七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2016.10.20 Thursday
  • 11:36

 

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 「溟い海」のラストで、チンピラに殴られ、ふらふらになりながら深夜に帰宅した北斎は、体の血を洗い流し、全身の痛みをこらえながら喉の渇きをうるおすと、行燈のそばで夜着をかぶって、描きかけの仕事にとりかかる。

 

 絹布の上に、一羽の海鵜(う)が、黒々と身構えている。羽毛は寒気にそそけ立ち、裸の岩を掴んだまま、趾は凍ってしまっている。

 北斎は、長い間鵜を見つめたあと、やがて筆を動かして背景を染めはじめた。はじめに蒼黒くうねる海を描いたが、描くよりも長い時間をかけて、その線と色をつぶしてしまった。漠として暗いものが、その孤独な鵜を包みはじめていた。猛々しい眼で、鵜はやがて夜が明けるのを待っているようだったが、仄(ほの)かな明るみがありながら、海は執拗に暗かった。

 それが、明けることのない、溟い海であることを感じながら、北斎は太い吐息を洩らし、また筆を握りなおすと、たんねんに絹を染め続けた。時おり、生きもののような声をあげて、木枯しが屋根の上を走り抜け、やむ気配もなかった。(「溟い海」)

 

 ここで作者は、広重の風景の根底に横たわる、しんしんとした原初の闇の深淵に目覚め、それに屈服し、己れの奇をてらった、どぎつい前衛的な抽象絵画的曲線を消そうと努める北斎の姿を描いてみせている。北斎芸術のむせかえるような獰猛な生命の協奏は黙殺され、広重的な寂静(じゃくじょう)の時空へと巧みに変換される。

 藤沢周平の広重的な世界にあっては、人は、日常のささやかな哀歓の物語を織り上げながら、現世の不条理をひっそりとくぐもるようにして耐え、くぐり抜けてゆく存在である。

 風景は、北斎画のように、奔放で巨大な生命の燃焼から成るぎらついたものではなく、日常と非日常、夢と現実のあわいを揺れ動く、はるかにわびしくつつましやかで、デリケートな鼓動を伝えるものとしてあった。

 誰にも伝わりようのない〈孤〉としての沈黙の深みをどこかに握りしめながら、それでも、生身の接触とぬくもりによって支え合う無名の人間たちの、切なくささやかな生涯が無数に点在するものとして、この社会、この地上的世界がある。そして、そういう地上的世界をひっそりと包み込み、癒してくれる母胎のごときものとしての、背景の闇のコスモスが息づいている。それは、人も含む森羅万象が、そこからたった一つの固有の存在としてこの世に生まれ落ち、死によって再び回帰していく原初の闇の深淵でもある。

 藤沢周平の原風景としての広重的な世界とは、おそらくそういうものである。

 この原初の闇は、もちろん、「ただ一撃」の刈谷範兵衛の狂暴な野性の目覚めや近松的な情死の衝迫にもつながっている。また、「旅の誘い」に登場する渓斎英泉のような、耽美的な官能世界の探求者、愛欲世界の淪落の淵に自らの肉体を沈め、ひたすら凝視し続けた芸術至上主義者の闇にも通じるものである。

 藤沢周平自身の眼にとって、それは本来、死や破滅と背中合わせになった危険極まる道につながるものであった。

 この作家が、己れの脱社会的な志向を、〈社会〉という秩序空間から絞め出され圧殺されることなく満たし、生の根底に据える道は、唯一つ、広重的な闇への下降に求めるよりほかにはなかった。

 一切の人間的な意味や価値というものを無化する原初の闇の深淵に、己れを消却し得る究極の深々とした静けさと安らぎのイメージを託す以外に、〈関係の絶対性〉に翻弄される、険しくはかない相対的な存在としての人間の我執を超える位相を見出すことはできなかったであろう。

 それは、地上的な生と天上的な飢渇に分裂した近松的な近代的世界観に呪縛された表現者にとって、己れの天上的な志向をメタフィジカルな〈自然〉という概念に帰着させることによって肯定的な手法で描き上げることのできる、唯一の突破口なのである。

 社会人=世俗人としての正気を逸脱することなく、したたかに社会の内部に定位し、生活者としてのまっとうな日常性の繰り返しに耐え、日々の無数の哀歓の物語の累積に慰安と平安を見出しつつ、ひっそりと生涯を全うする道を歩もうとする者が、己れの非日常的な脱社会的衝迫を飼いならす唯一の道は、作者にとっては、このような万物斉同の風景としての単色の闇への凝視と表現をおいてほかにはなかった。

 広重から見れば、渓斎英泉のようなアウトローの鬼才は、自分にとって得体の知れない魔界の住人であり、越えてはならない一線を越えて現世に帰還不能となった他界の人間であった。

 しかし逆に英泉から見れば、意外にも広重は、まっとうな生活人・社会人の面貌をみせながら、自分のいまだ到達し得ぬ原初の闇をひるまずに直視し、えぐり出してみせた驚くべき力量の持ち主であり、畏怖の対象であった。「旅の誘い」では、少なくともそう描かれている。

 

「朝な夕なにまくらが変わる、まくらかわらぬつまほしや。な、おい、おたえ」

 英泉は引き寄せた女の胸もとに手をさし込んだ。女は黙って英泉に躰を擦り寄せている。眼をそむけて、広重が言った。

「潮来絶句ですか」

「よく知ってるな一立斎先生。そう潮来絶句ですよ。わたしゃあけくれお前を思う、お前わたしを思やせぬ、ってね。北斎先生、あれを描いたころは、詩情溢れんばかりだったなあ。だが、以後親爺の絵には詩がなくなった。富嶽三十六景、結構です。だがあれは詩ではない。あれは力わざです。腕力というもんだ」

 広重は、英泉は北斎がよほど好きなのだと思った。

「しかるにここに安藤広重現われて、だ。風景を歌っている。結構ですなあ」

 英泉は盃を置くと、女にぐらりと躰を傾け、顔をかぶせると音を立てて唇を吸った。女が甘えた声を出した。英泉の右手はまだ女の内懐深くさし込まれている。

 不意に顔だけ捩(ね)じまげて、英泉は広重をじっと見た。鋭い眼だった。

「あんたはしかし、淋しい人だな。よほどの不幸があったと見える」

「どうしてですか」

「なに、あんたの東海道の蒲原一枚を見れば、それは解るさ。一度は人生の底を見た人間でないと、ああいう絵は出て来ねえな」(「旅の誘い」)

 

 ここには、「潮来(いたこ)絶句」に息づく抒情性への共感と「富嶽三十六景」に漲る生命的な自我意識への異和のないまざった畏怖の言葉を通して、英泉の北斎に対するアンビヴァレントな感情が語られているが、それは、いうまでもなく作者自身のおもいと響き合うものである。

 藤沢周平の北斎への反発は、何よりも、生き難さの業に翻弄される卑小な人間存在への共感の欠落、すなわち庶民的な哀歓のこもった演歌的な抒情性の欠落にあったが、その抒情性への飢渇が北斎の生命的な自己主張と真に拮抗し得るためには、広重の画に息づく闇の気配とその根底に透けて視える孤独の深さを対置してみせるよりほかはなかった。

 末尾にある英泉の言葉は、作者のそういう真情を代弁しているといっていい。

 広重に対するこの英泉のまなざしは、そのまま、「溟い海」で東海道五十三次の蒲原の絵に衝撃を受けた北斎の心境や月明りの下で彼が垣間見た広重の暗鬱な表情に重なるものである。

 

 人影は、顔が見えるところに来た。やはり広重だった。雲が吹き飛んで、月に照らされて、肉の厚い丸顔がはっきり見えた。………広重は手に折箱を下げていた。錦樹堂で酒が出たのだろう。木曾街道は、保永堂と錦樹堂伊勢屋利兵衛の共板になると聞いている。今夜の招きも、そういう打合せに違いなかった。もてなされたのだ。

 それなのに、この男の表情の暗さは、どうだ、と北斎は思った。ほとんど別人をみるようだった。嵩山房でみた広重の印象は、いま月の光でみる顔に、ひとかけらも残っていないのだ。………陰惨な表情。その中身は勿論知るよしもない。ただこうは言えた。絵には係わりがない。そこにはもっと異質な、生の人間の打ちひしがれた顔があった、と。言えばそれは、人生である時絶望的に躓き、回復不可能のその深傷(ふかで)を、隠して生きている者の顔だったのだ。北斎の七十年の人生が、そう証言していた。(「溟い海」)

 

 北斎の垣間見た広重のこの「回復不能の深傷」は、おそらく作者藤沢周平のそれと重なっている。

 藤沢周平は、昭和三十八年(一九六三)の十月、三十代の半ばで、最初の妻悦子夫人を喪っている。彼女はまだ二十八歳で、おまけに、この年の二月には長女が誕生したばかりであった。あまりにむごい運命だった。彼は、六年後の昭和四十四年に再婚するが、それまでの幼な子を抱えたひとり身の歳月は、到底、筆舌に尽し難いものがあったに違いない。

 若い頃の結核の療養体験とともに、この地獄は、藤沢周平に「人生の底」を見据えさせることになった。彼が、広重と北斎をめぐるモチーフに鬼気迫る取り組み方をするようになったのは、おそらく悦子夫人との死別の後であり、その白熱した格闘が、職業作家としてのデビュー作となった「溟い海」(オール読物新人賞)に結実する。

 藤沢周平は、広重の描いた寂寥の中に、己れの凝視した生の極北の風景を重ね合わせ、そこに、地上の業苦を客体的に見据える非情なリアリズム作家としてのプライドと、業苦を包摂し哀切な抒情の内に受け流す、無常なる〈自然〉としての闇の息づかいを、巧みに織り込めてみせたのだった。

 「溟い海」でスケッチされた広重の秘められた孤絶は、「旅の誘い」において、保永堂の脂ぎった現世的な成り上がり根性と対比されることで、さらに鮮やかに浮き彫りにされる。

 この無名の版元は、最初に広重の前に現われた時から既に油断のならない風貌をしていたが、同時に、広重の風景画家としての資質を鋭く見抜き、彼に東海道を描かせる契機を与えるだけの、暗い芸術的情熱を秘めた人物でもあった。

