書評:ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(連載第3回) 川喜田八潮

  • 2016.06.30 Thursday
  • 19:52

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(鈴木雅大訳)平凡社ライブラリー(連載第3回)

 

     4

 

 ドゥルーズは、人間の世界への<適応>と<自己解放>への道を、個体を構成する「微粒子群」の「速さ」と「遅さ」の「複合関係」と、個体間の「触発」による「情動」のダイナミズムに求めている。

 

「ひとつの体[身体や物体]をスピノザはどのように規定するか。スピノザはこれを同時に二つの仕方で規定している。すなわち、一方ではひとつの体は、たとえそれがどんなに小さくとも、つねに無限数の微粒子をもって成り立っている。ひとつの体を、ひとつの体の個体性を規定しているのは、まず、こうした微粒子群のあいだの運動と静止、速さと遅さの複合関係[構成関係]なのである。他方また、ひとつの体は他の諸体を触発(アフェクテ)し、あるいはそれらによって触発される。ひとつの体をその個体性において規定しているのは、また、その体のもつこうした触発しあるいは触発される力[変様能力]なのである。」

「肝心なことは、生を、生のとるひとつひとつの個体性を、形として、また形態の発展としてではなしに、たがいに遅くなり速くなりしながら微粒子群のあいだに成り立つ微分的な速度の複合関係としてとらえることだ。」

「ひとは速さ、遅さによっていつのまにか物のあいだにはいりこみ、他のものと結びついている。ひとはけっして始めるのではない。白紙に還元するのではない。ひとはいつのまにかあいだに、ただなかにはいっているのであり、さまざまなリズムをともにし、また与えあっているのである。」

「体についての第二の命題は私たちに、ひとつの体のもつ触発しまた触発される力を考えよと言う。ひとつの身体(またひとつの心)を、その形やもろもろの器官、機能から規定したり、これをなんらかの実体や主体として規定したりしないことだ。スピノザにとって、ひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることを、スピノザの読者なら誰でも知っている。だが理論としてそう考えるだけでは十分ではない。というのは、具体的に、ひとつの様態とは、身体における、また思考における、速さと遅さのひとつの複合関係であると同時に、その身体や思考のもつ、ひとつの触発しまた触発される力であるからだ。具体的に個々の身体や思考を、ひとつひとつの触発しまた触発される力として規定してみたまえ。ものごとはずいぶんちがってくるだろう。動物であれ人間であれ、これをその形やもろもろの器官や機能から規定したり、主体として規定したりせずに、それがとりうるさまざまの情動(アフェクト)から規定するようになるだろう。どれほどの情動をとりうるか、その触発しまた触発される力の最大および最小の強度閾はどこにあるか、スピノザにはつねにこの考え方がある。」(『スピノザ』第六章)

 

 身体や心の本質を、「触発」による「情動群」の揺らぎ・ダイナミズムのあり方によって規定しようとするこのようなまなざしを、ドゥルーズは、「エトロジー(動物行動学)」の研究姿勢と重ね合わせている。

 

 「エトロジーとはまず、個々のものがそれによって特徴づけられるような速さと遅さの複合関係、触発しまた触発される力についての研究である。個々のものについて、こうした複合関係や触発=変様能力には一定の変位幅や強度閾(最大・最小)があり、固有の変動、変移がある。そして、個を特徴づけているこの関係や力が、世界のなかで、この自然のなかで、その個物に対応するものを、つまりこれを触発しまたはこれによって触発されるもの、これを動かしまたはこれによって動かされるものを、選択しているのである。たとえばある動物についてなら、その動物が、無限の世界のなかで何にかかわらないか、何にたいして正または負の反応を示すか、どんなものが食物となるか、どんなものが毒となるか、それは、何を自分の世界に「とらえる」か。」

「すなわち、どんな動物も、どんなものも、それが世界と結ぶ関係を離れては存在しない。内部とは選択された外部にすぎないし、外部は投射された内部にすぎない。さまざまな新陳代謝の速さまた遅さ、知覚や行動、反応の速さまた遅さが連鎖しあって世界のなかにその個体を成立させているのである。」

「第二に、こうした速さと遅さの複合関係には、触発=変様能力には、状況に応じた具現のされ方、満たされ方がある。というのは、この特徴的な関係や力そのものは変わらなくとも、現下の情動がその個体の存立を危うくさせる(その力能を弱め、鈍らせ、最小限にまで縮減させる)か、あるいはこれを強化し、促進し、増大させるかにしたがって、すなわちそれが毒となるか糧となるかにしたがって、その具現のされ方、満たされ方は大きくちがってくるからだ。」

最後に、エトロジーはまた、相異なった個体間で、それぞれのもつ関係や力のあいだに成り立つ複合的構成を研究する。これはさきの二つとはまた違った局面である。というのは、ここまでは一個の個体が問題にされ、それが他をどう分解・解体して、みずからの構成関係のひとつに適うような関係をとらせることができるか、あるいは逆に、それが、他によってどのように分解・解体される危険をもつか、ということにとどまっていた。だが今や問題は、各個を構成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと「拡がりの大きい」構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと「強度の高い」力、力能をつくりあげることができるかどうか、にある。もはや個的利用や捕捉ではなく、社会を形成する力、共同体の成立が問われているのだ。さまざまの個体がどのように複合して、より高次の一個体を形成し、(さらにこの高次の個体がまた複合をかさねていって)ついには無限にいたるか。いかにして一個の存在は他を、相手のもつ固有の構成関係や世界を破壊せずに、あるいはそれを尊重しながら、しかもみずからの世界にとらえることができるか。またこの点で、たとえばどのようなちがう型の社会形成がありうるか。」(『スピノザ』第六章)

 

 ドゥルーズは、個々の存在の身体や心の働きの背後に、一切の<主体><実体><器官><形態>の概念を置くことを拒否する。

 そしてまた、「類的」な生命の次元を拒否し、「エトロジー(動物行動学)」による環境への個体の生物学的「適応」の戦略にすべての「生きる」ことの根拠を還元せんとし、進化論までも否定する。

 もちろん、唯物論者であるドゥルーズは、一切の観念論的な形而上学も、存在に息づく神秘な意味や価値の次元も認めない。

 あくまでも、個体を構成する「微粒子群」の「速さ」と「遅さ」の複合関係と、個体間における「触発=変様能力」のダイナミズムという、エトロジー的なコンセプトを存在の基底に据えた上で、異質なる<関係の絶対性>の下に置かれた、相互に異質なる存在である人間同士の間に、互いの世界を損うことなく、各々の<力能>を組み合わせることで、より高次の生命的な構成関係を紡ぎ出せる道を模索せんと志すのである。

 ここには、魂への<強制>という悪を何よりも憎んだフーコーの権力論を受け継いでいるドゥルーズの心根がよく顕われていると、私は思う。

 ドゥルーズのポストモダンの存在論・世界観を共有できない私にとっても、この<他者性>への尊重の姿勢とフレクシブルな絆・共同性のイメージは、共感をもって受け止めることができる。

 しかし、問題は、その先にあるのだ。

 ドゥルーズのとなえるようなエトロジー的な方法で、はたして、それぞれに異質なる場所を生き、異質なる世界観・世界風景をもつ、(互いに生き物として全く別種の存在だと言っても過言ではないほどの、恐るべき<隔たり>の下に置かれている)無数の人間たちを、ひとつに結びつけ、高次の<共同的存在>へと変容させてゆくことが可能であろうか?

