『右大臣実朝』と宿命(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2018.01.26 Friday
  • 11:01

 

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『右大臣実朝』前半における実朝像は、ひと言でいうなら、〈生活者〉として、微塵も曇りやぜい肉というものが無く、まことにみずみずしい、あたたかい生の息吹に満ち溢れている。

 その〈光〉の強さは、次第に拡散し浸透する時代の暗鬱な妖気や滅びの気配によく拮抗し得るものとなっている。

 このような実朝像が、作品後半では劇的に崩壊していく。

 この鮮烈な逆転の構図が、『右大臣実朝』の哀しい美しさをひときわ際立たせている。

 実朝の生活意識を曇らせ、徐々に蝕み、崩壊に導いたものは何か。

 結局、じわじわと目に見えぬ形で無数に繁殖していく「北条的なるもの」の、真綿で首を絞めつけるような隠微な重圧に、実朝もまた抗し得なかったことによる。

「北条的なるもの」は、心ある御家人たちの間に、次第に息苦しさと強烈な憎悪を醸成していく。そのストレスは、やがて、泉小次郎親平の反乱とそれに加担した和田義盛一族のメンバーやその他の御家人たちの罪科に発展する。

 実朝は、反徒たちに対しても一向に怒らず、むしろ寛大な処置をもって臨むが、首謀者の一人である義盛の甥「胤長(たねなが)」に対する、北条義時の、挑発的ともいえる無神経な処罰のやり口に逆心を抱いた和田一族の乱が勃発してしまう。そこには、義時や大江広元に対する御家人たちの積年の怨恨が横たわっていた。

 実朝は、すでにはるか以前から、その趨勢を、漠とした妖気のようなものとして鋭く感受しており、あたかもその妖気を象徴するかのように、この時期には、年々、天変地異が相次いでいる。そのためか和田の乱の一年前頃から、義盛への愛顧も一段と深まり、また、寺社への尊崇のふるまいも強まっていく。

 しかし、それにもかかわらず、その妖気を押しとどめることが結局は不可能であること、北条への反発はやがて内乱につながり、自分もまた、その歯車の内に〈体制〉の象徴として巻き込まれざるをえないこと、政治的な責任者としての自分には、結局、何ひとつ良き解決は計り得ぬ事を知っていた。内乱時の「大義名分」は、結局、幕府方(御所方)勝利の暁には、北条氏の手に帰することになるからである。

 和田一族への手厚い鎮魂と、彼らの酸鼻な滅亡の修羅の形相(ぎょうそう)やそれによって受けた傷心のおもいを精一杯うたうことしか、実朝にできることはなかった。

 

「五月二日、酉剋(とりのこく)に至って和田四郎左衛門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代えがたくお可愛がりになっていた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになって、落馬せんばかりに驚き、人まえもはばからず身を震わせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになった、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよい歩き、ついに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、ようやくおさまり、その夜は由比浦の汀(みぎわ)に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明(たいまつ)の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいといなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠っておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになって、けれども流石(さすが)にその夜はお気軽の御冗談もおっしゃらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。

 焔(ほのほ)ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ

 カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀(あはれ)トヤ云ハン

 神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ

 などという和歌のお出来になったのもその夜の事でございまして、五月雨(さみだれ)がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまいりまして、それから二十数年経った今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。」

 

 小説では、ここに引用された歌を和田合戦終結直後の作品として位置づけているのだが、説得力のある解釈だとおもう。

「神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは」の歌は、近代主義的に解すべきではあるまい。時代の〈妖気〉も人の心がつくり出すものならば、それに抗し、不可視の浄化力の〈光〉を放つのも、また、「人の心」なのだ。それを「神」といい、「仏」というならば、時代の巨大な〈悪〉のオーラに抗し得なかった人々の、また己れ自身の、〈気〉の衰弱をうたうものだともいいうる。

 ある意味では、源家嫡流の呪われた〈血〉の衰弱ぶりに、また、政治家としての最高の象徴にあずかる自身の〈矜持(きょうじ)〉の重さのしからしめる制約に、どうしようもなく圧しつぶされたのだといえないこともない。

 現世の政治世界、権力意志の関係の場というものは、そもそも、北条のような手合いがのさばらずにはおかない、どうしようもない汚濁の巷(ちまた)なのであり、頼朝死後の幕府のような〈秩序〉の冷酷な形成期には、ことのほかそうなのだ、という開き直りと断念の場所に徹することもできなかった。その分だけ、個人としての実朝の魂は、本来の強靭な〈光〉を保ち続けることができなかったのだともいいうる。

 和田の乱の直前頃から、颯爽とした「政治家」実朝の姿は急速に影をひそめ、何かががくりと崩れ去るように、「それまで固く握りしめ」ていた何物かを「その時からりと投げ出して」しまったようになる。

 和田合戦終結以後の実朝は、朝廷と神仏への帰依を除いては、すっかり政治への関心もなくし、投げやりになる。和歌への情熱も、乱の起こった建暦三年(建保元年)を境にほとんど消えうせ、酒宴に興じる日々だけが際立つようになり、幕府おもいの武骨の御家人の心も、次第に実朝から離れていく。*

 執権義時のみは、そういう将軍のありさまも見て見ぬふりをしつつ、実務に忙殺される日々を送っている。

 そして、宋人陳和卿との出会いと将軍の前身が宋朝医王山の長老であったという夢告を口実に、「渡宋」計画を立て、唐船の建造を企図するなど、厭世のおもいのみがつのってゆくようにみえる。

 生活者としての実朝の〈光〉は急速に衰弱してゆく。鎌倉を中心とする不吉の妖気は、年ごとに色濃くなり、天変地異が相次ぎ、人々の不安をつのらせてゆく。

 和田合戦の二年後の建保三年の十一月末には、義盛以下の将卒の亡霊が、将軍の夢枕に群参したという記事が『吾妻鏡』に見え、翌朝、にわかに鎮魂の仏事がとり行われたという。

 和田一族の滅亡は、実朝にとって、おそらく、世界風景の癒しがたい裂傷の象徴だった。だからこそ、それは、生存の本源的な寂寥感に根をもつ強靭で純潔な生活思想の持ち主としての実朝にとって、致命傷となるものであった。そして、実朝特有の理想化された政治=国家イメージにとってもまた、修復不能な汚点を刻みつけるものとなった。

 政治力学上のあり方からいえば、畠山や和田のような誠忠廉潔の士が滅び、北条のような秩序意識とリアリズムが勝利を得ることは、いわば必然の成り行きである。

 政治とは、その時代に支配的な〈倫理〉や〈理念〉を口実として利用しつつ、ひとつの統一的な〈法〉秩序を編み出すことで、諸々の集団ないし個人の利害を調整しつつ、社会全体の粗大な合意の下で、富の分配と階級支配を貫徹しようとする〈技術〉のことにすぎぬからである。

 だからこそ、本質的な意味で最も〈生身〉の倫理に鈍感で、易々とそれを踏みにじれる者の中から、しばしば有能な「政治家」「権力のプランナー」が出現しうるのだ。

 ひとつの強大で安定した〈秩序〉が精緻に構築され、社会の深部に「根をおろす」時期には、ことのほかそうである。

 義時のような、生身の人情や倫理に対して何らのデリカシーも痛覚も持たぬ、本質的に鈍感な実務官僚型の「能吏」が幅をきかすのである。

 巨大化した政治や経済のメカニズムというものは、そういう、私情を殺して何ら苦しむことがなく、また何ら良心に恥じることもなく、社会的な〈理念〉やら組織的な〈要請〉のために、黙々と歯車のようにコンスタントに働けるような無数のリアリストたちによって支えられているのだ。

 実朝のような、真に孤独で気高い魂の持ち主が、大江広元や北条義時に象徴される、こういう種族の人間たちのボスに祀(まつ)り上げられるなどということは、およそ、これ以上滑稽で悲惨なことはない。

 実朝が、ひとりの〈生活人〉として、純粋な力強い〈光〉を放ち続けるには、断じてこのような境遇に身を置くべきではなかった。

 しかし、もちろん、源家嫡流の唯一の正統的継承者である彼には、そこから真に逃れる術(すべ)はあり得ようはずもなかった。仮に、彼の「渡宋計画」が本気であったとしても、真剣に、衷心より己れの境遇を打破せんとする意志は、内的な何ものかによって封じられてしまったであろう。

 源家の〈血筋〉の矜持か、その血のもたらす業の深さか、あるいは、「美しきもの」を滅ぼしてゆく、時代の不吉な〈妖気〉の有無をいわさぬ予兆か。

 ともかく、作品「後半」の実朝の道程には、決してそこから逸脱することを許容しないかのような、奈落に向かってひたすら吸い込まれてゆく、ギリシア悲劇の如き〈滅び〉への不可避の直線が、太く、たしかに刻みつけられているのだ。

 この実朝の〈滅び〉の道程は、奇妙なことに、終戦直後から自死に至るまでの「後期」太宰治の歩みと、見事に軌を一にしている。あたかも、実朝の道を、忠実に、より大きな振幅をもってひたすら真っ直に歩み通し、自らを〈自死〉に追い込んでみせたかのようですらある。

 事実はどうあれ、少くとも次の点において、この作品における実朝の〈滅び〉への道程は、後期太宰、より正確に言うなら、既に大戦期の中期「後半」の太宰作品の担っていた本質的な悲劇性=ジレンマを鮮やかに象徴しえているし、その意味において、後期太宰の運命を「予兆」するものでありえた。

