東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第13回) 川喜田八潮

  • 2018.09.27 Thursday
  • 20:10

     

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 もっとも、大人のみならず、少年少女にも開かれたアニメ『安寿と厨子王丸』のような作品に、説経節の『さんせう太夫』のような、場違いな、殺伐とした残虐な設定を持ち込んでよい、というつもりは毛頭ない。

 ただ、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に垣間見られるような理念、処理の仕方というものは、全くもって、なっていないと言いたいだけである。

 この法治主義と癒着した儒教道徳的な教化理念ないし戦後ヒューマニズムという奴は、アニメで描かれた、和魂(にぎみたま)過剰の、敗け犬根性の強い、めそめそ型の主人公たちのうつろさと、まことにしっくりと調和している。

 なにせ、アニメの安寿ときたら、弟の厨子王を(目と鼻の先にある)山の向こうの国分寺に逃がす時に、なぜか一緒に逃げようとはせず、自分に優しくしてくれる、そのくせ父親の大夫や兄の次郎に対しては一切歯向かうことのできぬ、無力な次男の三郎の、当てにもならない庇護にすがろうとする始末である。

 三郎と愛し合っているのなら、どうして手に手を取って、いちかばちか、駆け落ちしてみようとしないのか。何でも、やってみなければ、わからないではないか。

 三郎も三郎だ。安寿が大切なら、その身を次郎や父親の魔手から命がけで守ろうとするのなら、どうして、彼女を連れて逃げようとしないのか。

 おまけに、安寿に横恋慕し、妻となることを拒んだ彼女に、みせしめに「焼きゴテ」を当てようとした次郎に、必死でつかみかかり、格闘した三郎のおかげで、やっとの想いで「牢」から脱出できたというのに、安寿は、池のほとりまで逃げて来たあげく、「どうせ助かりっこない」と簡単にあきらめて、父母と弟の面影を胸にいだきながら、涙を浮かべ、あっけなく「入水」してしまうのである。

 

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 ここも、鷗外の原作とは、微妙に違うところである。

 原作では、安寿の入水は、前々から彼女が密かに心の準備をし、意を決していた、〈自決〉の覚悟の自然な結果としてなされたものとされている。

 そのきっかけとなったのは、三郎が火箸で、安寿と厨子王の額(ひたい)に十文字の焼き印を押し、地獄の責め苦を味わわせるという、怖ろしい拷問の〈夢〉から、同時に目覚めた直後に、姉弟が視た霊験であった。

 逃亡を企てた科(とが)で、額に十文字の創(きず)をつけられたふたりが、苦痛と恐怖の極みの中で、安寿の守り袋から取り出した地蔵菩薩像にぬかずくと、不思議にも、耐えがたかった額の痛みがひき、創は痕(あと)かたもなく消え失せていた。その時目覚めたふたりは、同じ夢を視たことを語り合い、改めて守り本尊を取り出して、確かめてみると、地蔵菩薩の額には、一対の十文字の疵(きず)が鮮やかに刻み込まれていた。

 安寿は、姉弟を覆っていた災いの〈気〉を、守りの地蔵尊が代わって引き受け、浄化してくれたに違いないと直観する。この体験が、安寿を変える。彼女は、たとえささやかな力であろうとも、自分たち姉弟にたしかに寄り添い、守ってくれている神仏の霊があるのだという信念を抱けるようになったのである。

 この揺るぎない〈信〉の力が、安寿を、孤独な魂を備えた、ひとりの〈大人〉へと脱皮させる。ここは、原作のキイとなる転回点である。

 人が、自己の人生に対して責任感のもてる、きちんとした〈大人〉になるというイニシエーションは、決して、神仏の霊威を嘲笑い、可視的な三次元的現実のみを生きる拠り所とするような、殺伐とした、合理主義的リアリストに脱皮することではない、という思想的メッセージが、ここには込められている。

 人が真に強くなれるのは、〈信〉を否定することによってではなく、逆に、己れに宿りながら己れを超えた不可知なる存在への〈信〉の力、すなわち三次元的現実を包摂する四次元的なはからいの力に身をゆだね、賭ける勇気あればこそなのである。

 守護霊の存在を信ずる安寿は、もはや、逃亡を企てた者には焼き印を押すという三郎の脅しを恐れてはいない。

 己れよりも足腰の強い、男の厨子王に、己れの〈志〉の全てを託そうと決意する。守りの地蔵尊を厨子王に譲り、神仏の加護と導きの力を弟一人に集中させることで、彼が脱出でき、追っ手の目をくらまして、無事に都まで辿り着き、父母を見つけ出して幸せになれるよう、祈念を込め、賭けようとするのである。

 弟の開運に全てを託した安寿にとって、もはや今生(こんじょう)への希み・未練はなかった。

 彼女にとって、「入水」という自決の選択肢は、決して、発作的な衝動に駆られてのことではなく、心の迷い、葛藤を突き抜けた上で、おのずから行き着いた場所であった。

 それは哀しい選択ではあるが、ひとりの自立した、責任ある〈大人〉の、考えに考え抜いたあげくの、孤独な肚(はら)のすわりによって支えられた、潔い〈覚悟〉の表われなのである。原作の安寿の「入水」が、陰惨な匂いを感じさせないのは、そのせいである。

 

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 それに対して、アニメの方は全く違う。

 アニメの安寿の入水には、この世への未練タラタラの、陰湿な恨みがましさが立ち込めている。父母と弟への想いを残し、三郎への愛にうしろ髪をひかれたまま、無力感に打ちひしがれて、無念の自死を遂げるのである。

 その安寿の怨念の深さは、入水シーンの直後に描かれた、凄まじい、天の怒りのような、雷鳴とどろく大嵐のシーンとなって顕われる。

 その嵐は、山椒大夫一族を見舞い、造りかけていた新しい館を一気に崩し、吹き飛ばしてしまう。

 その館の工事には、かつて、安寿と厨子王の姉弟が人夫として駆り出され、酷使されていたのだ。嵐はまさに、亡き安寿の内に秘められていた怨念の深さ、憤怒の凄まじさがひき起こした、荒魂(あらみたま)のうねりなのである。

 実際こちらの方が、〈白鳥〉に化身した姿などより、はるかに、安寿の〈本音〉としては説得力がある。

 精一杯、力の限りを尽くして、生きて生きて生き抜いたあげく、ついに力尽きて倒れたのなら、その魂は、想いは、美しい白鳥にも転生しようというものだ。日本神話のヤマトタケルのように。

 しかし、アニメの安寿のように、現世への未練がましい想いを中途半端に抱えたまま、無念の自死を強いられてしまった魂が、易々と成仏して、美しい白鳥に化身できるとは思えない。

 このアニメの敗け犬根性の強さ、空虚さは、ラストシーンにおける、厨子王の母親のセリフで、極まっているといっていい。

 陸奥の任地に向かう青年・厨子王と晴れて解放された母親を乗せた船の上を、安寿の化身である白鳥が優雅に飛んでゆく。

 その姿を息子と共に見上げる盲目の母の瞼(まぶた)には、うっすらと白鳥の幻が映し出される。そして、こう言うのである。

「ねえ厨子王、あの子もあれで、幸せなのかもしれませんね」と。

 冗談ではない。花の蕾(つぼみ)の若さで、愛する人と想いを遂げることもできずに、いのちを燃焼することもなく、自死の道を選ばされているのだぞ。

 どんなに、無念の想い、未練を残して、逝ってしまったことか。

 そのような魂魄(こんぱく)が、どうして浮かばれることがあろう。

 この作品でも描かれているように、出家した三郎が、安寿の霊を手厚く弔(とむら)い、成仏させんと祈り続けることはできよう。

 この世に未練を残したまま、恨みを呑んで死んだ者の霊も、手厚く祀(まつ)ることで、逆に「守護霊」と化し、縁(えにし)ある者たちを守ってくれるという「御霊(ごりょう)信仰」が、古来、わが国には生き続けている。

 しかし、それはそれとして、このアニメで描かれた安寿の入水の「後味の悪さ」は、いかんともしがたい。

 われわれの心は、少しも晴ればれとしないし、癒されはしない。

 これは違う、違うぞ。こんな結末は、絶対におかしい。

 そう私の心はささやくのである。

 このような、主人公たちの、和魂のみに偏し、荒魂の自然な解放=表現というものが封じられてしまった不健康さは、困ったことに、息を呑むほどに美しい、例の繊細この上ない、気品溢れる日本画的風景の織りなす、透きとおった〈水〉の流れのような、ゆったりとした農耕社会的時空の内に、すっぽりと矛盾なく包摂されてしまっていて、そのために、この哀切きわまりない不条理劇には、その陰惨さにもかかわらず、なんともいえない、しっとりとした優しい抒情性が息づいている。

 田中澄江の脚本も、その演出の空気感にふさわしい、まことにデリケートな言葉づかいや間合いを紡ぎ出している。

 私たちは、その抒情的な潤いにすっかり浸り切ってしまい、主人公たちの〈うつろさ〉に対して判断停止にさせられ、カタルシスの無いままに映像を観終り、不完全燃焼の後味の悪さだけをひきずって、退席させられるのである。

『源氏物語』にも流れている、うつろさと日本的無常感が一体となった、独特のはかなさの美学にも通底するものである。

 正直に言わせてもらえば、私は、この作品が好きなのである。

 このアニメに息づいている麗わしい和魂のかたち、主人公の姉弟やその父母の優しい植物的な生存感覚というものは、私自身にとっては、幼少年期の体験と深く結びついた、この上もなく懐かしいものだからである。

 先にも述べたように、私にとって、一九六〇年代前半から半ば頃にかけて接してきた、このような日本的な花鳥風月の美意識、〈水〉の感覚というものは、己れの資質の半面とも結びついた、郷愁の対象であるといっていい。幼児期に親しんだ絵本の風景とも重なるものがある。

 しかしだからこそ、今の私は、このようなまなざしのいびつさに対して、批判的にならざるを得ないのである。

 一九七〇年代以降の肉食的な高度産業文明のうつろさに対して、そしてまた、現代人が追いつめられている〈生き難さ〉の懸崖、生老病死の酸鼻な実態に対して、このようなアジア的な無常観・諦念と結びついた、非哀感と不条理感に蝕まれた陰鬱な死臭、植物的な生存感覚によってたたかうことはできない。

 かといって、魂の〈内燃機関〉を欠落させたままで、不条理に抗う獰猛なエネルギーをひき出そうとするのも、痛々しく不自然なことである。

 動物は、本能の力によって、大自然の中に過不足なく適応しながら、即自的に生き、たたかい、その生涯を全うする。

 植物もまた、大自然の中に過不足なく収まり、生の自然な循環を全うする。

 しかし、余計な自意識をもて余す、人という生き物は、動植物のように即自的・本能的には生きられない。

 だからこそ、血縁・地縁的な土俗共同体の一員として生きた前近代の民は、己れの身体、己れの生を、大いなる〈自然〉の一部として、ひとつの〈風景〉として、肯定的に感受することのできるような、(〈風土〉の個性と結びついた)宗教的でコスミックな世界観(宇宙観)を紡ぎ出し、それを何千年にもわたって、変容・衰弱させつつも、継受し続けてきたのである。

 しかし、共同体の桎梏(しっこく)と共に、その庇護(ひご)をも失った、先進国に生きる私たち現代人は、メカニックで非情な産業社会のシステムとそれを取り囲む、巨大で非人間的な宇宙的カオスのただ中に、無意味な〈断片〉のように放り出されてしまっている。

 私たちは、かつての共同体とは全く異なった形で、自身の内なる〈自然〉、内なる生命的なコスモスを紡ぎ出さねばならないという課題を負わされている。

 そのコスモスの支えがあってこそ、人と人の絆、共同性もまた、うつろではない、幸せな良き形を成就することが可能となるからである。

 そう考える時、私は、改めて、日本アニメーション映画の黎明期であった一九五〇年代の名作『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』が象徴的に表現してみせた世界観・まなざしの現在的な意義というものを、じっくりと振り返ってみる必要性を痛感する。

 その想いを最後に今一度かみしめつつ、この論考を終えたいとおもう。(了)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第12回) 川喜田八潮

  • 2018.08.29 Wednesday
  • 15:32

 

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『山椒大夫』に透かし視える、観念的・道徳的な理想主義と表裏一体となった、法治主義による〈治者〉の位相という奴は、本当にぞっとしない。

 哀切な姉弟の不条理劇の結末がこれでは、あまりにもひどいではないか。

 私がこんな風に言うと、もちろん、近代文学の作家・評論家・学者先生たちは、「文学は勧善懲悪じゃないんだゼ」と、口を揃えてなじることであろう。

「この世には、はらわたが煮えくり返るような不条理が無数に、いたる所にあるんだゼ」とも。

 だが、彼らは、「勧善懲悪」という思想の真の〈意義〉というものが、まるで分かっていないのだ。

 それは、虚構作品に織り込められた〈象徴性〉の意義がまるで分かっていないということであり、ひいては、私たちの生活風景、経験の内に立ち顕われる、さまざまな事象の〈象徴的意義〉が、まるで視えていないということでもある。

 つまり、「勧善懲悪」を貶める彼らの論法は、地上的・三次元的な物的対象のニュートラルでメカニックな運動や、人間心理と社会・自然現象への客観的な観察や、因果関係の理念のみに意識を拘束された、近代合理主義者(モダニスト)としてのまなざしの狭さ、貧寒なリアリズム的世界観の限界を、まざまざと露呈させるものでしかない、ということだ。

 彼らモダニストたちの人間認識や人間観察がどれほど精緻なものであろうとも、また、人間の深層心理への洞察がどれほど透徹していようとも、私たちの固有の人生に立ち顕われる、固有の〈出逢い〉、固有の〈えにし〉、固有の〈めぐり合わせ〉というものは、それらのニュートラルで合理主義的な認知なるものをはるかに超えた、霊妙不可思議な象徴的相貌を帯びて、私たちの身体感覚を揺さぶるのである。

 そのような、怖ろしくも美しい、主・客融合的で不可知なる存在の実相こそ、私たちを真に活かしめるものである。

 ただ、身体的なレベルにおける〈象徴的感受〉という体験ないしは表現方法を通してのみ、私たちは、三次元に意識を拘束された近代合理主義の狭量さを超えることができるのであり、地上的な不条理感を超える四次元的な生存感覚を(たとえ一時(いっとき)であろうとも)体感することができるのである。

「勧善懲悪」という手法は、〈虚構〉による物語的な造形を通して、己れの三次元的な不条理感の苦しみを吐き出すと共に、それを打破し、塗り変える四次元的な身体感覚を象徴的に紡ぎ出すエンターテインメントの表現形式として、立派に、その芸術性を主張できるものである。

 ただし、私がここでいう善悪とは、観念的な規範としての道徳的な善悪のことではない。

〈悪〉とは、人の固有の生命を圧殺し、不条理に陥れようとする、まがまがしき邪気・邪念のことであり、〈善〉とは、それに抗(あらが)い、不条理の底から立ち上がり、闇の深奥から、生気ある光を紡ぎ出し、幸せにならんとする不屈の意志、情熱のことである。

〈虚構〉としての「勧善懲悪」は、そのような、生命的な価値としての善と、それを圧殺せんとする反生命、虚無、死の象徴としての悪の、四次元的な葛藤のドラマを演出するものでなければならない。

 時代劇という虚構の手法は、そのような象徴的演出にとって、まさにうってつけの舞台を提供してくれる。

 

