芥川龍之介と闇(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2017.07.20 Thursday
  • 13:28

 

     14

 

 芥川は、この世の不条理と生き地獄を凝視し続ける己れの文学的な営みによって、魂の〈渇き〉を癒すことはできなかった。

「侏儒の言葉」の次の箴言(しんげん)は、彼の〈資質〉が強いられた宿命的な不幸のありかを端的に語っている。

 

「最も著しい自己嫌悪の徴候はあらゆるものに(うそ)を見つけることである。いや、必しもそればかりではない。そのまた譃を見つけることに少しも満足を感じないことである。」(「自己嫌悪」)

 

「侏儒の言葉」の中で、「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」(「或物質主義者の信条」)、「わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。」(「わたし」)とか、「古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。ちょうど熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。」(「芸術至上主義者」)と語ったこの作家が、己れの文学的営為を通して支払わされた痛ましい〈代償〉の本質について、無自覚であったとは思えない。

 彼の言う「神経」とは、もちろん、〈意識〉もしくは〈自意識〉と言いかえてもよい。

 芥川の場合、対象への理知的な〈意識〉をもつことは、そのまま、対象と己れ自身との関係・距離を明晰に「意識」すること、すなわち〈自意識〉をもつことと同義であるといっていい。

 したがって、〈意識〉の領域が細分化し、拡大することは、そのまま、〈自意識〉が細分化し、肥大化することと同義となる。

「わたしの持っているのは神経ばかりである」というのは、晩年期の芥川が、〈自意識〉と関係づけられた〈意識〉の力によって、己れの精神の全領域を統御せんとするデモーニッシュな意志にとりつかれていたことを示す言葉であるといっていい。

 しかし同時に彼は、そのような知的な統御への意志が少しも真の満足をもたらさず、幸福への希いとは対極にあることを痛感していた。

 人間という、浅ましく度しがたい生き物の多種多様な生態や動機の内に潜む普遍性を、ニュートラル(没価値的)な立ち位置から、俯瞰するようにクールに認識し、見切ることによって、あらゆる信や倫理や価値を相対化し、脱構築してみせたとしても、すなわち、あらゆるものに〈嘘〉を見つけてみせたとしても、そこには、真の心の平安も生の充溢もあり得ないことを、晩年の芥川は、身に沁みて感じていた。

 彼がそこに見出したのは、神経の固まりと化した、すなわち肥大化した意識及び自意識の化け物となった観念的な人間としての自分、身体的にはいわば〈脱け殻〉と化して虚無の波間に漂う、はかなげな幽体のような自分の姿であった。

 絶えざる創作行為によって、神経を痙攣的に刺激し続けることで、晩年の芥川は、かろうじて、己れの命を、生につなぎ止めていた。

「歯車」「或阿呆の一生」と並ぶ遺稿「闇中問答」には、次のような対話が記されている。

 

 或声 お前は何をしているのだ?

 僕 僕はただ書いているのだ。

 或声 なぜお前は書いているのだ?

 僕 ただ書かずにはいられないからだ。

 或声 では書け。死ぬまで書け。

 僕 勿論、――第一そのほかに仕かたはない。

     (中略)

 或声 お前は何もかも承知している。

 僕 いや、僕は承知していない。僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がっている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠っている。

     (中略)

 或声 では俺を誰だと思う?

 僕 僕の平和を奪ったものだ。僕のエピキュリアニズムを破ったものだ。僕の、――いや、僕ばかりではない。昔支那の聖人の教えた中庸の精神を失わせるものだ。お前の犠牲になったものは至る所に横(よこた)わっている。文学史の上にも、新聞記事の上にも。

 或声 それをお前は何と呼んでいる?

 僕 僕は――僕は何と呼ぶかは知らない。しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕等を超えた力だ。僕等を支配するDaimônだ。

 或声 お前はお前自身を祝福しろ。俺は誰にでも話しには来ない。

 僕 いや、僕は誰よりもお前の来るのを警戒するつもりだ。お前の来る所に平和はない。しかしお前はレントゲンのようにあらゆるものを滲透して来るのだ。

 或声 では今後も油断するな。

 僕 勿論今後は油断しない。ただペンを持っている時には………

 或声 ペンを持っている時には来いと云うのだな。

 僕 誰が来いと云うものか! 僕は群小作家の一人だ。また群小作家の一人になりたいと思っているものだ。平和はそのほかに得られるものではない。しかしペンを持っている時にはお前の俘(とりこ)になるかも知れない。

     (中略)

 僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれている葦だ。空模様はいつ何時(なんどき)変るかも知れない。ただしっかり踏んばっていろ。それはお前自身のためだ。同時にまたお前の子供たちのためだ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。

(「闇中問答」)

 

 最後の最後まで、理知=意識という武器、自意識という武器を手放すことができなかったこの作家の痛ましさが、ひしひしと伝わってくる。

 特に、「僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がっている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠っている。」という言葉に注目したい。

 死の直前の芥川が、意識の統御などをはるかに凌駕する、不可知で広大無辺な〈無意識〉の領域に対して、きちんとした〈畏怖〉の心を取り戻していたことは、疑い得ない。

 人間存在をつかさどる力の源泉、すなわち魂の中心が、意識や意識を生み出す脳などに在るのではなく、本当は、個に宿りながら個の身体を超えて拡がる〈無意識〉の、生命的な〈闇〉のダイナミズムの内に在ること。

 人が生気を取り戻し、自己欺瞞なしに未知なる人生に真に真向かえるためには、〈生活〉という営みを通して、その無意識の〈闇〉の次元に、無心に素直に〈身体〉をひらいてゆくしか道はあり得ないこと。そのことで、生存感覚の脱皮と自我の再構築へと導かれること。

 そういった、〈非知〉の領域への身体的な真向かい方、心身一如的な認識のかけがえのなさというものに、並外れた生き難さを抱えた、この繊細で明敏な知性をもつ作家は、死の間際に、どこかで気付いていたのかもしれなかった。

「群小作家の一人になりたい」という芥川の悲鳴の裏には、理知による生の統御などから解放された、ただの〈生活者〉として、人生という〈自然〉に身を任せたいという痛切な希いが透けて視える。

 だが、近代知識人的な彼の意識を覆っていた〈観念〉のフィルターは、統御不能な不可知なる闇に対する〈恐怖〉によって、彼の身体をこわばらせ、萎縮させてしまっていた。

 その既成観念のいましめから己れ自身を解き放ってやるだけの気力、獰猛な野性は、すでに、晩年の芥川には失われていたのである。

 彼の〈自意識〉はあまりにも細分化し、過敏にふるえる神経繊維の束のようなものと化し、芸術という名の偏執的な観念の〈砦〉は、彼の心身を拘束し、呑み込み、やつれさせてしまっていた。

 

     15

 

 私には、芥川龍之介の悲劇は、彼とほぼ同時代を生きたフランツ・カフカのたどった地獄と重なって視える。

 カフカの晩年期の短篇小説「断食芸人」は、不自然きわまる断食のために痩せ衰え、檻(おり)の中で無理解な観衆の「見世物」になりながらも、己れの唯一の特技である〈断食芸〉への孤独なプライドと妄執のために、敢えて不条理な枯死への道を択び取る、ひとりの意固地な芸人の姿を、乾いた酷薄な筆触で容赦なく描破してみせた鬼気迫る作品である。

 その物語的なメタファーのシンプルな力強さは、優に、彼の最高傑作「変身」に匹敵するといっていい。

 断食芸人は、死の間際に、サーカス一座の監督に向かって、自分がなぜ〈断食芸〉という自己破壊的な不幸な技に固執せざるをえなかったのかという、芸への〈衝迫〉の出所を告白する。

 彼はただ、「自分に合った食べものを見つけることができなかった」だけであって、「もし見つけていれば、こんな見世物をすることもなく、みなさん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」と言い残すのである。(「断食芸人」池内紀訳)

 私には、この断食芸人の言葉は、ひとつのメタファーとして受け取るなら、そのままフランツ・カフカや芥川龍之介の生きざまに当てはまるようにおもわれる。

 断食芸人が葬られた後、彼の居たサーカスの檻には、代わりに一匹の精悍な豹(ひょう)が入れられる。「喉もとから火のような熱気とともに生きる喜びが吐き出されて」いる獰猛な「豹」の姿と対比されることで、断食芸人の強いられた痛ましさの本質が鮮明に浮き彫りにされる。

 もちろん、カフカの小説群は、あまりにも酷薄に乾きすぎていて、芥川の初期から中期にかけての抒情的な潤いのある作風とは全く違う。

 しかし、老醜と崩壊した家族の隠微で冷やかな実相を淡々と描いた、芥川晩年期の最高傑作「玄鶴山房」(昭和二年作)における酷薄なリアリズムはきわめてカフカ的であり、彼らが同質の不毛さの病理を強いられ、同質の地獄にたどり着いたことを、私たちに教えてくれている。

 芥川とカフカの悲劇は、芸術と実生活の〈矛盾〉、精神と身体の〈分裂〉の招いた悲劇であり、神経と観念が身体感覚を痩せ衰えさせ、磨滅させていくことの恐ろしさをまざまざと印象づけるものである。

 もし文学(芸術)という営みが、己れ自身や他者や世界への〈異和〉の感覚を繊細に凝視し、〈表現〉として吐き出すことで、人生の地獄図を紡ぎ出すことに終始するしかないものならば、文学(芸術)とは、必竟、サド・マゾ的な痙攣的刺激による快楽と逃避の産物となるか、さもなくば、生命を蝕み、磨滅させていくだけの緩慢な自殺行為となるか、そのいずれかにしかならないであろう。

〈生き難さ〉の本質をみつめることが、己れの生きる天地をより一層狭め、生存感覚を希薄にし、生き難さをつのらせるだけの悪循環をしか生まないとしたら、何のための芸術であろうか。

 芥川龍之介の表現の軌跡、その豊饒さと不毛さは、こういった表現と実生活をめぐる素朴で原初的な問いかけを、改めて私たちに突きつけずにはおかないのである。(了)

 

*本論考における芥川作品の引用は、以下の全集本による。

 「大川の水」「遺書」(岩波書店版『芥川龍之介全集』)

 「青年と死」「老年」「妖婆」「素戔嗚尊」「大導寺信輔の半生」「侏儒の言葉」

 「誘惑」「歯車」「闇中問答」(ちくま文庫版『芥川龍之介全集』)

 ただし、ちくま文庫版からの引用におけるルビは、適宜筆者が増減した。

 

 

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芥川龍之介と闇(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2017.06.25 Sunday
  • 13:15

 

     13

 

 先に引用した「歯車」の場面の中に、語り手の「僕」がたまたま『罪と罰』の「綴(と)じ違え」のページを開き、しかもそれが、イヴァン・カラマーゾフと彼の分身の「悪魔」が対決するシーンであったという、とても「偶然事」とは思えぬ出来事が出てくる。

 これは、かつてドストエフスキー論(『脱〈虚体〉論――現在に蘇るドストエフスキー』(一九九六))を執筆したことのある私にとって、「歯車」の中でも、ことのほか印象深い箇所の一つである。遺稿となった「歯車」の切迫した文体からいって、この出来事が作り話であるとは到底思えない。まぎれもなく、作者芥川自身の〈実体験〉とみていい。

『カラマーゾフの兄弟』のこのシーンに登場する「悪魔」は、「神の存在を信じたい」と渇望しながら、どうしても信じ切れない無神論者イヴァン・カラマーゾフのひき裂かれた〈無意識〉の象徴である。

 この悪魔は、イヴァンの魂を〈信〉と〈不信〉の葛藤のはざまに投げ込み、いわば「宙吊り」の状態にすることで、信と不信、善と悪、美と醜の間を振り子のように揺れ動くように囲い込んでしまう。イヴァンは、どっちつかずの、永遠に決着のつかない、キリで揉まれるような懐疑・不安の神経症的な苦しみの中で、もがき続けるしかない。

 彼にとって生きる〈手応え〉は、そのひき裂かれた魂の〈痛覚〉の中にしかないのだ。

 それはそのまま、作者芥川龍之介の神経症的な〈分裂〉の苦しみと重なって視える。

〈分裂〉を超える道は、身体感覚の〈変容〉を手がかりとして開示される類的な〈無意識〉の次元との、たしかな〈接触〉の実感による、生存感覚の変容とそれに立脚した新たな〈自我〉の再構築に求められるべきであったろう。

