止揚することで、不条理性を超える、〈永遠性〉の場所へと突き抜けてみせたのである。

 『エチカ』「第五部」は、その「認識」の力によってもたらされた汎神論的な「神」との一体化の境地を語ったもので、深々とした透明感に包まれている。

 まさに、「第四部」で凝視された人間性の地獄を突き抜けた所に初めて生まれ得た〈解脱〉の境地、情動的な〈関係性〉への透徹した認識を通して「感情への隷属」から解き放たれた〈風〉の境地だといってよい。

 人間という「度し難い種族」へのこだわりは、スピノザにとって、常に不条理感の中心に位置するものであった。

 「感情」の力の本質を冷徹に「見切る」ことによって、人間的な愛憎や執着のとらわれを脱し、身軽となり得た精神は、「認識」の喜びの内に「神の属性」を看取することができる。すなわち、存在を存在たらしめている、存在の究極の〈本質〉というものは、万有に内在する「神」の本性の〈必然性〉の顕われにほかならないと「直観」しうる能力が、人間には備わっているのだと、スピノザはみる。

 そのことで、孤立した個的な存在である人間は、汎神論的な「神」という、類的な宇宙的生命の次元に包摂される。

 同様に、無限なる〈差異性〉を示して立ち顕われる、ありとあらゆる存在もまた、個々の差異性を温存しながら、同時に、宇宙生命の純一で透明な抽象性の内に、いわば「絶対矛盾的自己同一性」という形をとって止揚されることになる。

 もちろん、存在の時間的な〈有限性〉もまた、時を超越した神の連続性(自己同一性)=〈永遠性〉の内に、止揚的に回収されている。

 スピノザの独特の解脱(超越)への道が、ここに開示される。

 

(「第四部」付録「第四項」より)

「……人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成させることであり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存する。なぜなら、至福とは神の直観的認識から生ずる精神の満足そのものにほかならないのであり、他方、知性を完成するとはこれまた神、神の諸属性、および神の本性の必然性から生ずる諸活動を認識することにほかならないからである。ゆえに理性に導かれる人間の究極目的、言いかえれば、彼が他のすべての欲望を統御するにあたって規準となる最高欲望は、彼自身ならびに彼の認識の対象となりうる一切の物を妥当に理解するように彼を駆る欲望である。

「(「第五部」定理四二)至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。」

 

 スピノザは、己れの認識する喜びの内に、神との一体化による至福の境地を味わった。存在の「本性」への覚知を増すごとに、彼は、より深く、己が内に神の働きを感じた。

 それは、彼の内なる死の恐怖を緩和させ、超えてゆく営みでもあった。

 それゆえに、彼は、死後の霊魂の存在を必要とはしなかった。

 

「(「第五部」定理三八)精神はより多くの物を第二種及び第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。

(定理三八の「備考」より)

「……精神のもつ明瞭判然たる認識が大になればなるほど、したがってまた精神が神を愛することの多ければ多いほど、それだけ死が有害でなくなるということである。さらに、第三種の認識からおよそ存在しうる最高の満足が生ずるのだから(……)、この帰結として――――人間精神は、その中で身体とともに滅びることを我々が示した部分が(……)その残存する部分と比べてまるで取るに足りぬといったような本性を有しうるものである――――ということになる。」

 

     12

 

 私自身は、スピノザとは違い、霊魂の存在を信じている。

 このちっぽけな私自身を守り、生かし、導いてくれている、縁(えにし)ある「守護霊」の存在を信じている。己れが、己れを超えた存在によって「生かされている」ことの霊妙さを常に想い、地獄をくぐり抜けて、奇跡のように甦って、今生きていることの不思議さに涙する。

 日々の風景に立ち顕われる繊細ないのちの営みや気配の移ろいに絶えず新鮮な感銘を覚え、苦難を共に乗り越え、自分を支えてくれている、かけがえのない大切な人に心からの感謝と畏怖のおもいを抱き、また、多くの親切な人たちに助けられながら精一杯生きていることを痛感している。人の優しさが身に沁みる。

 私の〈身体〉に宿りながら、私を超えて森羅万象に拡がっている〈龍〉のいのちのうねりを、私は信じている。私の身体は、私自身の〈個〉としての輪郭を超えて拡がる、広大な〈無意識〉とつながり、また、そのささやかな「窓口」なのである。〈龍〉は、その無意識をつかさどっている。不可知でコスミックな陰陽の〈気〉のうねりこそが、〈龍〉なのだ。

 そして、わが〈龍〉は、同様に他者や存在に宿るさまざまな〈龍〉たちと、交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発しながら、霊妙な縁(えにし)によって結ばれている。

 摩訶不思議なる〈出逢い〉と〈絆〉がそこに生まれる。

 私とえにしをとり結んでいるさまざまな「守護霊」もまた、わが〈龍〉と共にあり、わが〈龍〉と共に、このささやかな、愚かな私を、日々奇跡のように生かしめ、導いてくれているのだ。それが、私の信仰であり、祈りなのである。

 だから、私自身は、スピノジストではない。

 でも、私はスピノザが好きだ。彼の澄み切った知性、ニーチェ風に言えば、ディオニュソス的情念のカオスをひるまずに凝視し、突き抜けてみせたアポロン的知性の透明感、その光のみずみずしさにうたれる。

 誰のものでもない、己れ自身の信ずる道をひたすら忍耐づよく歩み抜き、認識の透徹した力の内に、生気ある情動を解き放ってみせた、孤独な思想者としての芯の強さを、私は愛する。

 私は、齢(よわい)六十を過ぎてから初めて、本当の意味でこの哲学者と出逢った。

 二十代の頃から、スピノザの文章には、なぜか不思議と心ひかれるものがあったが、この人物と本当に出逢うという契機は訪れなかったのだ。

 それが、六十二の歳になってから、初めて出逢ったのである。

 生死のギリギリの境をさまよった地獄の体験が、その出逢いの〈契機〉をもたらしてくれた。

 これは、私にとって、運命的なめぐり逢いであった。(この稿続く)

 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2016.11.20 Sunday
  • 18:14

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第5回)

 

     8

 

 スピノザは、主著『エチカ』の執筆を一時中断してまで、『神学・政治論』の執筆に心血を注いだ。ドゥルーズは、この書について、次のように述べている。

 

「『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう。なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう。なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう―――ということだった。」(『スピノザ』第一章・鈴木雅大訳)

 

 スピノザは、〈制度〉の担い手としての国家を〈必要悪〉として認めながらも、それが人々の魂を圧殺する装置とならぬために、何が必要かを考え続けた。

 そのために、彼は、自ら「隷属」を求めて「圧制者」を必要とする、大衆の心の暗部=病理にメスを入れたのだった。

 ドゥルーズが的確に指摘している通り、スピノザは、その病理の根源に、「悲しみの受動的感情」と「生に対する怨恨の念(ルサンチマン)」を透視していた。

 生に翻弄されているという無力感・不条理感の累積こそが、ルサンチマンの温床となるのだ。

 そしてまた、人々に愛の教義を説きながら、悲しみ・後悔・憎悪・非寛容を煽り立てている宗教の現状を見据えていた。

 愛することができないものを無理に愛せと強要されることは、憎しみしか生まない。

 悲しみ・後悔そして愛を装った憎悪に染め上げられることで、人は生気を奪われ、観念的な道徳を強要される。

 いきおい、累積した憎しみは、はけ口として攻撃の対象を求める。同胞の内に、あるいは他国人や他民族の内に。

 『神学・政治論』は、神への冒瀆(ぼうとく)の書として、プロテスタント・カトリック・ユダヤ教徒のみならず、デカルト主義者からも、激しい呪詛・攻撃の対象とされ、発禁の憂き目に遭った。

 そして晩年のスピノザは、自由主義・共和性・民主制の敗北の渦中にある祖国オランダに身を置きながら、『エチカ』の刊行すらままならない誹謗・中傷による抑圧の中で、『国家論』を書き進め、未完のまま、病に倒れたのである。

 国家・制度・統治のあり方への痛切な関心は、人性の険しさ・暗部に対する凝視と不可分の形で、スピノザを終生、とらえて離さなかった。

 しかしだからといって、国家論というテーマが、彼にとって第一義的な重要性をもつものであったというわけでは、決してない。為政者の立場に自らを擬して、「天下国家に物申す」といったような思想的立ち位置を、この孤独な哲人は、決してとっていない。

 スピノザにとって〈国家〉とは、彼の追求する価値・理想の観点から視る時、あくまでも第二義的な意味しか持ってはいないのだ。

 すでに『スピノザ』の書評の中でも引用したが、ドゥルーズは、こう言っている。

 

「この哲学者が、民主主義の国家や自由主義的な環境のうちに最も好ましい生存条件を見いだしていたことはまちがいない。だがどんな場合にも、彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。彼は思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。」(『スピノザ』第一章)

 

 スピノザの次の言葉は、この純潔な孤高の哲人にとって、国家などという存在が、己れの生の価値にとって、いかに第二義的なものにすぎなかったか、を示して余りあるといっていい。

