北原白秋『桐の花』を読むΑ\邊酖直住

  • 2020.04.06 Monday
  • 19:02

 ゆふぐれのとりあつめたるもやのうちしづかにひとのなくねきこゆる 『桐の花』

 

 すべてひらがなを用いたことや、具体的な情景としては個別性のいたって乏しい素材の組み合わせであることによって、存在と存在の境界、視覚と聴覚の境界さえも曖昧に融かそうとするかのような、不安をそそる抽象画的一首となっている。

「ゆふぐれ」と「もや」を提示すればありふれた春のけだるい情緒へと回収されがちだが、その回収を助けるような具体的な描写を拒み、「しづかにひとのなくね」だけを情景の中に注ぎ込む。地上的な恋愛の一場面から離脱して、生存感覚としての頽廃の空気と根深い喪失感だけが浮かび上がる。

 存在の輪郭線の曖昧さが、「ひとのなくね」を己れの身の内のすすり泣きと同調させる。「ゆふぐれ」がとりあつめた「もや」という時空、それは、個人の意志を超えたものに生み出された時空である。その中に身を浸せば、みるみる存在の隔たりが消える。そのことが、魂への圧倒的な他者の侵入と感じられるような、不穏で濃密な官能性。

 

 

川喜田晶子 インスタグラム https://www.instagram.com/akiko_mist/

 

『J-POPの現在 機卆犬難さ〉を超えて』→https://www.amazon.co.jp/dp/4434268465/

 

プレスリリース→https://www.excite.co.jp/news/article/Prtimes_2019-12-20-46294-19/

 

 

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北原白秋『桐の花』を読むァ\邊酖直住

  • 2019.11.04 Monday
  • 14:45

 

 南風薔薇ゆすれりあるかなく斑猫飛びて死ぬる夕ぐれ 『桐の花』

 

「薔薇(そうび)」のエキゾチシズムと、あるかなきかのはかなさで飛んで死ぬ「斑猫(はんみょう)」との、不吉なまでに鮮やかで異質な取り合わせを、夕ぐれに吹く南風がエロティックに揺さぶりながらとりまとめる。

 白秋の身体に幼時に染み入った南国的で異国風の風景が、彼の世界へのまなざしに、けっして生命的な意味をもってあたたかな風を送り込んでいたわけではないことがうかがわれる。薔薇や南風によって、斑猫のはかなさと異形性が際立つのと同様、風景は白秋の孤絶の感覚を官能的に追い込むかのようにたち現れていたのだろう。

 自身の生存感覚の稀薄さと異形性を、ことさらに際立たせる不吉な冒険が、短歌という型の中であまやかに繰り広げられている。

 

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  • 2019.10.21 Monday
  • 18:12

 

 かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし  『桐の花』

 

「春」という季節に、不吉なほどの純度で「かなしさ」を取り合わせる手つきが悩ましい。

 これほどまでに黒くかなしい色はあるだろうか、という上の句の問いかけと、「わが思ふひとの春のまなざし」という下の句との俳句的な「取り合わせ」が、断絶をはらんだ完結感として提示される。白秋らしい、俳句性をはらんだ短歌性が横溢する。

 そして、「黒くかなしき色」という抽象的な焦点の絞り込みによって、恋人のたたずまいの全体を描き、ふたりの恋の気配を描き、世界のけだるさを描いてみせる。

 トリミングやフォーカス、断絶や孤絶といった、近代的な対象との距離感の表出を通して世界をまさぐる、その不能性とうらはらの恋情が、かなしい熱を帯びて一首を屹立させている。

 

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北原白秋『桐の花』を読む 川喜田晶子

  • 2019.10.14 Monday
  • 12:12

 

 ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日 『桐の花』

 

 短歌という一つの世界の中に置かれてあるのであれば、その中の構成要素は対立よりも連続するのが短歌世界を壊さぬそれまでのあり方であったが、白秋のこの歌においては、薄紫に咲いたヒヤシンスと作者の心がはじめてふるえた日とは、対立はせぬまでも、冷えた断絶を艶やかに交わしているといった表情だ。

 ヒヤシンスへの激しい心情仮託にもかかわらず、「三句切れ」の潔い断絶感が、俳句における「切れ」のように、異質性をはらんだ「取り合わせ」として詩的世界を構築しているところに、白秋の革新性があったろう。この歌においても、断絶こそが艶を顕ち上げている。

 対象に対する前のめりな心情仮託が、実は対象との不幸な距離感の表れであるという逆説。

 

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北原白秋『桐の花』を読む◆\邊酖直住

  • 2019.10.07 Monday
  • 15:07

 銀笛のごとも哀しく単調に過ぎもゆきにし夢なりしかな 『桐の花』

 

 現実から強い断念をもって撤退した者の息づかいである。

 喪失によって、より〈夢〉を美しく哀切にそして虚ろに彩る手つきに、世界(コスモス)と倫理の剥落した〈大正〉という時代の空気感が漂う。

 喪失したのは単調(ひとふし)に過ぎていった銀笛のような夢なのだが、歌全体から感じ取られるのは、現実にたしかに着地して世界との交感の手ごたえを肌身で呼吸していた時代を失った感触である。

〈夢〉をリアリティーのあるかたちで支えるものについて、逆説的な示唆を与えてくれる一首。

 

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北原白秋『桐の花』を読む \邊酖直住

  • 2019.09.30 Monday
  • 10:43

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕 『桐の花』(大正2年刊)

 

 絵画性が強すぎることは、短歌の力を弱めることがある、と私は思っている。

 脳裡に「絵」が浮かんでしまうと、その「絵」を読者に伝えることに気をとられてしまい、作者と「絵」との距離が知らず知らずに広がって、生命力の乏しい「絵の報告」になりかねない。

 ひとつの風景を(実際の風景であれ、幻想上の光景であれ)一枚の「絵」としてとらえることは、短歌を作る上で、ほんのきっかけにすぎず、その「絵」に収まり切らぬものが緊密な息づかいとして溢れこぼれてこそ、胸に響く韻律が実現する。

 北原白秋の『桐の花』に収められた歌は、きわめて絵画性が強いけれども、以降の彼の歌集では喪われてしまうそのような息づかいが淡くうるおいのあるかたちで保たれている。

 絵画性の強さも、対象との清潔な距離感の表れとして、理知的な透明感を醸し出している。

 ぬめぬめと他者と一体化できない孤独に清潔な感傷が寄り添っているこの歌集の歌が、私は嫌いではない。

 正岡子規や与謝野晶子のような骨太な韻律ではなく、「意味」の外へ外へと逃れたそうな傷つきやすい面持ちだが、時代と自分の不健康さにぎりぎりで向き合っている誠実な感受性が、この巻頭歌にも顕著だ。

「大正」という新しい時代の〈春〉は、鳥がのびやかにいのちを歌うことのできる〈春〉ではない。そのかなしみを、不安を、怖れを、それと背中合わせの官能を、そんなに鳴くな、と作者が呼びかける言葉の上の「禁止」は、禁忌によって逆に解き放たれてゆく作者の感覚の起爆剤であるかもしれない。

「あかあかと」不安をそそる日の入りざまを見つめる作者のまなざしに、〈張りつめた退廃〉とも云うべきこの歌集のトーンが象徴的に表れている。

 

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