 しかし、理知的・観念的な〈意識〉の行使によって、全てを仕切ろうとする晩年期芥川の身構えの意固地さは、その余地・契機を与えなかった。

〈実生活〉をひたすら醜悪なカオスとみなして怖れる彼は、意識によって統御される〈観念〉の砦によって「第二の現実」を造り上げることで、あるがままのカオスとしての現実に対峙し、そこから身をかわそうとした。しかし、彼の存在を包摂し、つかさどる無意識の〈闇〉の次元は、実存的な〈不安〉を励起させ、その不安への防衛反応は、パラノイア的な関係妄想や幻覚・錯覚という非合理的な表現形式をとって、彼の意識の〈空隙〉を衝き、この作家を神経症的な〈恐怖〉へと追い込んでいったのだった。理知的な〈意識〉による統御の意志が強ければ強いほど、その破綻による〈恐怖〉もまた強まる。

 

 しかしそれにしても、「歯車」のこの場面は不可解な印象を与える。

 この『罪と罰』の本は、主人公の「僕」(芥川)が、かつて牛乳店を営んでいた芥川の実家・新原家の店員で、今では聖書会社の小使いをしている老人「室賀文武」を訪ねた折に、貸してもらったものである。

「歯車」の中で作者は、この老人が、自分の実母の「発狂」の秘密を知っていると思われる人物だと語っている。龍之介の生みの母は、彼の生後九ヵ月頃に発狂し、十一歳の時に亡くなっている。

 主人公の「僕」は、「屋根裏の隠者」であるこの老人に尊敬の念を覚え、意味深い会話を交わしている。

 

「いかがですか、この頃は?」

「不相変(あいかわらず)神経ばかり苛々(いらいら)してね。」

「それは薬でも駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」

「もし僕でもなれるものなら………」

「何もむずかしいことはないのです。ただ神を信じ、神の子の基督(キリスト)を信じ、基督の行った奇蹟を信じさえすれば………」

「悪魔を信じることは出来ますがね。……」

「ではなぜ神を信じないのです? もし影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」

「しかし光のない暗(やみ)もあるでしょう。」

「光のない暗とは?」

 僕は黙るよりほかはなかった。彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。が、暗のある以上は光もあると信じていた。僕等の論理の異るのはただこう云う一点だけだった。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違いなかった。……

「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云うものは今でも度たび起っているのですよ。」

「それは悪魔の行う奇蹟は。……」

「どうしてまた悪魔などと云うのです?」

 僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れない訣(わけ)にも行かなかった。

「あすこにあるのは?」

 この逞(たくま)しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神らしい表情を示した。

「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」

 僕は勿論十年前にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。が、偶然(?)彼の言った『罪と罰』と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。(「歯車」五 赤光)

 

「綴じ違え」のページのある『罪と罰』の本は、老人から半ば勧められながら借り出したものであった。芥川が無神論者であることを室賀老人は知っていた。しかもその事に深い苦悩を覚えていることも。

 だとすれば、あらかじめページをイヴァン・カラマーゾフと悪魔の白熱した対話のシーンと入れ換えておいた本を周到に用意しておき、それを芥川に手渡すことで、彼をさりげなく宗教的に「啓蒙」しようともくろんだのかもしれない。

 しかし、そのような啓蒙的な下心を想定してみても、なお、「歯車」のこの「綴じ違え」のページとの遭遇の場面の〈不可解さ〉の印象は、完全には拭えない。

「僕はこの製本屋の綴じ違えに、―――そのまた綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んで行った。けれども一頁も読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。」というくだりには、やはり戦慄を覚えざるをえないのだ。

 芥川の〈無意識〉が、室賀老人の〈無意識〉を「招き寄せてしまった」という霊妙不可思議さの感覚は、どうしても残ってしまうのである。

 人の縁(えにし)とは、そういうものではなかろうか?

 私たちの〈無意識〉は、〈個〉の輪郭を超えて、他のさまざまな存在や他者の〈無意識〉と「類的」につながり、相互に交錯し、すれ違い、共振し、あるいは反発し合っている。

 私たちの心身に宿った陰陽の〈気〉は、絶えず、他の存在に宿った〈気〉の流れとダイナミックに交流しつつ、霊妙な出逢いとえにしを紡ぎ出しているのである。

 私たちの〈無意識〉が種々の感情や欲望によって駆り立てられ、変動する中で、私たちの魂のかたちに呼応するように、良きにつれ悪しきにつれ、さまざまな人や出来事とのえにしが招き寄せられるのだ。

「類は友を呼ぶ」とか、「朱に交われば赤くなる」といったことわざも、その文脈の中で活きてくる。

 感情や欲望・我執によって魂に〈濁り〉が生じる時、あるいは、悲しみや不安・恐怖によって〈気〉の力が衰弱した時、人は、濁った魂の者をひきつけ、あるいは、邪気の強い者に隷属させられてしまうという危険にさらされる。

 魂の濁りを洗い清め、〈気〉の力をはればれとした力強いものに変容させ、とぎすましてゆくことは、本当に大変な力わざである。

 だが、そのひそやかな修練なくして、悪しき関係を断ち切り、良きえにしを招き寄せることもまた、困難なのではなかろうか。

 室賀老人は、「歯車」での描写をみる限りでは、決して「濁った」魂の持主とは思えない。

 人間性の醜悪さと存在の不条理性という強迫観念に苛まれ、神を信じることができずに地獄をさまようイヴァン・カラマーゾフが、毅然とした、孤独で澄んだ信仰の持主である弟のアリョーシャとの〈接触〉に、密かに救いを求めていたように、〈信〉に飢え渇きながら、〈不信〉の泥沼でもがき苦しむ芥川の〈無意識〉もまた、純粋な信仰をもった隠者である室賀老人との〈接触〉を希求していた。

 だが、アリョーシャとの接触が、傲岸なニヒリストの主知主義者であるイヴァンの秘められた〈無意識〉の分裂・矛盾を暴き出すことで、かえって、彼の神経症的な妄念を悪化させたように、芥川にとって、室賀老とのえにしは、目に視えぬ悪魔へのパラノイア的な妄想を悪化させるだけであった。

 良きえにしであるべきものが、かえって、ふたりにとっては、狂気の階梯を推し進めるだけの、食い合わせの悪い、不幸な出逢いになってしまっている。

「歯車」の中には、「偶然」というにはあまりにも不可思議だと思わざるをえない、風景や人との遭遇が幾つかみとめられる。

 目に視えぬ何物かの霊的な〈悪意〉におびえる芥川の衰弱した〈気〉が、いや応もなく、運命の不吉さを暗示する〈風景〉を招き寄せてしまっているという印象は拭えない。

 前近代的な土俗に息づいていた〈気〉の感受性を、無意識の深部にゆたかに抱え込んでいたこの作家が、理知的・観念的な身構えによって、己れの神秘な生存感覚を強引に圧殺せんとした時、彼の無意識の〈闇〉は、〈不吉さ〉の連鎖的な暗示のシステムという、歪んだアニミズム的表現形式をとって、意識の表層に浮上してきたようにおもわれる。

 関係妄想も、それに伴う幻覚・錯覚も、不幸なえにしによる出逢いも、そのような〈無意識〉の次元における不可視の揺らぎ・ダイナミズムによって招き寄せられたものではないか、といった印象を抱かされてしまうのは、私だけであろうか?

 芥川の行き着いた狂気の苦しみは、人生の地獄をみつめ続けることで、芸術家としての存在証明をしようとしたこの作家の意識的手法、生きざまの無理がもたらした破綻・悲劇でもあった。(この稿続く)

 

 

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芥川龍之介と闇(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2017.05.25 Thursday
  • 12:53

 

     9

 

 己れの人生を嘲弄し、破滅と死に向かって刻一刻と自身を追いつめてゆく、目に視えぬ悪魔的な力の存在を、象徴的・暗示的に感受する「歯車」の作者の体験には、幼児期から少年期にかけて彼の魂の〈下地〉を培ってきた、江戸後期以来の下町共同体的な〈闇〉の感覚の残滓が、正常な〈表現〉を封じられたがために、歪められた形で痛ましく露呈しているとみることもできる。

 それは、土俗的でアニミズム的な、野性味のある生命感覚に対する、近代合理主義的なまなざしによる〈抑圧〉によってもたらされた、一種の強迫神経症的な〈幼児退行〉の表われであり、〈関係妄想〉という形をとった、〈闇〉のエロスの歪んだ代償表現とみなすことができる。

 しかし、「歯車」の中には、例えば、自分にはまったく覚えがないのに、知人たちが「第二の僕」を、「帝劇の廊下」や「銀座の煙草屋」で見かけたという「ドッペルゲンゲル」(分身)の体験とか、朝目覚めてベッドをおりようとすると、いつも不思議にも「スリッパ」が片っぽしかないという体験に恐怖を覚えるといった、作者の白昼夢状態での〈記憶の欠落〉を示すとしか思えない現象や、明らかに「錯覚」あるいは「幻覚」「妄想」と思われるような体験の叙述もみられるが、そうではなく、「偶然事」とはとても思えぬような摩訶不思議な体験もたしかにみとめられるのである。

 遺稿「歯車」は、死が目前に迫った芥川が、己れの狂気の症状をあるがままに正直に吐露した、唯一の私小説である。その切迫した、真剣味溢れる筆づかいからみて、そこで述べられた体験が、芥川自身にとっての〈真実〉であったことは、疑い得ない。柳田国男が聞き書きした『遠野物語』に出てくる、摩訶不思議な体験談の数々が、遠野の村人にとっての、紛れもない〈真実〉であったように、である。

 たとえ、その体験の内に、「錯覚」や「幻覚」「妄想」としてしか解釈できないような出来事が含まれていたとしても、なお、そのような合理主義的解釈なるものに「還元」することが決して許されないような、摩訶不思議な〈質感〉が、そこには息づいている。

 芥川の「歯車」にも、柳田の『遠野物語』にも、それだけのたしかな文学としてのリアリティ、手応えというものがあるのだ。芥川の場合には、死を目前にした実存的な切迫感が、柳田の場合には、無告の民である遠野の村人の秘められた心の闇に対する畏怖感が、その言葉に、いや応のない〈真実味〉を与えている。その力は、私たちの襟を正させ、書かれた〈真実〉を〈真実〉としてあるがままに受け取るべきだという、無私の「謙虚さ」を呼び起こす。

 吉本隆明の芥川論には、残念ながら、そういった「謙虚さ」が無い。「歯車」における作者の体験を、ありふれた関係妄想や幻覚・錯覚のたぐいとみなして、事足れりとしている。私は、強い異和感を覚えずにはいられない。

 この感覚は、私にとっては、吉本の主著の一つである『共同幻想論』における、『遠野物語』への解釈の手つきに対する異和感と重なっている。

『共同幻想論』は、周知のように、自己幻想(個人の心的領域)・対(つい)幻想(男女や同性のペアにおける心的領域)・共同幻想(三人以上の共同体・集団を支配する心的領域)という、互いに緊張・疎外関係にある三つの幻想的次元を基軸に据えて、個人や対、あるいは家族の次元から、それを包摂する種々の共同体、さらには国家へと遠心的に「疎外」されながら、形づくられてゆく共同幻想の呪縛のメカニズムを読み解き、権力の成立過程を追跡せんとした野心作である。

 吉本は、共同幻想論を、彼の哲学体系の総称ともいうべき「心的現象論」の一環として位置づけているようにおもえる。吉本理論は、ヘーゲル・マルクス・フロイトの理論に共通する〈疎外〉というキイ・コンセプトをベースに据えて、あらゆる心的現象を「客観的に」説明可能なものとして包摂せんと志す、壮大な体系であり、そこでは一切の神秘現象、存在の本質的な〈不可知性〉、人間の小ざかしい知を凌駕する主・客融合的で霊妙不可思議な意味や価値の次元は、あらかじめ黙殺されてしまっている。

『共同幻想論』においては、『遠野物語』の民譚の世界は、共同幻想・対幻想・自己幻想の間の〈疎外〉関係のダイナミズムという抽象的・理論的な視座によって、一面的に限定され解釈されることによって、その魅力の神髄ともいうべき、土俗の霊妙な〈闇〉に対する強烈な〈畏怖感〉は、完全に黙殺され、合理主義的に〈解毒〉されてしまっているといっていい。

 共同幻想をめぐる心的メカニズムを考察するための素材として『遠野物語』を取り上げることが、間違っていると言いたいのではない。ただ、そのような合理主義的・客観主義的な解釈なるものに、『遠野物語』のコスモスを一元的に「回収」されては、たまったものではない、と言いたいだけだ。

 この吉本の知的な〈解毒〉の手つきは、あらゆる神秘体験や宗教的な感情を、克服されていない〈幼児的心性〉の表われと断じ、己れの精神分析学のコンセプトによる解釈の内に回収せんとしたフロイトの姿勢と似ている。

 両者共に、〈知〉を過信し、あらゆる心的現象を〈記号化〉することで、ニュートラルな合理主義的解釈の内に存在の〈闇〉を回収し、〈解毒〉せんとする執念に憑かれているように、私には感じられる。

