〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第17回) 川喜田晶子

  • 2018.10.29 Monday
  • 18:48

 

〈狂〉への転調

 

 日常の中の一こまが、突然〈狂気〉としての象徴性を帯びる。

 一見、地味な写生と見える句の中で、次元を変容させられるモチーフたちの表情には、〈個〉の殻を超えた無意識の渇望がさりげない傲岸さで滲んでいることがある。

 

月光に開きしままの大鋏(おおばさみ)  真鍋呉夫

 

 開いたままうち置かれている大鋏が、月光を浴びて、日常生活の道具から舞台上の主役の趣に変貌する。

 人生において、何か大きなものを切断する不吉さと勇断とを月光に晒しているこの主役の表情は、吉とも凶とも決めつけ難い。〈切断〉したことの意味が、ヤヌス神のようにいつでも反転しそうな不穏さを帯びている。

 この大鋏を見つめる作者の内に、むしろ反転したヤヌスの貌を見てみたいと望む、冴えざえとした狂気が息づいているかのようだ。

 

青き夜の猫がころがす蝸牛(かたつむり)  真鍋呉夫

 

 この句においても、作者にわしづかみにされた情景が舞台に上り、その舞台を統べる「青き夜」の力が、猫に蝸牛をころがすという行為をさせているように見える。

 蝸牛をころがすことに愉悦をおぼえる猫の目は妖しくきらきら輝いている。

 ころがされる蝸牛の殻と地面との接地感も、読み手の五感に拡大されて響く。

 それでいてそこには、猫の欲望や蝸牛の苦痛への人間くさい感情移入を許さぬ、風景としての取替えのきかない絶対感が生じている。猫と蝸牛の、互いに魅入られたように離れられない関係のかたちは、一つの冷たい炎がゆらめく風景のようだ。

「青き夜」の次元で眺めるならば、人の世の関係や意味も変容するだろう。幸か不幸かという色彩としてではなく、善か悪かでもなく、〈個〉を超えたものに統べられることで深まる固有の陰影への、作者の暗く透徹した渇きと洞察。

 

狼の滅びし郷(くに)のぼたん雪  江里昭彦

 

 狼がこの国からいなくなったのは明治三十八年だという。

 この句で〈狼〉が象徴するものは、明治近代国家によって滅ぼされた前近代的な土俗共同体としての〈郷(くに)〉の内実、大衆の魂に、有機的で野性味のあるコスミックな陰影を保持させていた世界観、といえよう。

 しかし作者は、単に昔を懐かしんでいるようには見えない。

 狼の生きていた頃のぼたん雪と違って、今のぼたん雪はわびしい、などと言っているのではない。

〈狼〉が滅んだことで、その郷に降るぼたん雪はむしろ、生きどころを失くした〈狼〉の魂をたっぷりと含んで降るようにおもわれる。深々といつまでも降り続き、のっぺりとした現代をあまねく降りうずめてしまおうとする狂暴な意志を秘めているかのような、ひとひらひとひらの湿潤さと重さ。暗い純白の衝動。

 滅ぶことで得た自在感を駆使する〈狼〉の、魂の姿としてのぼたん雪。

 

春の月ゆらゆらと木をのぼる水  原裕

 

 植物がその生存に必要な水分を地下から吸い上げている姿などではなく、その水分の流れへの作者の想像力などでもなく、私たちの存在を支えている〈水〉、この世界を統べる〈水〉が、闇の底深くから汲み上げられて存在の内を巡る姿の具象化である。

「春の月」におぼろに照らされることで存在の輪郭が曖昧になるとき、存在の本質はかえってくっきりと顕ちあらわれる。

 この〈木〉は、私たちの身体そのものである。〈水〉が身の内を巡る体感に素直に浸される幸福感は、この〈水〉を見ることのできない世界観への、静謐で狂おしいアンチテーゼでもある。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第16回) 川喜田晶子

  • 2018.09.26 Wednesday
  • 17:49

 

〈うそ〉と〈ほんと〉

 

 人は、表層を裏切るものをたっぷりと抱えて生きている。そのことが、危うさや悲哀でもあれば救いでもある。

 

高々と蝶こゆる谷の深さかな  原石鼎

 

 己れの内にざっくりと深く切れ込んだ〈谷〉があることを憶い出させる一句。平らかに穏やかに見える他者の内にもまた、そのような〈谷〉の底知れぬ深さがあるかもしれない。人生の表層の浮き沈みの激しさと必ずしも比例するわけではない、その深さ。

 その〈谷〉が深ければ深いほど、〈蝶〉はより高々と、悠然と、こともなげに谷を越えてゆく。軽やかな飛翔と目くるめく深さとの対比の鮮やかさ。

 このような〈谷〉を一つ、また一つ、越えるたびにこの〈蝶〉の内に育つ〈闇〉の、他者にも己れ自身にも測りがたい重さと、取り替えのきかなさ。

 

無時間の猫抱けば芒また芒  北原志満子

 

 誕生から死までを線分として、終点を意識しながら青ざめた細切れの時間をせわしなく消費してしまう人間と、そのような時間意識の枠外をまどろんだり、時に爪や牙で枠を蹴散らしたりしている〈猫〉との対比。

 線分を蹴散らし、その延長の直線も蹴散らし、くるりと円環を成して〈無〉を獲得する〈猫〉の時間。

〈無時間〉の猫を抱くことで、その〈猫〉の持つ光景が人の魂に映り込む。「芒また芒」の光景は、誕生以前と死後に時空を拡張しながら、万象を〈無〉に抱き取ろうとするような、甘やかなニヒリズムを感じさせる。有限の「線分」意識に疲弊する魂の裏側に潜む、甘美な〈無〉への前のめりな憧憬。

 

たましひのまはりの山の蒼さかな  三橋敏雄

 

 視覚器官としての目がとらえる山の蒼(あお)さではなく、「たましひ」がとらえた山の蒼さ。

「たましひ」と「山」とは、主体と客体として別物ではなく、「たましひ」のありよう次第でその蒼さを変える「山」である。「山の蒼さ」への感動は、そのまま、そのような蒼さを感受し得る己れの「たましひ」への想定外の讃嘆の念でもあろう。

 己れを真に肯定する力を汲み上げられるのは、このような「たましひ」のドラマの水底からである。

 

時計屋の時計春の夜どれがほんと  久保田万太郎

 