 

「(「第四部」定理七三)理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。

 証明 理性に導かれる人間は恐怖によって服従に導かれることがない(……)。むしろ彼は、理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて、言いかえれば(……)自由に生活しようと努める限りにおいて、共同の生活および共同の利益を考慮し(……)、したがってまた(……)国家の共同の決定に従って生活することを欲するのである。ゆえに理性に導かれる人間は、より自由に生活するために、国家の共通の法律を守ることを欲する。Q・E・D・」

(定理七三の「備考」より)

このことおよび我々が人間の真の自由について示したこれと類似のことどもは精神の強さに、言いかえれば(……)勇気寛仁とに帰せられる。しかし私は精神の強さのすべての特質をここで一々証明することを必要とは思わない。ましてや毅然(きぜん)とした精神の人間が何びとをも憎まず、何びとをも怒らず、ねたまず、憤慨せず、何びとをも軽蔑せずまた決して高慢でないことを証明するのはなおさら必要であるまい。

「……毅然とした精神の人間は、一切が神の本性の必然性から生ずることを特に念頭に置き、したがってすべて不快に、邪悪に思われるもの、さらにすべて不敬に、嫌悪的に、不正に、非礼に見えるものは、事物をまったく顚倒(てんとう)し、毀損(きそん)し、混乱して考えることから起こることを知っている。そこで彼は事物をそのあるがままに把握しようとし、また真の認識の障害になるもの―――例えば憎しみ、怒り、ねたみ、嘲笑、高慢その他我々が前に注意したこの種のことども―――を除去することに最も努める。それゆえまた彼は、すでに述べたように、できるだけ、「正しく行ないて自ら楽しむ」ことに努めるのである。」

 

 スピノザが理想とする「理性に導かれる人間」「毅然とした精神の人間」が、〈政治〉や〈国家〉といった制度的な次元をはるかに超越した魂の持ち主として想い描かれていることがわかるであろう。

 

     9

 

 しかし、人は思うかもしれない。スピノザの言う「毅然とした精神の人間」など、この世にどれほどいるであろうか?と。何びとをも「憎まず」、「ねたまず」、「軽蔑せず」、「高慢でない」人間など、本当にこの世にいるであろうか?

 もちろん、「毅然とした精神の人間」といえども、常時そのことを実現できているとはスピノザも考えていない。ただそのような人間は、事物を「あるがままに」把握せんとし、また「真の認識」にとって「障害」となる、「憎しみ」「怒り」「ねたみ」「嘲笑」「高慢」その他の負の感情を「除去」することに「最も努める」のだ、というのである。

 なぜなら、「真の認識」の力のみが、〈身体〉を無意識裡に呪縛・拘束している種々の既成観念の正体をあばき出し、そのとらわれを脱した〈未知〉の身体性の領域に向けて、己れ自身を賭け、開いてゆくことを可能ならしめるからである。スピノザは、デカルトのように、理知の力によって、強引に感情を抑えつけようとしたのではなく、透徹した認識の力によって、負の感情の恐るべき力の本質を洞察することで、最もナチュラルな形でそのとらわれを脱し、身体感覚を、己れの「本性」に根ざした欲望に則して、適切に制御し、整えようとしたのである。裏を返せば、彼は、それら負の感情に人一倍苦しめられ、その力に翻弄されることの苦々しさ、痛み、悲しみをしたたかに味わわされた人物だった、ということだ。

 私には、スピノザは、憎悪や怒りや悲しみの呪縛を、易々と断ち切り、超克できるような、「寛仁大度」の人だったとは、どうしても思えない。

 スピノザは、天性の「スピノジスト」であったわけではない。

 生活と認識の両面にわたる、長年月の恐るべき「自己鍛練」によって、スピノジストとなったのだ。

『エチカ』第三部及び第四部における、「感情」の本質、その及ぼす力への執拗なまでの考察の徹底ぶり、繰り返しが、その苦闘の跡を物語っている。

 その自己鍛練を通して、彼は、諸々の負の感情の呪縛、愛憎の執着から解き放たれ、いわば「リビドー」を感情の対象から大巾に引き離し、感情をクールな認知の対象へと変貌させることで、理知によって「統御可能」なものとしたのである。

「引き離されたリビドー」は、新たに、己れの「本性」に根ざした「欲望」に基づいて設定された「能動的」な活動目標・課題に向けて充当される。また、「攻撃衝動」その他の負の感情は、演劇・文学作品・音楽・絵画などの種々の芸術やスポーツのような、他人を害することなしに個人がなしうる〈表現〉手段を通して、あるいは、その「鑑賞」を通じて、代償的に「昇華」することが可能である。これも、「リビドー」の重要な転化の手段であり、前にも引用したように、『エチカ』「第四部」定理四五の「備考」において、スピノザは、この種の「代償」行為を、「自らを爽快にし元気づける」日常的な生活行為の一環として組み込み、「賢者にふさわしい」営みであると称揚している。

 しかし、スピノザには、どうしても処理し切れぬ、暗い鬱屈があったのかもしれない。

 クモ同士をたたかわせたり、ハエをつかまえてきてクモの巣に放ち、大喜びでその勝負を眺めたという、伝記作者の伝える有名なエピソードには、この哲人の深奥に秘められていた寂蓼の深さ、本能に支配される生命の盲目的な衝動ともがきの生態への暗い諦念と冷笑の匂いが透かし視えるような気がする。

 庇護者であった共和派のデ・ウィット兄弟の虐殺という衝撃事件に加え、誹謗・中傷の渦と著書の発禁という抑圧の中で、スピノザが抱え込んでいたストレスは、想像に余りある。この醒め切った眼をもつ哲人とて、さすがに、己れのやり場の無い怒り・鬱屈を持て余すこともあったにちがいない。

 クモの挿話には、そういう己れのストレスを、誰に打ち開けることもなく、じっと内にたくわえながら、隠微な手段で寂しく代償していた不幸な姿が垣間見える。(ちなみに、ドゥルーズは、このクモの挿話を、スピノザの世界観の顕われとして解釈してみせている。[『スピノザ』第一章の「原注9」を参照。]すなわち、「死の外在性(偶発事の必然性)」という観点と、本能に則した生命に固有の「環世界」同士の「構成関係」という、「エトロジー(動物行動学)」的なまなざしが表現されていると視るのである。しかし、私は、むしろ、そういった世界観を〈憑き代〉(つきしろ)として正直に吐き出された、スピノザの人間臭い、暗い鬱屈のかたちに心をそそられる。ドゥルーズのように、この挿話を、必ずしも生命の本能的な姿への「肯定的」なまなざしの顕われと視るのではなく、むしろ逆に、本能・感情の圧倒的な力の前に「隷属」し、その力を、生気溢れる「能動的」な欲望と活動能力に向けて、生産的に活かすのではなく、「負の感情」によって歪んだ形で表出し、自他を損ねるほかはない、愚かしい「人間」という種族の盲目的な生態への、スピノザの秘められた〈毒念〉の〈喩〉と解したい。)

 しかし、スピノザは、誹謗・中傷の渦中にあっても、決して挑発に乗ることはなく、負の感情に心をかき乱されることもなく、慎重に身の危険を避けながら、病の悪化に苦しみつつも、黙々と粘りづよく、己れの取り組むべき課題に精神を集中させていった。

 そこには、心気の濁りは無く、不思議な静けさが漂っていた。

 スピノザは、「感情に対する精神の能力」と「精神の自由」について論じた『エチカ』最終部(第五部)の「末尾」に当たる定理四二の「備考」において、「自己・神および物」を「ある永遠の必然性」によって意識することで、死の恐怖を超え、負の感情によってほとんど心を乱されることなく、常に「精神の真の満足」を享有している「賢者」の像について語り、その賢者の境地への道は「峻険」なものではあるが、なお「発見」可能なものであると断っている。

 そして、『エチカ』を、次のような言葉でしめくくっているのである。

 

 「……実際、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら、もし幸福がすぐ手近にあって大した労苦なしに見つかるとしたら、それがほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。/たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。」

 

 理知の力を研ぎ澄まし、精神及び感情の力の本質を明晰に押さえ切ることで、憎しみや怒り、悲しみの受動的感情から自らを解き放ち、精神とそれに対応する身体の可能性の振り幅を拡げるという、スピノザの自己鍛練の道は、たしかに峻厳なものであり、彼の希求する「理性に導かれる人間」「毅然とした精神の人間」というものが、どこまで行っても、「マイナーな存在」でしかないことを、誰よりも彼自身がわきまえていた。

 しかし、彼のいう「賢者」への道は、たとえどれほどマイナーなものであろうと、しかるべき〈修練〉の契機に恵まれるなら、誰にでも、澄み切った〈認識〉のステップを忍耐づよく積み重ねてゆくことで、「近づいてゆく」ことのできる道でもある、という点で、ある種の潜在的な〈出逢い〉の可能性をはらむものとして、すなわちある種の〈普遍性〉に向けて開かれたものとして提示された道でもあった。