 裏を返せば、彼らは、それほどにも、存在の〈闇〉という、不可知なるカオスが怖かったのかもしれない。だから、必死になって、世界を、己れの理論体系という、ちっぽけな「知の袋」に封じ込めることで、観念的な自我を強化し、不動心を得ようとしたのかもしれない。

 芥川龍之介もまた、彼の小説空間という「知の袋」の中に、人生の地獄図と世界の不条理を封じ込め、理知によって「統御」せんとした。「歯車」には、そのほころびが痛ましく露呈しているのだ。

 その「ほころび」の意味をきちんと読み解くことは、吉本理論にも、フロイト理論にも、決してできはしない。

 彼らの尊大な主知主義的姿勢では、芥川が直面した、とても「偶然事」とは思えないような、摩訶不思議な体験のもつ意味は視えてこない。

 例えば、「歯車」の冒頭にある、「レエン・コオト」を着た幽霊の話に端を発し、真冬だというのに季節はずれの「レエン・コオト」を着た男に繰り返し遭遇した直後に、「姉の夫」が鉄道自殺したという電話を受け、しかも彼もまた、「季節に縁のないレエン・コオト」をひっかけていたという、不気味な事実の連鎖。また、「僕」が「東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見た」という体験。

 これらの出来事は、偶然といえば偶然のようにもみえる。だが、芥川(語り手の「僕」)は、これらの体験を実に注意深く観察し、記録し、その中に、神秘な〈意味〉を読み取っている。

 先に引用した「歯車」の文章における、「『罪と罰』の綴(と)じ違えのページ」の場面や「往来でのすれ違い」の体験の描写なども、同様である。

 たとえそれが、悪意ある不可視な何物かに対する関係妄想と絡み合っていたとしても、その不吉さの連鎖が示す不可思議さの感覚は拭えない。

 私たちは、「歯車」における芥川の体験をまず、そのような彼にとっての〈真実〉として、あるがままに受け取ってやるべきなのだ。

 すると、そこに、私たちは、合理的な〈必然〉とそこからこぼれ落ちた〈偶然〉という、事象への主知主義的解釈(近代主義的解釈)の先入観とは全く異なる、新たな〈存在へのまなざし〉に出逢っている自分を発見することになる。

「歯車」における体験の描写は、一面では、たしかに病的で痛ましいものではあるが、遭遇した出来事の連鎖に、(たとえ不吉なものではあっても)意味深い暗示を感じ取らずにはいられないという作者の感受性のあり方それ自体は、本来的には、決して病的なものではない。(同様に、「凶」や「鵠沼(くげぬま)雑記」のような未発表の日録風の覚書[共に大正十五年記。『芥川龍之介全集』第二十二巻 岩波書店 1997年 所収]に記されている不吉な出来事の連鎖も、単なる病的現象として片づけるべきものではない。)

 実際、そういう不思議な象徴的・暗示的な出来事というものは、この世にいくらでもあり、また、それに気づくだけの注意力と、とらわれのない素直な感受性があれば、誰にでも、大なり小なり体験の覚えがあるはずである。

 前近代の民衆は、誰しもがそういう霊妙不可思議さに対する〈畏怖〉の感覚を備えており、それは、主・客の融合した〈生身〉の感覚を通じて、森羅万象に生の〈意味〉と〈価値〉と〈象徴〉とをつねにみずみずしく感受していた、前近代的な土俗のコスモスを生きた人々の伝統に根ざしたものであった。

 芥川龍之介は、幼少期の中で、そのような土俗のコスミックな香りに包まれた育ち方をしていたとおもわれる。「大川の水」や「老年」にも、その育ち方によって培われた魂の〈下地〉は看取されるのである。

 例えば、芥川中期の小説「妖婆」(大正八年作)の冒頭には、次のような叙述が見受けられる。

 

「あなたは私の申し上げる事を御信じにならないかも知れません。いや、きっと嘘だと御思いなさるでしょう。昔なら知らず、これから私の申し上げる事は、大正の昭代にあった事なのです。しかも御同様住み慣れている、この東京にあった事なのです。外へ出れば電車や自働車が走っている。内へはいればしっきりなく電話のベルが鳴っている。新聞を見れば同盟罷工(ひこう)や婦人運動の報道が出ている。――――そう云う今日、この大都会の一遇でポオやホフマンの小説にでもありそうな、気味の悪い事件が起ったと云う事は、いくら私が事実と申した所で、御信じになれないのは御尤(ごもっと)もです。が、その東京の町々の燈火が、幾百万あるにしても、日没と共に蔽いかかる夜をことごとく焼き払って、昼に返す訣(わけ)には行きますまい。ちょうどそれと同じように、無線電信や飛行機がいかに自然を征服したと云っても、その自然の奥に潜んでいる神秘な世界の地図までも、引く事が出来たと云う次第ではありません。それならどうして、この文明の日光に照らされた東京にも、平常は夢の中にのみ跳梁(ちょうりょう)する精霊たちの秘密な力が、時と場合とでアウエルバッハの窖(あなぐら)のような不思議を現じないと云えましょう。時と場合どころではありません。私に云わせれば、あなたの御注意次第で、驚くべき超自然的な現象は、まるで夜咲く花のように、始終我々の周囲にも出没去来しているのです。」

「たとえば冬の夜更などに、銀座通りを御歩きになって見ると、必ずアスファルトの上に落ちている紙屑が、数にしておよそ二十ばかり、一つ所に集まって、くるくる風に渦を巻いているのが、御眼に止まる事でしょう。(中略)もう少し注意して御覧になると、どの紙屑の渦の中にも、きっと赤い紙屑が一つある――――活動写真の広告だとか、千代紙の切れ端だとか、乃至(ないし)はまた燐寸(まっち)の商標だとか、物はいろいろ変(かわっ)ていても、赤い色が見えるのは、いつでも変りがありません。それがまるでほかの紙屑を率(ひきい)るように、一しきり風が動いたと思うと、まっさきにひらりと舞上ります。と、かすかな砂煙の中から囁(ささや)くような声が起って、そこここに白く散らかっていた紙屑が、たちまちアスファルトの空へ消えてしまう。消えてしまうのじゃありません。一度にさっと輪を描いて、流れるように飛ぶのです。風が落ちる時もその通り、今まで私が見た所では、赤い紙が先へ止まりました。こうなるといかにあなたでも、御不審が起らずにはいられますまい。私は勿論不審です。現に二三度は往来へ立ち止まって、近くの飾窓(ショウウインドウ)から、大幅の光がさす中に、しっきりなく飛びまわる紙屑を、じっと透かして見た事もありました。実際その時はそうして見たら、ふだんは人間の眼に見えない物も、夕暗にまぎれる蝙蝠(こうもり)ほどは、朧げにしろ、彷彿(ほうふつ)と見えそうな気がしたからです。」(「妖婆」)

 

 ここには、芥川の土俗的・アミニズム的な感受性の片鱗が繊細に息づいている。

 万象に霊妙不可思議さを覚える、こういう感覚は、もちろん、一歩まちがえると、〈迷信〉や悪しき〈暗示〉や恐ろしい〈関係妄想〉の地獄へと転落する危うさをはらむものでもある。だが同時に、その〈闇〉としての不可知性、主・客が一体となった生命的なダイナミズムの感覚は、私たちの身体の深奥に眠る野性を目覚めさせ、活力をひき出す源泉ともなりうるのである。

 

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 この「妖婆」という物語は、芥川自身をモデルとする作者の「私」が、知り合いの「出版書肆(しょし)の若主人」である「新蔵」という青年の体験談を聞き書きするという体裁で創られているが、現代(大正期)の大都会・東京の下町に、まるで江戸時代さながらの呪術師の妖婆を登場させるという、一種のホラー的なオカルト小説となっている。

 本所に住むこの妖婆は、「お島婆さん」といって、「婆娑羅(ばさら)の大神」という得体の知れない土俗神を信仰し、その霊験によって占いと加持祈祷(かじきとう)を行い、依頼人の願いに応えるという評判の呪術師である。

 お島婆さんは、遠縁にあたるみなし子の「お敏」という娘を閉じ込めて、彼女を「神下ろし」による婆娑羅の大神のお告げをひき出すための憑き代(つきしろ)=巫女として利用している。

 お敏には恋人がいて、それが、かつて女中として奉公していた家の若旦那である新蔵なのである。新蔵は、突然行方不明となった恋人のお敏を探し出し、お島婆さんの魔手から救い出そうとするが、ふたりの心の動きを事前に察知する妖婆の霊視能力によって妨げられ、お敏は、新蔵との仲が呪われたものだという不吉な〈暗示〉をかけられて、ほとんど金縛りの状態に陥ってしまい、新蔵に逢うこともままならない。

 実は、お島婆さんは、大金を積んだ客の相場師「鍵惣」の依頼によって、お敏を鍵惣の妾にさせようともくろんでおり、そのために新蔵との仲を引き裂こうとしていたのだ。

 必死になってお敏を救わんとする新蔵の想いと、「神下ろし」に利用されながらも、恋人に逢いたさのあまり、夢遊状態のうちにお島婆さんの〈暗示〉の呪縛を断ち切り、言いなりにならなかったお敏の愛の力によって、ついに妖婆の〈邪気〉は払いのけられ、霊気の激突によって起こった豪雨の中、鍵惣と密談をしていたお島婆さんは雷に打たれ、新蔵は気を失ってしまう。熱にうなされて昏睡状態に陥った新蔵が、数日後にようやく目覚めると、彼の枕元には、お敏が居て、ふたりの愛の成就を祝福するかのように、雨の日に咲いた一輪の瑠璃色の「朝顔」の花が、不思議にも枯れることなく咲いていた。

 ほほえましい、ファンタジーのような作品であるけれども、ここには、芥川龍之介の、目に視えぬ霊気に対する感覚、森羅万象へのアニミズム的な感覚が、とても素直に、幸せな形で表われているといっていい。

 芥川の霊気への感受性は、東洋思想の伝統に由来するものである。

 中国哲学の「易(えき)」の宇宙観では、人間の心身も森羅万象も、陰陽二気の離合集散によって説明される。陰陽の気は、「太極(たいきょく)」という宇宙的な〈虚〉の源泉から生み出されるが、太極はまた、陰陽二気に内在しつつ、万有の生生流転を超越的につかさどる宇宙生命の化身でもある。人間の心身に宿った固有の霊気の流れは、つねに個の殻を超えて他者や存在に拡がり、その霊気と交わり合い、不可視の葛藤と吸引のドラマを紡ぎ出すのである。

 私が先に言及した言葉で言うなら、〈個〉を包摂する〈類〉的な無意識としてのコスミックな〈闇〉の次元ということになる。

 中国では、この太極・陰陽の思想は、易から老荘の哲学、朱子学、さらには陽明学へと継受されてゆき、日本でも、古代から近世に至る神道の諸流派や密教・陰陽道・修験道への影響は元より、日蓮宗や近世の朱子学・陽明学、道教的な習俗の影響を受けた民間土俗信仰など、広範囲にわたって、深い痕跡を残している。

 芥川の育った、江戸後期文明の流れを汲む土俗的な下町共同体社会には、このような前近代的・東洋的な〈気〉の思想に根ざしたアニミズム的な生存感覚の伝統が、衰弱しながらも脈々と息づいていたのである。

 このような類的な拡がりをもつ、主・客融合的でコスミックな〈闇〉の感覚は、改めて繰り返すまでもなく、主・客の分離を前提とした上で、客体としての現象を、ニュートラル(没価値的)な自然法則に基づく因果律による〈必然〉の顕われとして解釈し、そこからこぼれ落ちた出来事を、(確率という概念と結びついた)単なる〈偶然〉に解消せんとする、西洋近代科学的な機械論的世界観とは、完全に対極にあるまなざしだといっていい。近代科学のまなざしが切り捨ててかえりみない、人と人、人と出来事との縁(えにし)をはじめとする、偶然とは思えない、この世の事象の霊妙不可思議さというものに対して、前近代的・東洋的な〈気〉の思想は、きちんと応えてくれるだけの生命的なゆたかさと畏怖の感覚を蔵しているのである。

 もちろん、先にも断ったように、このようなアニミズム的な、存在の〈闇〉への感受性は、迷信や関係妄想の地獄と紙一重の危うさをはらんでいる。

 しかし同時に、不条理に抗し、人をして苛酷な現世を生き抜かしめる力を生み出す源泉ともなりうるのだ。

 人は、不安や悲しみ、恐怖、嫉妬・愛憎の苦しみ、欲望や我執などによって醸成された己れの魂の汚れ・濁りを洗い浄め、〈気〉の力を澄んだ生気ある形に鍛え上げることで、身を守り、良きえにしを招き寄せることができる倫理的な存在であるという認識は、神道や儒教・道教・密教・日蓮宗など、さまざまな東洋思想の中に、根強く生き続けてきた。