 すなわち、「中期」太宰のすこやかな〈生活人〉としての持ちこたえ方、〈存在の痛覚〉に根ざした〈生身〉の接触・ぬくもりと、〈自然〉のはからいのうちにすべてを純化しつつ受け流してゆく、独特の透明な生存感覚に支えられた日常のくぐり抜け方というものが、鈍感な小人(しょうじん)どもの冷酷なリアリズムと規範性によってじわじわと囲繞され、押しつぶされていく、というイメージである。

 このイメージは、胎乳児期以来の成長過程に根をもつ太宰特有の生き難さの感覚(関係の障害感の深さ)と、中期における、家族を抱える職業作家としての苛烈なたたかいの実感を通して、繰り返し凝視されてきたものだ。

 このイメージは、太宰にとって、自然な倫理性を支える血の通ったあたたかさと神聖さの感覚を踏みにじる、なんともいえぬ野卑な暗く濁った〈空気〉が人々の魂を覆い、容赦なく蝕んでゆくという閉塞感につながっていた。

 おそらく大戦期の〈滅び〉の予兆はここから醸成し、次第に太宰の生の風景全体に拡散・浸透していったに違いない。

 実朝が、〈国家〉や〈政治〉という磁場・位相から真の内的離脱をとげることができなかったように、ひとりの生身の〈生活人〉として、この卑俗さの泥沼、小人どもの充満する倫理の荒廃と血の衰弱に覆われた腐食土を脱却し、飛翔するには、太宰はあまりにも、〈国家〉や〈社会〉という化け物が発散する〈献身〉という理念に魂を食われすぎていた。天皇制ナショナリズムと同調(シンクロナイズ)したキリスト的理念への純粋な忠誠が、肌身を押しつけてくる生き難さの痛覚と拮抗しうるために太宰がどうしようもなく必要とした〈支柱〉のひとつなのであった。

 実朝が、現実の幕府体制の内実を、北条氏に象徴される冷酷な法治主義的リアリズムの具現にすぎぬことを冷静に見きわめていたにもかかわらず、敢えて、朝廷への〈赤心〉を貫き、〈神聖なるもの〉への自然な尊崇に根をもつ道義的国家の夢想を抱き続けたように、太宰治もまた、戦中の天皇制国家の見せかけの美しさや敗戦後のアメリカ流民主主義の〈自由〉の建て前の背後によどむ、卑俗なエゴイズムの修羅の実相を冷徹に洞察しつつ、その〈不能〉を百も承知で、あるべき幻の倫理共同体(コミューン)の夢に殉じようとしたのだった。

 この逆説的な〈袋小路〉が、後期太宰治の悲劇性の核心にあるものだ。

 この袋小路の包摂する問題の巨大さを実感するには、後期太宰が異様なまでの執念をもってこだわり、掘り下げ、恐ろしいふくらみを付与して肉体化してみせた〈悪〉の病像の本質と、その悪に拮抗すべく肥大化させられたキリスト的〈観念〉の、生身の実生活への軋轢(あつれき)のもつ意味についてのトータルな考察が必要となる。(了)

 

 *現存する『金槐和歌集』のテキストの中で原本の姿を忠実に伝えていると考えられる「藤原定家所伝本」(後鳥羽院に献呈された原本を藤原定家が転写したものと思われる)には「建暦三年十二月十八日」の奥書があり、『金槐和歌集』の成立が「和田義盛の乱」(建暦三年五月)の直後に当たることがわかる。定家本には六六三首が収められているが、それ以外に知られる実朝の歌は現在まで九五首にすぎず、彼の和歌の大半は『金槐和歌集』にある。当時実朝は若冠二十二歳であり、彼の作歌歴と作品の出来ばえを考慮に入れれば、この歌集の歌は少なくともそのほとんどが過去数か年以内に作られたものであることは明らかだ。それに比して『金槐和歌集』以後、死までの六年足らずの間の作歌量は見る影もない。「建暦三年」は、実朝の歌人としての生命がその最後の燃焼を果たし終えた運命の年であったといってよい。その背景には、和田の乱によって受けた傷心の深さが透けて見えるのである。(ちなみに『吾妻鏡』によれば、建暦三年十二月三日に、実朝自ら寿福寺におもむき、和田義盛とその一族郎党の冥福を祈るために仏事を修している。)

 

 

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『右大臣実朝』と宿命(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2017.12.26 Tuesday
  • 15:40

 

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 実朝の敬神崇仏の念の厚さや朝廷への赤心の根底には、魂の穏やかさと静謐(せいひつ)さをなによりも重んずる、融和的な世界視線が息づいていたようにおもえる。

 それは、彼の和歌をよく味わってみればわかることだが、太宰治の描く実朝像では、詩歌・管弦や宴を楽しみ、〈軽さ〉や〈笑い〉を好む日常の暮らしぶりに表われている。

『右大臣実朝』には、琵琶法師の『平家物語』の語りに好んで耳を傾ける将軍の姿が活写されている。ここでの実朝は、太宰治自身とそのまま重ね合わせられるかのように、〈滅亡〉に向かってひた走る平家一門の中に、最後まで〈死〉と背中合わせのある種の「アカルサ」が絶えなかったさまに、心ひかれている。

「那須与一」の段で、「扇の要」を鮮やかに射抜いた与一の離れ業に感興をおぼえ、思わず「舞」を披露した粋な平家の兵士の一人を、残忍にも与一に命じて射殺させて喝采する九郎判官義経や源氏一党の姿に、不快の念を隠さず席を立つ実朝の像には、「戦争」という不条理な地上的現実の渦中に平然と身を置き、酷薄なリアリズム的視線によって物事を果断に処理し、勝ったの負けたのと血ぬられた雄叫びをあげている人間どもへの強烈な〈嫌悪〉のおもいが、さりげなく込められている。

 太宰は、生きる切なさへの共感というものを毛ほども持ち合わせていない、こういう、ずさんな神経をもつ残忍なリアリスト・現世主義者の手合いを、心底嫌悪していた。

「平家ハ、アカルイ」「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という実朝のことばには、幼児退行的な正義への〈憧憬〉と〈希望〉によって、かろうじて、地上的な酷薄さをもちこたえている戦時下の日本大衆への憐れみ・共感の念と共に、大戦末期という時代の暗鬱さ、〈滅び〉の気配に、日常風景の〈変容〉というたたかい方を通して精一杯あらがおうとする、当時の太宰治の苦しみがにじみ出ているようにおもう。

 太宰の希求する「アカルサ」には、単なる幼児退行的な逃避やデカダン的ニヒリズムには解消されないような、生きる哀しみの本体を真にわきまえた者のみが持ちうる、ある強固な実質が含まれていた。その志向が、実朝の生きざまの深部に息づいている純潔な魂の主調音と鋭く共振しうるのだ。

 実朝の「アカルサ」には、モーツァルトの調べのような、不思議な透明感を帯びた非日常的なアカルサが宿っており、いささかも感傷に毒されない、存在の原初的なかなしみの上に軽やかに花ひらいた、みずみずしい赤児のような自然で繊細ないのちの旋律が流れている。

 こういう姿は、とりわけ、歌人としての実朝のあり方に鮮やかににじみ出ている。

 実朝の和歌は、もちろん、生活意識の〈空洞〉を逃避的に代償しようとする趣味・道楽の〈技巧(レトリック)〉の産物でもなければ、現世的な自信に満ちた生活者のエネルギーの〈余剰〉としての芸術でもなく、また、現世・世俗への〈憎悪〉の裏返しとしての〈幻想の砦〉でもない。

 彼の歌は、あくまで、〈生活人〉としての己れをすこやかに全うするための、ぎりぎりの必需品として生み出されたものというべきだ。

 和歌という形式を通じて、己れの苦しみや渇きや祈りの感触を率直にあるがままに吐き出し、そうすることで、おそらくは、己れをとり囲む漠とした陰鬱な妖気に抗い、生死の危うい均衡をかろうじて保とうとするような、痛切な営みであったようにおもえる。

 実朝の和歌は、その意味で、彼の生活人としての身丈にぴたっと過不足なく収まる、生理的に自然体の歌であった。

 小説には、己れの身体的な感興のおもむくままに、さらさらと凝滞することなく作歌する将軍の姿が描かれている。

 今ここで、『金槐和歌集』の諸歌を論ずる気は毛頭ないが、折角のことだから、『右大臣実朝』に引用されている作品の中から一首だけをとり上げておこう。

 

 はるさめの露のやどりを吹く風にこぼれて匂(にほ)ふやまぶきの花

 

「私」は、この歌について、「天真爛漫とでも申しましょうか。心に少しでも屈託があったなら、こんな和歌などはとても作れるものではございませぬ」と語っている。

 世界が「春雨の露」の一瞬の動きの内に完璧に封じ込められ、鮮やかに修復されている。

 この「露」は、未知の領域からやって来て未知のかなたに吹き過ぎてゆく一塵の〈風〉のまっただ中に翻弄されながら、この上もなく安らかに身を横たえている。

 一瞬にして移ろい、消え去るようなはかなさにもかかわらず、それをはかないと感じさせるような「もののあはれ」の美学を微塵も感じさせない、あるたしかな〈いのち〉の転生の揺るぎないかたちが、静けさとなって微(かす)かに息づいている。