 そう考えると、スピノザの想い描いた「理性に導かれた人間」による共同社会のイメージというのも、ただの「願望充足」としての空虚なユートピアではない、ということがわかる。

 それは、たしかにユートピアには違いないが、同時に、スピノザの課題に〈縁〉のある魂をもった人々、すなわち、現世の不条理とたたかい、雄々しく生き抜かんとする無名の生活者の人々の生を力強く鼓舞するだけの、たしかなリアリティーを備えた、生ける〈幻〉でもあったからである。

 

     10

 

 人間が己れの「本性」を「明瞭判然」と覚知し、そのことで、「本性」によって内発的に生ずる純粋な「欲望」を探り当て、それを「能動的」な活動能力へと高めることができる時、そしてまた、そのような人間たちによる出逢いと絆の〈縁〉(えにし)が生まれる時、スピノザは、そこに、あるべき理想の〈自然分業〉の姿を視てとっていた。

 そこでは、各人の「欲望」は対立し合うことなく、互いの能力を補い合い、各々の生の充溢・喜びは、そのまま互いの喜びをもたらすものとなる。各々の生の固有性が活かされ、互いの魂を「強制」するようなことは、一切無い。

 このような〈自然分業〉の世界は、産業革命以後の近代資本主義の世界、「経済至上主義」と「疎外された労働」によって支配された世界とは、まことに対照的である。

 スピノザは、人間が幸福のために、〈自然〉を自由に利用することを認めている。

 しかしそれは、近代人が己れの物質的欲望=貪欲さのために自然を無制限に収奪・改造・破壊することとは全く違う。

 彼は、「第四部」定理六六の「証明」の中で、「もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう」と語り、「未来の悪」の原因となる「現在の善」を「断念」すべきことを説いている。

 彼がもし私たちの〈現代〉に生きていたなら、生態系の破壊を決して認めなかったはずだし、「脱原発」論者になっていたことは間違いない。

 スピノザが理想とする〈自然分業〉の風景は、近代資本主義文明のごとき、〈生のうつろさ〉を抱え込み、それを代償せんとする〈貪欲さ〉の病にとり憑かれた世界とは、ほど遠い。

 人間が、他の何者とも比較され得ない、己れ自身の固有性に根ざした、満ち足りた生活感情の中で、ゆったりと静かに、しかし生き生きと働き、創造する姿が、そこにはある。

 まことにしみじみとした、懐しい風景である。

 痙攣的な、せわしない、不自然な刺激とハイ・テンションの世界ではない。

 私にとって、スピノザの『エチカ』の風景とは、ドゥルーズの幻視したようなポストモダン風のダイナミックで非日常的・祝祭的な、炎のような雄叫びのイメージではない。

 〈火〉の哲学のイメージではないのだ。

 ドゥルーズは、『エチカ』の内に〈風〉を視た。その〈風〉は、「公理→定理→系」の論理的証明の連鎖が生み出す「概念」による静かなる風と、それとは対照的な、「備考群」が醸し出す「火山」のごとき、烈しい「情動」的な風の二種類から成っている。

 そして、ドゥルーズに言わせれば、『エチカ』「第五部」において、「概念」と「情動」は「完全に一致」し、「概念と生のあいだに、もはや差違は全くなくなってしまう」のである。ここでは、二つの異質な〈風〉はひとつに統合され、「器官なき身体」のごとき非人間的・汎神論的な宇宙感覚へと解き放たれてゆくのである。

 私もまた、『エチカ』「第五部」に〈風〉を感じる。だが、その〈風〉は、優しく涼やかな風である。そしてまた、哀しいまでに澄み切った、果てしなく高い秋の蒼空のもと、清冽な〈水〉の流れにみずみずしい陽光がきらめく中を、爽やかに吹き抜ける風である。

 音楽にたとえるなら、十八世紀前半のイタリアのバロック作曲家アルビノーニの「オーボエ協奏曲」のような、地中海的な陽光が紡ぎ出す繊細な陰翳とみずみずしさ・温かさに通じるものがある。

 鳴り物入りの派手な交響楽の世界ではなく、つつましい室内楽の小宇宙なのである。

 モーツァルトのような、一瞬も存在の〈型〉に停滞することの無い、「脱構築的」(ポストモダン的)な、流れるような透明感ではなく、あくまでも、理知的で幾何学的な神的秩序に支えられた古典的(バロック的)な〈美意識〉を通して「存在に安らう」ことのできた者の、独特の涼やかな透明感なのである。もちろん、ベートーヴェンやショパンをはじめとするロマン派音楽の、感情の起伏の烈しい、情熱的でダイナミックな物語的空間(ニーチェ好みの空間)とは、対照的である。

 といっても、無縁なのではない。ロマン派の天才たちにも通じる、現世の卑俗さへの烈しい〈超越〉の意志、その情熱の深さ、魂の熱さを内包しつつ、自らを統御し、解脱できた者の、澄んだ哀しさを秘めた明るさの場所だといっていい。

 文学でたとえるなら、私は、十八世紀末から十九世紀初めにかけて生きたイギリスの作家ジェイン・オースティンの最晩年の傑作『説得』の空気感を想起する。その哀しくも澄み切った、深々とした、穏やかで温かい気配は、『エチカ』「第五部」の〈風〉に通じている。

 だが、こういった爽やかさ・優しさの背後には、『エチカ』「第四部」にみられたような、人性の険しさ・弱さ・愚かしさへの冷徹な凝視が横たわっている。

 それは、やはり音楽にたとえるなら、イエス・キリストの受難の本質を見据えながら、その一方で、無名の生活者の忍耐づよい一生、沈黙の内に秘められた無量の哀歓、生涯の物語性、生の厚みに深く想いを馳せたバッハの、理知的な、端正にして壮大・静謐(せいひつ)なバロック空間を想わせる。

 この「第五部」と「第四部」のコントラスト、光と闇の振幅の大きさこそ、私にとっての『エチカ』の魅力の真髄である。「第四部」の重厚な〈闇〉の深さがあってこそ、「第五部」のみずみずしい〈光〉、いささかも「感情」へのとらわれの無い、爽やかで優しい、涼やかな〈風〉が可能となったのである。

 私はここに、スピノザという哲学者の比類ない〈強靭さ〉を視てとる。

 ある意味では、スピノザは、たしかにドゥルーズの言うように、〈火〉の烈しさを内包した哲人であった。だが、その〈火〉はなんとつつましい、内に秘められた、抑制の力に支えられたものであったことか。

 己れの伝えんとする思想・熱い想いを、何のてらいもなく、卒直に語りながらも、この哲人の言葉はなんとクールで、静謐な気配に包まれていることか。

 その静けさが、そのまま、スピノザの鍛え抜かれた〈強靭さ〉を物語っているのである。(この稿続く)

 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.10.16 Sunday
  • 19:01

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第4回)

 

     6

 

 スピノザは、負の感情に翻弄される、愚かしく浅ましい人間どもの中にあって、いかにして幸福な、喜びに満ちた生の充溢を獲得しうるかを、ひたすら考え続けた。

(「第五部」定理四及び系の「備考」より)

 

 「……我々が特につとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、このようにして精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。/これによってただ愛・憎しみなどが破壊されるばかりでなく(……)、さらにまたそうした感情から生ずるのを常とする衝動ないし欲望も過度になりえないことになろう(……)。

 

 スピノザがまず重視したのは、己れ自身が「感情の奴隷」とならぬように、「認識」の力を研ぎ澄ますことであった。そのことで「愛憎」による〈我執〉のとらわれを壊し、「感情」を、己れの能動的な活動への衝動=欲望と結びつけ、適切に制御することが可能となる。

 しかし、人は一人では生きられない。

 さまざまな良き人々と弱い所・足りない所を補い合い、支え合ってゆかねばならない。

 己れとは疎遠な魂をもった人間たちに囲まれていた孤独な哲人スピノザにとって、それは何よりも困難で苦しいことであった。

 

 (「第四部」定理一八の「備考」より)

「……我々は自己の有を維持するのに我々の外部にある何ものも必要としないというようなわけにはいかぬし、また我々は我々の外部にある物と何の交渉も持たないで生活するというようなわけにもいかない。なおまた我々の精神を顧みると、もし精神が単独で存在し自己自身以外の何ものも認識しないとしたら、我々の知性はたしかにより不完全なものになっていたであろう。これで見ると、我々の外部には、我々に有益なもの、そのゆえに我々の追求に値するものが沢山存するわけである。そのうちで我々の本性とまったく一致するものほど価値あるものは考えられることができない。なぜなら、例えばまったく本性を同じくする二つの個体が相互に結合するなら、単独の個体よりも二倍の能力を有する一個体が構成されるからである。/このゆえに、人間にとっては人間ほど有益なものはない。あえて言うが、人間が自己の有を維持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、すなわちすべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。/この結論として、理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。