 芥川中期の小説「妖婆」には、そのような〈気〉の感覚の〈残滓〉が、ファンタジックな形で息づいている。新蔵とお敏の、互いを求め合う愛の純粋さと、悪しき暗示による恐怖・ためらいを乗り越えんとする無私のひたむきさが紡ぎ出す生気の強さが、妖婆の邪気に打ち勝つのである。

 その〈奇跡〉の成就を象徴するように、「枯れない朝顔」が一輪咲き残っている。

 同じ「大正八年」に書かれた「魔術」というファンタジーの小品と並んで、作者芥川龍之介の祈り、少年のようなういういしい憧憬が、そこはかとなく立ち昇っている幸福な作品である。

 

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 しかし、資本制が拡大・膨張をとげ、大衆の前近代的な土俗共同体社会が解体し、アトム的な〈個〉としての生存感覚が強まった「大正期」において、主・客融合的なアニミズム的感覚、東洋的な〈気〉の感覚を、現代小説の世界でリアルに立ち上がらせることは、至難のわざであった。

 そのような冒険を試みても、せいぜい、荒唐無稽なファンタジーやオカルト小説とみなされるか、さもなくば、精神病理の世界を喩的に描いた怪奇物として、深層心理学的な解読の対象になるのが、関の山である。

 事実、「妖婆」という作品は、今日まで、そのような文脈で扱われてきたと思われる。

 芥川龍之介が、幼少期において己れの魂の〈下地〉を培ってきた土俗的な〈闇〉の感覚の記憶を、〈無意識〉の深みから立ち上がらせ、小説という言語空間の中で存分に自在に解放してやるためには、歴史物の舞台、とりわけ古代的・神話的な時空意識が必要だった。

 芥川最後のファンタジーの力作といってよい「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「老いたる素戔嗚尊」(大正九年作)は、まさしく、そのような舞台装置の下で展開された、素戔嗚(すさのお)という『古事記』に登場する異形(いぎょう)の荒ぶる神、野性味溢れる〈闇〉の化身・英雄の物語である。

 もちろん、そこで表現された〈喩〉としてのリアリティは、大正期という、散文的で殺伐とした〈現代〉の世相を生きる芥川にとっては、あくまでもヴァーチャルな〈憧憬〉の対象であり、一種のロマン主義的な〈超越〉への志向の産物であったろう。

 彼の〈身体〉の中に、今もなお息づき、表現を求めて疼(うず)いているアニミズム的・土俗的な闇の感覚の〈残滓〉と〈記憶〉の延長上に「接木的」に構築された、壮大な〈虚構〉のコスモスといってよかった。

 嫉妬深い小人(しょうじん)どもの〈秩序〉に適合できず、つまらぬ争いに端を発した激情のほとばしりによって、己れの内に秘められていた狂暴な野性を解き放ってしまった素戔嗚が、高天原(たかまがはら)の国を追放されてさまよい、えにしをとり結んだ、得体の知れない「十六人の女たち」と共に、洞穴の中で、放縦な淫蕩の暮らしを送ったあげく、誤って大気都姫(おおけつひめ)を刺し殺し、逃走する。

 明け方に大きな湖の岸に辿り着いた素戔嗚は、やがて雷雲の接近に見舞われ、茫然自失したまま豪雨に打たれる。

 

「素戔嗚はずぶ濡れになりながら、未(いまだ)に汀(なぎさ)の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛(かいもう)の底へ沈んでいた。そこには穢(けが)れ果てた自己に対する、憤懣(ふんまん)よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を恣(ほしいまま)に洩(も)らす力さえ、――――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ涸れ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然(もくねん)と坐っているよりほかはなかった。/天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫になった。山が、雲が、湖が皆半空に浮んで見えた。同時に地軸も砕けたような、落雷の音が耳を裂いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏(うつぶ)せになった彼の上へ未練未釈なく降り濺(そそ)いだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を埋(うず)めたまま、身動きをする気色(けしき)も見えなかった。……/何時間か過ぎた後、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより鮮かな黄ばんだ緑に仄(ほの)めいていた。」

「彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂寞(せきばく)に溢れていた。「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――――彼はそう思いながら、貪るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿って見ても、容易に彼には思い出せなかった。/その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄が伝わるのを感じた。彼は息を吞みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷(いかずち)のように轟(とどろ)いて来た。/彼は喜びに戦(おのの)いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途(みち)はなかった。/湖は日に輝きながら、潑溂(はつらつ)とその言葉に応じた。彼は――――その汀にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲って来た。」

(「素戔嗚尊」)

 

 素戔嗚の魂の浄化と蘇生を象徴する、雄渾な叙事詩的名場面である。

 少々理知的に過ぎるきらいはあるが、十分におごそかな空気感の漂う、メリハリのきいた、正確で無駄の無い描写となり得ている。

「空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂寞に溢れていた」という言葉に注意したい。私はここに、作者芥川龍之介の〈身体〉に深く沁み込み、今もなお彼の〈無意識〉の奥で、表現を求めて疼いている、コスミックな土俗の〈闇〉の原風景への痛切な〈渇き〉を感じずにはいられない。「大川の水」に息づいていた、「寂寥」と「慰安」とに包まれた、魂の原風景への渇きを。

 この〈闇〉の原風景は、大正九年の芥川龍之介にとっては、もはや、幻燈のようなヴァーチャルな〈追憶〉の対象に成り果てていたようにおもわれる。

 だが、彼の〈身体〉に今も息づく、無意識的な闇の感覚の〈残滓〉は、魂の〈原郷〉への遡行の想いを誘発させずにはおかない。

 素戔嗚のこの〈転生〉の場面を、自然体験を彷彿とさせるリアルで稠密な風景描写と無駄の無い内面描写を通して、象徴的に紡ぎ出すことで、作者は、いまだ死に絶えていない、己れの内なる生命的な〈闇〉の残滓を、可能な限り、みずみずしい生存感覚として立ち上がらせ、それに、〈原郷〉の記憶への思慕・遡行の想いをリンクさせることで、壮大な神話的・アニミズム的な物語空間へと膨れ上がらせてみせようと、懸命に工夫を凝らしているようにおもわれる。

 

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 芥川龍之介は、「素戔嗚尊」において、古代を舞台としながら、『古事記』のコスミックで壮大な神話世界を、敢えて、神性を宿した〈生身〉の人間を主人公とする近代リアリズム小説風の物語へと理知的につくり変えるという、なんとも中途半端で強引な冒険を試みている。

 王朝物などの、芥川の他の歴史物においては、彼のリアリズム文学的姿勢は欠点とはならず、むしろ新鮮な強みとなることが多いのであるが、神話世界となると、そうもいかない。ヘタをすると、荒唐無稽な戯作物に堕してしまいかねない、ある意味で無謀な創作姿勢ともいえる。

 この時期の芥川は、それほどの思い切った試みをしなければならぬほどに、己れの内なる〈闇〉の表現に渇いていた、ということもできよう。

 より正確に言うなら、天地の息づかいを肌身で感じていた、野性味溢れる素朴な古代人の生存感覚に想像的に想いを馳せ、その想像力を、己れの内なる〈闇〉の感覚とリンクさせながら、スケールの大きい、解放感のある物語的時空を立ち上がらせることで、「大正期」という資本制近代を生きる芥川自身の閉塞感と不条理感を打破せんと切望していた、ということだ。

 その冒険の甲斐はあったと思う。

「素戔嗚尊」は、たしかに、あまりにも理知的・人工的につくり込まれたヴァーチャルな物語空間という印象は残るが、この時期における芥川なりの〈闇〉の解放は、精一杯できていると、私にはおもえるからである。

 それだけに、改めていぶかしく思わずにはいられないのだ。

 これほどの美事な生命的描写を紡ぎ出すことのできていた作家が、なにゆえに、晩年期の芥川のような、痩せ細った、神経症的な近代文学者の場所に「縮退」してしまったのか?と。

「素戔嗚尊」「老いたる素戔嗚尊」が書かれた大正九年までは、存在へのコスミックな闇の感覚と倫理的な気高さへの希求は、たしかにこの作家の中で、生き生きと命脈を保っていたようにおもわれる。

 しかし、彼の神経衰弱が悪化し始めた「大正十年」頃からは、メタフィジカルな闇の感覚は急速に消失していく。

 繊細な文体の中にも温存されていた闊達な野性味やのびやかさが失われ、まなざしは、酷薄な地上の散文的・三次元的現実に緊縛され、生存感覚の振幅は狭窄されて、作品世界は息苦しさを増してゆく。

 少年期における心の変容を描いて、大人になることへの強烈な痛みを覚えさせる名作「トロッコ」(大正十一年作)を最後に、芥川の文体の中に残存していた独特の繊細な温かさの感覚、抒情的な潤いといったものも希薄になっていき、小説は、「一塊の土」(大正十二年作)や「玄鶴山房」(昭和二年作)のように、冷やかで乾いた客観的写実の性格を強めていくのである。

 なぜ、このような変容が生じたのであろうか?

 ひとつ考えられるのは、小穴隆一宛の遺書の中で告白されている「秀夫人」との恋愛(密通)関係による傷である。芥川によれば、秀夫人との関係が起こったのは、彼が「二十九歳」の時だという。数え年だとすれば、「大正九年」の出来事である。この年に書かれた「素戔嗚尊」には、高天原を追われた後の素戔嗚の、大気都姫を中心とする女たちとの洞穴内での淫蕩な暮らしぶりが、実に執拗に描かれている。素戔嗚は、愛欲の泥沼に溺れながらも、地獄の苦しみを味わっており、繰り返し懸命に脱出を試みるのだが、そのつど女たちの怪しい色香の誘惑に負けて、洞穴に舞い戻ってしまう。

 やがて女たちは、素戔嗚に代わって、一匹の精悍で不気味な牡(おす)の「黒犬」を可愛がるようになる。ついに女たちの獣姦の対象にまでなった黒犬への嫉妬に駆られた素戔嗚は、犬の代りに誤って大気都姫を刺し殺してしまい、それを機に、ようやく魔窟から脱出することができる。

 これらの一連の淫蕩の日々は、過剰といってもよいほどの粘っこさで描写されており、その後に、すでに引用した素戔嗚の魂の浄化(転生)の場面が登場するわけである。

 この劇的な〈浄化〉のシーンに、〈喩〉としてのリアリティを与えるために、作者は、これだけの粘着的な〈淫蕩〉の物語を紡ぎ出さねばならなかったのだ。

 作品を素直に読む限り、作者芥川が、この時期(大正九年)、ある痛切な愛欲の地獄を抱え込んでおり、その中でもがき苦しみながら懸命に脱出を図っている、という印象は拭えない。古代を舞台とする虚構作品ではあるが、それだけの〈喩〉としての迫真性・リアリティを、私は、この「素戔嗚尊」に感じずにはいられないのである。

 この作品によって気持がふっ切れたのか、芥川は、翌年(大正十年)の中国旅行の後に、秀夫人との関係を一応断ち切ってはいる。小穴隆一宛の遺書には、「秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである」という言葉があり、夫人と別れた後の次第については、「その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかった女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジュアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる」と記されている。(『芥川龍之介全集』第二十三巻 岩波書店 1998年 参照。)

 よほど苦しめられていたとみえる。

 その恋愛の後遺症は、彼の作品にも暗い影を落としている。(例えば、小説「藪の中」(大正十年作)や、遺稿「或る阿呆の一生」の中で「狂人の娘」として暗喩的に語られている女性像のように。)

 秀夫人との恋愛関係から受けた傷は、おそらく、深刻な女性不信とエロス的な呪縛への恐怖、どす黒い自己嫌悪と後悔といった形をとって、大正十年以後の芥川を苦しめたようにおもわれる。秀夫人との関係の後遺症の他にも、毎日新聞社海外視察員として中国に旅行した折の(上海での病も含めた)体験や関東大震災との遭遇も、芥川の人生への挫折感・不条理感を悪化させるものであったかもしれない。

 もちろん、よく知られているように、彼の家族を近親憎悪的に囲い込んでいた親族、特に龍之介を溺愛していた「伯母」や義父母との葛藤、職業作家として成功し続けなければならないという切迫感、文壇における「立ち位置」への自意識なども、生き難さをつのらせる要因であったろう。

 芥川は、生涯にわたって、人生=実生活に対して、救いようのない暗い想念を抱き続けた。

 人生とは、人間という得体の知れない生き物が、悪因縁のしがらみの中でもがき苦しみ、互いに傷つけ合い、胸の底に癒し難い孤独を抱えながら頼りなく浮遊している、悪夢の連鎖のようなものだという、つらいイメージをふっ切れなかった。