 ドゥルーズは、異質なる個人のもつ、異質なる<力能>を複合・構成することで、ひとつの高次の生命的関係へと練り上げてゆくプロセスを、「大いなる自然の交響楽」にたとえている。そして、それを、思考の「音楽的構成」によって、生の<力能>の自己解放をなしとげてみせたスピノザの『エチカ』の力わざと、類比的に重ね合わせる。

 

どんなオーダーで、どのようにして、さまざまの力能を、さまざまの速さと遅さを複合・構成[作曲]してゆくか。/音楽的構成[作曲]の平面。おのおのの部分は無限に多様に変化しながら、その全体において最大の強度と拡がり幅をもつひとつの<個体>をかたちづくっている。大いなる自然の平面。エトロジーの主要な創設者の一人、ユクスキュルは、まず個々のものに対応するメロディー・ラインや対位法的な関係群を規定し、ついで、次第に拡がりを増す、高次の内在的統一をもった交響楽がかたちづくられるさまを描き出している(「自然界の作曲理論」)が、この行き方はまさしくスピノザ的であるといっていい。まさに『エチカ』全篇にわたってこうした音楽的構成[作曲]が用いられているのであり、これによって『エチカ』は、つぎつぎにまた同時的に、たえずその速さと遅さの複合関係を変化させながら、その全体において唯一同一の<個体>をつくりあげている。」

「要するに、私たちは、スピノジストならば、なにかをその形やもろもろの器官、機能から規定したり、それを実体や主体として規定したりしないということだ。中世自然学の、または地理学の用語をかりていえば、経度(longitude)と緯度(latitude)とによって規定するのである。どんな体でもいい、一個の動物でも音響の体でも、ひとつの心や観念でも、言語学の資料体でも、ひとつの社会体でも集団でもいい。私たちは、ひとつの体を構成している微粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体を、その体の<経度>と呼ぶ。ここにいう微粒子(群)は、この見地からして、それら自身は形をもたない要素(群)である。私たちはまた、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体を、その体の<緯度>と呼ぶ。いいかえればそれは、[主体化されない]無名の力(存在力、触発=変様能力)がとる強度状態の総体のことである。こうして私たちはひとつの体の地図をつくりあげる。このような経度と緯度の総体をもって、自然というこの内在の平面(プラン)、結構の平面(プラン)は、たえず変化しつつ、たえずさまざまの個体や集団によって組み直され再構成されながら、かたちづくられているのだ。」

(『スピノザ』第六章)

 

 ドゥルーズはここで、個々人の世界観や思想、生きざまの<差異>(立場性の差異)はもとより、人や動物を含む、一切の存在の<差異>そのものを超えて、生ける存在の<本質>を、個体を構成する「微粒子群」の「速度」と、個体間(存在間)における「触発=変様能力」の強度状態、すなわち「情動」のダイナミズムに、一元的に還元せんとしている。

 互いに断絶し、隔てられながら、異質なる世界風景を生きている無数の人間たちを、そのような、イデオロギーや生きざまの差異を超えたエトロジー的な共通概念によって導き、高次の<共同的存在>へと練り上げてゆくことができると、彼は本気で夢みているようにおもえる。

 だが、それは、残念ながら、ひとつの幻想(夢想)にすぎないと、私にはおもえる。

 人間個々人の存在者としての<差異>、生きざまの<差異>というものは、そんな共通概念なんぞで埋めることができるような、生やさしいものではない。

 

「共通概念の形成の秩序は情動にかかわり、いかにして精神が「みずからのさまざまな情動を整え、それらを互いに結びつけることができる」かを示しているのである。共通概念はひとつの〈術〉、『エチカ』そのものの教える術なのだ。<いい>出会いを組織立て、体験をとおして構成関係を合一させ、力能を育て、実験することである。」(『スピノザ』第五章)

 

 これは、たしかに、その通りなのだ。

 私たちは、気の合うパートナーや気心の知れた仲間たちとの間に、互いの生ける<接触>による「共通概念」をつくり上げることができるし、その概念の助けを借りて、互いの良き関係、絆を育んでゆくこともできる。

 だが、その<術>が真に有効性を発揮しうる範囲は、まことに限られている。

 それは、フェイス・トゥ・フェイスの人間関係が保たれる、ごく小さな集団の枠内である。

 少しでも付き合いの範囲が拡がり、さまざまな利害関係や義理・気づかいを要するような局面が絡んでくると、たとえフェイス・トゥ・フェイスの関係であっても、濁りが生じ、危険なものとなりうる。

 人間一人ひとりが背負った固有の個人史の重さや資質の<差異>というものは、親子・兄弟・姉妹であろうが、それ以外の他者との関係であろうが、実に怖ろしいものなのだ。

 関係が濃密なものになればなるほど、愛憎による亀裂・葛藤の危険も高まる。

 良き関係・絆を育ててゆくには、大変なエネルギーを要するが、関係を壊すのは、いともたやすい。

 フェイス・トゥ・フェイスを超えた、大きな集団性や組織になると、生きた関係は希薄になるから気は楽のようだが、今度は、その上位の共同体から、さまざまな暗黙の強制や抑圧を受ける危険が生ずる。そしてまた、組織と組織、ものの見方や価値観を異にする集団同士の間でも、あつれきが醸成される。フェイス・トゥ・フェイスを超えた大きな集団・共同性の次元において、良き「共通概念」を構成し、拡大せんと試みることは、困難であるばかりか、危険なことでもある。それは、人々の価値観や世界観を画一化し、制度的に統御せんとする高度管理社会、広義におけるファシズム的な権力への道を準備することに通ずるからだ。

 フーコー的な権力概念に立つドゥルーズが、そのような共同幻想のカラクリに鈍感であるとは思えないが、それでも、彼が、ポストモダン的な「共通概念」の唱導によって、人々を目覚めさせ、「情動」というキイ・コンセプトを通して、高次の<共同的存在>へと変容させてゆくことができると、本気で夢みているとしたら、それは、悲劇的な<逆説>というべきである。

 あらゆる「実体」や「主体」の概念を否定し、一切の「超越的次元」を拒否し、存在のすべてを、「速度」と「情動」という、刹那的でダイナミックな<動き>に解消せんとするこの視座、「音楽的方法」それ自体が、すでに、ドゥルーズというポストモダニストの個人的な<世界観>の表われにすぎないのだ。

 そしてまた、スピノザという哲学者の思想・方法に対する、彼一流の切り口による、偏向的な読解にすぎない。

 ドゥルーズ自身は、特定の世界観やイデオロギーを超えた普遍的な立ち位置を設定しているつもりなのであろうが、そのような立ち位置そのものが、すでに、ポストモダン的な<党派性>の理念でしかないのだ。

 また、それでよいのである。

 <共同性>といってみたところで、人はしょせん、気の合った<仲間内>で「盛り上がる」しかない生き物なのだから。<党派性>をなくせといっても無理だし、あっても一向に構わないのである。

 要は、自分たちの<党派性>で、縁無き衆生を「仕切ろう」などという<尊大さ>を抱かないことだ。

 そんな<尊大さ>で、己れの実存的な孤独、寂しさや不条理感や不遇感をまぎらわしたり、<類>的な渇望を満たそうとしたりしないことだ。

 問題は、立場を異にする<党派>や<共同体>や<個人>の間に、可能な限り、不毛な対立や抗争をひき起こさずに、平和な、実りある<自然分業>や<共存>の形をいかにして作り上げるか、にある。しかも、決して嫌な<妥協>などせずに、自立を守ったままで。

