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己れの人生を嘲弄し、破滅と死に向かって刻一刻と自身を追いつめてゆく、目に視えぬ悪魔的な力の存在を、象徴的・暗示的に感受する「歯車」の作者の体験には、幼児期から少年期にかけて彼の魂の〈下地〉を培ってきた、江戸後期以来の下町共同体的な〈闇〉の感覚の残滓が、正常な〈表現〉を封じられたがために、歪められた形で痛ましく露呈しているとみることもできる。
それは、土俗的でアニミズム的な、野性味のある生命感覚に対する、近代合理主義的なまなざしによる〈抑圧〉によってもたらされた、一種の強迫神経症的な〈幼児退行〉の表われであり、〈関係妄想〉という形をとった、〈闇〉のエロスの歪んだ代償表現とみなすことができる。
しかし、「歯車」の中には、例えば、自分にはまったく覚えがないのに、知人たちが「第二の僕」を、「帝劇の廊下」や「銀座の煙草屋」で見かけたという「ドッペルゲンゲル」(分身)の体験とか、朝目覚めてベッドをおりようとすると、いつも不思議にも「スリッパ」が片っぽしかないという体験に恐怖を覚えるといった、作者の白昼夢状態での〈記憶の欠落〉を示すとしか思えない現象や、明らかに「錯覚」あるいは「幻覚」「妄想」と思われるような体験の叙述もみられるが、そうではなく、「偶然事」とはとても思えぬような摩訶不思議な体験もたしかにみとめられるのである。
遺稿「歯車」は、死が目前に迫った芥川が、己れの狂気の症状をあるがままに正直に吐露した、唯一の私小説である。その切迫した、真剣味溢れる筆づかいからみて、そこで述べられた体験が、芥川自身にとっての〈真実〉であったことは、疑い得ない。柳田国男が聞き書きした『遠野物語』に出てくる、摩訶不思議な体験談の数々が、遠野の村人にとっての、紛れもない〈真実〉であったように、である。
たとえ、その体験の内に、「錯覚」や「幻覚」「妄想」としてしか解釈できないような出来事が含まれていたとしても、なお、そのような合理主義的解釈なるものに「還元」することが決して許されないような、摩訶不思議な〈質感〉が、そこには息づいている。
芥川の「歯車」にも、柳田の『遠野物語』にも、それだけのたしかな文学としてのリアリティ、手応えというものがあるのだ。芥川の場合には、死を目前にした実存的な切迫感が、柳田の場合には、無告の民である遠野の村人の秘められた心の闇に対する畏怖感が、その言葉に、いや応のない〈真実味〉を与えている。その力は、私たちの襟を正させ、書かれた〈真実〉を〈真実〉としてあるがままに受け取るべきだという、無私の「謙虚さ」を呼び起こす。
吉本隆明の芥川論には、残念ながら、そういった「謙虚さ」が無い。「歯車」における作者の体験を、ありふれた関係妄想や幻覚・錯覚のたぐいとみなして、事足れりとしている。私は、強い異和感を覚えずにはいられない。
この感覚は、私にとっては、吉本の主著の一つである『共同幻想論』における、『遠野物語』への解釈の手つきに対する異和感と重なっている。
『共同幻想論』は、周知のように、自己幻想(個人の心的領域)・対(つい)幻想(男女や同性のペアにおける心的領域)・共同幻想(三人以上の共同体・集団を支配する心的領域)という、互いに緊張・疎外関係にある三つの幻想的次元を基軸に据えて、個人や対、あるいは家族の次元から、それを包摂する種々の共同体、さらには国家へと遠心的に「疎外」されながら、形づくられてゆく共同幻想の呪縛のメカニズムを読み解き、権力の成立過程を追跡せんとした野心作である。
吉本は、共同幻想論を、彼の哲学体系の総称ともいうべき「心的現象論」の一環として位置づけているようにおもえる。吉本理論は、ヘーゲル・マルクス・フロイトの理論に共通する〈疎外〉というキイ・コンセプトをベースに据えて、あらゆる心的現象を「客観的に」説明可能なものとして包摂せんと志す、壮大な体系であり、そこでは一切の神秘現象、存在の本質的な〈不可知性〉、人間の小ざかしい知を凌駕する主・客融合的で霊妙不可思議な意味や価値の次元は、あらかじめ黙殺されてしまっている。
『共同幻想論』においては、『遠野物語』の民譚の世界は、共同幻想・対幻想・自己幻想の間の〈疎外〉関係のダイナミズムという抽象的・理論的な視座によって、一面的に限定され解釈されることによって、その魅力の神髄ともいうべき、土俗の霊妙な〈闇〉に対する強烈な〈畏怖感〉は、完全に黙殺され、合理主義的に〈解毒〉されてしまっているといっていい。