 人も風景も真実も、輪郭がおぼろになる春の夜。

 時計屋の時計がどれも別の時刻を告げている。どれか一つを信じるならば、他の時計は全て嘘になる。しかも、その一つが真実だという保証も無い。

 人の人生は、時計屋の時計のどれか一つだけを買い求めるような大ばくちなのであり、その危うくて切ない賭博性という人生の本質を、ゆらりと一枚の絵にして差し出されたような。相対化され、指の隙間をこぼれ落ちてゆく〈生〉の意味を、「春の夜」が甘くけだるく融かし合わせたような。

 

満開のこみ上げてくる櫻かな  安田鈴彦

 

「櫻」の肉体の雄々しさ、みずみずしさ。

 観念を蹴散らして、有無を言わせぬ欲動としての「満開」が、肉体の深奥からこみ上げてくる。

「肉体」がそのまま清冽な魂ならば、どれほど美しく生きられることか。

 満開の後の散りざまの潔さだのはかなさだのに浸食されぬ、素の肉体の雄渾。意味に満ちた「櫻」への讃美。

「桜」として安易に消費されない「櫻」を感受した瞬間の躍動感が読み手を包む。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第15回) 川喜田晶子

  • 2018.08.31 Friday
  • 12:49

 

〈生き残り〉の哀歓

 

人はみな鬼の裔(すえ)にて芒原(すすきはら)  木内彰志

 

 何かが一面にひろがる風景の〈無辺〉の感触は、私たちを、どこから来てどこへゆくのか、という問いへと誘うのだが、「人はみな鬼の末裔なのだ」という認識も、〈芒原〉にたたずむことで自然に受け容れられてしまう。

 鬼の領域と人の領域が隣接しながらも険しく排除し合い、切なく惹きつけ合い、混じり合って、いつか人がかつて鬼であったことを忘れ去るまでの壮大な時間が、そこには〈芒〉の姿をとって見はるかされるのだ。

 間歇泉のように突如濃く噴き出す鬼の血を帯びて歴史を揺るがす者もいたであろう。トゲのように、十字架のように、歴史に刺さっている彼らの矜持と哀しみ。あるいは、誰にもその血の濃さを気取られずに一生をまっとうした者の、いぶし銀のような生の充溢や鬱屈もまた、〈芒原〉には沁みていよう。

 遺伝子なるものが〈らせん〉を描いているとすれば、〈鬼〉の血と〈人〉の血、あるいは、〈鬼〉を忌む血と〈人〉を忌む血のせめぎ合いが表現を求めてやまぬからかもしれない。

 

絵ぶみして生きのこりたる女かな  高浜虚子

 

 キリストの像を踏んでみせるか、踏まずに信者であることを告白して処刑されるか。

 この女は踏んで生きのこってみせた。

「生きのこりたる」には、信仰を共にする仲間たちは処刑されたけれども、この女だけは生きのこってしまった、というドラマが簡潔に提示されている。生きのこって、今、眼前に存在している。心を占めるのは悔いなのかふてぶてしい安堵なのか、その両方なのか、詮索されないままがつんと提示された存在の、ひたすらな生々しさもまた、十七音を溢れて迫ってくる。

 正岡子規の〈写生〉理念を受け継ぎ、「客観写生」「花鳥諷詠」を俳句のスタンダードとして樹立した、高浜虚子。伝統という母胎に育まれてこそ〈写生〉の近代性が革新的であり得た子規、その理念を逆説的に支えていたコスミックな世界観が衰微し、空洞化してゆくしかなかった明治・大正・昭和という時代に、〈表現〉が生き残るとはどういうことであったのか。

 虚子の内に、「絵ぶみ」することで生き残る道を択んだけれども、心の底で信じ続けたうらはらな何かが疼くことはあったろうか。

 

方舟(はこぶね)に誰をのこすか霜の声  鈴木明

 

 凍てついた冬の夜。〈霜の声〉だけが世界を領しているような、人の気配の希薄さ。

 ふと、世界が更地になる瞬間の究極のディバイドに立ち会っているような冷気に包まれる。

 方舟に誰をのこすのか。その時、どんな基準が適用されるのか。新世界で役に立つかどうか、美醜、強弱、旧世界での功績、倫理、純・不純、清濁、あるいは偶然?それとも気まぐれ?

 ひとたびこの冷気の選択権が発動してしまえば、人間にとっては酷薄な不条理の風景がひろがるだけなのかもしれない。その酷薄な世界の更新は、人間が握り締めたがっている〈意味〉とは異質な水準で発動する。

 そのような不条理な超越性に身体を開かざるを得なかった者の、不敵な風貌がちらつく。己れと世界の〈意味〉の手触りを冷ややかに拉し去られながら、今一度、異次元の冬の荒野に傲然と着地するような。

 

   幻影     中原中也

 

私の頭の中には、いつの頃からか、

薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、

それは、紗(しゃ)の服かなんかを着込んで、

そして、月光を浴びてゐるのでした。

 

ともすると、弱々しげな手付をして、

しきりと 手真似をするのでしたが、

その意味が、つひぞ通じたためしはなく、

あはれげな、思ひをさせるばつかりでした。

 

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、

古い影絵でも見てゐるやう―

音はちつともしないのですし、

何を云つてるのかは、分りませんでした。

 

しろじろと身に月光を浴び、

あやしくもあかるい霧の中で、

かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、

眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 

 

 詩歌という表現形式を駆使してもなお、中也の中には他者に伝わり切らない〈闇〉を抱えたピエロが棲んでいたようだ。

 現実をサバイバルする能力に乏しい「薄命さうな」ピエロは、「紗」の服を着込んで月光を身に沁ませながら何かを訴えかけている。

 弱々しい手真似の意味は「つひぞ通じたためしはなく」、つまり、中也自身にも己れの無意識を白昼の言語に置き換えることが完全にできたためしはなく、「あはれげな、思ひをさせるばつかり」であった。「唇」を動かしてみても、「古い影絵でも見てゐるやう」。時代の表層からずれている自身の無意識がもどかしくてならない。

 しかし、そのピエロの「眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした」。時代と意識は白昼の太陽に照らされており、その光から逃げることを許されないのだが、そこで生き抜くことのできない中也の無意識は、夜の霧と月光に包まれて、「かすかな姿態をゆるやかに動かしながら」やさしい存在であり続けている。

 真昼の太陽でもなく、漆黒の闇でもなく、「あやしくもあかるい霧の中」でやさしい眼をしたピエロの柔和な強靭さを、中也はつつましく遺してくれた。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第14回) 川喜田晶子