 そしてまた、ひとつの<共同体>や<党派>の内部に所属する個々人が、集団の利害や理念を代弁する人物によって、不当な強制や抑圧を受けぬようにするために、何が可能であるか。

 さらには、私たち一人ひとりが、えにしを持ちえた異質なる<他者>との間に、いかにして、互いの魂を強制することなしに、幸せな良き絆と自然分業の形を紡ぎ出すことができるか。

 こういった地道な一連の問いかけこそが、具体的な生の現場において取り組むべき、<共同性>をめぐる課題なのであって、(ポストモダニズムを含む)なんらかの哲学的な世界観・イデオロギーの唱導によって観念的な<共同性>をつくり上げ、それを拡大してみせたところで、行き着く先は、しょせん、ファシズムやスターリニズムの末路と同様で、強制による<魂の窒息>という、うつろさの地獄でしかない。

 

     5

 

 だが、ドゥルーズには、ドゥルーズなりの<生き難さ>の感覚というものがある。

 その生き難さの痛覚には、近代の極北としての現代に生きる者に特有の<普遍性>があり、また、彼のポストモダニズムによる独特の<共同性>への夢想、思い入れにも、その普遍的な生き難さに根ざした切実な<衝迫>が込められている。

 「速度」と「情動」に固執する彼の身構えが、それを物語っているのである。

 

「たとえばゲーテや、またヘーゲルでさえもある点ではスピノジストとみなされうると考えられてきた。しかし彼らは本当のスピノジストではない。彼らはプランをたえずひとつの<形>の[有機的]組織化や、ひとつの<主体>の形成に結びつけてやまなかったからだ。スピノジストとはむしろ、ヘルダーリンであり、クライスト、ニーチェである。彼らは速さと遅さ、緊張症的凝固と高速度の運動、形をなさない要素群、主体化されない情動群をもって思考しているからだ。」(『スピノザ』第六章)

 

 形ある実体概念への<執着>を極度に忌み嫌い、静止(静寂)と停滞による能動的エネルギーの<涸渇>を怖れるドゥルーズの、<動き>にとり憑かれたとしか言いようのない<強迫観念>が、よく顕われている。

 生命活動の<本質>を、「形をなさない要素群」による「緊張症的凝固」と「高速度の運動」の組み合わせ(ダイナミズム)に還元せんとするドゥルーズの身構えの根底には、おそらく、存在の<不条理性>という想念に全身を蝕まれ、己れの<知>以外、何ひとつ信じる支えの無い、唯物論者にしてニヒリストであるこの哲学者の、蒼ざめた死の恐怖が横たわっていると、私にはおもえる。

 ニーチェやドゥルーズのように、<生>や<能動>という概念を、もっぱら、力や火のイメージと結びつけて、過度に一面的に強調するのは、決して、健康な生命的感覚の表われとはいえない。

 それはむしろ、死と虚無の想念に全身を蝕まれた者、何ひとつ信ずることができず、したがって、存在に「安らう」ということのできぬ不幸な者の場所である。

 デカルトは、『感情論』において、<意識>=<自我>の力によって「情動」を抑えつけることを説いたが、スピノザは逆に、<意識>を超えた情動・本能の力の巨大さと、それを担う<身体性>のあり方に、生の活路を見出そうとした。

 その人間の本性と情動への透徹したまなざしに根ざした<力能>の発見は、たしかに、ドゥルーズも言うように、現世の桎梏、不条理を超える新たな生命的次元の地平を切り拓く力わざであった。

 しかし、スピノザには、ニーチェやドゥルーズには無い、深々とした魂の<静けさ>がある。

 それは、スピノザの存在と人性への澄み切った認識が、彼の心身を解放し、あるがままの存在に「安らう」ことを可能ならしめていたからである。

 私のスピノザへの関心は、むしろ、その、ドゥルーズ=ニーチェ風の非日常的な生命的燃焼、<動き>という強迫観念にとり憑かれた姿とは対極にある、独特の<静けさ>の位相にある。

 しかし、ドゥルーズの主たる関心は、あくまでも、フーコー的な<脱権力>のまなざしを通して、無意識的な<身体性>を解放し、そのエロス的なダイナミズムの中で、地上的・三次元的な<実体>や<主体>の概念を超えて、「器官なき身体」(『アンチ・オイディプス』)の次元に生きることで、不条理を超克せんとする戦略にあった。

 <思惟>を通して、己れの「本性」に根ざした生の能動的な<力能>を高め、<無意識>に潜在していた生命的な「情動」の完璧な自己解放を実現できる境地にまで至った時、人は、スピノザの言う「神」の境地に達したことになり、いわば<風>のように生きることができる、解脱(げだつ)できるはずだ。

 その<自由>のイマージュ、「器官なき身体」のイマージュこそが、ドゥルーズの『スピノザ』が最終的に私たちを導いてゆこうとする、現世的な桎梏への<超克>の場所であるといってよいだろう。

『エチカ』「第五部」(「知性の能力あるいは人間の自由について」)が、その最高の到達点であると、ドゥルーズはみなすのである。

 彼は、触発が生み出す情動群の揺らぎを通しての、ポストモダン流のダイナミックで自在なフットワークによるエロス的な自己解放の延長上に、「いかにして、相手の固有の生を尊重し、損ねることなく、ひとつの<共同性>をつくり上げることができるか?」という問いかけを発し、あるべき連帯の姿を幻視する。

 人間の生きる意味は、不条理なカオスとしての唯物論的宇宙の中で、理知=<思惟>の力をとことん研ぎ澄ますことによって、<情動>を通して強いられるミクロな内面的権力の本質を洞察し、その呪縛を解体するというたたかいの中で、身体を司る<無意識>の領域を逆説的に解放し、その能動的な官能の力によって生命の歓喜を抽き出すという営みを通して、はじめて紡ぎ出すことができる。

 それが、ドゥルーズによって読み解かれたスピノザの戦略である。

 そのことで、自らを<神>(汎神論的な神)の境地に高めることで、あらゆる我執と死の恐怖を超えること。

 そのことで、不断に形成され、隠微な強制を及ぼしてくるミクロな権力を超え、社会の制度的・道徳的呪縛を超え、個の自由な連帯による共同社会をダイナミックに、フレクシブルに構成・実現してみせること。

 それが、ドゥルーズのポストモダニズムの戦略であり、理想である。

 もちろん、スピノザは、国家を、人間の「自然権」の野放図な行使から来る衝突を抑制するための「必要悪」として承認し、市民社会的法治主義の支持者としての立場を遵守する。

 しかしそれは、スピノザのめざす共同社会の夢想・理想とは、あくまでも別次元のことである。

 ドゥルーズも、そのスピノザの政治思想を支持する。

<国家>なるものを理想視する観点は、彼には無い。

 ドゥルーズの『スピノザ』は、スピノザ哲学のポストモダン的・偏向的読み換えであると共に、ドゥルーズ哲学の最高の結晶である。

 それはいわば、ドストエフスキーが『悪霊』で活写した、「キリーロフ」の「人神」思想による不条理超克の生命論的戦略に酷似している。

 精神科医フェリックス・ガタリとの共著である『アンチ・オイディプス』で展開された、「n個の性」によるコスモスへのエロス的拡散を武器とする「器官なき身体」の理念、その延長上に、スピノザの汎神論的な「神」が位置づけられている。

 「資本主義と分裂症」というシリーズ総タイトルをもつ、『アンチ・オイディプス』(一九七二)から(テノール歌手・秋川雅史の歌う「作詞者未詳」の名曲「千の風になって」を想わせる)『千の高原(ミル・プラトー)』(一九八〇)に至る、ドゥルーズ=ガタリのポストモダニズムは、このドゥルーズの名著『スピノザ』(一九八一)によって、文体的にも、最高の表現形態を獲得しえている、と私は思う。

