〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第16回) 川喜田晶子

  • 2017.05.26 Friday
  • 13:18

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

『海やまのあひだ』からぬき出した20首の中で、未だ触れていない歌が一首ある。最後にこの歌に触れておきたい。

 

 山深きあかとき闇や。火をすりて、片時見えしわが立ち處(ド)かも

 

 この歌は、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(『空には本』所収、昭和33年)を想起させるが、寺山の歌は、戦後の短歌表現の〈自由〉に向かって解き放たれながら、逆に「祖国」という語によって、当時の政治的な文脈に回収されてしまうような輪郭をまとっている。彼がここで見ようとしたものは「祖国」か「霧」か、という対比であり、戦後的な〈身〉は、もはや「祖国」に回収されないけれども、それなら回帰すべき土俗的な母胎であるコスミックな〈闇〉の象徴としての「霧」は、深く豊かに〈身〉を迎え入れるかといえば、マッチの火に照らされたつかのま、そのカオスとしての表情を垣間見せるばかりである。戦後的な〈個〉をまさぐる自我の〈自由〉、すなわち〈前衛〉と呼ばれた衝迫と、伝統的・土俗的な生存感覚の基盤としての〈闇〉とが、互いに侮辱し合うかのように対比されることの野性味が寺山短歌の真骨頂であるが、この歌にも、ケレン味のある劇的空間を顕ち上げながら、〈自由〉にも〈闇〉にも安らぐことが出来ない寺山が解き放つ、濃密な苛立ちを感受し得るだろう。

 

 対して折口の一首には、寺山のような表立った野性味はないが、火に照らされて一瞬浮かび上がる己れの限定された「立ち處」のめぐりに無辺の闇のひろがりを感受しておののく、しずかな狂暴さが息づいている。政治などとは無縁の、〈存在〉の振幅をいかほどの広大さで想い描くべきかについての信と不信を賭けたドラマが、片時の火のほとりで繰り広げられている。

 ここには、山深き場所と平地、あかときの闇と真昼間、闇と火、片時と永劫、そして己れの「立ち處」とそれを巡る「無辺」という時空間の、鮮烈な対比が幾重にも潜んでいる。

 一首の感動の中心は「山深きあかとき闇」でもあり、それに対比される「片時見えしわが立ち處」でもあるように、この歌は顕ち上がっている。寺山のように両者が互いに侮辱し合うというのではないが、そこには、互いの本質を晒し合う不吉さが潜んでいる。

 全てを永劫・無辺へと呑み込む「闇」の不吉さ。呑み込まれる宿命を帯びた「立ち處」の狭さ・短さ。火に照らされた「立ち處」が見えることは、実はそれを取り巻いている「闇」が見えることでもある。

 これまで見てきたような折口の生存感覚からすれば、己れの「立ち處」を生きることは、それを呑み込む「母なる〈死〉」としての「闇」を生きることでもあろう。彼はその「闇」を忌避してはいない。むしろ、そこに回帰したいと願い、表現によってわずかずつ回帰しながら生き永らえていたとも言えよう。

 しかし大衆は、世間は、その「立ち處」をのみ生きていて、実は「闇」を生きていながら、よほどのことがない限り、そのことを意識の上に昇らせることなくやり過ごしている。折口だけが「闇」を生きていることに気づいている異形の民、〈まれびと〉である。

 その覚悟と矜持が、短歌という〈型〉に委ねられることで、どこか古代の神の呪言のように鮮烈に哀切に響いてくる。これが世界のあり方だ、と。神が見ているあり方だ、と。

 自身の異形性の帯びている「のろひ」が、そのまま「ことほぎ」でもあるような世界観。

 生きながら「母なる〈死〉」と一体化するような世界観。

 そういう世界観によって、かろうじて民俗の魂の原形質との(あるいは師である柳田との)異質性・同質性のドラマを紡ぎ出し、表現し続けた折口の、静謐だが狂暴な立ち姿をこの一首に鮮やかに感受できるようにおもう。

 

********************

 

 私は、折口の業績をどう評価するか、ではなく、あくまで〈藤村操世代〉としての折口の〈表現〉を読み解くことだけに意義を見出してこの論を書いてきた。

 彼の民俗学の成果も、柳田への憧憬も、詩歌も、社会的に評価されるべき「業績」として読み解いたのではその本質がこぼれ落ちてしまうということを、折口の「贖罪」という詩篇に触れて鮮烈に洞察せざるを得なかったからだ。

 その生い立ちに刻まれた〈青あざ〉、戦前・戦後を貫く表現と変容する表現、柳田との、そして民俗の原形質との関係を通して露わになる世界観、短歌という〈型〉にゆだねられて解放される率直なタナトス。

 大衆的な規模で蔓延していた時代の病理を、折口はどのように病み、どのようにそれを表現することで生き延びようとしたのか。時代の病理に通じる普遍性と、折口ならではの超克への模索の質とを、いささかなりとも浮上させられたのではないかとおもう。

 

 彼ら〈藤村操世代〉にとって、「生き延びる」ことの困難さは、筆舌に尽くしがたいものがあったはずである。多くの若者が藤村操というたった一人の少年の投瀑に感応して死を択んでいた時代である。「生き延びる」ことにむしろ壮絶な覚悟や困難がつきまとっていたのだ。「生き延びる」ためにこそ彼らは〈表現〉していたのであり、その命懸けの〈表現〉を読み解くことが、〈現在〉にまで続く〈生き難さ〉の質や原因を明晰にすることになるはずだ。〈藤村操事件〉以来、どれほど表層的に浮かれて見える時代があったとしても、その〈生き難さ〉が時代の深層から消えたことはない。

 

 折口の次のような言葉は、〈表現〉によって生き延びようとする者の胸には、今もよく響く言霊を帯びている。

「かうして不思議な物語りと、多くの人の憧憬とを負うてゐた異郷は、明治大正の科学の光に逢うて、忽ち姿を消してしまうたが、また新なる意味に於ける異郷が、われわれの胸に蘇り更に蘇らねばならぬ。いつまでも」

(「異郷意識の進展」大正5年「アララギ」に初出 『折口信夫全集20』 中央公論社 1996年)

「新なる意味に於ける」と折口も断っている。折口的な「異郷」である必要はない。柳田的「日常」である必要もない。柳田と折口のどちらを評価すべきかと比較吟味するのではなく、両者がめくるめく懸隔を抱えつつ鏡の表裏であったことこそが刺激的であり、「異郷」と「日常」との本質的な蘇りを可能にする世界観を希求せよと、語りかけているのだとおもわれる。(「折口信夫の〈青あざ〉」了)

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第15回) 川喜田晶子

  • 2017.04.23 Sunday
  • 13:17

折口信夫の〈青あざ〉

 

「葛の花」の一首と同様の〈死〉の風景への憧憬は、次の歌にも顕著である。

 

 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ

 

「葛の花」の歌ほど、〈死〉に鮮やかさを見ているわけではないが、この情景に感受した「かそけさ」に、折口が憧憬を抱いていることがわかる。

 人の生き死にと馬の生き死にとの重さに大きな違いを見出していない歌いぶりである。その違いを薄れさせてゆくかのような旅寝の重なりこそが主題とも見える。人も馬も旅の内に疲れ果てて死んでしまう姿を想い、己れもまた、旅寝を重ね、さらに重ねてゆくならば、いずれその果てに〈死〉へと静かに連続してゆくことが出来るのではないかと、どこか確信に満ちたまなざしが潜む。

 己れのタナトスに素直な折口の表現には、〈断絶〉をバネとして跳躍するような無理が無い。風景に、〈死〉へのなだらかな連続の相貌を見出した時のこの「かそけさ」には、むしろほっとした居心地のよい憧憬がすべり込んでいるといってもよい。

 

 山中(ヤマナカ)は 月のおも昏(クラ)くなりにけり。四方(ヨモ)のいきもの 絶えにけらしも

 

 このような情景も、折口の「悸り(いきどほり)」をそそっただろうか。山の奥深いところで面(おもて)を昏くする月。これもいわば月の〈死〉である。表面的な〈明〉に対しての〈暗〉ではなく、存在の内に抱え持つ〈死〉の時間を、人から遠く孤絶した山中という場所においてなら月が率直に見せてくれる。その瞬間の世界の気配の在りようを描き出しているのだ。

 月が〈死〉の相貌を見せる時間、四方のいきものもすべて命絶えてしまったかのように感じられる。個体としての命が「絶え」、種としても「絶え」るほどの、徹底した〈死〉の相貌を月が主導する。世界を月が統(す)べていることの気配を、〈死〉で統べられている時間の気配を、純粋に感じられる場所。その懐かしさに、折口は恍惚と身を浸していたであろう。

 

 山々をわたりて、人は老いにけり。山のさびしさを われに聞かせつ

 友なしに あそべる子かも。うち対(ムカ)ふ 山も 父母も、みなもだしたり

 

 山の人の暮らしに触れる時、折口は己れをエトランゼとして意識しもするが、彼らのさびしさが極限的な孤絶として感じられる折には、シンパシーを抱きもしたろう。山々を歩み渡りつつ老いてゆく姿。子どもには友もなく、対峙する山も父母も「もだしている」つまり沈黙している、そんな育ちをする子の姿。

 情愛の薄い家庭に育ち、都会の関わりと表層を接して生きている者には、この沈黙の内に育ち老いる姿への羨望があったろう。民俗の究極の姿に、折口自身の内なる孤絶を重ね合わせられる時の、しみじみとほの暗い幸福感が漂う。

 民俗学においては、肉体と魂、現世と他界の〈断絶〉の相を認識の根底に据えて〈まれびと〉〈妣(はは)が国〉を想定した折口であるが、短歌表現においては、素直な〈連続〉の相が浮上する。短歌という器に抱かれて、対象の内の、己れと同質のものへの率直なシンパシーが流れ出るかの如くである。

 

 庭土に、桜の蕋(シベ)のはらゝなり。日なか さびしきあらしのとよみ

 

 嵐によって桜の〈花〉が散ったことを折口は描かない。〈蕋〉が散っている情景への着眼は、〈花〉の全体から切り離されて生殖器のみがむき出しになった〈死〉への着眼とも見える。子孫を遺すことのない自己イメージの喩として、伝統的な〈桜〉とはおよそかけ離れた身体性の主張である。

「日なか」つまり真昼間の光によって、折口とは異質な日常の力強さにさらされて、眼前にはあらしに散らされた〈蕋〉がその本質をむき出しにしている。花を散らしたあらしの「とよみ」すなわち〈気〉のざわめきがまだ庭を満たしている。

 桜、蕋、日なか、あらし、とよみ、といったモチーフが、互いの異質さによって互いの不吉な本質を晒し合うかのような歌の姿は、現世と己れとの異質さによって、互いの本質を酷く晒し合っているような生存感覚をもつ折口だからこそ可能になるものだ。(このような近代性が、戦後の寺山修司の短歌表現に受け継がれ、己れの内なる土俗的・伝統的な体液と、戦後的〈前衛〉を主張する自我とが、互いの貧しい身体性を侮辱し合う劇的空間をどぎつく立ち上げることとなる。)

 

 水底に、うつそみの面わ 沈透(シヅ)き見ゆ。来む世も、我の 寂しくあらむ

 

 水に己れの貌を映してみる。水底に沈み透けて見える貌は、己れの現世における〈生〉の本質を映すにちがいない。そこには、現世の枠組みに縛られてひたすらに寂しい己れの本質が見える。巡り会うべきものと巡り会えない寂しさである。来世もまた、自分は同じ寂しさを背負って生きていることだろう。現世で巡り会えなかったなにものかと、来世で巡り会えるような〈生〉の本質を孕んでいるならば、水底の貌にはそれが見えて然るべきであろうから。水底の貌は、永劫の「巡り会えなさ」を露呈していたのである。

 折口には、己れの前世、現世、来世という連続の相の中で、現世の己れの相が、連続する〈永劫〉という時間軸の象徴であるかのような認識が潜んでいたようにおもわれる。その認識ゆえに、現世の本質が〈永劫〉の本質、ときには万象の本質と感受されてしまうのであろう。

 だから、折口の背負っている「のろひ」は、短歌という〈型〉の背負っている「のろひ」、とも認識されていたと感じさせるものがあり、その陰鬱な連続性が、啄木や白秋とは異質な近代性を実現しているのだと言えようか。啄木や白秋は、あくまで短歌という〈型〉との対立感をベースとして己れの近代性を主張すべく表現しようとした。そこには、伝統的な〈型〉のもつ幸福感からの疎外感情が如実なのだが、折口は、伝統的な民俗や〈型〉の原形質からの疎外感を持ちつつも、ひとたびその原形質に己れと同質の異形意識を見出すや否や、徹底した〈連続〉の相として歌い上げるという特異な資質が見られるようにおもう。

 折口の柳田への憧憬においても同じことが起こっていただろう。

 短歌という〈器〉は、己れの内の、世界への〈連続〉の相貌を委ねるにふさわしい〈器〉である。折口はそのことを無自覚に活かし切っているのだとも言えよう。

 

 とまりゆく音のまどほさ。目に見えぬ時計のおもてに、ひた向ひ居り

 

 暗いせいで眼前の時計が見えない、という生活の一コマを写生することによって象徴性を獲得した歌、というよりも、この歌は、初めから己れの宿命を刻む本質的な〈時計〉への対峙がテーマなのであり、眼前の時計を折口はいつも異次元の時計の象徴として見ているのである。折口は常にその異次元の「目に見えぬ」方の「時計」にひた向かっているのだ。ちょうど、水底の己れの貌が〈永劫〉の貌として己れの本質を露呈するように、眼前の時計の「とまりゆく音のまどほさ」は、そのまま異次元において己れの宿命を司り、徐々に間遠くなりながら終局に近づいてゆく時計のあり方なのだ。