 

 ここには、スピノザが「理性」による導きの果てに想い描いた理想的な絆、理想的な共同性、類的一体化への熱い夢想・渇望が、荒削りな形で吐露されている。

 現実は、もちろん、この夢物語からは限りなく隔てられているけれども、この想念は、スピノザの孤独な心を温め、鼓舞したことであろう。

 そしてまた、その夢想とは似ても似つかない、言語道断なまでにおぞましい〈現実〉の汚濁の渦中にあって、「いかにして身を処するか」を考える時、常に、大いなる指標となったことであろう。

 

(第四部「付録」より)

「第七項……もし人間が自己自身の本性と一致するような個体の間に生活するなら、まさにそのことによって人間の活動能力は促され、養われるであろう。これに反してもし自己の本性と全然一致しないような個体の間に在るなら、彼は自己自身を大いに変化させることなしには彼らに順応することがほとんど不可能であろう。」

「第八項 自然の中に存在するもので我々がそれを悪である、あるいは我々の存在ならびに理性的な生活の享受に妨害となりうる、と判断するもの、そうしたすべてのものを我々は最も確実と思える方法で我々から遠ざけてよい。これに反してそれは善である、あるいは我々の有の維持ならびに理性的な生活の享受に有益である、と我々の判断するものが存するなら、我々はそうしたすべてのものを我々の用に供し、あらゆる仕方でこれを利用してよい。一般的に言えば、各人は自己の利益に寄与すると判断する事柄を最高の自然権によって遂行することが許されるのである。」

「第九項 ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって(第七項により)人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の技倆(ぎりょう)と才能を証明することができる。」

 

 この「第八項」には、スピノザの鍛え抜かれた厳しい洞察と生きる覚悟性がにじみ出ているといってよい。

 彼は、我々の「存在」ならびに「理性的な生活の享受」に「妨害」となりうると判断されるもの全てを、我々にとって「最も確実と思える方法」で「我々から遠ざけてよい」と言っているのだ。

 この言葉は、たとえ「親兄弟」や「親族」であろうとも、どんな「身近」な人間であろうとも、必要があれば、「縁を切ってもよい」という思想・肚(はら)の座りを内包しているといってよい。

 現にスピノザは、それだけの並々ならぬ覚悟をもって、家業(商館経営)を捨て、親族との縁を切り、またユダヤ教会からの破門を甘受して、己れの生の価値追求のために最善だと思われる峻厳な道を、敢えて択びとったのである。信奉者である友人たちから年金や遺贈を受けたので、困窮には陥らずに済んだが、暮らしぶりはつつましかった。己れの性に合い、また光学研究にも役立つ「レンズ磨き」というささやかな職人技を身につけ、貧しい下宿住まいをしながら、独身生活の中で、純潔な孤独を守り抜いた。

 そしてまた、スピノザは、理性による妥当な認識=聡明さからはほど遠い、現実の不完全な人間たちの対立・抗争を収めてゆくために、〈国家〉の民主主義的な法・制度による統治を、〈必要悪〉として承認した。

 

     7

 

(「第四部」定理三七の「備考二」より)

人はみな最高の自然権によって存在し、したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずることを最高の自然権によってなすのである。それゆえ各人は、最高の自然権によって、何が善であり何が悪であるかを判断し、自己の意のままに自己の利益を計り(……)、復讐をなし(……)、また自分の愛するものを維持し、自分の憎むものを破壊しようと努める(……)。

もし人間が理性の導きに従って生活するのだとしたら、各人は他人を何ら害することなしに自己のこの権利を享受しえたであろう(……)。ところが人間は諸感情に隷属しており(……)しかもそれらの感情は人間の能力ないし徳をはるかに凌駕するのであるから(……)、そのゆえに彼らはしばしば異なった方向に引きずられ(……)、また相互扶助を必要とするにもかかわらず(……)相互に対立的であることになる(……)。」

それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して、他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。

「……どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によってでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に害悪を加えたくてももしそれによってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。」

そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性(……)によってではなく、刑罰の威嚇(いかく)によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の機能によって保護される者を国民と名づけるのである。」

これからして、自然状態においては、すべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら、自然状態における各人はもっぱら自己の利益のみを計り、自分の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自分以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがってまた自然状態においては罪過というものは考えられない。しかし一般の同意に基づいて何が善であり何が悪であるかが決定されて各人が国家に服従するように義務づけられる国家状態においてはそれが考えられる。すなわち罪過とは不服従にほかならず、それはこのゆえに国家の機能によってのみ罰せられる。これに反して服従は国民の功績とされる。まさにそのことによって国民は国家の諸便益を享受するのに価すると判断されるからである。」

「次に、自然状態においては、何びとも一般的同意によってある物の所有主であることはない。また自然の中にはこの人に属してかの人に属さないといわれうるような何ものも存しない。むしろすべての物がすべての人の物である。したがって自然状態においては各人に対し各人の物を認めようとかある人からその所有のものを奪おうとかする意志は考えられえない。言いかえれば自然状態においては正義とか不正義といわれうる何ごとも起こらない。」

しかし一般の同意に基づいて何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態においてはこのことが起こる。以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。しかしこれらのことについてはこれで十分である。」

 

 国家を、人間の「自然権」の恣意的行使による衝突への抑制装置とみなすホッブス的な政治思想に通ずる、優れた法・統治理念である。

 特に、〈現実〉の社会で流通している「正義」「不正義」や「罪過」「功績」といった概念が、制度的なフィルターを通して作為された「外面的」な概念であって、「精神の本性」に属するものではない、という認識に注目したい。

 社会的・公共的に流通している〈価値〉というものを、個人の固有の内面的な価値と混同することなく、あくまでも〈必要悪〉としての制度の次元からその意味を冷徹に検討するという姿勢。

 それが、最良の意味における、近代主義的な法治理念というものであろう。

 スピノザの国家論・政治思想へのこだわりもまた、その理念に立っている。

 その上で、彼は、社会的・公共的な〈価値〉を支えている大衆の心性、共同幻想の暗部(ダークサイド)を凝視してみせるのである。(この稿続く)

 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第3回) 川喜田八潮

  • 2016.09.22 Thursday
  • 18:14

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第3回)

 

     5

 

 「外部」にある諸物の力によって翻弄されない、真に内発的で純粋な「欲望」に生きる時、人は、世間・他人の評価や意見、大衆の支持などに全く左右されぬ、満ち足りた、確固たる己れ自身の足場を持つことになる。

 スピノザにとって、己れ自身の生命を維持し、それを「能動的」に高めることで、喜びに満ちた生の充実を味わうことは、「道徳的な善悪」の観念を超えた、真の「徳」に生きることであった。

 ニーチェと同様、スピノザは、道徳的な罪業の意識で己れをいたずらに責め苛み、生を蝕むことを嫌った。しかし、だからといって、スピノザは、「恥知らずの人間」や「人の痛みを感ずることのできぬ人間」を認めていたわけではない。

 スピノザによれば、「恥辱」の感情は、「憐憫」(れんびん)と同様、決して「徳」ではないけれども、「あたかも苦痛が身体の損傷部分のまだ腐敗しない証拠である限りにおいて善と言われる」のと同様に、「恥辱を感ずる人間には端正な生活を営もうとする欲望が存している証拠である限りにおいて善である」として、その価値を認めている。(「第四部」定理五八の「備考」より)

「ゆえにある行為を恥じる人間は実際は悲しみを感ずるけれども、端正な生活を営もうとする欲望を有しない無恥の人よりも完全なのである。」

 スピノザが「悲しみ」や「恐怖」といった感情を忌み嫌ったのは、それが生を萎縮させるからであり、いたずらに精神を濁らせるだけで、理性の指図に従って「なすべき事」を沈着になす上で、なんら有効性を持たず、ただ妨げになるだけだからである。

 同様に、スピノザは、人の心を悲しみによって打ち砕き、罪業や因果応報の理念、恐怖を利用することで、無力感や不条理感、蒼白い死の想念を注ぎ込み、人の生気・活力を奪い去ろうとする種々の「迷信」や「悪しき暗示」、及びその根底をなす「生への怨恨(ルサンチマン)」、さらには、人間を愚かしい〈我執〉の奴隷とする「後悔」や「嫉妬」「愛憎」といった諸々の情念を、烈しく忌み嫌った。

 彼は、明晰・判明な理知の力をひたすら研ぎ澄ましてゆくことで、それら負の情念への「隷属」を超えてゆくことができる、と考えた。

 裏返して言えば、彼は、迷信や悪しき情念に盲目的に振り回され、奴隷となっている、哀れで浅ましい、悪業深い、度し難い人間どものあるがままの生態というものを、『エチカ』「第四部」で、徹底的に凝視してみせているのである。

 その「度し難さ」、おぞましさを、ひるむことなく「見切る」ことこそが、〈超越〉=解脱へと抜けてみせる、唯一の活路なのであった。

 

(「第四部」定理三七の「備考一」より)