 ただし、ハイデガーの現象学の影響を受けたサルトル以後のフランス現代哲学の文体というものは、恐ろしく独りよがりな、晦渋(かいじゅう)きわまる悪文であって、彼らと言語的・認識論的共有性を持たぬ、まっとうな生活者的・文学的感性を備えた読者には、到底、付き合い切れるしろものではない、ということは、断っておきたい。

 フーコーやドゥールズ、ガタリも、そういう困り者の連中であって、例えば、ドゥルーズは、一九八六年に刊行された力作『フーコー』の導入部において、歴史的な地層の中で分散しながらも、同時に(<権力>という焦点の周りで)互いに関係づけられている、一群の言語表現の客観的自律性を表す「言表」という概念について語っているのであるが、その説明のために、わざわざリーマンの位相幾何学(非ユークリッド幾何学)の「多様体」というアイディアを持ち出したりする。

 いい加減にしてもらいたい、と思う。どうして、もっと分かりやすく言えないのか。

 私がフーコーやドゥルーズの哲学を「腑に落ちる」ように理解するためには、極度に観念的・抽象的な(彼らの仲間内にだけ通用するような)難解で独りよがりな<文体>への辟易(へきえき)する想いに耐えながら、その言説・思想を鵜呑みにすることなく、己れが熟知している具体的な社会史的・精神史的な実例に則して、慎重に検討し直さなければならず、また、他者の<言葉>や<表現>に接する時の、己れの偽らざる実感や、自分自身の<表現>行為の<具体的実践>のシチュエーションに、丁寧に置き換えて考えてみなければならないのだ。

 かなりの徒労感を伴わずにはいられない、大変な<労役>なのである。

 なぜなら、ドゥルーズ=ガタリの言説は、これまでに形成されてきた己れ自身の思想から視る時、私自身にとっては「分かり切った事」に属する、しかし「貴重」な真理を含むと共に、「断じて認めることができない」呪われたる思想をも含んでいるからだ。

 その意味で、私は、ドゥルーズ=ガタリの哲学に対して、常に、ある種の<近親憎悪>の感情を抱いてきた。

 ところが、『スピノザ』という著作は、私に、そういう徒労感や呪わしい不快感といったものを、全く喚起させないのである。

 この書の文体は、決して晦渋な悪文ではなく、ドゥルーズという哲学者の純粋なハート、彼の魂の混じりっ気の無い<渇き>というものが、痛いほどに伝わってくるのである。

 ガタリとも違う、真に孤独な単独者=表現者としてのドゥルーズの面貌を、私は初めて、この書に見出すことができたのだ。

 想うに、これは、スピノザという孤独な哲人の聡明な知性の美徳の賜物であろう。

 この哲人との純粋な出逢いの持続こそが、独仏系二十世紀哲学の晦渋な悪文の轍(わだち)から、ドゥルーズを一時(いっとき)救抜し、明晰で澄んだ、力強い文体を紡ぎ出させたのである。

 私は、ドゥルーズの『スピノザ』に接して、久しぶりに、デカルト、ルソー、ベルクソンと続いてきた(十七世紀から二十世紀初頭にかけての)近代フランス哲学の、明晰な知性の良き伝統に回帰できたような喜びを味わった。

 家族・日常性・実生活・主体・生涯という物語性に対する、そしてまた、存在の奥ゆきや闇、森羅万象の神秘な意味や価値の次元、類的な生命に対する<否定者>であるドゥルーズに対して、私は、依然として、彼の<敵>であり続けるだろう。

 その意味で、私の反(アンチ)・ポストモダニズムの立ち位置は、変わっていない。

 だが、ドゥルーズのこの『スピノザ』を熟読・再読できたことで、私は、他の凡百のポストモダニストとは違う、真に尊敬すべき最高のポストモダニストにめぐり逢えたと思う。

 一九八一年に刊行されたこの書は、悪夢の二十世紀の最後を飾るにふさわしい、真の哲学的名著であり、ドゥルーズの同志として、彼の思想的なバックボーンの役割をはたしたミシェル・フーコーの<権力>への視座を示す哲学的・歴史的諸著作と共に、そしてまた、偉大な情熱と真理と痛ましい錯誤から成るニーチェの著作と共に、二十一世紀に生き残る不朽性を備えている。

 この『スピノザ』にめぐり逢えたことを、私は、立場の相違を超えて、心から幸福に思うものである。

 

 

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書評:ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2016.05.18 Wednesday
  • 17:41
川喜田八潮評論集『コスモスの風』
書評篇
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(鈴木雅大訳)平凡社ライブラリー(連載第2回)
 
     3
 
 ドゥルーズは、ミシェル・フーコーの権力概念を受け継いでいる。
 フーコーのいう<権力>とは、国家によって定められ、大衆に押しつけられた、垂直下降的な制度的システムのことではない。
 個々人が人生において遭遇する、生の<選択>を迫られる無数の局面において、そのつど、意識的・無意識的に<選択>を強いてくる、微視的(ミクロ)な内面的権力のことである。
 それは、個々人が直面させられる対象によって喚起された<情動>のあり方によって決定される、対象との間の作用と反作用の関係にほかならない。
 国家の制度的な権力とは、大衆一人ひとりが置かれた、そのミクロな権力関係によって自ずと情動的に強いられた生の<選択>の無数の集積、<積分体>への<統合作用>の結果として紡ぎ出されたものにすぎない。
 
権力関係は、様々な特異性(情動)を決定する差異的な関係である。それらを安定させ、地層化するような現実化とは、一つの統合作用である。つまり一つの「普遍的な力線」を引き、様々な特異性を結びつけ、それらを整序し、等質化し、系列化し、収束させるような作用である。」
あらかじめ直接的に、全体的な統合作用が存在するわけではない。むしろ、多様な局所的、部分的な統合が存在し、そのそれぞれが、何らかの関係、何らかの特異点に似ているのである。統合を行なう諸要素、地層化する諸要因は様々な制度を構成する。<国家>、また<家族>、<宗教>、<生産>、<市場>、<芸術>それ自体、<道徳>‥‥‥。制度は、源泉でも、本質でもなく、本質も、内部性ももたないのだ。制度は、実行であり、操作のメカニズムであって、権力を説明するものではない。」
制度の方が関係を前提とし、生産ではなく、再生産の機能において関係を「固定する」ことで満足するのだ。<国家>というようなものはなく、ただ国家化があるだけで、これは他の場合についても同じことである。」
「だから、おのおのの歴史的形成に対して、このような地層の上にあるそれぞれの制度に属するものが何か、つまり制度はどんな権力関係を統合し、他の制度とどんな関係を保ち、どのようにして、このような配分は地層から地層へと変わっていくのか、と問わなければならないだろう。
「私たちの歴史的形成において、国家という形態が、かくも権力関係をとらえてしまったとすれば、それは権力関係が国家から派生したものだからではない。逆に、「不断の国家化」の作用が、確かに、場合によってかなり変化するのだが、教育、司法、経済、家族、性などの秩序において、全体的な統合をめざして生み出されたからである。いずれにしても、国家の方が権力関係を前提とするのであり、国家は権力関係の源泉なのではない。」(ジル・ドゥルーズ『フ―コー』宇野邦一訳、河出文庫、下線引用者、以下の引用においても同前。)
 