 しかし、東海道の絵が売れるようになると、保永堂は、儲けに眼を血走らせるだけの、ただの商売人に成り下がってしまう。広重はこの男のあっけない変貌ぶりに苦々しい異和と警戒のおもいを強めるが、そういう版元への鬱屈を、英泉や北斎のように無防備に吐き出すことはせず、慎重に胸中にしまっておく。

 保永堂と広重の関係は、もの書きの世界に置き換えてみるなら、いうまでもなく編集者と表現者の関係に当たる。「旅の誘い」は、版元・編集者と第一級の表現者がいかにして出会うことができ、いかにして袂(たもと)を分かつことになるかを、痛烈に具象化してみせた作品だといっていい。

 東海道五十三次の大ヒットで調子に乗った保永堂は、二匹目のどじょうを狙って、今度はこともあろうに、デカダンな美人画家の渓斎英泉にお門違いの木曾街道の風景画の連作を描かせるというあざとい趣向に走るが、それはものの見事に失敗してしまう。うろたえた保永堂は、英泉と解約し、その後釜を広重にしようともくろむ。

 「旅の誘い」は、木曾街道の続きを依頼された広重の孤独な心象風景の描写で結ばれている。

 

「話にならんのですよ、先生」

 保永堂は手酌で盃を満たし、一気に酒をあおった。顔が赤くなっている。

「英泉さんにまかせておいたら、この先何年かかることやら、商売になりません」

「それに」

広重は腕組みを解いて、保永堂の酒に濁った眼を、じっと見た。

「売れないのでしょう、保永堂さん」

 保永堂の顔を、無残な狼狽(ろうばい)が走り抜けた。保永堂は持ち上げた銚子を膳の上に戻し、広重の顔を見返したが、その顔は次第に俯いた。俯いたまま、保永堂は小声で言った。

「ご存じでしたか。もうお話になりません」

「………」

「あなたと組んだ東海道の儲けが、ま、あらかた飛んでしまうという感じですよ」

 保永堂は顔を上げた。

「お願い出来ませんか、先生。木曾街道にかかって下さい」

「しかし英泉さんの顔を潰すようなことは、私には出来ませんよ」

 広重は立上がって窓のそばに行った。日は暮れようとしていた。大川の水の上を靄(もや)のようなものが一面に覆い、微かな残照がその靄を染めていた。対岸の町は屋根だけしか見えない。舟が上ってきて、薄墨のような影を滲(にじ)ませて眼の下を通り過ぎた。通りすぎた後も、しばらくの間櫓の音が聞こえた。

 苦い喜びのようなものが心の中にある。危惧していた英泉の風景が、やはり失敗したらしいこと、そして木曾街道を、自分なら描けるだろうという自負が、暗い喜びを押し出してくる。

──英泉さんは女を歌う絵描きで、風景を歌う人間ではないのだ。

「先生、旅に出ませんか。先生なら、木曾街道から、東海道とはまた違った風景を掴んで来られると思いますよ」

 すでに仄暗い部屋の中から、保永堂が囁くように言っている。それは阿(おもね)るような声だった。東海道の話を持ち込んだとき、「あなたは風景描きだ」と迫った気迫はどこにもなかった。

 ただ旅に出ないかというひと言が、広重を動かしていた。そそり立つ岩石と樹立の間を縫う、ひと筋の街道が見えている。十三の時、父母を失った。そのことが埋めつくせない空虚な穴のように、心に棲(す)みついているのを知ったのは、東海道の旅をしているときだった。

 旅はその傷を癒すことはせず、かえって鋭い痛みを誘ったが、その痛みは真直ぐ絵に向かったのである。あんたは淋しい人だと英泉は言ったが、淋しい人間として、今度は木曾街道を歩いてもよいと思った。

──錦樹堂と共板ならばいいだろう。

と思った。

 薄闇の中にいる男とは、遠い昔に別れていたのだ、とも思った。(「旅の誘い」)

 

 ここには、作者藤沢周平のジャーナリズムに対するしたたかなスタンスと強靭な表現者的自意識が、鮮やかに脈打っている。

 保永堂への冷ややかな嫌悪と新たな注文が舞い込んだことへのひそかな安堵のおもい、己れの表現者としての不幸な資質への自意識と英泉への優越感が、日暮れ時の稠密な風景描写のひとこまの中にさりげなく象徴的に込められている。作者のアララギ派的な手法が存分に本領を発揮した名場面といっていい。

 ここで広重は、保永堂の根性を冷笑的に見切った上で、敢えて彼の注文を引き受け、その仕事の中にきっちりと己れの固有のピュアな衝迫を織り込めてみせるという不敵な自信を抱いている。英泉の失敗に対する「暗い喜び」は、その自信の裏返しにほかならない。

 こういうところには、社会人=世俗人としての己れを隙なく全うし、職業作家としても成功を収めた作者のしたたかな自信と、脱社会的な狂気に駆り立てられて、野放図に己れの野性を解放してみせた北斎や英泉のようなタイプの芸術家・表現者に対する、無意識のうぬぼれが透けて見える。

 

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 ところがどっこい、北斎の晩年の芸術作品は、そんな、藤沢周平の芸術と社会的ニーズを器用に折り合わせようとする職業作家的なうぬぼれなど吹き飛ばしてしまうほどの、脱近代的なスケールの大きさを備えているのだ。

 ここでは、北斎最晩年の肉筆画の絶品数点について触れておこう。

 ひとつは、弘化二年(一八四五)北斎八十六歳の時の作品、信州小布施(おぶせ)の祭り屋台の天井画として描かれた「怒濤(どとう)図」である。

 渦巻き状の、荒々しく幻想的な、それでいてどこかひょうきんな軽さを漂わせた波濤が描かれている。中心部には、青黒い闇の渦が幾重にもうねり、それを取り巻く外縁部の緑色の波の渦は炎のような生命力をたたえている。そして、外縁部の内側には、その陽性の荒々しさと均衡を保つかのように、澄んだ青の波濤がエネルギッシュに渦を巻いている。

 弘化二年に描かれた小布施の上町祭り屋台天井画には、もうひとつ、これと対をなす怒濤図がある。小布施の天井画については、この二作品の他に、前年の天保十五年(弘化元年)に描かれた東町祭り屋台天井画の「龍図」と「鳳凰図」、それに、弘化二年に描かれた岩松院の天井画の「鳳凰図」にも言及しないわけにはいかない。

 いずれも、北斎芸術の頂点に位置する傑作である。

 諏訪春雄が『北斎の謎を解く』で語っているように、これらの五つの天井画は、いずれも、古代中国の宇宙観の中心をなす「太極」の思想を象徴しているとみていい。

 太極は、森羅万象に内在する宇宙生命の根源であり、そこから万物の構成要素たる陰陽の二気を生み出す大いなる〈虚〉の源泉でもある。

 この太極の思想は、易(えき)から老荘の哲学、朱子学、さらには陽明学の「太虚」の思想へと継受されていき、わが国近世の思想界や道教的な習俗の影響を受けた民間土俗信仰の中にも深い痕跡を残している。

 「龍」や瑞鳥「鳳凰」の図は、この太極が、ひとつの壮大な身体イメージによって具象化されたものにほかならない。

 東町祭り屋台の「龍図」では、先に述べた上町の「怒濤図」や有名な富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」の図のように、いかにも北斎らしい、波先が無数の爪のように鋭く分かれた炎のような波濤によって囲まれた円形の闇の中で、巨大な龍が右巻きにうねっている。

 妖気溢れる猛々しい龍ではあるが、どこか人を食ったようなひょうきんな軽さもあり、不思議なぬくもりと超越的な風通しの良さを感じさせる。

 もっとも、〈龍〉については、これよりもはるかに力強い、なまなましいリアルな臨場感にあふれた肉筆画の絶品が、北斎の晩年には、幾つもある。

 岩松院の「鳳凰図」は、円形の極彩色溢れる優美で華麗な羽毛の重なりの中に、宇宙の〈存在の中心〉ともいえる巨大な一つ目が方々に点在し、羽毛の中心には、昂然と斜め正面を凝視する鳳凰の険しいまなざしが据えられている。

 紛れもなく、北斎の最高傑作のひとつといってよい。

 これらの小布施の諸作品は、この地の豪商で北斎の弟子・友人でもあった高井鴻山(こうざん)との縁(えにし)によって制作されたものであった。鴻山は、北斎も認める絵画の技量の持ち主であったばかりでなく、儒学・漢詩・書においても優れた才を示し、また幕末・維新期には志士としても活躍した。人間が薄っぺらでなく、高き志を秘めた、ハートのある器量の大きな人物だったようである。

 諏訪春雄の前掲書には、八十六歳の北斎が小布施に半年余り滞在し数々の作品を残して去った時に作ったという、鴻山の北斎評を示す漢詩の口語訳が紹介されている。

《来るときも招きによらず/去るときも別れを告げない。/行くも来るも自分の意思のままで/他人の拘束をうけることはない。/自在の変化を手中にし、心の欲するところに/生者死者が出現し、鳥獣もむらがる。/画道はすでにぬきんでて/富貴も座してまつことができるが/七度は上に浮かび、また、八度は下にしずむ。/なぜ窮乏の身となるのか。/あなたは見るであろう、冷たい冬をむかえる者は/またよく盛りの夏をむかえる者であることを。/冷冬も盛夏もみずからえらんで世間にかかわらない。/先生の心のおおらかさはまことに計り知れず、人の熱意によらずわれのためだけにわれのことをする。………》

 ここには、老荘思想の美事な実践者であり具現者であり得た北斎の、天馬空をゆく如き風貌が、鮮やかにうたわれている。

 鴻山が北斎の中に透視したこのような人間像は、私には、次のような『荘子』内篇の一節を彷彿とさせる。

「名(ほまれ)の尸(かたしろ)となること無かれ。謀(はか)りごとの府(くら)となること無かれ。事(しごと)の任(にな)いてとなること無かれ。知の主(あるじ)となること無かれ。窮まり無きものと体(ひと)つになり尽くして、かたち無きせかいに遊び、其(そ)の天より受けし所(もの)を尽(まっと)うして、得(くわ)うることを見(おも)う無し。亦虚(きょ)ならんのみ。至人(しじん)の心を用うるは、鏡の若(ごと)し。将(おく)らず迎えず、応(こた)えて蔵(こだ)わらず。故(ゆえ)に能(よ)く物に勝(た)えて傷つけられず」(「応帝王篇」福永光司訳。ただし、一部漢字をかなに改めた。)