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 すでに詳細に論じたように、一九五九年公開のアニメ『少年猿飛佐助』は、和魂と荒魂の均衡、光と闇の両義性の葛藤による勧善懲悪のドラマを通して、美事な身体的解放感を演出することができていた。

『安寿と厨子王丸』のような酷い設定の制約下にあっても、やろうと思えば、それは可能であったはずだ。

 ちなみに、鷗外の創作のベースとなった、中世の語り物「説経節」の『さんせう太夫』では、弟を逃がした姉の安寿は、山椒太夫の三男「三郎」によって、残忍きわまる拷問を受けて、殺される。神仏の加護によって守られ、窮地を脱し、都まで逃れた厨子王は、梅津の院という公家に見出されて、その養子となり、帝(みかど)に引き立てられて、陸奥五十四郡と日向・丹後の国を与えられる。

 丹後の由良におもむいた厨子王は、山椒太夫とその息子・三郎によって姉が責め殺された事を知り、復讐の鬼と化す。

 彼は、昔、奴婢であった姉弟に情けをかけてくれた太夫の長男・太郎と次男の二郎は許すが、三男の三郎だけは、父親共々、決して許さない。

 まず、太夫を土中に埋め、息子の三郎に、父親の首を竹鋸(たけのこぎり)で引かせて処刑し、さらにその後に、三郎を浜に連れて行き、道行く山人たちに、七日七夜、首を引かせて、極限的な地獄の責め苦を味わわせたあげく、死に至らしめるのである。まさに、「目には目を」の、凄まじいリベンジというべきである。

 これは、実際にも、中世で行使されていた処刑法であって、中世後期の室町時代に創られたと推定される説経節の語り物の中で、このような私的怨恨を晴らす報復の権利が、公(おおやけ)の「仕置(しおき)」として認められていたのは、当時としては、リアルな風景であったと考えられる。

 安寿への酸鼻な拷問の描写といい、厨子王による処刑といい、近代の私たちの眼から視れば、野蛮きわまる、耐えがたい設定のように思われるかもしれないが、極度の低生産力水準のもとで、天変地異や疫病や飢饉の脅威にさらされ、戦乱に明け暮れる、アナーキーな中世後期のカオスの世を、必死に生き抜いていた民にとって、「目には目を」の復讐物語は、さぞや深いカタルシスを覚えさせてくれるものであったに違いない。

 それは、民にとっておそらく、己れの人生の不条理感の全てを、一瞬吹き飛ばしてくれるほどの、身体的な〈解放感〉を与えてくれるものであったろう。

 この語り物の魅力の真髄は、主人公の姉弟がこうむった不条理性の凄惨さと、それに対する、これまた残虐きわまる復讐の情念の、シンプルな〈対比〉の鋭さにあるといっていい。

 それは、荒ぶる神と荒ぶる神の〈激突〉のドラマである。

 その対比の鋭さが大衆に異様な感銘を与え得たとすれば、それは、多分に稚拙なところのある説経節のリアリズム的な描写のせいではなく、「語り物」としての、音楽的な〈リズム〉と〈声音(こわね)〉によって喚起された身体感覚のインパクトのせいであったに違いない。

〈観念〉ではなく、身体感覚の深奥に息づいている、三次元的・可視的な〈個〉の殻を超えた、森羅万象に拡がる、四次元的・不可視的な〈無意識〉のエネルギーが、物語的な〈暗喩〉という、メタフィジカルな〈象徴性〉の形をとって、一気に解放されたからである。

 中世の語り物・唱導文学を担った、琵琶法師や「ささら説経」の徒のような芸能の民によって受け継がれ、定着していった舞い、曲、語りというものは、おそらく、そのような、個を超えた類的な生命感と結びついた共同的無意識と鋭く共振し、それを喚起するものであったに違いない。

 その無意識が励起され、意識面に浮上することは、己れを包み込んでいる大自然の〈気配〉をまざまざと肌で感じ取るということであり、その気配・流れと一体化して生きることは、己れの深奥に宿る闇と光のダイナミズムのエネルギーを、本能的・官能的に解き放つという営みだったのではあるまいか。

 ニーチェ風に言うなら、それはまさに、ディオニュソス的な陶酔・乱舞による祝祭的な時間の顕現であったということになろう。

〈芸能〉の源泉とは、元来、そのような古代・中世的な四次元的生存感覚の象徴的解放を通じて、地上的な不条理感を超え、生の風景を更新することで、「生き抜こう」とする気力を鼓舞せんとする、ささやかな試みであったはずである。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第11回) 川喜田八潮

  • 2018.07.17 Tuesday
  • 14:38

 

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 悲哀感と不条理感に打ちのめされた、和魂(にぎみたま)偏重の植物的な生存感覚、東洋的な無常感、ニヒリズム(ペシミズム)、諦観といった、前近代的・伝統的な土俗共同体的美意識によって支えられたエートスが、この時期になって一気に浮上してきたのは、一九六〇年代前半という、経済至上主義に蝕まれた肉食動物的な業界人・サラリーマンの増大する世相に対する、いわばアレルギー的な反動が、高度成長という偽りの〈光〉の裏面に秘められた〈闇〉の鬱屈、苦しみ、渇きの〈表現〉となって、溢れ出てきたせいではあるまいか。

 だが、それはすでに、「五〇年代」の表現にみられた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉と、己れの主体の底、身体の底に、闇と光のダイナミズムを感受するというコスミックな感覚を失っていた。(ちなみに、六〇年代前半には、周知のように、こういった〈和魂〉のみに偏した作品群とは逆に、獰猛な生きるエネルギーと闘争の修羅場を描き、〈荒魂〉のみを強調する作風を示した白土三平の劇画世界があったわけだが、彼の作品群もまた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉を逸していたという点では、同じ穴のムジナであり、和魂偏重のペシミスティックな表現と、いわばメダルの表裏のような関係にあったと考えられる。両者は共に、六〇年代という、経済至上主義に汚染された時代の、肉食的な文明によって追いつめられた〈土俗〉の宿命を象徴するものとみなすことができよう。)

 アニメの『安寿と厨子王丸』を覆っている、主人公たちの和魂のみに偏したいびつさ、脆弱(ぜいじゃく)さは、そういう時代の不健康さを如実に物語っている。

 特に、最終部のクライマックスで、山椒大夫とその息子・次郎の罪一切を許すという設定には、唖然とするほかはない。カタルシスも何もあったものではないのだ。

 鷗外の原作では、あたかも〈自然〉現象を記すように、淡々と客観的に姉弟の運命を叙述しているのだから、言語の硬質な〈抽象性〉によって不条理性が緩和され、したがって、このような結末も、「仕方ないなァ」と、変に因果関係のリクツで納得させられて、ついつい、そのまま受け容れさせられてしまうのだが、アニメの方ではそうは行かない。

 姉弟の哀切な運命にわれわれが全身的に感情移入し、悲しみに打ちひしがれてしまうからである。「いくらなんでも、これはないゼ」という気持になってしまう。

 もちろん鷗外の原作を踏まえて創られたアニメなのだから、当然といえば当然の結末ではある。原作では、山椒大夫の一族は、丹後での人買いを禁止され、奴婢の解放を強いられた代わりに、罪を許されたばかりか、解放された元の奴婢たちが大夫から「給料」をもらうことで労働意欲が高まり、その結果、ますます富み栄えることになったというのであるから、考えてみれば、こちらの方も、実にやり切れない、「うさんくさい」設定というべきである。

 私たちは、鷗外の〈文体〉の力に幻惑されて、この作品の背後に隠されている作者の政治理念の「うさんくささ」に対して、判断停止にさせられているのだ。

 この原作の結末は、軍医総監にまで出世し、明治近代国家を支える官僚の一人として、〈治者〉の位相に身を置いていた森鷗外が、天皇制イデオロギーを支える「修身・斉家・治国・平天下」の儒教的教化の理念をさりげなく織り込めた事によるとみてよいだろう。

 

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「目には目を、歯には歯を」の復讐理念を、人情の自然、人間性の道理として、法や掟の内部に一定範囲内で繰り込むことができていた中世や近世のような社会ならともかく、われわれの近代国家において、個人の私的な復讐理念の実力行使を道徳的・法的に容認したならば、収集のつかない、アナーキーな混乱に陥ることは必定(ひつじょう)であるから、国民から、犯罪行為に対する私的な処罰権を取り上げて、それを国家権力による法的判断に委ねるというのは、およそ揺るがすことのできぬ、近代法治主義の理念であり、大義である。

 王朝国家の官吏として出世し、山椒大夫一族に寛仁大度の処置を下す厨子王の〈治者〉としての姿勢の背後には、鷗外が理想として掲げた、明治天皇制イデオロギーと癒着した儒教的な徳治主義が横たわっているとみてよいが、その道徳臭をカッコに入れれば、そこに透けて視えるのは、まぎれもない、近代国民国家の公権力に根拠をもつ、法治主義による裁きの理念なのである。

『山椒大夫』では、怨恨による私的な報復の感情というものは、完全に否定的な扱いを受けており、その徹底ぶりは、丹後での人買いを禁止され、奴婢を解放させられた代わりに、罪一切を許された山椒大夫一族が、その後、かえって「富み栄えた」という叙述によってもうかがうことができる。

 鷗外的理念によれば、一切の不条理は、良き〈法治〉を踏まえた良き〈統治〉によって贖(あがな)われるべきものなのである。

 鷗外の原作を踏まえて作られたアニメの方でも、〈公権力〉に根拠をもつ裁きの理念はそのまま継承されており、所有する奴婢をことごとく解放せよと命ずる厨子王に対して、反抗的な態度を示す山椒大夫と次郎に向かって、「帝(みかど)」の権威を口にし、平伏させるシーンには、それがよく表われている。

 しかもアニメでは、厨子王はなんと、山椒大夫と次郎による過去の奴婢への虐待の罪を許したばかりか、己れを襲撃し暗殺せんとまでした言語道断な所業までも不問に付すのである。アニメの青年・厨子王もまた、王朝国家の一端を担う、理想化された有徳の〈治者〉に成り切っており、己れのこうむった不条理への〈怨恨〉の全てを、ものの美事に抑圧し、法的な〈善政〉の観念へと代償的に昇華してみせているのである。

 もっとも、このアニメの厨子王像は、鷗外の原作のような、明治国家的な儒教的道徳臭をひきずっているというよりは、むしろ、公権力と一体化した戦後民主主義・ヒューマニズムの観念性の象徴とみるのが、当を得ているとおもわれる。

 どっちにしても、同じ穴のムジナである。

 

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 ちなみに、こういった鷗外的理念の行き着く先が、二〇〇〇年代以来、人気テレビ番組としてヒットし続けている周知の刑事ドラマ『相棒』(テレビ朝日放映)の主人公、水谷豊演ずる警視庁特命係の敏腕警部「杉下右京」である事は、言うまでもない。

 杉下右京の信奉する、極度に聖化された法的な〈正義〉の理念とヒューマニズム、そして、そのリゴリズムと矛盾しつつも表裏一体となった、社会へのクールでリアルな観察眼と人間心理の闇への透徹した洞察力……。

 これらの特性は、私には、明治官僚制国家の有能な構成メンバーの一員として勤めながら、その一方で、人間心理にたけた、優れた文学者として日本近代文学の確立に寄与した森鷗外の二面性と重なって視える。

 共に、一面では、極度に観念的な理想主義者でありながら、他面では、それと矛盾する、妙に地に足の着いた、冷徹なリアリストであるという、天上と地上に分裂した〈二重性〉を備えているのである。

『相棒』というドラマが、かくも長年月にわたって根強い人気を保ち、人々を引きつけて止まないのは、杉下右京によるクレバーな謎解きの面白さもさることながら、この主人公の呆れ返るほどに硬直した法治主義的な理想主義がかもし出す、なんとも言えぬ〈息苦しさ〉と、事件の背景に横たわる、不条理な地上の三次元的現実にがんじ絡めとなった被害者や犯人の生態の〈救いの無さ〉のコントラストが、われわれ現代人の視聴者の〈生き難さ〉の感覚、そのマゾヒスティックな痛覚を強烈に刺激するからである。

 われわれ現代人は、これほどにも救いの無い不条理な実相に置かれているのだ、しかもそれは、人間という生き物に元々天から偶然的に与えられた運不運であり、業苦や悪因縁の宿命なのだという、陰惨な近代リアリズム文学的な人生観・世界観が、この社会派刑事ドラマの背後には、常に暗くよどんだように流れている。

 それだけに、杉下右京の振りかざす観念的な理想主義の息苦しさ、押しつけがましさが、(犯人を情け容赦なく追いつめてゆく彼の冷徹な有能さと相まって、)「どこにも出口が無い」というわれわれの〈閉塞感〉を、より一層強く刺激するのである。

 それは一時(いっとき)の間、私たち視聴者を〈マゾヒズム〉の快感によって縛り付ける。

 放送を観終って、そのマゾヒズムの呪縛が解けた時、私たちは、なんという空しさ、うつろさを感じさせられることだろう。

 性懲りもなく何年にもわたって、毎週のように、私はこのテレビドラマを観続けてきた。中には、ごく稀に、後味の悪くない、出来ばえの良い物語の回もあったけれども、総じて後から振り返ってみた時、これほどにうつろで、やり切れない想いにさせられるドラマは他に無い、と言ってもよいくらいだ。*

 このうつろさ、やり切れなさは、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に感じた想いと似ている。(この稿続く)

 

 *この論稿を書いた後、つい先頃(二〇一八年・春)、太田愛の脚本による『相棒―劇場版検戞紛極椣豐篤帖二〇一七年二月公開)のテレビ初放映を観た。私見では、テレビ版・劇場版全て含めた上でも、『相棒』史上、稀有といってもいいほどの、秀逸な出来ばえであった。哀切さが胸に沁みて、しかも後味が悪くなかった。全然期待していなかっただけに、正直驚いた。

 勘どころは、〈国家〉という制度的な虚構と、個々の無名の生活人が置かれた〈生身〉の生の現場の、めくるめくような〈落差〉の痛覚を、きちんと描き切ることで、私たちにとっての真の〈共同性〉のかたちとはいかなるものであるべきか、という問いかけを、観客に真摯に突きつけてみせている点だ。

 風土・民族・伝統といった概念と不可分の「日本人」としてのアイデンティティー、すなわち無名の生活人の「生ける絆」と(あるべき幻としての)〈故郷〉への回帰願望の延長上に紡ぎ出された〈共同性〉のイメージである「日本」という「クニ」のかたちと、「最大多数の最大幸福」の建て前のもとに、法治主義と市民主義的モラルによって強力にガードされた(民主主義的な)「近代国民国家」というメカニックな制度的共同体とを峻別し、後者が強いてくる冷酷な世界風景を、能う限り、しりぞけようとしているという点だ。

 特に注目すべきは、この『劇場版検戮梁静聴Δ竜嗚椶任蓮▲謄譽喩任箍甬遒侶狆貳任之り返し強調されてきた、杉下右京の、法治主義を居丈高(いたけだか)に振りかざす「啓蒙的説教」が全くみられず、ただひたすら、犯人の哀切な心事、心の秘密に迫り、寄り添おうとする優しさがにじみ出ていることである。

 物語の終末部で、私たちは、法・制度・国家といった冷酷な観念の化け物がすーっと風景から消え去り、ひとりの人物の生涯の軌跡、言葉にはならぬ、その無量の哀歓を、ただ静かに受け止めている己れ自身を感受する。