共同幻想をめぐる心的メカニズムを考察するための素材として『遠野物語』を取り上げることが、間違っていると言いたいのではない。ただ、そのような合理主義的・客観主義的な解釈なるものに、『遠野物語』のコスモスを一元的に「回収」されては、たまったものではない、と言いたいだけだ。
この吉本の知的な〈解毒〉の手つきは、あらゆる神秘体験や宗教的な感情を、克服されていない〈幼児的心性〉の表われと断じ、己れの精神分析学のコンセプトによる解釈の内に回収せんとしたフロイトの姿勢と似ている。
両者共に、〈知〉を過信し、あらゆる心的現象を〈記号化〉することで、ニュートラルな合理主義的解釈の内に存在の〈闇〉を回収し、〈解毒〉せんとする執念に憑かれているように、私には感じられる。
裏を返せば、彼らは、それほどにも、存在の〈闇〉という、不可知なるカオスが怖かったのかもしれない。だから、必死になって、世界を、己れの理論体系という、ちっぽけな「知の袋」に封じ込めることで、観念的な自我を強化し、不動心を得ようとしたのかもしれない。
芥川龍之介もまた、彼の小説空間という「知の袋」の中に、人生の地獄図と世界の不条理を封じ込め、理知によって「統御」せんとした。「歯車」には、そのほころびが痛ましく露呈しているのだ。
その「ほころび」の意味をきちんと読み解くことは、吉本理論にも、フロイト理論にも、決してできはしない。
彼らの尊大な主知主義的姿勢では、芥川が直面した、とても「偶然事」とは思えないような、摩訶不思議な体験のもつ意味は視えてこない。
例えば、「歯車」の冒頭にある、「レエン・コオト」を着た幽霊の話に端を発し、真冬だというのに季節はずれの「レエン・コオト」を着た男に繰り返し遭遇した直後に、「姉の夫」が鉄道自殺したという電話を受け、しかも彼もまた、「季節に縁のないレエン・コオト」をひっかけていたという、不気味な事実の連鎖。また、「僕」が「東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見た」という体験。
これらの出来事は、偶然といえば偶然のようにもみえる。だが、芥川(語り手の「僕」)は、これらの体験を実に注意深く観察し、記録し、その中に、神秘な〈意味〉を読み取っている。
先に引用した「歯車」の文章における、「『罪と罰』の綴(と)じ違えのページ」の場面や「往来でのすれ違い」の体験の描写なども、同様である。
たとえそれが、悪意ある不可視な何物かに対する関係妄想と絡み合っていたとしても、その不吉さの連鎖が示す不可思議さの感覚は拭えない。
私たちは、「歯車」における芥川の体験をまず、そのような彼にとっての〈真実〉として、あるがままに受け取ってやるべきなのだ。
すると、そこに、私たちは、合理的な〈必然〉とそこからこぼれ落ちた〈偶然〉という、事象への主知主義的解釈(近代主義的解釈)の先入観とは全く異なる、新たな〈存在へのまなざし〉に出逢っている自分を発見することになる。
「歯車」における体験の描写は、一面では、たしかに病的で痛ましいものではあるが、遭遇した出来事の連鎖に、(たとえ不吉なものではあっても)意味深い暗示を感じ取らずにはいられないという作者の感受性のあり方それ自体は、本来的には、決して病的なものではない。(同様に、「凶」や「鵠沼(くげぬま)雑記」のような未発表の日録風の覚書[共に大正十五年記。『芥川龍之介全集』第二十二巻 岩波書店 1997年 所収]に記されている不吉な出来事の連鎖も、単なる病的現象として片づけるべきものではない。)
実際、そういう不思議な象徴的・暗示的な出来事というものは、この世にいくらでもあり、また、それに気づくだけの注意力と、とらわれのない素直な感受性があれば、誰にでも、大なり小なり体験の覚えがあるはずである。
前近代の民衆は、誰しもがそういう霊妙不可思議さに対する〈畏怖〉の感覚を備えており、それは、主・客の融合した〈生身〉の感覚を通じて、森羅万象に生の〈意味〉と〈価値〉と〈象徴〉とをつねにみずみずしく感受していた、前近代的な土俗のコスモスを生きた人々の伝統に根ざしたものであった。
芥川龍之介は、幼少期の中で、そのような土俗のコスミックな香りに包まれた育ち方をしていたとおもわれる。「大川の水」や「老年」にも、その育ち方によって培われた魂の〈下地〉は看取されるのである。
例えば、芥川中期の小説「妖婆」(大正八年作)の冒頭には、次のような叙述が見受けられる。