 もちろん、現実の北斎が、この『荘子』の理想とする絶対者=真人の境位にどのくらい近づくことができていたかは、定かではない。

 だが、北斎が、当時の平均寿命をはるかに越えた八十六歳の高齢にあってもなお、絵画という己れの表現手段を通して真人の境位に歩み寄るために不断の精進を重ねるような、凄まじい求道的精神の持ち主であったことを、小布施に残る五つの天井画の絶品と鴻山の詩は物語っているようにおもわれる。

 しかし、これらの小布施の作品以上に私を魅了してやまないのは、嘉永二年(一八四九)北斎九十歳の年の作品「雪中虎図」である。

 雪の降りしきる中を、竹林の方に向かって、ひょうひょうとした表情でゆるやかに虚空を昇ってゆく虎の姿が描かれている。

 まろやかな雲のようなふわふわとした体勢であるが、爪は異様に鋭く、前足で山腹をのそりのそりとよじ登っていくような格好をしており、後ろ足の爪も、鋭く宙を蹴り上げている。

 しかし、なんともゆったりとして楽しげで、尻尾も、ひょうきんに蛇のようにうねっている。

 恐るべき画境というほかはない。

 この年の四月十八日、北斎は、辞世を残し、ひっそりと死去している。

 みじめな空洞を抱え、ライバルの仕事ぶりに戦々兢々とする、「溟い海」の深刻ぶった老絵師の敗残の姿とは似ても似つかず、実在の北斎は、九十歳の死に至るまで、己れのみずみずしい芸術的衝迫を失うことはなかったのである。

 世間や同業者たちのちっぽけな〈評価〉の目線など、歯牙にもかけようか。

 

     14

 

 本当は、北斎の場所は、必ずしも広重の場所と矛盾しているわけではない。

 だが広重の場所は、俳諧でいえば蕪村的なまなざしであり、天地が融合し、森羅万象がダイナミックな生命的流動と化して〈孤〉に宿る芭蕉的なまなざしとは違う。

 広重の場所は、前近代的な土俗共同体の闇の深みを背景に据えながらも、地上的な業苦をその内に包摂し、点在させることで、地上的散文的なリアリズムと天上的神秘的な自然へのまなざしへと二元的に分極する近代的な世界視線の萌芽を指し示している。

 対照的に、北斎の場所は、〈個〉の生命的謳歌を存分に自己主張せんとする姿勢において、紛れもなく近代的な自我意志の先駆となっているが、他方では、大自然と連動する、燃えるようなみずみずしい生命の奔流によって、前近代的アニミズム的な闇のエネルギーを伝えるものとなっている。

 北斎の芸術においては、自我意識とアニミズム的感覚は、分裂し背反し合うのではなく、互いにダイナミックな〈均衡〉を保ちつつ励起し合っている。

 ここで表現された〈個〉は、資本制近代が絶えず疎外し圧殺してきたものであり、資本制近代のもたらした痩せ細った観念的な自我意識としてのアトム的な個とは全く異質な、〈脱近代〉への志向につながる本質をもっている。

 そして、脱近代的なライフスタイルとは、脱社会的なまなざしを生の根底に据えることによって、はじめて可能となるものなのだ。

 藤沢周平の資質と重なる広重的な場所が私たちにとって現在的な意味をもち得るとすれば、それは、風景を包摂しその背景として息づいている脱社会的な原初の〈闇〉の気配をなまなましく触知させてくれるからにほかならない。

 それは同時に、北斎の生命的なダイナミズムのコスモスにも、また、「暗殺の年輪」や「ただ一撃」の獰猛な野性の衝迫にも通じるものである。

 かつて、一九八〇年代から九〇年代においては、初期藤沢作品に象徴的に込められていた脱社会的な過激さは、とうてい世間に受け入れられぬ、極度のマイナー性を強いられざるを得ない条件の下に置かれていた。

 しかし、二十一世紀に入った現在では、繰り返し述べてきたように情況は大きく変わりつつある。

 現在の大衆は、もはや、高度消費資本主義という安定した強固なライフスタイルの枠組に守られてはいない。

 既成の社会・組織・世間という実体に己れのアイデンティティーを委ね切ることによって生を意味づけることの困難な、〈個〉としての実存的な不安と不透明さを強いられざるを得なくなってきている。社会とか世間といった受け皿の中で相対的な〈評価〉の尺度をもとに生を意味づけるのではなく、より根源的な、脱社会的な固有の生の根拠にまで降りてゆかねばならなくなっているのだ。

 もちろん人間は弱い生き物であり、社会や制度や国家なしに調和ある世界を作ることはできない。

 しかし、同時に、近代人の自我なるものが、脱社会的な固有の生の源泉なしにはもはや生きられぬところにまで追いつめられていることも確かなのである。

 私たちの近代文明とは逆に、前近代の社会は、このような脱社会的な〈孤〉の位相と〈社会性〉を両義的に共存させ、均衡させるシステムを備えていた。

 例えば、渡辺京二は、文化人類学者阿部年晴の研究成果を踏まえながら、そのような両義性の最も成熟した形態を、アフリカ文明の独自の歴史的蓄積の内に認めている。

 

 阿部年晴の『アフリカ人の生活と伝統』が私をめまいするような興奮にひきこむのは、それが文明的制度のもっとも始原的なかたちを明らかにしてくれるからだけではない。アフリカ古文明という基底から照らすと、われわれが生きる現代文明が生の原理からいかに特殊化し逸脱して来たか、愕然とするような覚醒を与えてくれるからだ。

 アフリカ諸民族の自我観について、阿部はカセナ族の例をひいて次のように説いている。カセナ族では、人間はジョロとウエの二つの霊魂を持つとされる。ジョロは個人に分与された祖先の魂で、個人の社会的人格として作用する。個人が社会生活に定位しうるのは、ジョロの働きなのである。

 これに対してウエは神から与えられたもので、個人の運命が実現するように働く力である。ウエが実現しようとする運命は、社会のコントロールを超えている。社会を拒否することはウエの本性である。「カセナ族によれば、個人は二つの対極から成る楕円のようなものである。一方の極は社会的なもので祖先と結びつき、他方の極は社会外的なものとして把握された個性的なもので荒野と神に結びつけられている」。

 人間の魂の本性に関するこのような二面的了解は、なにもアフリカ特有のものではあるまい。とくにそのジョロ的側面は、先祖というものに自我の碇を繋ぎとめて来た戦前日本人にとって、きわめてわかりやすくさえあるだろう。個人を動かす離群、あるいは反社会の衝動についても、むかしの日本の村人は個々の「性分」としてある種の運命ふうな了解をとげていたはずである。

 共同体に生きる人間を集団的人格としてのみ単純化するのは、文字からものを考えようとするものの悪弊である。ムラ的な拘束は離群の強い衝動とつねに表裏していた。群から離れて個でありたいというのは知識人だけの心性ではない。文字と縁なき労働する人にこそ、むしろその衝動の原型が保持されている。小川国夫の『試みの岸』はそのことを語った感動的な小説であった。

 しかし、日本も含めて高文明の社会は、このような自我の双極性を、社会に生きて作用する人格観として完成したことが歴史的になかったばかりでなく、今日では、この双極から生じる人格的不安定の統合を、まったく個我の甲斐性にゆだねてしまっている。アフリカの文明において、祖先を通じて人を社会に繋ぐと同時に、神意という了解によって人を社会から解き放つ、きわめて深い双極的自我観の古典的完成がみられたのは、おそらく阿部のいうように、その歴史的「停滞」にかかわるにちがいない。立ちつくすことによる熟成がここにある。日本も含めて高文明は、変化への刺戟をたえず内部から生成することによって、このような熟成の機会を失って来た文明かも知れないのだ。

 (「アフリカという基底」一九八三年毎日新聞西部版・『渡辺京二評論集成掘拿蠎)

 

 アフリカ古文明にみられるような古典的な完成度はないにせよ、前近代の文明は、何千年もの間、共同体の中に個を包摂しつつ、同時に、〈社会性〉と〈孤〉の間に微妙なバランスをとるような英知を保持し続けてきた。

 しかし近代は、一見、個を共同体から解き放ち、自由にしたかのようにみえながら、実は、原初的な、神秘な〈闇〉の位相を削り落とすことで、個の存立根拠を〈社会性〉の中に一元的に解消せんとしてきたのである。

 

「近代人は前近代の様々な社会形態のうちに、集団の専横と個人の抑圧をかぎとって来た。だが人間が個として生きる次元をまったく欠いて、集団に吸収され尽したり、集団的規制に画一化されてしまうような事態が、何千年も続きうるものなのか。むしろ個の全体主義的撃滅は、この二十世紀に生じた出来事なのだ」(渡辺京二「いま何が問われているのか」前掲書所収)

 

 前近代の文明が、地域・風土により、また時代により、貧困や専制をはじめとするさまざまな悲惨な暗部を抱え込み、それに対して近代文明が優位性を誇り、高度な物質的繁栄を達成してきたとしても、個的な生命の源泉を枯渇させずにはおかないという近代文明の無機的な浸食作用の異様さは、否定することができない。

 ファシズムやスターリニズムは、そのような資本制近代の無機的な浸食作用に対する、ヒステリックで退行的な代償の病理が産み出した狂気にほかならなかった。

 そして、その狂気は、資本制近代よりもさらに酸鼻な「個の全体主義的撃滅」をもたらしたのである。

 現代社会を構成しているアトム的な個は、実は、真の〈個〉ではないのだ。

 私たちの社会は、真の〈個〉を創出するために、脱社会的な〈闇〉の位相を必要としている。

 そのような脱社会的な生の基底があってはじめて、人は、孤立感の恐怖に由来する他者への〈強制〉という病や、社会・組織への〈過剰適応〉という病から解き放たれるからである。

 人々が真の〈個〉に向かって歩み寄る時、はじめて、〈社会〉もまた、それと均衡をとるかたちで、現在の産業社会的な狂気から新たな段階へと脱皮してゆくに違いない。

 初期藤沢作品に息づく闇への渇きは、このような脱近代へと向かう二十一世紀の課題とクロスしているのである。(了)