 負傷して車イスに乗った右京が、公園の深々とした樹木の中から、しばし無心に空を見上げているラストシーンも、すばらしい。

 私にとっては、悲しい、嫌な想い出ばかりの『相棒』シリーズだが、この『劇場版検戮蓮⇔匹出逢いの記憶を残してくれた、得がたい作品の一つとなった。

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第10回) 川喜田八潮

  • 2018.06.28 Thursday
  • 21:38

 

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 ちなみに、森鷗外の原作では、安寿と厨子王の姉弟は、苛酷な労働を強いられるが、同僚の婢(はしため)「小萩」の心づかいや、邪険な山椒大夫の三男「三郎」とは違って、自分たちに憐れみをかけてくれる、次男の「二郎」のおかげもあって、かろうじて息をつきながら、黙々とくぐもるように日常をくぐり抜けてゆく。

 

 隣で汲んでいる女子(おなご)が、手早く杓を拾って戻した。そしてこう云った。「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手(めて)の杓でこう汲んで、左手(ゆんで)の桶でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。

「難有(ありがと)うございます。汲みようが、あなたのお蔭(かげ)で、わかったようでございます。自分で少し汲んで見ましょう」安寿は汐を汲み覚えた。

 隣で汲んでいる女子(おなご)に、無邪気な安寿が気に入った。二人は午餉(ひるげ)を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹(きょうだい)の誓をした。これは伊勢(いせ)の小萩(こはぎ)と云って、二見(ふたみ)が浦(うら)から買われて来た女子である。

 最初の日はこんな工合に、姉が言い附けられた三荷の潮も、弟が言い附けられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進(かんじん)を受けて、日の暮までに首尾好く調った。(森鷗外「山椒大夫」新潮文庫版)

 

 姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日(ひとひひとひ)と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。

 とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬ時が来た。小屋を明ければ、奴(やっこ)は奴、婢(はしため)は婢の組に入(い)るのである。

 二人は死んでも別れぬと云った。奴頭が大夫に訴えた。

 大夫は云った。「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引き摩(ず)って往け。婢は婢の組へ引き摩って往け」

 奴頭が承って起(た)とうとした時、二郎が傍(かたわら)から呼び止めた。そして父に言った。「仰ゃる通に童共(わらべども)を引き分けさせても宜(よろし)ゅうございますが、童共は死んでも別れぬと申すそうでございます。愚なものゆえ、死ぬるかもしれません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗(へら)すのは損でございます。わたくしが好いように計らって遣りましょう」

「それもそうか。損になる事はわしも嫌(きらい)じゃ。どうにでも勝手にして置け」大夫はこう云って脇(わき)へ向いた。

 二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。

 或(ある)日の暮に二人の子供は、いつものように父母(ふぼ)の事を言っていた。それを二郎が通り掛かって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐(しいた)げたり、諍(いさかい)をしたり、盗(ぬすみ)をしたりするのを取り締まっているのである。

 二郎は小屋に這入って二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれより又遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つが好い」こう云って出て行った。(「山椒大夫」)

 

 原作の〈文体〉は、淡々とした、無駄のない、的確なリアリズムの目線によって紡ぎ出されており、人が、〈日常〉のささやかな慰藉(いしゃ)の物語によって不条理をくぐり抜けてゆく時の、自然な身構えというものを、ごく簡潔に、象徴的に描き上げてみせている。

『山椒大夫』は鷗外の晩年期の作で、そのさりげない、渋い抑制された文体は、さすがに、日本近代文学確立の一翼を担った作家だけのことはあると感心させられるけれども、残念ながら、アニメの『安寿と厨子王丸』の脚本と演出には、原作のような生活思想的な奥ゆきは感じられない。

 鷗外の原作でも、アニメでも、安寿と厨子王が、邪悪な山椒大夫の息子(原作では三男の「三郎」、アニメでは長男の「次郎」)によって、逃亡を企てた罰に額(ひたい)に「烙印(やきいん)」を押されるという〈悪夢〉を「同時に視る」場面があるが、アニメの方では、ふたりが焼きゴテを当てられる寸前にうなされて目覚めるだけであるのに対して、原作では、悲鳴をあげる中、額に焼け火筯(ひばし)を十文字に当てられた姉弟が、激痛に耐えながら小屋に戻ったあと、安寿の守り袋に入れておいた地蔵菩薩像の霊験によって傷が癒されるという、重要なシーンが描かれている。

 

 二人の子供は創(きず)の痛(いたみ)と心の恐(おそれ)とに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家(こや)に帰る。臥所(ふしど)の上に倒れた二人は、暫く死骸(しがい)のように動かずにいたが、忽(たちま)ち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」と叫んだ。安寿はすぐに起き直って、肌の守袋(まもりぶくろ)を取り出した。わななく手に紐(ひも)を解いて、袋から出した仏像を枕元に据えた。二人は右左にぬかずいた。その時歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛が、掻(か)き消すように失せた。掌(てのひら)で額を撫(な)でて見れば、創は痕(あと)もなくなった。はっと思って、二人は目を醒ました。

 二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じ時に見たのである。安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕元に据えた。二人はそれを伏し拝んで、微かな燈火の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。白毫(びゃくごう)の右左に、鏨(たがね)で彫ったような十文字の疵(きず)があざやかに見えた。(「山椒大夫」)

 

 この霊験を境に、安寿は変貌する。

 

 二人の子供が話を三郎に立聞(たちぎき)せられて、その晩恐ろしい夢を見た時から、安寿の様子がひどく変って来た。顔には引き締まったような表情があって、眉(まゆ)の根には皺(しわ)が寄り、目は遥(はるか)に遠い処を見詰めている。そして物を言わない。日の暮に浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんな時にも詞(ことば)少(すくな)にしている。厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」と云うと、「どうもしないの、大丈夫よ」と云って、わざとらしく笑う。

 安寿の前と変ったのは只これだけで、言う事が間違ってもおらず、為(す)る事も平生(へいぜい)の通である。しかし厨子王は互に慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。二人の子供の境界(きょうがい)は、前より一層寂しくなったのである。(「山椒大夫」)

 

 安寿の秘められた心の変化が、表情とふるまい方への簡潔な叙述を通して、的確に描出されている。

 夢とそれに続く霊験を機に、安寿の中では、弟の厨子王を脱出させるという考えが、ただの絵空事ではなく、確固たる決意として根を下ろしてゆく。

 何でも打ち明けていた弟に対しても心を閉ざし、ひそかに〈自決〉の覚悟を定める。

 十五歳になった彼女は、ひとりの孤独な〈大人〉へと脱皮したのである。

 守りの地蔵菩薩像を厨子王に譲り、神仏の導きと加護に弟の未知の運命をゆだね、父母との再会の志を託した安寿は、もはやこの世に一切の未練はなく、厨子王を脱走させた直後に「入水」してしまう。

 そこには、なぜか、陰惨な匂いが無い。

 しかし、アニメの方は全く違う。原作に比べて、はるかに湿っぽく、めそめそした空気感が漂っているのである。

 同じような不条理を扱いながら、どうして、このような差異が生じたのであろうか。

 

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 もちろん、小説という、言語による表現手段と、映像との違いということもある。

 言葉による表現には、たとえそれがどんなに真に迫った、リアルな描写であろうとも、必ず、大なり小なり硬質な〈抽象性〉というものが備わっている。

 なまなましい、陰惨な写実的描写に溺れる作家はごまんといるが、映像や画像のリアリズムには及ばないのだ。(もっとも、一つひとつの言葉の表現に、そのつど、自分なりのなまなましい具象的なイメージを喚起させられてしまうという「ヴィジュアル派」の人もおり、そういう人にとっては、言葉と映像・画像の間の〈ギャップ〉は少ないのかもしれないのだが。)

『山椒大夫』も、実写映像にしてしまうと、たとえ原作に則していても、全く空気感の違うものになってしまう。溝口健二監督の作品のように。

 もちろん、アニメの『安寿と厨子王丸』の方は、溝口作品のような、泥臭い、酷薄でどぎつい写実主義的演出による映像とは全く違う。

 少年少女向きの作品でもあるから、悪役の表情は陰険でどす黒いが、主人公の姉弟は素朴に可愛らしく描かれている。登場人物のデッサンは、今風の細密なアニメ画像とは違って大らかなものだが、陰翳と奥ゆきのある繊細な風景描写と身体表現の丁寧な演出に包摂されることで、見事にリアルな感覚を誘発することに成功しているのである。(この辺は、宮崎アニメの作りにも似ている。)

 ファンタジックな場面もあるが、全体としては、ひき裂かれた親子・姉弟の哀切な不条理ドラマとしての、手堅いリアリズムの感触を伝えるものとなっており、「映像」表現としての強味はいかんなく発揮されているといっていい。

 一方、「書き言葉」の表現は、刺激の強さという点ではたしかに映像には及ばないけれども、その代わりに、その場その場で読者を立ち止まらせ、時に釘付けにする力をもっている。映像や音楽・歌・会話の場合には、瞬時瞬時に繰り出される新たな刺激の流れの中で、過ぎ去ったシーンや音声は、たちどころに忘れ去られ、あるいは、残像・残響として無意識の内に沈み込んでゆくが、書き言葉の作品では、そうはいかない。

 映像のような「どぎつさ」は免れる代わりに、読者を言葉づかいや描写の前で立ち止まらせ、意識を絡め取ってしまう。絵画や写真のようにである。

 その描写が、陰惨酷薄なものであれば、読み手の柔らかな感性・魂を、とり返しのつかないほどに傷つけてしまうことも起こりうる。

 生老病死の救いようのない地獄を冷徹に描き切ったリアリズム小説やルポルタージュ、私小説の恐ろしさ、害毒というものも、そこにある。

 鷗外は、さすがに、写実的な陰惨さに溺れるような愚は犯していない。

 原作の文体は、幼い姉弟とその母親の不条理な運命を、ひたすら客観的に、能う限り簡潔に、淡々と叙述してゆくだけで、いささかも安っぽい感傷は無く、かといって、乾き切った、潤いの無いものでもない。主人公を中心とする登場人物たちへの、作者の内在的共感の距離感が、ほど良いのである。

 それが、散文的な書き言葉としての硬質な〈抽象度〉の水準と相まって、美事に落着きのある、ほど良い抒情性をかもし出している。

 虚構の時代劇という形式をとることで、現代小説にありがちな、生臭い息苦しさを免れ、私小説的な濁り、思い入れ、偏執といったものも拭い去られている。

〈物語〉を、人生の実相の象徴として、ごく自然に、無意識的に感得させることができているのである。

 無理もないことではあるが、その原作のもつ象徴的な思想性、姉弟の生きざまを通して感受される生活思想的な奥ゆき、生存感覚というものは、アニメの『安寿と厨子王丸』の方には、全く描かれていない。

 不条理をくぐり抜けてゆく時の、生活者としてのくぐもるような目線、苛酷な生の内に立ち顕われる一瞬の癒し、恐怖と安堵、痛覚と手応え、放心と充足、休息と眠り、……といったような、一日一日の〈瞬間〉の繰り返しと点綴(てんてつ)によって織りなされる哀歓の起伏、日常的な〈物語性〉のもつ思想性は、当然のことながら、当時の(黎明期の段階にある)アニメ表現の手に負えるモチーフではない。(ちなみに、この地味で困難なモチーフに対しては、すでに、一九九二年刊行の拙著『日常性のゆくえ』の中で詳細に論じたように、宮崎アニメ『となりのトトロ』が、牧歌的な空間ではあるが、美事に象徴的な取り組み方をしてみせている。)

 アニメ『安寿と厨子王丸』にみられるまなざしは、ただ、不条理を運命として甘受し、耐え忍び、やりすごしてゆくだけの、風になびく葦のような、優しいけれども、あまりにも悲哀感の強い、無常感に彩られたペシミスティックな生存感覚なのである。

 

     20

 

 この和魂(にぎみたま)のみに生きることの意味と根拠を一元的に回収せんとする植物的な生存感覚・世界観が、奇妙なことに、よりにもよって「一九六〇年代前半」という、高度経済成長が加速してゆく日本社会において蔓延していくのである。

 この現象は、(もちろん例外はあるが)当時の小説・演劇・映画・テレビドラマ・少年少女マンガ・歌謡などのさまざまな芸術・エンターテインメントに広くみとめられる傾向といってよいだろう。

 私は、六〇年代前半に小学生時代をすごしたが、当時の少女マンガの主要モチーフが、不条理な運命に翻弄される主人公の哀切極まるメロドラマにあった事を、よく覚えている。大人向けのテレビドラマも、このような感覚が強かったし、演劇でも、例えば、中村嘉葎雄と森光子が主演した、水上勉原作の『越前竹人形』の舞台などは、子供なりにも紅涙を絞らされて、忘れがたい。

 私にとっては沁み入るような、懐かしい作品が、この時代には多いのであるが、このような、和魂に偏した、陰鬱で湿っぽい植物的な生存感覚(もちろん、大衆的には、演歌的な抒情性[例えば、橋幸夫のダークで不条理感の強いヒット曲である「江梨子」のような]にも通じる心性であるといってよいが)は、「一九六四年」頃までは濃厚に息づいており、この年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通を境として、急速に消えてゆくエートスなのである。

 ただし正確に言えば、「一九六七年」までは、この感性は、まだ残影をとどめていたといってよい。

 日本人のエートスが、大衆的な規模で、植物的ないし草食的なものから肉食動物的なものに変容したのは、正確には、「一九六八年」という年である。この年から〈現在〉までは、ある意味で「地続き」なのである。

 しかし、その〈変容〉は、すでに、「六〇年代前半〜半ば」という高度成長の加速化の時期に進行していたのであり、アニメ『西遊記』にみなぎる資本主義根性丸出しの演出姿勢などは、ほんのささやかな一例にすぎないが、その〈予兆〉のシンボルであったといっていい。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第9回) 川喜田八潮

  • 2018.04.30 Monday
  • 12:11

 

     16

 

 ここで、しばらく東映初期アニメから離れて、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本社会の底流に息づいていた生存感覚のかたちに目を向けてみたい。

 一九五〇年代は、日本映画の黄金時代であった。

 北海道を舞台としながら、ドストエフスキーの原作のロシア的な〈闇〉の空気感を美事に映像化してみせた、黒沢明監督の『白痴』(一九五一年公開)や、『七人の侍』(一九五四年)・『隠し砦の三悪人』(一九五八年)といった、野性味ある異色の時代劇、幽暗の気配の濃い、妖艶で情熱的な溝口健二監督の『雨月物語』(一九五三年)や『近松物語』(一九五四年)、何の変哲もない日常の流れの中に潜む、親族間の〈亀裂〉を繊細に凝視した小津安二郎監督の『東京物語』(一九五三年)……など、戦後の映像史の頂点的な位置を示す「モノクローム」の力作が勢揃いしているのである。

 それらは、魂の内に息づく光と闇の〈均衡〉のとれた、あるいはまた、日本人の中に獰猛な野性味の保たれていた、古き良き時代の産物であった。

 この時代の映像は、人間性を、単なる個人的な欲望の化身として類型化したり、孤立した人格の病理的な生態や神経症的な心理劇として描くのではなく、〈風景〉に包まれた、陰翳ある、表情ゆたかな生き物たちの織りなす、生の起伏のドラマとして、象徴的に描き上げている。

 この感覚・手法は、一九六〇年から六一年にかけて公開された市川雷蔵主演の時代劇映画『大菩薩峠』(中里介山原作、三隅研次・森一生監督)三部作までは、たしかに生き生きとした命脈を保っていたようにおもえる。

『大菩薩峠』では、息を呑むほどに美しい、冒頭の「富士」の絶景と、その富士を望む峠道にたたずむ老巡礼と孫娘の鮮やかな映像が美事に象徴しているように、〈風景〉が圧倒的な主役となっているのである。