  • 2018.07.16 Monday
  • 15:23

 

想い出す世界・忘れる世界

 

 この世界の可視的な成り立ちを根底からひっくり返すことも、定型短詩は得意である。短さのゆえに、読み手は仮構された世界の奥ゆきをいかようにもはるばると想い描くことができる。異世界のほんの欠片を提示されるだけで、私たちは深い呼吸を取り戻すことができる。「もしも」が「ほんとうは」へと壮大に膨らむ。

 

月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ  池田澄子

 

 月の夜の柱の望みを肉感的に感じ取り、応答する作者の口ぶりが微笑ましく躍動的だ。

 そんなに咲きたいのなら、遠慮なくどうぞ。

 家を支える「柱」として加工され、身動きすることを許されなくなってしまった樹木が、「柱」としてなお、呼吸し、世界を感受・感応し、望みを抱きもする。削られた望みが、月の夜には芯からうずくのかもしれない。どこか、社会という建築物の一部として加工され、固定され、本来の息づかいを、芯からうずく望みを、忘れてしまった現代人の姿にも重なる。

 一度咲いた「柱」は、その一夜だけではなく、それからも「咲く」ことのできる命を生き続けるだろう。そんな「柱」とのこれからのひそやかな共同性まで受容しながら、作者は「どうぞ」と勧めているように見える。

 

綿虫に一切をおまかせします  川崎展宏

 

 一切をおまかせするのが神仏ではなく、いかにも非力そうな「綿虫」であることのかわいらしさと切なさ。作者はどれほどの難儀をどのように行き詰まったのだろう。理知の限りを尽くして、神仏にも祈り尽くして、もはや打つ手が無いと感じたときに、冬の日をはかなげにちらほらと舞い飛ぶ「綿虫」に全てをゆだねる愚かしさは、もしや聡明さなのではないだろうか?

 もしこの世の深い摂理を取り仕切っているのが実は「綿虫」だとしたら?

 望みとそれが叶うこととの筋道を、強固で冷厳な権力としての非合理に握られ、操られるくらいなら、いっそ、そのような権力からはるかに遠そうな「綿虫」に祈りたい。ゆだねたい。彼らの、我執も強制力も無さそうな存在感に、この世の摂理も己れの一切も、まかせたときに見える風景に賭けながら祈りたい。

 強固な意味を強いられる冷徹さから逃がれ、ぎりぎりのところでニヒリズムからも逃がれ、合わせる掌の内に捉えようとする〈意味〉の軽やかさと温かさ。

 

満開の森の陰部の鰓(えら)呼吸  八木三日女

 

 むせかえるような満開の桜の森。

 群れとしての桜花の息づかいを濃密に浴びた作者は、水に漬かってうごめく生命体として森の総体を感受してしまう。森の存在ゆえに、世界が〈水〉の相貌を帯びる。その森を一つのコスモス(宇宙)たらしめている「陰部」を探り当てるのは、作者の「目」ではなく、魂の拍動ないし呼吸であろう。めくるめくような〈闇〉のカオスとしての「陰部」において、森とともに作者もまた「鰓呼吸」を始める。原始の息づかいとカオスの記憶に浸潤される時間。

 

霧なめて白猫いよよ白くなる  能村登四朗

 

 霧をなめることで、白猫がいよいよ白くなる、という因果律によって、世界が揺さぶられる一句。

 白猫がいよいよ白くなることで、霧の中でその輪郭が消えてしまいそうな映像が喚起される。その映像は不快ではない。不安をそそるが魅力的である。

 では、私たちも霧をなめることで、存在の輪郭を消すことができようか?

 その問いは、自分の存在を霧に同化して消し去りたいという不穏な渇望を、己れの内にまさぐる契機となる。

 存在とは、そもそも霧から生まれて霧に還るものではないのか?

 不穏な問いが連鎖反応のように湧き出でて、輪郭を保持している己れの肉体の、確かさと不確かさをもてあますようになる。世界の輪郭もまた、不確かなものなのだと気づいた肉体を抱えて、あたりを見まわすようになる。

 

炎えるかもしれぬ薊(あざみ)を束ねおり  永井江美子

 

 薊という花は、異形性と押し殺したような情熱を感じさせる。

「炎えるかもしれぬ薊」は、だから作者の内にあるそのような情念の喩であろう。己れの内に、いつ炎えるかわかったものではない何かを抱えている。「束ねる」という行為は、それをなだめるようでもあり、なだめることで炎えるエネルギーをそそっているのかもしれず。己れの手の為す「束ねる」のゆくえを待ち構える目線が艶やかだ。

 

尾をいつか忘れていたり秋の暮  酒井弘司

 

 作者は狐である。人間に変化(へんげ)して、人間の女と出逢って恋をして、今では女房と子どもとともに穏やかな日常を送っている。誰にも、女房にさえも、狐であったことなど気取られずに。

 秋の暮にふと、夕空を眺めていた刹那、「尾をいつか忘れてしまっていた」ことに気づく。自分がもとは狐であったことや、尾を持っていたことを思い出すのではなく、「忘れちまってたな」ということに気づくのである。

 もとの狐の性(さが)が顔を出した、思い出した、という瞬間が詠まれているのではない。尾があったことなどいつか忘れてずいぶんと長く暮らしていたものだ、忘れられるはずもないものをよくも忘れていたことよ。その気づきに感動の焦点がある。

 狐と尾は、作者の内なる異形性の喩であろう。

 この世の仕組みからはみ出してしまいそうな性(さが)を抱えてひりひりと生きていたのに、よくもまあ、生活というやつは、日常というやつは、自分にそれを忘れさせて、生きさせるものよ。

 作者にとって、句作とは、時々己れの「尾」のありようを確かめる営為であるのかもしれない。

 そして、私たちの〈生〉が、とある狐の転生後の時間だとしたら?