 フーコー、ドゥルーズが洞察してみせた、個々人が強いられるミクロの<権力>の本質とは、家族、宗教、道徳、教育、性、生産、市場、芸術や言論‥‥‥といったような、生の現場における可視的な具象的・実体的関係そのものではない。
 それとは別次元に存在している不可視の力のことであり、その隠微な力は、個々人と対象との間に生ずる<情動>関係による<揺らぎ>を通して、それら可視的な具象的関係の内に、<表出>の場を持つのである。
 すでに存在し、己れを囲い込んでいる生の具象的な現場(家族とか学校のような)において内面的な規定性を受けながら、(好むと好まざるとにかかわらず)そのつど生の<選択>を強いられるという形で、己れの置かれた不可視の<権力>関係を、可視的な権力関係へと変換させられているのだ。
 しかし、その可視的な具象的・実体的な場における権力関係は、あくまでも、権力そのものの<本質>ではなく、日々の対象とのヤリトリ、<情動>関係による揺らぎを通して強いられる権力が、歴史的な地層の場において、局所的・部分的に「統合」されたものにすぎないのだ。
 
権力は形態を経由するのではなく、様々な点を経由する。それぞれの場合に、ある力の適用、ある力の他の力に対する能動または反動、つまり「つねに局在的で、不安定な権力の状態」としての情動をしるす特異点を経由するのだ。
「権力関係は、同時に局在的、不安定、そして拡散的であり、一つの中心点や主権という唯一の焦点から放たれるのではなく、それぞれの瞬間に、「点から点へ」力の場のなかを移動し、屈折、跳ね返り、反転、渦巻き、方向転換、抵抗などを示すのである。」
だから、権力関係は何らかの審級に「局限しうるもの」ではない。それは、地層化されないものの実践として、一つの戦略を構成し、「無名の戦略」は、可視的なものと言表可能なものの安定した形態をのがれてしまうのだから、ほとんど無言で盲目である。
戦略的環境あるいは地層化されないものを定義するのは、権力関係の不安定性である。だから、権力関係は、知られるということがない。
「確かに、フーコーによれば、すべては実践的である。しかし権力の実践は、どんな知の実践にも還元できないのだ。このような性格の違いを明確にするために、権力は一つの「ミクロ物理学」に関わる、とフーコーは述べるだろう。ただし、「ミクロ」を、可視的あるいは言表可能な形態の、単なる小規模化と受け取ってはならない。そうではなく、別の領域、新しいタイプの関係、知には還元できない思考の次元、つまり動的な、局限することのできない関係として受け取らなくてはならないのだ。
こうして、国家であれ他のものであれ、制度の最も普遍的な性格を定義しようとするなら、それは権力‐統治の分子的または「ミクロ物理学的な」前提的関係を、ある種のモル的な審級の周囲に組織することであるように思われる。モル的な審級とは、国家にとっての<主権者>または<法>、家族にとっての<父>、市場にとっての<貨幣>、<金>、あるいは<ドル>、宗教にとっての<神>、性的制度にとっての<性>である。」(『フーコー』、斜体字は原文では傍点。)
 
 このような<制度化>の働きにおいて要(かなめ)となるのが、<知>の役割である。
 <知>は、権力の究極の本質をなす不安定な<情動>的関係を、<制度化>に向けて統合する。
 
私たちは、権力の情動的なカテゴリー(「煽動する」、「誘発する」といったタイプ)と、知の形式的なカテゴリー(「教育する」、「世話する」、「罰する」‥‥‥)とを混同しないようにしよう。知のカテゴリーは、見ることと話すことを通じて、権力のカテゴリーを現実化するのだ。しかしまさにこのようにして、一致を排除するこの移動によって、権力関係を現実化し、調整し、再配分する知を構成しながら、制度は権力関係を統合することができる。そして、問題となる制度の性格にしたがって、あるいはむしろその作用の性格にしたがって、可視性と言表はそれぞれに一定の敷居に到達し、この敷居は、それらを政治的にしたり、経済的にしたり、美学的なものにしたりする‥‥‥(確かに、一つの問題は、可視性がまだ敷居のこちらにあるとき、言表だけが、例えば科学的な敷居に到達することがありうるかどうか知ることである。あるいはその逆がありうるか。しかしこのことによって真理が問題となるのだ。国家、芸術、諸科学の可視性があり、同じくたえず変化する言表がある)。」(『フーコー』)
 
 ドゥルーズは、「知のカテゴリー」は、「見ること」と「話すこと」、すなわち「可視性」と「言表」を通じて、「権力のカテゴリー」を「現実化」するのだ、と言う。
 そして、<知>によるこの「現実化」こそが、「制度」による権力の「統合」をもたらすのである。
 ドゥルーズが見据えている、<知>によって支えられた、権力の可視的・言説的な制度的統合が、法、政治、経済、教育、道徳、宗教、家族、性、芸術といった領域にとどまらず、「科学」にまで踏み込んでいることに、注意する必要がある。
『臨床医学の誕生』で、フーコーが、「近代医学」の「言表」=<知>によって、人間の<身体>概念が「可視的」な実体として固定され、狭窄され、「制度化」されるというカラクリを辿ってみせたように、<知>の言説が生み出す「制度的」権力は、有無を言わさぬ「科学的」な真理という形をとった強迫観念となって、私たちを囲い込んでいるのである。(もっとも、私たちを真に脅かしているのは、実は、「実証的」な「科学的真理」そのものではなく、暗黙の裡に科学を導き、あるいは科学をヒントにして紡ぎ出された、ある種の疑似科学的なイデオロギー、世界観や存在論だと言ってもよいのだが。)
 ドゥルーズ的に言うなら、<権力>の本質を洞察する上で肝心な事は、こういった、諸々の「モル的な審級」の周囲に組織された、可視的で「制度的」な実体概念にとらわれずに、その根底に潜む「ミクロ物理学的」な不可視の隠微な力、すなわち、個々人と対象との間に生ずる<情動>の揺らぎのあり方を、ありのままに透視することだ、ということになる。
 <脱権力>への戦略は、そこから初めて生まれうる。
 それは、人間の感情とその感情に対応する身体性(身体感覚や行動様式)のあり方を明晰に認知することで、われわれの身体を無意識裡に拘束しているさまざまなとらわれから、己れ自身を解放してみせるという営みに通じている。
 
「スピノザは言っていた。人間の身体が、人間の様々な規律から解放されるとき、この身体にとって可能なことは測りしれないと。そしてフーコーにとって、「生きているものとしての」人間、「抵抗する力」の総体としての人間にどんなことができるか、測りしれないのだ。」(『フーコー』)
 
 さまざまな負の情念や迷信にとらわれ、翻弄される人間の険しさや弱さ、愚かしさを、あるがままに凝視し、その呪縛からの脱却による<身体性>の解放を求めたスピノザの叡智に、ドゥルーズは、己れの<脱権力>への戦略を重ね合わせる。
 例えば彼は、スピノザの思想にもとづいて、「道徳的な善悪」に代わって、<いい><わるい>という概念を対置してみせる。
 