 この〈いのち〉の柔らかなぬくもりを沁み込むように伝えてくれるのが「やまぶきの花」の立ち姿だ。「露」のつかの間の宿りと移ろいの内に、〈縁(えにし)〉をとり結んだ「やまぶきの花」の麗しいひっそりとしたたたずまいが、優しく寄り添っている。

 この歌は、私(たち)の痛めつけられた神経と身体に驚くほど素直に沁み込み、自意識の険しさを溶解させ、外界との裂け目を瞬時に修復させてくれる。

 実朝の幼児性が最もみずみずしい形で凝縮された名品であり、『金槐和歌集』には、他に、無常感や悲愁の色彩の濃い重厚な和歌や現世の不条理な険しさを凝視した、ドスのきいた傑作もあるけれども、この作品は、それらとは対照的な極にある、数少ない、優しい秀歌のひとつであるといえよう。

 しかしどのような傾向の歌であれ、実朝の秀歌の多くには、人間存在の本源的な〈孤独〉を基底に据え、その存在の痛覚を、万物の自然なありさまとしてどこまでも静かに受容し、涼やかに微風のように受け流してゆこうとする、限りなく透明なかなしさともいうべき資質が息づいている。

 有限な存在としての人間どもの、ありとあらゆる悪あがきを的確に凝視しつつも、それを〈存在の痛覚〉という一点に凝縮・純化し、透明な〈自然〉のとどこおりの無い流れのうちに浄化してゆく、無類の匂いやかな〈抽象度〉の高さが、実朝の秀歌に固有の〈方法〉だとおもえる。

 こういう実朝の資質と鮮やかなコントラストをなすのが、鴨長明の、世俗的な悪臭の濃厚な、脂ぎった生活者の苦しみである。

 長明と実朝という、生きざまにおいても芸術の質においても、水と油のように相容れようのない両者の出会いと対決は、『右大臣実朝』のひとつの白熱したヤマ場を構成しているといっていい。

 

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 源平内乱の渦中に相次いだ飢饉・疫病・大地震によって、腐臭に満ちた死者累々の酸鼻な地獄図と化した「末法」の京の都に生きた、長明ら平安貴族層の実存は、どす黒い虚無と不条理の感触によってただれきっていた。彼らは、死の不安に日夜おびえつつ、迫り来る〈終末〉の意識から逃れようとするかのように、富や権力をめぐる欲望のゲームに狂奔し、己れの血族やライバルたちとの抗争に明け暮れていた。

 しかし、仏教や漢学の博識に裏うちされ、当時の突出した近代知識人であった、長明や藤原定家らのようなインテリ貴族層は、繊細で過敏な神経によって肥大化した〈自意識〉を持て余していた。彼らは、こういう世俗的な抗争によって己れの空虚感を埋めることができるほどに、単純で粗雑な神経の持ち主ではなかった。

 知的な意識を細分化し、高度化すればするほど、また、富や権力や名声を求めて欲望のゲームに精を出せば出すほど、彼らは、ますます、他者との対立・疎隔の自覚を深め、神経症的な対人意識にさいなまれ、癒しがたい〈個我〉の孤独地獄の内にのたうち回るほかはない。それは、己れの無力感と虚無感を一層深めるものでしかなかった。

 長明の出家・隠遁・センチメンタルな無常感の表出もまた、自らの我執の強さが生み出す関係の地獄から観念的に逃避したいという、裏返された悲鳴にほかならない。

 彼らインテリ貴族層にとって、和歌の表現世界は、そういう己れの近代知識人的な苦しみを、象徴的な手法を使ってさりげなく吐き出すと同時に、それを逆立ちした新古今風の言葉遣いによる人工的な幻想美の創出によって癒そうとする、ささやかな試みの場であった。「幽玄」だの「有心」だのといった概念で説明される、独特の仏教的な悲哀感のこもった、陰翳に富んだ繊細な美意識も、そういうダンディズム的な虚構による〈つっぱり〉の一形式であった。

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空(藤原定家)

 見わたせば花も紅葉(もみぢ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮(藤原定家)

 白妙(しろたへ)の袖(そで)の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(藤原定家)

 かきやりしその黒髪の筋(すぢ)ごとにうち伏すほどは面影ぞ立つ(藤原定家)

 ながむれば千々(ちぢ)にものおもふ月にまたわが身ひとつの峰の松風(鴨長明)

 枕とていづれの草に契(ちぎ)るらんゆくを限りの野べの夕暮(鴨長明)

 夜もすがらひとりみ山の槙(まき)の葉に曇るも澄める有明の月(鴨長明)

 

 定家と長明では、表現者としての格が違うという気がするが、一見、余裕のある優雅な遊び心で作られたかのように見えるこのような『新古今集』の秀歌も、実は、生身の身体をぎりぎりと締めつけてくる現世的地上的な地獄に、あくまでも、言葉のモザイクがかもし出すヴァーチャルな心象風景の鮮やかな喚起力によって対峙せんとした、凄まじい観念的な膂力(りょりょく)の産物にほかならなかった。

 定家の秀歌には、一貫して、現世的な肉体を完全に突っぱね、言葉の共同的無意識的な伝統美がおのずから喚起する非日常的な身体感覚の精緻な組み合わせによって構築された〈幻想の砦〉に、生きることのぎりぎりの根拠を託そうとするような、傲岸で強靭な芸術至上主義的プライドが脈うっているが、長明のほうは、晩年の『方丈記』に見られるような、この世の不条理と人間の肉体的煩悩の浅ましさを粘っこく凝視する、散文的地上的なリアリストの視線を、中途半端に芸術の中に引きずっており、それを、センチメンタルな無常感の表出によって甘く流そうとする通俗性がつきまとっている。その分だけ、長明の歌は、非日常的天上的な跳躍力が乏しく、散文的な平板さを免れ得ない。

 両者の表現者としての力量の差は歴然としているが、それでも、作歌の新古今的な根本姿勢は共通するものがあるといってよい。

 しかし、容赦の無い地上的な酷薄さによって染め上げられた、彼らのどす黒いひび割れた世界風景と神経症的な孤独地獄の苦しみは、諸々の欲望ゲームによって、また、芸術や隠遁生活によって修復しうるような、生やさしいものではなかった。

〈虚無〉の渦中に幻影の美を打ち樹てることで世俗に「拮抗」しようとする、近代主義的・芸術至上主義的(ダンディズム的)な美意識では到底処理し切れない、絶えず内部発酵してやまぬヘドロのような〈毒念〉から逃れる術(すべ)は皆無であった。

 そういう長明や定家のような近代インテリにとって、実朝の、とらわれのない直截な、透明感のある歌は、ひとつの衝撃として受けとられたに違いない。

 新鮮な驚きをおぼえ、〈不安〉をかき立てられると共に、新たな芸術的境地を求めて、長明は敢えて六十に近い老齢にムチ打って東下する。

 この鎌倉行きは、定家ほどに己れの芸術至上主義に徹することができず、人間らしい生臭い肉体を持てあましていた長明ならではの、それなりに悲壮な決死行だったようにおもえる。

 ほんとは〈自意識〉が強く、ピリピリと身構えているくせに、将軍の問いかけにわざと鷹揚(おうよう)にとぼけてみせる、ひねこびた長明入道と、涼やかでとらわれのない貴公子実朝の、好対照の出会いには、中期太宰治の芸術観の真髄が、隠し味のように、慎重にさりげなく散りばめられている。

「チト、都ノ話デモ」と老師に話しかけるように遠慮がちに語りかける将軍に対して、長明入道は、「は?」と聞き耳を立て、「いや、この頃は、さっぱり何事も存じませぬ」と空とぼけてみせる。

「けれども将軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさって居られるような、また、なんにもご存じなさらぬような、ゆったりした御態度で」少し笑いながら「世ヲ捨テタ人ノオ気持ハ」とさらに尋ねる。

 長明は、またも「は?」と聞き耳を立て、それから、うつ向いて「何か口の中で烈しくぶつぶつ」言ったあと、意を決したように顔を挙げ「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の気持も全く同様、一切を放下(ほうげ)し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦(みょうてい)を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難かろうかと存じまする」と、もったいぶった態度で、己れの心境を流暢に申し述べる。

 けれども、将軍家は一向に平気で、「一切ノ放下」とほほ笑んでうなずき、「デキマシタカ」と問いかける。

 今度は入道も、言下に迷いなく、「惣慾を去る事は、むしろ容易に出来もしまするが、名誉を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論(ゆがろん)にも『出世ノ名声ハ譬(たと)ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするように、この名誉心というものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました」と語り、さらに、自分は、世捨人とは言っても、姿は聖人に似ていながら、心は不平に濁って騒ぎ、「すみかを山中に営むといえども人を恋わざる一夜も無く、これ貧賤の報のみずから悩ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問いかけてみましても更に答えはござりませぬ。御念仏ばかりが救いでござりまする」と正直に胸中を澱みなく吐露してみせる。それでいながら、いささかも悪びれるふうはない。

 この世の人間とは、しょせん、その程度の、煩悩多き浅ましい生き物であり、そういう人間どもの織りなすはかない悪あがき、脂ぎった狂態こそが、この現世のありのままの哀しい地上的実相であって、オレは、そういう現実の痴態をしっかりと踏まえた上で、はじめて、芸術という〈虚構〉の楼閣を構築しているのだぞ、という傲然たる自我意識が秘められているようにおもえる。