 たとえ、その直後に、老巡礼が、何の意味もなく、無残に斬り殺されても、また、彼を斬り捨てた「机竜之助」が、その後、奇(く)しき悪因縁に翻弄され、地獄の業苦に責め苛まれようとも、私たちは、主人公の竜之助も含めて、この物語に登場する全ての人物たちの生の浮沈・不条理を、孤立した断片的な〈個性〉のドラマとしてではなく、あくまでも、大いなる〈自然〉=コスモスという〈風景〉によってつかさどられた運命の織りなす、河の流れのごとき、霊妙なる魂の光芒(こうぼう)の軌跡として感受することができるのである。

 しかし、この『大菩薩峠』という作品を真に貫いている底流は、お題目のように掲げられているといってもよい、仏教的な因果応報・業苦の摂理や諦観でもなければ、無常観によるはかなさの美学でもない。

 そんな観念的なメッセージや涙もろい、じめついた虚無感などは、表層的なものにすぎない。

 かといって、悪因縁が織りなす不条理の泥沼の中でのたうち回る、救いようのない人間たちの生態に、倒錯的に酔いしれるという、マゾヒスティックな変態的嗜好でもない。

 この作品を衝(つ)き動かしているものは、もっと烈しい、狂おしく煮えたぎった、デモーニッシュな魂の〈渇き〉であり、それと背中合わせになった、言いようのない〈空しさ〉〈うつろさ〉の感覚である。

 魂の深部に生命的な〈欠落〉の感覚を抱え込み、生の実感、手応えを求めて得られない不幸な主人公が、〈表現〉を求めて、過剰に溢れ出ようとする魔性の狂気に衝き動かされながら、さまよい続ける姿が描かれている。

 それは、虚無的なものではあるが、決して冷笑的なものではなく、むしろ、すさんではいても、求道的とすら言える、烈しい〈情熱〉のかたちなのである。

 しかも、この主人公の狂気・情熱は、単なる個人的な、閉ざされた病理として描かれるのではなく、個人に内在しながら、個人をはるかに超越した、大いなるコスモスとしての〈闇〉のダイナミズムによってつかさどられた、哀切な運命のドラマとして描かれている。

 主人公を取り巻く悪因縁と因果応報・業苦の物語も、主人公と直接・間接に絡み合う、多彩な登場人物たちの置かれた関係の〈場〉が連鎖的に紡ぎ出す、数々の哀歓の物語も、共に、コスミックな〈風景〉の一環として包摂され、活かされている。

 映画『大菩薩峠』は、一見、抹香臭い、仏教色の濃厚な、ドロドロとした因縁話や陰々滅々たる無常感に覆われた作品のようにみえるが、実は、おびただしい登場人物たちによる〈情熱〉のドラマであり、またその情熱に内在しながら超越する、生命的な奔流の物語なのだ。

 そこでは、地獄の業火のような烈しい愛憎の念が渦を巻いているかと思えば、罪びとの魂の救済と浄化を希う、澄んだ祈りと慈愛の心が描かれる。

 暗く険しい魔界の霊風に包まれるかと思えば、冴々と天心に輝く三日月を仰いで心安らぐ、浄福のひと時が紡ぎ出される。

 残忍な主人公が、時に驚くほど心穏やかで、優しい人物に変貌したりもする。

 つらい境遇に置かれたさまざまな男女たちが登場するが、運命に抗い、もがき抜く、猛々しい荒魂(あらみたま)の雄叫びもあれば、すべてをあるがままに受け容れ、忍耐づよくやりすごしながら、心静かに生きようとする、優しい和魂(にぎみたま)の鼓動もある。

 このような彩りゆたかで振幅の大きい情念のドラマの内に息づいていた生存感覚と美意識こそ、戦前昭和初期から終戦後の一九五〇年代までの日本社会に残存していた、前近代的・土俗的な、自然=風景に対する相互浸透的な〈闇〉の感受性にほかならなかった。

 私の考えでは、この〈闇〉の感受性は、六〇年代に入っても生き残っており、一九六四年までは、かろうじてその痕跡をとどめていたが、六五年以降は急速に消滅へと向かい、六七年を最後に、日本社会からはほぼ完全に一掃されてしまうのである。(私はすでに、「闇の喪失――ある戦後世代の追憶」という評論でこの問題に論及しているので、詳しくは、そちらをお読みいただければありがたい。)

『大菩薩峠』三部作が制作・公開された六〇年代初頭は、そのような古き良き時代の感性が、最後の輝きを放つと共に、急速に衰弱と消滅の時を迎えようとする、まさにその〈転回点〉の時期に当たっていたのである。

 

     17

 

 ここで再び、アニメ作品に立ち返ることにしよう。

 東映初期カラーアニメーション映画の不滅の金字塔といってよい『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』に比べると、六〇年代初めに公開された『西遊記』(一九六〇年)と『安寿と厨子王丸』(一九六一年)は、残念ながら、見劣りのする失敗作であると言わざるを得ない。

 もっとも、『安寿と厨子王丸』には、まだ、五〇年代日本の空気感の良さが残影をとどめており、それが、独特の優れた芸術性を可能ならしめているという点では、必ずしも失敗作とは言えないのであるが、『西遊記』の方は、全くいただけない。

 DVDの映像を一見していただければ明らかで、わざわざ演出の細部について書くまでもない。

 当時流行していたアメリカや日本の風俗をはじめ、どぎつい、これみよがしの悪ふざけの演出がてんこ盛りになった、ドタバタ劇のオンパレードで、まことにヴァーチャルで空疎なこと、この上ない。

 ヴァーチャルならヴァーチャルで、原作の『西遊記』特有の、生臭い人間劇の寓喩的パロディーが見られるかといえば、そうではなく、全くといってよいほど主人公や登場人物のキャラクターが立っていない。

 人間という生き物の弱さ・愚かしさ・さもしさを衝(つ)くという、どぎついパロディーに、力強いリアリティを与えるのに必要なキャラ設定が、まるっきり出来ていないのだ。

 ただの俗悪な娯楽作品であって、風景描写には、いかにも東映初期作品らしい繊細な美しさがみられるが、それが、物語に奥ゆきとふくらみを与えるようないのちを持たず、芸術的な香りとはほど遠い。(手塚治虫が、「原作者」として、アニメ制作に「参画」しているというのに、情けないことである。)

 一口で言えば、ウケ狙いの〈商品〉の匂いがプンプンしているのである。

 これが、高度経済成長が一気に加速する、イケイケドンドンの「六〇年代日本」の業界の、あられもない姿なのだ。(ちなみに、一九六二年には、あの愛すべきシャイなコメディアンであり、コミックバンド「クレイジー・キャッツ」のミュージシャンでもあった「植木等」主演の、サラリーマン・ギャグ映画の傑作「無責任男」シリーズが上映されている。)

 五〇年代までの映像が保ち得ていた慎しみ、はにかみ、気品というものが徐々に衰弱し、希薄化し、やがて「六〇年代後半」には、急速に失われてゆくという、その流れを、いわば〈予兆〉のように、先取り的に表現してみせた作品なのである。

 この作品への反動というわけでもないのだろうが、『西遊記』の翌年の一九六一年に公開された『安寿と厨子王丸』では、『白蛇伝』や『少年猿飛佐助』のような、繊細で気品溢れる、絵画的な演出が復活している。

 周知の森鷗外の小説『山椒大夫』を原作に、田中澄江の丁寧な脚本によって、独自のファンタジックな設定も混じえながら、哀切な平安絵巻が展開する。

 悪どい陸奥の国司の奸計によって流罪となった父親・岩木判官の冤罪(えんざい)を晴らすため、都に向かった母と子(安寿と厨子王丸の姉弟)が、人買いにだまされて生き別れとなり、奴隷として売り飛ばされる。

 姉弟は、丹後の由良(ゆら)の港の長者・山椒大夫(さんしょうだゆう)とその長男・次郎によって、散々に虐待・酷使されるが、次男の三郎だけは、無力ながらも姉の安寿をかばい、優しくしてくれる。ふたりは、いつしか慕い合うようになる。

 密かに弟の厨子王を逃がした安寿は、次郎に焼きごてを当てられるところを、三郎によって助けられ、危うく難を逃れるが、しょせん逃げ切れぬと観念して、入水(じゅすい)してしまう。安寿の魂は〈白鳥〉に生まれ変わり、厨子王の行く手を導く。やがて、白鳥は、安寿の霊を弔う三郎のもとにも顕われ、自らが安寿の魂の化身である事を、恋人に悟らせるのである。

 山椒大夫の追っ手をかろうじてかわした厨子王丸は、都に向かい、関白・藤原師実(もろざね)の姫を助けた事が縁で、師実に庇護されるが、父の岩木判官は、流罪の地・九州ですでに亡くなっていた。

 少年の境遇を哀れに思った師実は、厨子王をひき取り、わが子同様に育てる。

 厨子王丸は、師実のもとで武術の鍛錬に励み、たくましい青年に成長する。

 帝(みかど)に祟(たた)りをなす大蛛(おおぐも)の妖怪を退治した功績によって陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた厨子王は、任地に向かう途中、丹後の由良を訪れるが、報復を恐れた山椒大夫と次郎は、厨子王の一行を待ち伏せ、一斉に矢を射かけ、暗殺せんと図る。次々と矢を打ち落とし、敵の刃(やいば)の群れをかわした厨子王は、大夫の館に乗り込み、厳罰を下すと思いきや、「寛仁大度」の姿勢を示し、奴婢の解放を命じただけで、過去の罪状の全てを許してしまうのである。

 出家した三郎の告白で、姉の安寿がすでにこの世に亡いことを知り、彼女の魂が、一羽の白鳥に化身した事を告げられる。

 白鳥の導きで、盲目となった母親を佐渡で見つけ出した厨子王は、母と共に、任地の陸奥へ向かう。ふたりの乗る船の行く手には、共に寄り添う白鳥の優しい姿があった。

 

 このアニメは、冒頭から、息を呑むほどに美しい、繊細この上ない陰翳に包まれた、日本画の四季折々の風景が華麗に繰り出され、その風景をバックに、木下忠司作曲の気品ある哀切なメロディーが静かに流れることで、私たちを、しっとりとした、抒情的な気配の内に誘(いざな)ってくれる。

 酷(むご)い、陰惨な不条理劇も、この伝統的・日本画的な抒情性のゆったりとした時の流れの内に包摂され、溶かし込まれることで巧みに緩和され、全ての愛憎・哀歓・運不運のめぐり合わせを、(恐ろしい悪因縁も含めて)無常なる〈自然〉の一風景として受け流してゆくという、東洋的な諦観・忍従の哲学の内へと回収させられてゆく。

 この世界観のもとにあっては、個人的なもがき、生の意味や価値は、本質的に無力なものとされ、人の運命は、己れ自身の力をはるかに超越した非人間的な〈自然〉、〈気〉のうねりの渦中で翻弄されるほかはない。不条理とたたかう荒々しさは空しい悪あがきにすぎず、人はただ、心を穏やかに保ち、祈りながら、風になびく葦(あし)のように、全ての災いを自然のはからいとしてやりすごし、耐え忍んでゆくほかはないのである。

 五〇年代との大きな違いは、不条理な運命とたたかう猛々しい〈荒魂〉が影をひそめ、〈和魂〉のみに生きる支えを求めようとする、植物的な生存感覚が前面に出た作りとなっている、という点である。(この稿続く)

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第8回) 川喜田八潮

  • 2018.03.23 Friday
  • 18:04

 

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 私は、『白蛇伝』の優れた性質を、以上のような、宮崎アニメとの共通項が象徴する特質とは、全く別の次元に見出している。

 それは、無力で生活力の弱い、無垢な、優しいだけの主人公が、その無力さ・優しさのゆえに、理不尽な憂き目に遭い、死に追いやられると共に、聖なる力をもった妖精との摩訶不思議なえにしを招き寄せ、その献身的な四次元的霊力の助けによって、死の淵から甦り、不条理を乗り超えて、幸せになるという、説話的な型のことである。

 それは『白蛇伝』のような中国の民話に限らず、おそらく、世界の各地に古(いにしえ)より語り継がれてきた「貴種流離譚」の一類型であると思われる。

 わが国でも、古代の神話『古事記』の中に登場する英雄オオクニヌシ(オオナムヂ)の説話が、このような貴種流離譚の構成を備えている。

 ここでも、オオナムヂは無力で優しい主人公であり、邪悪な母違いの兄たちに奴隷のように扱われて理不尽な苦役を課され、あげくの果ては、彼らの嫉妬をこうむり、くり返し死に追いやられるが、そのたびに、母神や女神たちの助力によって甦る。優しいだけで、あまりにも弱々しいオオナムヂの魂を、雄々しいものに鍛え上げようと考えた母神は、「夜見国(よみのくに)」の統治者であるスサノオノミコトの許に息子を送りこみ、身に着いた一切の災厄の汚れを払い捨てさせ、スサノオの荒魂(あらみたま)の力を授けてもらおうとする。夜見におもむいたオオナムヂは、そこで、スサノオの娘「スセリビメ」と運命的にめぐり逢い、恋に陥り、結ばれる。

 娘婿となったオオナムヂの性根を試そうとして、スサノオは、次々と恐ろしい試練を彼に課すが、そのつどオオナムヂは、妻のスセリビメの密かな助力や動物の機転によって、難を逃れる。そして、ついにスセリビメと駆け落ちしたオオナムヂは、スサノオの荒魂の宿った呪宝を手にして、夜見国から脱出し、現世の地上界に転生する。

 優しい、穏やかな和魂(にぎみたま)と猛々しい荒魂の均衡のとれたオオナムヂは、英雄・大国主神(オオクニヌシノカミ)となって、スセリビメに支えられながら、邪悪な神々を一掃し、美事に国土を統一する。

 このオオクニヌシ説話における、和魂と荒魂の〈均衡〉というモチーフは、闇の両義性による葛藤のドラマという前述のモチーフと同様、人が不条理とたたかい、乗り越えてゆくために必要なまなざし、生の心棒を象徴的に表現するものである。

『白蛇伝』では、和魂と荒魂は、許仙と白娘のふたりに、分かち持たれている。

 和魂のまさった、優しい非力な主人公の許仙との純愛を成就せんとして、法海を相手に、妖術の限りを尽くしてたたかいを挑む白娘の姿に、彼女の荒魂の烈しさが生き生きと描出されている。また、妖精としての霊力を失い、ただの〈生身〉の人間の女になった白娘が、法海の妖術のひき起こした嵐の海に揉まれながら、必死に許仙のもとに「命の花」を届けようと、小舟を漕ぎ続ける姿にも、彼女の荒魂の息づかいが活写される。

 この白娘の烈しさ、愛の情熱が、ついに、甦った許仙の内に眠っていた荒魂に火をつけ、青年を、いや応なく嵐の海中へと誘(いざな)うのである。

 舟から投げ出されて、溺れかかっている白娘を救うべく、許仙は無我夢中で必死に泳ぎ続け、ついに恋人のもとに辿り着く。感動のクライマックスである。

 許仙の荒魂をひき出したものが、怖れを知らぬ、白娘の愛の烈しさにあったこと。

 そして、その愛を招き寄せたものが、許仙の無垢な優しさと無力さ、生活者としてのひ弱さという和魂のかたちにあったこと。

 この素朴な説話的原型こそ、『白蛇伝』という地味でつつましい、けなげな恋物語に、不滅の力強さを与えている要因だといっていい。

 オオクニヌシの荒魂をひき出し、スサノオの力を彼に授けたものが、スセリビメの情熱的な愛という荒魂の烈しさにあったこと。そして、そのスセリビメの愛を呼び覚ましたものが、オオクニヌシの優しさ、無力さという和魂にあったこと、と同様に。