 陰鬱な方向性ではあるが、〈短歌〉という〈型〉によって現実の振幅が押し広げられるときの本質的な力を、折口は身体的に素直に熟知していたようにおもわれる。

 

 さ夜なかに 覚めておどろく。夜はの雪 ふりうづむとも 人は知らじな

 

 夜なかにふと目覚めてはっとする。雪が降っている。その雪が、全てを降りうずめてしまっても、自分以外の者はだれも知ることはないであろう。

 この情景においても、〈雪〉は現実の雪であると同時に異次元の〈雪〉である。人の〈生〉の源に、人の〈生〉を呑み込み、埋もれさせてしまう、いわば「母なる〈死〉」をイメージする折口がいる。その「母なる〈死〉」は、この世の〈生〉を常に包摂しながら存在しているのであるが、世間の者はみな、この世の〈生〉だけを見て、生きている。「母なる〈死〉」の訪れとしての〈雪〉も眠ってやり過ごしており、その〈生〉を降りうずめられていることにも気づいていないのである。折口だけは、目覚めて〈雪〉の本質の姿を直視している。直視しながら、自分が、自分だけが、この〈雪〉に降りうずめられて〈雪〉の一部になってしまう感覚の恍惚と矜持に身を浸している。

「さ夜なか」の「さ」という接頭語は、語調を整えているだけではなく、ただの「夜なか」を異次元へとさらりと転換するかの如くだ。

 

 十方の蟲 こぞり来る聲聞ゆ。野に、ひとつ燈を守(モ)るは くるしゑ

 

 野に「ひとつ燈(ひ)を守る」とは、現世において「ひとり」を守る覚悟のことであろう。いたるところから「蟲」がその「燈」に向かって一斉に集まってきて、燈を掻き消そうとしているかのように感じて苦しい折口がいる。己れと異質な欲望を持ち、異質な〈生〉を全うする人々に満ちた世間というものを、化け物じみて感じてしまう瞬間の喩として解釈できよう。

 

 木の葉散るなかにつくりぬ。わが夜牀(ヨドコ)。うづみはてねと、目をとぢて居り

 

〈雪〉にうずもれることへの憧憬があったように、木の葉の中に夜牀(ヨドコ)をつくり、埋(うず)み果ててしまってくれ、と目を閉じる折口がいる。

 現世における己れの異形の輪郭に傷つき疲れた魂は、過剰な類的イメージへの埋没を希求し、自我の輪郭を融解し切って甘く虚無の内にまどろもうとする。

 それが許されない現世であるがゆえに、「うづみはてね」という激しさが一首を逆に屹立させる。

 沈潜していた女性原理が不意に鋭利に暴発する、〈藤村操世代〉の過剰さのさやばしる姿である。(この稿続く)

 

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第14回) 川喜田晶子

  • 2017.03.17 Friday
  • 14:04

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

 

 折口の代表歌とされる一首である。

『日本近代文学大系』に収められた『海やまのあひだ』(千勝重次・奈良橋善司の注釈による)の補注には、この一首に関して面白いいきさつが記されている。

 

「作者は、「自歌自註」で「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行つた人を推理してゐる訣(わけ)ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌つたので、……この色あたらしの判然たる切れ目が、今言つた論理的な感覚を起し易いのである。」と述べている。つまり作者は、葛の花が踏みしだかれているのは、山道を行った人があるからだ、という推理的な受け取り方を危ぶんでいるのだ。御歌所の歌人武島羽衣(はごろも)は、かつて実際にそのような解釈をして、まことに幼稚な歌であると批評し、「心なく山道行きし人あらむふみしだかれぬ白き葛花」と添削してみせた。「白き葛花」といった無知もさることながら、「心なく山道行きし人あらむ」は、この歌の解釈・鑑賞法としては、まさに反対である。第三句の休止に作者の深い感動がこめられている点に注目すべきである。下句はおのずから山道を歩いて行った人の孤独に思い至る作者の心が、たくまずに表現され、それはそのまま旅人である作者の孤独をも伝えているのである。この歌が作者の最も代表的なものの一つであるのも当然であろう。」

(『日本近代文学大系・折口信夫集』角川書店 1972年)

 

 作品に対する作者自身の解釈は、決してあてになるものではない。作品は、作者の無意識を表現してこそ意味があるし、批評という営為は、作品を通して、作者にさえ隠された無意識を掬い上げることであるから、ここでも私は、折口の自註こそが正しい解釈であるなどと言いたいわけではない。

 むしろ、この一首に対して、武島羽衣なる歌人の誤読、折口自身の自註の限界、注釈者の限界、という幾重もの誤読や限界が張り巡らされているのが興味深いのである。

 武島の誤読は、折口のあやぶんだように、この歌を、葛の花が踏みにじられた「原因」を主題とした骨ばった一首と解釈したことによる。骨ばった理屈の勝った作歌が良くないからと添削したわけである。その結果、「白き葛花」などと、葛の花の色に対する無知をさらけ出した上に、「心なく」葛の花を踏みにじった人の無風流を責めるといった主題にすり替えてしまった。

 踏みにじったことを責めてなどいない、先にこの山道を行った人の孤独と作者自身の孤独を思う歌である、と解釈した補注は、少なくとも武島の誤読は指摘し得ている。

 だがその孤独とはどのようなものであったろうか。

 折口の自註はむしろ、あっさりと「孤独」などという言葉で片づけられない内実を主張したいのだと語っている。「原因」を主題に据えた解釈を拒んでいるのだが、それと同時に、〈写生〉によって叙した風景の質感の重さを、自身でも別の観念にすり替えたくなくて、語ろうとしていない感触がある。これは誠実な態度である。

 そもそも、自身で解説できるような感動なら短歌や詩にする必要はないのである。折口が〈写生〉を重んじたのも、己れ自身にも説明し難い内実を〈写生〉によって語らしめることが可能だからであり、〈写生〉による叙景・抒情が観念的な概念に置きかえらえることを忌避したのだ。

 

 この一首は、〈孤独〉といった概念では片づけられない特異な印象を訴えかけてくる。

 その異様な感触は、「踏みしだかれて、色あたらし。」によって生じるものだ。「あたらし」は今の「新しい」ではなく、折口の自註にもあるように、鮮やかさのことである。

 葛の花が踏みしだかれることで生じたこの「色あたらし」という事態への作者の感動は、いわば花の〈死〉の意外な姿によってかきたてられた感興を内実としている。

 この〈死〉の姿の鮮やかさが、先に山道を行った人と己れとを繋ぎ合わせているのである。

 共に孤独である、といった粗雑な情趣にからめとられている折口ではなかったであろう。己れの目にするもの、耳に入るもの、それらからなにがしかのシンボリックな呪言を聴き取ろうとするような感性を持つ者にとって、たまたま山道で目にした花の〈死〉の鮮やかさは、己れと他者、己れと世界との接触のあり方の象徴として感受されたに違いない。

 鮮やかな花の〈死〉によってこの世界を意味づけよと、世界から提示されたかのような瞬間。〈死〉によってこそ「あたらし」となる命への感動が、この一首の主題であると言えよう。

 己れが他者や世界と関わることができるのは、このような花の〈死〉の鮮やかさによってなのだ、という感覚は、これまで述べてきたような〈藤村操世代〉としての折口の生存感覚から見るならばきわめて自然なものである。

 

 人は、そのまなざしによって、世界風景を招き寄せる。

 〈死〉への渇望を秘めた者は、いたるところに〈死〉の風景を見出す。

 折口は、たまたま同じ山道をいくばくかの時間の隔たりをはさんで相前後して歩んだもう一人の人物と、あたたかい生命的な風物を通してつながるのではなく、花の〈死〉を通して触れた。折口自身がそういう接触を招き寄せているかのように。

 だが、その花の〈死〉の姿に喚起された不吉さを、折口は忌避していない。踏みにじられて実に鮮やかに紫を主張する葛の花。〈死〉によってこそ、その命の「ことほぎ」と「のろひ」の両方の振幅を全うしたかのような葛の花の姿に、異様な興奮をおぼえたのだったろう。

 

 たとえば次のような一首では、そのような興奮を「いきどほる心」として表現している。

 

 いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹(カニ)のはさみを もぎはなちたり

 

 歌集では次の一首が続く。

 

 澤の道に、こゝだ逃げ散る蟹のむれ 踏みつぶしつゝ 心むなしもよ

 

「いきどほる」は、今日の「憤る」ではなく、「動悸」の「悸」の文字を折口は意図していたかとおもわれる。つまり恐れや驚きで興奮して胸さわぎがする、そしてそれが身のわななきにまでつながるような昂ぶりである。次のように「悸」の文字を用いた歌も収められているからだ。

 

 山なかに、悸(イキドホ)りつゝ はかなさよ。遂げむ世知らず ひとりをもれば

 

 同じ心境を次のようにも歌う。

 

 かたくなにまもるひとりを 堪へさせよ。さびしき心 遂げむと思ふに

 

 これらの、「ひとりをまもる」折口における「悸(いきどほ)り」とはどのようなものだと言えるだろうか。

 蟹のはさみをもいでちぎってみたり、逃げ散るたくさんの蟹をふみつぶしてみたり、といった嗜虐的な行為をそそのかす「いきどほる心」を、折口はもてあましている。そのような行為を抑えるすべもなく、心むなしいだけ、はかないだけであるとの自覚が見える。

「ひとり」の対極に意識されているのは、フィールドワークで触れる民俗の姿、柳田的〈日常〉の姿であり、折口とは異なって、まっとうに女性を愛し、家族を営み、子孫を遺す生活者の姿でもあったろう。

 柳田的〈日常〉に焦がれればこそ、民俗の姿を明らかにすべく旅をするのだが、その旅は、己れのエトランゼとしての異形意識を激しくかきたてるものとならざるを得ない。

 

 この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

 ほがらなる心の人にあひにけり。うやうやしさの 息をつきたり

 この家の人の ゆふげにまじりつゝ、もの言ひことなる我と思へり

 

 エトランゼだからこそ、本来の自分でいられる旅でもあったろうが、心惹かれながらも決して自分には手の届かぬ民俗の原型質を感受して、彼らとの〈断絶〉に衝たれもする。「ほがらなる心の人」に対して「うやうやしさの息」をつく折口。「ゆふげ」に交じって「もの言ひことなる我」を意識する折口。とうてい彼らのようには生きられぬ己れを、その隔たりの大きさを、思い知る旅でもある。

「遂げむ世知らず ひとりをもれば」には、何度生まれ変わっても、自分には彼らのようには生きられまい、という認識の痛みが滲んでいる。そういう痛みによって昂進するタナトスを、どうすることも出来ずに蟹を虐げてみる。

 

 世界との〈断絶〉の意識をかろうじてなだめつつ生き永らえてきた折口である。ともすれば藤村操のように華厳の滝に投身したいという願望を、彼らの世代は身の内に抱え持ちながら生きていた。もちこたえらえなかった者たちが数多く、既に藤村操の後を追っている。

「悸り」の心とは、ふとした折に暴発せんとする身の内のタナトスであり、その欲動を刺激された時の抑え難い昂ぶりのことであったろう。

 

 タナトスにはめられたタガは、ふとした風景でいとも容易にはずれそうになる。

〈死〉を通した鮮やかな存在証明を激しく印象づけた「葛の花」に対しても、「悸り」は生じていたのである。

 

 そして、この「悸り」は折口だけのものではなかった。

 大衆的な規模においても、〈藤村操世代〉が抱えていた「悸り」は遍在したのであり、それが昂進したとき、昭和初期のウルトラナショナリズムへとなだれ込んでいったことについては、既に見てきたとおりである。

 大衆の魂にも、折口の魂にも、柳田的〈日常〉をたたき潰されることで荒廃した虚無が巣食っていたことを認識させられた時、「贖罪」(昭和22年)という詩篇が生まれたのであり、折口の凄惨なニヒリズムが炸裂する。

 

 この『海やまのあひだ』という歌集が編まれた大正末の折口にとって、「すさのを」はまだ生産的な魂を持っていた。

 

 うつそみの人はさびしも。すさのをぞ 怒りつゝ 國は成しけるものを

 

 その「怒り」によって、なりふりかまわぬ幼児的なまでの感情の炸裂によって、国を作ることのできる神であった。この歌では、「すさのを」のような激情の発露によっては〈生〉を意味づけられず、不条理に押しひしがれるしかない、自身も含めた「うつそみの人」が対置されている。そのギャップの内に、「すさのを」への折口の生産的な憧れがまだ滲んでいた。

 これが戦後の「贖罪」においては、徹底した虚無の塊りとしての「すさのを」に変容する。全てを滅ぼし尽しておくことだけが、「すさのを」の、そして折口自身の「贖罪」であるとの認識へ、激変したのである。(この稿続く)

 

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第13回) 川喜田晶子

  • 2017.02.23 Thursday
  • 15:35

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

 近代短歌が前近代への反発から成り立ったという経緯は、「何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろひ」を負って来ないものはない。」(「歌の円寂する時」)という折口の言葉を再び想起させる。折口は伝統的な命脈を保ってきた短歌という形式についてこう語りながら、己れを含めた万物の宿命を陰鬱に塗り上げてみせたが、近代短歌に限ってみると、あるいは的確な批評と言えるかもしれない。

 正岡子規の提唱した〈写生〉によって、短歌に近代的な命が吹き込まれたことは「ことほぎ」であったが、この〈写生〉が短歌を屹立させるという理念は、近代化による矛盾が人々の世界観を狭窄し、コスミックな身体性が失われてゆくにつれ、むしろ「のろひ」として機能し始めたのであり、歌人たちは己れのやせ細った身体と病理を短歌という器に盛ることで、この形式の生命との逆説的な交感を試みるしかなくなってゆく。その身体の狭隘さと引き換えに、精緻な内面性の表現を獲得するのであるが、そこには常に呪わしい痛みが伴うようになる。