 世間知らずの、箱入りのボンボンであるお前さんなんぞには分かりはすまいが、というしたり顔が透けて視えるのだ。

「ドノヨウナ和歌ガヨイカ」と尋ねる将軍に対して、長明は、実朝の歌の爽やかな姿をほめたたえつつも「恋歌」の稚拙ぶりを批判し、将軍家は恋というものをご存じなさらぬと断じ、「嘘」を詠まぬように、ヘタに都ぶりの真似はしない方がよいと苦言を呈する。

 さらに勢い込んで、将軍に己れの歌道を披瀝し、〈指南役〉を買って出ようとする気配まで漂わせるのだが、実朝は、笑いながら立って「モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ」と言って、奥へ引き上げてしまう。

 そして、「ナカナカ、世捨人デハナイ」と嘆息する。

 実朝は、己れの魂を「強制」しようとする長明老人の浅ましい魂胆を見抜いている。

 太宰の描く実朝は、長明の「何ひとつ信じてはいない」酷薄なリアリストのまなざしと、その裏返しにすぎない芸術至上主義者としての凄まじい偏執ぶりを誤たず見破っている。

 長明の孤独地獄の険しさと、それゆえに、己れとははるかにかけ離れた天衣無縫ぶりを示す実朝との〈接触〉にいちるの解脱の望みを託して、はるばる鎌倉までやって来た執念の凄みというものを知り抜いているようにおもえる。

 しかし長明は、しょせん、己れのダンディズム的な芸術理念を捨て去ることのできない、我執の強い不幸な近代知識人にすぎず、実朝の和歌に根底を揺さぶられ不安をおぼえながらも、相手を強引に己れの〈器〉の中にはめ込み、〈同化〉させることで、孤独から逃れようともがいている、「さみしがりや」の根無し草でしかなかった。

 実朝の器を、世俗に汚されてはいないがこの世の地獄の実相を知らぬ「無邪気な」子供のような若者だとみくびり、優位に立った気でいる、小ざかしい大人ぶったインテリなのだ。両者の生へのまなざしの隔たりは、あまりにも大きすぎた。

 長明は、その後も、繰り返し御所におもむくが、将軍にはとりつくシマが無いと感じたのか、いつも「あいさつ」だけで早々に退出してしまう。

 その老人の姿に、「信仰ノ無イ人ラシイ」と、実朝はつぶやいている。

 結局、長明は、深い失望を抱いたまま鎌倉を去るほかはなかった。

 ただ、この老人には、本人も言うように、実朝のような資質の人間には完全に欠落していた、凄まじいばかりの現世的地上的な脂ぎった生活欲が生得的に備わっていた。

 帰洛して間もなく書かれた『方丈記』には、無常感をてらう隠遁者的位相のポーズとは似ても似つかぬ、そういう彼の「悪業深い体臭」が込められていると、「私」=太宰治は喝破している。

 

 ただし、長明との出会いは、実朝にとって決して無意味なものではなかったと「私」はみる。

 作品には、長明との対決の後、彼からけなされた「恋歌」はあまり作らぬようになり、和歌の精進に鬼気迫る打ち込み方をするようになる将軍の姿が描かれている。

 

「将軍家は、恋のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬようになりました。また、ほかのお歌も、以前のように興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるというようなことは、少くなりまして、そうして、たまには、紙に上の句をお書きになっただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さえ見受けられるようになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かった事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思いが致しました。けれども将軍家は、お破りになりながらも別段けわしいお顔をなさるわけではなく、例のように、白く光るお歯をちらと覗かせて美しくお笑いになり、

 コノゴロ和歌ガワカッテ来マシタ

 などとおっしゃって、またぼんやり物案じにふけるのでございました。」

 

 将軍家は恋というものを知らぬと断言した長明の指摘は、実朝の〈幼児性〉の強さ、女性への「淡泊の御性情」を、鋭く見抜くものだった。

 この沈痛な老芸術家との出会い以後、実朝は、己れの表現者的な〈資質〉に、以前にも増してきちんとした自意識をもつようになり、得手でない新古今風の技巧によるヴァーチャル・リアリティの色彩の強いものは排除するようになってゆく。

 ともかく、長明と実朝という印象深い対決は、独特の反リアリズム的な文学理念をベースとしつつ、アジア的な自然思想に根ざした融和的な〈信〉のまなざしによって、時代の滅びの気配と実生活の地上的な酷薄さに精一杯対峙せんとした、中期「後半」=大戦期の太宰治の最高の思想的稜線を、凝縮した形で象徴してみせている。(この稿続く)

 

 

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『右大臣実朝』と宿命 (連載第3回) 川喜田八潮

  • 2017.11.25 Saturday
  • 17:50

 

     3

 

 実朝の生活者としての持ちこたえ方のかたちは、こういう義時の視線とは全く対照的である。

 彼もまた、義時と同じく、周囲の人間たちから疎隔された場所にあるといっていいのだが、その孤独さの〈かたち〉は似ても似つかないものだ。

 このあまりにも柔らかい繊細な皮膚感覚をもつ青年は、己れとは無縁の、生臭いタフな生活力をもつ人々や権力の亡者や鈍感な小心翼々とした官僚的気質の連中の中に、ひとりぽつんと孤独に置かれている。

 決して、自分自身の場所を他人に「押しつけ」たり、特定の他者に何かを「期待」したり、「同化」されたりはしない。政子や義時とも、表面的にはいたってなごやかで、争論などは一切みられない。特定の「党派」に所属したり、傷口のなめ合いをすることもなく、ナルシシズムや同性愛的な結びつきとも無縁である。

 周囲の者や接する者の内面の動きを「詮索」したり、心理的にかんぐったりするような近代人的な神経症的自意識とはかけ離れているが、人々の生きる場所の本源的な〈寂しさ〉や〈病〉のかたちだけはきちんと見抜いている。

 それゆえ、他者の世俗的な悪あがきや業苦が織りなす、混沌とした悪因縁の修羅相の渦中に、ひとりぽつんと身を置きながら、憎しみとも、地上的な次元での喜びや哀しみともかけ離れた境位にある。

 それでいながら、人情に対して冷えきった、ひねこびた老人のような枯淡や無常感や無為とは、まるで異なった場所にいるのだ。

 実朝の暖かい人間性は、御台所や御所に仕える女房たちへのきめ細かな優しさ、和田義盛のような武骨な老忠臣の一徹者への深い思いやりによくにじみ出ているといっていい。

 これは不思議な場所だが、〈存在の痛覚〉ともいうべき人間の〈生身〉の急所を誤たず洞察し、その実存から、実朝のあらゆる生活上の営みが湧き出てくるかのようである。

 こういう実朝の構えは、とらわれのない生得的な霊感にもとづいて瞬時に決断を下しながら、人情の機微をおさえた、物事の本末転倒をひきおこさない、道義観の透徹した独特の政治のあり方にもつながっている。

『吾妻鏡』には、初期の実朝の熱意溢れる政治ぶりが描かれている。そこには、三浦氏など大身の御家人にも遠慮せず、正邪を公正に裁き、母の政子にも叔父の義時にもいささかも気がねすることなく、さまざまな利害関係や思惑が絡む難題を、さらりと果断に処理してゆく、颯爽とした倫理的な将軍の姿が垣間見える。

 一例を挙げてみよう。作品にも、小説内容と対照できるように、『吾妻鏡』の関連部分が収められているが、和田義盛の乱の二年前に当たる承元五年=建暦元年(一二一一年)六月の記事である。

 

「七日、丁亥、越後国三味庄(さみのしょう)の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せしむるの処、今暁盗人の為に殺害せらる、曙の後、左衛門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と称して、件(くだん)の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に属し、内々尼御台所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々、」(龍肅訳)

 

 幕府御家人である地頭との訴訟争いの為に鎌倉におもむく途中であった、越後国三味庄の荘園領主(領家)の代官(雑掌)が、盗賊の為に殺害されたが、その盗賊は行方をくらまし何者とも判明しなかったので、侍所の別当である和田左衛門尉義盛は、訴訟の敵方に当たるその荘園の地頭代(地頭の代官)を捕え、詮議を加えることになった。

 しかし、その処置に不満を抱いた地頭代の親戚の者たちが、内々に手を回して尼御台政子に訴え、将軍に再考を促すよう圧力をかける。気の強い尼御台のおつきの女房駿河局(するがのつぼね)は、和田の処置を妥当とする実朝に、なおも、処分撤回を求めて食い下がる。

 

「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後国は三味庄の、──」と言いかけたら、相州さまは、ちえと小さい舌打ちをなさって、

「なんだ、それか。あれは、もう、すみました。左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。あなたはまた、なんだって、あんな事件に。」とおっしゃって、少し不機嫌になられた御様子でお眉をひそめ、お口をちょっと尖らせました。

「尼御台さまのお口添もございまする。」と駿河の局さまは、負けずに声をふるわせて申し上げました。つねから、お気性の勝ったお局さまでございました。「いまいちどお取調のほど、ひとえにお願い申し上げまする。このたびの和田左衛門尉さまの御処置は、まったくもって道理にはずれ、無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上、見るに忍びざるものございまするに依って、尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。」

 尼御台さま、と聞いて相州さまは幽(かす)かにお笑いになられました。そうして、ふいと何か考え直したような御様子で、御病床の将軍家のお顔をちらりとお伺いなさった間一髪をいれず、