「あなたは私の申し上げる事を御信じにならないかも知れません。いや、きっと嘘だと御思いなさるでしょう。昔なら知らず、これから私の申し上げる事は、大正の昭代にあった事なのです。しかも御同様住み慣れている、この東京にあった事なのです。外へ出れば電車や自働車が走っている。内へはいればしっきりなく電話のベルが鳴っている。新聞を見れば同盟罷工(ひこう)や婦人運動の報道が出ている。――――そう云う今日、この大都会の一遇でポオやホフマンの小説にでもありそうな、気味の悪い事件が起ったと云う事は、いくら私が事実と申した所で、御信じになれないのは御尤(ごもっと)もです。が、その東京の町々の燈火が、幾百万あるにしても、日没と共に蔽いかかる夜をことごとく焼き払って、昼に返す訣(わけ)には行きますまい。ちょうどそれと同じように、無線電信や飛行機がいかに自然を征服したと云っても、その自然の奥に潜んでいる神秘な世界の地図までも、引く事が出来たと云う次第ではありません。それならどうして、この文明の日光に照らされた東京にも、平常は夢の中にのみ跳梁(ちょうりょう)する精霊たちの秘密な力が、時と場合とでアウエルバッハの窖(あなぐら)のような不思議を現じないと云えましょう。時と場合どころではありません。私に云わせれば、あなたの御注意次第で、驚くべき超自然的な現象は、まるで夜咲く花のように、始終我々の周囲にも出没去来しているのです。」
「たとえば冬の夜更などに、銀座通りを御歩きになって見ると、必ずアスファルトの上に落ちている紙屑が、数にしておよそ二十ばかり、一つ所に集まって、くるくる風に渦を巻いているのが、御眼に止まる事でしょう。(中略)もう少し注意して御覧になると、どの紙屑の渦の中にも、きっと赤い紙屑が一つある――――活動写真の広告だとか、千代紙の切れ端だとか、乃至(ないし)はまた燐寸(まっち)の商標だとか、物はいろいろ変(かわっ)ていても、赤い色が見えるのは、いつでも変りがありません。それがまるでほかの紙屑を率(ひきい)るように、一しきり風が動いたと思うと、まっさきにひらりと舞上ります。と、かすかな砂煙の中から囁(ささや)くような声が起って、そこここに白く散らかっていた紙屑が、たちまちアスファルトの空へ消えてしまう。消えてしまうのじゃありません。一度にさっと輪を描いて、流れるように飛ぶのです。風が落ちる時もその通り、今まで私が見た所では、赤い紙が先へ止まりました。こうなるといかにあなたでも、御不審が起らずにはいられますまい。私は勿論不審です。現に二三度は往来へ立ち止まって、近くの飾窓(ショウウインドウ)から、大幅の光がさす中に、しっきりなく飛びまわる紙屑を、じっと透かして見た事もありました。実際その時はそうして見たら、ふだんは人間の眼に見えない物も、夕暗にまぎれる蝙蝠(こうもり)ほどは、朧げにしろ、彷彿(ほうふつ)と見えそうな気がしたからです。」(「妖婆」)
ここには、芥川の土俗的・アミニズム的な感受性の片鱗が繊細に息づいている。
万象に霊妙不可思議さを覚える、こういう感覚は、もちろん、一歩まちがえると、〈迷信〉や悪しき〈暗示〉や恐ろしい〈関係妄想〉の地獄へと転落する危うさをはらむものでもある。だが同時に、その〈闇〉としての不可知性、主・客が一体となった生命的なダイナミズムの感覚は、私たちの身体の深奥に眠る野性を目覚めさせ、活力をひき出す源泉ともなりうるのである。
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この「妖婆」という物語は、芥川自身をモデルとする作者の「私」が、知り合いの「出版書肆(しょし)の若主人」である「新蔵」という青年の体験談を聞き書きするという体裁で創られているが、現代(大正期)の大都会・東京の下町に、まるで江戸時代さながらの呪術師の妖婆を登場させるという、一種のホラー的なオカルト小説となっている。
本所に住むこの妖婆は、「お島婆さん」といって、「婆娑羅(ばさら)の大神」という得体の知れない土俗神を信仰し、その霊験によって占いと加持祈祷(かじきとう)を行い、依頼人の願いに応えるという評判の呪術師である。
お島婆さんは、遠縁にあたるみなし子の「お敏」という娘を閉じ込めて、彼女を「神下ろし」による婆娑羅の大神のお告げをひき出すための憑き代(つきしろ)=巫女として利用している。
お敏には恋人がいて、それが、かつて女中として奉公していた家の若旦那である新蔵なのである。新蔵は、突然行方不明となった恋人のお敏を探し出し、お島婆さんの魔手から救い出そうとするが、ふたりの心の動きを事前に察知する妖婆の霊視能力によって妨げられ、お敏は、新蔵との仲が呪われたものだという不吉な〈暗示〉をかけられて、ほとんど金縛りの状態に陥ってしまい、新蔵に逢うこともままならない。
実は、お島婆さんは、大金を積んだ客の相場師「鍵惣」の依頼によって、お敏を鍵惣の妾にさせようともくろんでおり、そのために新蔵との仲を引き裂こうとしていたのだ。