自分の愛するものを他の人々が愛することを、また自分の意向通りに他の人々が生活することを、単に感情に基づいて努める人は、本能的にのみ行動するものであって、そのゆえに人から憎まれる。ことに別の好みを有してそのために同様の努力をなし、やはり自分の意向通りに他の人々を生活させようと等しく本能的に努めるような人々から憎まれる。次に人間が感情によって欲求する最高の善は、しばしば一人だけしか享受しえないような種類のものであるから、この結果、愛する当人はその心中に不安を蔵し、自分の愛するものに対する賞讃を語ることを喜びながらも同時にそれが人から信じられるのを恐れるというようなことになる。/ところが他の人々を理性によって導こうと努める人は本能的に行動するのでなく、友愛的かつ善意的に行動するのであってその心中きわめて確固たるものがある。

「(「第四部」定理五七)高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛(あゆ)の徒の現在することを愛し、反対に寛仁の人の現在することを憎む。

証明 高慢は人間が自己について正当以上に感ずることから生ずる喜びである(……)。この謬見(びゅうけん)を高慢な人間はできるだけはぐくむことに努めるであろう(……)。したがって彼らは追従の徒あるいは阿諛の徒(……)の現在することを愛するであろう。そして彼らをその正当の価値において判断する寛仁の人の現在することを忌避するであろう。Q・E・D・」

(定理五七の「備考」より)

「ここで高慢の弊害のすべてを列挙するとしたらあまりに長くなるであろう。なぜなら高慢な人間はあらゆる感情に支配され、ただ愛および同情の感情から最も縁遠いだけだからである。/しかしここに言わずにいられないのは、他人について正当以下に感ずる者もまた高慢と呼ばれるということである。したがってこの意味において高慢は、人間が自己を他の人々よりすぐれていると思う謬見から生ずる喜びであると定義される。そしてこの高慢の反対である自卑は、人間が自己を他の人々よりも劣ると信ずる謬見から生ずる悲しみとして定義されるであろう。このことが明らかにされた上は、高慢な人間が必然的にねたみ深いこと(……)、そして彼は、徳について最も多く賞讃されるような人々を最も多く憎み、これらの人々に対する彼の憎しみは愛や親切によって容易に征服されないこと(……)、また彼の無能な精神に迎合して彼を愚者から狂者たらしめるような人々の現在することのみを彼は喜ぶこと、そうしたことを我々は容易に了解しうるのである。」

自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間にもっとも近い。実際彼の悲しみは自己の無能力を他の人々の能力ないし徳に照して判断することから生ずるのであるから、彼の表象力が他人の欠点の観想に専心する時に彼の悲しみは軽減するであろう。言いかえれば彼は喜びを感ずるであろう。「不幸な者にとっては不幸な仲間を持ったことが慰安である」というあの諺はここから来ている。反対に彼は自分が他の人々に劣ると信ずれば信ずるだけますます多く悲しみを感ずるであろう。この結果として、自卑者ほど多くねたみに傾く者はないこと、彼らは是正してやるためによりも、とがめだてをするために熱心に人々の行為を観察することに努めること、最後にまた彼らは自卑のみを賞讃し、己れの自卑を誇り、しかも自卑の外観を失わないようにしてそれをやるということになる。」

「(「第四部」定理五八)名誉は理性に矛盾せず、理性から生ずることができる。」

(定理五八の「備考」より)

いわゆる虚名[虚しき名誉]とは単に民衆の意見によってはぐくまれる自己満足であって、この意見が終熄(しゅうそく)すれば満足そのもの、言いかえれば(……)各人の愛する最高の善も終熄する。それで、民衆の意見の裡(うち)に名誉を求める者は、名声を維持するために日々心配と不安の中に努力し、行動し、企てることになる。実に民衆は移り気で無定見であって、名声はうまく維持しなければたちまち消失するからである。のみならずすべての人間が民衆の喝采(かっさい)を博そうと欲するがゆえに、各人は好んで他人の名声を阻止する。そこで、最高と評価される善を得ようと争うのであるから、あらゆる方法で仲間を圧倒しようとする激しい情熱が生ずる。そして最後に勝利者となる者は、自己を益したことによりも他人を害したことにより多く名誉を見いだす。このようにしてこの名誉ないし満足は何の満足でもないのだから、実は空虚なものなのである。

「(「第四部」定理六三)恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない。」

(定理六三の「備考」)

徳を教えるよりも欠点を非難することを心得、また人々を理性によって導く代りに恐怖によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは、他の人々を自分たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない。それで彼らが多くの場合人々の不快の種となり、人々に憎まれるというのも怪しむに足りないのである。」

(「第四部」定理六六及び系の「備考」より)

「……感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。

「(「第四部」定理七〇)無知の人々の間に生活する自由の人はできるだけ彼らの親切を避けようとつとめる。

証明 各人は自己の意向に従って何が善であるかを判断する(……)。ゆえに誰かに親切をなした無知の人はそれを自己の意向に従って評価するであろう。そして彼はそれを受けた人からそれがより小さく評価されるのを見るとしたら悲しみを感ずるであろう(……)。ところが自由の人は他の人々と交友を結ぶことにはつとめるが(……)、しかし彼らに対して彼らの感情から判断して同等とされるような親切を報いることにはつとめないでむしろ自己ならびに他の人々を自由な理性の判断によって導こうとし、彼自身が最も重要として認識する事柄のみをなそうとつとめる。ゆえに自由の人は、無知の人々から憎しみを受けぬために、そしてまた彼らの衝動にでなく単に理性のみに従うために、彼らの親切をできるだけ避けようと努めるであろう。Q・E・D・」

(定理七〇の「備考」)

私は「できるだけ」という。なぜなら彼らは無知な人間であってもやはり人間であって、危急な場合には、何より貴重な人間的援助をなしうる。このゆえに彼らから親切を受け、したがってまた彼らに対し彼らの意向に従って感謝を示すことの必要な場合がしばしば起こるのである。これに加えて、親切を避けるにあたっても、我々が彼らを軽蔑するかに見えぬように、あるいは我々が貪欲のゆえに報酬を恐れるかに見えぬように、慎重にしなくてはならぬ。すなわち彼らの憎しみを逃れようとしてかえって彼らを憤らせるようなことがあってはならぬ。ゆえに親切を避けるにあたっては、何が利益であるか何が端正であるかを考慮しなければならぬ。

「(「第四部」定理七一)自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。

証明 自由の人々のみが相互に最も有益であり、かつ最も固い友情の絆をもって相互に結合する(……)。そして同様な愛の欲求をもって相互に親切をなそうと努める(……)。したがって(……)自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。Q・E・D・」

(定理七一の「備考」より)

盲目的な欲望に支配される人々が相互に示すような感謝は、多くは感謝というよりもむしろ取引あるいは計略(アウクピウム)である。」

(第四部「付録」より)

「第一〇項 人間は相互に対してねたみあるいは何らかの憎しみの感情に駆られる限りその限りにおいて相互に対立的である。したがってまた、人間は自然の他の個体よりいっそう有能であるだけにそれだけ相互にいっそう恐るべき敵なのである。

 第一一項 しかし人間の心は武器によってでなく愛と寛仁とによって征服される。

 第一二項 人間にとっては、たがいに交わりを結び、そして自分たちすべてを一体となすのに最も適するような紐帯によって相互に結束すること、一般的に言えば、友情の強化に役立つような事柄を行なうこと、これが何より有益である。

 第一三項 しかしこれをなすには技倆と注意が必要である。なぜなら、人間というものは種々多様であり(理性の指図に従って生活する者は稀であるから)、しかも一般にねたみ深く、同情によりも復讐に傾いている。ゆえに彼らすべての意向に順応し、それでいて彼らの感情の模倣に陥らないように自制するには、特別な精神の能力を要する。一方、人間を非難し、徳を教えるよりは欠点をとがめ、人間の心を強固にするよりはこれを打ち砕くことしか知らない人は、自分でも不快であり他人にも不快を与える。……

「第一四項 このように人間は大抵自己の欲望に従って一切を処理するものであるけれども、人間の共同社会からは損害よりも便利がはるかに多く生ずる。ゆえに彼らの不法を平気で堪え、和合および友情をもたらすのに役立つことに力を至すのがより得策である。

 第一五項 この和合を生むものは正義、公平、端正心に属する事柄である。なぜなら人間は不正義なこと、不公平なことばかりでなく非礼と思われること、すなわち国家で認められている風習が何びとかに犯されるようなことも堪えがたく感ずるからである。/さらに進んで愛を得るには宗教心および道義心に属することが最も必要である。……」

「第一六項 そのほかに和合はしばしば恐怖から生まれるのが常である。しかしこれは信義の裏づけのない和合である。これに加えて、恐怖は精神の無能力から生ずるものであり、したがって理性にとっては無用である。あたかも憐憫が道義心の外観を帯びているにもかかわらず理性にとって無用であるのと同様に。」

