自我と生命の境界―『新世紀エヴァンゲリオン』再考― 川喜田八潮

  • 2016.03.20 Sunday
  • 16:50

*この論稿は、旧「星辰」第三号に「自我と生命の境界―『新世紀エヴァンゲリオン』再考―(上)」として掲載されたものであり、執筆は1999年である。批評の対象としているのは、1995年〜1996年にかけて放映されたテレビ版の『新世紀エヴァンゲリオン』と1997年の劇場版2作『Air/まごころを、君に』までである。これらの再構築作品として、その後、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作の制作が発表され、その内、『序』(2007年)、『破』(2009年)、『Q』(2012年)の3作品が既に公開されているが、監督・庵野秀明が提示しようとした課題の本質および、表現者としての彼の資質は、旧作の『エヴァ』で展開し尽くされているというのが、私自身の認識であり、この論稿によって作品の現在的な意味は十分に批評し得ていると考え、ここに再掲することとした。
 
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 庵野秀明監督のアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』は、現在の三十代前半から十代にかけての若い世代(一九六〇年代半ば〜八〇年代半ば生まれの世代)の無意識の深層に横たわる病理のかたちを鮮明に浮き彫りにした問題作である。一九九五年の十月から九六年の三月にかけてテレビ放映され、さらに九七年にその続編となる劇場版二作が上映されて完結した。
 地球の人口の半分が失われたセカンド・インパクトという大災厄後の二〇一五年の、巨大コンピューターで一元的に管理統制される超高度産業都市「第三新東京市」を舞台として、「使徒」と呼ばれる謎の生命体の絶え間ない襲来とこれを迎撃する汎用人型戦闘ロボット「エヴァンゲリオン」(通称エヴァ)の活躍を描くアクションSFアニメである。
エヴァを動かすことができるのは、それと霊的に感応(シンクロナイズ)し得る能力をもつ「十四歳」の少年少女たちに限られる。つまり、エヴァは完全なロボットではなく、操縦者の心身と一体化することで、ひとつの霊と肉を兼ね備えた人工生命体へと化身し得る存在なのだ。
 エヴァを操る三人の少年少女たちは、いずれも、幼少期までの成長過程において、深刻な親子関係の傷や生命的な欠落感を負わされた病める人格の持ち主として描かれている。
 エヴァを操縦して使徒を迎え撃つ過程で、彼らの秘められた傷が次第に露呈し、あるいは修復し、深刻な愛憎の葛藤のドラマが進行する。テレビ版では、ひたすら使徒とエヴァとの緊迫した戦闘の繰り返しと、少年少女三人の葛藤や接触の本質が粘っこく追及されている。
 この作品のもうひとつのモチーフは、エヴァ開発の中心の一人で、使徒迎撃の為の国連特務機関「ネルフ」の最高司令官碇(いかり)ゲンドウ(エヴァ操縦者の少年碇シンジの父親)と、ネルフを背後から操る秘密結社「ゼーレ」によってひそかに推進される「人類補完計画」(死の恐怖と孤立感から互いに争い合う不完全な群体としての人類を、完全な「単体」としての新生命体へと人工進化させる計画)である。
 劇場版「完結編」の方は、この補完計画の遂行とその結末が中心となっている。
 テレビ版の表現は、一言でいって、現在の青少年や家族の病理とその深層にあるエロス的な〈渇き〉の実体を追及したものであり、そこで象徴的に表現された思想性は、今までの現代文学やマンガやアニメーションで達成された最高度の水準を超えるものではない。 それに対して、劇場版完結編の表現は、観客の甘い期待と先入観を裏切り、ポスト・モダン流のニヒリズムに支えられたオタク的な嗜好を粉砕することで、観客の神経を逆なでしてみせた、挑発的で妖気あふれる力作となっている。
 テレビ版だけならば、私は、この作品に対する批評意欲は湧いてこなかった。