「<いい>とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の合一をみて、その力能の一部もしくは全部が私たち自身の力能を増大させるような、たとえばある食物[糧となるもの]と出会う場合のことである。私たちにとって<わるい>とは、ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの・合わないものという客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。」
「また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、当の人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを形容する主体的・様態的な意味ももつようになる。いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)といわれるのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能を増大させようとする人間だろう。<よさ>とは活力、力能の問題であり、各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だからである。
わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、ただ行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受けとめるばかりで、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、嘆いたりうらんだりしている人間だろう。いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかもおかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことができるだろうか。どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、自身の毒素や害毒をまき散らしてその輪を広げずにいられるだろうか。ひとはもう自分でも自分がわからなくなってしまうことさえあるのである。」
かくて<エチカ>[生態の倫理]が、<モラル>[道徳]にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き[判断]であり、<審判>の体制にほかならないが、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(<いい><わるい>)がとって代わるのである。」(ドゥルーズ『スピノザ』第二章、斜体字は原文では傍点。以下の引用においても同前。)
 
 生の<力能>を徳とみなし、「悪しき関係」を断ち切り、「良き出逢い」を能う限り招き寄せようとするスピノザの叡智を美事に押さえた言説となっている。
 特にスピノザが諸悪の根源として見据えているのが、「悲しみの受動的感情」という概念であると、ドゥルーズは指摘する。
 
スピノザはその全著作をつうじて、たえず三種類の人物を告発しつづけている。悲しみの受動的感情にとらえられた人間、この悲しみの受動的感情を利用し、それを自己の権力基盤として必要としている人間、そして最後に、人間の条件や人間のそうした煩悩としての受動的感情一般を悲しむ人間(憤慨したり嘲笑したりするかもしれないが、その嘲笑自体にも毒が含まれている)である。奴隷[隷属者]と暴君[圧制者]と聖職者と‥‥‥まさに三位一体となった道徳の精神。エピクロス、ルクレチウス以来、これほどみごとに隷属者と圧制者とのあいだの深い暗黙のきずなを示した者はいなかった。」
悲しみの受動的感情は、際限ない欲望と内心の不安、貪欲と迷信がひとつに結びついた観念複合体にほかならないからだ。「あらゆる種類の迷信に最も激しくとらえられずにおかないのは、世俗的な幸福を最も飽くことなく追い求めるひとびとである」。圧制者はそれを成功させるためにひとびとの心の悲しみを必要とし、悲しみに心をとらえられたひとびとはそれを助成しその輪を広げるために圧制者を必要とする。いずれにしても、この両者を結びつけているのは生に対する憎しみ[嫌悪]、生に対する怨恨の念(ルサンチマン)なのである。『エチカ』には、あらゆる幸福がその眼には侮辱としてうつり、ただひたすらみじめさや無力感をおのれの情念として生きている怨恨の人の肖像が描かれている。
スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考えるひとびとには属していない。彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼讃しているにすぎないのだと。」
それがどんなかたちをとり、どんな理由にもとづくものであろうと、悲しみの受動は私たちの力能の最も低い度合を表している。私たちが最大限にみずからの能動的な活動力能から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄想や圧制者のまやかしにとらえられた状態である。『エチカ』[生態の倫理]は必然的に喜びの倫理でなければならない。喜びしか意味をもたないし、喜びしか残らないからだ。ただ喜びだけが私たちを能動に、能動的活動の至福に近づかせてくれる。悲しみの受動は、どこまでも[自身の]無力の感情でしかない。」(『スピノザ』第二章)(この稿続く)



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書評:ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(連載第1回) 川喜田八潮 

  • 2016.04.17 Sunday
  • 15:56
川喜田八潮評論集『コスモスの風』
書評篇
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(鈴木雅大訳)平凡社ライブラリー(連載第1回)
 
     1
 
 十七世紀オランダで活躍した偉大な哲人スピノザについて語るに当たって、まず私は、ポストモダニストの巨匠ジル・ドゥルーズの名著『スピノザ』について論じることから始めたい。
 ドゥルーズは、スピノザを〈生〉の哲学者と規定する。存在と人性への透徹した〈知〉による「俯瞰的凝視」の果てに、「生きること」への〈能動〉のエネルギーを解放し、包摂してみせた思想家とみなすのである。
『スピノザ』の「第一章」の冒頭で、ドゥルーズは次のように語っている。
 
「ニーチェは、自身も身をもってその秘密を生きただけに、哲学者の生に秘められた謎をよく見抜いていた。哲学者が禁欲的な徳――謙虚・清貧・貞潔――をわがものとするのは、およそ特殊な、途方もない、じつのところ禁欲とはほど遠い目的にそれを役立てるためなのだ。」
謙虚も清貧も貞潔も、いまや〔生の縮減、自己抑制であるどころか〕ことのほか豊かな、過剰なまでの生、思惟そのものをとりこにし他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生、の結果となるのであり、そのような生をスピノザは〈自然〉と呼んだのだった。スピノザのいう〈自然〉とは、必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的に応じて生きられる生ではなく、生産から、生産力から、持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。謙虚も清貧も貞潔も、まさにみずからが〈大いなる生者〉として生き、われとわが身を、あまりにも誇らかな、あまりにも豊饒な、あまりにも官能的な原因のための一神殿と化す、彼(哲学者)一流のやり方だったのだ。
 「ここに哲学者の孤独もその完全な意味を得る。というのも彼は、どんな環境にも取り込まれることができないし、歓迎されることもないからだ。彼が生きる、というかむしろ生きのびる最善の条件を見いだすのは、おそらく民主的で自由主義的な環境だろう。だがそうした最善の環境ですら、彼にとっては、悪しき人々によってこの生が毒され、だいなしにされたり、生が思惟の力能から切り離されたりしてしまわぬようにするための保証を与えるものでしかない。思惟の力能は、一国家や一社会の目的を超え、あらゆる環境の枠を超えてもう少し先まで届いている。
「スピノザが明らかにしてみせるように、どんな社会でもそのかなめとされているのは服従であり、それ以外のなにものでもない。あやまちや功罪、善悪といった観念がもっぱら社会的なものであり、服従や不服従にかかわっているのもそのためだ。したがって最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に従わせることは社会自身の利益のために差し控えて、ただ行動に関してのみ規範への遵守をもとめるような、そんな社会だろう。
「この哲学者が、民主主義の国家や自由主義的な環境のうちに最も好ましい生存条件を見いだしていたことはまちがいない。だがどんな場合にも、彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。彼は思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。その暮らす国家、出入りする環境はさまざまに異なっても、哲学者は、いわば隠者として、影として、漂泊者として、家具付き下宿の間借り人として、そこに生きているにすぎない。」(ジル・ドゥルーズ『スピノザ』鈴木雅大訳、下線引用者、以下の引用においても同前。)
 