 許仙もオオクニヌシも、所有し支配することによる力の快感、貪る心から最も遠い存在である。その非力さ、穏やかさ、優しさこそが、澄んだ静けさの気配を漂わせ、人の心を浄め、愛を招き寄せる。

 許仙においては、それに加えて、孤独で繊細なアーティスト魂を備えた青年であるという特性が与えられている。

 彼は笛を吹く。その笛は、〈異形の者〉である許仙の純粋な哀しみと渇きの表現であり、また寂しい慰めでもある。その孤独な音色が、同じく異形の魂を備えた妖精・白娘の心の琴線に触れる。彼女は、青年の笛に呼応する己れの声を繊細な胡弓の音色によって届け、ふたりの魂は響き合い、運命的な愛が生まれる。

『白蛇伝』は、芸術=表現を通して、すなわち、孤独な固有の魂のふれ合いを通して、人がめぐり逢い、縁(えにし)をとり結ぶことの霊妙不可思議さを描いた作品でもあるのだ。

 

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『少年猿飛佐助』では、〈和魂〉は、佐助の姉「おゆう」によって象徴されている。

 ただ優しいだけの、地味でしとやかな美人なのだが、彼女の存在が、佐助と山の動物たちとの、家族のように親密な、閉じられた生活小宇宙のみずみずしい空気を支え、柔らかく包み込んでいるさまが、さりげなく演出されている。

 しかし、動物たちの牧歌的な戯れのシーンが、いつしか、子鹿のエリと母鹿の不条理劇に発展し、「夜叉姫」の登場へと導かれるという、思いもかけぬ光から闇へのナチュラルでダークな〈変容〉が、佐助を変える。

 光溢れる〈日常性〉の背後に、怖ろしい〈闇〉の深淵が潜んでいる事への覚知と実存的な切迫感が、主人公の少年・佐助の〈荒魂〉への志向を促すことになる。

 彼はもはや、親代わりの姉に庇護されているだけの、頼りない、〈受身〉の少年の場所にとどまることはできない。主体性をもった、ひとりの〈大人〉へと成長・脱皮せんとする冒険のとば口に立たされることになる。

 隠れ里のような山中での姉と動物たちとの平和な暮らしを守るために、佐助は、忍術という四次元の霊力を身につけることで強くならねばならないと覚悟を決め、姉の制止を振り切り、置き手紙を残して、夜中に単身家を出てしまう。その弟のふるまいに対して、おゆうは、ただひたすら神仏に無事を祈り、ゆだねるしかない。姉は弟に対して何もしてやれないのだが、弟の身を案じ、はからいを超えて神仏の導きと加護に全てをゆだねようとする、おゆうの澄んだ〈祈り〉の心と優しさこそが、修業の旅におもむく佐助の孤独な覚悟と不屈の闘志をひそかに後押ししている事を、私たちは、画面の進行と音楽によって、ごく自然に感じ取ることができている。

 佐助の〈荒魂〉への志向を生み出し、支えているのは、実は、姉おゆうの〈和魂〉にほかならなかった。四次元の霊力を身につけることで、佐助は、夜見国から脱出して転生したオオクニヌシのように、己れの内なる和魂と荒魂の〈均衡〉のとれた、真に不条理とたたかえる、優しさと猛々しさをあわせ持った人格として完成する。

〈個性〉という意味での人格のことではなく、魂のあり方の普遍的な〈象徴〉としての人格のことである。

 夜叉姫にその美しさを嫉妬され、配下の山賊たちに家を焼かれたあげく、捕らわれの身となったおゆうは、鬼女によってムチ打たれ、断崖絶壁から呆り下げられるが、彼女を慕う真田幸村の果敢な働きによって、危うく一命をとりとめる。この上田城の若殿・幸村とのえにしを招き寄せたのもまた、おゆうの和魂の力である。

 幸村は、上田城下の民家に火をかけ、容赦なく人を殺し、財物を奪い取ってゆく夜叉姫配下の山賊・野盗たちの討伐のため、その隠れ家をつきとめようと、密かに、家臣の三好清海入道とふたりで山に分け入るが、そこでおゆうにめぐり逢い、ひと目惚れしてしまう。

 おゆうは、根っからの山里育ちとは思えぬ、なにか由緒ありげな、気品ある風貌の女性である。少年の佐助が刀を所持していることからも、姉弟は、なにかいわくありげな武家の出身で、わけあって、密かに山中に身を隠しているのかもしれない。

 そんな背景をちらっと想像してみるのも、楽しい。

 おゆうは、何の欲もなく、弟と二人でその日その日をやりくりしながら、隠れ里のような山の中で、世間の目を逃れて、穏やかな日常を守り抜いている。

 世の中のしきたりや身分による窮屈な制約とも無縁だし、財産とて無さそうである。

 何の贅肉も無い代わりに、何の保障も無い。

 貧しい山小屋に住み、ギリギリの自給自足的な暮らしを送っているが、充ち足りた表情をしている。彼女の周りには、落ち着いた、しっとりとした静けさがある。

 小川で一人、髪を洗い、歌をうたっているおゆうの姿を垣間見ただけで、幸村は、無性に心ひかれるものをおぼえる。

 彼女は、優しいだけがとりえの、とことん非力な女性であるが、その非力さ・優しさこそが、佐助に忍術修業の一念奮起を促し、幸村との良き〈えにし〉を招き寄せるのである。

 ここにも、『白蛇伝』と共通する、和魂と荒魂の〈均衡〉という説話的原型が息づいていることがわかろう。

 この伝統的・古典的な説話性が私たちの〈無意識〉に訴えるリアリティの質というものは、決して、他愛ないものとして一笑に付してもよいものではない。

 それは、人のえにしと絆の霊妙さによって引き出され、支えられた、世界への〈信頼〉の感覚、生命的な〈肯定〉のまなざしを象徴するものである。

 登場人物たちは、改めて言うまでもなく、善・悪のメリハリのきいた素朴な、単純きわまる説話的類型として描かれており、〈個性〉などというものは、問題にならない。

 善と悪とが複雑に混濁し、意識と無意識が分裂したまま、欲望に翻弄される、現代的なキャラクターとは、完全に対極にある。

 それにもかかわらず、物語の展開が私たちに深い感銘を与えうるのは、登場人物たちが、個性的な〈人格〉としてではなく、あくまでも、〈風景〉に包まれ、〈風景〉によって活かされた〈象徴的存在〉として感受されているからである。それでこそ、説話的な〈原型〉というものが活きてくるのである。

『白蛇伝』も『少年猿飛佐助』も、共に、画面構成といい、ストーリーといい、人物デッサンやキャラクター造型といい、大らかでありながら繊細で、みずみずしい。素朴な力強さをもった、リアルにして象徴的な作品である。

 説話的な原型を活かす上で必要な〈抽象度〉の水準というものが、きちんと迷いなく定まっており、演出上の贅肉というものが一切無いのである。

『白蛇伝』は、最も地味な素材を扱いながら、私たちが避けて通ることのできない、世界観や生きることの価値をめぐる本質的な問題性を多元的にはらんだ、渋い、味わい深い、異色のファンタジーとなり得ているし、『少年猿飛佐助』は、気品溢れる、伝統的な日本画的美意識に支えられた、光と闇の奥ゆきとふくらみの中に、四次元的な霊力のダイナミズムのドラマを美事に包摂してみせた、空前絶後の、血湧き肉躍る時代劇の名作となっている。

 演出の薮下泰司をはじめとする東映動画の優秀なスタッフ陣が、一九五〇年代後半という時代に、このような深い思想性をはらんだ美事なカラーアニメーション映画を相次いで創り出すことができたという事実に、私は、改めて、驚異の念を覚えずにはいられない。

 終戦から十年ほどしか経っていない、高度成長初期のこの時代には、無傷の自然はまだゆたかで、農業人口が多く、ゆったりとした時の流れと生活リズムの中で人々は生きており、四季の移ろいへの皮膚感覚が鋭敏で、風景には、深々とした生命的な〈闇〉の気配が立ち込めていた。人間関係には、まだ多分に大らかさが残っており、現代の都会人のごとく、孤立した、神経症的な病理に蝕まれてはいなかった。しかも、一九五〇年代の日本人は、終戦直後のような、飢えと極貧の地獄からようやく脱し、生活にいくらかの安定感と将来への希望が生まれていた。

 人々の理性と感性の間には、無意識のうちに、ある種の均衡と融合が保たれ、精神はすこやかだった。

『白蛇伝』と『少年猿飛佐助』は、そのような稀有な幸福さを保ち得た時代に生まれ得た名作だったのである。(この稿続く)

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2018.02.24 Saturday
  • 13:58

 

     12

 

 ここで私が思い浮かべるのは、宮崎駿氏の息子の吾朗氏が監督して制作されたアニメ『ゲド戦記』の「結末」である。

 宮崎吾朗の『ゲド戦記』は、ル=グウィンの原作とは違っている。

 原作者は、アニメの出来ばえに大変不満で、原作に込められたメッセージと人物造型、表現内容の本質が歪められたと激怒しているようだが、原作はあくまでも原作であり、映画は、たとえ原作をふまえていても、芸術作品としては、全く別箇の独立した表現の産物とみなすべきである。

 原作とアニメの違いについて、ここで触れる余地は無い。

 私のここでのこだわりは、次の一点のみである。

 すなわち、宮崎吾朗のアニメ『ゲド戦記』のラストシーンにおいて、主人公の一人である少女の〈本体〉が〈竜〉であることが示され、〈竜〉に化身することが、魂の〈解放〉の象徴として描かれている、という点である。

 このアニメの結末に原作者が激怒したかどうかは、私には分からない。

 だが、宮崎駿氏が、息子の表現した〈竜〉という象徴への〈まなざし〉に対して、内心、ある種の危惧〈きぐ〉の念を覚えたであろうと推察することはできる。

 このアニメを観た後、駿氏がインタビューで、一言、「大人になってない!」と一喝していた光景が、今も私には、印象深く記憶されている。

 はしなくも、ここには、業界人としておそらく空前絶後といっても過言ではないほどの大成功を収めた宮崎駿という天才アニメーターの内に隠された、〈大人主義〉の限界が透かし視える思いがするからだ。

 人間の本体が〈龍〉であって、どこが悪い?

 当時も、今も、私はそう思っている。

 人間は、「人間」などという、ちっぽけなものを超えた、大いなる不可視の〈闇〉としての本体を宿し、その本体によって活かされているにすぎない。

 人間の魂は、三次元の個体としての存在に宿りながら、同時に、その輪郭を超えて森羅万象へと拡がる、広大な〈無意識〉の領域というものを有している。

 フロイトの学説が洞察している通り、私たちの〈身体〉というものは、私たちの〈無意識〉の担い手である。

 脳は、哲学者のベルクソンもその著書(『物質と記憶』『思想と動くもの』)で明晰に論証してみせているように、私たちの精神を現実生活に向き合わせ、なんらかの形で「適応」させるための、「注意」と「想起」(抽象化ないしは改変を施された過去の経験=「記憶」の想起)の器官であって、心の領域全体をカバーするものでは決してない。

 心は、脳のメカニズムの単なる反映などではなく、逆に、心が脳のあり方を規定し、包摂しているとみるべきではないか、というのが、私の考えである。

 ただし、その心というのは、〈意識〉だけではなく、〈無意識〉の広大な領域を含んでいる。

〈意識〉というものは、私たちの身体が、地上の三次元の生活世界に現実的に(支障なく)「適応」するために、〈無意識〉の中から、そのつど必要な情報やイメージを汲み上げ、知覚や記憶、感情、思考といったかたちを通して、私たちを取り巻く環界や接する対象との間に、固有の〈意味づけ〉を成就せんとする働きにほかならない。(ただし、厳密に言うなら、〈意識〉は〈無意識〉に包摂されているのであり、身体を媒介として、無意識のうちに、知覚所与の喚起や記憶の想起を強いられながら、その「制約」の中で、現実への「適応」を成就せんとするのである。)

 その〈意味づけ〉の現実的なプロセス、すなわち一種の「情報処理過程」を担うのは、たしかに脳という器官なのであろうが、しかし、その脳に情報処理を命ずる力、主体というものは、決して、脳でもなければ、意識でもない。

 いわば、脳というのは、一種の「配電盤」のようなものであって、電源そのものではないのだ。

 脳は、身体という媒体を通して不可知なる電源から送られてきた電流を、適切に配備し、〈意識〉という「照明」を、「種」に固有のかたちで、また個々人に固有のかたちで紡ぎ出す、「配電盤」のごとき役割を果たしているといっていい。

 では、「電源」はどこにあるのか?

 言うまでもなく、私たちの〈無意識〉にある。

 そこにこそ、私たちの〈魂〉の中枢があるのだ。

〈意識〉などというものは、私たちの魂の顕われにとって、実は「氷山の一角」にすぎないのであって、私たちの魂の〈本体〉は、水面下の広大な〈無意識〉をつかさどる目に視えぬ力、エネルギーの源にこそある。

 個的な身体のレベルでこのエネルギーの担い手となるのが、(腎臓を調整機能の中枢とする)「内臓」の働きと「血液」の流れであり、またそれらを統合的につかさどる「自律神経叢」である。

 脳は、「視床下部」を通じて、この「自律神経叢」(ヨガやD・H・ロレンスの言葉で言うところの「太陽神経叢」)と相互作用的に結びつき、自立神経叢に担われた〈無意識〉の力に支えられることによって、はじめてすこやかに機能しうるのだ。

 しかし、私たちの個的な無意識は、実は、より巨きな「類的」な〈無意識〉に包摂されている。

 私たちの身体に宿っている〈無意識〉なるものが、私たちの〈個〉の殻を超えて森羅万象へと拡がっているからこそ、私たちの目にし、感じ取る生身の生の〈風景〉というものは、(それが生命的なものにせよ、虚無的なものにせよ、)単なる〈無意味〉としてのカオスではなく、(主体と客体との相互浸透的な感覚を伴う)〈意味〉と〈価値〉の相貌を帯びた「生ける事象」=知覚所与として、すなわち(過去と未来を〈現在〉の内に包摂し、統合するような)「生ける時間体験」=持続として立ち現われるのである。

 その「時間の発生源」ともいうべき類的な〈無意識〉の領域こそが、生命と虚無、創造と解体の両義性を備えてダイナミックに流動する、不可知なる〈闇〉のコスモスにほかならない。

 フロイトはそれをエスと呼び、東洋の道教やヨガ、仏教の禅では〈龍〉と名付ける。

 西洋では、キリスト教の影響もあって、〈龍〉は、聖者によって退治される「悪役」として形象化されることが多い。(エジプト文明をはじめとする「キリスト教以前」の古代文明にあっては、そうではない。)

 東洋では全く逆に、中国でもインドでも、他の東アジア地域でも、〈龍〉は、基本的に、いのちの根源をつかさどる善なる存在であり、森羅万象に宿り、日輪や月や星辰とコスミックに照応し合う高貴なる生命、魂の霊妙なる導き手であった。苛酷な現世の地上的な生を美事に生き抜かしめる聖なる力の源泉であり、龍や蛇の図像は、その力の象徴として描かれた。

 しかし、人が我欲によって他者の生命を損い、ふみにじる時、〈無意識〉に中心を置く〈魂〉には濁り、汚れが生じ、〈龍〉は「悪しき姿」へと変容する。大小さまざまな龍たちが敵対し合い、闘争を繰り返し、悪因縁の轍(わだち)へと巻き込まれてゆく。

 人に宿った〈龍〉の次元、すなわち個々人の個的な無意識とリンクする類的な無意識の次元というものは、互いに交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発し合いながら、霊妙不可思議な〈えにし〉によって結ばれているのだ。

 洋の東西を問わず、古代以来の文明世界において、優れた哲人・宗教思想家たちが取り組んできた最も重要な課題は、〈悪龍〉の邪気・邪念がもたらした災いからいかにして身をかわし、いかにしてそのまがまがしき力とたたかい、それを克服・解毒し、〈善なる龍〉へと変容させてゆくか、という叡智の追求にあったと言えよう。それは、〈本能〉のもつ正しき力に目覚め、それを活かす道を知るということである。

 真の〈叡智〉は、〈本能〉を敵に回すものではない。

 本能の力を忌み怖れ、敵視し、観念的な道徳や合理主義のみによって己れの生を思い通りに「仕切ろう」とするなら、抑圧された本能はかえって歪み、遅かれ早かれ、〈無意識〉の中で〈悪龍〉と化して荒れ狂うであろう。

 昂進したストレスは、自傷行為的な表現をとるか、あるいは、他者や敵への不毛な攻撃という形をとって、代償的に吐き出されることになる。

 真の叡智は、〈本能〉に正しい居場所を与えてやること、すなわち、〈善なる龍〉としての生命的なかたちを与え、そのエネルギーを適切に解き放ってやることだ。

 それは、己れ自身の生命の充溢を図ると共に、己れとえにしある者たちとの間に、正しき相互扶助や自然分業のかたちをつくり上げてゆく道を模索することである。

 そのためには、私たちは、己れの内なる〈龍〉のささやきに、すなわち〈無意識〉の深みから立ち昇る微かな声に、正しく耳を傾ける術(すべ)を知る必要がある。

 しかし、私たちの個的な〈無意識〉は、さまざまな既成観念によって、がんじ絡めに縛られている。

 その既成観念のとらわれを脱し、心が真に望むものを見つけることは、容易ではない。

 私たちが何にとらわれ、何に苦しみ、何から解放されたいと望んでいるのか?