 事ノ正邪デハナイ

 お眼を軽くつぶったままで、お口早におっしゃいました。

 さすがの相州さまも虚をつかれたように、ただお眼を丸くして将軍家のお顔を見つめて居られました。

 和田ノ詮議モ終ラヌサキカラ、ソノヨウニ騒ギタテテハ、モノノ順序ガドウナリマス。

 ツマラヌ取次ハスルモノデナイ。

 駿河の局さまは、一瞬醜い泣顔になり、それから胸に片手をあて、突き刺された人のように悶えながら平伏いたしました。決してお怒りの御口調ではなかったのですが、けれどもその澱みなくさらりとおっしゃるお言葉の底には、御母君の尼御台さまをも恐れぬ、この世ならぬ冷厳な孤独の御決意が湛(たた)えられているような気が致しまして、幼心の私まで等しく戦慄を覚えました。

 

 こういう実朝の峻厳な倫理性は、非情なリアリストの相州義時にとって、次第にうとましいものとなってゆく。

「反中央的」な東国武士団の棟梁としては奇異ともいえるほどの、実朝の朝廷への〈赤心〉の厚さは、こういう独特の透徹した道義観の延長の上に形成されたようにおもえる。

 佐藤進一や上横手雅敬をはじめとする優れた中世史家の実証研究が示しているように、元々、関東(坂東)を中心とする東国には、古代以来、畿内・西国を中心とする「朝廷」の支配に対する根強い反抗精神があった。(例えば、上横手雅敬『日本中世国家史論考』[塙書房、一九九四年]中の論文「鎌倉・室町幕府と朝廷」及び「鎌倉時代政治史像の再検討」などを参照されたい。)自ら「新皇」(東国の天皇)と称して、京を中心とする 「本皇」(西国の天皇)に対峙し、東国を中央から切り離した「独立国家」とする構想を抱いていた平将門や、平忠常の乱から前九年・後三年の役を通じて東国に独自の支配を樹立せんとした清和源氏の動きを見てもわかるように、坂東を中心とする東国武士団の「反中央的」権力への志向は強烈なものがあった。

 鎌倉幕府の成立は、そういう何世紀にも及ぶ古代以来の坂東武士の悲願とエネルギーの帰結点であり、集約点でもあった。

 したがって、その幕府の将軍である実朝の朝廷への「赤心」の激しさは、東国武士団全体のエートスと真っ向から対立するものであり、単なる彼個人の京文化への貴族的な憧憬や好みとみなすことはできない。

 

 おほきみの勅をかしこみ千々(ちぢ)わくに心はわくとも人にいはめやも

 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

 

 例えば、こういう歌には、並々ならぬ激しさが脈うっている。坂東武士団のただ中で、ひとり超然と屹立しながら、なお、衆に対峙せずんばやまじとする強烈な気概が伝わってくる。

 こういう実朝のパトスの出所は、東国と西国という地域的=地上的な権力の二律背反的な視座をさらに次元的に超越し、包摂せんとする、「天帝」を頂点とした偉大なる〈自然〉の如きアジア的な道義国家の理念なくしては、到底了解できないようにおもえる。

 すなわち、国家・社会のすこやかさの基底は、民衆・為政者の道徳的な〈神聖さ〉に対する自然な感覚に〈根〉をもつべきであるという、生得的ともいえる直観的信念が透けて視えるのだ。

 かつて平城京を中心とする律令国家は、中国文明の巨大な権威を巧みに借用しつつ、いっさいを包摂する偉大なる〈自然〉のごとき天皇制の幻想的権威を確立することによって、日本国中の豪族と人民を強力に統治し得ていた。しかし、平安中期(十世紀)以降の律令国家の解体によって、朝廷は、畿内・西国を中心とする「地域的」権力へと縮退し、逆に、それまで中央権力によって幻想的に収奪されてきた東国の民俗的・土俗宗教的な共同性は、天皇制という〈重し〉を徐々に取りはずしつつ、新たな「地域」権力(地域国家)への志向を高めつつあった。実朝の朝廷への熱烈な忠誠の姿勢は、こういう平安期以降の東西の〈緊張〉を、再び、天皇を頂点とするアジア的な道義国家の幻想によって次元的に修復しようとする試みとして位置づけることができよう。

『吾妻鏡』からは、参詣や荒廃した社寺の復興に異様なまでの熱意をみせる将軍の姿が浮かび上がるが、こういう実朝の敬神崇仏の念の深さの根底には、おそらく、己れを超えた大いなる神秘な力のはからいに生をゆだねるという、アジア的な自然思想が横たわっている。

 この世の諸々の〈悪〉というものが、究極的には、〈死〉の恐怖に由来する〈我執〉にもとづくものであるとするなら、その我執を離れる境位を魂の内に繰り込み、根づかせることによって、はじめて人は、己れの〈生身〉の痛覚に根ざした、真正の〈倫理〉というものを蘇生させることが可能となる。

 実朝の孤独さは、我執を生み出すのではなく、己れを超えた神聖なるものに身をゆだねることで逆に我執を離れ、〈存在の痛覚〉という生身の急所へ眼を向けることで、血の通った倫理を生み出してゆく源泉となる。

〈悪〉を生み出す源が、〈死〉の恐怖にもとづく孤立感にあるとするなら、逆に、〈死〉をバネとすることによって、我執を超える視線を生み出し、倫理を蘇生させることも可能となるのだ。

 道徳的な〈神聖さ〉の自然な感覚というものは、この意味において、己れを超えた、〈未知〉の大いなるはからいに身をゆだねるという、アジア的な〈畏怖〉のこころと不可分のつながりをもっている。

 実朝の道義観──朝廷への赤心──敬神崇仏の念という、独特の円環のあり方も、こういうアジア的な自然思想の伝統に深く根ざした生存感覚を象徴するものだといってよい。

 所領の保持と拡大に血まなこになって狂奔し、荘園領主である貴族や寺社との〈所有権〉をめぐるトラブルの絶えない、我執の強い獰猛な御家人層を束ねる将軍として、実朝は、自ら率先して、あるべき共同的な倫理の〈範〉を垂れようとしていたとおもえる。

 彼の政治理念は、明らかに、政治という、利害を調整する〈技術〉の領域を超えて、大衆の魂のあり方までも倫理的に「変革」せんとする天上的な〈夢想〉の領域にまで踏み込んでいた。『吾妻鏡』に垣間見える、実朝の「聖徳太子」への傾倒の深さも、おそらく、こういう観念的な思い入れに根ざすものとみていい。

 私には、実朝のアジア的な政治理念は、ドストエフスキーの、ギリシア正教とツァーリ権力への思い入れを想起させる。

 ロシア農民のアジア的な感覚にもとづく自然=神への〈畏怖〉の念と結びついたギリシア正教への信仰と、それに根ざしたツァーリ権力の宗教的・道徳的な秩序への幻想的な思い入れを彷彿とさせるのだ。

 教会の中に国家を解消するという、独特の道義的国家=倫理的共同体のユートピアを夢みたドストエフスキーと同様に、実朝もまた、おそらく、アジア的な生存感覚に根ざした独特の宗教的な〈信〉にもとづく、スメラミコトの道義的国家を夢想していたに違いない。

 こういった実朝の観念的な理想主義と倫理性は、幕府と御家人層の利害のみを重んじ、それを「技術的」合理的に防衛しようとする北条義時や大江広元の法治主義的・政治力学的(マキャベリスティック)な近代主義的政治理念や官僚実務的発想とは、早晩、鋭く対立する宿命にあったはずである。

『右大臣実朝』後半の、和田義盛の乱に端を発する〈悲劇〉の芽は、この両者の位相の決定的な断層の内に胚胎していたといってよい。(この稿続く)

 

 

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『右大臣実朝』と宿命(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2017.10.28 Saturday
  • 22:16

 

     2

 

 先の引用でもうひとつ興味深いのは、母の尼御台政子と実朝の、恐ろしいほどの視線の〈隔絶〉である。

 天上的な次元から、己れ自身も含めたこの世の人々の身体を静かに「見おろしている」かのような実朝とは対照的に、政子は、徹頭徹尾、地上的な視線に身を置いている。政子の眼が象徴するものは、生臭い酷薄な実人生の諸相や醜部を平然と直視し、リアルに生き抜ける人間たちの世界だといっていい。

 実朝は、こういう人間たちのただ中にひとりでぽつんと置かれている。彼の魂を知る者は周囲に誰もいない。

 しかし、実朝の方からは、周りの者たちの場所が本源的な意味でよく視えている。

 実朝の眼に映じた人間どもの実相とは、おそらく、仮りそめの有限な生を、得体の知れない脂ぎった貪欲な生活欲によって、もがきにもがき抜きながら、タフに乗り切ってゆく人間たちの姿である。

 地上的な関係性の場の渦中で翻弄され、極限的に狭い痩せ細った貧しい生活世界の中に、現世的な価値を倦むことなく求め続け、他者をねじ伏せようとあがく、我執にこり固まった悪業深い生きざまであり、蒼白い死の恐怖を無意識の奥底にこびりつかせ、絶えず、生を何ものかによって紛らわし、すり替えようともがき続ける、浅ましく切ない人間のありのままの姿である。