「尾」の想い出し方と忘れ方のはざまに、誰の人生も滲むようにおもわれる。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第13回) 川喜田晶子

  • 2018.06.30 Saturday
  • 15:28

 

〈けもの〉の匂い

 

〈けもの〉に喩える営みによって解放されるものがある。

 私たち、あるいは私たちの内なるなにものかを、解き放つための十七音、または三十一音の潔さ。

 

 大いなる鹿のかたちの時間かな  正木ゆう子

 

 梟(ふくろう)や森の寝息の漏るるごと  無田真理子

 

 早春の馬はしり過ぎ火の匂い  穴井太

 

 狼(おおかみ)のごとく消えにし昔かな  赤尾兜子

 

 こめかみは鱗(うろこ)のなごり稲光  秋月玄

 

 秋といふ生(いき)ものの牙夕風の中より見えて寂しかりけり  与謝野晶子

 

 夕月を手に取るやうにやすやすと我が鱗(うろくづ)に触るる君かな  桐島絢子(川喜田晶子)

 

「時間」が「鹿のかたち」に喩えられる新鮮さ。

「大いなる」によっておごそかな聖性が、「鹿」であることによって非日常的でありながら遠ざかり切らない、穏やかさと温かさをはらんで息づく生活の「時間」のとしてのたたずまいが、正木ゆう子の句には保たれている。融合の相貌で顕ち現れる、非日常と日常。手に触れられる距離と生身の体温。それでいて侵すべからざる聖性に充ちた、時間。生活の内にありながら、稀有な。稀有でありながら、この時間が無ければ私たちの存在を支える不可知の気配との接点もまた失われてしまうであろう、必須の時間。

 

 梟の啼き声を、森の寝息が漏れるようだと喩える、無田真理子の句。

 聴覚にだけ訴えかける句ではなく、〈存在〉の不可知の領域の気配を全身で触知する瞬間を生々しく想起させる。梟とは、実は森という巨大で得体の知れないけものの寝息が形になった姿ではないのか。あるいはまた、さらに測り知れない〈闇〉という存在の心の臓や魂がそこに横たわって息づいている姿を、私たちは「森」と呼んでいるだけではないのか。

〈闇〉の在り方への想像力を、ほの暗くそそのかす比喩の力。

 

「早春の馬」がはしり過ぎることで感じとる〈火〉の匂いとは何か。

 真夏の馬ではなく、「早春」であることで、穴井太の句からは、凄烈で若々しい切り裂くような危うさが放たれる。危険も伴う生命的な燃焼への予感と期待。まだ解放されていない、まだ燃やしていない、己れの内なる〈未知〉が、燃やすより前に〈火〉の匂いを発する。そんな領域が己れの内にまだあるならば、いかほどの齢であろうと、人は「早春」を生きているのかもしれない。

 

 日本から「狼」がいなくなったのは明治三十八年だという。

 前近代的な風土性と、それに育まれた人々の精神性が、〈近代〉によって駆逐されたことを嗅ぎ取ったかのように、姿を消した「狼」。

 赤尾兜子の句で消えたものは「昔」である。単に「昔」を懐かしんでいるというより、自分たちにふさわしい居場所ではないことを俊敏に察知して消えた「狼」のように、「昔」もまた、今の世に永らえるべきではないことを悟って消えていってしまったのかもしれない、という把握が滲み、苦さが伝わる句。

「時代」もまた、〈けもの〉のような嗅覚を持ち合わせているのだ。

 

「こめかみ」は、実は「鱗」のなごりなのだという、秋月玄。それも龍の鱗である。

 眼前の稲光に龍の荒ぶる姿を見た瞬間、作者の「こめかみ」もその龍に感応してうずいたのであろうか。かつて、己れが〈龍〉であった証をまさぐる恍惚。己(おの)が肉体のどこかに、聖なるものの痕跡を見出すことで、現実の不条理を踏みにじり、地上的な生の枠組みを揺さぶる。十七音の挑戦。

 

「秋といふ生もの」の「牙」を詠む与謝野晶子。

 無常観に己れを差し出すようになじませていた前近代的な情緒から逸脱し、近代的な自我の「寂しさ」を提示する。「秋」という生きものが夕風の中を晶子の魂へ忍び寄る。同じ孤独を、それも〈けもの〉のような孤独を、嗅ぎ分けるのかもしれない。その「牙」に噛まれて確かめられる「寂しさ」は、他の誰の「寂しさ」でもない、己れひとりの誇り高い、飼い慣らされることのない「寂しさ」である。

 

 自作から一首。相聞歌の体裁をとって解き放ちたかったもののかたち。

「君」は、たやすく「夕月」を手に取ることのできる存在である。人の世の理屈から存分に自在にはみ出した力の駆使。〈水〉の象徴としての「夕月」を、身体の延長のように扱うそのたやすさで、「我が鱗(うろくづ)」にも苦も無く触れることができる。そのたやすさは、逆に言えば、「我が鱗」の触れ難さ、扱い難さでもある。

 永く永く、たったひとりで守りぬいてきた「鱗」。誰にも気づかれず触れられず認められず、自らそぎ落とすことなく、守りぬいてきた「鱗」の〈意味〉が、魂の宙宇に潜んでいる。

〈意味〉へのもがきを秘めた「鱗」を、守りぬき解き放つ苦しみと歓びは、短歌という器に載ってどこまで届くだろうか。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第12回) 川喜田晶子

  • 2018.05.28 Monday
  • 21:08

 

隠し持つ欲望

 

 無意識を表現してこその文学。

 俳句や短歌といった定型短詩において、無意識に隠されているものはどれほどの振幅で表現され得るだろうか。

 

致死量の遊びせんとや犬ふぐり  三木冬子

 

肉体やとりとめもなく青葉して  鳴戸奈菜

 

能面のくだけて月の港かな  黒田杏子

 

馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ  塚本邦雄

 

「致死量の遊びせんとや」は、もちろん『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」を踏まえているだろう。

 後白河院が夢中になったという今様を集めた『梁塵秘抄』には、ニヒリズムをバネとして現世を享楽的に肯定せんとする、時代の転換期の過剰な律動を感じるのだが、この句では、「犬ふぐり」の幼児的な愛くるしい小花が無数に咲き乱れる姿と取り合わせられて、「致死量」の過剰さもどこか日常的な視野に刈り込まれている。

 だが、その可憐な姿の「数え切れなさ」という非日常性への渇望は、他界へのなだらかな跳躍をイメージさせ、このままその渇望が増殖するなら「致死量」を超えるのではないかという不安・誘惑を喚起しているのだ。そこに『梁塵秘抄』のニヒリズムが適確に招き寄せられている。

 

 鳴戸奈菜の句における感動の中心は「肉体」。

「青葉する」のが樹木でもあり自身の肉体でもあるように感じた時間の、突出した手触りをそのまま読み手に差し出している。

「とりとめもない」のは、肉体の主の意図など蹴散らして青葉しているからであり、青葉することでいったい何をしようとしているのかも定かではないからだ。その、因果律とも目的性とも無縁の、無邪気なエロスを撒き散らす森林のような肉体を、己れが隠し持っていたことに感動しているのだ。その感動の青々とした肉感性に、読み手もまた、とりとめもなく感覚がざわめき始める。