「第二五項 礼譲、言いかえれば人々の気に入ろうとする欲望は、それが理性によって決定される場合は道義心に属し(……)、これに反してそれが感情から生ずる場合は名誉欲、すなわち人間が道義心の仮面のもとにしばしば不和と争闘をひき起こす欲望となる。なぜなら〔理性によって決定される人すなわち〕、他の人々が自分とともに最高の善を享受するように助言ないし実践をもって彼らを助けようと欲する人は、特に彼らの愛をかち得ようとつとめはするであろうが、彼らに驚嘆されて自分の教えが自分の名前によって呼ばれるようにしようとは努めないであろうし、また一般に、ねたみを招くようないかなる機縁をも作らないようにするであろう。また普通の会話においても人の短所を挙げることを慎み、人の無能力についてはわずかしか語らないように注意し、これと反対に、人間の徳ないし能力について、またそれを完成する方法については大いに語るようにするであろう。このようにして彼は、人々が恐怖や嫌悪からでなく、ただ喜びの感情のみに動かされてできるだけ理性の指図による生活をしようと努めるようにさせるであろう。

 

 人間の浅ましさや弱さ、暗愚さ、生の険しさをひたすら凝視するスピノザの透徹したまなざしの背後に、私たちは、孤独な生活者・表現者として、四十五年の受難の人生を静かに耐え抜き、生き抜いてみせた、ひとりの〈苦労人〉の土性骨、生の厚みを視てとることができよう。(この稿続く)

 

 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2016.08.23 Tuesday
  • 15:55

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第2回)

 

     3

 

「第五部」定理一〇の「備考」で、さらに続けてスピノザは言う。

 

「同様に我々は、恐怖を脱するためには勇気について思惟しなくてはならぬ。すなわち人生において普通に起こるもろもろの危難を数え上げ、再三これを表象し、そして沈着と精神の強さとによってそれを最もよく回避し・征服しうる方法を考えておかなくてはならぬ。」

 

 この言葉を、「備えあれば憂いなし」ということわざと同じ意味合いで受け取るなら、まことに浅薄な思想というほかはない。たしかに、ある行動を起こす場合に、想定しうるリスクの数々に対して、あらかじめ備えておくことは必要であるし、人生において起こりうるある種の危険に対して、クールに対処しうるよう、心がまえを練っておくことが好ましいと考えられるケースもある。

 しかし、人生とは、しょせん、未知なるファクターを無数に抱え込んだ、大いなるカオスの世界である。人の予測や確率などをはるかに超えた、霊妙不可思議なる縁(えにし)と契機の賜物である。人生とは、大海の中をさまよう小舟のようなものだ。われわれは、潮の流れに身をまかせながら、瞬時瞬時に小舟を操る船頭のようなものだ。

 人生には、直面してみなければわからぬことが、無数にある。あらかじめ危難を数え上げ、回避する方法などを練ってみたところで、恐怖を脱する上で、さして役に立つとは思えない。

 むしろ、起こりうる危難・災難のイメージによって、いたずらに、恐怖で心身を萎縮させ、人生という未知なるカオスに対する不条理感を増幅させるケースの方が多いようにおもえる。

 この言説には、理性・知性を過信する主知主義者としてのスピノザのアキレスケンが露呈しているといっていい。肝心なことは、むしろ、物事は、直面してみなければわからないという事実そのものに対する、覚悟・肚のすわりにある。真の理性・精神の強靭さとは、〈未知〉なるカオスへの〈信〉と〈祈り〉と〈覚悟〉があってこそ、活きてくるものではあるまいか。人生に対する、合理的な根拠の無い〈信頼感〉というものは、人をして生かしめる力の根源にあるものであり、それは〈身体〉の力能、すなわち〈身体〉とそれに対応する〈無意識〉的な力能の顕われにほかならない。

 われわれにとって大切なことは、この〈身体〉の無意識的な力能が、恐怖や不条理感によって弱められることで、われわれの生活における活力、すなわち能動的な活動能力が減少し阻害されることのないよう、精神の力能を拡大してみせることである。

 それは、われわれを取り巻く〈未知〉なるカオスとしての世界・人生が、存在を没価値的な因果律によって偶然的に弄ぶ、単なる無意味な不条理ではなく、同時に、存在をして生命的・有意味的に活かしめる根源的なエネルギーとしての次元を兼ね備えていると視るような、新たなまなざしの場所に立つということである。

 その生命的次元は、主・客が一体となって息づくコスミックな生存感覚であり、その覚知は、〈身体性〉によって開示される無意識的な非合理的領域、すなわち心身一如的な感性的認知の領域であり、カオスへの〈信〉のかたちにほかならない。

 この〈信〉に立つとき、われわれの、カオスに翻弄されるという「受動的」な生存感覚は、活力ある「能動的」な生存感覚へと変換される。

 汎神論的な唯物論者であり、主知主義者であるスピノザにも、未知なるカオスへの無意識的で生命的な〈信〉の感覚は、きちんと息づいていたようにおもえる。

 泰然自若たる『エチカ』の〈文体〉がそれを証している、と私には感じられる。

 それは、〈時間〉を超越することのできた者の場所である。すなわち、はかなく移ろいゆく、無常なる存在の実相という〈強迫観念〉の呪縛を脱することのできた者の、〈解脱〉(げだつ)の境地である。

 といっても、プラトンのイデア論のように、無時間的な、永遠の〈観念的実体〉の不完全な〈射影〉(似像)によって、現世の存在・事象を規定=説明しようというのではない。

 存在に内在し、存在を存在たらしめながら、同時に、存在の〈時間性〉を超越している、唯一無二の〈永遠的実体〉たる「汎神論的」な〈神〉への直観的覚知によって、解脱せんとするのである。

 存在と人性の普遍的な形相的特質への明晰な認知の積み重ねが、それらの形相の究極的な〈根拠〉をなす汎神論的な〈神〉の実在への確信をもたらし、また、その〈神〉の直観が、存在と人性への探求の情熱を鼓舞し、認識の〈愉悦〉をもたらす。

 その往復運動こそ、未知なるカオスへの〈恐怖〉を超え、時間性と永遠性の矛盾を止揚せんとするスピノザの叡智にほかならなかった。

 しかしニーチェは、『悦ばしき知識』において、スピノザの主知主義的な姿勢を、次のように痛烈に批判してみせている。

 

「―――理念は、いつも哲学者の「血」を吸って生きてきた、理念はいつも哲学者の感覚を食いつくした、いな、さらに言わしてもらうならば、哲学者の「心臓」をも食いつくしたのだ。これら昔の哲学者たちには、心臓がなくなっていた。つまり哲学することは、つねに一種の吸血鬼的作業であったわけだ。スピノザのようなああした人物にあってさえ、そこに何かしら深く謎を孕んだもの・薄気味わるいもののあるのを諸君は感じないだろうか? そこに演じられている芝居を、たえず顔色蒼ざめてゆくその芝居を、―――いよいよもって理念化的に解釈されてゆく感覚離脱を、諸君は見ないだろうか? その背景に、諸君は、永いこと身をひそめた吸血鬼が、感覚を手はじめに血をしゃぶり最後には骨と骸骨の音しか何一つ残さないようになるのを、感じないだろうか?―――私が言っているのは、範疇(カテゴリー)、公式、言語のことだ(というのは、失礼をかえりみず言えば、スピノザの思想から残ったもの、つまり「神の知的愛」(amor  intellectualis  dei)は、骸骨のガラガラ音である、それ以上の何ものでもない! 何が愛(アモール)であり、何が神(デウス)であるのだ、もしそれらに血の一滴すらないとならば?・・・)。」(『悦ばしき知識』「第五書」一八八六年、信太正三訳、斜体字は原文では傍点。)

 

 ニーチェの手厳しい批判には、たしかに一理ある。

 スピノザのように、理性による明晰な認知というものを生の絶対的な価値の根底に据え、精緻な概念規定とカテゴリーによる演繹的システムによって、世界を俯瞰的に包摂せんとする主知主義的姿勢は、ヘタをすると、頭でっかちの、理性万能主義を振りかざす尊大なモダニストの場所と、同一視されかねない。

 だがすでに強調してきたように、スピノザは、決して、理性と自我意識によって全てを仕切ろうとするような、ごう慢なモダニストではなかったし、〈観念〉に魂を食われて、感覚が鈍麻した、血の気の薄い人物でもなかった。

 『エチカ』の「備考」における、クールな中にも熱を帯びた〈文体〉が如実に物語っているように、澄み切った水のような静けさの中に、火のような烈しさを秘めた哲人だった。

 スピノザの透徹した認識の本領は、精神なかんずく感情の本質への認識にある。

 それは、ニーチェの言ったように、理念化によって〈身体〉を痩せ細ったものにするのではなく、認識の力によって、〈身体〉の無意識的な〈力能〉をつかむことで、既成観念による意識のとらわれを超え、精神の自在性を拡げることによって、能動的な活動能力を高めようとする、逆説的な戦略だった。