 彼は、関係の障害のるつぼであり、不条理性の別名である、実生活という〈カオス〉を、ひたすら忌避し、怖れたのだ。

 実生活の荒波にいや応もなくさらされ、それに対して、果敢に、即自的に身を投げ入れることのできる、大衆のタフな生きざまに、彼は内心、去勢されるような蒼ざめた恐怖を覚えていたに違いない。

 だからこそ芥川は、己れの理知的・観念的な〈意識〉によって了解し、統御しうる、小説空間という多彩な「人生の地獄図」を紡ぎ出すことで、実生活という〈闇〉のカオスに対峙せんとしたのだ。

 前期から中期にかけての芥川小説の中心が「歴史物」に置かれていたのも、現代人の実生活に垣間見える醜悪な生臭さに対して、彼の繊細で傷つきやすい精神が息苦しさを覚えていたからではあるまいか。

「現代物」が強いてくるモチーフの内、「歴史物」に移せる限りのものは、全て移していったようにおもえる。現代物のモチーフを歴史物に移すことで、窮屈な道徳的・社会的通念の制約から解き放たれ、大胆で残酷な実験も可能となるし、アトム化の風圧にさらされていた大正期の資本制近代の殺伐とした「裟婆苦」の世相から、巧みに距離をとることもできる。歴史物と現代物の創作のバランスをとることで、精神の安定を図っていたといってもよいだろう。

 このバランスが、大正十一年以後一気に崩れ去っていったのは、だから、芥川の精神の安定が失われていったことを物語っている。

 歴史物が減り、現代物の比重が圧倒的に高まっていくわけだが、このことは、芥川の〈現実〉への対峙の仕方、たたかい方に、ある重要な変化が生じていた事を示している。

 すなわち、かつてのように、「裟婆苦」の現実から距離をとるのではなく、逆に、現代物というフィルターを通してみつめられた、狭窄された現実に、自身を同化させようとしていたということだ。

 晩年期の芥川作品に、「私小説」(もしくは私小説的作品)のウェイトが高まるのも、そのせいではないかとおもわれる。

 彼は、休む間もなく、がむしゃらに書き続け、〈自意識〉を酷使し続けることで、芸術という〈砦〉を膨れ上がらせているうちに、いつしか不可知なる〈闇〉の中に、素直に〈身体〉をゆだねることができなくなってしまったのではあるまいか。

 何もかもを、己れの〈意識〉によって神経症的に統御せんとする、デモーニッシュな情熱に魂を食われてしまったのだ。己れ自身のライフ・ヒストリーも、己れの生きる大正から昭和初年の現実も、全てを、己れの〈意識〉によって仕切ろうとした。

〈無意識〉の広大無辺さへの〈畏怖〉の心を、いつしか忘れ果てていた。

 裏を返せば、それだけ、いつの間にか、〈無意識〉への窓口である身体感覚の〈振り幅〉は狭窄され、冷え切ったものと化していたということだ。身体の〈悲鳴〉に素直に耳を傾けることができないほどに、〈自意識〉は、傲慢に肥大化していたともいえよう。

 不条理感の高まりによって、〈無意識〉が痛めつけられ、身体が冷却化の一途を辿るにつれて、芸術家としての〈自意識〉は逆に先鋭化し、私小説を含む「現代物」への傾斜が強まっていったと考えられる。

 芸術の言葉によって一面的に規定された、酷薄な観念的現実を、敢えて己れ自身の〈棲み家〉として択び取ることで、晩年期の芥川は、自らの〈身体性の衰弱〉をカバーし、あるがままのカオスとしての現実に、〈意識〉の力によって対峙せんとした。

 しかも、芸術という名の人生の散文的な地獄図は、例の地動説的イデオロギー(アトミズム的・機械論的世界観)によって、強固な認識論的裏付けを獲得していた。

 彼の〈自意識〉はもはや引っ込みがつかず、意固地な身構えを崩すことができないままに、行き着く所まで行き着くほかはない、内面的な地獄の渦中をひたすら突き進んでいった。

 おまけに、芥川は、世間体を恐ろしく気にかける人物であり、また、(おそらく芥川夫人を除けば)身内にも友人にも、己れの病への〈恐怖〉を正直にリアルに伝えることは、至難のわざであった。精神病院に入れられることも、ひどく怖れていた。どこにも、出口はなかったのである。(この稿続く)

 

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芥川龍之介と闇(連載第3回) 川喜田八潮

  • 2017.04.24 Monday
  • 12:33

 

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 このような芥川の世界視線は、彼の〈無意識〉を痛めつけ、身体感覚を冷え切ったものとし、その苦しみへの〈反動〉は、この作家を狂気の表現形態へと追いつめていった。

 行き着いた場所は、もちろん、遺稿「歯車」(昭和二年)に描かれた、関係妄想の無間地獄の風景であった。

 

「僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。のみならずどれも一本ごとにちょうど僕等人間のように前や後ろを具えていた。それもまた僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になった魂を思い出し、ビルディングばかり並んでいる電車線路の向うを歩くことにした。しかしそこも一町とは無事に歩くことは出来なかった。」(「歯車」二 復讐)

「僕は僕の部屋へ帰ると、すぐにある精神病院へ電話をかけるつもりだった。が、そこへはいることは僕には死ぬことに変らなかった。僕はさんざんためらった後、この恐怖を紛らすために「罪と罰」を読みはじめた。しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」の一節だった。僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――――本は「罪と罰」に違いなかった。僕はこの製本屋の綴(と)じ違えに、――――そのまた綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んで行った。けれども一頁も読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、あるいはこの部屋にいる僕自身を。……」(「歯車」五 赤光)

「この往来はわずかに二三町だった。が、その二三町を通るうちにちょうど半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だったのを思い出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。」(「歯車」六 飛行機)

「何ものかの僕を狙っていることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮(さえぎ)り出した。僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、頸(くび)すじをまっ直(すぐ)にして歩いて行った。歯車は数の殖(ふ)えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。同時にまた右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、ちょうど細かい切子硝子(ガラス)を透かして見るようになりはじめた。僕は動悸(どうき)の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……」(「歯車」六 飛行機)

 

 あたかも目に視えぬ悪魔の嘲弄のように、作者の人生と運命を、死と虚無と不条理の不吉な想念によってギリギリと強迫的に締めつけてくる暗示的な出来事・風景の数々。

 その点綴・連鎖によって構成された己れの妄想的日常に対する、異様なまでの恐怖心。

 それが、「歯車」で私小説的に吐露された、芥川龍之介の地獄だった。

 吉本隆明は、晩年期の芥川が陥ち込んだ程度の関係妄想の世界は、「症状としてだけいえば、ほんの軽度なパラノイアや鬱病や分裂病者の世界にもおとずれるものであったろう」と述べ、芥川の場合痛ましいのは、症状そのものよりも、むしろ、己れの症状に対する極度の〈恐怖心〉であったと指摘している。

 

「ことに「歯車」では症状がありふれた関係妄想や幻覚と錯視なのに不安と恐怖との切迫性がはげしすぎている。人は誰でも精神がこの程度に病みつくことができる。そしてある識閾を超えたとき関係妄想の世界に入りこむことは有りがちである。けれどそのことは厳密にいえば不安や恐怖とは無関係な世界だといっていい。遭遇するあらゆる事象が偶然とはおもわれないように羅列されているとしたら、信じられる自己の存在が限りなく環をせばめようとしている証左である。そのために事象が欠けているときは存在しないのに創り出す(幻覚)ことをしなければならない。また代同物で置き代え(錯視)たりして補わなければならない。強い関係を渇望する心性が病んでいるからである。これだけのことを病者はすこぶる朗らかに、あるばあいには攻撃的にやってのけることができる。けれど芥川にはこんな有りふれた精神の病いが死に至る恐怖や不安でありえた。」(吉本隆明「芥川龍之介」『悲劇の解読』ちくま文庫1985年所収。)

 

「関係妄想の世界に入りこむこと」は、「厳密にいえば不安や恐怖とは無関係」であるという意見には、同意できない。芥川の場合、関係妄想の発生は、明らかに彼の実存的な〈不安〉に根ざしたものであるというのが、私の考えだからである。

 人は通常、己れを取り囲む世界が自分の存在に脅威を与えるようなものではないという、何の根拠も無い、漠とした〈安心感〉、すなわち、己れの存在が世界に親和的に包摂されているという無意識的な〈信〉の感覚を抱いている。

 人が正気でいられるのは、そのためである。だから、人は通常、己れの日常生活世界において接触する無数の存在・出来事・風景に対して、いちいち意識的な〈意味づけ〉をせずに、無意識的に、ごく自然に身体を動かし、行為することができる。

 しかし、晩年の芥川のような関係妄想の病者は、日常の中で遭遇する〈風景〉に対して、いちいち過剰な〈意味づけ〉をしないではいられない。それは、当人を取り巻く生活世界が、無意識的な〈安心感〉を与えることができていないからであり、己れの生が、得体の知れない不条理な〈カオス〉の中に浮遊しているという、漠とした〈不安感〉を抱え込んでいるからである。〈カオス〉の与える不安をなだめるには、たとえそれが、非合理的な悪しき関係妄想であろうとも、ともかく、当人の〈意識〉が納得できるなんらかの〈意味〉を与えることのできるような形に、遭遇する事象を組み変えてみせねばならない。

 「偶然」とは、この場合、病者にとっては、己れの生存そのものの〈意味〉を抹殺するほどの〈不条理性〉の表われとして感じ取られているからだ。

 世界そのものが、生命存在としての彼に根源的な〈安心感〉を与えてくれないのだから、「偶然」は、本来のすこやかな、敵意の無い、ただの「偶然」ではなくなってしまう。彼にとって「偶然」という〈無意味〉は、〈不条理性〉の別名でしかないのである。

 世界を信じられない者にとって、「偶然」は、関係妄想によって「意味づけ」られなければならないのだ。

「遭遇するあらゆる事象が偶然とはおもわれないように羅列されているとしたら、信じられる自己の存在が限りなく環をせばめようとしている証左である」という吉本の言葉を、私は、以上のような文脈で受け取ることにする。

 この場合、病者にとって最も怖ろしい事は、世界が、自分の存在となんの生命的・価値的な結びつきも持たない、ただの偶然的な客体として立ち現われるという事態である。

 たとえ不吉さを暗示する、何者かの悪意に満ちた関係妄想であろうとも、「偶然」という〈無意味〉に比べればマシなのだ。

 なぜなら、関係妄想であろうと、納得のゆく形に「意味づけ」られてさえいれば、病者は、(絶えず、悪意ある存在からの襲撃に備えねばならないという〈緊張〉を強いられてはいても)ともかく、己れの〈意識〉によってかなりの程度にまで統御しうる幻想世界の住人であり続けることができるからであり、それは、〈意識〉の統御を超えた、得体の知れない〈カオス〉の闇のただ中に、無意味な偶然的存在として漂流しているという無力な生存感覚に、あからさまに直面させられるよりはマシだからだ。

 関係妄想とは、だから、ある意味では、病者にとっては、生命存在としての一種の防御本能の表われなのである。

 だが、カオスの喚起する〈不安〉をなだめるための関係妄想は、芥川の場合皮肉なことに、その〈非合理性〉によって、かえって彼の不安を極限的な〈恐怖〉にまで励起させてしまった。

 私の考えでは、それは、芥川が、カオスの強迫的なイメージからの脱出の手だてを、〈身体〉によって開示される〈無意識〉の領域の「再発見」に求めるのではなく、ひとえに、理知的な〈意識〉による自我の統御という次元に求めたことによる。

 

 病者が直面している真の問題は、実は、関係妄想の内実にあるのではない。

 彼を包摂している世界風景というものが、彼の〈無意識〉に「生きてゆく」のに必要な世界に対する根源的な〈安心感〉を与えることができないほどに、不条理感の強い、反生命的な〈カオス〉としての表情を帯びるに至ってしまったことにある。

 それは、彼の資質的な〈生き難さ〉が、さまざまな条件によって不可避的に追い込まれてしまった、魂の地獄にほかならない。

 もちろん生き難さを醸成する要因は、生育環境や時代の風圧などに規定され、人さまざまである。それは、当人の持って生まれた生理的・動物的な〈血〉の濃さの度合や、胎乳児期から幼少期・思春期にかけての成長過程におけるトラウマ(心的傷害)の質と深さ、そして、ある意味ではそのパターン的な再現ともいえる、青年期以降におけるさまざまな人生体験の傷・挫折の累積などによって、左右される。傷とコントラストをなす、〈ぬくもり〉の体験・記憶のもつ象徴的な意味も重要である。

 だが、芥川の場合に、私がここでこだわってみたいのは、己れの〈生き難さ〉に立ち向かうための武器として形成された、彼の芸術家としての〈資質〉のもたらした痛ましさである。