 ドゥルーズは、スピノザを、ニーチェとのダブルイメージによってとらえてみせる。
 周知のように、ニーチェの世界観に深い影響を与えたのは、ショーペンハウアーの哲学的大著『意志と表象としての世界』であった。そこでは、現象界は、生命と虚無への衝動という両義性を備えた盲目的な〈意志〉によって夢みられた不条理な幻影(マーヤ)にほかならなかった。それは、古代インド哲学や老子の東洋的ニヒリズムに深く通底するものであり、ショーペンハウアーは、存在を翻弄する現世の非情・酷薄なるカオスの実相を舌なめずりするように描出せんとする、マゾヒスティックなペシミストであった。
 彼の唱える盲目的な〈意志〉なるものは、一見、存在を包摂する四次元的な形而上学的実在のように見えるが、何のことはない、一皮剥いてみれば、因果律と自然法則に弄ばれる、意味も価値も無い、酷薄で非人間的な暗黒宇宙に、偶然的に浮遊している生命存在という、近代のアトミズム的・機械論的な世界観と、実質的には、さして違わぬ事を言っているにすぎない。
 世界を不条理なマーヤ(悪夢)とみなすインド哲学の〈無〉の思想も、「天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す」という老子の絶望の哲学、「無為自然」による脱現世の解脱(げだつ)の哲学も、三次元の形而下的時空に意識を拘束され、科学と合理主義以外に精神的な拠り所を持てない現代人のニヒリズムと、しょせんは同じ穴のムジナなのである。(「芻狗」というのは、「藁(わら)人形の犬」のこと。)
 いずれも〈死〉の脅威に蒼ざめ、虚無の空洞を内に抱え込んだ人間による、冷え切った身体性の病理を露呈するものにすぎない。
 ちなみに、その信仰心を試すために、人間をわざわざ絶望的な不条理の渦中に陥れ、弄ぼうとする、ユダヤ教の一神教的な神の理念もまた、このような歪んだ、マゾヒスティックな実存的表現の一形態とみなすことができる。
 ユダヤ教やキリスト教ばかりではない。あらゆる宗教的教義には、罪業の観念とそれにもとづく因果応報や祟りや神の審きの理念によって、人々の恐怖心を煽り立て、自己肯定力を弱め、死と不条理の想念によって身体を蒼白く縮こまらせ、うつろにし、人の生気を奪い、あるいは、狂信的な歪んだ献身の理念へと人を追いやるという負の側面、暗部の危うさというものが付きまとっている。
 ニーチェは、これらの諸々の〈死〉の思想の本質を喝破し、己れの〈認識〉の力をぎりぎりまで研ぎ澄ますことによって、対峙せんとした。
 ドゥルーズは、そのニーチェの姿勢に、「視る」ことに徹したスピノザの知性の比類なき聡明さ、透徹した知=認識の力の逆説的な活用によって可能となった、〈生〉の能動的解放への戦略を重ね合わせたのであった。
「一八八一年七月三十日付」のニーチェ書簡には、彼が、スピノザの思想から受けた衝撃が語られている。ドゥルーズは、こう語っている。
 
「スピノザは、きわめて精巧で体系的な、学識の深さをうかがわせる並外れた概念装置をそなえた哲学者であると同時に、それでいて、哲学を知らない者でも、あるいはまったく教養をもたない者でも、これ以上ないほど直接に、予備知識なしに出会うことができ、そこから突然の啓示、「閃光」を受けとることのできる稀な存在であるからだ。ひとは、あたかもスピノジストとなっている自分を見いだしでもするように、いつしかスピノザのただなかに来ているのであり、その体系のなか、構成のなかに吸い込まれ、ひきいれられているのである。
「私はびっくりした。魂を奪われてしまった(……)私はほとんどスピノザを知らなかった。私がたった今スピノザを必要としていると感じたとすれば、それは本能のなせる業だ。」……とニーチェが書いているとき、彼はたんに哲学者として語っているのではない。」(『スピノザ』第六章、斜体字は原文では傍点。)
 
「一八八一年七月」に、ニーチェは、スイスの小村シルス・マリアでスピノザを読んでいたが、翌月の八月に、『ツァラトゥストラ』(一八八三〜八五年成立)の根本理念である「永劫回帰」の思想を想いついたという。彼の「超人」思想の最高の結晶であるこの哲学詩の着想が、スピノザの再発見、この孤高の哲人との真の〈出逢い〉の衝撃によってもたらされたという可能性は大いにある。
 スピノザの「神」とは、人間に憐れみを垂れる存在ではなく、一切の神秘とも奇跡とも無縁な存在、人間の生に何の意味も価値も与えてはくれない、非情酷薄な「宇宙的気まぐれ」を司る、唯物論的な神である。
 しかもこの神は、存在を存在たらしめながら、未来永劫にわたって存在を不条理に翻弄する無時間的な神なのである。人間化された神ではなく、ニーチェ風に言えば、〈自然〉の本性たる不条理性の別名としての「永劫回帰」を司る汎神論的な神だということになる。
 スピノザは、人間を含む存在の〈本性〉を、〈認識〉の力をひたすら研ぎ澄ますことで「明瞭判然」と覚知し、そのことで、逆説的に、意識を超えた〈無意識〉の領域、〈身体〉によって担われる本能的で官能的な情動の領域を、〈生〉の能動的な活動能力へと転化=解放せんとした。そのような能動的解放が可能となるとき、不条理性を属性とする〈自然〉は、相貌を一変する。ドゥルーズが言うように、「ことのほか豊かな、過剰なまでの生、思惟そのものをとりこにし他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生」としての新たな〈次元〉を獲得するのだ。〈自然〉は、不条理性と共に、それを超克しうる生命的な輝きの場を紡ぎ出す、両義的存在となる。
 透徹した認識=〈知〉の力によって、感情の奴隷になることなく、己れの本能的な情動をみずみずしく解放できるとき、人は、非人間的な自然の不条理性を百も承知の上で、なおかつ、生の〈歓喜〉の歌をうたい上げることができる。
 それはそのまま、人が汎神論的な「神」と一体となった境地に達するということでもある。
 それが、スピノザ的なまなざしであり、おそらく、ニーチェの〈無意識〉がスピノザと出逢った場所だとおもえる。
「永劫回帰」という存在の不条理性を敢えて甘受・肯定しつつ、それを超える生の歓喜をうたい上げる『ツァラトゥストラ』の「超人」の姿は、その意味で、まさしくスピノザ的なのだ。
 ニーチェは、一八八一年から八二年の夏頃にかけて書かれた『悦ばしき知識』(「第一書」〜「第四書」)の中で、自らの内なる「認識者」としての位相を特権化したスピノザの主知主義的姿勢を批判しているが、それにもかかわらず、ニーチェにとって、スピノザとの〈出逢い〉は衝撃的なものであったと、私にはおもえるのである。
『悦ばしき知識』の中で、ニーチェは、こう言っている。
 
「リヒァルト・ヴァーグナーは生涯の半ばにいたるまで、ヘーゲルのため惑わされておった。その後彼が自分の創造した諸人物のうちにショーペンハウアーの教説を読みとり、「意志」とか「天才」とか「同情」とかいった概念で自分自身を公式的に表現しだしたときに、いま一度おなじ誤りをおかした。にもかかわらずなおもって次のことは真実であるだろう――つまり、ヴァーグナーの主人公たちに見られる真にヴァーグナー的なもの(私の言っているのは、最高の我欲の無垢、善そのものとしての偉大な情熱に対する信仰、一言で言えばヴァーグナーの主人公たちの面差し(おもざし)に見られるジークフリート的なもの)、まさにこうしたものほどショーペンハウアーの精神に反しているものはまたとあるまい、という一事だ。「こうしたものすべては、私よりかむしろスピノザの臭い(におい)がする」――と多分ショーペンハウアーは言うだろう。」
(信太正三訳、ちくま学芸文庫、ニーチェ全集8)
 
 ヴァーグナー芸術に息づいている「ジークフリート的なもの」が、ショーペンハウアー的なペシミズム(ニヒリズム)とは、まっ向から対立する「スピノザ的」なものであることを指摘したこの文章は、はからずも、ニーチェにとってスピノザとの〈出逢い〉がいかなる本質をもつものであったかを、さりげなく語っているのである。
 