 それを教えてくれるものは、〈無意識〉の担い手である、私たちの〈身体〉の感覚である。

 私たちの喜怒哀楽の感情から、対象に対する微かな〈異和〉や〈親和〉の感覚に至るまでの、私たちの身体性の〈揺らぎ〉のあり方こそが、既成観念による呪縛の正体を教えてくれる。

 私たちが既成観念の皮膜を一枚ずつはがしてゆくごとに、私たちは、〈無意識〉の深みから立ち昇る〈渇き〉の声に、正直に耳を傾けることができるようになってゆく。

 魂の〈本体〉に、〈龍〉に近づいてゆく。

 魂の本体が〈龍〉であるというのは、個体としての生命存在をつかさどる不可知なる力の源泉が、個に宿り、個を個たらしめながら、同時に、個を超えた大いなる類的な〈主体性〉の次元にあるということだ。

 われわれ個々人の霊のかたち、(中国哲学風に言えば)心身に内在する固有の陰陽の〈気〉の流れと結びついた、その大いなる〈龍〉の次元こそ、われわれに摩訶不思議なる〈えにし〉をもたらしてくれるものであるに違いない。

 われわれにできることは、その己れを超えた不可知なる〈主体性〉=〈龍〉のはからいに心静かに身をゆだね、祈り、念じつつ、自らの心の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な〈渇き〉や〈促し〉の声に、忠実に耳を傾けることである。

 そして、その〈龍〉の促しの方向性に沿って、(己れの資質が許容する範囲内で)聡明な認識と判断を行い、決断し、己れ自身を賭けるという、固有の〈主体性〉を発揮することである。

 われわれの個としての主体性というものは、個を超えた類的な〈無意識〉をつかさどる、より巨きな主体性の内部に包摂され、活かされることによって、はじめて、固有にして肯定的な生の物語性というものを紡ぎ出せるのではあるまいか。

 己れの〈無意識〉の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な渇きや促しの声を無視し続けたり、封印したり、敵対的に取り扱ったりして、幸せになれるなどと思ったら、大間違いだというのが、私の考えである。

 人は至らぬ生き物だが、幸いにして、めぐり逢いの機縁に恵まれるなら、修行し、魂を磨きながら、自分なりに幸せになることはできる。あるいは、少なくとも、幸せになろうと不断につとめることはできる。

 もちろん、〈幸せ〉の形は、人それぞれである。私がここで言う〈幸せ〉とは、「うつろ」ではない、生命的で自己充足的な、その人固有の生のあり方を指す。

 人の生きる営みを〈龍〉の導きと結びつけてとらえるという感覚・モチーフは、人類史における神話的な〈叡智〉の悠久の伝統につながるものである。

 アニメ『ゲド戦記』の難点は、死の恐怖に蒼ざめ、生の意味を見出せぬまま、うつろな魂を抱えてさまよう主人公の少年アレンと、生命の象徴である〈龍〉のイメージとの間の〈ギャップ〉の巨きさを、(少女テルーが代弁する)死生観の観念的な「お説教」によって、強引に埋めようとする不自然さにある。

 観客は、物語の終局部で、死を意識させられ、実存的な不安を励起させられるが、その不安を癒すような身体的な解放感のイメージは得られぬままに、観念的な死生観のメッセージを残像として引きずりながら、くすぶりを抱えた状態で劇場を後にしたのではなかろうか。〈龍〉は、(監督の意欲にもかかわらず)この物語では「生きていない」、つまりリアリティが無いのだ。

 しかし、このような難点にもかかわらず、アニメ『ゲド戦記』は、少なくとも、私たち現代人が直面している〈生き難さ〉の課題を、〈龍〉の伝統的イメージと結びつけているという点で、重要な問題提起をなし得ているといっていい。

 宮崎駿が、息子の勇気ある、優れた挑戦であり結実でもある、記念すべき監督第一作を不当に貶めた事を私は悲しく思うが、しかしながら、駿氏自身の資質からすれば無理もない、とも思うのである。

 彼は、大人社会のまなざしになじめない自身の資質を早くから意識し、子供性(幼児性)を偏愛し、過度に美化せざるをえなかったがゆえに、〈異形の存在〉たる己れ自身をシカトし、はじき出そうとする大人社会を必要以上に怖れ、そこに過剰適応し、成功せんとしたあげく、己れの深奥に宿る、生命的でありながら狂暴でもある〈無意識〉の両義的で広大な〈闇〉の領域への不当な恐怖の念に絡めとられ、〈表現〉を求めて溢れ出ようとする、四次元的な霊力の〈暴発〉を抑えようとして、敢えて、「魔法」に象徴される四次元的感覚そのものを封印し、三次元の〈生身〉のたたかいの内に、人間の生存感覚の〈根拠〉を回収せんとしたのではなかろうか。

『白蛇伝』で、白娘の「妖精」としてのあり方を、不吉なるものとして、かたくなに忌み嫌っていた僧・法海が、霊力を失って、ただの生身の人間の女に成り切った白娘の変身ぶりを見て、許仙との仲をようやく許し、恋人たちの前途を祝福し得たように、「魔法の封印」による絆の成就(幸せの成就)という宮崎アニメの理念的拘束、大衆へのメッセージの背後には、作家・宮崎駿の、己れ自身も含めた人間の内なる異形性に発する非日常的な狂気に対する〈怖れ〉の念が秘められていたようにおもわれる。

 だが、その身構えは、〈生き難さ〉を抱えた人間たちに、生への四次元的なまなざしの〈支え〉無しに、無理矢理強い「大人」になれという、強迫的なメッセージを送ることになりはしまいか?

 例えば、アニメ『もののけ姫』における「生きろ!」のメッセージに、私は、そんな強迫観念を覚えてしまうのである。

 生の内燃機関を枯渇させてしまって、疲労困憊(こんぱい)し切っている人々に対して、無理矢理オーバーヒートした生き方を迫るような〈不自然さ〉を感じてしまうのだ。

 だが、こんなふうに言うと、宮崎アニメファンの人の中には、反発を感じる人もいるかもしれない。

 もちろん私とて、宮崎作品の四次元的なまなざしの深み、その演出の力強さ、〈癒し〉のリアリティのたしかさについては、高く評価している。

『トトロ』論を中心とする宮崎アニメ論(『日常性のゆくえ』1992年刊)によって、評論家としてのスタートを切った自分である。この作家の作品の真価は誰よりもわきまえているという自負はある。

 その上で、敢えて、以上のような批判を行なっているのである。

 問題は、結局、「魔法」という言葉が象徴するものの〈内実〉をどうとらえるかという〈解釈〉の違いに帰着する。

「魔法」を、異形の魂を備えた異能の持主にのみ許された特権的な才能とみなすのか、それとも、人間一人ひとりの内に秘められた、あるべき〈まなざし〉の象徴とみなすのか、という違いだ。

 それはそのまま、私たちの人生への真向かい方、「立ち位置」の違いの問題でもある。

 

     13

 

「魔法」の記憶を温存し、それに「憧れる」ことと、「魔法」を自らの〈身体〉の四次元的な深みにおいて実際に生きることとは、全く違う。

 現代の私たちの社会では、大衆は、大成功を収めた、芸能人・スポーツ選手・アーティストその他の、ひと握りのカリスマ的なヒーローたちに、「魔法」の体現者を幻視し、彼らを崇拝し、魂を収奪されることで、己れの生を鼓舞せんとしている。

 もちろん、それも悪くはなかろう。

 なんらかの偉大な才能に恵まれ、それを磨き、発揮し得た者たちを己れの「神」として敬うことは、生きる上での励みともなり、温かい風を身体に送り込む営みでもありうるからだ。

 だが、「魔法」の体現者としてのカリスマ的な天才たちに、人生の〈奇跡〉の成就を視ようとする現代の大衆の中には、その憧憬とは裏腹に、〈奇跡〉とは縁遠い、不条理な、三次元的・地上的現実に這いつくばらせられている己れ自身の生きざまへの侮蔑や嫌悪の念を抱え込み、人知れず苦しんでいる人たちも、少なからずいるのではなかろうか?

 だとしたら、それは、不幸なことである。

 誰のものでもない、自らの固有の人生に、他者との比較を超えた、真のプライドと生きる手応えを見出し、さまざまな人との〈えにし〉に助けられつつ、幾多の苦難・障害をそのつど〈奇跡〉のようにくぐり抜け、人生における〈出逢い〉の不思議さをかみしめつつ、ひたすら、黙々と一本の道を歩み続けてゆく。

 そこにこそ、真の〈魔法〉があるのだ。真の花道があるのだ。

 生きるとは、己れの内に宿りながら己れを超えた力によって活かされることであり、また、己れの深奥から立ち昇る内的な促しに従って、悔いの無いように、未知の流れに自らを賭け、いのちの〈火〉を紡ぎ出すことだ。

 自らの人生に〈魔法〉の働きを視ずして、どこに視ようというのか。

 自らの人生に、生き抜いてきた事の、生かされてきた事の〈奇跡〉を視ずして、どこに視ようというのか。

 カリスマもけっこうだ。天才もけっこうだ。彼らの偉業や生きざまから、インスピレーションを受けるのも良い。

 私は高校野球ファンで、毎春・毎夏、球児たちが繰り広げる「一期一会」のなまの闘いのドラマには、大いなる感動を与えられている。

 また、テレビの特集番組などで、さまざまな、その道一筋の職人さんや無名の生活者の人たちの仕事ぶりや暮らしぶりの一端に触れるのも好きだ。

 私の知人たちが時に垣間見せてくれる人生の表情・哀歓にも、胸打たれることがある。

 そこには、人生の修羅場を斬り抜け、己れの固有の生を美事に織り上げてきた者の年輪の厚みと、人と人とのえにし、めぐり合わせの不思議さ、人生という〈物語性〉の霊妙さがにじみ出ている。

 こういったさまざまな人たち、同朋の姿を凝視してみることは、実に味わい深いことであり、私たちにとっても大きな励みとなるものだ。

 だが、どんな天才・ヒーローたちの生きざまも、また、有名無名のどんな人たちの生きざまも、そのドラマに感動するだけでは、何にもならない。

 他ならぬ己れ自身の人生の内に、生き抜いてきた事の〈奇跡〉、その霊妙不可思議さに対する、〈畏怖〉の感覚を覚えないならば……。

 改めて、繰り返しておきたい。

「魔法」に「憧れる」ことと、「魔法」を自ら「生きる」こととは、全く違う。

 この「紙一重」の差が指し示す〈まなざし〉の相違こそ、私たちが近代文明の強いてくる〈閉塞感〉を超えて、「脱近代」の生へと転生できるか否かの、〈分岐点〉なのだ。

 宗教的なコスモスを、己れの身体の内に、ひとつの〈実感〉として抱え込んでいた「前近代」の共同体民の、四次元的な生存感覚が、近代人であるわれわれの痩せ細った、三次元的な感覚の〈虚〉をつくのも、そこなのだ。

 己れの身の内に四次元の働き、力を感じ得ぬ者の生は、究極において「うつろ」である。

 そして、「うつろ」であることは、私たちの三次元の〈生活〉という、〈未知〉の恐怖にさらされた現場を生き抜く、究極の拠り所とはなり得ないのである。

 そこには、「生きる」ことの〈絶対感〉というものが欠落しているからである。

『白蛇伝』のアキレス腱、宮崎アニメのアキレス腱は、単にアニメ史だけの問題ではない。私たちの現代文明の暗部の根源を象徴するアキレス腱の問題でもあるのだ。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2018.01.28 Sunday
  • 15:34

 

     10

 

 相似た魂をもつ者同士の愛、すなわち、同化=一体化への渇望を秘めた、男女や同性の対(ペア)、さらには、なんらかの観念や教義、信仰、理想などを共有する同志的結合や共同体の絆がはらむ第二の危険は、彼らの閉ざされた、自己完結的な〈愛〉のかたちが、〈孤絶〉と表裏一体となった、エロス的な幻想的システムの表現行為となっているという点である。

 彼らのみの間で幻想的に紡ぎ出され、共有された〈まなざし〉によって負のレッテルを貼られた外界の〈異物〉、すなわち、彼ら以外の周囲の人間・事物・世界のもつ〈他者性〉というものを、あるがままに受け止めることができぬままに、尊大な誇大妄想や権力意志、あるいは迫害妄想などの狂気に、知らず知らずのうちに追い込まれてしまうという危険性である。

 人間一人ひとりは、実は、恐竜とアリの隔たりにもたとえられるほどの、生き物としての異質さ・多様性を秘めているのである。

 極論したたとえ方をするなら、人類という種の中に、ありとあらゆる生物種の多様性がはらまれていると言っても過言ではないほどの、恐るべき無数の多様性、普遍性の組み合わせがありうるのだ。

 それは、人間にとって、偉大な分業を可能ならしめるベースともなりうるが、同時に、孤独と脅威の源ともなりうる。

 われわれは、無限に多様な人という生き物の関係の渦中で生きねばならないのだ。

 己れの〈個〉としてのアイデンティティーとプライドを保ちながらである。

 前近代の共同体社会・伝統社会の中では、人は、血縁・地縁の濃密な関係によって結ばれ、生活様式を共にする共同体民として、ひとつの宗教的で習俗的な生活小宇宙(コスモス)の内に包摂されることによって、己れの役割分担とアイデンティティーを安定的に了解し得ていた。