 

 何処やらに沢山の人があらそひて

 鬮(くじ)引くごとし

 われも引きたし

 

 怒る時

 かならずひとつ鉢を割り

 九百九十九(くひやくくじふく)割りて死なまし

 

 実務には役に立たざるうた人(びと)と

 我を見る人に

 金借りにけり

 

 けものめく顔あり口をあけたてす

 とのみ見てゐぬ

 人の語るを

 

 一度でも我に頭を下げさせし

 人みな死ねと

 いのりてしこと

 

 何がなしに

 頭のなかに崖ありて

 日毎に土のくづるるごとし

 (以上6首、石川啄木)

 

 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕

 ひいやりと剃刀(かみそり)ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき

 鳳仙花うまれて啼ける犬ころの薄き皮膚より秋立ちにけり

 (以上3首、北原白秋)

 

 斎藤茂吉のフェティシズムについては既に述べた。〈連続〉の相において生きているつもりの茂吉に、〈断絶〉の象徴としての風景が不安を突きつける時、彼は無意識にそれを〈不安〉とは別のものにすり替えずにはいられなかった。そのすり替えに対して無自覚であったという意味でも、彼は〈藤村操世代〉よりやや上の世代としての身体性をもっていたと言えるだろう。彼の主張する〈実相観入〉なる写生理念、つまり対象に自己を投入することで実現される表層的でない〈写生〉理念には、無意識の〈不安〉と意識の上での〈生命性〉の主張とのグロテスクな融合がにじみ出ている。

 

 石川啄木、北原白秋は、いずれも純然たる〈藤村操世代〉の感性を持つ表現者である。啄木が明治19年、白秋が明治18年の生まれである。

 石川啄木は、短歌と言う形式を〈虐使〉することでひび割れた生活の情趣を叩きつけるように歌った。冷徹な世間の貌、啄木の魂の幼児的な柔らかさに侮蔑のまなざしで遇する他者の貌。それらとの厳しい〈断絶〉は、短歌という器に盛られて悲鳴を上げる。自虐的な痛みの戯画が逆説的な抒情を立ち昇らせている。

 

 北原白秋は、一首が〈連続〉によって完結することを強いてくる短歌という器に、あえて〈断絶〉を盛り込むことで象徴的な絵画性を頽廃的に際立たせた。〈意味〉が連続するのか不連続なのか危うげな、俳句における〈切れ〉や〈とり合わせ〉の意識にも似た、つかずはなれずのモチーフの斡旋が鮮やかな絵画性を実現し、清新な近代的抒情を可能にしている。「春の鳥」も「鶏頭」も「鳳仙花」も、「あかあかと」不安をそそる「夕」や「剃刀」や生まれてすぐに啼く犬ころの「薄き皮膚」ととり合わせられて、伝統的な意味や情趣の体系からしなやかに離脱し、世界から断絶した身体性ゆえの退嬰的抒情が張りつめている。

 

 この両者においては、対象や世界との〈断絶〉こそが意図的な主題である。伝統的な〈型〉に盛られたことのないこの〈断絶〉を、本来不似合いな器にいかに盛れば表現として屹立し得るのか。その表現が成功した場合には、〈断絶〉を生きるしかない身体性を高度に象徴するものとなることで、〈近代性〉が短歌として呼吸し得る。

 一見、定型の音楽性と完結感の内に収まっているかのようだが、啄木はいわば〈型〉にひっかき傷を入れるように歌い、白秋は世界からトリミングされた非完結的なモチーフをシンボリックにコラージュしながら画面をまとめ上げてみせる。両者とも、捨て身の戦略とも言うべきデザイン性が鮮やかだ。

 

 伝統的な〈型〉とは恐ろしいもので、歌人が己れの我で〈型〉をねじ伏せようとするならば、その我執のみすぼらしさを露呈させずにはおかない。狭小な身体性によっていくら精密な〈写生〉を試みても、過ぎ去った〈浪漫〉を歌おうとしても、それらが観念的であること、病理的であること、身体がもはやコスミックな振幅を失っていることを、短歌という〈型〉はあからさまにしてしまう。

 この〈型〉への、自覚的・無自覚的な抗いによって表明される〈近代〉は、歌人の身体性の振幅を映し出さずにはおかず、その振幅が狭小であるならば、表現は病理のカミングアウトとならざるを得ないのである。

 病理をカミングアウトしつつも、〈型〉との葛藤を生産的な抒情へと昇華させるには、優れた内省力が必要である。啄木と白秋は、そういう意味で精緻な内省力を駆使して斬新な境地を切り拓いてみせた。

 

 釋迢空、すなわち折口信夫は、この短歌という〈型〉の強大さを最もよくわきまえていた歌人の一人であったとおもわれる。

 歌人としてはアララギ派に属し、後にそこから離れて行った経緯を持つ折口の短歌は、技法的には素直な近代的写生に即しているかに見える。しかし、その〈写生〉によって、近代歌人は概ね〈前近代〉から離脱しようと志向し、短歌という〈型〉への身構えを固持するのだが、折口にはむしろ、この〈型〉の大いなる器に身を浸してしまおうと企図しているかのような趣きがある。そのことで露呈する己れの自我のデザイン、そしてそのデザインによって屹立させられるべき短歌の近代性には、無頓着であったと感じられる。そこが啄木や白秋とは異質なところであろう。

 しかし、緊迫した技巧を感じさせぬ、どこかけだるいほど〈型〉に委ねた表現によって、自然に滲み出るのはやはり〈近代性〉であり、根深いタナトスに彩られた病理的な身体の表白である。

 

 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

 

 この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

 

 いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹(カニ)のはさみを もぎはなちたり

 

 澤の道に、こゝだ逃げ散る蟹のむれ 踏みつぶしつゝ 心むなしもよ

 

 山中(ヤマナカ)は 月のおも昏(クラ)くなりにけり。四方(よも)のいきもの 絶えにけらしも

 

 山深きあかとき闇や。火をすりて、片時見えしわが立ち處(ド)かも

 

 山々をわたりて、人は老いにけり。山のさびしさを われに聞かせつ

 

 友なしに あそべる子かも。うち対(ムカ)ふ 山も 父母も、みなもだしたり

 

 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ

 

 ほがらなる心の人にあひにけり。うやうやしさの 息をつきたり

 

 山なかに、悸(イキドホ)りつゝ はかなさよ。遂げむ世知らず ひとりをもれば

 

 庭土に、桜の蕋(シベ)のはらゝなり。日なか さびしきあらしのとよみ

 

 かたくなにまもるひとりを 堪へさせよ。さびしき心 遂げむと思ふに

 

 うつそみの人はさびしも。すさのをぞ 怒りつゝ 國は成しけるものを

 

 水底に、うつそみの面わ 沈透(シヅ)き見ゆ。来む世も、我の 寂しくあらむ

 

 とまりゆく音のまどほさ。目に見えぬ時計のおもてに、ひた向ひ居り

 

 この家の人の ゆふげにまじりつゝ、もの言ひことなる我と思へり

 

 さ夜なかに 覚めておどろく。夜はの雪 ふりうづむとも 人は知らじな

 

 十方の蟲 こぞり来る聲聞ゆ。野に、ひとつ燈を守(モ)るは くるしゑ

 

 木の葉散るなかにつくりぬ。わが夜牀(ヨドコ)。うづみはてねと、目をとぢて居り

 

 歌集『海やまのあひだ』(大正14年[1925年]刊)から20首を抽き出した。折口の生存感覚をシンボリックによく伝える作品を列挙してみた。(明治37年頃から大正14年までの691首が収められたこの歌集は、逆年順で編まれている。抽き出した20首も逆年順である。引用は『日本近代文学大系 折口信夫集』より、旧漢字は適宜新漢字に改めた。 角川書店 1972年)

 

 ことさらな技巧を感じさせぬ素直な作歌であり、観念的に昂ぶったイメージを追い求めることのない、地に足の着いた〈写生〉態度が感受される。民俗探訪の旅における、熊野や壱岐といった場所の人々の暮らしや風景に触発された感慨を歌ったものが多い。

 しかし、これらの歌を数首も読めば、折口のタナトスの陰鬱な質感が読み手の身体を冷たく浸し始めることに気がつく。その冷たさをきちんと伝える激しさにもまた、気づき始める。並々ならぬ異形意識と、人の気配の無い風景を原郷として渇望するときの、「かそけさ」に向かってほとばしる屈折したパトスが、一見地味な写生にしたたかな生命を与えているように感じ始める。(この稿続く)

 

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第12回) 川喜田晶子

  • 2017.01.26 Thursday
  • 19:36

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

「何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろひ」を負って来ないものはない。」(釋迢空 「歌の円寂する時」大正15年発表 『日本近代文学大系59 近代詩歌論集』より引用 角川書店 1973年)

 

 歌人・釋迢空としての折口が、短歌という形式の命運について語った批評文の中に、このような一節がさらりと混じる。

 大正15年[1926年]、「改造」という雑誌上では、「短歌は滅亡せざるか」という特集が組まれていた。その折の論稿である。

 斎藤茂吉・北原白秋・古泉千樫は滅亡を否定したが、折口と佐藤春夫、そして芥川龍之介は滅亡を肯定した。折口は「もう滅びかけて居る」とまで言った。

 その前年の大正14年に第一歌集『海やまのあひだ』を刊行したばかりの折口が、この形式の存続を信じてはいないということの陰鬱さとともに、当時このような特集が組まれるほどに、歌人・文学者の間にも、〈短歌〉という伝統的な形式に近代的な命を吹き込むことへの不明瞭な疑念と不安がせり上がってきていたことがわかって興味深い。

 冒頭に引用した折口の一節は、当時の文学者、そして大衆の無意識にもたなびいていた、自らをも含めたあらゆるものの帯びている「呪い」の感触への不安を、適確にシンボライズしている言葉とも感じられるのである。

 

 折口はここで、短歌の命運について、それが発生した時から背負っている本質ゆえに、叙事詩にもなれず、理論も表すことができず、口語の自由度も持ち得ぬ上に、歌人たちは人間が出来ておらず、真の意味の批評も存在しないために、「歌はこの上伸びやうがない」「もう滅びかけて居る」と主張するのであるが、歌ばかりではない、「何物も」と折口が言い起こす時、彼の生存感覚の根にしがらんでいる虚無感が淡々と滲み出る。すべてのものは、生れ落ちると同時に祝福と共に「呪い」を背負っているのだという認識に、ことさらな衒(てら)いも恫喝も意図せぬ、折口の根深いタナトスのさらりとした表出を感受することができる。

 

 一方、大正末当時の短歌をめぐる潮流にも、ようやく不穏な疑念が兆し始めていたと言えよう。

 

 周知のように、短歌という形式が前近代的な「月並み」の抒情を脱し、近代の文芸として面目を一新するために、正岡子規は〈写生〉を起爆剤として用いることを提唱した。素材を拡張し、型から脱した新鮮な叙景・抒情が試みられることで、短歌や俳句といった定型短詩を近代的な自立した詩形として刷新しようとしたのだった。

 また、与謝野鉄幹・晶子ら「明星派」は、国家主義に歩調を合わせて高揚する反封建的な近代的自我を浪漫的に解放した。

 このような〈写生〉〈浪漫〉のダイナミックで豊饒な生命力の発露は、実は近代化による矛盾が進行するよりも前に、前近代的でコスミックな風土に培われた身体性を持つ文学者たちの、いわば大切に育てられて無邪気に母親に反抗したりからんだりできる若者のような、〈前近代〉への悪びれぬ反発と〈近代〉への青々とした渇望のエネルギーに負うところが大きかった。

 

 くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

 諸鳥(もろどり)の嵐にさわぐ声絶えて鷹(たか)飛びわたる不尽(ふじ)の裾山

 我が庭の小草(おぐさ)萌えいでぬ限りなき天地(あめつち)今やよみがへるらし

 真砂(まさご)なす数なき星の其の中に吾(われ)に向ひて光る星あり

  以上4首、正岡子規

 

 われ男(お)の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子 与謝野鉄幹

 

 やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君

 ゆあみして泉を出でし我が肌に触るるは苦るし人の世の衣(きぬ)

 地はひとつ大白蓮(だいびゃくれん)の花と見ぬ雪のなかより日ののぼる時

  以上3首、与謝野晶子

 

 子規の〈写生〉におけるまなざしは、勢いよく乱雑に伸びた「薔薇」の「芽」の「針」という新鮮な素材に客観的に精緻に注がれているように見えて、詠み手と対象との分極が無い。「やはらかに」において「薔薇の芽の針」と「春雨」とが融け合うことで、それを描写する子規までもが「春雨」という伝統的な情趣の中に融け入りつつも、内部からその情趣を転生させるかのような、ふくよかで躍動的な生命感のスケールを実現し得ている。

 富士の裾野を飛翔する鷹にも、庭のつつましい草の萌え出づる様にも、「限りなき天地」の雄渾な息吹がみなぎる。近代の〈写生〉の初発の立ち姿である。

 あまたの星の中に、「吾に向ひて光る」と感受できる星を見ることができたのも、子規の〈写生〉においてのみであった。主体と客体は、〈意味〉によって野太く連続していたのである。

 鉄幹の短歌には、国家主義に昂(たか)ぶらされた自我の観念性と、「詩」や「恋」や「もだえ」とが矛盾なく共に高揚することへのためらいの無さが露呈し、晶子においては封建道徳への反逆の砦としての官能を「やは肌」に象徴させて挑発的な、しかし観念的ではないためにむしろ鉄幹以上に男性的で堂々たる身体性の発露となっている。雪の中からの日の出の風景を、ひとつの大きな白蓮の花と喩える歌を詠むのも、晶子の身体にとっては無理のない自然な一呼吸、と感じられる。

 