必死になってお敏を救わんとする新蔵の想いと、「神下ろし」に利用されながらも、恋人に逢いたさのあまり、夢遊状態のうちにお島婆さんの〈暗示〉の呪縛を断ち切り、言いなりにならなかったお敏の愛の力によって、ついに妖婆の〈邪気〉は払いのけられ、霊気の激突によって起こった豪雨の中、鍵惣と密談をしていたお島婆さんは雷に打たれ、新蔵は気を失ってしまう。熱にうなされて昏睡状態に陥った新蔵が、数日後にようやく目覚めると、彼の枕元には、お敏が居て、ふたりの愛の成就を祝福するかのように、雨の日に咲いた一輪の瑠璃色の「朝顔」の花が、不思議にも枯れることなく咲いていた。
ほほえましい、ファンタジーのような作品であるけれども、ここには、芥川龍之介の、目に視えぬ霊気に対する感覚、森羅万象へのアニミズム的な感覚が、とても素直に、幸せな形で表われているといっていい。
芥川の霊気への感受性は、東洋思想の伝統に由来するものである。
中国哲学の「易(えき)」の宇宙観では、人間の心身も森羅万象も、陰陽二気の離合集散によって説明される。陰陽の気は、「太極(たいきょく)」という宇宙的な〈虚〉の源泉から生み出されるが、太極はまた、陰陽二気に内在しつつ、万有の生生流転を超越的につかさどる宇宙生命の化身でもある。人間の心身に宿った固有の霊気の流れは、つねに個の殻を超えて他者や存在に拡がり、その霊気と交わり合い、不可視の葛藤と吸引のドラマを紡ぎ出すのである。
私が先に言及した言葉で言うなら、〈個〉を包摂する〈類〉的な無意識としてのコスミックな〈闇〉の次元ということになる。
中国では、この太極・陰陽の思想は、易から老荘の哲学、朱子学、さらには陽明学へと継受されてゆき、日本でも、古代から近世に至る神道の諸流派や密教・陰陽道・修験道への影響は元より、日蓮宗や近世の朱子学・陽明学、道教的な習俗の影響を受けた民間土俗信仰など、広範囲にわたって、深い痕跡を残している。
芥川の育った、江戸後期文明の流れを汲む土俗的な下町共同体社会には、このような前近代的・東洋的な〈気〉の思想に根ざしたアニミズム的な生存感覚の伝統が、衰弱しながらも脈々と息づいていたのである。
このような類的な拡がりをもつ、主・客融合的でコスミックな〈闇〉の感覚は、改めて繰り返すまでもなく、主・客の分離を前提とした上で、客体としての現象を、ニュートラル(没価値的)な自然法則に基づく因果律による〈必然〉の顕われとして解釈し、そこからこぼれ落ちた出来事を、(確率という概念と結びついた)単なる〈偶然〉に解消せんとする、西洋近代科学的な機械論的世界観とは、完全に対極にあるまなざしだといっていい。近代科学のまなざしが切り捨ててかえりみない、人と人、人と出来事との縁(えにし)をはじめとする、偶然とは思えない、この世の事象の霊妙不可思議さというものに対して、前近代的・東洋的な〈気〉の思想は、きちんと応えてくれるだけの生命的なゆたかさと畏怖の感覚を蔵しているのである。
もちろん、先にも断ったように、このようなアニミズム的な、存在の〈闇〉への感受性は、迷信や関係妄想の地獄と紙一重の危うさをはらんでいる。
しかし同時に、不条理に抗し、人をして苛酷な現世を生き抜かしめる力を生み出す源泉ともなりうるのだ。
人は、不安や悲しみ、恐怖、嫉妬・愛憎の苦しみ、欲望や我執などによって醸成された己れの魂の汚れ・濁りを洗い浄め、〈気〉の力を澄んだ生気ある形に鍛え上げることで、身を守り、良きえにしを招き寄せることができる倫理的な存在であるという認識は、神道や儒教・道教・密教・日蓮宗など、さまざまな東洋思想の中に、根強く生き続けてきた。
芥川中期の小説「妖婆」には、そのような〈気〉の感覚の〈残滓〉が、ファンタジックな形で息づいている。新蔵とお敏の、互いを求め合う愛の純粋さと、悪しき暗示による恐怖・ためらいを乗り越えんとする無私のひたむきさが紡ぎ出す生気の強さが、妖婆の邪気に打ち勝つのである。
その〈奇跡〉の成就を象徴するように、「枯れない朝顔」が一輪咲き残っている。
同じ「大正八年」に書かれた「魔術」というファンタジーの小品と並んで、作者芥川龍之介の祈り、少年のようなういういしい憧憬が、そこはかとなく立ち昇っている幸福な作品である。
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しかし、資本制が拡大・膨張をとげ、大衆の前近代的な土俗共同体社会が解体し、アトム的な〈個〉としての生存感覚が強まった「大正期」において、主・客融合的なアニミズム的感覚、東洋的な〈気〉の感覚を、現代小説の世界でリアルに立ち上がらせることは、至難のわざであった。