 劇場版完結編を観てはじめて、このアニメに対してまとまった形で何かを言おうという気持ちになることができたのである。
 人類補完計画の実現を描いた完結編後半部の作品『まごころを、君に』は、監督の庵野秀明自身が単独で脚本と演出も担当しており、彼の渾身の力を込めた、鬼気迫るイメージの奔流の結晶となっている。
 『エヴァンゲリオン』は、種々の難解で思わせぶりな科学造語、謎めいたキャラクターや情況、視聴者の理解を無視したハイテンポの抽象語の洪水、深層心理学の駆使等々、おそろしく込み入った設定によって物語を多重的に構成し、観る方はストーリーを追うのがやっとという有様なのに、三十代から十代に至るまでの若い世代を強烈に引きつける力を持っている。それというのも、設定の細部の多義的な曖昧さにもかかわらず、余計な枝葉を取り払って骨格のみの象徴性に着目すると、きわめてシンプルで、現在の病理の深層にしっかりと根を下ろした構成になっているからである。
 この骨格の確かさのゆえに、設定やストーリーの謎・曖昧さが、かえって人々の不安を喚起し、引きつけて離さないのである。
 だから、この作品の思想性をきちんと読み解こうとするなら、設定の細部にオタク的にこだわらないことが肝要だ。
 
     2
 
 この作品の要は、主人公であるエヴァ操縦者の十四歳の少年少女たちの病理のかたちと、それに対する〈修復〉の視線にある。
 
(一)碇シンジ……母親に愛されて生まれてきたが、三〜四歳頃にその母を失う。
 母親の碇ユイは、生命体の源リリスの複製として開発された人造人間にしてロボットである「エヴァ初号機」の実験中に、自ら被験者となってその中に融合してしまう。初号機はユイの魂の化身でもある。
 母の死後、シンジは親戚の手に預けられ、人類補完計画という〈観念〉の狂気に熱病のように憑かれた父親ゲンドウから完全に見棄てられた状態のままで、一人っ子として成長する。
 生きることへの強い去勢感情、生命的な欠落感を抱え込んだ少年。
 他者との齟齬、対人関係的な障害に対する過敏な神経の持ち主。
 人の痛みを全身的に感じ取る鋭敏な感受性をもっているが、少しでも傷つくと、すぐに内向し、他者に心を閉ざしてしまう。自己を肯定できず、常に、他者=世界から拒まれた存在であるという強迫観念に苛まれ、それゆえに、無意識下に、他者に対する過剰なまでのエロス的な飢渇感・同一化願望を秘めている。
 エヴァパイロットとして生きるほかはない己れ自身の存在のありように根源的な〈不安〉をおぼえている。
(二)惣流・アスカ・ラングレー……仕事人間の夫に棄てられて発狂した母親を持つ。
 母親は、アスカの幼少期に自殺してしまう。父親は再婚し、医者である継母との冷ややかな中流家庭で育つ。
 一度も、安心して無条件に親に受け容れてもらった記憶の無い少女。
 表面的には、異様なほどに陽気で勝ち気。一見自信に溢れた、すこやかな育ち方をしているように見えるが、実は、他人との〈比較〉でしか己れの存在価値・アイデンティティを証明できない。自我の心棒が空虚な少女。
 最優秀のエヴァパイロットとして「選ばれた」人間だというエリート意識だけを支えにして生きている。
 碇シンジに対しては、アンビヴァレントな感情を抱いている。
 対人恐怖症的な資質から他人との争いを極度に忌み、自己主張もできずに相手の言いなりになるシンジの卑屈で自閉的な性格を侮蔑しているが、同時に、彼の存在を無視できず、エロス的に拘束されている。
 シンジの対人的な障害感・孤立感の深さは、ほんとうは、アスカ自身の無意識の暗部とも重なっているからだ。彼女は、シンジの極度の傷つきやすさ・虚弱さの中に、己れ自身の隠された傷・コンプレックス・生存感覚の空洞と重なる忌まわしい匂いを嗅ぎとり、そのため、シンジに対する激しい近親憎悪に苛まれている。
 結局、エヴァパイロットとしての〈能力〉においてシンジとの競争に敗れたアスカは、プライドを踏みにじられたことで、使徒からの精神波による汚染を受け、一気に己れのアイデンティティを崩壊させ、自我の喪失状態に陥ってしまう。