 明治30年代前半の、良くも悪しくも若々しい身体の野太さは、〈藤村操世代〉が決して持ち得なかったものである。

 既に見てきたように(連載第3回「明治36年の〈風景〉」参照)、藤村操事件が起こった明治36年頃には、近代化の矛盾の進行が人々の生命力を支えていた風土性や世界観を衰弱させ、その無意識を荒廃と虚無が食い荒らし始めていた。

 与謝野晶子の「みだれ髪」(明治34年)を頂点とする「明星派」の時代は翳りを見せ始め、正岡子規の流れを汲む「アララギ派」が、台頭する自然主義文学とともに隆盛に向かう、その潮流の変化が兆し始める頃であった。

 一見、浪漫派からアララギ派の〈写生〉へと推移したかのようだが、〈写生〉の生命もまた、自然主義文学的な世界観全盛を背景として、内実の衰弱を余儀なくされてゆく。正岡子規の実現し得ていたコスミックな〈写生〉とは、本質的に異なる世界観によって隆盛をきわめてゆくアララギ派だった。その中核には斎藤茂吉がいた。

 

 茂吉は〈藤村操世代〉よりもやや早い明治15年生まれであるが、正岡子規(慶応三年[1867年]生まれ)に比べるならその表現には、伝統的な風土と世界観に言わば順接で育まれた健やかさではなく、虚無的な身体性に根差したフェティシズムを観念的な生命性として粘着的に歌い上げようとする病理が横溢する。

 

 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ね(たらちね)の母は死にたまふなり

 藻のなかに潜むゐもりの赤き腹はつか見そめてうつつともなし

 猫の舌のうすらに紅き手の触りのこの悲しさに目ざめけるかも

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

 紅茸(べにたけ)の雨にぬれゆくあはれさを人に知らえず見つつ来にけり

 蚕(こ)の室に放ちしほたるあかねさす昼なりければ首は赤しも

 ひかりつつ天を流るる星あれど悲しきかもよわれに向はず 

  以上7首、斎藤茂吉

 

 子規の短歌において、子規に向かって光っていた「星」と、茂吉が歌う「星」との落差は大きい。〈意味〉によって連続しない対象との距離を、茂吉はフェティッシュな粘度によってシンボリックに埋めようと試みる。玄鳥(つばくらめ)ののどの「赤」や、いもりの腹、猫の舌、腐れた赤茄子、紅茸、昼の蛍の首といった対象の「赤」が、『赤光』(大正2年刊)という歌集をどぎつく特徴づける。対象との間の不吉な断絶を、茂吉は断絶としてもちこたえることができない。羊水が胎児と母親とを隙間なく連続させているように、不吉な断絶を感じさせる対象との隙間を、茂吉は「赤」という色で羊水のように浸そうとしているかのようだ。結果として読み手には、茂吉の感じた断絶の不安と、それを慰撫しようとして対象を撫でまわすようなフェティシズムの病理的な粘度が鮮明に伝わる。玄鳥(つばくらめ)や蛍の即物的で生理的な描写がかき立てる不安と、「足乳ねの」「あかねさす」といった枕詞によって付与される古代的なイメージとが、無理やりすり合わせられながら、作者の感じた関係や意味にまつわる亀裂が観念的に上塗りされてゆくのを凝視させられるのである。

 

 冒頭に取り上げた折口の批評文「歌の円寂する時」において、折口が茂吉の短歌を「谷崎潤一郎の前型」と評しているのは実に適確で刺激的な指摘である。茂吉の内に、谷崎文学にも通底するフェティシズムおよびそれの裏返った観念的な生命性のいびつな匂いを、折口は感受したのだと読み取ることができるのだが、その折口の批評眼には瞠目すべきものがある。

 もっとも、谷崎文学が、〈藤村操世代〉らしいあくまで確信犯的な倒錯性の自己主張であったのに対して、茂吉には、己れの虚無感を無自覚に代償する欺瞞的な観念性が顕著ではある。

 

〈写生〉であれ〈浪漫〉であれ、短歌において主題を真に生命的なものとして歌い上げることが出来たのは、明治の実に限られた短い期間に過ぎなかった。

 自然主義文学の理念が輸入され、〈自然〉が科学的・客観的な観察の対象であるように、人間もまた客観的な観察によって、社会環境や遺伝に規定された対象として描かれるべきであり、そのことが社会の改革に通じる、との理念が明治30年代後半以降の文壇を席巻してゆくのだが、その〈科学性〉の名のもとに、コスミックで不可知な世界の振幅はすみやかに狭窄され、正岡子規が目指した〈写生〉の命も、封建性に反発し得る浪漫的自我の根拠も見喪われ、やせ細った身体性による〈近代的自我〉の模索は迷走する。自然主義文学そのものも、やがて反体制的な自負すら失って〈私小説〉へとなだれ込んでゆくのである。実は一度も反体制的であったことなどなかったのだと、日本における自然主義文学の本質に潜むニヒリズムを喝破したのは、石川啄木の「時代閉塞の現状」(明治43年発表)という鋭利な批評文であった。

 これらの潮流の推移の本質において生じていたのは、単に文学的な理念の盛衰にとどまらぬ、歌人や文学者たちの世界観の変容である。その変容は、文学者や知識人のみならず、大衆の無意識をも広範に浸潤していた荒廃と虚無に連なる変容であり、〈藤村操世代〉の成長過程に蒼ざめたタナトスを刻印した変容でもあった。

 

〈藤村操世代〉の歌人として、石川啄木、北原白秋らの表現には特に、短歌という形式との優れた格闘の成果がめざましいが、折口、すなわち釋迢空の短歌にも、この世代特有の表現意識が否応なく滲み出ている。

 彼らは、正岡子規や与謝野晶子らとは異なり、母親に愛されずに育った子どものように、どこかこの、ユング的に言うなら「グレートマザー」のような〈短歌〉という伝統的形式を信じ切ることができない。素直にこの形式に身をゆだねれば呑み込まれてしまうのではないかという怖れと、それに反抗して近代的な自我を主張するにはあまりにも〈伝統〉なるものから享受した身体性が乏しいことからくる、神経症的な不安。そういう不安そのものを〈近代〉の果実として〈短歌〉という器に盛るしかないという悪戦が、現在の私たちの不安と葛藤に連続感をもつ表現としてたち顕われてくるのである。

 それはちょうど折口が、柳田のようには〈連続〉の相をもってこの国の民俗の魂の原形質を表現できないのと同様に、〈短歌〉という型との〈断絶〉の認識を繰り込むことで、逆説的に短歌的抒情を可能ならしめるという、アクロバティックな表現を志向することとなる。

 つまり、〈短歌〉という型がグレートマザーであるなら、その「母」なるもののもつ〈光〉と〈闇〉の両義的な振幅に恵まれずに育ったがゆえの断絶と呪いをバネとして、「母恋い」を表現せざるを得ないのである。

 近代の芸術には、多かれ少なかれ、このような〈伝統〉との格闘・悪戦の種々相がまとわりついている。

 

 そのような逆説性が折口の短歌作品においてはどのような表れ方をしたか。

 歌人としての折口信夫すなわち釋迢空の短歌表現の核心は、〈短歌〉という形式に安んじて身をゆだねるなら露呈せずにはすまない、自らの生存感覚のかそけさ、すなわち根深いタナトスへの率直さであったと言うこともできるだろう。

 折口は、己れの不能性や虚無への率直な認識と、あえて言えば陰鬱な愛おしみの念をも持ち得ていたようにおもわれる。

 己れの身体を短歌という〈型〉にゆだねたとき、その不能性と虚無を糊塗することなど不可能なのであり、素直にそれが露呈するにまかせた。そのことで表現は、折口の身体を憑き代として古代的ななにものかがつぶやく呪言のような趣きを獲得する。

 そういう作歌態度が、折口ならではの〈近代性〉として表出したと見ることができよう。(この稿続く)

 

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第11回) 川喜田晶子

  • 2016.12.19 Monday
  • 15:53

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

 戦後の詩篇「贖罪」において折口が描いた「すさのを」も、戦前は異形の者としての罪業意識とそれがゆえの〈妣(はは)が国〉への憧憬との、双方を総身に満たした「素戔之嗚尊(すさのおのみこと)」として想い描かれていたこと、しかもその折口的な魂の偏りを、われわれの祖先とも明治・大正の大衆とも共有し得るという認識が、次のような一節からわかる。

 敗戦によって「虚無の塊り」としての「すさのを」を造形しなければならなくなるよりも前の、そもそもの折口らしい〈まれびと〉の原イメージといえよう。

 

「数年前、熊野に旅して、真昼の海に突き出た大王个(が)崎の尽端に立つた時、私はその波路の果に、わが魂のふるさとがあるのではなかろうか、といふ心地が募つて来て堪へられなかつた。これを、単なる詩人的の感傷と思はれたくはない。これはあたゐずむから来た、のすたるぢい(懐郷)であつたのだと信じてゐる。素戔之嗚尊(すさのおのみこと)が青山を枯山なすまで慕ひ嘆かれ、稲飯(イナヒノ)尊が波の穂を蹈(ふ)んで帰られたといふ妣が国は、皆われわれの祖先が経(へ)来(きた)つた故土であると共に、明治大正の御代のわれわれにも亦、脈搏の絶えない感情の的である。」(「異郷意識の進展」大正5年「アララギ」に初出 『折口信夫全集20』より引用 中央公論社 1996年)

 

「あたゐずむ」を、折口は「間歇遺伝」と訳している。つまり、われわれが祖先の「のすたるぢい(懐郷心)」を遺伝的に受け継いでいて、直接体験したことがなくとも、異郷としての〈妣が国〉を懐かしまずにはいられないのだ、という主旨である。

 ここでの素戔之嗚尊(すさのおのみこと)は、戦後の「贖罪」における「すさのを」とは異なり、〈妣が国〉への恋慕の情の激しさのあまり、青山を枯らすほど歎きの声をあげたのであり、「わが息に触りぬる者は―/青山は枯れて白みぬ」といった虚無の産声など発してはいなかったのである。

 

 折口にとって「素戔之嗚尊」は思い入れの強い神であったようだ。

「素戔之嗚尊」は、高天原で農作を妨害して地上に追放された神だが、その時の贖(あがな)いは不十分で、叢雲劒(むらくものつるぎ)を発見して天上に献上するまで完成しない。

 この「素戔之嗚尊」と地上の村人は、互いにその贖罪を負担し合っているという解釈が、折口には見受けられるのだ。

「素戔之嗚尊」が天上で犯した罪の贖罪を地上の村人が負担し、村人が過去に犯した罪・穢れを過去にひとりで背負ってくれたのが「素戔之嗚尊」である、とも認識されている。

 神道においても「贖罪観念」が存在したのだというのである。つまり、折口にとって、日本のイエス・キリストとして大衆の罪を贖ったのが「素戔之嗚尊」だということになる。

 

 ここにも、折口が自身の原罪の「贖罪」をその表現を通して行うことが、地上の、すなわち明治・大正の同時代人の魂とつながることになるとの認識が潜んでいたように感じられる。

 その〈まれびと〉観は一貫して己れの異形意識・罪業意識を源泉とするものだったと言えるだろう。しかし、戦前では、大衆の内にも潜む異形意識がシンボライズされたものとしての〈まれびと〉であり、その異形意識が憧憬させるものとしての〈妣(はは)が国〉であったのが、戦後には、徹底した不能性が主調音となって「贖罪」という詩篇が創作されている。普遍的なのは異形性というよりも不能性・虚無であり、神を、そして〈妣が国〉を見喪った国民の未来を、「すさのを」があらかじめ滅ぼしておこうとするかの如き不穏な様相を呈している。

 大衆の魂との一体化は、内なる異形性においてではなく、ともに不毛な〈青あざ〉を刻印された虚無の塊りとして、である。

 

『近代悲傷集』には、「贖罪」の後にも、「すさのを」にまつわる作品や「神 やぶれたまふ」といった、敗戦の傷の色濃く滲む作品が続く。

 

「神 やぶれたまふ」

 

 神こゝに 敗れたまひぬ―。

すさのをも おほくにぬしも

 青垣の内つ御庭(ミニワ)の

  宮出でゝ さすらひたまふ―

 

 くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて

 蛆 蠅(ハヘ)の、集(タカ)り、群起(ムラダ)つ

直土(ヒタツチ)に―人は臥(コ)い伏し

青人草 すべて色なし―

(中略)

神いくさ かく力なく

人いくさ 然も抗力(アヘ)なく

 過ぎにけるあとを 思へば

 やまとびと 神を失ふ―

(中略)

 まこと―我神を忘れつ―。

 国びとぞ 神を失ふ―。

然いたむ神の心を

いつの日か なごめまをさむ。

(後略)

 

反歌

 國びとの思ひし神は、大空を行く飛行機と おほく違はず

(『現代詩手帖 釋迢空詩集』より引用 思潮社1975年)

 

 國びとの〈信〉のありようの貧しさに対する痛恨のおもいが滲む。

 

 この国における柳田的〈日常〉は、敗戦によって壊れたわけではなく、明治、大正、昭和と、〈近代〉による価値の解体が進む内に着々と壊れていたのであり、その徹底的な壊滅によるストレスがファシズムの狂気と敗戦の悲惨を惹き起こしたのであったが、「國びと」の多くは蒙昧さが科学の光に負けたのだと誤読した。

 村の〈内〉なる〈日常〉が荒廃したとき、他界や異郷といった〈非日常〉のイメージもまた荒廃せざるを得ない。柳田的〈日常〉が壊滅すれば、それと対極にあったかに見えた折口的〈まれびと〉と〈妣が国〉のイメージも無傷ではいられない。両者を貫く〈不可知〉の存在への〈信〉が壊滅したのである。大衆にとって神は「大空を行く飛行機」のような存在へとなり下がっていたことを、敗戦によって痛感した折口の詩篇には、〈誤読〉への根底的な批判が潜む。