 同類を求めてもがき、傷口をなめ合い、抗争の無限の連鎖の中に、己れの貧寒で散文的で有限な人生の無聊(ぶりょう)を慰めようとする人間どもの狂気の実相。

 それが、実朝が幼時から肌で感じ、凝視し続けた、大人どもの〈気配〉に違いなかった。

 彼が、少年期を通じて繰り返し垣間見、鮮烈な刻印を受けたのは、頼朝亡き後の、有力御家人たちの凄まじい確執・共食いの修羅相であった。とりわけ、自身を二重三重に絡めとっている肉親・一族であり幕府の中枢を握っている祖父北条時政や叔父義時、さらには生母政子の、貪欲な生活欲と権力への飽くことを知らぬ執念であった。

 北条時政によって血まつりにあげられた兄の将軍頼家とその幼な子、さらに兄の妻の実家比企氏のむごたらしい最期。そして、「誠忠廉直の士」であった畠山重忠とその子重保が時政・義時の奸策のため「無実の罪」によって非業の死をとげたこと。これらの血ぬられた記憶は、青年実朝にとって、いまだ、なまなましい傷痕をとどめるものであった。

 年を重ねるごとに「我身ヒトツト思ホユル」実朝の透徹した覚悟性は、肉親・一族といえども寸分も心を許すことのできぬ、ひき裂かれた悪因縁の渦中において形成されていた。

 実朝は、太宰治と同じく、生みの母の乳のぬくもりというものをほとんど知らずに育った。ふたり共、母の妹、つまり叔母の手で育てられたのであり、彼らに共通する本源的な寂寥感は、そういう胎乳児期の原初的な〈欠損〉と〈渇き〉の感触の記憶に根ざしているともいえよう。

 その原風景が、形を変えながら、幼児期・少年期と繰り返し塗り重ねられ、実朝独自の、深い諦念に満ちた、透明な〈孤絶〉の意識を形作っていったようにおもえる。幼時よりの母政子との冷ややかな隔たりの意識や叔父の義時・祖父時政にまつわる北条一族の血なまぐさい空気は、実朝にとって、おそらく、この世に生まれ落ちて以来のひき裂かれた世界風景の象徴でもあったに違いない。

 しかし、北条一族の政敵に対する容赦の無いむごたらしい所業の数々にもかかわらず、意外にも、尼御台政子や執権義時の〈素顔〉は、決して、とり立てて残虐・非道な性情の持ち主ではなく、むしろきわめて律義で、将軍・幕府への忠誠心も厚く、法・秩序の遵守に厳しい、リアルでカラッとした性質の人間たちであったと、「私」は視ている。

 

「下々の口さがない人たちは、やれ尼御台が専横の、執権相模守義時が陰険のと騒ぎ立てていた事もあったようでございますが、私たちの見たところでは、尼御台さまも相州さまも、それこそ竹を割ったようなさっぱりした御気性のお方でした。ずけずけ思うとおりの事をおっしゃって、裏も表も何もなく、そうして後はからりとして、目下のものを叱りながらもめんどうを見て下さってそうして恩に着せるような勿体(もったい)を附ける事もなく、あれは北条家にお生れになったお方たちの特徴かも知れませぬが、御性格にコツンと固い几帳面なところがございまして、むだな事は大のおきらい、隅々までお目がとどいて、そんなところだけは、ふざけたい盛りの当時の私たちにとって、ちょっとけむったいところでございました。そうして、それから、どうもこれは申し上げにくい事でございますが、思い切って申し上げるならば、下品でした。(中略)どうも、北条家のお方たちには、どこやら、ちらと、なんとも言えぬ下品な匂いがございました。そうして、そのなんだかいやな悪臭が少しずつ陰気な影を生じて来て、後年のいろいろの悲惨の基になったような気も致します。」

 

 この指摘は、鋭い洞察だといってよい。『吾妻鏡』に記されたさまざまなエピソードが語るように、「竹を割ったようなさっぱりした」ケレン味の無い直情的な激しさと果断さは、頼朝との馴れ初め以来の政子の人物像に特徴的なものであるし、「御性格にコツンと固い几帳面なところが」ある義時の、私情を殺せる実務官僚的な有能さや律義さも、史実に丁寧に則した自然な見方であるとおもえる。

 つまり彼らは一見まっとうな人間たちなのだが、それにもかかわらず、そのまっとうさの内に秘められた何ものかのために、恐るべき悪業の数々が産み出されてくるというのが、太宰治のこだわりの場所なのである。

 太宰は、この作品で、北条時政や娘の政子のような、己れの感情や欲求を素直に表出できる、人間らしい生臭さや激しさを備えた、生活力の旺盛な脂ぎった人物たちに対しても〈異和〉の念を表明しているが、それよりもむしろ、相州義時のような類型への強烈な 〈嫌悪〉にアクセントを置いている。

「いったいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。」と「私」は語っている。

 

「はじめにもちょっと申し上げて置きましたように、私たちの見たところでは、人の言うほど陰険なお方のようでもなく、気さくでひょうきんなところもあり、さっぱりしたお方のようにさえ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂いがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもさえ、ぞっとするようなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはいって来ると、さっと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよい、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申しているようでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがっている故ではなかろうかとさえ私たちには思われました。父君の時政公でさえ、この相州さまに較(くら)べると、まだしもお無邪気な放胆の明るさがあったようでございます。それほどの陰気なにおいが、いったい、相州さまのどこから発しているのか、それはわかりませぬが、きっと、人間として一ばん大事な何かの徳に欠けていたのに違いございませぬ。その生れつき不具のお心が、あの承久の乱などで、はしなくも暴露してしまったのでございましょうが、そのような大逆にいたらぬ前には、あのお方のそのおそろしい不具のお心をはっきり看破する事も出来ず、或いは将軍家だけはお気づきになって居られたかと思われるふしもないわけではございませぬけれども、当時はただ、あのお方を、なんとなく毛嫌いして、けむったがっていたというのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あのお方がなさると、なんとも言えず、いやしげに見えるのでございますから、それはむしろ、あのお方にとっても不仕合せなところかも知れませぬ。以前はそれほどでもなかったのでございますが、将軍家が立派に御成人なされ、政務の御決裁もおひとりで見事にお出来になるようになってから、目立って下品に陰気くさくなりました。」

 

 ここで太宰は、ある種の不透明な〈悪〉の本質に肉薄しようとしている。

 北条義時のような、職務に忠実な、理知的でエネルギッシュな人物は、近代的な市民社会の価値基準から言えば、少しも非のうちどころの無い、有能で模範的なテクノクラートということになろう。

 しかし、私たちの〈近代〉のメカニズムが繰り返し産出し続けてやまない恐るべき悲惨事というものは、実は、そういう何の変哲も無い、一見「良心的」な無数のスペシャリストたちの生きざまの中に胚胎している、ささやかな〈悪〉の巨大な〈連鎖〉によってひき起こされてゆくのではないか。そして、そういう何でもないように見える不透明な悪の芽というものは、実は、私たち現代人のすべての者の内部に大なり小なり秘められており、その本体を見極め、それに戦慄をおぼえ、その内なる悪と真にたたかうことは、私たちにとって、最も困難な仕事ではないのか。

 それが、太宰治の直面した課題だった。

 義時によって象徴されるこの〈悪〉のかたちは、つかまえようと思えばすり抜けてしまうような、きわめて不透明なものであるが、たとえば、次のような「私」の観察と見解にさりげなく込められているといっていい。

 

「またあの元久二年に、時政公は牧の方さまにそそのかされ、重成入道などと謀(はか)り、当時の名門、畠山御一族に逆臣の汚名を着せ、之を誅戮(ちゅうりく)しようとなさった時にも、相州さまは、平気な顔をして御父君に対し、およしなさい、あれは逆臣でありません、と興覚めな事を言って、少しも動こうとなさらず、父君や牧の方さまが何かと猛(たけ)り立って興奮すればするほどいよいよ冷静におなりになって、あれは逆臣でありません、畠山父子は共に得がたい忠臣ですよ、ばかな真似はおやめなさい、何をそんなに血相をかえて騒いでいるのです、みっともない、などとずけずけいやな事を申すので、牧の方さまはとうとう泣き出して、なんぼう私が継母(ままはは)だからとてそんなに私をいじめなくてもいいではないか、継母というものはそんなに憎いものですか、いや、憎いだろう、憎いであろう、これまでも何かにつけて私ひとりを悪者にして、いったいどこまで私を苦しめるおつもりか、たまには私にも親孝行の真似事でもいいからして見せておくれ、と変な事を口走る始末になったので、若い相州さまは、苦笑して立ち上り、じゃまあ、こんど一度きりですよ、と言って畠山御一族討伐に参加なされたとかいうお話でございます。普通のお人の場合では、一度きりですよ、とは言っても、またさらにもう一度と押してたのまれると、だから前に一度きりと断って置きましたのに、仕様がないな、などと言いながらも渋々また応ずるものでございますが、相州さまの場合には決してそのような事はなく、一度きりと言えばまさにそのとおりに一度きり、冗談も何もなく、あとはぴたりとお断りになるのでございます。その証拠には、すぐつづいて時政公が、またも牧の方さまにそそのかされ、当将軍家弑逆(しいぎゃく)の大それた陰謀をたくらんだ時には、もうはじめっから父君、義母君を敵として戦い、少しの情容赦もなくそのお二人の御異図を微塵に粉砕し、父君をば鎌倉より追放なされ、継母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただいておしまいになりました。その御性格には優柔不断なところが少しもなく、こわいくらいに真面目に正確に御処置なさってしまうのでございます。(中略)少しも間違った御態度ではなく、間違いどころか、まことに御立派な、忠義一途の正しい御挙止のように見えながらも、なんだか、そこにいやな陰気の影があるような心地がいたしまして、正しさとは、そんなものでない、はっきり言えませぬが、本当の正しさと似ていながら、どこか全く違うらしい、ひどく気味の悪いものがあるような気がするのは、私だけでございましょうか。」