 

 

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七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.09.24 Saturday
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 ところで、一九七〇年代前半の初期藤沢作品には、「溟(くら)い海」(一九七一年)や「旅の誘(いざな)い」(一九七四年)のような、葛飾北斎や安藤広重を主人公とする風変わりな小説がある。これらは、「暗殺の年輪」や「ただ一撃」のような武家物で追求された脱社会的な闇への渇きというモチーフを、芸術と実生活をめぐる問題を通じて探求した作品であり、今なお、現在的な鮮度を失わぬ、重要な問題作となり得ている。

 最後に、この系列の作品に触れておきたい。

 「溟い海」では、既に「富嶽三十六景」と「富嶽百景」を出した後の七十代の老境に達した北斎が登場する。

 ここでの北斎は、芸術的な新手法の〈奇想〉に憑かれ、己れの〈名声〉に一喜一憂する人物として描かれている。しかし、この老浮世絵師には、もはや、「富嶽三十六景」を出した頃の暗い衝迫は無く、今では他人の仕事を絶えず気にかける小人でしかない。

 広重の「東海道五十三次」の画に己れのそういう〈空洞〉を衝かれた北斎は、広重への嫉妬に苦しみ、チンピラに彼を襲わせようとするが、月明りの夜道で見た広重の暗鬱な表情にうたれ、襲撃を中止する。逆に、金のことでチンピラたちにしたたか殴られ、よれよれになって帰宅した北斎は、描きかけの海鵜(う)の画布に向かい、鵜を包み込む「溟い海」の背景を丹念に染め続ける。

 この作品での藤沢周平は、北斎を、世間のウケを狙って次々と奇想天外な新手法を編み出そうとする、山師スレスレの成り上がり者として描いているが、同時に、その生きざまの底に、お上品で形式的な画壇の枠に納まり切れない、獣の咆哮(ほうこう)のような暗い獰猛な表現への衝迫が疼(うず)いていたことを指摘する。

 北斎の野心的な試みを単なる「人気取り」としかみなさない、正統的な画壇の評価尺度を代表する版元嵩山房(すうざんぼう)の主人小林新兵衛と北斎の冷ややかなやりとりを描いた後、作者は、四十代以後の北斎の生きざまを、次のように概括してみせる。

「昔、画壇の近くにいる、と感じた時期がある。狂歌本潮来(いたこ)絶句の挿絵を、当時二十過ぎで、すでに嵩山房を切り回していた新兵衛が激賞していると聞いたときである。北斎は四十半ばだった。/しかし、北斎の眼は、潮来絶句が戸を開いてみせた抒情の世界を覗くには、あまりに乾いていた。むしろその頃、憑かれたように、新兵衛がいう人気取りに狂奔していたのである。/音羽護国寺の境内で、大達磨(おおだるま)を描いた。本所合羽(かっぱ)干場では馬、両国の回向院(えこういん)で布袋(ほてい)を描いた。評判を聞いて集まった人々が見まもる中で、百二十畳敷きの紙をひろげた上に、藁箒(わらぼうき)で墨絵を描きあげるのである。米粒に、躍動する雀二羽を描いたのもその頃である。指先に墨をなすって描いたり、紙を横にして逆絵を描いたりもした。/新兵衛は、それを香具師(やし)の啖呵(たんか)にすぎないというのだ。北斎はそれを否定することが出来ない。現実に、そうして得た人気をテコにして、読本の挿絵を描いては第一人者という、評判と地位を手に入れた。効果的に、あくどくやったと自分でも思うことがある。/だが新兵衛は、彼からみれば醜悪にさえ見える人気取りに北斎を駆りたてたものを知らない。それが、四十を過ぎてなお無名だった男が、世間を相手に試みた必死の恫喝(どうかつ)だったことを、だ。たとえそのために、画壇に異端視されようと、また卑俗な処世術のゆえに二流扱いされようと、無名であるよりはいい。/しかし、北斎は黙った。/新兵衛の前に自分をひろげてみせることは、北斎には出来ないが、それだけではない。弁明をためらわせるものが、奥深いところにあった。無名でいることに耐え難かったのは事実である。だが、そのためにした曲技じみた画技の披露に苦痛はなかった。むしろ快感がうずいていたと言ってよい。/月並みなものに爪を立てたくなるもの、世間をあッと言わせたいものが、北斎の中に動く。北斎ここにあり、そう叫びたがるものが、北斎の内部、奥深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない。/それは、新兵衛がいう人気取りともまた、違うものだった。つながりはある。得た人気は、内部の暗い咆哮(ほうこう)のひとつの結果ではあるだろう。だが、それは断片にすぎないのだ。それを北斎は新兵衛に言うことは出来ない。それは、なぜか人に言うべきことでない気がしたのである」(「溟い海」)

 作者は、この北斎の「暗い咆哮」が、七十代の坂にかかった「富嶽三十六景」の頃までは確実に息づいていたが、「富嶽百景」では既に失われているとみなす。広重の画は、その北斎の空洞を衝くように立ち現われる。

 広重の「東海道五十三次」の評判に苛立つ北斎は、その絵がどの程度のものであるか自らの眼で確かめようとする。「風景の平凡なひき写し」という印象しか受けなかった広重の前作「東都名所」を想い出しながら、北斎は「五十三次」の作品を一枚一枚手に取って丹念に味わってゆく。

「それは、ごく平明な絵だった。一度みたことがあるような風景、ありふれた人物が描かれていて、解らないところはひとつもない。細密な描写、人物の把え方などでは、やはり東都名所を上まわって安定感がある。だが、それだけのことだった。構図も、手法も、北斎がみる前にひそかに懼(おそ)れたような、気がついて眼をみはるような新しさを、隠しているようには見えなかった。(中略)描く前に、北斎が練ったり截(き)り捨てたりする苦渋を、この絵は持たないようにみえる。その意味で、北斎の好みとは違うが、悪い絵ではない。むしろさらりと描きあげたところが俗受けした、そう思うことも出来た。/だが、北斎の中に、執拗にこだわるものがある。絵をみているうちに、その背後に太々しい自信のようなものがあることが、見えてきたのである。それが気持にひっかかった。さらりと描きあげる――それだけのものを、広重は、こんなに自信たっぷりに描いたのか。(中略)一枚の絵の前で、北斎はふと手を休めた。隠されている何も見えないことに、疲れたのである。結局広重は、そこにある風景を、素直に描いたにすぎないのだと思った。/そう思ったとき、北斎の眼から、突然鱗(うろこ)が落ちた。/まるで霧が退いて行くようだった。霧が退いて、その跡に、東海道がもつ平凡さの、ただならない全貌が浮び上ってきたのである。/広重は、むしろつとめて、あるがままの風景を描いているのだった。/描いたというより、あるいは切りとったというべきかも知れない、と北斎は息をつめながら思った。北斎も風景を切りとる。ただしそれはあくまで画材としてだ。それが画材と北斎との格闘の末に絵になることもあれば、材料のまま捨てられることもある。/広重と風景との格闘は、多分切りとる時に演じられるのだ。そこで広重は、無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景を、つまり人生の一部をもぎとる。あとはそれをつとめて平明に、あるがままに描いたと北斎は思った。/恐ろしいものをみるように、北斎は「東海道五十三次のうち蒲原(かんばら)」とある、その絵を見つめた。/闇と、闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。画面に雪が降っている。寝しずまった家にも、人が来、やがて人が歩み去ったあとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない。/その雪の音を聞いた、と北斎は思った。そう思ったとき、そのひそかな音に重なって、巨峰北斎が崩れて行く音が、地鳴りのように耳の奥にひびき、北斎は思わず眼をつむった」(「溟い海」)

 この描写の中に、作者藤沢周平の面目躍如たるアララギ派的美意識の本質とその限界性が、まことに正直に露呈している。

 北斎という、技巧的な幻想世界を砂上の楼閣のように築き続ける、才気走った芸術至上主義者の中に、作者は、七十年に及ぶ〈生活者〉としての空洞を透視してみせようとしているのだ。

 その空洞を際立たせる演出として、作者は小説中で、北斎の長男富之助を、養子先から勘当された女たらしの極道者に仕立て上げ、富之助に捨てられたお豊という薄幸な女を登場させる。乳呑み子を抱え、路頭に迷ったお豊は北斎のもとを訪れ、しばらく子供を預かってほしいと懇願するが、彼は冷たく突き放してしまう。やがて北斎は、夜鷹にまで身を落としたお豊の姿に出くわすことになる。

 おおかた、飯島虚心の名著『葛飾北斎伝』にある「長男は、其の名詳ならず。一説に、名は、富之助、中島氏を継ぎ、用達の鏡師たりと。又一説に(関根氏。)、長男は、放蕩無頼にして、家にあらず。終りを詳にせず。翁は、常に此の長男の為めに、心を痛め、屡(しばしば)負債を償(つぐな)ひしことありと」という記事をもとにした創作であろう。

 北斎には奇矯なふるまいが多く、常人の寸法をもって計れば、確かに生活破綻者的な生涯というべきであった。

 挿絵の注文も多く、通常の画工に比べてはるかに高い画料を得ていたのに、「常に貧し、衣服破れたりと雖(いえども)厭(いと)はず。金銭を得るといへども、敢て貯(たくわ)ふの意なく、これを消費すること、恰(あたかも)土芥のごとし」(『葛飾北斎伝』岩波文庫版)という有様だった。

 酒を嗜(たしな)むわけでもなく、遊蕩に溺れたという風もないのに、常に赤貧洗うが如き暮らしぶりであったのは、「これ金銭を貯ふに意なく、其の心唯一に絵画に専なる」のゆえであったという。

 しかし、北斎の芸術には、近代の芸術至上主義者にごまんと認められる、実生活や人間への皮相な侮蔑の念によるシニシズムや虚無的なただれた厭世感の匂いは、微塵も感じられない。

 虚心の『葛飾北斎伝』には、北斎が、送られて来た画図の報酬金の包みの中味を確かめることもせず机辺に投げ出しておき、米商や薪商などの借金取りが催促に来ると、その包みのままに投げ出して与えたという逸話が記されている。商人らが家に帰って包みを開けてみると、意外に金額が多いのでひそかにこれを納め取り、少ない場合は催促して不足分を取り立てた。そのため、商人たちにとって、北斎は「良き顧主」であったという。