そのような冒険を試みても、せいぜい、荒唐無稽なファンタジーやオカルト小説とみなされるか、さもなくば、精神病理の世界を喩的に描いた怪奇物として、深層心理学的な解読の対象になるのが、関の山である。
事実、「妖婆」という作品は、今日まで、そのような文脈で扱われてきたと思われる。
芥川龍之介が、幼少期において己れの魂の〈下地〉を培ってきた土俗的な〈闇〉の感覚の記憶を、〈無意識〉の深みから立ち上がらせ、小説という言語空間の中で存分に自在に解放してやるためには、歴史物の舞台、とりわけ古代的・神話的な時空意識が必要だった。
芥川最後のファンタジーの力作といってよい「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「老いたる素戔嗚尊」(大正九年作)は、まさしく、そのような舞台装置の下で展開された、素戔嗚(すさのお)という『古事記』に登場する異形(いぎょう)の荒ぶる神、野性味溢れる〈闇〉の化身・英雄の物語である。
もちろん、そこで表現された〈喩〉としてのリアリティは、大正期という、散文的で殺伐とした〈現代〉の世相を生きる芥川にとっては、あくまでもヴァーチャルな〈憧憬〉の対象であり、一種のロマン主義的な〈超越〉への志向の産物であったろう。
彼の〈身体〉の中に、今もなお息づき、表現を求めて疼(うず)いているアニミズム的・土俗的な闇の感覚の〈残滓〉と〈記憶〉の延長上に「接木的」に構築された、壮大な〈虚構〉のコスモスといってよかった。
嫉妬深い小人(しょうじん)どもの〈秩序〉に適合できず、つまらぬ争いに端を発した激情のほとばしりによって、己れの内に秘められていた狂暴な野性を解き放ってしまった素戔嗚が、高天原(たかまがはら)の国を追放されてさまよい、えにしをとり結んだ、得体の知れない「十六人の女たち」と共に、洞穴の中で、放縦な淫蕩の暮らしを送ったあげく、誤って大気都姫(おおけつひめ)を刺し殺し、逃走する。
明け方に大きな湖の岸に辿り着いた素戔嗚は、やがて雷雲の接近に見舞われ、茫然自失したまま豪雨に打たれる。
「素戔嗚はずぶ濡れになりながら、未(いまだ)に汀(なぎさ)の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛(かいもう)の底へ沈んでいた。そこには穢(けが)れ果てた自己に対する、憤懣(ふんまん)よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を恣(ほしいまま)に洩(も)らす力さえ、――――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ涸れ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然(もくねん)と坐っているよりほかはなかった。/天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫になった。山が、雲が、湖が皆半空に浮んで見えた。同時に地軸も砕けたような、落雷の音が耳を裂いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏(うつぶ)せになった彼の上へ未練未釈なく降り濺(そそ)いだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を埋(うず)めたまま、身動きをする気色(けしき)も見えなかった。……/何時間か過ぎた後、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより鮮かな黄ばんだ緑に仄(ほの)めいていた。」
「彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂寞(せきばく)に溢れていた。「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――――彼はそう思いながら、貪るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿って見ても、容易に彼には思い出せなかった。/その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄が伝わるのを感じた。彼は息を吞みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷(いかずち)のように轟(とどろ)いて来た。/彼は喜びに戦(おのの)いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途(みち)はなかった。/湖は日に輝きながら、潑溂(はつらつ)とその言葉に応じた。彼は――――その汀にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲って来た。」