(三)綾波レイ……生命体の根源リリスの魂を宿す人造人間として、ネルフ地下の薄暗い実験室で生み出された少女。シンジの母碇ユイの面影を宿しており、碇ゲンドウを父のように慕っている。(ユイのクローンである可能性もあるが、レイの出生の秘密は最後まで完全には明かされない。)
 父母のぬくもりを知らず、真の喜怒哀楽の感情の欠落した、ヴァーチャルな感性の持ち主。(三島由紀夫の『仮面の告白』の主人公を連想させる。)
 美しいが、無機的で、性の匂いは全く無い。
 積極的に人生を意味づける現世的意志は完全に欠落している。
 ただ、ゲンドウの「命令」に従う時にのみ、行為が意味づけられるし、わずかに微笑みを取り戻せる。常に、己れの身体を〈虚〉の状態に置いて孤立している。
 それでいながら、少女のひっそりとしたたたずまい、静けさは、不思議な安らぎをおぼえさせる。中性的ではあるが、両性具有というのとも違う。
 そもそも、男性性や女性性といった生への積極的な意味づけの身構え、エロス性というものが完全に欠落しているのだ。
しかし、シンジに対しては、母親のユイのような母性のぬくもりを微(かす)かに漂わせている。シンジの身代わりとなって使徒と戦い自爆する「二体目」のレイは、死の直前に、初めて「涙」の感触というものを知る。
 
 要するに、三人の主人公たちは、現世の父母・家族による無条件の愛を徹底的に拒まれた存在として育ち、あるがままの己れ自身に充ち足りるという、世界との生命的な融和の位相から隔てられている。
 しかし、シンジやアスカとレイとの間には、本質的な相違点がある。
 シンジやアスカのキャラクターの良い所は、彼らが、選ばれたるエヴァパイロットとしての〈才能〉とか、社会的な〈役割〉とか、世間や他人の〈評価〉といったような、現代人の自我の主たる構成要素を成している価値意識に強く拘束され、強迫観念的に苛まれながらも、それらが、生きるという行為を真に意味あらしめる究極的な拠り所としては、全くもって何ものでもない、空(くう)の空なるものにすぎぬものであることを、身をもって体現してみせているところにある。
 シンジは、父ゲンドウに認められたい、褒められたいという一心でエヴァに乗っているが、同時に、そういう己れ自身のあり方に根源的な異和のおもいを抱いている。
 彼が本当に求めているものは、才能でも評価でも役割でもない。
 碇ゲンドウという、現実の父親の愛情とも違う。
 彼が求めているものは、もっと大きく深いものだ。
 あるがままの彼自身を受け容れ、包摂し、溶かし込んでくれるような深々とした生命の流れとのたしかな〈接触〉の実感なのだ。
 シンジが求めているのは、われわれ自身の内奥にありながら同時にわれわれを超える、大いなる存在としての幻の母であり、父であるといってもいい。
 アスカが最も深い処で飢渇しているものも、本当は同じものだ。
 しかし彼らは、己れ自身の渇きの本体に辿り着くことができない。
 彼らは、満たされないエロスや内奥から立ち昇ってくる得体の知れない不安を、父親や周囲の男女たちへの粘っこい神経症的な愛憎の表現やエヴァパイロットとしての自己実現・自己顕示の欲求によって代償し続けるほかはない。
 このどうしようもない〈不能性〉の壁の厚さが、この作品の悲劇性のリアリティを強烈なものにしている要因だといっていい。
 シンジとアスカが、現在の病める、自立できない神経症的な青少年の等身大の象徴であるのに対して、レイは、半ば作者によって理想化された形象となっている。
 レイは、一面では、現在の青少年たちのヴァーチャルな冷やかさ、無機的なリアリティの増幅された象徴となり得ているが、他方では、少年少女たちの実像とは大きく隔たった、深々とした〈孤〉としての透明感と静寂をたたえている。
 彼女の生存感覚の稀薄さは、個を超えた〈虚〉の遍在性ともいうべき蒼白い澄んだエロスをかもし出している、それはどこか、われわれの体内深く眠っている原初の子宮の海洋の記憶に似ているともいえるし、内なる他界=冥府のイメージにつながるといってもいい。 宮沢賢治の『インドラの網』や『銀河鉄道の夜』のような澄んだ氷のような霊気を想起させる。