 北斎の金銭に対する無頓着には、生涯に九十三回の引越しをしたという逸話と同様、物を所有することへの極度の忌避の念が見て取れる。

 それは、現世に背を向けた芸術至上主義者の幻想的な狂気とは紙一重で異なったものであり、むしろ、生きることの絶対感への凄まじい求道的な希求の顕われのように、私にはおもわれる。

 北斎にとって、絵は、生活とは別次元に存在する幻想の領域なのではなく、まさに生活そのものであり、彼は、生活に背を向けて絵を描いたのではなく、逆に、生活そのものを絵の表現の次元に引き寄せ、同化させてみせたのである。

 これは、実生活と表現を二元的に分裂させる近代的な芸術理念とは全く異質なものであるが、同時に、狂気とスレスレの芸術至上主義者の場所でもあり、また、常識をはるかに超えた闊達自在な〈生活者〉の場所でもある。

 北斎は、徹底した老荘思想の信奉者であり、また熱烈な日蓮宗の行者でもあった。

 北斗七星を中心とする星辰をコスモスの担い手として信仰し、その根源を司る宇宙生命としての〈龍〉の存在を確信していた神秘主義者でもあった。(北斎と老荘思想及び道教的信仰との深い関わりについては、諏訪春雄の好著『北斎の謎を解く』吉川弘文館を参照されたい。)

 一見、破滅型の芸術至上主義者に見える北斎の〈非所有〉の実践は、私には、現世の混沌を混沌のままにあらしめつつ、それと即自的に一体化することで生の充溢感を得ようとした、荘子の絶対者の境位を彷彿とさせる。

 こういう人物の生きざまを、近代文学的な散文的リアリズムの目線で推し測り、生活破綻者的な側面を強調してみせても、それは、対象を不当に矮小化させることにしかならない。

 作者がどんなに深刻ぶって凄んでみせても、「溟い海」の北斎像が、みすぼらしい小人ぶりをさらけ出すことにしかなっていないのも、そのためである。

 北斎の芸術に対する藤沢周平の異和は、広重のまなざしを描いた「旅の誘(いざな)い」の中でも鮮やかに表現されている。この作品では、ほとんど無名の絵師だった広重に「東海道五十三次」を描かせて大ヒットを飛ばすことになる、保永堂という得体の知れない野心家の版元と広重の関わり合いが、ひとつの重要なモチーフとなっている。無名だった保永堂は、後に「五十三次」の大成功ですっかり人が変わり、金の亡者に成り果てるのだが、初めて広重の前に現れた時には、内に暗い衝動を秘めた、芸術へのたしかな眼をもつ人物だった。

 彼は、広重の前に北斎の絵を示して、巧みに創作意欲を煽り立てる。

 

 保永堂の指は、また口上を述べながら売る品を揃える香具師(やし)のように、すばやく動いて二枚の絵を胸の前にかざした。

 一枚は画面一パイを痩身の富士が占め、細かな白い雲がその背後に漂っている。異様に赭い肌をした富士だった。もう一枚は、天を突き上げる針のように尖った富士である。空は蒼いが、その裾は漆黒の闇が埋め、鋭い稲妻がその闇をひき裂いている。

 それは、いつも広重を胸苦しく圧迫する風景だった。富嶽三十六景──。大版全四十六枚の前人未到の風景画だった。その風景によって、北斎はいまも江戸の寵児だった。

「どう思われますか」

「言うまでもなく絶品ですな」

 広重は言ったが、不意に衝き上げてきたものに動かされて言った。

「だが言わせてもらえば、臭みがある。たとえば山師風とでもいうか」

 富士は北斎そのものだった。傲然と北斎が聳えている。普段思っていることだ。だが言ってから、広重はすぐに後悔した。言うべきではなかった。北斎の富士がどう匂おうと、それが有無を言わせない絶品であることは疑いようがないのだ。(「旅の誘い」)

 

 保永堂は今度は、富嶽三十六景の中の「遠江山中」の富士の絵を出した。画面を斜めに巨大な木材が横切り、その上に乗った樵夫が鋸を入れている。富士は木材を支えた足場の間に顔を出していた。その富士が、広重には北斎その人のように見えた。やはり自信に満ち、傲然と聳えている。広重はその絵を見つめながら言った。

「こうした絵は、私には描けない」

「こういう絵を描く必要はありません、先生」

 不意に保永堂は囁くような小声になっていた。

「あなたを風景描きだと申しあげました。そうは言っても、失礼ながら今までのところ、お描きになったのは海のものとも山のものとも言えない風景です。だが、お解りになりませんか」

 保永堂の声はいよいよ低くなった。それでいて顔は赤らみ、眼は熱っぽく光っている。

「あなたの風景には誇張がない。気張っておりません。恐らくそこにある風景を、そのまま写そうとなさったと、あたしはみます」

 それは北斎のように奇想の持ち合わせがないからだ、と言いかけて広重はふと声を呑んだ。そうではなかったと思ったのである。たとえ奇想が湧いても、北斎のようには描かないだろう。風景はあるがままに俺を惹きつける、と思ったのである。

「そこが肝心です。北斎先生の手法は、なるほど未曾有のものですが、一回限りのものです」

 保永堂は断定するように言った。(「旅の誘い」)

 

 ここでも「溟い海」と同様、作者は、明らかに広重に己れ自身の場所を重ね合わせながら、北斎の「奇想」の中に傲然と息づく自我の強烈さに対して、アララギ派的な美意識の場所から執拗な拒絶のまなざしを注いでいる。

 広重を「胸苦しく圧迫する」北斎の風景とは、そのまま作者自身を圧迫するものの〈喩〉にほかならない。

 一体、藤沢周平は、北斎芸術の何にそれほど脅かされ、嫌悪をそそられるのであろうか。

 

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 引用の中にも登場する「富嶽三十六景」中の「遠江山中」の富士の絵を例にして、この問題を考えてみよう。

 この絵には、引用にもあるように、画面を斜めに巨大な肌色の木材が横切り、その上に乗った樵夫が鋸(のこぎり)を入れている。木材および木材を支える足場の下には、やはり鋸を使って木材加工の作業をしている職人たちや赤児を背負った女の後ろ姿などが生き生きと描かれ、焚き火の煙が空高くもくもくと立ち昇っている。富士は、それらの人々の楽しげに働く様を静かに見つめながら、木材足場の間から、ひょっこりユーモラスに、しかし晴れやかに顔を出している。

 ここでの富士は、決して、藤沢周平のいうように傲然とした姿はしていない。

 この絵の主人公は、あくまで、巨大な木材とそれを囲んで生き生きと立ち働く庶民たちであり、白い雲の間から顔を出す雪をかぶった富士のたたずまいは、ただ、その庶民たちの生活に漲(みなぎ)る生気に拮抗し、彼らを暖かく見守る、控え目な後景のひとつにすぎないのである。

 そのことは、頭部にかかった雪を除く富士の地肌が褐色であることからもわかる。この地肌の色は、そのまま、鋸や焚き火の煙の色、あるいは火の傍らに座っている子供や職人の着物の色にも連なり、富士と庶民たちとの関係が、対立的なものではなく土俗的な親和性に満ちたものであることを示している。

 しかも、富士や木材の背景となる空の色は、白雲たなびく水色から上方の濃藍色に至るまで美事なグラデーションを構成し、この配色は、巨大な木材の淡い肌色を鮮やかなコントラストによって引き立てると共に、富士の地肌と同様、働く人々の青緑や藍色や褐色の着物と調和し、彼らの生に深々とした奥ゆきを付与している。

 虚心に味わう限り、この一幅の絵が生み出す存在のふくらみは、とうてい、藤沢周平のアララギ派的な近代写実主義風の美意識によって粗雑に裁断できるようなものではない。

 藤沢は、おそらく、この絵にぎらぎらと漲っている北斎の生命的な〈個〉の自己主張に脅かされ、嫌悪しているのだ。

 藤沢作品のモチーフと本質からいっても、作者にとって、このような生命的な野性の息づかいは、この現世の秩序の内にあって無傷であり得るものではなく、常に、押し潰され、〈彼岸〉の世界へと押し出されてしまう運命にあるものなのだ。

 それが、藤沢周平の近松的〈近代〉のまなざしなのである。

 しかし、北斎にあってはそうではない。

 人であれ動植物であれ、それ以外の諸々の風景であれ、ひとつひとつの存在が、全身的に己れの生命の輝きを主張し、時に鋭く葛藤しながら、鮮やかな〈協奏〉を演じている。

 そして、それら万物を包み込む大自然もまた、富嶽三十六景の「赤富士」のように灼熱の生命を燃え上がらせている。

 D・H・ロレンスやヘンリー・ミラーのように、北斎もまた、存在とのみずみずしい身体的交感への〈没入〉の体験と、その体験のメタフィジカルなイメージの復元の中から、美事に、脱近代を体現する〈生活者〉のいのちの手ざわりを描き上げてみせた。

 たとえそれが、対象との間に冷ややかな距離を置く近代的な写実主義的美意識にとらわれた眼にとって、どれほど生活破綻者的に視えようとも、それ自体、誇り高く輝く新生の創出にほかならぬ。

 北斎の最良の作品は、なるほど、「旅の誘い」における保永堂のいうように、その一枚一枚が、〈型〉というものを無視した奇抜な「一回限り」の想いつきの手法によって描かれたものだろう。

 だがその一回性は、同時に、北斎にとって、世界とのそのつどの絶対的に新鮮な固有の〈出会い〉が生み出した、燃えるような生命的交感の結晶でもあったはずだ。

 手法=形式が内容を決めるのではなく、内容の表現への衝迫が最もふさわしい形式を招き寄せるのである。

 北斎自身の生命の源泉が枯渇しない限り、対象との絶対的な固有の出会いもまた枯渇することはなく、したがって、手法=形式も絶対的な新鮮さを失うことはない。

 それが、北斎芸術の恐るべき真髄なのである。

 そういう、いのちのまばゆい奔流が、藤沢周平を脅かしているのだ。

 北斎の芸術は、前近代的な土俗共同体社会に息づく、存在との生命的な相互浸透の感覚に支えられながらも、幕末という、近代的な〈個〉の衝迫が表現を求めて狂おしく湧出するカオスの時代にふさわしい、独特の不逞な〈均衡〉の産物となっている。