 

「能面」が砕ければ、演者の素顔が顕われる。

 フォルムの固定された〈面〉であるがゆえに、多彩な情念を抽象度の高い形でシンボリックに表現し得るが、演者の固有性を隠匿する〈面〉でもある。

「月の港」と取り合わせられることで、砕け散った能面はきらめくさざ波と化して、情念の舞台としての「港」に浮かぶような映像を喚起する。

 砕けてこそ、女。

 破砕されたペルソナ。

 寄せては返す固有の情念のさざ波。

 大海の無辺に連続する「港」という舞台の、不安的な濃密さと底なしの受容力。

 

 塚本邦雄は周知のように、寺山修司・岡井隆らと並んで前衛短歌の旗手として名を馳せた歌人である。絢爛たる芸術至上主義的作風において散文的・地上的日常を拒み続けた塚本の代表歌。

 三木冬子の句が、ニヒリズムを柔和な日常的視野に刈り込んだのとは対照的に、日常の営みに潜む非日常性への渇望が、当然のように過激な境地へと一線を踏み越えてゆく姿を描き、戦後的な〈現実〉の枠組みを異化しようとした。

 下の句に露呈する単純な芸術至上主義的倒錯性の背骨を、厳しく鍛え上げているかのような上の句には、酸鼻で散文的な〈現実〉の裏返しとしての〈幻想〉、といった枠組みを、内側から突き詰めることで超えようとするかのような、塚本の不敵な気概が滲む。

 その馬に騎乗し、人が己れの命を預けるのであれば、馬を洗うという営みは、その魂が冱(さ)えわたるまで為されなければ意味がない。半端な洗い方では、人と馬の一体感は生まれない。人と馬が一体となってもう一つの存在としての魂を獲得することで、馬の疾駆には〈現実〉を超える澄み切った聖性が伴う。その聖性を引き出すように「洗う」という営みは為されねばならないはずだ。それが為されない洗い方では、人は騎乗によって命を落としかねない。

 では、そのような馬の洗い方に匹敵するように人を恋うならば。

 己れと相手が一体と化して、もう一つの新たな存在として生きられるように「恋う」という覚悟、それは、我執によって相手を殺してしまうといったみすぼらしい現代人の病理などではなく、互いをこの〈現実〉から解き放つ行為であり、〈現実〉を殺し、別の次元を獲得する覚悟であるかもしれない。殺めるのは、三次元的現実に拘束された相手の魂を、である。そのように恋うのでなければ、この〈現実〉のみすぼらしいが酷薄な強制力によって、二人とも魂を圧殺されてしまうだろう。

〈現実〉を認めない、筋金入りのニヒリズムに支えられてこその芸術至上主義であり、矮小だが強固な〈現実〉を不断に殺して、己れを別の次元で生かさんがための、危うい命がけの綱渡りを、塚本は作歌によって繰り広げていたのだとも考えられる。

 人は誰でも己れを無化して誰かと一体化してしまいたいという願望を隠し持っている、という倒錯的命題を無責任に垂れ流すことと、〈現実〉を殺さなければ己れの生きる場所が無いという〈生き難さ〉によって命がけで〈表現〉することとの間には、大きな隔たりがある。

 命がけの〈表現〉は、「この場所を超えてみろ」と体を張って訴えかけてくるのだ。少なくともこの一首には、塚本の並々ならぬその覚悟が端麗に吐露されている。(この稿続く)

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第11回) 川喜田晶子

  • 2018.04.29 Sunday
  • 12:52

〈少年〉の居場所

 

 学生たちの作品についてはほぼ語りつくした感がある。

 彼らの提出してくれた作品を論じることが授業の中心になった分、じっくり鑑賞するつもりであった近現代の作品をそれほど論じられず、残念な想いもないではなかった。ここでは、準備しておいた作品群からいくらかなりともピックアップして、〈現在〉に通じる〈生き難さ〉の質感について、それを超えようとする表現営為について、今しばらく語ってみたい。

 

少年のかくれ莨(たばこ)よ春の雨  中村汀女

 

この家も誰かが道化揚羽(あげは)高し  寺山修司

 

花匂う無辺(むへん)少年は呪詛(じゅそ)を鍛(う)つ  森山光章

 

 中村汀女(1900-1988)の句は、手短な叙景であるのに、〈少年〉という語がみるみる象徴的なふくらみを帯びてゆくことに感銘を受ける。

「かくれ莨」の少年は、大人と子どものはざまでこっそりタブーを破っているのだが、その背伸びによって露呈する気負いの青さと、「春の雨」の取り合わせがみずみずしい。ちょっとばかりとんがった気負いも、隠れてタブーを破る喜悦も、やわらかで湿潤な「春の雨」に包摂されてしまう風景。そんな青臭さもあればこそ、ものみな熟すのだ、といった世界観に許容されている〈少年〉の姿に、誰もが己れの内なる〈少年〉にもそのような居場所を与えたいという望みをそそられる。青々とした艶を帯びた〈少年〉の居場所を。

 

 寺山修司(1935-1983)の句には「少年」の語は無いのだが、「道化」は寺山自身のことでもあり、彼の内なる〈少年〉の居場所の痛さを伝えてくる。

 その痛さはしかし、寺山だけのものではなく、時代に蔓延する痛さでもあった。

 伝統的な土俗を引きずりながら〈近代〉によって荒廃し、空洞化した「家」の姿。空洞化しながら表面的には「家」を保持しようとする時代のいびつさが、どの家にもその内部にドッペルゲンガーのような一人の「道化」を飼わせた、とでも言えようか。ちょうど、時代の表層的な向日性が寺山というドッペルゲンガーを必要としたように。

 荒廃した地上の「家」に閉じ込められた「道化」の魂は、そこから何かに憧れて舞い出てしまう。「揚羽」は、「家」の垣根を越境し、「家」の酸鼻な荒廃を洞察しながら高く舞うことで、「家」の崩壊をかろうじて食い止めているようにも見える。荒廃の犠牲者でありながら、「家」の物語の鍵を握ってもいる「道化」。その痛さと背中合わせのプライドが、「揚羽」を舞わせる。時代に緊縛された「道化」を自認する寺山が、「揚羽」として社会の枠組みを越境せんと、過食症的な表現を多彩に撒き散らしたように。