 科学の光に負けたのではない。〈不可知〉の領域への畏怖と信が壊滅し、科学によって空を行く飛行機くらいに〈不可知〉を狭窄したニヒリズムこそが、生活を荒廃させ、不信の裏返った退行的な幻想を昂進させ、狂的なファシズムを現前させたのだった。(この稿続く)

 

*参考文献

『折口信夫全集20』(中央公論社 1996年)

『現代詩手帖 釋迢空詩集』(思潮社 1975年)

 

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第10回) 川喜田晶子

  • 2016.11.29 Tuesday
  • 13:35

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

 折口の膨大な表現(民俗学・国学・国文学、そして短歌・詩歌)が、どれほどこの時の(藤村操自殺の報に触れた時に感じた)「黙会」の延長上において生産的な達成を示したか、あるいは示し得なかったか。

 折口の実存に関わるその核心だけをせんじつめるならば、その全ては、彼とこの国との壮大な〈欠落〉と〈異形意識〉の表現であったと言えるのではないか。その魂の〈欠落〉を埋めるための民族レベルでの子宮回帰イメージが、彼が創出した〈まれびと〉や〈常世(とこよ)〉〈妣(はは)が国〉といった概念であり、膨大な〈学〉の総体も、実は彼の文学的な表現であったろう。

 

 折口のこの表現に方向性を与えたのは、周知のように柳田國男である。

 民俗学の師である柳田への、折口の過剰な敬慕の念についてあからさまにする、印象的な詩篇がある。

 

『古代感愛集』(昭和22年刊)に、大正の初め頃になってようやく柳田の『遠野物語』を古本屋で入手出来たよろこびを歌い上げた詩「遠野物語」が収められている。(以下の引用は、『現代詩文庫 釋迢空詩集』より 思潮社 1975年)

 

(前略)

沙風のひと時たゆみ、

夕つけて 冱(サ)えつのり来る

軒の端の 一つの店の、

かんてらも いまだ照り出でず ふすぶれる

油煙の底の ほのかなる明りの照りに、

 我はもよ 見いでたりけり。

 これの世の珍宝(ウヅタカラ)

 我が為の道別(チワ)きのふみ―。

 

  握りもつ白銅ひとつ

 商(アキ)びとに価(アタヒ)とくれて、

 狂(クルホ)しき人 とか見らむあき人の 心も覚(シ)らず

  書(フミ)塚の中なる一つ

  桃花鳥色(ツキイロ)に匂へるものを、

   取り奪ひ逃ぐるが如く、

  町角に来たりし時に、

  がす灯のもとに佇み、とゞろける胸うち鎮め、

  とり出でゝ、ねもごろ 我が見つ―。

 

 清かりし表紙やつれて、書の背(セナ)まろくすれたり。

 然(シカ)はあれど、目にしむものは、

 うち開くぺいじの面(オモテ)

 つしやかにおしたる活字。

 その文字の落ち居のよさや―。

 文字と文字 さやかにかなひ、

  くだりくだり清く流れぬ。

 

 何処なる 誰とふ人の

 読みふるす書にかあらむ。

 持ち出でゝ、かく 売るべしや―。

 末ずゑは、ぺいじも截らず

  さながらにおきし幾枚(ヒラ)。

 指(オヨビ)もて我は截りつゝ、

 

  立ちながら読めり―幾枚。

 歓びは渦汐(ウヅシオ)なして うつそみの 心ゆすりぬ―。

 風の音の 遠野物語。

  (後略)

筆者注:「ぺいじを截(き)る」とは、当時の本がいわば袋とじのような状態で製本されることもあったために、読者がページを自分で切り開いて読み進めたことによる。ここは、柳田の『遠野物語』を最後まで読み通すことなく古本屋に売った者と、その古本を入手して末尾のページを自身で切った折口との対比を鮮やかにし、自分が、自分だけが、いかに柳田の魂と深い縁で結ばれているかを強調した一節と言える。

 

 まだ柳田に対面を果たしていなかった大正3年の、ひたすらその著述のみを通して師と仰ぎ、焦がれていた頃の折口の、「恋心」そのものの思いを後に歌い上げた一篇である。

 明治43年に『遠野物語』を出版し、日本の民俗学に先鞭をつけた柳田の仕事を、折口は追いかけるようにして同じ学へ足を踏み入れてゆくが、彼が、柳田の〈学〉と人柄の中に理想の〈父〉を見たことはまちがいない。繊細だが過剰ではないふくよかな感受性を内包しつつ志が端正な、いわば〈母性をはらんだ父性〉ともいうべきその〈学〉と人柄に、折口が最も飢え渇いていたもの、自身の成長過程の内に浴びることのできなかった〈母性〉と〈父性〉のあり得べき混淆を見出して、激しい敬慕の情を終生抱き続けたものとおもわれる。

 

 柳田の『遠野物語』(明治43年刊)は、「自然主義」の提示する人間観・世界観の狭小、卑俗、平板への憤りが執筆動機のひとつであり、その序には、「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と記されている。

 柳田の民俗学とは、明治・大正・昭和と時代が進むにつれて、その魂の空洞化に拍車をかける日本の大衆への危機感を原動力としたものであり、空洞化の原因が自然主義的な〈存在の蔑視〉の蔓延にあることへのいち早い洞察が、彼に『遠野物語』を書かしめたのだと言えよう。〈平地人〉とは、非農耕民に対する農耕民、というよりも、自然主義的世界観により因果律的・散文的〈地上〉に魂を緊縛されつつあった民、として感受すべき言葉とおもわれる。

 

 そのテーマ性は、あやまたず折口の魂の琴線に触れたのであろうが、二人の関係には、両者の魂のめくるめくような異質さゆえに、興味深い齟齬もはらまれていたようにおもう。

 温和で端正な、他者との自然な距離感を保持できる柳田に、己れに無い資質を感受して理想的に仰ぎ見る折口でもあったろうが、同時に柳田の〈学〉を、柳田自身が思いもかけないくらい折口的な色彩に染め上げて把握していたところもあったろう。柳田のことを自分ほどわかっている者は他にいない、という自負を抱いていた折口のその「わかり方」には、己れとの異質性と同質性を折口的に染め分ける手続きによって穿たれた、柳田には想定外の柳田像の本質把握、といった一面がつきまとっていたようにおもわれる。

 

 たとえば柳田の『遠野物語』の次のようなエピソードから、折口が己れの〈生き難さ〉と共振する民衆のひっそりとしたそれでいて濃密な〈生き難さ〉とその表現を、柳田が叙述する文体の行間から柳田が意識するよりもはるかに過剰に汲み上げ、人の〈原罪〉あるいは〈贖罪〉、〈異形意識〉といった色彩で感受したであろうことが推察される。

 

「遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里(しちしちじゅうり)とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を聚(あつ)め、その市(いち)の日は馬千匹、人千人の賑わしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯(はやちね)という、北の方附馬牛(つくもうし)の奥にあり。東の方には六角牛(ろっこうし)山立てり。石神という山は附馬牛と達曾部(たつそべ)との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内(らいない)村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華(れいか)降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃(ひそか)にこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬みを畏れて今もこの山には遊ばずといえり。」

「黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。」

「今の土淵村には大同(だいどう)という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞(おおほら)万之丞(まんのじょう)という。この人の義母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧をもって後(うしろ)より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。」

「土淵村の助役北川清という人の家は字火石(ひいし)にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪(なみ)の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正(まさ)しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々(はるばる)と船越村の方へ行く崎の洞(ほこら)あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互に深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中(みちなか)に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩(わずら)いたりといえり。」(『遠野物語・山の人生』より引用 岩波文庫 1976年)

 

 折口が幼少期より〈幻の母〉のイメージを紡ぎ出さずにはいられなかったように、『遠野物語』の村人たちは、異界とのスリリングな交渉を、山男・山女、河童、狼、狐、天狗、死者、そして多彩な神々と執り行っていた。現世の禍福と異界の存在とが互いに妖しくあざない合うさまに、そしてそれを叙述する柳田の筆致に、折口の胸はほとんど少女のようにときめいたのであったろう。

 

「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」と柳田が記すように、聞き書きの体裁がこの『遠野物語』の土俗の重いリアリティーを醸し出し、柳田の解釈の挿入などが乏しいゆえに、読み手次第でいかようにも土俗の闇が濃密に顕ち上がってくる。

 

『山の人生』(大正15年刊)の冒頭にも、秋の末の夕暮れに、生活苦の内に子どもを二人まで鉞(まさかり)で斬り殺した炭焼きの男のエピソードが叙されているが、柳田がこのような土俗の闇を描き出すとき、そこに己れの文学的な偏りを投影したり、彼らの内面を解釈したりはしないのだが、その淡々とした叙述は、この炭焼きの男の人生をただ「悲惨」としか見る事ができない我々の世界観を貧しいものとして相対化するような、異質な世界観の重力を伝えてくる。あらゆるものを意味あらしめていた〈力〉というものが、悲惨と見える人生をも偉大にしていたその気配が、叙事・叙景の内に自然に寄り添っているのである。

 

 このような〈重力〉の内に、折口が己れの文学的な偏りを投影していったであろうことは想像に難くない。

 

 だが、『山の人生』でもたとえば、自身も神隠しにあいやすい子どもであったと回想しつつ、柳田が次のように述べる箇所などでは、柳田的な意味での科学的・実証的作法で民俗の〈元の姿〉を手繰り寄せる手つきが垣間見える。

 

「昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ともに、これを託宣と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童(よりわらわ)というものがすなわちこれである。一通りの方法で所要の状態に陥らない場合には、一人を取囲んで多勢で唱え言をしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。警察などがやかましくなってのちは、力(つと)めて内々にその方法を講じたようだが、以前はずいぶん頻繁にかつ公然と行われたものとみえて、今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中の中の小坊主」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正しくその名残である。」

「「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、なんどとなくこれを人に語り、かつ聴く者が毎(つね)に少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。」(『遠野物語・山の人生』より引用 岩波文庫 1976年)

 

 このような叙述では、柳田と、村および村人とのある種の淡白な距離感が伝わる。村人個々の〈生き難さ〉というよりは、個々の〈生き難さ〉を抱え持つ村という〈日常〉の場がどのように村という場に足を着けながら〈非日常〉を渇望したかを叙すのだ、といった距離感を感じさせ、その変遷の不可避な方向性を呪わず、よろこび迎えることもせず、ある楽観的な〈信〉によって描き出そうとするかのような端正な文体である。

 対して折口は、村という〈日常〉に安住しきれない個々人の〈生き難さ〉〈偏り〉の場所への感情移入が激しく、〈非日常〉の方がむしろふるさとであると感じずにはいられない魂を自身に重ね合わせたし、村に訪れる〈非日常〉の化身としての神の姿を追い求めた。変遷のプロセスよりも古代へ直帰しようという渇望も強かったろう。それだけに、柳田の描く村のように〈日常〉が〈非日常〉を必要としてくれる、そのことで〈日常〉を安定させるシステムというものに、癒されもしたはずだ。

 この癒しのシステムに己れとの異質性を、そこからはぐれてゆく魂に同質性を見出すことが、折口にとって柳田およびこの国の民俗への盲信的な愛をそそったとも言えよう。

 

 ちょうど折口より一回り年長の柳田(1875年[明治8年]〜1962年[昭和37年])は、折口ら〈藤村操世代〉のような不安定な資質を持たなかった。繊細ではあっても過剰ではなく、己れの異形意識に悩まされることもない、その温和な〈学〉と人柄の心ばえにこそ、折口は惚れ込んだのであろうが、柳田は、折口の過剰さや性癖の病的さ(同性愛・コカイン中毒・不潔恐怖症)に辟易していた節が見受けられるし、民俗観においても、折口民俗学の核心であるところの〈まれびと〉概念を認めることが出来なかった。

 いずれ劣らぬ直観力に秀でた二人ではあっても、柳田はあくまで科学的・実証的であろうとしたが、折口は文学的な表現意欲に根差したヴィジョンを産むことに偏っていたろう。そのようなヴィジョンを産まずにはいられない動機というものが、柳田には理解できなかったのだと思われる。

 

 柳田民俗学において重要な、日本人の霊魂観の特質として、「死んでも遠くへ行かない」「顕幽二界の交通が容易である」「いまわの時の念願は達成される」「生まれ代わりによって霊魂の現世復帰が可能である」といった点が挙げられる。いわゆる祖霊信仰の主要なポイントである。日本の村人は、自分達の祖先は、死んでも身近な山の高みからいつも故郷を見下ろしており、容易にこちら側と往来もし、霊魂は生まれ代わりながら念願を達成したりもすると考え、それらの霊魂が浄化されて鎮め祭られたものが産土の神、氏神と言われるもので、日本人の信仰の中心になっていったのだという、実に現世と他界との〈連続〉の相貌があたたかく幸福な、柳田民俗学の核心である。

 

 それに対して折口の説く〈まれびと〉とは、村の外から「来臨」する神であった。

 

「てつとりばやく、私の考へるまれびとの原(もと)の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味して居た。」(「国文学の発生」『古代研究掘醜駟験悗糧生』中央公論新社 2003年 下線は原文では傍線)

 

 この〈まれびと〉は海のかなたの異郷「妣(はは)が国」「常世(とこよ)」から時たま「来臨」し、村の生活を賦活する「呪言」をもたらす。その聖なる呪言に折口は文学の発生を見たのである。

 この〈まれびと〉も〈常世〉も、村人からは聖なるものとしてあがめられはしたが、未知の恐怖の対象ともされた。自分たちの祖先としての延長感を持ち得ぬ異質さを身にまとっているからだ。