 そういう、前近代の土俗と近代的な自我意識のアマルガムともいうべきデモーニッシュな芸術に対して、オーソドックスな近代文学の流れを汲むリアリズム作家の藤沢周平は、身構え、自己正当化を図らねばならなかった。

 そのために、彼は、ことさらに北斎芸術の才気走った技巧的な「奇想」を強調し、北斎という不世出の大天才を、僣越にも、世俗やライバルの眼に汲々とする小人へと卑小化してみせた。その上、北斎の生活破綻者的な側面をどぎつく印象づけようとして、夜鷹にまで身を落としたお豊の哀切な運命を、影絵のように浮かび上がらせる。

 きわめつけは、もちろん、広重的な美意識への北斎の屈服である。(この稿続く)

 

 

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七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第3回) 川喜田八潮

  • 2016.08.24 Wednesday
  • 18:42

 

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 ここで再び、藤沢周平の作品に立ち戻ることにしよう。

 「オール読物」一九七三年三月号に発表された「暗殺の年輪」から、同年の六月号に発表された「ただ一撃」への微妙な推移は、以上のような七三年から七四・五年にかけての日本社会の隠微な変容を象徴的に先取りするものであった。

 「ただ一撃」には、脱社会的な野性の生命の息づかいが、藤沢作品中では空前絶後ともいうべきほどの力強さをもって凝縮的に表現されていると同時に、その野性が一瞬の光芒を放ちながら消滅へと向かい、息苦しい恒常的な社会秩序の内部に封印されていく時代の哀切な鼓動を鮮やかに伝えるものとなっている。

 思えば、藤沢周平の小説中最も優れた諸作品が、彼が作家としてデビューして間もない一九七三・四年に集中しているのは、皮肉なことである。

 この作家は、ほとんどデビューと同時に、己れの純粋な文学的衝迫のありかを完全に燃焼し切ってみせたのである。

 そのような燃焼を許すような闇の息吹が、まだ七〇年代前半の日本社会にはかろうじて残存し得ていたのだ。

 しかし、七〇年代後半の彼の小説では、早くも、初期作品に息づいていた殺気は大幅に希釈され、八〇年代以降になると、文学的には、ひたすら水増しと通俗化による大衆作家の道を安定的に突き進むことになる。

 司馬遼太郎と同様に、大衆からインテリまでの巾広い読者から愛好される、押しも押されもしない大作家の虚名を博するようになるのである。

 このような変貌の背景には、もちろん、七〇年代後半に形成され八〇年代から九〇年代にかけて膨脹を遂げた高度消費資本主義の時空がもたらした閉塞感や内的な風化という要因があったに違いないが、それだけではあるまい。

 資質と時代の課する制約の中で、食うために読者のニーズに懸命に対応しなければならぬという職業作家の業に加えて、おそらく老いと死の恐怖に直面する更年期の苦しみとの闘いが、そのような文学的妥協の道を選択させたのであろう。

 四十代以降に中年男女を襲う更年期障害の中で、まず人は、それまでの己れの世俗的な生涯において無意識の奥に封印してきた暗い非日常的なエロスへの渇きが、突如として表現を求めて溢れ出て来るのを感じ、戸惑う。

 世間で最もよく見受けられるのは、長年の家庭の平和を一瞬の内に崩壊させることも厭わないほどの中年男女の激しい不倫へののめり込みであろう。

 藤沢周平の初期作品「ただ一撃」も、ある意味では、四十代半ばという年齢にあったこの作者の更年期の危機を象徴する作品だとみることもできる。

 七〇年代後半の作品集『隠し剣孤影抄』に収められた秀作「宿命剣鬼走り」の主人公、小関十太夫もまた、このような更年期の苦しみに苛まれる四十代の初老の武士である。

 この小説は、若年からの宿命のライバルとして、剣技を競い合い、同じ女をめぐって激しい恋の争奪戦を演じ、やがては藩内の政策と派閥抗争をめぐる宿敵として相まみえることになった二人の武士が、ささいなことから、己れのはからいを超えた不条理な悪因縁の連鎖に巻き込まれて、次々と息子や娘を失い、ついには、この世への一切の未練を断ち切り、同性愛的な〈道行〉のような決闘によって己れの生涯に決着をつけるという、救いの無い物語である。

 この作品の興味深いところは、主人公小関十太夫が、ライバル伊部帯刀(たてわき)の一人息子の卑劣な策略によって長男を殺されたことに端を発する恐るべき不幸の連鎖の根底に、十太夫の生の〈空洞〉が招き寄せてしまった、得体の知れない、どす黒い〈邪気〉の存在が想定されていることである。

 それは、小説の導入部での、長男の死をめぐる十太夫夫婦のいさかいに象徴される妻との冷え切った関係や、やり場のない孤独な鬱屈を抱えた十太夫が釣りに通う青沼で不意に出くわした黒い不気味な巨魚の描写によって暗示されている。

 

 「大きいぞ、これは」

 十太夫は叫んだ。汀(みぎわ)から延びている松の根に足をかけて腰を決め、しっかりと踏んばったが、竿は手もとからもぎ取られんばかりにしなり、半ばは水に没している。そして竿は右に左にはげしく揺れ走った。(中略)

 ……強い引きだった。十太夫は身体を後に倒すようにして糸をたぐったが、鉤をくわえたものはびくとも動かなかった。そして、不意に沼の水がゆらりとひとところ盛り上がり、つづいて無数の泡が浮き上がって来た。それだけで水面の下にいる物の姿は見えなかった。十太夫は突然全身に汗が噴き出すのを感じた。青黒い水の底に、巨大なものがいた。

 そして、また強い引きが来た。両手で握っている竿がもぎとられそうになった。渾身の力を握りにあつめると、今度は十太夫の身体が浮き上がった。沼に引きこまれそうだった。

「竿放さねば、だめだ、旦那さん」

 ただならない様子に気づいたまきが、悲鳴をあげるように叫んだ。(中略)

 十太夫は竿を放せなかった。水中に潜んでいる物は、おのれの運命にかかわる敵に違いない。竿を放せば運命に打ち倒されよう。呪縛されたように、その思いに取り憑かれていた。(中略)

 そのとき、ぷっつりと糸が切れた。十太夫とまきの身体は、仰のけにうしろにはね飛んで倒れた。その衝撃のために、十太夫は、次に起きたことを確かに見さだめたとは言えない。だが、異様なものが眼に映った。

 ごうとまわりの空気が鳴り、不意に空が暗くなったようである。だがそれは、雨のように、二人の上に降りかかって来た飛沫のせいかも知れなかった。

 その飛沫の中に、躍り上がったものがあった。それがどういうものだったかを、跳ね起きて身構えながら、十太夫の眼は十分に見ていない。眼に残ったのは、黒くぬらりとした、小山のような背、そして確かにこちらを見た、透きとおるほど赤い、まるく大きな眼だった。それは、一瞬泡立つ飛沫の中に立ち上がっただけで、音もなく水中に沈んだ。

 そして沼に静寂と日の光がもどった。まだ郭公鳥が鳴いている。だがいま起こったことが、まぼろしでも何でもないことは、沼の水が異様にざわめき、岸に寄せる波がひたひたと音を立てていることでわかる。(「宿命剣鬼走り」)

 

 十太夫がいや応なく巻き込まれてゆく不条理の本質を、個人のはからいを超えた巨大な〈邪気〉の魔力の顕われとして凝縮的に象徴してみせた、鬼気迫る描写となっている。

 この邪気を醸成したものは、冷え切った夫婦関係となって顕在化した、十太夫の生の〈空洞〉にほかならない。

 妻との不和の直接のきっかけは十太夫の浮気にあったが、その根には、昔の恋人で今は仏門に入っている香信尼への断ちがたい慕情と、長年にわたる妻との血の通わぬ不実な生活が横たわっていた。一見平穏な世俗的生活のヴェールに覆い隠されていた生の空洞は、十太夫が更年期に突入した四十代になって浮上してくる。

 作者は、その事情を次のように的確に描出してみせる。

「香信尼を抱きたいと、日夜狂おしく思いつめた時期がある。そのはげしい肉欲は、不思議にも、生涯の終りがかすかに見えはじめた、四十を過ぎたころに来た。気性が合わぬと思いながらも、その妻にも馴れ、三人の子供も大きくなったそのころにである。/人生の大きな忘れ物に気づいたようでもあった。だがそれは、もっと理屈抜きの、暗く奥深いところから来る衝動のようでもあった。十太夫が、初雁町の路地の奥にるいという妾を囲ったのは、そのころである。そして生き物の暗い衝動は通り過ぎて行ったのだ」

 四十代半ばから五十代初めの藤沢周平の作品には、明らかに、老いと死の意識を契機として浮上する狂暴なエロス的衝動という実存的な危機に対する苦闘の跡が見て取れる。

 七〇年代における彼の作品では、その苦しみは、もっぱら非日常的な衝動に駆り立てられて破滅してゆく人物たちの悲哀の物語となって代償的に吐き出されていた。

 しかし、このような更年期のもちこたえ方は、五十代の半ばにさしかかった八〇年代初めの藤沢周平にとっては、もはや限界に達していたようである。

 一九八二年から八三年にかけて新聞連載された市井物の長編『海鳴り』は、更年期を迎えた中年の紙問屋の主人と人妻の不倫を描いた近松的なモチーフの小説であるが、その結末は、〈心中〉という彼岸的な志向へと収斂するのではなく、江戸を逃れて駆け落ちした男女が、昔の乳母以外誰も知る者のいない他国で、二人だけのひっそりとした小市民的日常を再建しようとする、穏和で半ばハッピイエンド的な希望によって締めくくられている。

 作者はこの小説について、最初は物語の結末を「心中」にするつもりだったが、次第に主人公の男女への愛着が深まり、結局「むごいこと」は書けなくなってしまった、という趣旨のことを述懐している。(「『海鳴り』の執筆を終えて」)

 そこには、八〇年代以降の後期藤沢作品への変貌の動機が端的に象徴されているといっていい。

 人は、もし狂気や自死の道ではなく、すこやかな日常生活者として更年期をくぐり抜け、幸福な晩年を迎えようとするなら、己れの狂暴なエロス的欲動を飼いならす術(すべ)を会得しなければならない。