 そこでは、人間本来の個性の〈差異〉は、均一の共同幻想の下に、いわば覆い隠されていた。

 しかし、そのような共同体社会の伝統的な足枷を壊し、〈個〉としての自我意識を拠り所として生きるほかはない、われわれ現代人にとっては、人間一人ひとりの「生き物としての差異」というものは、もはや、覆い隠すことのできないもの、己れのアイデンティティーを常に脅かすものとして、立ち顕われてこざるをえない。

 貨幣と情報の魔力によって、欲望が無限に多様化し、神経が細分化し、自意識が肥大化してしまった近現代人にとっては、隣人も、世間の他者も、親類・縁者や家族でさえも、大なり小なり、生きる場所を異にする、内面的には互いに触れ合うことのない、恐るべき異類のような存在へと変貌していく。

 互いに、どんなに親愛感情を抱いていても、根底においては、孤独なのである。

 私たちは互いに〈個〉として分断されながらも、身内や他者からさまざまな〈関係〉を強いられ、絶えず油断なく身構えている。

〈個〉は、常に、己れの〈個〉としての固有のあり方・生きざまを否定し、打ち消さんとする負の力の脅威の下に置かれている。仲間との生命的な絆を求めながらも、敵の脅威におびえている。

 人間は、生命と虚無の両義性を備え、生死をつかさどる、大いなる宇宙的なカオスの中を漂流している。人は、そのカオスの中で、己れ自身の「立ち位置」を定め、安心立命を得なければならないのだ。

 個人は、他の誰でもない、固有の生命と輪郭を備えた個人として生き抜き、幸せにならんとするなら、同時に、個人の生死という有限性を超え、〈個〉としての輪郭を超えて、〈類〉的な生命の次元に生きることができねばならない。

 西田幾多郎流に言えば、この「絶対矛盾」を、「自己同一性」として生き抜かねばならないのだ。

 個人は、視えている風景も感覚も全く異なる、己れとは「生き物」として異質なる存在といってもよいほどの〈他者〉の存在・脅威にとり巻かれながら、そのあつれきを超え、絶えず、己れの存在を「卑小」なるものとして意識させ、「相対化」して止まない世界のあり方という「否定的な媒介」を通して、逆説的に、〈個〉と〈類〉の矛盾を「止揚」してみせることで、「生きること」の〈絶対感〉を獲得してみせねばならないという、困難な課題を抱えている。

 魂の相似た者同士、あるいは、共通の不遇感や疎外感を抱く者同士が、感覚やまなざしを共有することで、閉じられた〈愛〉や同志的な絆の世界を紡ぎ出し、幻想的な〈一体化〉の渇望を充たし、己れにとって〈異物〉となる〈他者性〉に対して、一方的・一面的に〈負〉のレッテルを貼り付けて、これを貶め、「排除」せんとすることは、「類と個の止揚」という困難な課題に対して、尊大で不幸な、一人よがりの場所に立つことで、安易な解決を図らんとする、痛ましい錯誤の道でしかない。

 それは、人々を精神病理へと追い込み、恐ろしい抗争・害悪をもたらす陥穽(かんせい)に転落することである。

 対(ペア)においては、それは愛の〈強制〉の病となり、集団においては、共同幻想による閉鎖的なイデオロギーの支配をもたらす。

 その結果、「内側」では、愛や絆を腐らせ、「外部」に対しては、断絶意識と攻撃性によって、妄想や狂気の表現形態をとって溢れ出る。

 周囲の人間たちや世間・社会の生態から浮いた、孤独な存在である〈異形の者〉にとっては、その誘惑への危険性は、とりわけ高いものとなる。

『白蛇伝』の主人公「白娘」と「許仙」は、まさに、その危険性にさらされた異形の者たちであり、宮崎駿にとっての〈子供性〉〈幼児性〉というものも、また、そのような危うさにさらされた異形の魂のかたちにほかならないのである。

 

     11

 

 異形の者たちが駆使しうる「魔法」の霊力とは、実は、精神病理と反社会的な狂気、己れの人生と他の人間たちに対する〈尊大さ〉のもたらす害悪と〈紙一重〉の危うさをはらんだものなのだ。

 宮崎駿が、己れの作品において、「魔法」の力、その存在意義というものに対して過度に警戒的になるのは、おそらくそのためである。

「魔法の力」というものは、異形の能力を備えた者を、「選ばれたる貴種」としての「神の使い」であるという〈使命感〉によって、尊大にしてしまう危険性をもつのだ。

 それは、人を不幸にし、己れ自身の人生をも不幸なものにする。

『白蛇伝』では、許仙と白娘が結ばれて、人間社会に受け容れられ、幸せになるには、白娘が妖精としての霊力と、霊的存在として永遠に生き続けるという不死の魂を失い、ただの三次元的な〈生身〉の女にならねばならない、とされている。

 この結末はそのまま、宮崎アニメのモチーフに通底するものである。

 宮崎駿の表現理念には、異形の人間が社会から受け容れられ、己れの固有の居場所を持ち、幸せになるには、「魔法」を封印しなければならない、という強迫観念が付きまとっているようにおもえる。『崖の上のポニョ』しかり。『千と千尋の神隠し』でも、竜の化身であるハクは、千尋と最終的には一緒になれず、千尋はハクを振り向かずに親元に帰る。『となりのトトロ』でも、サツキとメイの姉妹は、森の妖精トトロと一体となって〈風〉に化身するが、それはあくまでも〈夢〉の中での出来事であって、死の恐怖と不条理に立ち向かうには、ひたすら、トトロへの「神頼み」にすがるしかないのである。

 もっとも、『となりのトトロ』では、サツキとメイの姉妹が〈風景〉と交感する時の身体感覚の丁寧な描写が精緻に積み重ねられ、その延長上に、森の妖精トトロとのファンタジックな交感の物語が紡ぎ出されることで、〈個〉としての三次元的・可視的な存在の〈輪郭〉を超えて森羅万象へと拡がる、四次元的で不可視的な〈類的身体〉のかたちが象徴的に描出されており、その特質は、『少年猿飛佐助』の演出姿勢と世界観にも通ずるものがあるといっていい。

 しかしその類的な身体感覚は、『トトロ』にあっては、あくまでも、「幼児期」と「児童期(少年期)」の子供に特有の〈一過性〉の体験として、〈大人〉の場所からは巧妙に排除されているのである。

 私たちは、映像の中で、サツキとメイが精霊トトロと一体となって〈風〉に化身するさまを見つめることで、すばらしい四次元的な身体的解放感を味わうことができる。

 だが、その四次元的なまなざしは、この作品世界にあっては、あくまでも夢の中の出来事であるか、あるいは、子供時代に限って一瞬味わうことの可能な、神秘な異界体験=異形感覚の象徴として、大人的な現実世界からは疎外され、成長過程の中で「封印」させられた能力として処理されている。

 四次元のパワー、霊力は、人間の〈生身〉の身体感覚の延長上に、微かに〈気配〉のようなものとして感じ取られてはいるが、それは、三次元の散文的な現実世界を生きる大人のまなざしからは、常に〈外部〉にある客体として位置づけられているのである。

 四次元的なまなざし・生存感覚に対する、このような位置づけは、宮崎作品の〈枠組〉を理念的に拘束するものとなっている。

 もっとも、『風の谷のナウシカ』の「原作」のマンガでは、宮崎駿の〈無意識〉は、そのような理念(イデオロギー)の強迫観念にあらがい、主人公ナウシカの〈生身〉の体感の延長上に、有毒な瘴気(しょうき)の充満する死の森である「腐海」と共存しながら、それを超える生命的な四次元的霊力のかたちを幻視してみせている。

 SFという設定の下でではあるが、生命と虚無の両義性を備えた渾沌(カオス)としての〈闇〉のうねりを、自らの身体の深奥より紡ぎ出し、その生存感覚を心棒として「生きる」という、実存的な身構えを、美事に象徴的に演出してみせているのである。(なお、原作『風の谷のナウシカ』における、この〈闇〉への両義的なまなざしをめぐる問題については、雑誌「現代詩手帖」一九九五年十月号に掲載された拙論「〈光〉の源泉としての〈闇〉―――宮崎駿『風の谷のナウシカ』の世界視線」を参照していただければ、ありがたい。)

 そのような例外的な作品もあるけれども、基本的には、宮崎作品の理念的な建て前は、『白蛇伝』と同様、「魔法の封印」という代償による絆の成就(幸せの成就)という強迫観念に拘束されているといっていい。

「魔法」「魔物」といった四次元的な霊性は、常に、三次元的な実生活の〈外部〉に置かれている。

 宮崎アニメ、とりわけ『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』は偉大な作品群であるが、この理念的制約という一点に焦点を合わせる限り、『少年猿飛佐助』が象徴的に表現してみせた、闇と光の交錯する四次元的なカタルシスには、及ぶべくもないのである。

 宮崎アニメにみとめられる、このような理念的拘束には、二つの背景がみてとれるようにおもえる。

 一つには、先にも強調したような、プライドの強い異形の魂の持主が陥りやすい、孤絶感と表裏一体となった、己れの魔性の能力・霊力への尊大な過信がもたらす病理・狂気への危惧(きぐ)の念である。

 しかし、そのような怖れの念にもかかわらず、もちろん宮崎駿には、子供性によって象徴される異形の魂に対する、過剰なまでの思い入れがある。

 異形の魂の持主が、そうではない、普通の俗世間の人々の中に在って、他者や己れを損ねることなく幸せになるには、「魔法」を封印したままで、己れの内なる宝を守り通さねばならないというのが、おそらく、この作家の表現者的な立ち位置である。

 宮崎駿は、倫理的な作家である。

 もし彼が、己れの異形の魂に発するデモーニッシュな非日常的衝迫を、ただ「吐き出す」だけの〈表現〉に甘んずることができたとしたら、彼は、そのような〈闇〉の湧出のかたちを、病理や狂気に追い込まれた人間の破滅的な〈悲劇〉の物語として造型するという、いわゆる「芸術至上主義」の作家への道を歩んだに違いない。

 しかし、彼は、日常や社会を超越して、非日常的な〈闇〉の時空に魂を自在に羽ばたかせたいという渇望と共に、人が日常と実生活に着地して幸せになる道を指し示したいという、倫理的な使命感をあわせ持った表現者であった。

 しかも、少年期・思春期の子供から大人までの巾広い世代を「受け手」とする、アニメーターという職業作家の道を択びとった人である。

 是が非でも、その業界で「成功」し続けなければ「後が無い」という場所に置かれた産業戦士=業界人なのだ。大衆の支持は、彼にとって必須要件だった。

 異形の魂の持主に思う存分に「魔法」の力をふるわせたあげく、物語の終局部で、敢えてその魔法を「封印」させてしまうという宮崎アニメの微温的な理念的拘束が、ここに生まれる。これが、第二の背景である。

 まさに、己れの資質を活かすための、アクロバティックな苦肉の策であるといってもよいだろう。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2017.12.25 Monday
  • 17:28

 

     6

 

 宮崎駿が、大人の恋愛感情の〈純粋さ〉を、子供の恋愛感情(彼によれば、その最も純粋な形態は「幼児期」に認められるものらしい)に還元せんとするのは感心しないけれども、私は、だからといって、幼児的なエロスの世界・感覚を、大人への成長過程の脱皮を強いられる中で「切り捨ててもかまわない」未熟な心性とみなして貶めているわけでは決してない。

 人見知りしないで済む、幼児的な兄弟―姉妹的感覚ないし双子的感覚による、閉ざされた親密さの世界・絆というものは、たしかに、男女の恋愛の内に〈核〉のように包摂されていてもよい感情だと、私も思う。

 本当に魂が通い合う関係、心からの安心と充足をもたらしてくれる〈愛〉というものは、そういうものではないか、とも思う。

 けれども、同時に、そのような親密さの内には危うさもはらまれているというのが、私の考えなのである。

 相似た魂を持つ者同士の〈愛〉というものは、互いに相手に対する〈同化〉への渇望を秘めたものであり、それは、二重の意味において危険なものなのである。

 第一に、それは、無意識のうちに、他者の魂を「強制」するという悪を生み出す危険性をもつ。相手が自分にとって、どんなに身近な存在に感じられ、その苦しみや渇きを我が事のように共感できるように思われても、人間一人ひとりの魂というものは、絶対的に独立した固有のかたちを有するのであって、必ず、己れ自身とは異質なる〈他者性〉を備えているからである。

〈他者性〉とは、己れの感情移入という方法の通用しえない、他者の絶対的な〈異質性〉のことである。それは人を脅かし、安易な延長感を拒絶させ、人を孤独に立ち返らせる。

 われわれにできる事は、ただ、己れの愛する者の内に息づいている、その〈他者性〉を、あるがままに受け止め、可能な限り理解した上で、その固有の〈重さ〉をきちんと「了解」できるように努めることだけである。

 他者への真の〈共感〉とは、他者の内に認められる己れとの〈同質性〉への共感、すなわち他者への感情移入にとどまらず、そのような狭義の共感を拒絶する、他者のどうしようもない〈異質性〉に対するビターな「了解」を含んだものでなければならない。

 異質性を排除したところに成立する「同質性への共感」とは、真の共感ではない。

 身近に感じられる存在、自分と相似た魂をもつ相手への「一体化願望」というものは、知らず知らずのうちに、相手の魂の中に息づく、己れ自身とは異質な、しかしその当人にとっては決して損なわれてはならない、かけがえのない何ものかを、〈強制〉によって歪め、あるいは抑圧することで、その人をその人自身ではない、偽りの対象へと変えてしまうのだ。

 男と女とが、同性同士が、〈愛〉という美名のもとに、そのような魂への〈強制〉によって苦しみ、荒廃させられている。親子の関係においてもしかりである。

 自分にとって〈異物〉と感じられる、愛する者の〈他者性〉というものを、視界から排除することで、己れ自身を偽り、相手にもその偽りを強制するのである。

 特に、男女の対(ペア)の内、一方が、相手を圧倒するような強烈なエロス的個性を備えている場合には、その危険は一層高まり、そのもたらす害悪は一層恐ろしいものとなる。

 男のロマンや甲斐性に魅入られ、食いものにされる女、あるいは逆に、男の魂を地母神(グレート・マザー)のごとく呑み込むような、強烈な〈ナルシシズム〉によるエロス的な吸引力の磁場を紡ぎ出す、孤独な女が、その典型である。

 後者の女は、特に怖ろしい。

 なぜなら、彼女は、本当は自分自身しか愛していない、天性のナルシシストだからだ。

 彼女にとって男とは、ただ、己れのナルシシスティックな身体の〈延長〉でしかないからだ。

 

     7

 

 困ったことに、このようなタイプの女性は、性的な魅力に富んでいることが多い。

 なぜなら、彼女は、「あるがままの己れ自身」に真に充ち足りていないからだ。

 彼女は、愛に飢えた、孤独で不幸な表情をしている。

 その不幸な面影、翳(かげ)りが男をひきつけるのである。

 男もまた、魂の奥に、一匹の凍えた幼児(おさなご)を抱えているからである。

 その幼児の渇きを触発された男は、女にひきつけられる。

 女もまた、男の内に、己れの渇きと響き合い、重なり合う何かを感じ取った時、男を愛するようになる。

 彼女の愛のメッセージは純粋で、烈しい。

 なぜか?