     2
 
 しかし、もちろん、ニーチェの思想がスピノザの影響によって形成されたというわけではない。彼はただ、ひとりの孤独な思想者として、スピノザという得がたい知己を見出したのだ。
 ニーチェ自身の思想は、あくまでも、『悲劇の誕生』(一八七二)をはじめとする、彼のギリシア古典文献学の研究成果をベースとして、紡ぎ出されたものであった。
 特に、「ソクラテス以前」の「イオニア派」の自然哲学者たちについての探求は、重要な意義をもっている。
『悲劇の誕生』刊行直後の一八七三年から七四年頃に書かれた未刊の草稿「ギリシア人の悲劇時代における哲学」において、ニーチェは、一方で、ターレスからアナクシマンドロス、ヘラクレイトスへと続く、主・客融合的でメタフィジカルな、コスミックな生命思想の流れを丁寧に辿りつつ、他方では、それと対照的な、パルメニデスやアナクサゴラスらによって象徴されるような、客体化されたニュートラルな自然概念について論及している。
 パルメニデスは、存在の生成という時間性を、「無時間的」な抽象的実在に司られた仮象とみなし、永遠なる自然の法則性という概念に道を拓き、アナクサゴラスは、逆に、存在の無限なる〈多様性〉に着目して、質的に異なる無数の元素による運動を想定し、その背後に、目的をもたぬ「恣意的な精神」の働きを認め、その〈遊戯〉のごとき運動によって、事物の「芸術的な秩序」が創造されるとした。
 アナクサゴラスを批判的に継承したエンペドクレスとデモクリトスもまた、アナクサゴラスと同様に、存在の〈合目的性〉を否認した。
 ニーチェによれば、エンペドクレスは、事物の運動の根底に、「求心」と「遠心」、「愛」と「憎悪」の二元的な力の働きを認め、「統一・融合」への渇望を秘めた、両者の〈闘争〉によって、存在の「渦動的・ラセン的」なダイナミズムが生ずると考えていた。
 その反発と牽引(けんいん)の二元的葛藤は、火・気・水・土の四元素という集合的形態を、存在の基体として生み出すことになる。
 ニーチェは、エンペドクレスのこの闘争の哲学を、ヘラクレイトスから受け継いだものとみなしている。
 一方、デモクリトスは、究極の存在者を、空虚な空間を占める、分割不可能な「原子」に求め、一切の存在の生成・運動を、抽象的な原子と不可分に結びついている重力のメカニックな作用に求めた。
 思惟・感覚知覚・生命とは、デモクリトスにとって、「火的原子の運動」の顕われにほかならない。
 ニーチェも指摘するように、デモクリトスに至って、世界は、一切の「道徳的・審美的意義」を持たぬ、ニュートラルな自然概念に置き換えられた。
 アトミズム的・機械論的世界観は、ここに、その原型を生み落としたのである。
 存在から、合目的性とそれに伴う意味と価値の概念を抜き、因果律と自然法則のみによって、宇宙の本質を客観的に規定せんとするその世界観こそ、後の西洋近代科学のバックボーンをなすものである。
 それは、「偶然の悲観主義」が支配する〈不条理性〉の世界にほかならない。
 パルメニデスからアナクサゴラスを経て、デモクリトスに至る流れの中で、近代自然科学の認識論的・理念的原型が準備されたことは確かであるが、ニーチェの考察において興味深いのは、その客観化された、ニュートラルで合理主義的な自然概念と表裏一体をなすものとして、存在の内にはらまれた、互いに反発し合う、愛(融合)と憎悪(分断・破壊)の衝動による〈闘争〉の〈火〉のドラマという、(ヘラクレイトスからエンペドクレスへと継受された)非合理的な生命的次元が、同時に強調されているという点である。
 すなわち、「ソクラテス以前」の自然哲学者たちについてのニーチェの史的考察には、自然科学のベースをなす没価値的で因果律的な世界観の形成がもたらす、存在の〈不条理性〉という側面の強調と共に、そこから生ずる生の無目的性、〈恣意性〉を逆手に取って、精神のディオニュソス的な陶酔、〈火〉の〈遊戯〉による、情熱的な芸術的燃焼を図らんとする、彼の思想的衝迫のかたちが、ありありとみとめられるのである。
 まことに、アクロバティックで刺激的な初期ギリシア哲学史の叙述というほかはない。
 しかも、その考察は、草案・覚書として記された部分もあるけれども、厳密かつ精緻な古典文献学の研究によって裏付けられており、きわめて説得的である。
「ギリシア人の悲劇時代における哲学」は、私にとって、読み返すたびに、新鮮な感銘と無限の興趣を覚えさせてくれる論考である。私には、ヴァーグナーへのオマージュを捧げた『悲劇の誕生』よりも、はるかに面白く感じられる。文体的にも、まことに生き生きとしている。
 この論考を読むと、本能の力を重視する、非合理主義的で実存的な孤高の哲学者であるニーチェが、いかに「科学」というものの本質をきちんと押さえていたかが分かる。
 だからこそ、彼は、それに対峙する形で、新しい〈主体性〉・〈遊戯〉・〈生成〉・〈芸術〉の理念を紡ぎ出してみせたのである。
 彼は、〈価値〉を排除した客観性=科学の世界への安住を拒否し、ショーペンハウアーのペシミスティックなインド的諦念=東洋的〈虚無〉の形而上学(ニヒリズム)を拒絶し、ハイデガーのように、大地の〈闇〉に屈伏するのではなく、大地の〈重力〉に拮抗して、〈闇〉の深奥から〈光〉を紡ぎ出し、「日輪」に向かって〈炎〉のように屹立(きつりつ)せんとしたのである。
「真夜中の深み」は、「午(ひる)」の日輪=火の輝きに通じているという、後の『ツァラトゥストラ』の思想的真髄は、まさしく、「ギリシア人の悲劇時代における哲学」で読み解かれたイオニア派自然哲学者たちの世界観をベースにしているといっていい。
 絶えざる死と消滅の脅威にさらされながら、不条理に翻弄されて移ろう無常なる世界の内に、瞬間的に息づく永遠の〈火〉を求め、存在の分裂・闘争とその弁証法的統合によるダイナミズムの中に、〈生成〉の火のドラマを視るというヘラクレイトスのまなざしこそ、ニーチェが、「ソクラテス以前」のイオニアの自然哲学者の内に見出した最高の思想的達成であった。
 明滅する生の〈瞬間〉の肯定によって、そのつど更新される〈主体〉のみずみずしい〈火〉の中に、〈永遠〉を視るという、『ツァラトゥストラ』の思想は、ヘラクレイトスの生成の〈遊戯〉という火の哲学に根をもっている。
 それはまた、プラトン以後の主知主義的な観念論的認識論とは完全に対極にあるまなざしであり、知性の逆説的な試行による無意識的な〈身体性〉の解放の理念にほかならなかった。
 私たちの〈無意識〉の深奥に抑圧されていた非合理的な〈闇〉の世界を、生命的で官能的な身体感覚=生存感覚として、肯定的に表出してみせること、すなわち、ニーチェ自身の言い回しを使うなら、「最高の我欲の無垢」「善そのものとしての偉大な情熱に対する信仰」を、己れの固有の生の文脈において、きちんと解き放ってみせること。そのためにこそ、〈知性〉を磨き、行使する。
 それこそが、『悲劇の誕生』で唱えられた、アポロン的な〈知〉を通じての、ディオニュソス的な生の陶酔・乱舞・遊戯の成就という「生の哲学」の戦略なのであった。
 この点こそが、ドゥルーズに言わせれば、はなはだ「スピノザ的」なのである。
「どんな社会でもそのかなめとされているのは服従であり、それ以外のなにものでもない」という言葉にもあるように、ドゥルーズは、人間の生命が自由に飛翔する世界を夢みて、脱国家・脱権力・脱社会の戦略を、スピノザの叡智と重ね合わせてみせる。(この稿続く)


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