(「素戔嗚尊」)
素戔嗚の魂の浄化と蘇生を象徴する、雄渾な叙事詩的名場面である。
少々理知的に過ぎるきらいはあるが、十分におごそかな空気感の漂う、メリハリのきいた、正確で無駄の無い描写となり得ている。
「空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂寞に溢れていた」という言葉に注意したい。私はここに、作者芥川龍之介の〈身体〉に深く沁み込み、今もなお彼の〈無意識〉の奥で、表現を求めて疼いている、コスミックな土俗の〈闇〉の原風景への痛切な〈渇き〉を感じずにはいられない。「大川の水」に息づいていた、「寂寥」と「慰安」とに包まれた、魂の原風景への渇きを。
この〈闇〉の原風景は、大正九年の芥川龍之介にとっては、もはや、幻燈のようなヴァーチャルな〈追憶〉の対象に成り果てていたようにおもわれる。
だが、彼の〈身体〉に今も息づく、無意識的な闇の感覚の〈残滓〉は、魂の〈原郷〉への遡行の想いを誘発させずにはおかない。
素戔嗚のこの〈転生〉の場面を、自然体験を彷彿とさせるリアルで稠密な風景描写と無駄の無い内面描写を通して、象徴的に紡ぎ出すことで、作者は、いまだ死に絶えていない、己れの内なる生命的な〈闇〉の残滓を、可能な限り、みずみずしい生存感覚として立ち上がらせ、それに、〈原郷〉の記憶への思慕・遡行の想いをリンクさせることで、壮大な神話的・アニミズム的な物語空間へと膨れ上がらせてみせようと、懸命に工夫を凝らしているようにおもわれる。
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芥川龍之介は、「素戔嗚尊」において、古代を舞台としながら、『古事記』のコスミックで壮大な神話世界を、敢えて、神性を宿した〈生身〉の人間を主人公とする近代リアリズム小説風の物語へと理知的につくり変えるという、なんとも中途半端で強引な冒険を試みている。
王朝物などの、芥川の他の歴史物においては、彼のリアリズム文学的姿勢は欠点とはならず、むしろ新鮮な強みとなることが多いのであるが、神話世界となると、そうもいかない。ヘタをすると、荒唐無稽な戯作物に堕してしまいかねない、ある意味で無謀な創作姿勢ともいえる。
この時期の芥川は、それほどの思い切った試みをしなければならぬほどに、己れの内なる〈闇〉の表現に渇いていた、ということもできよう。
より正確に言うなら、天地の息づかいを肌身で感じていた、野性味溢れる素朴な古代人の生存感覚に想像的に想いを馳せ、その想像力を、己れの内なる〈闇〉の感覚とリンクさせながら、スケールの大きい、解放感のある物語的時空を立ち上がらせることで、「大正期」という資本制近代を生きる芥川自身の閉塞感と不条理感を打破せんと切望していた、ということだ。
その冒険の甲斐はあったと思う。
「素戔嗚尊」は、たしかに、あまりにも理知的・人工的につくり込まれたヴァーチャルな物語空間という印象は残るが、この時期における芥川なりの〈闇〉の解放は、精一杯できていると、私にはおもえるからである。
それだけに、改めていぶかしく思わずにはいられないのだ。
これほどの美事な生命的描写を紡ぎ出すことのできていた作家が、なにゆえに、晩年期の芥川のような、痩せ細った、神経症的な近代文学者の場所に「縮退」してしまったのか?と。
「素戔嗚尊」「老いたる素戔嗚尊」が書かれた大正九年までは、存在へのコスミックな闇の感覚と倫理的な気高さへの希求は、たしかにこの作家の中で、生き生きと命脈を保っていたようにおもわれる。
しかし、彼の神経衰弱が悪化し始めた「大正十年」頃からは、メタフィジカルな闇の感覚は急速に消失していく。
繊細な文体の中にも温存されていた闊達な野性味やのびやかさが失われ、まなざしは、酷薄な地上の散文的・三次元的現実に緊縛され、生存感覚の振幅は狭窄されて、作品世界は息苦しさを増してゆく。
少年期における心の変容を描いて、大人になることへの強烈な痛みを覚えさせる名作「トロッコ」(大正十一年作)を最後に、芥川の文体の中に残存していた独特の繊細な温かさの感覚、抒情的な潤いといったものも希薄になっていき、小説は、「一塊の土」(大正十二年作)や「玄鶴山房」(昭和二年作)のように、冷やかで乾いた客観的写実の性格を強めていくのである。
なぜ、このような変容が生じたのであろうか?