 私の考えでは、晩年の芥川を苦しめていた、まがまがしい〈カオス〉への不安は、この作家が、現世の不条理に拮抗するための〈虚構〉の砦として択んだ己れの芸術世界というものを、ひたすら理知的な〈意識〉によって徹底的に自覚的に造型し、統御せんと試みたこと、そして、その虚構の砦を自らの〈棲み家〉となし、〈実生活〉を、己れの芸術上の言語=〈観念〉のフィルターを通して、いびつに(一面的に)規定せんとしたことに由来している。

 人生のダークサイドを凝視し続けたこの作家の行き着いたいびつな既成観念、地上的・散文的な世界視線の貧しさ、救いのなさが、彼の〈無意識〉を痛めつけ、無意識への窓口であった身体感覚を冷却させ、その〈振り幅〉を狭窄させていったにもかかわらず、〈意識〉なるものの芸術的優位性に、あくまでも神経症的に固執し、そこに唯一のプライドを置き続けたのだ。

 フローベルやボードレールをはじめとする、十九世紀後半以降のフランス近代作家の芸術至上主義の病理は、この作家の精神をとことん蝕んでいた。

 どんなに〈無意識〉が悲鳴をあげても、己れの深奥から立ち昇る非合理的で生命的な〈闇〉への渇き、〈本能〉の声を、正直にすくい上げることはできなかった。

 手に負えない〈無意識〉の悲鳴は、意固地なまでに、理知=〈意識〉の力によって強引に抑え込まれ、鬱屈した無意識の〈闇〉は、徹頭徹尾散文的で地上的なリアリズムの酷薄な目線に塗りつぶされた晩年期の芥川作品の〈空隙〉を衝くように、反生命的なまがまがしい〈カオス〉としての相貌を浮上させ、この作家の〈不安〉をかき立てたのである。理知に対する〈本能〉の反逆の叫びともいうべき、その得体の知れない〈不安〉に対して、彼の生命は、無意識のうちに〈関係妄想〉による生の〈意味づけ〉という形で防御的な対応に出ることで、意識の混乱を鎮め、カオスから身をかわそうと図るのだが、その〈非合理性〉は、逆に、「理知の権化」であるこの作家の意識を、異様なまでの〈恐怖〉へと追い込んでいったと考えられる。

 

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「合理的に見て、そんな事がありうるはずがない」と思われるような、不吉な出来事の連鎖による負の〈暗示〉。

 それは、どんな人間であっても、脅かされずには済まないものであり、とりわけ、理知の勝った者ほど、己れの合理的確信が揺らいだ時の〈恐怖〉は強烈なものとなる。

 私たち人間は通常、己れを取り巻く不可知なるカオス、未知なるカオスとしての世界に対して、大なり小なり、理知の行使による観念的な〈記号化〉と〈抽象化〉を施すことで、恐怖を〈解毒〉し、正気を保ち得ているといっていい。

 その〈解毒〉が通用せず、非合理的なカオスが突如として意識の前面に浮上する時、私たちは、観念的なヴェールを取り払われて、むき出しとなった〈生身〉の生存感覚を通して、ダイレクトに世界の〈表情〉に直面する。

 天変地異や生老病死の危機的な状況に直面させられた時、人はまさに、そのような精神状態に見舞われる。文明のコントロールをはるかに凌駕する大自然の猛威の前に、人間の無力さ・小ささを痛感させられ、己れの人生を己れの力で思い通りに仕切っているといったうぬぼれや、人智の合理主義的な尊大さを打ち砕かれる。

 その時、世界は、存在をつかさどる類的な〈無意識〉としての本性、普段は無意識の底に抑えつけられていた類的でアニミズム的な〈闇〉としてのダイナミズムの本性を浮上させる。生命と虚無の両義性をはらんで渦巻く、得体の知れない、渾沌たる〈闇〉の表情をとり、私たちの生存感覚を一気に呑み込んでしまう。幼児や少年の頃のような、存在と生身で交流し得ていた時の魂の息吹、ふるえが甦るのだ。

 それは、理知に対する、〈本能〉の反逆にほかならない。

 その少年のおののきのような感覚が浮上した時、既成の合理的な〈意識〉があくまでもその風景を拒絶せんとするなら、〈闇〉は〈意識〉に対して牙をむき、敵意に満ちた反生命的な表情をとり、〈不安〉をかき立てるだろう。そして、もし〈意識〉が、その実存的な〈不安〉を、芸術その他のなんらかの〈表現〉手段によって代償的に解消してやることができない場合には、〈意識〉は〈不安〉をなだめるために、自他に対する〈関係妄想〉やそれに伴う幻覚・錯覚といった非合理的な表現形式をとることで、自らを「補完」(フォロー)しにかかるであろう。精神病理という意識の「補完」形態もまた、〈不安〉と同様、〈闇〉の歪んだ代償表現なのである。

 しかし、非合理的な闇のカオスの浮上は、人を、アイデンティティー喪失の危機に陥れるが、同時に、偏狭な合理主義的身構え、すなわち地上的=三次元的な〈既成観念〉のとらわれを脱して、己れの生存空間を切り拓く、四次元的な新たな世界視線を獲得するための魂の試練ともなりうる。

 それは、身体感覚の〈変容〉を通じて、封印・凍結されていた〈無意識〉の次元を「再発見」することで、生存感覚を脱皮させ、生への肯定的なまなざしへとリンクさせることができるように、自我の「再構築」を図るという冒険的な試みなのである。

〈既成観念〉の皮膜がぶ厚くて、プライドの強い者にとっては、恐ろしくつらいことであり、また危険で困難なことでもある。

 旧い自我にとどまる方が楽だというのなら、それでもよいのだ。

 だが、晩年の芥川のように、その〈殻〉に閉じ込められる事が、狂気を招き寄せるほどの〈苦痛〉を強いられることになる、という者もいる。

 だとしたら、そのような場所に置かれた者は、自我の〈脱皮〉をめざしてたたかうしかないではないか。

 芥川には、しかし、不幸なことにそのたたかいは許されなかった。

 

 フロイトは、生命存在を無意識の根底から衝き動かしている、本能的な欲望や情念の次元、すなわち類的な拡がりをもつ〈闇〉のカオスの次元を「エス」と呼び、人間の「自我」を、「現実界」と「エス」と(親や社会によって植え込まれた抑圧装置である)「超自我」の三方の〈要求〉からせめ立てられて、「生きる」ために必死に「適応」を強いられている、哀れな存在とみなした。フロイト理論によれば、神経症やヒステリー、躁鬱病や統合失調症といった精神病理は、この「適応」に失敗した者が、「幼児期」や「胎乳児期」の心的段階へのエロス的な〈退行〉によって、己れのトラウマを疑似的に修復せんとする、苦しまぎれの試みだということになる。

 晩年の芥川が追い込まれたパラノイア的な関係妄想もまた、そのような神経症の一種であったようにおもわれる。(この稿続く)

 

 

 

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芥川龍之介と闇(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2017.03.18 Saturday
  • 18:30

 

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 かつて芥川龍之介は、処女小説「老年」(大正三年[一九一四]作)において、次のような描写を紡ぎ出すことができていた。

 

「長い廊下の一方は硝子障子(ガラスしょうじ)で、庭の刀柏(なぎ)や高野槙(こうやまき)につもった雪がうす青く暮れた間から、暗い大川の流れをへだてて、対岸のともしびが黄いろく点々と数えられる。川のそらをちりちりと銀の鋏(はさみ)をつかうように、二声ほど千鳥が鳴いたあとは、三味線の声さえ聞えず戸外(そと)も内外(うち)もしんとなった。きこえるのは、藪柑子(やぶこうじ)の紅い実をうずめる雪の音、雪の上にふる雪の音、八つ手の葉をすべる雪の音が、ミシン針のひびくようにかすかな囁きをかわすばかり、話し声はその中をしのびやかにつづくのである。」(「老年」)

 

 暗い大川の流れを背景に、人生の究極の寂蓼を深々と包摂しながらどこまでも静かに息づく、しんしんとした「雪の音」の描写は、繊細この上ない、豊饒な〈闇〉の気配を立ち上がらせている。

 息を呑むほどに美しい、完璧な叙景であり、その叙景は、たしかにアララギ派的な意味での近代的な「写生」には違いないが、その写生によって実現された表現の内実は、むしろ前近代的な、主・客の融合した土俗的な闇の伝統を感じさせる。

 安藤広重の描いた浮世絵「東海道五十三次」の「蒲原(かんばら)の図」を彷彿(ほうふつ)とさせるひとこまであるといっていい。

 ここに描かれた寂静(じゃくじょう)の風景は、作者自身の魂の〈孤独〉を象徴するものであると同時に、この短篇小説の主人公である「房さん」という、若い頃から放蕩と遊芸に明け暮れた生活破綻者的な老人のうらぶれた孤独な余生の風貌と重ね合わせられている。

 料理屋の奥にある無人の座敷の中で、置炬燵(おきごたつ)にあたりながら、猫を相手に、ひそひそとなまめかしい「芝居」の口説き文句をつぶやいている「房さん」の孤影を、しんしんと降り続く雪と闇の気配が優しく深々と包み込んでいる。

 初期の「大川の水」「老年」と晩年の「大導寺信輔の半生」「玄鶴山房」の間には、めくるめくような〈落差〉があるといっていい。

 芥川龍之介の文学活動のすべてが、この〈両極〉の間に位置づけられるように、私には感じられる。それは、「大正期」という資本制近代が膨張をとげてゆく時代、大衆の前近代的な土俗共同体社会が温存していたコスミックな〈闇〉の感覚が、アトム化の風圧の中で急速に蝕まれ、衰弱を余儀なくされていく時代の病理を象徴するものでもあった。

 しかし、私はここで、芥川作品のあれこれを具体的に取り上げて、この作家の文学世界の全体像を俯瞰的に論ずる気は毛頭ない。それは、吉本隆明や磯田光一、中村真一郎をはじめとする過去のさまざまな論客たちによる優れた芥川論の数々に任せておけばよい。

 私のこだわりは、ただ一つ、芥川龍之介における〈闇の喪失〉がもたらした悲劇のかたちにある。あるいは、生命的でコスミックな〈闇〉から、ダークでいびつな〈闇〉への変容の本質を問うことにある、といってもよい。

 改めて言うまでもなく、芥川龍之介は、ひたすら人生の地獄を見つめ続けた作家である。

 胎乳児期から幼少期にかけて深いトラウマを抱え込み、成長過程における家族及び自他に対する関係意識の障害感に苦しんだ作家だった。その中で形成された不幸な〈資質〉は、彼に、己れ自身も含めて、人間という生き物のあらゆる型の偽善、偏見、エゴイズム、愛への不信と嫉妬といった諸々の卑しさや脆さへの鋭い観察眼を磨かせた。彼は、西洋近代文学の写実主義の文体を活かして、歴史物と現代物の両面にわたって、己れ自身の異和と渇きのありかを、多種多様な〈虚構〉の物語を通して華麗なパノラマのように象徴的に描き上げてみせた。優れたエンターテイナーとして、その天才ぶりをいかんなく発揮した。

 しかし、人生の不条理と地獄の実相を見つめれば見つめるほど、彼の神経は繊細にとぎすまされ、〈自意識〉は観念的に肥大化していった。

 そして、それとは対照的に、〈身体〉は硬直し、冷え切っていったのである。

 文学(芸術)という、彼が現世の不条理から身をかわし、現世に拮抗するために、そこの住人になりたいと切望していた〈虚構〉の砦は、作家活動の初期には保持し得ていた、彼のすこやかな身体性を完全に呑みつくし、枯渇させてしまった。

〈個〉の深奥に息づきながら、個の輪郭を超えて森羅万象へと拡がる、〈類〉的な生存感覚、すなわち深々とした生死一如の〈闇〉の母胎へとリンクする彼の〈無意識〉のゆたかな領域は見失われ、無意識への窓口であった彼の身体感覚の〈振り幅〉は、急速に狭められていったのだった。

 それは、芥川の成長過程を包み込み、彼の魂の〈下地〉を培ってきた、江戸後期文明の流れを汲む下町共同体的な〈闇〉の感覚が、彼の内部で崩壊にさらされ、まがまがしい、ダークでいびつな相貌へと変質をとげていった事を意味している。

「大導寺信輔の半生」に描かれた陰惨な「百本杭」の記憶は、その崩壊と変質の象徴であり、冷え切った身体と地獄図と化した世界風景の中で、改めて、この作家の〈原風景〉のように立ち顕われてきたようにおもわれる。

 