 むしろ、ニーチェの批判とは逆に、スピノザの抽象化の能力、対象の〈本質〉をシンプルにわしづかみにしてみせる、認識の透明度の高さが、(たとえこの哲学者が病弱で、かつ理不尽な攻撃・中傷による怖るべきストレスに苦しめられていたとしても)彼の身体性と生存感覚をガードし、それなりに生気ある、すこやかな状態に保たせていたようにおもわれる。(もっとも、その身体性は、ニーチェ好みの「力への意志」に衝き動かされる、血の気の多い獰猛さとはほど遠い、穏やかなものであったろうが。)

 私には、ニーチェの反合理主義的な理念の方が、スピノザの主知主義的姿勢よりも、ある意味では、ずっと観念的なものに視える。

 華麗な修辞と反語的アイロニーに満ちた、ニーチェの詩人哲学者風の饒舌と、表現者としての軌跡を視れば、彼が、スピノザのような清澄な感覚の持主でないことは、明らかだ。

 善悪の彼岸に立つ「力への意志」という観念的な男性原理を振り回し、健康さと情熱・本能の価値を声高に叫び、非日常的・刹那的な芸術的燃焼による虚無の超克をとなえるニーチェには、日常的な〈生活〉のもつ奥ゆきやふくらみ、生の振幅への真の感受性というものが欠落していた。

 だから、彼には、無名の〈生活人〉の寡黙で忍耐づよい生の厚みや生涯の物語性の意味というものが、全く視えていなかった。生活者のつつましい〈幸福〉への祈りも、そのかけがえのない重さもわからなかったし、その分だけ、真の優しさに欠けていた。

 むしろ、日常的な生活が紡ぎ出す〈幸福〉という観念そのものを軽蔑していたし、人間の本性を、自己保存の本能と幸福への意志に求めることを拒絶した。

 人間の本源的な衝動を、なんらかの非日常的な崇高さを帯びた観念的な価値・目的のために、自己を滅却し、不条理を超えて飛翔せんとする、生気溢れる〈力〉への渇望に向けて、解き放とうと夢想した。

 対照的にスピノザは、各人が自己自身を愛し、理性の導きによって、自己固有の「本性」に則した欲望のかたちを発見し、それにもとづく活動能力を通して、その人なりの自然な、充ち足りた生活を成就せんとすることを、「徳」とみなした。

 スピノザには、日常的な生活への愛があった。

 嫉妬や憎しみによる毒念や情念、道徳によって濁らされることのない、はればれとした、落ち着きのある、自己充足的な生というものを、何よりも重んじていた。

 

     4

 

 前節で引用した、「恐怖」への生活律による対処の言葉に続いて、定理一〇の「備考」で、スピノザは次のように語っている。

 

しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から行動へ決定されるようにしなければならぬことである(……)。例えばある人が、自分はあまりに名誉に熱中しすぎることに気づいたなら、彼は名誉の正しい利用について思惟し、なぜ人は名誉を求めなければならぬかまたいかなる手段で人はそれを獲得しうるかを思惟しなければならぬ。だが名誉の悪用[弊害]とか、虚妄とか、人間の無定見とか、その他そうした種類のことは思わないほうがよい。そうしたことは病的な精神からでなくては何びとも思惟しない事柄である。というのは、最も多く名誉欲に囚われた者は、自分の求める名誉を獲得することについて絶望する時に、そうした思想をもって最も多く自らを苦しめるものである。そして彼は、怒りを吐き出しつつもなお自分が賢明であるように見られようと欲するのである。これで見ても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのであることが確かである。

しかしこれは名誉欲に囚われている者にだけ特有なことでなく、すべて恵まれぬ運命をにないかつ無力な精神を有する者に共通な現象である。なぜなら、貧乏でしかも貪欲な者もまた金銭の悪用や富者の罪悪を口にすることを止めないが、これによって彼は自分自身を苦しめ、かつ自分の貧のみならず他人の富もが彼の忿懣(ふんまん)の種であることを人に示す結果にしかなっていない。これと同様に、愛する女からひどく取り扱われた者もまた、女の移り気や、その不実な心や、その他歌の文句にある女の欠点などのことしか考えない。しかも愛する女から再び迎えられると、これらすべてのことをただちに忘れてしまうのである。」

 「ゆえに自己の感情および衝動を自由に対する愛のみによって統御しようとする者は、できるだけ徳および徳の原因を認識し、徳の真の認識から生ずる歓喜をもって心を充たすように努力するであろう。だが彼は人間の欠点を観想して人間を罵倒(ばとう)したり偽わりの自由の外観を喜んだりするようなことは決してしないであろう。そしてこれらのことを注意深く観察し(なぜならそれは困難なことではないから)かつそれについて修練を積む者は、たしかに短期間のうちに自己の活動を大部分理性の命令に従って導くことができるようになるであろう。」

 

 私は、これらの言葉の中に、己れの人生に照らし合わせて、感動を覚えないわけにはいかない。

 人性の愚かしさ、弱さ、険しさに対する、なんともビターな、透徹した洞察の言葉となり得ている。

 そしてまた、人の世の汚濁の渦中にあって、「感情の奴隷」にならぬよう「身を処してゆく」ための、深い叡智が語られている。

 悪しき想念・イメージのもたらす「魂の濁り」への戒めの言葉でもある。

 また、スピノザは、「第四部」定理四五の「備考」で、こう述べている。

 

「……もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことでないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であるために、したがってまた精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種々の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨されるべき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。

 

 ここにも、「生活律」による制御を通して、種々の「感情」を適宜、昇華・解放させ、身体の変状(刺激状態)を正しく秩序づけようとする、スピノザの叡智がよくうかがえる。

 日々の生活において、生命的でアナログ的な全体感がたえず賦活されることの重要性が押さえられている。(この稿続く)

 

 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第1回) 川喜田八潮

  • 2016.07.26 Tuesday
  • 17:30

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第1回)

 

     1

 

 これまで、ジル・ドゥルーズの名著『スピノザ』について論じてきた。

 ここからは、一転して、私自身のスピノザ論=『エチカ』論について語りたいとおもう。

 私の『エチカ』論は、ドゥルーズともニーチェとも違う立ち位置にある。

 ただ素直に、とにかく繰り返し、繰り返し、この古典的哲学的名著を再読・三読し(岩波文庫・畠中尚志訳による)、私自身の眼に映じた事のみを語ろうと思う。

 私は哲学者ではない。哲学史家でもない。「学」の構えとは無縁の、一介の在野の文芸評論家であり、ひとりの表現者である。

 哲学的な概念規定による、スコラ的なこちたき論理の轍(わだち)にはまり込む気は無い。

 スピノザが『エチカ』で展開してみせた、「定義」「公理」「定理」「系」による演繹的な論理的連鎖を忠実に辿り直す気など毛頭ないし、そこでの哲学的概念をめぐる厳密かつ煩瑣な認識論的考察に対しても、敬遠させてもらうことにしよう。

 西洋哲学史におけるスピノザ哲学の独自性・位置づけといった問題に関わる気もない。

 私はただ、ひとりの無名の〈生活者〉の場所から、この哲学者の人性の本質への透徹した認識と生きる身構えに、相対してみたいだけだ。

 ドゥルーズは、『エチカ』の最高の到達点を、「概念」と「情動」が「完全に一致」している「第五部」に求め、そこに、官能的な生命の解放による「神」との合体の境地を見出すのだが、私のこだわりは、もっと別なところにある。

 私がこの書に見出すのは、ドゥルーズやニーチェのような、不条理に抗って大地の重力に拮抗し、灼熱の太陽のごとき生命の炎を強引に燃え上がらせんとするような、不自然で過度に非日常的・祝祭的な、ハイテンションの雄叫びではない。

 もっと静かな、深く澄み切った、研ぎすまされた知性と、その上に立つ、「生きる」ことの覚悟性である。

 深々とした静けさ、透明感、比類なき聡明さ。

 それが、『エチカ』という書に流れている主調音である。

 この書の中で、その深奥の秘密が隠されている箇所は、「神」との汎神論的一体化による「至福」の境地を語った「第五部」ではない。

 人間の〈感情〉〈弱さ〉〈隷属〉への険しい凝視を示す「第四部」(「人間の隷属あるいは感情の力について」)である。

 スピノザは、「第四部」の「序言」冒頭で、こう語っている。

 

「感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。」(『エチカ』畠中尚志訳、斜体字は原文では傍点、以下の引用においても同前。)

 

 スピノザは、この「第四部」で、「隷属」を超えてゆくために、さまざまな「感情」に対応する〈身体性〉のあり方について考察する。

 

 「感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態]、また同時にそうした変状の観念であると解する。」(『エチカ』「第三部」の「定義三」より)

 

 スピノザによれば、すべての感情は、「喜び」「悲しみ」あるいは「欲望」に還元される。欲望もまた感情の一種であり、感情の本質を明晰に認識することは、欲望とそれに伴う喜びや悲しみの本質を洞察することを含んでいる。