 年中行事の中にさまざまなハレとケのメリハリによる美事なエロス的代償のシステムを備え、老人の経験と知恵に深い敬意がはらわれ、共同体のあらゆる構成メンバーが年齢の階梯に応じてしかるべき役割と位置を与えられていた前近代の土俗社会においては、死と孤立の意識を契機として浮上する更年期障害なるものは、おそらく、大半の人間にとって無縁の産物であったろう。

 だが、近現代の社会に生きる多くの者にとって、それは、老いと共に襲い来る巨大な試練とならざるを得ない。体力の急激な衰えと共に種々の心身症となって表われるこの病の根底にあるものは、死の恐怖にもとづく実存的な切迫感であり、断片化した個の意識を逃れ、母なる子宮に戻りたいという、類的な飢渇感の異常なまでの高まりである。

 現代人の場合、このような更年期の危機を斬り抜ける道は、私の考えでは、大きく分けて三通りあるようにおもえる。

 ひとつは、己れの狂暴なエロス的衝迫になんらかの芸術的な〈表現〉を与えてやると共に、そういう〈表現〉と均衡を保つことのできるような、忍耐づよい世俗人としての生活者的な身体性とリズムを構築してみせるというやり方である。

 このライフスタイルは、基本的に、日常と非日常を次元的に峻別し、使い分けることを意味する。世俗人としての己れの肉体にそれなりの自信と快楽を見出すことのできる人間で、しかも表現の才のあるものなら、こういう生き方も悪くはなかろう。

 しかし、非日常的な夢や美意識の表現への渇きによって、痩せ細った、散文的で殺伐とした日常や疎外された労働の苦役をもちこたえねばならぬ人間にとっては、このようなまなざしは苛酷なものとなる。己れの〈表現〉の質そのものが資質的に険しい、不幸なものである場合には、とりわけそうである。

 もうひとつの道は、己れの非日常的な渇きを、日常的な物語の内奥に繰り込み、〈生活〉そのものを別次元に塗り変えてみせるという生き方である。

 現世と彼岸、日常と非日常、地上と天上というふうに二元的に世界を分裂させ、各々を単色の時空とみなして対立的にとらえるのではなく、〈日常〉という時空そのものを、さまざまな次元が葛藤し合いつつ生々流転する、神秘で不可知なコスモスの顕われとみなすのである。

 このようなまなざしにとっては、芸術=表現も生活の一部であり、生活もまた、ひとつの芸術の表われなのである。

 第三の道は、非日常的な衝迫そのものを再び封印し(あるいは著しく希釈し)、己れのエロス的な欲動を、もっぱら社会的な意義やニーズを有する困難な仕事にふり向け、極力眼を自己の内面に向けないようにしながら、外へ外へと関心を散らし、絶えず忙しく立ち働くようにするというやり方である。

 八〇年代以降の藤沢周平が択んだのは、おそらくこの第三の道であった。

 そういう作者の生きる姿勢の転換は、山本周五郎風の哀切な人情劇の書き割りによって甘く感傷的に処理することのできる市井物の作品よりも、むしろ武家物の中に明瞭に表われてくる。なぜなら、藩という組織に絡めとられてもがき苦しむ武士たちの生きざまは、そのまま、現代のサラリーマン社会の生態に対する作者のまなざしの鮮やかな〈喩〉になっているからだ。すなわち、武家物には、世の中への作者の真向かい方がまことに正直に表現されており、それは作者の更年期のくぐり抜け方と密接につながっているからである。

 七〇年代後半の藤沢周平の武家物においては、先に論及した「悲運剣芦刈り」や「宿命剣鬼走り」のような『隠し剣』シリーズに見られるように、脱社会的な非日常性への渇きは、かろうじて、近松的な悲劇の構図を取って吐き出されていたが、八〇年代以降になるとそれすらも影をひそめてしまう。

 脱社会的な志向は、『用心棒日月抄』とその連作のように、藩と江戸を往還するという微温的で折衷的なごまかしによってすり替えられ、非日常的な渇きは、もっぱら、甘酸っぱくストイックな悲恋の構図と、アララギ派的ないし蕪村的な〈風景による慰藉〉という、隠和な日常性の微小な振幅の次元へと封じ込められてゆく。

 社会と調和した温厚な生活者的英知を備えた大衆小説の大御所藤沢周平が完成するのである。

 それはそれで良きものであり、私自身も、そのような系列の作品を深く愛好する読者の一人であるが、初期藤沢作品に息づいていた、孤独な鬱屈を抱えた野性味のある文学者魂を封印したことの代償は、大きかったようにおもう。

 それは単に藤沢周平の作品のみならず、七〇年代後半以降の私たちの社会が抱え込んだ〈空洞〉でもある。

 

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 八〇年代以降の藤沢作品の武家物で前面に出て来るのは、さまざまな理不尽な拘束を、日常的な風景を物語的に紡ぎながら、生活者的な忍耐力によってしたたかにくぐり抜けてゆくような主人公の造型の仕方である。

 その原型は、一九八〇年の秀作「孤立剣残月」(『隠し剣秋風抄』所収)によって鮮やかに表現され、八〇年代から九〇年代にかけての後期藤沢作品の中でさらに磨きがかけられてゆく。

 八〇年代以降の藤沢作品においても、〈社会〉は、七〇年代の作品と同様、思いもよらぬ不条理な関係の悪因縁によって主人公を襲い、取り囲み、翻弄する邪悪な牙をもった存在として描かれている。

 しかし主人公は、権力のメカニズムや人間の利害関係の危うさや対人的な接触の皮相さについての細心な洞察と慎重さをもちつつ、家族や友人・師との生身の絆に助けられながら、ひそかに習得された秘剣(これは、主人公の自我の砦=固有の表現世界の喩とみなせる)を武器に、窮地を斬り抜けてゆく。現世を逸脱する非日常的な狂気は影をひそめ、主人公は、〈社会〉を自然のごとき所与のものとみなし、その内側にしっかりと定位しながら、生活者的な英知によってくぐもるように黙々と日常を送ってゆく。

 小林一茶・長塚節・石川啄木への深い愛着を抱いていたこの作者の独特の味わいが出てくる。特に、成熟した近世農耕社会ならではのゆったりとした時間の流れ方と深々とした陰影の息づく繊細な風景描写による慰藉は、重要な意味をもつ。

 このような変貌は、それなりに作者にとっても読者にとっても幸福なことであったろうし、その延長上に、『蝉しぐれ』(一九八六〜八七年に新聞連載)のような後期藤沢小説を代表する名作も生まれた。

 『蝉しぐれ』は、藩上層部の派閥争いの渦中で父を失い、周囲の冷酷な眼に耐えつつ、孤剣を武器に斬り抜けてゆく青年剣士を描いている点で、「暗殺の年輪」と大変よく似た構成をもった小説であるが、両作品における主人公の生きざまは、まことに対照的である。

 「暗殺の年輪」では、主人公は、卑小で俗悪な地上的関係の網の目によってがんじがらめになった藩という組織の枠組みを蹴飛ばし、脱社会的な土俗の闇の世界へと紛れ込んでしまうが、『蝉しぐれ』においては、そのような闇への逃走の経路は遮断され、主人公はどこまでも、藩社会の内部で孤立に耐え、ごく少数の友人や家族の存在に励まされつつ、慎重に身を保ち、剣の修業によって鬱屈を紛らわしながら、日常の風景を塗り変えてゆくことでもちこたえようとする。

 この両作品のコントラストは、いうまでもなく、社会の内部に闇の空隙を生き生きと残存させていた七〇年代前半と、高度消費資本主義の画一化した時空が個人をいや応なく囲い込んでいた八〇年代との、決定的な差異を象徴するものである。

 一九八〇年代から九〇年代前半という時代には、高度消費資本主義の〈枠組〉は、あたかも未来永劫にわたって不変であるかのような堅固な相貌を呈しており、その中で日常生活をすこやかにもちこたえてゆこうとする人間は、『蝉しぐれ』の主人公のように、孤独な自我の砦と、慎重な処世と、風景による慰藉を必須の武器としなければならなかった。

 それは、産業社会的時空の枠組の内部に棲息しながらも、自らの日常風景の〈空隙〉を利用して、農耕社会的なゆったりとした融和的な世界視線を紡ぎ出すことで、システムが強いてくる無機的な生存感覚を繰り返し異化し、解体させようとする試みを含むものであった。

 その意味で、『蝉しぐれ』は、デリケートな生活者的英知を秘めた作品だった。

 また、この小説には、真っ黒に日焼けし、汗まみれになって村々を回りながら、農作業の実態や作物の出来ばえについての認識を深め、村人の声に誠実に耳を傾ける農政官吏としての主人公の姿が、生き生きと描かれている。

 藤沢周平には、農民や職人の「手仕事」に対する深い愛着を感じさせる作品がいくつか存在する。

 『蝉しぐれ』では、そういう労働の手ごたえや民の暮らしの哀歓への深い共感をふまえた社会認識のたしかさこそが、上に立つ者の政(まつりごと)の根本にあるべきものだという理念が一貫して流れている。そこには、近世社会をモデルとしながら現代の政治のアキレス腱を批判しようとする作者のおもいが込められているように思われるし、現代の高度消費資本主義の刹那的な大量生産―大量消費システムに毒された大衆の疎外された労働や生活のあり方に対する暗黙の批判すら感じられる。

 〈政治〉という度しがたいしろものに対する、作者の儒教的ともいえる倫理的な思い入れは、ほほえましいといってしまえばそれまでのことであるが、決して悪いものではない。

 後期藤沢作品の武家物には、体制の強固な枠組の内部に逃れようもなく囲い込まれながらも、その中で懸命に生き抜いた主人公の姿を通して、さまざまな生活者的英知を感じさせるものがあった。

 しかし、そこには、同時に明瞭な限界も存在していた。

 後期藤沢作品の安定した枠組は、そのまま、一九八〇年代から九〇年代前半における私たちの消費社会の枠組にアナロジカルに重なるものであったからである。

 九〇年代後半以降の私たちの社会は、もはやそのような堅固な消費社会の枠組にガードされてはいない。

 巨大な未知の大海にさまよい始めた二十一世紀の世界を、ひとりの個的な生活者としてもちこたえてゆくためには、消費社会の枠組そのものを根本から転倒させるような、全く新たなまなざしを必要とする。