 

 北条時政の後妻牧の方が自害させられたというのは太宰のデフォルメで、実際には、政子・義時姉弟のクーデターによって、時政共々伊豆に隠退させられたらしい。もっとも、実朝を廃し、その代わりに将軍に据えようとはかったといわれる牧の方の娘婿平賀朝雅は、まもなく京都で殺されている。『吾妻鏡』の元久二年の記事には、なぜか、時政失脚後の牧の方の消息が全く記されていないので、太宰は、義時の性格から判断して、てっきり自害させられたものと推測したのであろう。

 しかし、そういう事実の誤認は、ここでは大して重要なことではない。肝心なのは、『吾妻鏡』にも記されているように、畠山重忠の潔白を主張し、一度は父親を諫めておきながら、継母にゴネられただけで易々と討伐の大将に豹変するような北条義時の人間性の不気味さである。しかも、彼は、重忠を殺害した後でさえ、その無実を時政に主張してゆずらない。この時代、武士社会における親の権威はたしかに絶大なものがあったが、それにしても、長年姉の政子と冷ややかな関係にあり彼女とさほど年も違わぬ継母のいいなりになるような、しおらしい人物とは、到底思えないのである。そんなけなげな親孝行者ならば、父や継母と、二か月間にもわたって軍事的な一触即発のにらみ合いを続けたあげく、姉と共にクーデターを引き起こしてふたりを追放するような措置を講ずるはずがない。

 畠山重忠の人柄の廉直さを知りながら平然と彼を殺戮できる義時という人物は、たとえそれがどんなに非道なことであっても、必要とあらば、敢えて鼻をつまんでさっさと事務的に片付けてしまうことのできる人間であるようにおもえる。

 ここには、太宰治が、生涯を通じて凝視し続けた〈近代悪〉の不透明な本質が象徴されている。それは、本質的に「鈍感な」人間たちのもたらす〈悪〉のかたちだといってよい。

 畠山一族を滅ぼす際に、親子の義理のために仕方なしに協力する義時は、人並みの肉親の情や世間的な義理は備えているが、本当は、きわめて冷ややかな情しかもってはいない。制度的な規範の中で与えられた社会的な〈役割〉の内に、己れ自身のアイデンティティーを完全に解消しうるような人間であるようにおもえる。

 義時は、鬱病親和気質の強い、謹厳実直なエリートであるが、病理の〈本体〉は、彼のそういう真面目さにあるのではない。

 この人物の不気味さは、〈血〉のぬくもりを通じた人との生ける〈接触〉のできぬタイプだという点にある。

 政子には、夫頼朝の浮気のために嫉妬で荒れ狂うような〈血〉の熱さがある。しかし、義時には、そういう血の通った人間らしいぬくもりや切なさの匂いは微塵も無い。

 常に、〈観念〉と〈規範〉のフィルターを通して他者と関わり、世俗に対処し、徹頭徹尾の「リアリスト」であり、「現世主義者」である。

 真の倫理を可能ならしめ、他者や世界との真の〈生身〉の接触を可能ならしめる、人の子としての原初的な〈渇き〉や〈痛覚〉というものの欠落した人間なのだ。

 こういう人間たちは、本質的には決して「傷つかない」し、常に良心の「免罪符」というものを持っている。しかも、はなはだ「悪気の無い」好人物ですらありうる。

 太宰治が『新ハムレット』で「新型の悪」として造型した「クロージヤス」や、「後期」の作品『家庭の幸福』で見据えた「官僚悪」の世界に通じる類型だといっていい。

 こういう人間は、本当は、誰とも心を通わすことのできないままに、無機的な〈断片〉のように冷ややかな〈観念〉と〈制度〉の海の中に浮遊しているにすぎないのだが、そういう己れ自身の孤立した生きざまを「孤独」だと感じることさえできない。

〈生身〉の寂寥感を〈痛み〉として感じ取る能力というものが、初めから完璧に封じられているからだ。

 義時は、ひたすら幕府と将軍の安泰のために、敢えて、冷徹で果断な合理性を発揮して、実朝の愛顧深かった武骨で忠義一徹の老臣和田義盛とその一族を挑発し、容赦無く全滅させてしまうが、その乱の二ヶ月後に開かれた歌会のありさまを、「私」は次のように描写している。

 

「相州さまも、その頃は故左衛門尉義盛さまのお跡を襲ってこのたびは侍別当をも兼ね、いきおい隆々たるもので、けれども決してあらわには高ぶらず、かえって頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒(ふりま)き、将軍家に対しては、また別段と、不自然に見えるくらいに慇懃鄭重(いんぎんていちょう)の物腰で御挨拶をなされ、将軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに応対なさるようになり、うわべだけを拝見するとお二人の間は、まえにもまして御円満、お互いにおいたわりなされ、お睦(むつまじ)げでございまして、そのとしの七月七日に、仮御ところに於いて、合戦以来はじめての和歌御会がひらかれました時にも、めずらしく相州さまがその御会に御出席なされ、松風は水の音に似ているとか何とかいう、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお作りなさったりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、将軍家だけはそのようなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出来ているお方はお歌もしっかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなさそうな真面目の御口調でおほめになりまして、なるほどそうおっしゃられて見ると、相州さまのお歌は、松風は水の音にしても、また鶉(うずら)が鳴いて月が傾いたとかいう歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられない事もないような気もいたしまして、まことに相州さまというお人は、あやしいお人柄の方でございます。」

 

 相州の歌云々については、もちろん、作者の虚構ではあるが、ここには、義時のようなタイプの人物の眼に映るであろう世界風景の酷薄な感触というものが、太宰治特有の反リアリズム文学的な視線によって、さりげない形で鮮やかにすくい取られている。

 義時の和歌は、あるがままの景物をあるがままの景物としてうたい、一切の私情や感興を削ぎ落とした〈客体〉としてのモノそれ自体の、非情でリアルな光景を淡々と描写したものだ。こういう視線には、伝統的な自然詠の風土的な潤いも、アララギ派的な生活苦に即した苦吟や感傷や自虐も無縁だ。そこに漂うのは、己れ自身の〈身体〉すらひとつの〈モノ〉として客体化しうるような冷やかで無機的な地上的リアリズムの匂いだけである。(この稿続く)

 

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『右大臣実朝』と宿命(連載第1回) 川喜田八潮

  • 2017.09.29 Friday
  • 21:37

 

*この「『右大臣実朝』と宿命」は、「1999年・春」に発行された「星辰」第二号に掲載されたものである。すでに、「『中期』太宰治の変容」の初めにも断ったように、旧「星辰」誌上においては、「太宰治と〈悪〉」という統一タイトルのもとに組まれた連載評論の「第二回目」として発表された。これから、その内容を五回に分けて再掲してゆく予定である。「『中期』太宰治の変容」と併せて味読いただければ、本望である。(二〇一七年九月 筆者)

 

     1

 

『右大臣実朝』は美しい小説である。

 太宰治の鮮やかな魂の結晶のうちで、これほどに透明で、抑制された深い静けさを感じさせる作品は他にない。

 太宰にとって、おそらく、〈死〉のかたちをこれほどの澄んだまなざしで間近に見据えながら、同時にそれと拮抗する形で、〈生〉のうたを、いささかの高ぶりも無くきちんと率直にうたい得たという作品は、他にあるまいとおもう。

 その意味では、最も太宰らしくない作品であると共に、魂の孤独な真髄のかたちが、この上なくつつましくデリケートに、純潔な光を放つ形で浮き彫りにされた、珠玉の作品でもある。

 私は、主観的な感情移入によって対象をわしづかみにし己れ自身の固有のうたへと変貌させてしまう小林秀雄の実朝論や、『新古今集』成立に至る和歌の表出史とそれに拮抗する実朝歌の独自性の本質を丁寧に論じた吉本隆明の労作『源実朝』を熟知しているけれども、それでも今もってなお、太宰の実朝像ほど、身近になまなましく感じられながら、『吾妻鏡』を中心とする関連史料に忠実な人間像は、他に無いような気がしている。

 実朝の〈資質〉に己れ自身の〈分身〉を色濃く重ね合わせながら、これほどまでに虚心に、あるがままに対象を浮かび上がらせるには、よほど痛切な愛情がなくてはならない。

 太宰の実朝像は、なによりもまず、『金槐和歌集』に収められた歌を丁寧に読み込むことを通して紡ぎ出された、なまなましい文学的直観の産物であり、太宰治自身の孤独な魂の主調音と同調(シンクロナイズ)させられ、その切り口に沿って抽象化された、独特の純粋な人間像として造型されたものだ。

 そして、その純化された人間像を常に身体的にイメージしながら、『吾妻鏡』を中心とする関連史料を、矛盾の無い形で素直にあるがままに読み解こうとしている。この〈解読〉の仕方は、個々の具体的な場面における小説上の粉飾を別とすれば、私には、ひとつの歴史研究としてもきわめて説得力のあるものにおもえる。