 

 森山光章(1952-)の句には、天上と地上の寺山的な分極がさらに押し進められた風景に対し、ダンディズム的に超越する豪胆な〈少年〉の覚悟が濃密に閉じ込められている。

「花匂う」の「匂う」は、古語としての「匂う」であろう、花が艶やかにその生命を顕ち上げる風景がどこまでもどこまでも広がっている。「無辺」であることによって、幻想的な強度を獲得したその風景に対置されているのは、「呪詛」を鍛え上げる〈少年〉。

「花匂う無辺」といった天上的・超越的な風景の中にあって、「呪詛を鍛つ」必要があるのは、現実があまりにも酸鼻だからだ。決して現実に肌身を許すことなく、現実への甘い期待や馴れによって己れの〈少年〉の純度を汚すことなく、より強く、より深く、呪い続けるのは、エネルギーが要ることだ。内なる〈少年〉を汚さぬためにこそ、「花匂う無辺」の幻想的強度を昂進させる必要がある、とも言えよう。

 いわゆる「芸術至上主義」の硬質な〈核〉が端的に表出された一句でもある。

 

 たった三つの句だが、これらを同時に視野に収めるとき、時代とともに〈少年〉の居場所が狭窄され、非日常性・幻想的領域への過剰な傾斜が募っていることに気づく。また、無自覚な叙景が象徴性を獲得し得ていた時代から、社会や己れの病理に対する自覚的な批判精神の濃密さによって〈少年〉の象徴性を浮かび上がらせる時代へと推移していることにも痛みをおぼえる。痛みながら、〈少年〉の居場所を憧憬し、確かに問え、と煽動される想いもする。

 内なる〈少年〉に居場所を与えながら真に大人になるとは、地上的な現実の醜悪さと闘うことなのか。地上的な現実と天上的な幻想とに分極した世界観と闘うことなのか。そのような問いを立てねばならない〈現在〉は、何を喪失してきたのか。(この稿続く)

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第10回) 川喜田晶子

  • 2018.03.22 Thursday
  • 21:24

まだ見ぬ空

 

 学生たちの表現は、一見、昨今のゲーム感覚に汚染されているかのようだが、短い詩篇の中で、この現実における己れの意味を賭けて静かに闘っていた。ゲーム感覚によって世界が狭窄されたのではなく、狭窄された世界観の喩としてのゲームである。狭窄された世界観との闘いは、むしろ古典的な相貌を帯びるほどだし、そこで彼らが見たいと望んだ「空」の風景は逆に新しい。

 

 

   変身   M・M

 

ある日とつ然

空に亀裂が入る

 

異空間から怪物がやってきた

一変した日常

姿を変えて戦う人々

そんな日はこれからも来ることはないだろう

そんな日が来たらおもしろそう

街を歩きながら

目に見える風景にらくがきをした

 

「そんな日が来たらおもしろそう」という言葉の表層とはうらはらに、この作品には、ヴァーチャルな怪物や戦闘シーンによって、現実世界を更地にしてみることへのはしゃいだ期待感は無い。

 庵野秀明が『エヴァ』でこだわってきたような風景、あるいはゲームの中での戦闘シーンを想起させる風景が描かれ、そこでは異空間から怪物がやってきて、人々が「姿を変えて」戦っているのだが、「そんな日はこれからも来ることはないだろう」「そんな日が来たらおもしろそう」というフレーズには、すでにヴァーチャルになら現実を異化され尽くした〈現在〉へのうんざりした想いが漂う。

 表層的な文脈では、これからも変わることが無さそうな「街」を歩きながら、その不変の表情の「街」の風景に「らくがき」をする、つまり想像力で怪物と人々との戦闘シーンを上書きしてみてささやかな気晴らしをしているかのようだ。

 しかし、この作者は、変わることの無い〈日常〉をヴァーチャルに修正したくて「らくがき」をしているのではない。もはや、〈日常〉をヴァーチャルな怪物や戦闘で塗り替える行為ならやり尽くされてきた〈現在〉において、本当の「亀裂」や「一変した日常」とは何か、誰も問うていないことの手触りを、静かに提示していると感じさせるのだ。

〈日常〉と〈非日常〉、〈信〉と〈不信〉、〈責任〉と〈無責任〉、〈社会〉と〈個人〉、そんな対立概念のはざまで、どちらかを択ぶことをやわらかく拒否している文体が、どちらかを択ぶ鋭さよりも不安をそそる。

「ある日とつ然」静かに空に「亀裂」が入り、私たちは静かに魂の「姿を変えて戦う」。そのような「変身」を想い描く行為は、新しい。

 

 

   存在   Y・R

 

見えないはずの彼女を探す

くつもぬぎすてて

彼女はここにいてはいけない

彼はなきながら探す

彼女が早くこの世界に来られるように

彼はついに私を見つけた

泣きながら必死で私を消しに来た彼に一言だけ伝えた

「今度はもっと楽しいのがいいな」

 

 ゲームやパソコンの中では容易に消去できる「存在」。ある世界から「切り取り」、別の世界へ「貼り付け」ることも可能だ。そのような「切り取り」や「コピー&ペースト」が可能な世界ならば、存在も軽いはずなのだが、この作品では、「彼」は「彼女」を探し出し、別の世界へ移動させることに必死である。「くつもぬぎすてて」「泣きながら」、ある世界での「彼女」を消して、別の世界へ移動させようとする「彼」。その「彼」に、「私」は「一言だけ」伝えるのである。「今度はもっと楽しいのがいいな」と。

「今度は」ということは、既に「前回」や「前々回」もあったのかもしれない。何度目かの「貼り付け先」であるところのこの世界の居心地が悪すぎた、そう考えることで、作者はかろうじて息をしている。そして、命賭けで自分を別の世界、いるべき世界へと貼り付け直そうとしてくれる「彼」の存在によって、己れの意味を持ちこたえている。

 

 

   無題   S・H

 

囲め 囲め

机上の空論

すべては碁盤の目の上

0と1の境界

沈んでく 記憶

空の色を2進法で知る時代

嘘つきな数字とたわむれ

捻った頭脳と少しのヒントで

解けるはずの南京錠

まだ開かないままで

かごめかごめ

後ろの正面 立つ君の

目が見えない

自分で作った剣の檻

封じられたまま

まだ見ぬ空を

焦い願う

 