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 晩年の芥川龍之介の世界風景が、主・客の分離を前提とする、西洋近代科学的な客観主義的・合理主義的精神、すなわち物質主義的精神によって、いかに狭窄されたものと化していたか。意識を酷薄な地上の散文的・三次元的現実に緊縛されることで、いかに魂を痛めつけていたか。

 それは、例えば、昭和二年(一九二七)三月の作品「誘惑」に綴られた、次のような心象風景の一節にも、端的に表われている。

 

「星ばかり点々とかがやいた空。突然大きい分度器が一つ上から大股に下って来る。それは次第に下るのに従い、やはり次第に股を縮め、とうとう両脚を揃えたと思うと、徐(おもむ)ろに霞んで消えてしまう。」

「月の光を受けた樟(くす)の木の幹。荒あらしい木の皮に鎧(よろ)われた幹は何も始めは現していない。が、次第にその上に世界に君臨した神々の顔が一つずつ鮮かに浮んで来る。最後には受難の基督(キリスト)の顔。最後には?―――いや、「最後には」ではない。それも見る見る四つ折りにした東京××新聞に変ってしまう。」(「誘惑」)

 

 晩年の芥川の<意識>を規定し、染め上げていた世界風景が、コスミックなゆたかさを奪われた、無意味で荒涼とした物質主義的現実でしかなかったことが、よくわかる。

 また、大正十二年から死の年の昭和二年にかけて綴られたアフォリズムの集成「侏儒の言葉」の冒頭の一節「星」には、次のような言葉が記されている。

 

「太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。/天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることは出来ない。いつか一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死はどこへ行っても常に生を孕(はら)んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都会の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすればまた新しい星は続々とそこに生まれるのである。/宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火(りんか)に過ぎない。況(いわん)や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団(でいだん)の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。/真砂(まさご)なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり/しかし星も我我のように流転を閲(けみ)すると云うことは―――とにかく退屈でないことはあるまい。」(「星」)

 

 痛ましい宇宙観である。ここで語られている星々へのまなざし、存在へのまなざしは、一見、「大川の水」で活写された、生死の両義性をつかさどる、不可知なるコスミックな渾沌=闇へのまなざしと同型のものに見えるが、実は、完全に対極にある生存感覚を表わしているといっていい。

 ここに描かれているのは、無限大の宇宙に対する存在の〈無意味さ〉を強調する視線、すなわち、森羅万象を物理法則による因果律に規定された物質の必然と偶然の運動に解消し、存在から一切の意味と価値を剥奪せんとする、(西洋近代科学の暗黙の〈前提〉=作業仮説となっている)アトミズム的な機械論的世界観にほかならない。

 いわば、地動説的視点から、地球と人間存在を相対化し、無意味な物質的存在へと卑小化せんとする、(今やわれわれ現代人の固定観念と化している)陳腐きわまりないイデオロギーにすぎない。そこでは、地球は、大宇宙から視れば一天体にすぎない太陽系の中のゴミのような惑星であり、人類などは、そのゴミの上に「たまたま」繁殖した一種の雑菌のような存在にすぎない。

 宇宙における生死の両義性・循環を強調しようと、一見東洋思想めかした諸行無常の理念を称えようと、ここにみとめられるのは、人生の意味を根源的に抹殺するニヒリズム以外の何物でもない。近代人は、こんな怖ろしいニヒリズムを、百年以上も、後生大事に崇め奉ってきたのである。ルネサンス以後の歴史から振り返れば、四百年以上にもなる。

 私たちは、このような地動説的イデオロギーなるものをきれいさっぱりとぬぐい去って、正しき天動説的世界観を取り戻すべき時代にさしかかっているのではあるまいか。

 それが、私の思想的な立場である。

 近代人は、地動説が正しくて、天動説が誤っていると思い込んでいるが、それは大きな間違いである。

 地動説か天動説かというのは、私たちの〈立ち位置〉の問題にすぎない。

 地動説とは、太陽に存在の中心を置いた時に視られた、太陽系の星々の運動形態の事に過ぎず、天動説とは、地球上の、私たちの住む大地を中心にしてみつめられた大いなる星辰の配置と動きの姿にほかならない。どちらに存在の中心を置くかという〈立ち位置〉の問題であり、中心軸の置き方によっては、どちらも正当な視点となりうる。

 さらに言えば、太陽系といえども、銀河系から視れば、その一小部分にすぎず、銀河系も、さらに巨きな宇宙から視れば微々たるものとなるのであるから、中心軸の置き方を変えれば、太陽を中心として世界を視る地動説も、太陽系以外の銀河系の天体から視れば、ひとつの天動説的視点の表われにすぎず、銀河系を中心とする視点もまたしかりである。

 地動説的視点の確立とは、実は、銀河系内外のあらゆる星雲の中心軸を相対化することに通じているのである。私たちが、天動説的視点を放棄して、地動説的視点に移行することは、そのまま、私たち人間の存在の中心を、大宇宙の中に解消することを意味する。自然科学によってのみ探究可能なこの物理的な大宇宙なるものは、かつて天動説の時代に、人間の生に意味と価値を与えていた生命的で神秘的な象徴的存在であるコスモスとは違い、ただのメカニックなユニヴァースでしかない。

 私たちは、地動説によって、いつしか、己れの存在の根拠を、ユニヴァースという〈虚無〉の内に解消してしまっている。

 だから、中心軸をどこに置くかということは、実は、真理性の問題ではなく、私たちの生きざまを支える〈価値観〉の問題なのだ。

 地動説的イデオロギーが致命的なのは、それが、存在から意味と価値を剥奪するアトミズム的・機械論的な世界観を内包しているからであり、近代科学の諸成果が、その西洋近代的なイデオロギーを作業仮説とする探究によってもたらされ、物理学・化学・医学を中心とする、宇宙の物質的側面のみを一面的に肥大化させた知識の数々によって、あたかも、機械論的な宇宙観こそが正当であるかのごとき〈錯覚〉を、私たちに植えつけてしまったからである。

「大宇宙に比べれば、地球も人類もゴミのような存在にすぎない」という強迫観念は、極大の膨張宇宙から、微生物以下素粒子に至る極小の宇宙までも包み込む、存在そのものへの〈蔑視〉、ニヒリズムの感覚に通底するものである。

 芥川もまた、この手のニヒリズムにいや応もなく屈服させられながらも、それに対してささやかな〈異和〉を表明している。

 

「もしいかなる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様にまたいかなる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻転し」と言うのは必(かならず)しも常に優美ではあるまい。」(「唯物史観」、「侏儒の言葉」より)

 

 芥川の言葉を笑うことはできない。現代人は、今日、「日食」も「月食」も、コスミックな神秘・啓示として、〈畏怖〉の念をもって受け取るだけの感受性を持てず、それらを物理的な天体現象としてしか視ないではないか。

 現代人にとって、森羅万象は、己れの生と何のコスミックな結びつきも有しないのである。

「大導寺信輔の半生」に描かれた「大川端」の風景が、「大川の水」で活写された、コスミックな闇のふくらみとは似ても似つかない、散文的・物質的な地獄図にすぎなかったように。

 

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 このような近代主義的ニヒリズムを根底から払拭するには、私たちは、正しき天動説的視点を取り戻さなければならない。

 すなわち、私たちの存在の中心を、己れの固有の〈生活〉という大地の上に据え直さなければならないのだ。

 日々マスコミをにぎわす世界情勢や時事問題の知識などに、生活意識を回収されるようなことがあってはならない。

 私は、ここで「正しき」天動説と断っている。

「正しき」とは、己れの固有の天動説のみを善しとする独善に陥らぬことである。

 己れと同様に、己れ以外のすべての他者にも、各々の固有の手作りの「天動説」を構築してほしいという希い・理想を抱くことである。

 それは、決して価値観の相対化をとなえるものではない。

 自分は、自分の信ずる、自分なりの天動説を生きればよいのだ。

 ただし、他者のいのちの固有性というものを、どこまでも尊重するということだ。

 そして、いかなる意味でも、他者の魂を「強制」しないこと、またされないことだ。

 己れの天動説を、責任をもって「主張」することは、かまわない。

 当方の主張を「強制」と感じるかどうかは、受け取る人の自由だ。

 こちらには「強制」する気は毛頭ないのだから、後は、メッセージを受け取る人の「責任」だし、また「器」次第である。

 その事を前提とした上で、私はここで、私なりの「天動説」をごく簡略に提唱してみたい。

 まず、私たちは、己れの固有の〈生活〉を通して日々みつめられる、生きた〈風景〉の内に、美しき〈意味〉と〈象徴〉とを見出すことができねばならない。

 ささやかな草花や樹木や動物たちの中に、存在の繊細な気配の移ろいの内に、そして、月や日輪や星辰の輝きと息づかいの中に。

 さらにまた、日々の労働・労役の手応えと疲労とささやかな癒しやいこいの中に……。

 私たちの固有の生活小宇宙(コスモス)は、実は、無限を映す鏡なのである。

 私たちの意識世界は、存在としての個の殻を超えて、類的な〈無意識〉の闇の世界(コスモス)とつながっている。同朋とつながり、風土とつながり、人類とつながり、森羅万象とつながっている。意識などは、その広大無辺な〈闇〉の中に浮かぶ「氷山の一角」にすぎないのだ。

 だが、私たちは、意識という〈風景〉の中で、日々、無数の存在と精妙な〈出逢い〉を果たしており、その〈出逢い〉は、私たちの意識的・合理的な了解能力などをはるかに超えた、霊妙不可思議な出来事なのであって、私たちの身体に宿り、身体をつかさどっている類的な〈無意識〉の所産と考えるほかはない。

 私たちの個的な意識及び無意識は、より巨きな類的無意識に包摂され、つかさどられているのだ。

 私たちは、その無意識の深みから、生きるエネルギーを与えられ、日々無数の感覚とイメージを汲み上げながら、己れの固有の内的時間を紡ぎ出すことで、現実に真向かい、適応し、たたかい、道を切り拓いてゆく。

 生きる営みのすべてが、単なる個的な出来事ではなく、個を包摂しつつ個を超えた、類的な無意識という、生命と虚無、創造と解体の両義性を備えて流動する、大いなる〈闇〉のコスモスの一環なのだ。

 人間は、逃れようのない関係のしがらみの中でもがき、己れのはからいを超えた無数の契機に直面させられながら、翻弄されて生きる存在である。人の心も身体も、大いなる〈闇〉に包摂され、つかさどられているのであり、そこでは、あらゆる倫理も主体性も、個々人の置かれた関係性や内的契機、運不運によって、その可能性は限定され、相対化されてしまう。価値や倫理の相対主義をとなえ、主体性という概念そのものまでも否定的に扱い、人間の無力さや生の不条理性、みじめさを強調するニヒリズムが猖獗(しょうけつ)を極めるのも、無理からぬものがある。

 だが、私たち人間の生が、不可知なる渾沌(カオス)という〈闇〉につかさどられ、翻弄されているとしても、だからといって、「生きる」という行為、主体性という概念が無意味であったり、無力であったりするわけではない。

 私たちの生は、〈闇〉に包摂されているけれども、私たちの生もまた、〈闇〉という無限を映し出すという形で〈闇〉を包摂し、そこから生きるエネルギーを汲み上げることができるのだ。

 人は、己れの固有の〈生活〉を主体的に紡ぎ出し、織り上げてゆくという営みを通して、〈闇〉の中から豊饒な感覚とイメージを汲み上げ、己れの生存感覚を、生命的で自己充足的な〈絶対感〉へと脱皮・変容させてゆくことのできる存在である。

 その意味で、人生とは、不断の修行の連続だというのが、私の考えである。

 自分自身に則して言えば、至らない未熟者の身ではあるが、時を超え、齢(よわい)を超えて、日々無心に生きられるよう、精一杯努めてはいるつもりだ。「生きる」ことは、本当に大事業だ。

〈生活〉という大地の上に真に存在の中心を置く時、私たちの生の風景は、根底から相貌を一変する。

 世界情勢や政治・経済の激変や時事的現象などに鼻づらを引きずり回されない、真に地に足の着いた、うつろではない〈生活者〉の場所に歩み寄ることができる。

 たとえどんなに、未知への不安にさらされていようとも、日々の暮らしの中に、一抹の心のゆとりと、充ち足りたひと時を持つことが許されるであろう。

 私たちの〈生活〉は、生死一如の大いなる〈闇〉のコスモスに抱かれ、また〈闇〉の根源から生きる力を汲み上げることができる。そこには、意味と価値と良き啓示があり、ささやかな日々の〈物語〉がある。そしてまた、その蓄積の中から、生涯にわたる生の物語性、年輪の厚みが紡ぎ出される。

 芥川初期の作品「大川の水」には、哀切な気配が立ち込めてはいるが、そのような無名の〈生活者〉のコスモスにきちんとリンクしうるだけの、ゆたかな天動説的視点が息づいているのである。