 それは、「異質なる存在」としての〈他者〉へのメッセージではなく、彼女自身の〈分身〉として捏造(ねつぞう)された〈虚構〉の男性像に向けて発せられた、いわば〈自己愛〉(ナルシシズム)の変形としてのメッセージだからだ。

 彼女にとっての恋愛とは、実は、〈一人称〉の物語でしかない。

 真の恋人の〈他者性〉は、最初から巧妙に視界から排除されている。

 恋人は、彼女にとって、あるがままの彼女のすべてを無条件に受け容れ、包み込んでくれる、慈愛に満ちた理想的な男性像でなければならないのだ。

 彼女は、恋人の内に、己れとよく似た魂のかたちを発見する。

 同質の悲しみ、同質の孤独の表情を見出して、「双子」のようによく似た魂をもった男性と、「運命的」にめぐり逢ったと思い込む。

 恋人との魂の「一体化」を痛切に希求し、「閉じられた」ふたりだけの愛の世界を紡ぎ出し、その中に、繭(まゆ)のように籠ろうとする。

 なるほど、ふたりはたしかに、ある角度から視るなら、「双子」のように相似た魂を持つ者同士であったかもしれない。その意味では、「運命的」な出逢いであったのかもしれない。

 だが、幸福なものであるべきその運命の愛は、恋人への〈同化〉の情熱となって表現されるとき、必然的に、一方が他方に食い尽くされるという、痛ましい自己抹殺的な〈代償〉形態を強いられることになる。

 むろん、エロス的な磁場のより強い方が、相手を呑み込んでしまうのである。

 この点で、己れの孤独と不幸と愛の渇きを全身から発散させている、天性のナルシシストの女ほど、強烈なエロスを紡ぎ出せる者はいない。

 女に魅入られた男の方は、ひとたまりもないのだ。

 

     8

 

 このようなタイプの女性は、愛する男の魂を、己れ自身の感覚の〈鋳型〉に合わせて刈り込んだ上で、その生き血を吸血鬼のように吸い尽くそうとする。

 恋人の魂を「所有」せんとし続けることで、己れの〈ナルシシズム〉のエネルギーを絶えず燃え上がらせ、更新し、生きる糧(かて)とするのである。

 そのようなナルシシストの女がひとかどの〈芸術家〉(表現者)であった場合、恋の対象となる男は、女の〈芸術〉(表現)を産み出し続けるための、いわば「肥やし」のような存在にすぎないものとなる。

 真の、あるがままの男の〈全体像〉などは、本当は、彼女にとっては、どうでもよいものなのだ。

 男との恋愛は、女にとって、己れの生きがいである〈芸術〉(表現)を産むための新鮮な〈刺激〉を与えてくれる、素材や触媒のようなものでしかないからだ。

 哀れなのは、女に魂を食われてしまった男の方である。

 このようなナルシシスト型の女性は、男が絶えず彼女を「みつめ続けている」ことを要求する。自分自身の嫌な所も含めて、自分の何もかもを男が「受け容れ」、愛してくれることを求める。

 自分が持っていない何かを恋人が持っていても、それが彼女にとって〈憧れ〉の対象であったなら、それもまた、彼女にとっては、愛すべき「彼女自身の一部」なのである。

 彼女にとって、己れ自身の内には見当たらない、そしてまた彼女自身が承認したくないような恋人の〈他者性〉は、無視されてしかるべき、「存在しないも同然」の、とるに足らない〈異物〉でしかない。

 それが、当の恋人にとって、どんなに「かけがえのない」大切なものであっても、だ。

 男がそのような女の「身勝手さ」を百も承知でありながら、なおも彼女に振り回されてしまうのは、ひとえに、女の〈ナルシシズム〉が発散する、強烈なエロス的磁場の吸引力のせいである。

 クモの糸に絡めとられた哀れな虫のように、彼は、彼女から逃れられないのだ。

 しかも彼女は、己れのそのような身勝手なナルシシズムを、こともあろうに、〈愛〉と称するのである。

 己れのエゴイズムがいかに恋人を傷つけ、心身共にボロボロにし、罪もない他者を巻き添えにしようとも、その恐るべき罪深さを恥じようともしない。いや、それ以前に、己れの罪深さに「気付かない」のである。

 彼女自身は、一人遊びをする、孤独でいたいけな子供のように、いたって無邪気なのである。

 純情一途な男にとっては、身を滅ぼす元となる、蟲惑(こわく)的な、最も怖ろしい魔女であるといっていい。

 宮崎駿が『崖の上のポニョ』で描いた「幼女ポニョ」や『ハウルの動く城』に登場する「荒地の魔女」は、一見、荒唐無稽なファンタジックな像として描かれているがゆえにごまかされてしまうが、その仮装の裏には、実は、このような悪女の本性が透けて視えるのである。

 愛する男の魂を強引に己れ自身と同化させずにはやまぬ、ナルシシズムの妄執の化身という奴が。

 それこそが、宮崎アニメで美化されている「幼児的恋愛」「双子的(兄弟―姉妹的)恋愛」の隠された暗部なのであり、ひいては、『白蛇伝』の「白娘」と「許仙」の愛の内にも秘められた恐ろしさなのだ。

 

     9

 

 言うまでもなく、人間の内なる〈幼児性〉というものを無邪気に美化する宮崎駿も、『白蛇伝』の制作者たちも、この幼児的な「双子的」恋愛感覚のはらむ危うさというものに、全く気付いていないようにおもえる。

 彼らだけではない。現代人の多くは、〈愛〉という言葉の美しさに惑わされて、その真の怖ろしさ、おぞましさというものが、全く視えていない。

 他者とエロス的に合体せずにはやまぬ、〈同化〉願望の狂気、魂への〈強制〉の病という奴が。

 この病は、人間の内に潜む幼児的な魂の歪んだ顕われにほかならない。

 万物がそこから生み出され、また回帰してゆく原初の渾沌(カオス)、すなわち生死一如をつかさどる宇宙(コスモス)との幻想的な〈一体化〉を希求してやまぬ、人間の隠された深層の渇望、子宮回帰願望の歪んだ表現だといってもいい。

 この世に誕生した時から人が背負わざるをえない、生命としてのエロス的な〈欠損〉の感覚を、同化による〈他者性の抹殺〉という歪んだやり口によって、幻想的に代償せんとする、悪あがきにすぎないのである。

 変態的な愛憎の表現であるサド・マゾ的な狂気というのも、片やエスカレートする攻撃性によって、片や自己抹殺的な被虐性によって、〈他者性〉を消し、世界との幻想的な〈一体化〉を図らんとする、幼児的な退行の一形態にほかならない。

 それは、相手の魂を「所有」し、また「所有される」という、救いようのない〈我執〉の病、うつろな魂の地獄でしかない。

 仏文系文学の影響を受けた多くの作家が、その地獄を、こともあろうに〈愛〉と呼び、〈美〉と呼んでいるのである。

 怖ろしい病である。

 このような、エロス的な〈同化〉への渇望、すなわち、他者の魂を「所有」せんとする〈我執〉の病、幼児的な魂の病理的な表現は、人間の精神と肉体の双方を極度に歪め、痛めつけずにはおかない。

 それは、ある場合には、極度に「精神主義的」な、観念的な愛の幻想となって、対(つい)の相手を強制し、魂の生き血を吸おうとする。先に触れた〈ナルシシズム〉の妄執の病理というのもその一形態であるが、エドガー・アラン・ポウが描いたような、精神主義的なサド・マゾの世界、殺人願望の狂気もまた、その一類型である。

 他者の魂を「理解」し、「所有」し、「しゃぶり尽くしたい」という渇望がエスカレートして、ついには、可愛さ余って、殺人に至るのである。

 また、ある場合には、貪婪(どんらん)極まる「肉欲」への耽溺となって顕われることもある。有名な昭和初期の「阿部定」事件もその一例であるが、それとよく似た、渡辺淳一のポルノ小説の力作『失楽園』における主人公の男女の、延々と飽くことなく繰り返される、死と背中合わせになった極限的なセックスの灼熱のごとき燃焼も、その典型である。

 精神主義的な愛にせよ、肉欲への耽溺にせよ、いずれも、社会からの非日常的な〈超越〉の表現であるにはちがいない。

 しかしそれは、精神と肉体が〈分裂〉したまま、痙攣的な刺激のみがエスカレートする中で、死と虚無の想念に蝕まれながら、暗黒の淵に向かってすべり落ちてゆく、無間地獄の世界にすぎない。

 何ひとつ本気で信じられない不幸な男女が、蒼白い死と孤立の恐怖から逃れようとして、互いの魂を「貪り合う」という、餓鬼道の生き地獄なのだ。

 それは、孤独な魂と背中合わせになった真の優しさ、霊と肉の一致した真の温かさというものを知らぬということだ。

 だとすれば、それは痛ましいことである。(この稿続く)

 

 

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東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2017.11.26 Sunday
  • 13:29

 

     5

 

 また、男女の恋愛の純粋さを、幼児的な親密さの延長上に位置づけるのも、偏った、いびつな感覚というべきである。

 第一、大人の恋愛と子供の恋愛とは、質的に全く異なっている。

 大人には、子供の感覚などが及びもつかないような、想像を絶するような〈肉〉の領域、セックスの燃えるような輝きと充足の領域というものがありうるのだ。

 それは、決して、白昼にさらされてはならない、神秘なる性の秘儀、〈闇〉の営みである。

 えにしあってめぐり逢った男と女のそれぞれが、自らの固有の生の文脈を通して、互いの魂にふれ合い、求め合う中で、おのずと紡ぎ出された、霊・肉の一致した、官能的な生命の灼熱の輝きにほかならない。

 それは、深き〈闇〉の深奥から紡ぎ出され、立ち昇り、赤々と燃え上った〈炎〉なのである。

 決して、フェティッシュで痙攣的な刺激による、断片化された快楽などではない。

 真の〈愛〉とは、精神のみを求める愛ではなく、肉体のみを求める愛でもない。

 真の愛とは、霊・肉の一致した形で魂がふれ合い、求め合うということであり、大人のセックスとは、そのような意味での真正の〈愛〉の帰結であり、また、その究極の表現である。

 そうあるべきである。

〈性〉の本質を、「種」の保存のための戦略とみなすような、生物学的な欲動のメカニズムの「知識」に一元的に回収したり、セックスを、快楽のための散文的で可視的な肉体の交接行為として描き上げるという、現代人に広く認められるやり口は、ただ、性意識をいたずらに貶め、私たちの心を冷えびえとした、みじめな想いにさせるだけである。

 しかし、だからといって、大人の恋愛感情の〈純粋さ〉を、子供の恋愛感情の延長上に位置づけようとするのも、正しい理念とは言えない。

 それは、一見可愛らしく、ピュアな魂の表われのようにみえるが、実は、恋愛感情を「精神主義的」なしろものへと一元的に回収せんとすることで、大人の身体感覚を痩せ細った、貧しいものへと囲い込み、ひいては、性的な〈不能性〉へと導くものである。

 それは、かえって、セックスを、ただの卑しい、フェティッシュで断片的な肉欲、〈消費〉としての性欲へと堕さしめ、セックスに本来備わっている官能的な生命の歓喜を見失わせるものでしかない。誤解を恐れずに言えば、「精神主義的」な恋愛観ほど、病んだ恋愛観はない、というのが私の考えである。

 というより、「精神主義的」な愛はあってもよい感情だと思うけれども、それは、恋愛というよりも、むしろ広義の〈友情〉の一種、もしくは(恋愛とは区別された)一種の近親愛的な親愛感情というべきものではあるまいか。

「恋愛」という以上は、魂のふれ合いを通して、互いの肉体を求め合うという情熱が誘発されるのは当然のことであり、なんら汚らわしいことではない。

 精神的な結びつきが烈しく希求されるのに、肉体の方は拒絶されるというのは、恋する者にとってほとんど拷問に等しいことであり、異常きわまることである。

 歳をとったり、病のために、セックスが不可能になったとしても、肉体の接触そのものまでも拒絶される必要はない。抱き合ったり、手を握り合ったり、〈ぬくもり〉を伝え合うことは可能であり、生きた〈生活〉の物語を紡ぎ出し、共有することも可能である。

 もちろん、恋愛感情のみが愛の全てではない。友情も、近親愛的な親愛感情も、立派な愛のかたちである。それに、ついでに言わせてもらえば、愛の内実にとって、「血のつながり」などというものは、決して第一義的な意味をもってはいない。「血は水よりも濃い」などと言うのは、大嘘だというのが、私の考えである。血を分けた実の親子でも、魂の内実において「千里の隔たり」がある、というケースは、いくらでもある。真の愛は、「魂がふれ合っているかどうか」「魂が遠いか近いか」によって、その成否・内実が決まる。魂がふれ合い、かつそのかたちが互いに近い者同士は、親密な愛情を抱き合うけれども、同時に、互いの〈異質さ〉も際立ち、「近親憎悪」の対象にもなりやすい。いずれにせよ、愛のゆくえは、えにしと相性と魂のかたちによって左右される。

 不自然な愛は、遅かれ早かれ挫折するか、互いの魂を損ね、あるいは磨滅させることになる。

 私が精神主義的な恋愛、すなわち「プラトニック・ラヴ」に異和感を覚えるのは、それが、〈肉〉を蔑視する、観念的なキリスト教的人間観・道徳主義の匂いをまつわりつかせているからである。それは、性に対する原罪意識によって魂を歪め、身体を冷え切ったものとする。

 また、肉体の領域を蔑視することは、男女間の〈生活〉の共有による生ける〈物語〉の成立を不能にしてしまう。精神主義的な恋愛というものは、〈生活〉の内実の伴わない、抽象的な絆であるから、感情や感覚・思想のいわば「上澄み」だけをすくい取るような、観念的な「きれい事」のレベルに留まるという、〈うつろさ〉の危険に絶えずさらされている。

 プラトニック・ラヴに甘んずる者は、自身や恋人の内に潜む人間的な弱さや情けなさが露呈することを恐れ、また、恋人の〈他者性〉そのものが、己れの甘いエゴイスティックな愛の幻想を打ち砕くことを恐れる。そこには、「愛への不信」という神経症的な疑心暗鬼の地獄は生まれても、温かい〈生活〉の共有による物語は生まれ得ない。

 もし、本気で恋を実らせ、愛という形をとって、〈生活〉の中に幸せに根づかせたいと希うのなら、恋愛感情というものは、決して精神主義的なものに解消されてはならず、霊・肉の一致した、官能的な〈温かさ〉をもつものでなければならない。

 大人の恋愛感情の純粋さを、子供の恋愛感情の延長上に単純に位置づけるのは、正しい理念ではないのだ。

 だが、もちろん、子供から大人までの巾広い年齢層の観客を対象とするアニメーションの世界の中で、大人のセックスをなまなましく描いてもよいというわけではない。

 思春期に達しない子供に、大人のセックスの感覚を垣間見させることは、明瞭に〈悪〉である。大人のセックスそのものが、汚らしいからではない。

 子供の時に、中途半端に、ただれた、大人的な「まがいもの」の性愛観にふれさせることは、その子供が思春期・青年期を迎えた時に、大人の〈性〉に対する、誤った先入観にとらわれて、〈性〉が本来開示するべき、深々とした〈闇〉の身体性の領域、異性が備えている、謎めいたほの暗い、妖しくも艶やかなエロスの香りというものに対して、真の〈畏怖〉の感覚をもてなくなる危険があるからだ。

 大人のセックスというものは、それぐらい、大切に扱ってやらねばならぬものなのである。

 それは、大人の男女の恋愛と生の共有の物語に対して、いのちの輝きと生の充足を与えてくれる、かけがえのない営みだからである。(この稿続く)

 

 

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