 さらに、折口には、肉体が魂の容れ物である、との認識も顕著であり、「霊魂は無限に人に這入る」「歌が非常な威力を持って魂を人の体に運び込む」とも考えた。

 現世と他界、肉体と魂が分極しているという世界観を根底に据え、またそこにこそ〈文学〉発生の根拠もあったと考えていることがわかる。

 

 そこには柳田とは対極の〈断絶〉の相貌が明らかである。

 神のふるさとははるか彼方にあり、その「妣が国」への激しい憧憬が脈打っている。

 幼き頃より希求した〈幻の母〉のイメージが、ヴァーチャルな飛翔力でどこまでも羽ばたいてゆくかのようだ。(この稿続く)

 

*参考文献

『現代詩文庫 釋迢空詩集』(思潮社 1975年)

『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社 1985年)

折口信夫『古代研究掘醜駟験悗糧生』(中央公論新社 2003年)

柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波書店 1976年)

宮田登『白のフォークロア―原初的思考―』(平凡社ライブラリー65 1994年)


 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第9回) 川喜田晶子

  • 2016.10.18 Tuesday
  • 13:13

折口信夫の〈青あざ〉

 

 折口は、自身の父について生涯ほとんど語らなかったという。

 ただ、折口十五歳の折(明治35年5月)に、父・秀太郎が急死し、その年の暮れから翌春にかけて、二度ほど自殺をはかったという事実は、不明な十五年間の父子関係の核心に触れるものであり、その核心が、まさにこの「贖罪」という詩において「すさのを」が「父」から刻印された〈不毛〉という〈青あざ〉であったことを推測させる。

 父の死によって数回の自殺未遂に至る精神の不安定さは、憎悪という形で父に魂を拘束されつつ、父の存在を根拠としてしか自我形成できなかった折口の十五年間を意味している。

 

「父の片生(かたな)り」「純男(もはらおとこ)」として生まれたにもかかわらず、その面目を潰す不具者としての自己イメージは、「父のような男であれ」と圧倒的な男性原理を強制され、繊弱な女性的資質を否定され続けて育ち、強固な原罪意識を刻印されて過ごした十五年間であったことを物語っているだろう。

「父のような男」になれぬ自分を精神的に虐げ続けたあげくに迎えた思春期における父の死。それがいかほどの精神の不安定をもたらすかは想像に難くない。

 父の死に際し、自分より数年遅れて生まれた双子の弟たちが、同居していた母の妹に父が産ませたのだったと周囲に知らされたらしいというエピソードに、自殺未遂の原因を帰着させるのは空しい。

 仮にそのような事実があったとしても、父母のあいだにあたたかな血の通った生活の内実があり、親子のあいだにもそれに由来する情愛が流れていれば、少年にさほどの精神的危機は訪れなかったであろう。

 また詩の中の「母なしに」という言葉は、父性原理によって一掃されて、少年の存在の根拠となり得る生命的な女性性が家族の内に見出せなかったことを感じさせる。それゆえに、そのような女性性に賦活されて真に男性的であることもまた困難であったと想像される。そこに少年の徹底的な自立の不全があり、折口が生涯にわたって神経症的な不潔恐怖や薬物や同性愛に依存しなければならない理由もあったろう。

 

 大正12年に発表された「幼き春」という詩からも、浴びるべき情愛の乏しかったことへのこだわりがうかがえる。

 

幼き春

 

わが父にわれは厭はえ、

我が母は我を愛(メグ)まず。

 兄 姉と 心を別きて

 いとけなき我を 育(オフ)しぬ

 

童にて 我は知りたり―。

 まづしかる 家の子すらや、

よき親を持ちて ほがらに

うれしけき日毎遊びに、

うちあぐる声の たのしさ。

 

陰深き家の 軒べに

 其を見ると 彳(タタズ)み居れば、

おのづから 爪咋(ク)はれつゝ。

 

よき衣(キヌ)を 我は常に著

 赤き帯 高く結びて、

をみな子の如く装ひ ある我を

 子らは嫌ひて、

年おなじ同年輩(ヨチコ)の輩(ドチ)も

爪弾(ツマハジ)きしつゝ より来ず。

 

たゞ一木 辛夷(コブシ) 花咲き

 春の日の ほろゝに寒き

 家裏の蔵庭に居て、

つれづれと、心疲れに

 泣きなむと わがする時―

 

隣り家と 境(サカ)ふ裏戸の

 木戸の外(ト)に人は立たして、

白き手を 婉(タヨ)にふらせり。

 

 我が姉の年より 長(タ)けて、

 わが姉と 似てだに見えず―

うるはしき人の立たして、

我を見て ほのぼの笑める―。

 

 しばしばも わが見しことを―

今にして 思ひし見れば、

 夢の如 その俤(オモ)薄れ

  はかなくも なりまさるなり。

 

もの心つけるはじめに

現(マサ)しくも 見にける人―

 年高くなりぬる今し、

思へども、思ひ見がたく いよゝなり行く

 

  反歌

春早き辛夷の愁ひ咲きみちて、たゞに ひと木は すべなきものを

(『古代感愛集』所収、『現代詩文庫 釋迢空詩集』思潮社 1975年より引用)

 

 父母の情愛の薄い冷え冷えとした空気に身体を浸され、同年代の子らになじまぬ女の子のような己れの資質をもてあまし、年かさの女性に〈幻の母〉のイメージを重ねる、退嬰的な情緒が漂う。生身の家族の情愛への早々とした諦念が、彼岸的な幻を紡ぐ資質を形成していった己れの軌跡に対して、折口は自覚的であった。

 

 大阪で代々薬などを商う家の長女を母とし、婿養子の秀太郎を父として生まれたのが折口であったが、秀太郎が家族に振りまいていた〈父性〉の圧迫感は、家族全体を覆い尽くし、少年の存在を根底で支え育むべき母性も、折口の内なる女性性も、ともに息苦しく冷却していたようだ。

 

「一年の内に、一二度は、父がまる一日家をあけることがある。(中略)

 あしたは、河内へ帰つて来る。

だしぬけに言ひ出すのである。さう言ふ気まぐれな郷帰りを迎へる河内の伯父伯母らは迷惑だが、母以下の家族は、奉公人に到るまで、蘇つたやうになるのである。「あした、お出やしたあとに、何しよう。留守ごとに何して暮さう」。かう言ふ語にせぬ、愉しい意思が、皆の心のおもてに涼しい微風のやうに動くのであつた。其ほど、私どもの父は気むつかしい人であつた。(中略)主人とさへ言へば、けむたい気のするものになつてゐた。その主人が、一日二日、たとひ半日でも家をあけてくれると言ふことは、ほんたうに安息日の来た思ひがするのであつた。さう言う潜(ひそ)かに楽しむ行事を、留守ごとヽ言つて、その語を言ふだけでも、心が明るくなり亘る気がしたのである。まして、起きるから寝るまで、たゞの女・子どもには、測ることの出来ぬやうな顔をしてゐる主人の家などでは、留守ごとを思ふ心のときめきはすばらしいものだつたに違ひない。私どもの家は、留守ごとの心躍りを、最微妙に感受した女たちの家なのであつた。」(「留守ごと」昭和24年「暮しの手帖」に初出。『折口信夫全集33』より引用。中央公論社 1998年 斜体字は原文では傍点。)

 

 琴や三味線や舞といった芸事のおさらい、秘密のご馳走などが繰り出される「留守ごと」の愉しみが活写された一文である。日々この〈家〉を満たしていた〈父性〉の脅威の感触、女・子どもの日常・非日常のささやかな心のひだに徹底して寄り添わぬ男の威圧感がネガのように浮かび上がる。

 そして、稀に、ひそやかに、女たちと共有するこのような愉しみの時間があったことは、かろうじて折口の資質を壊滅的な荒廃から救ったのかもしれない。

 

〈近代〉による価値の解体が進行する明治後半期において、旧い〈家〉を維持するための因習的な父性原理の主張だけがこのように女性あるいは女性的なものを貶め、侮辱していたとは言えない。

 近代的な合理的精神でもって一家の繁栄を目論む俗物が、当時〈女性〉というものにどれほど下劣なものさしを当てて嫁とりの算段をしたかを描いた小説に、泉鏡花(1873年[明治6年]〜1939年[昭和14年])の『婦(おんな)系図』(明治40年)がある。

 主人公の青年が、心の宝とも思う幼なじみの女性を俗物どもの魔手から守るため、身を捨てて俗物一家を殲滅するこの物語は、計算高く虚栄に満ちた「血の通わぬ」人と人との交わりの充満するこの俗世を根底からひっくり返さんとする鏡花魂が、エンターテインメント性とともに横溢して読みごたえがある。鏡花がよく見据えたように、当時の〈悪〉のかたちは、前近代的な人間関係のありようが近代の合理的・科学的・即物的なまなざしに侵蝕され、両者がいびつに混淆した底浅い荒廃の姿にもっともあからさまに表れていたろう。

 表層的な旧さ・新しさにかかわらず、当時の家族をめぐる〈関係〉の本質に、うすら寒い荒廃が忍び寄っていたのである。

 

 折口がその〈家〉の中で浴びて育った空気もまた、大家族的でありながら本質的なところで心の通わぬ、人の〈血〉を冷えびえと浸すものであったろう。父母との関係の〈冷え〉は、幼き者にこの世界との関係の〈冷え〉を宿命づけてしまう。この世界から受け容れられていないという想いは、根深いタナトスを育み、繰り返し〈死〉に誘われてしまうこととなる。

 

 父の死に触発された数度の自殺未遂の後、明治36年5月、「ある黙会を感じた」と後に折口が記すことになる事件が起こった。

 折口ばかりではない。当時の青少年たちに多大な影響を及ぼしたのは、やはりその時十六歳だった一高生、藤村操の自殺である。

 折口は、これ以後、自死を思いとどまっている。そこで決定的なまなざしの変容が生じたと考えてよいだろう。

 

「機縁の熟せなかつた為に、偶然に死の面前から踵(きびす)を旋(かへ)したことが、二十八年の生を続けて来る間に、尠(すくな)くとも四回はあつた。一度は木の上から堕ちて、切り株で睾丸を裂いた。幸に一箇月ばかり、小学校を休んで、静養した位のことで、癒著してしまつた。唯すこし性欲に異状のあることを感ずるだけが予後として残つた。一回は、殆ど無意識に、他の二回は明らかな用意の下に、自ら生を断たうとした。前の一回は、崖が二間足らずにして柔らかな草原になつてゐたといふ不随意の障礙が、不随意の死から救ひあげてくれた。後の二回も、今から十年以前前に、年を踰(こ)えないで連続して起つたのであつた。而も竟に死といふものを摑むことが出来なかつた。

それは十六の年の冬から、翌年の春にかけての出来事である。今も其時の事を思ふと、山蔭にわづかばかり残つた雪の色が、胸に沁む。さういふ谷あひの道をば、歯をがちがちさせながら、一心に登つて行つた若い姿を、まざまざと目に浮べることが出来る。暮の二十六日頃と、三月のはじめのことであつた。薄日の影のおとろへた麓の村の、むつまじげな家々の人声を聞きながら、頂(ウナ)垂れて二里にあまる停車場への道を急いだ後数月、突如として藤村操の死の報知を聞いて、ある黙会を感じた。

凡下の人の無分別な死の企、他人には何の同感もあるまじきことである。けれども愛する子らの為に、今すこし書く。

伝習を重んずる旧い家で、愛情に淡泊な父母の間に育つて来た自分は、気狂ひの様にはしやぐことがあるかと思ふと、友だちが運動場で騒ぐ声を遠く聞きながら、合歓(ねむ)の木やあかしやの梢をぢつと仰いでゐる、といつた陰鬱な反面を持つてゐた。日清戦争は死のたやすいことを、事実に示して経過した。修身書も、文学書も、累代の宗旨も、皆生を重いものとは教へなかつた。生の重大なことは、知識として授けられても、情調は死を肯定し懐かしんだ。寂光土を思ふ心が、七百年の歴史を持つて、民衆心理を支配してゐる国でもある。学校や社会の訓ふる所は、生に執着してはならないといふことを、国民的生活の第一心情としてゐた。けれども単純な判断も、死に結着するまでには、随分の動乱を経たのであつた。口さがない人々は、変事のある毎に、洞察者のやうな口吻で、その家の暗面を喋々した。旧家といふ誇りを有してゐる家から、一人の自殺者を出すといふことは、世間の目には重大な過程を思はせる事件として、映ずるに相違はないのである。」(「零時日記」(機法‖臉3年「中外日報」に初出、『折口信夫全集33』より引用 中央公論社 1998年)

 

 折口の場合、藤村操の「後追い」ではなく「生きること」へと向かう結果となった。操の死に対する賛否をはらんだ反響の浅はかさが、折口の死への欲をそいだことがうかがえる。

 後に昭和2年7月、芥川龍之介の自殺に対しても、「かうした覚悟の内の人知れぬ生活は淡く、明るく冴えざえとしたものであつたであらう」と述べ、翌月、古泉千樫の死に接して芥川について言及し、「あんなに死にたいならば、あんなに死に栄えのする道を選ばなかつたらよかつたと思ひます。世の中には死にたくつても、それを以つて死んだ、と思はれることの堪へがたさに生きてゐるものが、沢山あるのです」(「日光」掲載の北原白秋との対談より。『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』所収 新潮社 1985年刊)と語っている。

 

 芥川や藤村操の心の内に寄り添うことのできる折口ではあるが、彼らの死が世人によってその理由をとやかく取り沙汰され、「かくかくしかじかの理由で死んだのだ」と安直にレッテルを貼られることへのつくづくげんなりした思いをもつ折口でもあった。そのように理由を詮索され、薄っぺらに決めつけられるくらいなら、息をひそめるように生きていよう、自分の生と死の意味が世間に回収されることだけはまっぴらである、と、操事件によって腹の底から思わせられたのであったろう。