 シンジとアスカのからみは、終始一貫、神経症的な、不毛きわまる近親憎悪の泥沼でしかないが、レイが一人加わり、二人の場所が相対化されると、その風景はがらりと変わる。 レイは、シンジに対し母性を感じさせるにもかかわらず、どこかシンジを寄せつけない冷たさを終始たたえている。
 レイと似たような位置を占めているのが使徒の化身である中性的な美少年渚カヲルで、レイとカヲルがシンジをひきつけるエロス性は同性愛的な匂いに包まれているが、決して〈合体〉を許さないような隔たりを宿命づけられている。合体は、死としての〈子宮回帰〉のイメージにつながるのだ。
 そのため、アスカとシンジの近親憎悪的な、堂々めぐりの不毛さの輪の中に絡めとられることがない。それが、この作品にビターな味わいを添え、風穴をあける働きをしている。
 レイもカヲルも、この世の地上的な肉体の限界性・卑小さを、天上的な位相から透視し、怜悧に俯瞰しているようなおもむきがある。シンジやアスカのような関係への飢え、神経症的な泥沼の地獄から遠く隔たった所から、彼らを、憐れみと冷やかさを込めて見守っている。
 魂への〈強制〉という病を浄化させる天上的な慈愛と透明感が、彼らの魅力である。
 シンジの幼児的な不能性の場所を相対化し、突き放してゆくもう一人の存在は、ネルフの使徒迎撃作戦部長の葛城ミサトである。彼女は、少女期に南極調査隊の一人であった父とセカンド・インパクトによって死別し暗黒の海を漂流した悪夢を、傷として隠しもっている。
 しかし、ミサトはすこやかに自立し、父親の面影と重なり合う恋人の加持リョウジとも別れて、獰猛な肉体をもった生活力旺盛なキャリア・ウーマンとして登場している。母親との関係も幸福で、胎教の良さそうな育ち方をしており、シンジの母親代わりの役割もつとめる、デリケートな側面も持ち合わせている。
 作者は、この痛々しくつっぱった自立型の独身女性にかなりの思い入れをもっているようである。
 庵野秀明の表現には、人間の救いを、親子・家族とか男女の愛とか同性愛的なエロスといったような〈対幻想〉の中に閉じてゆくことに求めるような志向を、徹底的に拒もうとする姿勢が一貫して流れているようにおもえる。
そういう〈対(つい)〉にすがり執着したとき、人間は、己れの孤独地獄から逃れるために他者の魂を強制し、〈我執〉という病にとりつかれて、真に現世に立ち向かう力をもち得なくなり、自我の心棒が崩れ去り、固有の身体史を背負った単独者としては空無化してしまう、という強い怖れを抱いている。
 〈対〉に閉じこもり、そこにアイデンティティを委ね切ることは、彼にとって死のイメージとなって映る。
 この作品では、碇ゲンドウとユイの愛、ゲンドウの計画を助ける赤木リツコとその母親の報いられぬ悲惨な献身的愛、葛城ミサトと加持リョウジの愛など、幾組かの男女の愛や片想いの脆(もろ)い破滅的な形態が悲喜劇的に描かれている。
 ゲンドウの(ゼーレとは別の形で準備される)独自の人類補完計画も、エヴァ開発計画の途上で不慮の死を遂げた妻ユイとの禁じられた「合体」を核として組み立てられている。
 それは、ユイの面影を宿すレイとの合体を通じて、万物の母ともいうべき原初の生命体リリスに回帰し、同時に、ユイの宿る「エヴァ初号機」との合体によって、生身の肉体を捨てた〈霊〉のみの遍在する永遠のコスモスに生きようとする、ゲンドウの魂の飢えの表現にほかならない。
 これは、〈対幻想〉の一点に閉じることで類的な身体を獲得しようとする、一つの〈死〉のイメージである。
 互いの魂を強制しようともがくシンジとアスカの神経症的な愛憎のドラマも、シンジとレイやカヲルとの同性愛的な匂いをもつ合体のイメージも、諸々の男女たちの愛の形も、作者にとっては、おそらく、死と孤立の恐怖から逃れるための、救いの無い〈我執〉の病のあらわれとして映っているようにおもえる。
 こういう認識には、確かに一面の真理が含まれている。
 〈対〉ないし自己完結的な〈愛〉のかたちというものは、もしそこに己れの究極のアイデンティティを委ね切るならば、必然的に相手の魂を所有し貪り尽くそうとするか、さもなくば、己れ自身を無化し、相手の内部に吸収・霧散させてしまうかの、いずれかの表現形態に収斂するほかはないからだ。
 