「かごめかごめ」は、集団の輪の中にいる目隠しされた「鬼」が、「後ろの正面」を当てる遊びである。その「後ろの正面」に「立つ君」の「目が見えない」。絶対的な答を持つ者との遥かな距離を感じさせるフレーズだが、「自分で作った剣の檻」の「南京錠」は、「解けるはず」のものだ。ほんの少しだけ何かが変われば。

 だが、作者はその「檻」に「封じられたまま」「まだ見ぬ空を/焦い願う」だけである。それでも、彼女はその「空」を知っている。「机上の空論/すべては碁盤の目の上」に世界が囲い込まれ、「空の色を2進法で知る時代」において、「0と1の境界」に「沈んでく 記憶」。それでも彼女は本当の「空の色」を知っている。彼女の個人史の輪郭を超えて、どこかで知っている。だから「焦い願う」ことが可能なのだ。

 他者や社会によってではなく、「自分で作った剣の檻」であることを察知している彼女には、この「檻」は既に開けられたも同然であろう。

「まだ見ぬ空」を描きながら、私たちにある懐かしさと絶対的なみずみずしさを想起させるこの一篇は、〈個人〉というものの輪郭の強さと、意外にたやすく〈類〉に開かれてゆく私たちの身体の秘密を、鮮やかに示している。(この稿続く)

 

 

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第9回) 川喜田晶子

  • 2018.02.23 Friday
  • 18:26

〈更新〉への想い

 

 己れを更新することは、そのままこの〈天地〉というコスモスを更新することでもある。そのことへの〈信〉が薄れゆく歴史の中で、表現者は、自傷行為的なアプローチで己れの痛みを掘り起こし、世界との逆説的な連続感を強引に見出そうとしてきた。近現代の表現史をそのように総括することもできよう。

 

名月や笛になるべき竹伐(き)らん   正岡子規

 

 正岡子規の俳句の中で、最も好きな句のひとつだ。

 名月、笛、竹、といった古典的な取り合わせであるが、「笛になるべき」には、「笛になる運命を背負った」という含みがあり、ここで伐られた竹は、他のどの竹とも異質な固有の矜持を抱いて笛となる天命を帯びているのであり、その固有性と天命とが月の光を浴びて融け合う姿は美しい。その竹によって生まれた笛もまた、唯一無二の存在として音色を響かせるとき、この世界を更新しないではおかないだろう。新しい時代へ表現を解き放とうとする者の気概がみなぎる名句である。

 

あかつきの竹の色こそめでたけれ水の中なる髪に似たれば   与謝野晶子

 

「あかつきの竹」が「水の中なる髪」にたとえられることで、「竹」ばかりではなく、この世界すべてが水の中に浸されたような錯覚をおぼえる。「あかつき」という、光と闇の交錯する時間帯に世界が見せる表情のなまめかしさ、艶やかさ。「竹」とともに己れ自身も「あかつき」に浸るならば、自らの〈身体〉の不可視の巨(おお)きさに目覚めないではいられまい。

 

この心葬(はふ)り果てんと秀(ほ)の光る錐(きり)を畳にさしにけるかも   斎藤茂吉

 

 自傷行為的な歌心が時代に兆し始める。己れ自身への鬱屈した粘度の高い異和感が、「秀の光る錐」を畳にさすという行為によって鮮やかに象徴される。錐の秀(つまり先端)の光と、その錐の先が畳にささる瞬間の感触へのフェティッシュなまなざしは、己れの身体と天地との分極をなだめようとして妖しい倒錯性へ傾斜してゆく。

 

さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる   北原白秋

 

 この世界に異形の者として存在する痛みは、その異形性を通して世界を更新し、己れの存在を肯定しようと試みる。「さいかち」は15メートルほどにもなるマメ科の植物。幹や枝にはトゲがある。己れの魂をこの植物に託す白秋。「青さいかちの実」となって風にざわめいてみせるならば、「雪」が降ってくる。その「雪」は、「青さいかちの実」となった白秋の異形意識の鋭さが、孤独な魔法使いのように表現という「杖」を振るって降らせたものだ。

 

   もういいの   金子みすゞ

 

―もういいの。

―まあだだよ。

びわの木のしたと、

ぼたんのかげで、

かくれんぼうの子ども。

 

―もういいの。

―まあだだよ。

びわの木のえだと、

青い実のなかで、

小鳥と、びわと。

 

―もういいの。

―まあだだよ。

お空のそとと、黒い土のなかで、

夏と、春と。

 

「かくれんぼう」において「見つかる」とは、何を意味するのか。童心溢れる一篇のように見えて、ここには生と死のぎりぎりのやりとりが不思議な期待感を帯びて描かれている。「かくれんぼう」で鬼に見つかることは、遊びとはいえ「死」を意味する。びわの実が熟して小鳥に見つかると、食べられるという形の「死」が訪れる。夏が来るのは春の「死」でもある。どこかどきどきしながら「死」に見つかるのを期待していることで輝き、巡る命。透明だが不安定な躍動感がきらめくのだ。

 

もういちど生れかはつてわが母にあたま撫でられて大きくなりたし   前川佐美雄

 

 母にあたまを撫でられた体験の乏しさが滲む。現実にそのような体験がどれくらいあったかということよりも、母にあたまを撫でられることで癒されなければならなかったはずの〈傷〉のかたち、成長過程における〈欠落〉の感覚がくっきりと浮かぶ。

 

つひにわれも石にさかなを彫きざみ山上の沼にふかくしづむる   前川佐美雄

 

 石に魚を彫り刻んで、山上の沼に深く沈めるという行為には、誰にも見られずに己れひとりで世界を変える伝説を創ろうとするような、幻想的革命への屈折した渇望が感じられる。「つひに」には、永く持ちこたえてきたその渇望を、今こそ実行に移す時が来た、とでも言わんばかりの、不穏な感慨がこもっており、「われも」によって、そのような行為が累積されてきた、秘められた伝説の末端に自分も加わるのだ、という表明がひそやかに誇示される。深く沈めた石の魚が、誰の目にも触れることなく生命を得て、超越的な危うい力を駆使し、沼の底からこの濁世を転倒する日を夢見るかのような。

 

生命線ひそかに変えむためにわが抽出(ひきだ)しにある一本の釘   寺山修司

 

 自分の「生命線」という変えがたいものへの、ほぐし難く絡まり合った愛憎。己れを規定するものへの憎しみと、それによって生かされてもいることの甘やかさ。抽出しにしのばせた「一本の釘」で、生命線を変えようとの欲動を、そのまま抽出しにいつまでもしのばせておく行為。己れを変えることよりも、変え難さによって身もだえする痛みを、釘をながめては掘り起こし、〈生〉のいびつさを確かめようとする衝動のかたち。