ひとつ考えられるのは、小穴隆一宛の遺書の中で告白されている「秀夫人」との恋愛(密通)関係による傷である。芥川によれば、秀夫人との関係が起こったのは、彼が「二十九歳」の時だという。数え年だとすれば、「大正九年」の出来事である。この年に書かれた「素戔嗚尊」には、高天原を追われた後の素戔嗚の、大気都姫を中心とする女たちとの洞穴内での淫蕩な暮らしぶりが、実に執拗に描かれている。素戔嗚は、愛欲の泥沼に溺れながらも、地獄の苦しみを味わっており、繰り返し懸命に脱出を試みるのだが、そのつど女たちの怪しい色香の誘惑に負けて、洞穴に舞い戻ってしまう。
やがて女たちは、素戔嗚に代わって、一匹の精悍で不気味な牡(おす)の「黒犬」を可愛がるようになる。ついに女たちの獣姦の対象にまでなった黒犬への嫉妬に駆られた素戔嗚は、犬の代りに誤って大気都姫を刺し殺してしまい、それを機に、ようやく魔窟から脱出することができる。
これらの一連の淫蕩の日々は、過剰といってもよいほどの粘っこさで描写されており、その後に、すでに引用した素戔嗚の魂の浄化(転生)の場面が登場するわけである。
この劇的な〈浄化〉のシーンに、〈喩〉としてのリアリティを与えるために、作者は、これだけの粘着的な〈淫蕩〉の物語を紡ぎ出さねばならなかったのだ。
作品を素直に読む限り、作者芥川が、この時期(大正九年)、ある痛切な愛欲の地獄を抱え込んでおり、その中でもがき苦しみながら懸命に脱出を図っている、という印象は拭えない。古代を舞台とする虚構作品ではあるが、それだけの〈喩〉としての迫真性・リアリティを、私は、この「素戔嗚尊」に感じずにはいられないのである。
この作品によって気持がふっ切れたのか、芥川は、翌年(大正十年)の中国旅行の後に、秀夫人との関係を一応断ち切ってはいる。小穴隆一宛の遺書には、「秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである」という言葉があり、夫人と別れた後の次第については、「その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかった女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジュアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる」と記されている。(『芥川龍之介全集』第二十三巻 岩波書店 1998年 参照。)
よほど苦しめられていたとみえる。
その恋愛の後遺症は、彼の作品にも暗い影を落としている。(例えば、小説「藪の中」(大正十年作)や、遺稿「或る阿呆の一生」の中で「狂人の娘」として暗喩的に語られている女性像のように。)
秀夫人との恋愛関係から受けた傷は、おそらく、深刻な女性不信とエロス的な呪縛への恐怖、どす黒い自己嫌悪と後悔といった形をとって、大正十年以後の芥川を苦しめたようにおもわれる。秀夫人との関係の後遺症の他にも、毎日新聞社海外視察員として中国に旅行した折の(上海での病も含めた)体験や関東大震災との遭遇も、芥川の人生への挫折感・不条理感を悪化させるものであったかもしれない。
もちろん、よく知られているように、彼の家族を近親憎悪的に囲い込んでいた親族、特に龍之介を溺愛していた「伯母」や義父母との葛藤、職業作家として成功し続けなければならないという切迫感、文壇における「立ち位置」への自意識なども、生き難さをつのらせる要因であったろう。
芥川は、生涯にわたって、人生=実生活に対して、救いようのない暗い想念を抱き続けた。
人生とは、人間という得体の知れない生き物が、悪因縁のしがらみの中でもがき苦しみ、互いに傷つけ合い、胸の底に癒し難い孤独を抱えながら頼りなく浮遊している、悪夢の連鎖のようなものだという、つらいイメージをふっ切れなかった。
彼は、関係の障害のるつぼであり、不条理性の別名である、実生活という〈カオス〉を、ひたすら忌避し、怖れたのだ。