     3
 
 しかし人は、決して孤立した自我意識などによって己れ自身を支え切れるものではない。いな、そのような自我意識を観念的に肥大化させ、その幻想的虚構の住人となって亡霊のような一生を送ることもまた可能ではあるが、そこには決して真の血の通った他者との出会いは存在せず、喜怒哀楽の手ごたえも生身の痛覚も生まれ得ない。
 人が、現世という、不条理と歓喜の渦巻く光と闇の混沌の時空を、実感をもって生き抜くには、必ず、無意識の深部に、己れ自身の存在を肯定し、意味づけることを可能にするような、世界との生命的身体的な〈接触〉の感覚が息づいていなければならない。
 言い換えれば、母の胎内にゆったりと安心して抱かれ、四肢を存分に伸ばしてやることのできるような、世界との根源的な〈融和〉の位相というものが、魂の内に繰り込まれ、根づいていなければならないのだ。
 そのような、いわば幻の母性のようなぬくもりの位相が存在する時、人は初めて(他者との〈比較〉によってのみ成立する、相対的なもろく空虚な自我意識とは異なる)孤独で強靭な固有の自我というものを打ち立てることができる。
 人が狂暴な現世に立ち向かう時の拠り所となる〈個〉としての自我の砦というものは、それとは一見正反対の、〈個〉を超えた大いなる生命への、自己を放棄した〈ゆだね〉の感覚との微妙な〈均衡〉によって、初めて真に生きた力を発揮し得るのだ。
 この作品では、〈母性〉は、必ずしもネガティヴなイメージを与えない。
 使徒との戦いで己れの力を過信して身を乗り出したシンジが、使徒によってその弱点をつかれ、「ディラックの海」と呼ばれる〈虚無〉の深淵に呑み込まれるシーンがある。電源もエネルギーも断ち切られ、生命維持装置が涸渇して窒息死する寸前に、シンジは己れを巨大な死の海の中にゆだね、一切を放念しようとする。その時突如として、「初号機」の中に溶け込んでいた母親の霊によって包摂され、ぬくもりを与えられた少年は、〈現世〉へ立ち戻るエネルギーを付与されて、ディラックの海を食い破ることができる。テレビ版の中でも、作者の無意識の表出を感じさせる印象的なシーンのひとつである。
 ここには、自我意識とそれを超える大いなる生命の流れへと身をゆだねる〈虚〉の意識の〈均衡〉(ないしは〈止揚〉)への志向性がはらまれている。
人が、愛という我執の病、他者への強制の病に悩まされ、辟易(へきえき)しながらも、なお家族や仲間との生きた接触やぬくもりを求めてもがき、さまようのも、このような〈個〉を超えた世界との生命的なつながりを求めてやまぬからである。
 『新世紀エヴァンゲリオン』が象徴する思想的なモチーフは、ひとえに、現在のアトム化された青少年たちの神経症的な病のかたちと、それへの修復のイメージがはらむ、このような精神=自我意識と個を超えた類的な身体の二元的な分裂と均衡をめぐるアポリアにあるといっていい。
 このモチーフと密接に関わるのが、使徒襲来を契機として、シンジの内奥に眠る肉体の渇き=野性が覚醒する重要なシーンである。
 このロボットアニメの巧みなところは、シンジのような虚弱で極度に内向的な少年が、無意識のシンクロを通じて、エヴァという強靭で金属的な感触をもった、そのくせ人間と同じように血を流す異形の魔物に変身することで、不自然な背伸びをすることなく、少年たちの無意識の奥に潜む肉の〈渇き〉に表現を与えてやっていることだ。(これは、『機動戦士ガンダム』以来の伝統であろう。)
 そして、生身の人間ならとうてい正視できない残酷な衝撃・流血を、エヴァと使徒の激闘という抽象化された力動的な身体曲線の〈喩〉によって、緩和しつつ巧みに増幅し発散させてみせる。
 使徒は、原初の生命体リリスから生まれた人間の双生児のような存在であり、同時に、病める現代文明の〈不安〉(環境破壊から人の心の闇に至るまでの)の象徴であり、科学・技術文明のコントロールを凌駕した〈異形の存在〉でもある。