 

じゃんけんで負けて螢に生まれたの   池田澄子

 

「じゃんけん」で勝ったら人間に生まれるのだろうか。負けて「螢」に生まれるのなら、勝ち負けの意味は転倒される。この人間の構成する価値とは別の「螢」の次元があり、その「螢」の目で、世界を一瞬にしてほほえましく更新することも可能だ。

 

空蝉(うつせみ)ほど全(まった)き殻(から)を脱ぎたしや   花谷和子

 

 空蝉ほど完全な殻の脱ぎ方を、人はなかなか出来ないでいる。成長、老い、死。鮮やかに脱ぎ切って己れを、世界を、更新するための条件が奪われ、薄れゆく。〈生き難さ〉が蔓延する。空蝉への憧れが身体を解き放つのではなく、人の解き放たれ難さを地上的に印象づける。

 

 己れの〈身体〉を通した天地〈更新〉への渇望が、時代が進むにつれて地上的に、あるいは痩せ細った地上の逆立ちした幻想への跳躍として、想い描かれるようになる。己れと天地との分極を、病む。

 一瞬で、全てを。それが可能だった世界観の豊潤さから、可能にするための息苦しくも逆説的なアプローチへと、遷移してきた表現の触れ幅の大きさが確かめられる。(この稿続く)

 

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〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第8回) 川喜田晶子

  • 2018.01.27 Saturday
  • 14:28

 

〈更新〉への想い

 

 己れの無意識を浸す不条理感を超えてその〈生〉を更新したいという想い、更新すべきだという想いが、学生たちの作品には〈生き難さ〉の痛みとともに十字架のように貼りついている。

 

   誰かの人形   N・M

 

たくさん辛いことが重なった

僕は必死に生きようとした

たくさんの人を傷つけた

私は自分のために「愉しいこと」だと錯覚した

たくさんの努力が認めてもらえなかった

俺は結局何にもできなかった

 

誰かに愛してもらいたかった

 

私はきっと、人でなし

 

「僕」「私」「俺」「私」と、一人称が転変することで、苦闘の角度が変わる。

「たくさん辛いことが重なった」によって、個人の責任を超えてのしかかる不条理の存在をまず提示する。「僕」は「必死に生きようとした」。かろうじて個人に可能な努力をしてみた「僕」。

「たくさんの人を傷つけた」では、他者との関係の網の目に翻弄され、人が人をいつの間にか傷つけてしまう不毛さ、無力感が指摘される。「私」はそれを「愉しいこと」だと「錯覚」しようとした。

「たくさんの努力が認めてもらえなかった」では、個人の努力が他者には評価の対象とならないことで、〈無意味〉へと放逐される「俺」の姿が浮上する。「俺」は「結局何にもできなかった」。

「僕」「私」「俺」に共通するのは、他者、関係、世界に対して個人の〈意味〉を必死で模索するが、空転してしまう存在の空虚さである。

 本当は「誰かに愛してもら」うことで、その〈意味〉を得たいと望んでいるだけである。そのシンプルな願望をきちんとこの現実に定着できない「私」とは、「人でなし」なのだろう、と総括する。人である以上、本来、誰かに愛されて〈意味〉を得られるように、不条理と闘い、人を損ねず、努力を評価されなければならない。そのような営みをなし得ない自分は、本当の主体性を持ち得ているとはいえないのであり、「誰かの人形」でしかない、と、作品のタイトルが作者の洞察を語っている。

 個人の「主体性」が、ある限定をこうむっており、そのことが、〈意味〉ある人生への己れの存在の更新を阻んでいる。限定の厳しさ、わびしさを明晰に洞察しているのに、その限定を超えられないという絶望感。

 しかし、「私はきっと、人でなし」というフレーズは、卑下には見えない。「人」であるための「主体性」についてこれほど高精度に突き詰めることなく、誰もがほどほどの自己肯定感を維持して生き延びている。精確に「人」であるためのハードルを認識してしまった作者の方が「生まれてすみません」といった気分になってしまうのはなぜか、という問いかけは、太宰治的な、確信犯的な批判精神、とも読める。

 

 

   私   I・T

 

汚れきったキャンバスを

真っ白な絵の具で塗りつぶそう。

何も知らない私、

何色にも染まってない私。

全て最初からやりなおし。

次こそ素敵な作品にするんだ。

また汚くなったら最初から。

 

 絵画作品の創作になぞらえた、人生の「更新」についての想い。

「次こそ素敵な作品にするんだ」には、何度も何度も自身を「汚れきった」キャンバスにしてしまった苦さが滲む。そして、「真っ白な絵の具で塗りつぶ」しても、本当はその下には過去が累積してしまっていることも、よく承知している。それでも、「何も知らない私」「何色にも染まってない私」を再現すること、何度でも「全て最初からやりなおし」ができることにこだわる作者。

 社会や関係の中で染みつけられてしまったもの、観念的な「知」に汚されて「色」のついてしまった自分、への、強い忌避感が発せられている。

 繰り返し「真っ白」に戻そうとするその「忌避感」にはしかし、神経症というよりは、自分のこだわる「白」、守りたい自分、へのあくなき追求の心映えが感じられる。

 

 

   海   M・M

 

つめたい色につめたい水

音は聴こえないし息もできない

私はつめたいものにつつまれる

耳をすますとあたたかいものにつつまれている感じがした

 

「つめたい色につめたい水」「音は聴こえないし息もできない」「私はつめたいものにつつまれる」が、この現実のことであるなら、日常的に作者の生存感覚がどのような場所に追い詰められているのかが、シンプルに伝わる。

 唐突に、「耳をすますとあたたかいものにつつまれている感じがした」と作品が結ばれる。耳をすます必要があるのだが、かすかに聴こえてくるものによって、つめたい現実が塗りかえられた感覚。別のどこか、ここではないどこか、に行かなくても、そのままで、「あたたかいものにつつまれている感じ」は実現するのだ。

 まだ、全身的に解放感をもってその「あたたかいもの」を享受できている文体とは言い難いが、かすかな予感・予兆を捕まえようとしている。バーチャルな幻想への逃避行ではない。そのまま、現実が「更新」され得る予感がする。魂の感じた「海」は、物理的に作者を取り囲む「海」のもう一つの貌なのだ。(この稿続く)

 

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