 

 先に取り上げた魚住影雄(連載第7回の稿参照)は、藤村操の〈死〉に匹敵する至純の〈生〉を生きるべく、火柱のような個人主義の主張を立ち上げようとしたが、折口の場合は、消極的な〈生〉の選択、やむを得ぬ〈死〉の放棄とも言えよう。口さがないことを言われるくらいなら生きるしかない。〈死〉に懐かしさをおぼえる性分を持ちこたえながら、覚悟を据えて生きていく、その覚悟を、明治36年に折口が択びとったことを想像させるのである。

 

 藤村操の〈後追い〉の多くが、それまでは潜在していたタナトスに火が点いた、という面持ちであったのに対して、それまでも自覚的であったタナトスをなだめつつ生きのびることへと舵を切ったのが折口の場合であったと言うことが出来ようか。

 

 消極的な〈生〉の選択、とはいえ、すさんで歪んだ父性原理によって刻印された原罪意識からくる世界風景の冷えびえとした不条理の感触を、なんらかの形で超えてゆこうとするのでなければ、その選択を貫徹することは難しい。

 根深いタナトスを抱え持つ者が、はたしてどのように超えてゆけばよいのか、という問いを、感覚的にではあったろうが握り締めながら、しかも自身の生の意味を社会に回収されぬ道を模索せねばならない。

 折口が藤村操の死に接して感じた「黙会」の内実は、彼の無意識をも掘り起こすならばこのようなものであったはずだ。

 

 この「黙会」は、〈操事件〉に対する派手な反響のあれこれと比較するなら、一見地味で孤独な変容であった。「操の気持ちがわかる」「わからない」にはさほど力点が置かれていない。むしろ、無駄な詮索・共感を自他に戒めるような冷淡ささえ感じる。汚濁か清純か、にもいささか無頓着である。

 しかし、折口の抱え持っていたものと同質のタナトスの遍在を、この時、彼は確信したのではなかったか、とも思う。

 操の死を契機とする冷えびえとした〈不可解〉と生き難さのすばやい伝播は、すなわち、「お前は生まれて来るべきではなかった」というサインを、父母や大人という象徴を通して世界から不断に受け取っていた若者たち、及びその生き難さは決して他者には伝わらぬという孤独の想いをもつ若者たちが遍在したことを示す。

 その〈遍在〉への確信は、その後の折口の表現にも影響を及ぼしているように感じられる。抽象度の高い次元でなら、〈他者〉の内にも自分と同じ生き難さは存在する。〈世界〉や〈他者〉から拒まれていると感じる者が、そのような次元に向けて表現することこそが文学の営みの本質であると、この頃の折口は触知したのではなかったか。(この稿続く)

 

*参考文献

『現代詩文庫 釋迢空詩集』(思潮社 1975年)

『折口信夫全集33』(中央公論社 1998年)

『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社 1985年)

 

 

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第8回) 川喜田晶子

  • 2016.09.25 Sunday
  • 15:54

 

折口信夫の〈青あざ〉

 

 折口信夫(1887年[明治20年]〜1953年[昭和28年])晩年の歌に、

 

  眉間(マナカヒ)の青あざひとつ 消すゝべも知らで過ぎにし わが世と言はむ

 

という一首がある。

 折口には右の眉根から鼻梁にかけて青あざがあったことに因む一首だが、もちろん「青あざ」はメタファーとして解き放たれており、同じ型のあざを魂に刻印されながら、〈負の物語〉を背負ってかろうじて生き、あるいは倒れた、明治から昭和の人々のすがたが、折口の一身における不能性の悲劇と「わが世」ということばにおいてリンクされている。

 日本の近代を通じて、人々のやわらかな魂にこのような消し難い〈青あざ〉を刻印したものとは何だったろう。

 己れの存在を決定的にネガティヴなものとしてイメージせざるを得ない蒼ざめた物語へと彼らを追い込んでゆく、そのまがまがしい暗雲の正体を、端的に激烈に表現した折口の詩に、「贖罪」という一篇がある。(昭和22年「八雲」に初出、同年刊行の『近代悲傷集』に収められた。)

 

 自身を「すさのを」になぞらえつつ、その出生の由来を「母なしに」産まれた「父の子の片なり」であると解き明かし、それゆえの孤独と世界風景の歪みと、己れの後にも続く荒涼とした世界の穢れへの憤りを沸き立たせる一篇の激しさには、まぎれもなく〈藤村操世代〉ならではの資質が匂い立つ。

 養子・春洋の戦死という不条理を折口にもたらした第二次大戦を経て、戦後の廃墟風景に向き合ったときに、民俗学者・国学者として大衆の魂の深奥への肉薄を追求してきた折口の描出したこの「すさのを」の姿は、明治以来のこの国と己れとのダブルイメージで把握された壮大な〈欠落〉の告発とも言えよう。(以下の引用は、『現代詩文庫 釋迢空詩集』による。思潮社 1975年刊。旧漢字は適宜新漢字に改めた。)

 

「贖罪」

    序 歌

 すさのを我 こゝに生れて

 はじめて 人とうまれて―

 ひとり子と 生(オ)ひ成(ナ)りにけり。

  ちゝのみの 父のひとり子―

   ひとりのみあるが、すべなさ

 

 天地は いまだ物なし―

 山川も たゞに黙(モダ)して

  草も木も 鳥けだものも

  生ひ出でぬはじめの時に、

   人とあることの 苦しさ―。

 

 生まれて間もない乳児の目に、世界のあたたかさやにぎわいを刻印するために必要な〈母〉との身体的な交感、無条件の愛情に包まれているという絶対的な安心感。それらの乏しさを、折口は自身の乳胎児期の記憶に嗅ぎとっていたのだろう。その母性欠落感は、「母無しで父が産み出した」という極端なイメージで吐出され、徹底した〈父〉への憎悪が昂進してゆく。

 

 すさのをに 父はいませど、

 母なしにあるが すべなき―。

 母なしに 我(ワ)を産(ナ)し出でし

  わが父ぞ、 慨(ウレタ)かりける。

  いと憎き 父の老男(ヒコヂ)よ。

 

 母産(ナ)さば、 斯く産すべしや―

  胎(ハラ)なしに 生ひ出でし我

  胞(エ)なしに やどりし我

 天地(アメツチ)の私生(ワタクシバラ)と

 胎(ハラ)裂かで 現(ア)れ出でしはや

 

 父の子の 片生(カタナ)り 我は、

 不具(カタハ)なる命を享(ウ)けて、

  我(ワ)が見る 世のことごと

  天の下 四方(ヨモ)の物ども

   まがりつゝ 傾き立てり。

 

 男なる父の 沁(ヒ)物凝りて

 成り出でし 純男(モハラヲトコ)と

  あゝ満(タ)れる面わもなしや―

  わが脚は 真直に蹈まず、

  舟舵如(フナカヂト) 横に折れたり―

 

 

「すさのを」に父はあるが、母はいない。母なしに我を産み出した父の憎さ。

 母が産んだならば、こうは産まれようはずもない。母の子宮にやどっていた記憶などない。母の胎を裂いてではなく、いわば天地の私生児として生まれてしまったとは。

 父の子の「片生り」であり、不具である自分の眼には、世界がまがり傾いて見える。

 男そのものである父の分泌物が凝縮して出来た「純男(モハラヲトコ)」なのだから、どんな満足な容姿であるかとおもえば、脚は真直ぐに大地を踏みしめることも出来ず、舟舵のようにひん曲がっている。

 

「純男(モハラヲトコ)」であることを父から期待・強制されながら、まったくそれに応えられない自分。「母なしに」我を作り出したからこそこのように不具であるのに、「純男」の面目をつぶすその不出来さを憎む〈父〉。

 脚の不具の様を「舟舵」に喩えるのは、不具なればこそそのことが、〈父〉とは別の世界への航海の〈舵〉となるのだという自負をも込めたろうか。

 母なしであることの代償に、不毛ではあるがこの天地を母として産まれたのだという想いを握りしめるのもまた、痛ましい逆立したプライドだ。

 

〈父〉への恨みと「自虐」と見える叙述は、次第に透徹した凶暴さとも言うべき確信的な憤りへと高揚してゆく。

 

 父の身に居ること 百世(モモヨ)―。

  生れいでゝ、白髪生ひたり。

  白髪なす髯も 垂れたり。

  劔刃(バ)と 歯は生ひ竝び、

   深々し 頰のうへの皺。

 

 わがあぐる産声(ウブゴヱ)を聞け。

  老い涸れて 四方にとゞろく―。

 わが息に触りぬるものは―

  青山は枯れて 白(シラ)みぬ。

  大海はあせて 波なし。

 

 我が力 物をほろぼす―

 憤恚(イキドホロ)し 我が活(イ)き力(ヂカラ)

  わが父や 我を遁(ノガ)ろへ、

  我や わが父に憎まえ

   追放(ヤラ)はれぬ。海(ワタ)のたゞ中

 

 不具なばかりではない。父の身の内に百世も居たあげくに産まれた我は、生まれながらに白髪・白髯。劔のように歯も生え並んで顔には深い皺。その老いしわがれた産声は四方にとどろき、その息にうっかり触れてしまったものは、青山もみな枯れ、大海もいのちを失って動かぬ。

 我の活きてはたらく力といえば、ものみなほろぼし尽くす力のみ。父に憎まれて海の只中へと追放されるだけの存在。

 だがこの世に〈父〉のようなものが生きうごめくならば、ものみなすべてわが産声を聞くがいい。

 

 透徹した自虐の逆転した凶暴な自負が通奏している。

 成長過程の不全は、すなわち乳幼児から一足飛びの老いへの直結という〈青枯れ〉をもたらすことを、またその異形性を代償として得た力とは、あらゆるものをほろぼす不吉な力のみであることを、折口は己れの一身への冷徹な凝視と内省によって確信している。

 

 わたつみの最中(モナカ)に立ちて

  我は見ぬ。わが周囲(モトホリ)を―

  我は見ぬ。露膚(アカハダ)われを―

  我は見ぬ。わが現し身を―

   吠えおらぶ我が 足掻きを―

 

 更に見ぬ。わが生みの子の

  八千つゞき 八よろづ続き

  穢れゆく血しほの 沈澱(ヲドミ)―。

  あはれ其(ソ)を あはれ其奴(ソヤツ)らを

  豫(アラカジ)め 亡しおかむ―。

  物皆を 滅亡(ツクシ)の力 我に出で来よ

 

「我」は大海の最中(モナカ)に立って、周囲の世界を、世界に痛々しくさらされた露わな自身の膚を、この貧しい現世の肉体の限界性を、吠え叫ぶ自身のむなしい足掻きを、まざまざと直視している。

 更に、自分の生み出す子孫が延々と世代を重ねて、いよいよ穢れてゆく血のよどみまでも見えてしまうのだ。

 そのようなものを、あらかじめほろぼしておかねばならない。

 それだけが我に可能な「贖罪」であろうから・・・。

 自分に与えられた唯一の力、ものみなをほろぼす力よ、出で来よ。

 

 自身の存在理由が〈ものみなをほろぼすこと〉にあり、世界への〈信〉など抱きようもなく、不吉な己が力への〈信〉のみで成り立つ、折口の荒涼とした世界風景の不毛があますところなく表現されている。(この稿続く)

 

*参考文献

『現代詩文庫 釋迢空詩集』(思潮社 1975年)

『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社 1985年)

 

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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第7回) 川喜田晶子

  • 2016.08.27 Saturday
  • 10:49

魚住影雄の場合

 

 やはり藤村操の死に激しい衝撃を受け、かろうじて生を択びとった魚住影雄について触れておきたい。

 

 操と京北中学時代の同級生であった魚住影雄(1883年[明治16年]〜1910年[明治43年])。

 中学入学後間もなくクリスチャンになった彼は、操同様、激しい〈煩悶〉を体験しながらも、〈信仰〉によってかろうじて生きながらえるのだが、病を得て若くして死ぬ。明治43年12月のことだ。享年27歳11ヶ月。

 一高の寮制度の改革を図ろうするなど、個人主義を高唱する革命児として影響力の強い学生だった。批評家・魚住折蘆(せつろ)としての活動が、石川啄木の評論「時代閉塞の現状」(明治43年)にとりあげられて名を知られるくらいだが、藤村操事件をめぐる言動においてその表現を見直すなら、当時の操事件に対する反響の浮薄さへの鋭い洞察力は群を抜いていたと言えよう。

 

 影雄の「二十年のおもひで」には、操が自殺する前年の明治35年当時の苦悩が綴られている。(「二十年のおもひで」は、元来、友人に示された書簡の一種であるが、『折蘆書簡集』[岩波書店 1977年]に「自伝」として収録されたものより、以下、引用した。旧漢字は適宜新漢字に改めた。)

 

「懐疑の苦痛は十、十一両月が其頂上であつた。僕は毎日祈りをした、然し天に声はなかつた。僕は落伍した敗兵が荒野の中に渇を覚えて水を求むるが如きさまで水を求めんとして声を放つたが、咽喉がいたくて声は出ず、出ても何の反響もなく、世界は死の沈黙を以て僕に応へた。僕に友なく学問なく恋人なく家庭なく世界もなくなつた。たゞ微かな信仰があつた。僕は此信仰をすてる日は自殺する日であると幾度となく思うた。否毎日のやうに思うた。而して将来のことを考へると信仰は再び磐石の上に立つ見込なく、忠実に理性に従へば信仰は粉砕せらるべきものと思つた。かくて自殺が当然の運命であると思つた。」

 

「忠実に理性に従」うこと、「懐疑」することによって、〈世界〉を不断に殺していた当時の思潮の残酷さが胸に迫る。

 彼が苦しんでいたのは、海老名弾正の自由主義神学(科学的見地による聖書の自由な解釈を許容する神学)に触れたがゆえに「キリスト教の神」の存否であるが、そのことを通して、実は宗教的な〈信〉を支える世界観としての〈信〉の存否を苦しんでいたことが、如実に伝わる。