 しかし、晩年の「侏儒の言葉」の冒頭文「星」には、それは無い。

 あるのは、酷薄な地動説的イデオロギー(アトミズム的・機械論的イデオロギー)のみである。

 この一文には、「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」という正岡子規の短歌が引用されている。

 この歌には、己れの生命に、選ばれたる孤独な星辰の輝きと呼応する、固有のコスミックな意味と宿命とを誇り高く感受し得た者の、気宇広大な生存感覚が息づいている。

 歌人・子規の紡ぎ出した、気迫溢れる生命的な表現世界の全体感をふまえた上で、この歌を素直に味わうなら、その事は誰にでも感じ取られるはずである。

 しかし、せっかくのこの秀歌も、晩年の芥川の観念的なまなざしのフィルターを通して視れば、人の生死の〈卑小さ〉、散文的な自然現象でしかない生死の〈無意味さ〉と類比的にとらえられた、寒々とした天体物理学的現象としての星を歌ったものでしかない。

 星に「感情」を読み取る芥川の眼には、星もまた、人間と同じく、不条理で卑小なもがきの苦しみ、悲しみの宿命を抱えた、はかなく救いのない存在にしか視えないのであろう。

 酷薄な近代科学的・地動説的視点は、人生の地獄を凝視し続けたこの作家の文学的帰結点である、散文的・物質主義的現実を認識論的に裏付けてくれるものであった。(この稿続く)

 

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芥川龍之介と闇(連載第1回) 川喜田八潮

  • 2017.02.22 Wednesday
  • 22:30

 

     1

 

 芥川龍之介が小説家としてデビューする前、大正元年(一九一二)、数え年で二十一歳の時に書かれた最初期の小品に、「大川の水」という印象深いエッセイがある。己れの生まれ育った本所を中心とする東京下町を流れる大川(隅田川)の風情(ふぜい)を、素直に、ありのままの心象風景としてスケッチしてみせた、みずみずしいパセティックな名文である。

 

「自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎(しい)の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭(ひゃっぽんぐい)の河岸(かし)へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。」

「自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと云えば、泥濁りのした大川のなま暖い水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、何となく、涙を落としたいような、云い難い慰安と寂寥とを感じた。まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わい得るがために自分は何よりも大川の水を愛するのである。」

「この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、静平な読書三昧に耽っていたが、それでもなお、月に二三度は、あの大川の水を眺めにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟(しげき)と緊張とに、切ない程あわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷(ふるさと)の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさにとかくしてくれる。大川の水があって、始めて自分はふたたび、純なる本来の感情に生きることが出来るのである。」

「自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落とすのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むそうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新にする。ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉(とんぼ)の羽のような、おののき易い少年の心は、その度に新な驚異の眸(ひとみ)を見はらずにはいられないのである。殊に夜網の船の舷に倚(よ)って、音もなく流れる、黒い川を凝視(みつ)めながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであろう。」

「……遠くは多くの江戸浄瑠璃作者、近くは河竹黙阿弥翁が、浅草寺の鐘の音と共に、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表すために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響きであった。」

(「大川の水」『芥川龍之介全集』第一巻 岩波書店 1977年所収。ただし、旧漢字は新漢字に、旧仮名づかいは新仮名づかいに変え、ルビを増やし、漢字を一部仮名に改めた。)

 

 ここには、芥川龍之介という作家の〈資質〉が、いささかも歪みをこうむることなしに、その本来のありうべき〈振幅〉の内部で、ういういしくのびやかに息づいている。「大川の水」は、芥川にとって、生死を両義的につかさどり、包摂する、魂の〈故郷〉としての根源的な〈闇〉のコスモスを象徴するものである。

 人が、そして生きとし生けるありとあらゆる存在が、不可知なる渾沌(カオス)の海の中にひっそりと生み落とされ、固有の絶対的な〈孤独〉を宿命づけられながら、漂い、翻弄され、いつしか死という闇の胎内へと回帰してゆく。

 その移ろいゆく無数の生の種々相に心ひかれるたびに、作者は、それら生きとし生けるものをつかさどる無限なる原初の〈闇〉の息づかいを触知して、少年のようにおののき、驚異の念を新たにする。

 人の営みの内に、森羅万象の内に、フロイトの言う「タナトス」(死の欲動)の気配を感じ取らずにはいられない作者は、そこに、限りない「寂寥」と共に、この現世のありとあらゆる関係の地獄、不条理、業苦を洗い流してくれる、安らかな生命の故郷への回帰のおもいを重ね合わせ、たとえようもない「慰安」を覚えているようにおもわれる。

 生死の両義性の気配を内包しつつ、悠然と流れる大川の水の表情は、老船頭の漕ぐ「渡し船」からみつめられた、光と闇の交錯する「たそがれ時」の風景の中で、一段と繊細でダークなおもむきをたたえる。

 

「殊に日暮、川の上に立こめる水蒸気と次第に暗くなる夕空の薄明(うすあかり)とは、この大川の水をして殆(ほとんど)、比喩を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄(もや)の下りかけた、薄暮の川の水面を何と云う事もなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、恐らく終世忘れることが出来ないであろう。」(「大川の水」)

 

 明から暗へと移りゆく繊細なたそがれ時の薄明と暗い家々の上にかかった月の表情に、作者は、存在を包摂する〈闇〉の底知れぬ深さを触知し、その中で微かに淡い光のように点滅し、棲息を許されている、人という生き物の、絶対的な孤独と宿命の相を想い、涙する。

 

     2

 

 しかし、作者にとって、「大川の水」とは、決して、純然たる海洋の水のように非人間的なものではない。

 本所の吾妻橋から両国橋、新大橋、永代橋を経て東京湾に至る大川の水は、淡水と潮水が交錯し、寒色と暖色の入り混じった、独特の「人間くささ」をかもし出すのである。

 

「……同じく市の中を流れるにしても、猶(なお)「海」と云う大きな神秘と絶えず、直接の交通を続けている為か、川と川とをつなぐ堀割の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、生きて動いていると云う気がする。しかもその動いてゆく先は、無始無終にわたる「永遠」の不可思議だと云う気がする。」

「吾妻橋、厩橋、両国橋の間、香油のような青い水が大きな橋台の花崗石と煉瓦とをひたしてゆくうれしさは云う迄もない。岸に近く、船宿の白い行燈をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみだされて、人気(ひとけ)のない厨の下を静に光りながら流れるのも、その重々しい水の色に云うべからざる温情を蔵している。」

「たとえ、両国橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに従って川の水は、著しく暖潮の深藍色を交えながら、騒音と煙塵とにみちた空気の下に、白く爛(ただ)れた日をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船(だるまぶね)や白ペンキの剥げた古風な汽船をものうげに揺(ゆす)ぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合っていつの間にか融合した都会の水の色の暖さは容易に消えてしまうものではない。」(「大川の水」)

 

 作者にとって、「大川の水」の風情は、「船宿」と「三味線の音」に象徴される江戸後期文明の残り香を濃厚に漂わせた、吾妻橋から両国橋にかけての本所・深川・浅草沿いの風景と緊密に結びついている。それは、北斎や広重がみつめた江戸下町共同体の〈闇〉のコスモスとつながり、庶民の生活の息づかい、哀歓と汗の匂いを伝えるものであった。

 このエッセイにおける大川の水への作者のまなざしは、死の色に一面的に染め上げられてはいない。大川に象徴される〈闇〉の深さに、死を間近に意識させられながらも、作者の魂は、生死紙一重の危うい線上で、かろうじて生への肯定的なベクトルを志向することができている。

 作者は、海とつながる大川の水に、「無始無終」にわたって生死を円環的につかさどる神秘なる〈永遠〉の相を視る。しかし、その〈永遠〉は、スタティックな死の色に染まってはいない。常に「生きて動いている」のである。

 人間の生きる営みの根底に、無機的な死への回帰衝動(タナトス)を視たフロイトとは対照的に、人間の魂の深奥に息づく生命的な大洋感情への畏怖と郷愁のおもいを語ったロマン・ロランのように、芥川もまた、冷やかなタナトスを喚起する原初の〈闇〉のカオスの中に、同時に、生命を育む母なる〈子宮〉のごとき温もりを感受するのである。

「裟婆苦」に翻弄される人の世の暮らし、その浅ましく切ない、卑小なるもがきの種々相への凝視の内に、若き芥川は、おそらく、死への暗い傾斜と共に、人をして活かしめる、得体の知れない、大いなる力の遍在を認め、おののき、無量の思いに浸されている。

「暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流した」のも、この世の地上的な生活の圧倒的な卑小さと対比的にとらえられた、幽暗なる母胎のごとき生死一如の実相に対する、強烈な畏怖感のゆえであろう。

 

     3

 

 その〈覚知〉のたしかな手ざわりは、芥川の最初期の戯曲「青年と死」(大正三年[一九一四]作)においても、鮮やかにわしづかみにされている。

 死を忘れるために、ひたすら刹那の快楽を貪り続ける青年「B」に対して、死の化身である「黒い覆面をした男」は、次のように語る。

 

「お前は今日まで己(おれ)を忘れていたろう。己の呼吸を聞かずにいたろう。お前はすべての欺罔(ぎもう)を破ろうとして快楽を求めながら、お前の求めた快楽その物がやはり欺罔にすぎないのを知らなかった。お前が己を忘れた時、お前の霊魂は餓えていた。餓えた霊魂は常に己を求める。お前は己を避けようとしてかえって己を招いたのだ。」

「己はすべてを亡(ほろ)ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる己を忘れていた。己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。」(「青年と死」)

 

 死を忘れようとして死を招き寄せてしまった、うつろな青年「B」とは対照的に、つねに死を想い、その苦しみをバネとして、逆説的に生きる術(すべ)を模索してきた青年「A」は、死の化身である「男」の顔が、意外にも「美しい」ことを知る。「男」は「お前の命をとりに来たのではない」と語り、「よく己の顔を見ろ。お前の命をたすけたのはお前が己を忘れなかったからだ。しかし己はすべてのお前の行為を是認してはいない。よく己の顔を見ろ。お前の誤りがわかったか。これからも生きられるかどうかはお前の努力次第だ。」とクギを刺す。

 その声は、もはや、「A」を脅かし、誘(いざな)う、タナトスの化身としての「男」の声ではなく、いのちの源泉としての母なる〈闇〉の化身ともいうべき「第三の声」へと変容している。

「夜明だ。己と一緒に大きな世界へ来るがいい。」と静かにささやく「第三の声」に促されて、「A」は「黒い覆面をした男」と共に「黎明(れいめい)の光の中」に出て行くのである。

 

「大川の水」や「青年と死」ですくい取られた、存在の根源としてのメタフィジカルな〈闇〉の次元への、ふくらみのある両義的なまなざしを、生存感覚として、生涯にわたって保持し続けることが許されたなら、芥川龍之介の文学は、その晩年期のような痩せ細った、散文的で地上的なリアリズムの目線に一元的に囲い込まれた、酷薄で酸鼻な袋小路に追いつめられることはなかったであろう。

 しかし、彼にはそれが許されなかった。

 龍之介の晩年にあたる大正十三年(一九二四)十二月九日付の「附記」が添えられた自伝的小説「大導寺信輔の半生」において描かれた「大川端」は、次のようなものであった。

 

「ある朝焼けの消えかかった朝、父と彼とはいつものように百本杭(ひゃっぽんぐい)へ散歩に行った。百本杭は大川の河岸(かし)でも特に釣り師の多い場所だった。しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかった。広い河岸には石垣の間に舟虫(ふなむし)の動いているばかりだった。彼は父に今朝に限って釣り師の見えぬ訣(わけ)を尋ねようとした。が、まだ口を開かぬうちにたちまちその答を発見した。朝焼けの揺らめいた川波には坊主頭の死骸が一人、磯臭い水草や五味(ごみ)のからんだ乱杭の間に漂っていた。―――彼は未(いま)だにありありとこの朝の百本杭を覚えている。三十年前の本所は感じ易い信輔の心に無数の追憶的風景画を残した。けれどもこの朝の百本杭は―――この一枚の風景画は同時にまた本所の町々の投げた精神的陰影の全部だった。」(「大導寺信輔の半生」)

 

「大川の水」で、コスミックな〈闇〉のふところ深く包摂されていた「百本杭」の河岸(かし)の風景は、ここでは、「本所の町々」に生きる人々の人生の地獄図=不条理の不吉で陰惨な〈喩〉として立ち顕われている。

「大川の水」から「大導寺信輔の半生」に至るまでの十二年の歳月の間に、芥川龍之介の魂に生命的な潤いを与えていた〈闇の水脈〉は、完全に干上がってしまっていることが看取されるであろう。(この稿続く)

 

 

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