 もし私たちが、『金槐和歌集』を味わうことによって私たちなりの切実な実朝像を彷彿とさせることができ、それが、太宰の実朝像によって強調された生々しい生の〈位相〉と本質的に重なり合うものであるとすれば、私たちは、『右大臣実朝』を、関連史料を整合的に解釈した上で実朝の内面的な生活史の実相にまで踏み込んでみせた、恐るべき歴史的洞察の産物として認めるのに、やぶさかではないであろう。

『右大臣実朝』には、ごく少数ではあるが、実朝自身の和歌が、小説の展開に合わせて随所に配置されている。もちろん、『金槐和歌集』に収められた作品のほとんどは、その具体的な作歌時期を「特定」することが不可能であり、そういう意味では、この配置は、太宰の文学的直観と物語の展開の必要によってなされた、はなはだ恣意的な作業であるともいえる。

 しかし、実朝の生きざまと魂の孤絶した純潔なかたちに対する、太宰治のメタフィジカルな洞察の象徴とみなすなら、歌への読み込み方も、その小説上での配置も、いささかも恣意的なものではないし、史実を歪めたものでもない、と私は考える。

 この作品の実朝には、「中期」太宰の〈分身〉としての、最良の形で蒸留された〈生活思想〉のエキスともいうべきものが、みずみずしい肉体をもって息づいている。この作品「前半」の実朝像には、「かくありたい」と希う、当時の太宰治の祈りと憧憬がたしかに込められているようにおもえる。

 しかしそれと同時に、作品全体を通じて、その透明な理想像を包摂するかのようなおもむきで、次第に拡散し浸透する時代の〈滅び〉の予兆が、残照のように静かに描き込まれてもいる。

 この作品は、元、実朝の近習として仕えていた語り手の「私」が、主君の死後、出家して山奥に隠棲し、二十年ほど経た後に、求められるままに「昔語り」をする、という体裁で創られている。

 作品の冒頭において、「私」は、実朝のことを、一切の批評がましい言葉を無意味に感じさせるような、ただ「なつかしいお人」であると語っている。

 

「……そろそろ二十年、憂き世を離れてこんな山の奥に隠れ住み、鎌倉も尼御台(あまみだい)も北条も和田も三浦も、もう今の私には淡い影のように思われ、念仏のさわりになるような事も無くなりました。けれども、ただお一人、さきの将軍家右大臣さまの事を思うと、この胸がつぶれます。念仏どころでなくなります。花を見ても月を見ても、あのお方の事が、あざやかに色濃く思い出されて、たまらなくなります。ただ、なつかしいのです。人によって、さまざまの見方もあるでしょうが、私には、ただなつかしいお人でございます。」

 

 この「なつかしい」という言葉には、語り手の「私」と共に、作者太宰治の、実朝への万感のおもいが重ね合わせられている。今では喪失してしまったが、かつては鮮やかに息づいていたなにものかに対する無量のおもいと、その〈感触〉を、ある及びがたい距離を隔てながら、忠実に「復元」してゆこうとする「私」=太宰治のまなざしが透けて見える。

 この醒めた、深い喪失感を伴った絶妙のスタンスの取り方が、『右大臣実朝』を、無類の透明度を備えた深みのある作品にしている。

 ここでは、作者太宰の分身である「私」が、実朝のふるまいを、溢れるおもいを厳しく抑制しつつ静かに回想しながら、随所で主君の気持を控え目に推し測っているのだが、実朝自身はきわめて寡黙で、ごくたまに、そのセリフが現代風の軽妙な「カタカナ書き」の語り口調で、異邦人のようにぽつりぽつりと吐かれるのみである。

 しかし、「私」の推量と「実朝」の鷹揚(おうよう)なふるまいや言葉の、この〈空隙〉の大きさが、実は、作者太宰治自身の〈無意識〉の領域の大きさの象徴になっているのだ。

 両者の〈ズレ〉が実朝の〈沈黙〉の巨大なふくらみを表現していると同時に、そのまま太宰治自身の秘められた無意識の奥ゆきや陰影を鮮やかに浮き彫りにし、浮上させてみせるのである。

 この作者の視線の多元的なふくらみの大きさが、『右大臣実朝』の魅力の真髄をなしているといっていい。

 ここには、太宰治特有の対人恐怖症的なひねこびた〈自意識〉というものが見られない。

 われわれをへとへとにさせる、あの猫の目のようにすばやく転換する神経症的な話体のリズムという奴が無いのだ。ゆったりとしたのびやかな自然体の文体に成り切っており、近代の時空意識を脱して、実朝自身の体液のリズムと歩調を合わせながらしみじみと語られている。そこには、私たち現代人が完全に喪失してしまった、かけがえのない、柔らかで深々としたアジア的な〈農〉の時間が、いまもなお微風のように優しく息づいている。

 薄幸な実朝の生涯というと、源家の血ぬられた宿命から推し測って、陰鬱で殺伐とした空気の中で張りつめた日常を送っていたかのように見えるが、実際には決してそうではなく、実朝自身は「いつもゆったりして」「のんきそうに見え」る日々を送っていたと「私」は語っている。彼の周囲には不思議と柔らかい光に満ち溢れた空気が漂っていた。

 物語は、「私」が初めて将軍の御所にあがった十二歳の時から始まる。当時十七歳の少年であった実朝には、すでに、御所の誰よりも深く大人びた、思慮深げで透徹したまなざしが備わっていた。

 

「私が御ところへあがったのは私の十二歳のお正月で、問註所の善信入道さまの名越のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御ところへあがって将軍家のお傍の御用を勤める事になったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御ところへ参りましても、まるでもう呆(ほう)けたようにおなりになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついくすくすと笑ってしまって、はっと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺い見ましたら、あのお方も、私のほうをちらと御らんになってにっこりお笑いになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がっておいでのようなその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生れつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し測ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だったのでございますが、おからだも充分に大きく、少し伏目になってゆったりとお坐りになって居られるお姿は、御ところのどんな御老人よりも、分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。

 老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉(かな)

 その頃もう、こんな和歌さえおつくりになって居られたくらいで、お生れつきとは言え、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術(すべ)がございませんでした。」

 

 ここには、人間の原存在としての〈孤独〉というものを、あたかもこの世に生まれ落ちた時から宿命的に熟知しているかのような、不動の老成ぶりを示す実朝の姿がある。身辺の一切の出来事を、ひとつの〈自然〉のように受容し、受け流してゆくまなざしは、こういう実朝の魂の芯部を成す独特の孤独さのかたちから湧出して来るようにおもえる。

 もうひとつ挙げてみよう。

「私」が御所にあがってまもなく、実朝は突然「疱瘡」にかかって発熱し、危篤状態にまで陥る。ようやく持ち直して病後さめやらぬころ、母親の「尼御台」(北条政子)が実朝の御台所を連れて見舞いに来る時の描写である。

 

「忘れも致しませぬ、二十三日の午剋(うまのこく)、尼御台さまは御台所さまをお連れになって御寝所へお見舞いにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控えて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずっといざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言うような平然たる御口調ではっきりおっしゃいましたので私は子供心にも、どきんとしていたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え堪えず、泣き伏しておしまいになりましたが、尼御台さまは、なおも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでございました。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残って、ひどい御面変りがしていたのでございます。お傍のお方たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしていたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言い出されましたので、私たちは色を失い生きた心地も無かったのでございます。その時あのお方は、幽(かす)かにうなずき、それから白いお歯をちらと覗(のぞ)かせて笑いながら申されました。

 スグ馴レルモノデス

(中略)融通無碍(ゆうずうむげ)とでもいうのでございましょうか。お心に一点のわだかまりも無い。本当に、私たちも、はじめはひどく面変りをしたと思っていたのでございますが、馴れるとでも言うのでしょうか、あのお方がだいいち少しも御自身のお顔にこだわるような御様子をなさいませぬし、皆の者にもいつのまにやら以前のままの、にこやかな、なつかしいお顔のように見えてまいりました。」

 

 ここにも、先の引用の中にあった、驚くべき老成ぶりを示す和歌と同様に、人間存在の本源的・原初的な〈孤独さ〉の不動のかたちを真に見据えた者のみがもちうる、透徹した覚悟性が鮮やかににじみ出ている。すなわち、この世のありとあらゆるめぐり合わせと生の移ろいに対する絶対的な〈受容〉の姿勢が深々と息づいているのである。

 こういう実朝の生きざまへの憧憬に満ちた描き方を見ていると、太宰文学を知悉している読者なら、一切の不条理、災厄を黙々とやり過ごしてゆく兄妹の澄み切ったまなざしを描いた中期初期の名作『新樹の言葉』や、疎開した「私」の妻の実家が空襲で焼けたのに、その焼跡を無邪気にほほ笑んで眺めている子供の眼を描いた『薄明』、さらには、後期の『斜陽』における、直治とかず子の「母」の像を想い浮かべる人も多いであろう。苛酷で数奇な一切のめぐり合わせを、あるがままに受け入れ、従容として死に臨む『斜陽』の「母」の端正な静けさは、「右大臣実朝」の変形した姿だといってもよい。

 こういう実朝の生存感覚に象徴される位相は、「中期」の太宰治が、生活者の純粋な〈原点〉として繰り返し回帰しようとしたアジア的な〈農〉のまなざしなのである。(この稿続く)

 

 

 

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