実生活の荒波にいや応もなくさらされ、それに対して、果敢に、即自的に身を投げ入れることのできる、大衆のタフな生きざまに、彼は内心、去勢されるような蒼ざめた恐怖を覚えていたに違いない。
だからこそ芥川は、己れの理知的・観念的な〈意識〉によって了解し、統御しうる、小説空間という多彩な「人生の地獄図」を紡ぎ出すことで、実生活という〈闇〉のカオスに対峙せんとしたのだ。
前期から中期にかけての芥川小説の中心が「歴史物」に置かれていたのも、現代人の実生活に垣間見える醜悪な生臭さに対して、彼の繊細で傷つきやすい精神が息苦しさを覚えていたからではあるまいか。
「現代物」が強いてくるモチーフの内、「歴史物」に移せる限りのものは、全て移していったようにおもえる。現代物のモチーフを歴史物に移すことで、窮屈な道徳的・社会的通念の制約から解き放たれ、大胆で残酷な実験も可能となるし、アトム化の風圧にさらされていた大正期の資本制近代の殺伐とした「裟婆苦」の世相から、巧みに距離をとることもできる。歴史物と現代物の創作のバランスをとることで、精神の安定を図っていたといってもよいだろう。
このバランスが、大正十一年以後一気に崩れ去っていったのは、だから、芥川の精神の安定が失われていったことを物語っている。
歴史物が減り、現代物の比重が圧倒的に高まっていくわけだが、このことは、芥川の〈現実〉への対峙の仕方、たたかい方に、ある重要な変化が生じていた事を示している。
すなわち、かつてのように、「裟婆苦」の現実から距離をとるのではなく、逆に、現代物というフィルターを通してみつめられた、狭窄された現実に、自身を同化させようとしていたということだ。
晩年期の芥川作品に、「私小説」(もしくは私小説的作品)のウェイトが高まるのも、そのせいではないかとおもわれる。
彼は、休む間もなく、がむしゃらに書き続け、〈自意識〉を酷使し続けることで、芸術という〈砦〉を膨れ上がらせているうちに、いつしか不可知なる〈闇〉の中に、素直に〈身体〉をゆだねることができなくなってしまったのではあるまいか。
何もかもを、己れの〈意識〉によって神経症的に統御せんとする、デモーニッシュな情熱に魂を食われてしまったのだ。己れ自身のライフ・ヒストリーも、己れの生きる大正から昭和初年の現実も、全てを、己れの〈意識〉によって仕切ろうとした。
〈無意識〉の広大無辺さへの〈畏怖〉の心を、いつしか忘れ果てていた。
裏を返せば、それだけ、いつの間にか、〈無意識〉への窓口である身体感覚の〈振り幅〉は狭窄され、冷え切ったものと化していたということだ。身体の〈悲鳴〉に素直に耳を傾けることができないほどに、〈自意識〉は、傲慢に肥大化していたともいえよう。
不条理感の高まりによって、〈無意識〉が痛めつけられ、身体が冷却化の一途を辿るにつれて、芸術家としての〈自意識〉は逆に先鋭化し、私小説を含む「現代物」への傾斜が強まっていったと考えられる。
芸術の言葉によって一面的に規定された、酷薄な観念的現実を、敢えて己れ自身の〈棲み家〉として択び取ることで、晩年期の芥川は、自らの〈身体性の衰弱〉をカバーし、あるがままのカオスとしての現実に、〈意識〉の力によって対峙せんとした。
しかも、芸術という名の人生の散文的な地獄図は、例の地動説的イデオロギー(アトミズム的・機械論的世界観)によって、強固な認識論的裏付けを獲得していた。
彼の〈自意識〉はもはや引っ込みがつかず、意固地な身構えを崩すことができないままに、行き着く所まで行き着くほかはない、内面的な地獄の渦中をひたすら突き進んでいった。
おまけに、芥川は、世間体を恐ろしく気にかける人物であり、また、(おそらく芥川夫人を除けば)身内にも友人にも、己れの病への〈恐怖〉を正直にリアルに伝えることは、至難のわざであった。精神病院に入れられることも、ひどく怖れていた。どこにも、出口はなかったのである。(この稿続く)
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