「隷属」のあり方は、種々の感情を構成する喜びや悲しみあるいは欲望がもたらす身体的な〈拘束力〉のかたちを凝視することによって視えてくる。

 スピノザによれば、「精神と身体とは同一物」であって、したがって「我々の身体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時である」ということになる。(『エチカ』「第三部」定理二の「備考」参照。)

 精神活動の可能性、振り幅は、そのまま、身体感覚の〈変状〉のいかん、振り幅によって左右される。

 さまざまな感情や欲望に対応する身体性(身体感覚や行動様式)のあり方を正しく見きわめることは、スピノザにとって、そのまま、精神が「隷属」を超えるために何をなしうるかを知ることであった。

 それは、精神が、身体性によって開示される〈無意識〉の感性的な領域に認識の力を及ぼすことで、既成観念による意識の〈制約〉を越えて、自らの潜在的な〈力能〉を発見するという営みにほかならない。

 ドゥルーズは、その精神の〈力能〉について、次のように語っている。

 

「身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの意識を越えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。身体のもつもろもろの力能についての認識を得ようとするのは、同時にそれと並行的に、意識をのがれているもろもろの精神の力能を発見するためであり、両力能を対比する[対等に置いて理解する]ことができるようにするためなのだ。(中略)無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。」

(『スピノザ』第二章・鈴木雅大訳、下線引用者、斜体字は原文では傍点。)

 

 この精神の〈力能〉を明晰に認識するために、スピノザが中心に据えたのが、欲望とそれを含む感情全般にわたる「能動」と「受動」という一対の概念である。

 スピノザは、人間が己れの活動能力を高め、うつろではない、みずみずしい生の充溢感をもって生きる姿を「善」とみなし、「徳」とみなした人である。

 彼の「徳」という言葉が、「道徳的な善悪」とは切り離された概念であることに注意する必要がある。(スピノザにとって「悪」とは、われわれの「活動能力」を減少ないし阻害するものを指す。)

 その「徳」を生み出すために、彼は、われわれ自身の「本性」というものを凝視する。

 

「我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす[能動]と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける[受動]と言う。」

(『エチカ』「第二部」の「定義二」より)

 

 したがって、「外部」にある「諸物の力」によって規定されない、己れ自身の「本性」のみによって内発的に生ずる「欲望」による「活動能力」の高まりは、スピノザによれば、「能動」的な欲望ということになり、外物によって規定され、翻弄される欲望は、「受動」的な欲望ということになる。

 スピノザの考えでは、人間の「本性」に根ざした「能動的欲望」は、常に「善」なる感情であるが、「外物」によって規定される「受動」の欲望は、場合によっては「悪」となる。

 後者は、時に、人間に充溢した生の喜びを与えてくれる、自身に固有の活動能力というものを見失わせ、また、人を嫉妬や愛憎といったようなさまざまな情念によって翻弄することで、自他を損ねる危険へと陥れるからである。

 スピノザにとって、人が真に充実した良き生を生き抜くということは、「能動」の力をいかにして高め、「受動」による「毀損」ないし「無能力」の状態をいかにして減らしてゆくか、という課題にきちんと応えることにほかならなかった。

 彼が「明瞭判然」な理解を求め、理性・知性を研ぎ澄まし、ひたすら世界=存在のありのままの姿を俯瞰し、「視る」ことに徹しようとしたのは、デカルトのように、あるいは後続する諸々の近代的な合理主義者たちのように、理性や意識や自我を至上神のごとき価値の玉座に据えようとしたからではなく、逆に、冷徹に「視る」ことに徹することで、己れの能力に見合った、内発的な真の「欲望」、すなわち己れの固有の、孤独にして生命的な、純粋で内発的な〈衝動〉を、最もナチュラルな形で解き放ってやるためであった。

 この意味で、スピノザは、ドゥルーズも言うように、まさしく「生の哲学者」であった。

 彼にとって、理性ないし知性を研ぎ澄ますことは、決して、「意識」過剰の自我意識の化け物になることではなく、神経症的な自己主張の身構えにとらわれることでもなかった。逆に、己れの〈身体〉によって開示される〈無意識〉の領域を、最も自然に、無理の無い形で解き放ってやることであった。

 そのために、彼は、己れの生を己れの「意識」で思いのままに「操ろう」とするような近代人的な悪あがきに陥ることなく、己れの感情を正しい「生活律」で制御することで、身体感覚の〈変状〉を秩序づけ、悪しき感情の支配から身を守ろうとしたのである。

 

     2

 

 『エチカ』「第五部」で、スピノザは次のように述べている。(以下、本論における『エチカ』の引用に際して、煩瑣を避けるために「……」で省略した箇所は、スピノザが己れの論旨の根拠として提示した、『エチカ』各部の「定理」「備考」「系」「公理」「定義」などに該当する。ただし、引用文の文頭と末尾の「……」は、文章の略である。)

 

「定理一〇 我々は、我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、知性と一致した秩序に従って身体の変状[刺激状態]を秩序づけ・連結する力を有する。

 証明 我々の本性と相反する感情、言いかえれば(……)悪しき感情は、精神の認識する働きを妨げる限りにおいて悪なのである(……)。したがって我々が我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、物を認識しようと努める精神の能力(……)は妨げられないのである。ゆえにその間は、精神は明瞭かつ判然たる観念を形成し・一の観念を他の観念から導出する力を有する(……)。したがってまた(……)その間は、我々は知性に一致した秩序に従って身体の変状を秩序づけ・連結する力を有するのである。Q・E・D・」(『エチカ』畠中尚志訳、下線引用者、以下の引用においても同前。)

 

 スピノザにとって「善」とは、「喜び」の原因であるもの、すなわち、われわれの「活動能力」を「増大」ないし「促進」するものであり、「悪」とは、「悲しみ」の原因であるもの、すなわち、われわれの「活動能力」を「減少」ないし「阻害」するものである。

 人が自らの生命を維持し、活動能力を高めることで、みずみずしい生の喜びを生み出すことは、「本性」に根ざした衝動によって支えられてこそ可能となる。

「外物の力」によって規定された「受動」の感情にとらわれることで「本性」を歪め、あるいは圧殺することは、まぎれもなく「悪」である、とスピノザはみなす。それは、認識する働きを妨げる。

 もし幸いにして、われわれがそのような悪しき感情の支配を免れる条件の下に置かれているとすれば、その間に、われわれは、自らの身体感覚の〈変状〉を、明瞭判然たる認識に従って、適切に秩序づけ、連結することで、身を守ることが可能となる。すなわち、一定の「生活律」によって、感情を制御しうる。

 スピノザは、「第五部」定理一〇の「証明」に続く「備考」で、具体例に則しながら、「生活律」を適用する時の心がまえについて説いている。

 

「備考 身体の変状を正しく秩序づけ・連結するこの力によって我々は、容易に悪しき感情に刺激されないようにすることができる。なぜなら(……)知性と一致した秩序に従って秩序づけられ・連結された感情を阻止するには、不確実で漠然たる感情を阻止するよりもいっそう大なる力を要するからである。ゆえに、我々の感情について完全な認識を有しない間に我々のなしうる最善のことは、正しい生活法あるいは一定の生活律を立て、これを我々の記憶に留め、人生においてしばしば起こる個々の場合にたえずそれを適用することである。このようにして我々の表象力はそうした生活律から広汎な影響を受け、その生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。」

「例えば我々は憎しみを愛もしくは寛仁によって征服すべきであって憎み返しによって報いてはならぬことを生活律の中にとり入れた(……)。しかし理性のこの指図が必要ある場合に常に我々の眼前にあるためには、人間が通常加えるもろもろの不法を思い浮かべ、これを再三熟慮し、かつ寛仁によってそれが最もよく除去されうる方法と経路とを考えておかなくてはならぬ。このようにすれば我々は不法の表象像をこの生活律の表象と結合することになり、そして(……)我々に不法が加えられた場合に、この生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。その上我々が我々の真の利益について、また相互の友情と共同社会から生ずる善について、たえず考慮するならば、そしてさらに、正しい生活法から精神の最高の満足が生ずること(……)、また人間は存在する他のすべてのものと同様に自然の必然性によってしか行動しえないものであることをたえず念頭に置くならば、不法あるいは不法から生ずるのを常とする憎しみは、単に我々の表象力の極小部分のみを占め、容易に征服されるであろう。たとえきわめて大なる不法から生ずるのを常とする怒りはそう容易には征服されないとしても、それはしかし―――たとえ心情の動揺を経てではあっても―――こうしたことをあらかじめ熟慮しなかった場合よりもはるかに短期間に征服されるであろう。」

 

 スピノザがここで言う「精神の最高の満足」というのは、「第四部」定理五二の「自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、存在しうる最高の満足である」という文章における「自己満足」のことである。この「自己満足」は、「ひとりよがり」の満足ということではなく、「人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜び」のことである。(「第三部」の「諸感情の定義」二五による。)(この稿続く)

 

 

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