 現在も私たちは、同じ残酷さで「死の沈黙」を返す世界風景に取り囲まれている。あまりにも当たり前のようにその世界風景の中へ産み落とされ、その中で呼吸することにある種の耐性を獲得しているけれども、影雄の渇きの質を想像することは、思いのほか容易である。彼の言うところの〈水〉によって、自身を含めた世界風景を意味づけたいという痛切な渇きは、今も私たちの深層の渇きそのものであるようにおもわれる。そして世界の成り立ちを私たちの身体とは無縁の無機的なシステムとして了解せよと理性に強いられるとき、誰も何ものもその渇きを充たしてくれないという残酷さの中で、〈生〉の手応えの稀薄さをもてあまして私たちは久しい。そのような残酷さをただ非常に新鮮に感受している時代を想うならば、質としては実に連続感のある苦痛を影雄はここで表白していることがわかる。

 

 同じ酷さに倒れたのが操であったと直感した影雄の共感は、岩波茂雄のセンチメンタリズムよりはるかに根深い虚無との闘いの匂いを感じさせる。

 

「あの『巖頭の感』はいかばかり僕の心を拊つたであらう。僕の曩日の苦痛は藤村君の外に知りうるものなく、藤村君の死んだ心は僕の外に察しうるものはないといふ様な感がした。又藤村君は至誠真摯であつたから死に、僕は真面目が足りなかつたから自殺し得なんだのだと思つた。こまかい事はわからぬが、僕は藤村君の煩悶と僕の煩悶とは甚だ似てゐたものだと思ふ心は今もかはらない。羨しき藤村君の死は僕をして慟哭せしめ悶絶せしめた。僕は生れて以来藤村君の死ほどの悲痛を感じたことはない。僕は死を求めて得ざるに身を倒して泣いた。かヽる思は数日つゞいた。その内に五月はくれた。僕の心は暴風のふきまいた後のやうな感じであつた。然し藤村君は死旅の友を得るには死ぬことが少しく遅かつた。僕には信仰の微光が三月以来東の空にさしてゐたのである。けれども藤村君の死は僕にとつて非常な事件であつて、僕は断じて人生を空じ去るか、主観の神を客観の祭壇に斎き祀るか、二者の一つを決定すべき機会を藤村君によつて与へられたのである。」

 

 岩波と同様の自責と憧憬が見られるが、岩波のように操の死によって苦悩の〈気分〉を代償させてしまおうとする無邪気なセンチメンタリズムはここにはなく、影雄自身の内面と操の内面との酷似を固有のものとして引き受けようとする内省の痕が痛々しい。

 影雄の文体には、当時の〈気分〉を代表したものが操の死であるという、岩波のことばに見られるようなゆるやかな時代との連帯感など微塵もなく、操と自分だけが苦しんだ課題であるという酷薄なプライドが感じられる。

 キリスト的な神を信じるか否かを通して、影雄が荒野に水を求める敗兵のように渇いていたもの。宗教的な〈信仰〉さえも包みこむ、生そのものを根源的に支えるより包摂的な〈信〉のぎりぎりの取捨を、影雄は徹底して苦しみ悩み、その〈信〉がなければ自殺するしかないのがこの〈世界〉であるとの認識を握りしめた状態で、藤村操の死の報に接したのである。文字通り影雄の生の根拠を徹底的に試みるような事件だったろう。

 客観的であること、科学的であること、それがこの世界を把握する唯一の方法であることの〈自由〉が、個人を生かすのか、殺すのか。彼らは非常な鮮度でこの問題を一呼吸ごとに命懸けで苦しんでいたのである。

 

 明治36年7月「新人」に掲載された「藤村操君の死を悼みて」(『明治文学全集50』より引用 筑摩書房 1974年)には、操の死に匹敵する〈生〉を択びとった影雄のプライドが横溢し、操事件に対する世間の共感や称賛にひそむ浮薄さを洞察する筆が冴える。

 

「君は人生の迷疑に苦んで自ら死に我は神の光明に慰められて残りぬ。君は君の生を私せず至誠の動くところに従へり、君が死にまさる清き死は我かつて之を見ず、我たゞ最美しき生を経過して君が友たるにふさはむと欲す、希くは路上犬馬の俗子に悲哀の福音を語り、熱情至誠の君子に安慰の光明を説いて天授の我生を私せざらんことを得むと欲す。若し万有の真相之を悉す能はずして、人間死後の永世なきを観ぜん日は我行かむ所も華厳の瀧のみ、行きて奇寒の洗礼を受け以て此世を辞せむのみ。」

「多くの弔辞之を聞くに概ね悲哀に始まり断念に終り平凡に帰るを見る、かくて人は異常の警覚を受け猶再び塵紅に走り行く也。君を傷む者の声は至誠なき熱情なき軽薄なる社会の懺悔悔謝也、而して君が至誠に比し得べき者あるなし。」

「曖昧と虚偽とは予の身を震はせて嫌ふもの、他力本願予が望みに非ず十字架の贖罪予が安心に非ず。予は神を疑ひて後思想開展し理性の平和を得、予の徳性を疑ひて後人格向上し品性建設の着々歩を進むるを自覚す。煩悶上下の裡一道の光明我を率ゐて天辺に至るを見る、予輩の信仰に理想の復活あり予輩の道徳に希望の光輝存す。」

 

「かくて人は異常の警覚を受け猶再び塵紅に走り行く也。」といった洞察が可能であったところに、操事件の衝撃をまたたく間に解毒し、何ごともなかったかのようにふやけた日常に再帰してゆく同時代人への鋭い異和感が顕著であり、魚住影雄の苦悩の質が濃くたち顕われていると言えよう。

 

 操事件の一周年に当たる明治37年5月、一高生となっていた影雄(年齢の上では操より三歳ほど年上である)は、第一高等学校「校友会雑誌」に「自殺論」と題する論稿を発表した。「二十年のおもひで」には、「藤村君の一週年に草した『自殺論』一篇は実に僕の過去数年間の血潮のかたまりであつた。僕の個人主義―自我の意識―は此文を草した時に其絶頂に居つた。」とある。

 冒頭には『旧約聖書』、末尾には『新約聖書』からの数節を引用し、この絶望的な現世に産み落とされた不条理感をベースにしながら、血を吐くような個人主義による世界観の更新を試みた不屈の意気が炸裂する。(以下、『折蘆書簡集』所収「自殺論」より引用 岩波書店 1977年)

 

「何とて我は胎(はら)より死にて出でざりしや、何とて胎より出でし時に気息(いき)たえざりしや。(中略)如何なれば艱難(なやみ)にをる者に光を賜ひ、心苦しむ者に生命(いのち)をたまひしや。」(旧約 約百(ヨブ)記、三章)

「願はくは神われを滅ぼすを善しとし、御手を伸べて我を断ちたまはんことを。」(約百、六)

「我若し俟つところ有らば是れわが家たるべき陰府(よみ)なるのみ、我は暗黒(くらやみ)にわが牀(とこ)を展ぶ。さればわが望はいづくにかある、我望は誰かこれを見る者あらん。」(約百、十七)

「光栄ある生存の意義は自家の要求に絶対の聴従をなすこと唯之れ耳(のみ)、断じて唯之れ耳。彼の宇宙構成の説明を以て人生問題の解釈となすが如き哲学者、豈(あに)深奥なる『意義』に与(あずか)るを得んや。要求は談理に非ざる也。」

「自殺や之れ第二の解脱。第一の解脱を探る者が常に念頭において有事の日に備ふるところの者たる也。」「唯神経過敏の浅人、自己の薄弱なる基礎を震撼せられて狼狽し、直ちに流言を放つて風教に害ありと号す、乃ち訓へて君国の為に貴重すべきの身を以て可惜私情の奴隷となせりと。何等の愚言ぞや、斯の如きの言は一切無意義也。」

「至誠の結論は其空白虚無を観じて自ら此世界を去つて一切と交渉を断つに至らしむ。然かも彼は自ら殺せりと為さゞるなり、宇宙を粉砕せりと自ら思惟する也。此覚了成る、其前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん、我れ豈父母に乞ひて生れ来らんや、君国に誓ひて生れ来らんや。君国の恩は我等が無垢の児心に小学校教員が刻み込みたる迷信に非ずや、此迷信を脱却して自家本然の純なる中心の声を聞かんがために要せし苦心はそも幾何なりけん。人道の盛大と人物の尊貴とは乞ふ我れの此天地の意義あるを認めたる後に聞かん。」

「あゝ自殺よ、自殺よ。汝は誠ある者の隠れ家なり、人生に興味を失し其価値を否む者に咒詛の要求を満足せしむ。」

「予の恥づるなくして選びうるもの三。曰く、狂。曰く、自殺。曰く、信仰。而して予は前二者に近づきて其傍を過(よ)ぎり遂に第三者に達して安んじぬ。」

「われ新しき天と新しき地を見たり、先の天と先の地とは既に過ぎ去りて海も亦有ることなし。(中略)われ大なる声の天より出づるを聞けり、曰く神の幕屋人の間にあり、神人と共に住み、人、神の民となり、神また人と共に在して其神と也りたまふなり。神かれらの目の涕(なみだ)を悉く拭ひとり復死あらず、哀み哭き痛み有ることなし、そは前の事はすでに過ぎ去ればなり。」(新約、黙示録二十一章)

 

 不純な現実の強制を排して自私の要求の充実を第一義にすえる者が、それがかなわぬ時には自殺によって矛盾を超えようとすることを肯定する、という主旨である。つまり、自殺そのものの是非に主眼があるというより、〈自我の充実〉という生の至難を〈自殺〉の手前に据えて、その純度を証しする、悲壮な観念的荒業の様相を呈する論だ。

 折しも日露関係が緊迫し、雑誌「太陽」誌上では、長谷川天渓や坪内逍遥らが操事件に対する批判的な論を展開し、国家主義、忠君愛国が称揚され、個人主義は排斥される時勢であった。

 若者の自殺は忍耐が足りない、といった論調に、影雄は「忍耐の真義は右手人生を攫(つか)み左手死を攫んで其何れかを取り何れかを擲たんとする『要求の子』独り能く解す。」「世人云ふところの忍耐なるものは畢竟降服なり、屈服也。」と激烈な批判を叩きつけ、「唯神経過敏の浅人、自己の薄弱なる基礎を震撼せられて狼狽し、直ちに流言を放つて風教に害ありと号す、乃ち訓へて君国の為に貴重すべきの身を以て可惜私情の奴隷となせりと。何等の愚言ぞや。斯の如きの言は一切無意義也」と坪内らの批判を一蹴する。

 影雄がここで放った矢は、確かに時代のうつろさを射抜いている。

 操の自殺とその影響力を怖れる者たちの〈狼狽〉の本質についての認識の確かさには瞠目すべきものがある。

 彼らは、操の〈死〉を必死になっておとしめることで、自身の〈生〉の基盤を今一度確認せずにはいられないのだが、そこにはうつろで見かけだおしの〈薄弱なる基礎〉しかないことを、そしてそれが故の神経症的なまでの自殺擁護者への批判であることを、影雄はよく洞察している。

 確かに、当時第一級の個人主義の主張が漲っていたと評価してよいだろう。緊迫した時勢の中でこれだけの過激な主張が可能であったことも感銘深い。

 家族や国家によって育てられるのではない〈自我〉の至純を、激烈な文体で挑発的に論じる、影雄の戦闘的な身構えはしかし、その十年ほど前の北村透谷の「内部生命論」(明治26年発表)の文体と比するとき、砂漠の中に火柱を立ち上げているような痛々しさをもおぼえる。

「人道の盛大と人物の尊貴とは乞ふ我れの此天地の意義あるを認めたる後に聞かん」との一文から看取し得るように、影雄もまた、その存在の根拠を、既成のシステムや観念的な倫理によってではなく、深々とこの〈天地〉から汲み上げたかったのであるが、透谷(1868年[明治元年]〜1894年[明治27年])が言わば己れの身体の延長として〈天地〉を素直に感得できたのに対して、影雄の世代、すなわち〈藤村操世代〉は、その延長感の無いところからアクロバティックに〈天地〉にアクセスし、〈水〉を汲み上げねばならなかったのだという印象を否めない。時勢ゆえに「対・国家」の文脈で「自我」を主張せざるを得なかったことも、彼らの渇きの本質を横すべりさせたとも言えよう。

 

 平岩昭三は、『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版 2003年)において、操の自殺も影雄の苦悩も、ともに明治社会に抑圧された〈自我〉の問題と解釈し、「自覚した自我を明治という疑似近代社会のなかに定着させることができなかった若者の悲劇」ととらえているのだが、明治社会のシステムとしての未熟さなどに解消され得る問題ではない。近代的価値観・世界観が存続する限り、いかほどシステムとしての社会が〈個人〉の表層の自由や権利を手厚く保護しようとも、否、手厚く保護すればするほど、隠蔽された不条理感として底流し続ける〈生き難さ〉は、現在に至るまで人々の無意識を不透明に絡め取ってきた。

 

「此天地の間が狭苦しいやうな気持がする」と語って逝った松岡千代の言葉が改めて想起される(本論「連載第5回」の稿を参照)。彼女の想いを当時のいわゆる「知的煩悶」の文脈で最も緊密に噛み砕くならば、魚住影雄の表現となるだけのことなのだ。

 その〈生き難さ〉は、時代の空気を徹底的に浸潤していたのである。(この稿続く)

 

*参考文献

『折蘆書簡集』(岩波書店 1977年)

『現代日本文学大系40』(筑摩書房 1973年)

『明治文学全集50』(筑摩書房 1974年)

平岩昭三『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版 2003年)

 

 

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