 人間は、使徒に対し、重装備した科学技術と情報ネットワークにもとづく管理社会システムで立ち向かおうとするが、それは必ず限界に突き当たり、敗北するほかはない。
 シンジの「エヴァ初号機」も、時に敵の強烈な衝撃を受け、電源プラグを断ち切られ、エネルギーの涸渇状態にまで追い込まれる。その時、意識不明となったシンジの狂暴な野性が、コンピューター操作とネルフ指令部の指示によってコントロールされた重装備の〈殻〉を突き破って、荒れ狂う。
 圧巻なのは、アスカやレイを救おうとして無我夢中で戦ううちに、絶対絶命の場所に追い込まれたシンジの無意識が、母親との霊的なスパークによって一気に膨れ上がり、機械という〈拘束具〉を蹴散らして、切断された傷口を肉体的に「再生」し、四つ足の〈獣〉と化して咆哮しながら、最強の使徒をバリバリと食う変身のシーンである。
 ここは、テレビ版シリーズの中で最高の解放感と自在感を与えてくれるクライマックスに相当する。
 この時シンジは、エヴァとの間に四百パーセントという驚異的なシンクロ率を達成し、エヴァにはめ込まれたエントリープラグに収められているLCLの液(原始生命体の液)の中に溶け、一時幽体と化してしまう。
 エヴァ初号機の〈本体〉が機械ではなく、人間の文明を支える一切の知と観念を超えた、形無き生命の原初の泉から無窮のエネルギーを汲み出す肉の化身であることをまざまざと象徴させる名場面なのである。
 このように、個=自我(意識)=知(観念)=文明(システム)と、それに鋭く拮抗する類的生命=即自的な身体性(無意識の渇き)=非知=反制度(野性)の表出をめぐる問題は、このアニメの中で繰り返しかたちを変えて執拗に追求されている。
 人間は、苛酷な現世を生身の生活者として生き抜こうとする限り、孤立した自我意識の砦などによって己れを支え切れるものではない。だからこそ、人は、死と孤立の恐怖に青ざめて硬直し切ったケチくさい観念的な自我意識の殻をぶち壊して、己れ自身を超えたより大きな生命の流れを求め、世界との根源的な一体感を渇望してやまない。
 しかし、知と観念とそれによって支えられる文明という〈拘束具〉を突き破ってほとばしり出ようとする、われわれの狂暴な肉の渇きは、同時に、自他の境界を溶解させ、アトム化した人間たちを、ひとつのエロス的な幻想の〈子宮〉へと退行的に吸収させる負の力ともなり得る。
 使徒との戦いによるエヴァ初号機の肉の「覚醒」は、同時に、ゼーレや碇ゲンドウにとっては、群体としての人類を単一の生命体へと人工進化させる「人類補完計画」の実現へのプログラムの一つに組み込まれている。もちろんこれは、現代資本主義文明に対するアレルギー的な〈反動〉を利用して、アトム化した大衆を疑似的な共同性のイデオロギーによって幻想的に束ねようとするファシズム=スターリニズム的イメージの暗喩とみなしてさしつかえない。
 個的な自我意識と類的な生命の分裂と均衡(止揚)をめぐる根源的なアポリアは、最後の劇場版「完結編」において、人類補完計画の実現とそれに対する〈拒絶〉のイメージという形をとって、壮大なスケールにおいて徹底的につきつめられている。
 テレビ版の出来ばえは、随所に、作者の無意識の情念と思想の表出が鮮やかに光ってはいたが、どちらかといえば、観念的に計算され尽くした意識的な表現によって構成されたエンターテインメント作品という印象が強いのであるが(これは、テレビという通俗的な媒体の制約上やむを得ないことである)、劇場版「完結編」の方は、(これが最終版だということもあろうが)一切の「商品」としてのいじましい〈仕掛け〉意識を蹴とばして、庵野秀明の狂おしく煮えたぎった無意識のデモーニッシュなイメージが、華麗で奔放な抽象性を駆使して、縦横無尽に怒濤のように展開されている。
 観念的なメッセージとしてではなく、純然たるイメージの力のみによって勝負することで、初めて庵野は、自我と生命の葛藤をめぐる根本問題に己れ自身の血肉によって応えることができたようにおもえる。(了)


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