 後期藤沢作品には、そのようなまなざしは存在しないのである。

 端的な例を挙げるなら、かつては恒久的と思われていた終身雇用と年功序列のシステムが崩壊し、一寸先は闇のカオスのただ中で、理不尽極まるリストラの憂き目にあって不安に苛まれる毎日を送る中高年サラリーマンが『蝉しぐれ』を読んだとしても、全く癒されることはないであろうし、何の生活上の指針も得られはしないであろう。

 この小説は、藩という永久就職先を確保し、己れのアイデンティティーの究極の受け皿を組織に求めることのできる若者の、忍耐づよく内に秘められた喜怒哀楽の物語としてしか映らないであろう。

 しかし、「暗殺の年輪」はそうではない。

 一九七三年のこの小説は、何の保証もない将来のイメージと生活苦に苛まれる人間が今読んでも、きちんと生きる手ごたえというものが伝わってくるのである。

 その意味で、この作品は、二十一世紀という激動の世を生きるわれわれにとって、今や『蝉しぐれ』よりもはるかに現在的な小説なのである。

 『蝉しぐれ』を頂点とする一九八〇年代以降の後期藤沢周平作品の抱え込む〈空洞〉が、今や私たちの社会の〈空洞〉と重なり合いながら落とし前をつけねばならぬ地点に追い込まれているのとは対照的に、「暗殺の年輪」や「ただ一撃」によって象徴される生命的な闇の位相は、今後ますます、そのなまなましい現在性をあらわにしてゆくように私にはおもわれる。(この稿続く)

 

 

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七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2016.07.28 Thursday
  • 21:30

 

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 それでも、一九七〇年代前半の藤沢周平の初期作品には、七〇年代後半以後の彼の小説には見られないほどの激しさと純度の高さをもって、脱社会的な妖気が立ち込めていた。「ただ一撃」と並ぶ初期藤沢作品の最高傑作「暗殺の年輪」(一九七三年直木賞受賞)も、そのような作品の一つである。

 ここでは、脱社会的な衝迫は、非情で狡猾な組織悪への強烈な憤りという形をとって炸裂している。

 藤沢周平の武家物には、藩政の実権をめぐって上層部が二つの派閥に分裂し、その抗争のどす黒いメカニズムの渦中に巻き込まれ、道具として利用され、翻弄された主人公が、己れの孤剣=秘剣を頼りに窮地を斬り抜けてゆくというパターンをもつ作品が多い。

 「暗殺の年輪」は、このような構成をもった最初の小説であり、その反社会的=反秩序的な殺気の鋭さにおいて、屈指の出来ばえを示している。

 主人公葛西馨之介(けいのすけ)の父源太夫は、馨之介が三歳の時藩内の抗争に巻き込まれ、何者かから時の権力者である中老の嶺岡兵庫の暗殺を命ぜられるが、失敗し殺害される。事件の真相は闇に包まれたまま十八年の歳月が流れるが、成人した馨之介は、ある時期から、周囲の人間の眼に自分に対する不可解な愍笑(びんしょう)が含まれていることに気づく。剣の同門であり、親友であったはずの貝沼金吾までも、なぜか彼を避けるようになり、冷ややかな態度をとるようになる。

 ある日、馨之介は、金吾の手引きで家老の水尾内蔵助一派から嶺岡兵庫の暗殺を依頼される。薄汚い派閥争いの匂いを感じ取り、いったんは断ったものの、やがて、父の死後、母が兵庫に体を与えることで葛西家の存続を図り自分たち親子の命を救ったことを知り、兵庫暗殺を引き受ける。

 しかし、暗殺に成功した直後、闇の中から不意に襲いかかって来た白刃の群れに、馨之介は、貝沼金吾を含む水尾一派の汚い企みの全貌を悟る。それは、自らは手を汚さず、私怨をもつ馨之介に兵庫を暗殺させた上で、証拠を残さぬように口封じをするという陰湿なやり口であり、十八年前の父の横死も同様の画策によるものであった。

 一瞬にして全ての真相を見抜いた馨之介は、全身からこみ上げる憤怒の発作に駆られ、疲労し切った身体に戦闘的な力を甦らせる。

 物語は、敵の包囲網を斬り抜けた馨之介が闇の彼方へ逃走していくシーンで結ばれている。

 この作品には、息苦しい社会的な規範と序列のシステムに囲い込まれ、アイデンティティーを規定された若者が、卑小な打算と駆け引きと保身に明け暮れる小人どもの充満する社会の邪悪な実体を冷徹に押さえ切り、それを蹴とばし、その外部に己れの生存の根拠を置こうとする獰猛な怒りがみなぎっている。

「星もない闇に、身を揉み入れるように走り込むと、馨之介はこれまで躰にまとっていた侍の皮のようなものが、次第に剥げ落ちて行くような気がした」というラストシーンの言葉は、この小説の底流をなす、作者の孤独な鬱屈の核心を言い表わしている。

 しかし、「暗殺の年輪」に脈打っているこのような脱社会的=反秩序的な殺気は、七〇年代後半以降の藤沢作品においては次第に薄まり、特に、八〇年代以降においては、ほとんど全くといってよいほど消失してしまう。

 藤沢周平を大衆時代小説のヒットメーカーとして一躍成功の座へとのし上げたのは、七〇年代後半に連載された『用心棒日月抄』であり、八〇年代以降、好評に応えてこの続編が次々と書き継がれ、この小説の主人公「青江又八郎」は、八〇年代から九〇年代の大衆小説の一大ヒーローとなった。

 ここでも、藤沢作品では毎度おなじみの藩内抗争で、又八郎は、ある時は討っ手を逃れて脱藩し、ある時は密命を帯びて出奔するという形で、国元から江戸へ赴き、事件解決によって(すなわち藩内上層部の権力の変遷に応じて)再び国元への帰還を許される。

 ここでの主人公は、身に覚えの無い罪や権力の強制によって、いや応なく武家社会の非情なメカニズムから脱出し、一見〈社会〉そのものを己れの内面から遠ざけ、市井に身を投ずる単独者の位相に立つように見えながら、結局それは、ひとつのポーズにすぎず、なんだかんだと武家組織の中に立ち帰り、そこで小市民的なマイホームを作り、組織に忠実な官吏として、慎重に(藩という「永久就職先」を確保しながら)したたかに身を処してゆくのである。

 人間は、どんな手段・仕事であれ、ともかくメシを食ってゆかねばならぬのであるから、その意味で又八郎の生きざまをとやかく言うことはできない。ただ問題は、この主人公が、己れの魂の内から〈社会〉という理不尽で矮小な怪物を分離することができず、その内部に絡め取られ、その空しいメカニズムの中で与えられた相対的なポジションに、己れのアイデンティティーを決定的に拘束されているという事実にある。

 作者は、又八郎の出奔と江戸での市井の生活を描くことで、会社や国家に囲い込まれているサラリーマンやしがない公務員の内部に鬱屈する脱社会的な衝動や非日常性への渇きを、安全弁的な形で、水で薄めながら代償してやっているのである。

 まことにこの『用心棒日月抄』とその連作シリーズほど、八〇年代から九〇年代という、第三次産業の人口が過半数を大きく超え、日本中がサラリーマンだらけとなった高度消費資本主義社会の時代にふさわしい時代小説はない。八〇年代から九〇年代の藤沢作品には、サラリーマン的価値意識をもつ日本人を根底から脅かすようなものは何も無いのである。

 しかし、七〇年代前半の初期藤沢作品はそういうものではない。

 「暗殺の年輪」には、〈社会〉という欺瞞的なシステムの正体をはっきりと見切り、そのちっぽけな底の浅い、密生する毒きのこの群れのようなみじめな寄生的生活を根底から蹴散らすような、デモーニッシュな憤りがみなぎっているのである。

 その脱社会的な殺気の凄味は、とりわけ主人公馨之介の母親に対するまなざしに、鮮烈に象徴されている。

 嶺岡兵庫に体を売って家の存続を図った母の秘密を探るうち、馨之介の脳裏には、突如として、蝋燭の灯りの下で淫らな女の色香を漂わせながら密夫を送り出していた母の乱れた着付け姿の古い記憶が甦ってくる。

 母の波留がある時期一度だけではない関係を兵庫との間にもったことを知った馨之介は、湧き上がる狂暴な怒りを押さえながら冷ややかに波留を詰問する。

 茫然自失した母親は、息子が酒を呑みに外出した間に自害してしまう。

 

 家に戻ると、家の中は闇だった。

 不吉な感じが胸をかすめたのは、やはり虫の知らせのようなものだったのだろう。闇には人の気配が死んでいた。

 玄関を入ったときに血の匂いを嗅いだが、馨之介はいそがなかった。ゆっくり茶の間の襖を開いた。だが、そこには闇が立ちこめているばかりで、人の気配はない。馨之介は行燈に灯を入れると、それを提げて、奥の間との間の襖を開いた。

むせるような血の香がそこに立ち籠(こ)めていて、その中に、膝を抱くようにして前に倒れている波留の姿があった。

 波留は穏やかな死相をしていた。冷たい掌から懐剣を離し、足首と膝を縛った紐を解いて横たえると、馨之介はもう一度手首に脈を探ったが、やがてその手を離して立上った。

 貝沼金吾に会って、嶺岡刺殺を引受けると言うつもりだった。 (「暗殺の年輪」)

 

 馨之介の母親に対するこの冷ややかで肚(はら)のすわったまなざしの中に、押し殺された作者の怒りの凄さが滲み出ている。

 身をひさいでまで権力者の庇護にすがり、武家社会での家名の存続というちっぽけなアイデンティティーを拠り所に、小心翼々と耐え抜いてきた人間に対して、作者の眼はあくまで非情である。

 おまけに、兵庫と波留の密通の挿話には落ちがついている。

 兵庫を暗殺する際、馨之介は、彼の当惑ぶりから、この藩の中老が、葛西という名も、父の源太夫のことも、母親のことすらも、今では何一つ憶えてはいないことを知る。

 やり場のない憤りを込めて、馨之介の刃は兵庫の胸を刺し貫く。

 ラストシーンで侍の皮が剥げ落ちた主人公が走り去ってゆく場所は、元葛西家の忠実な下男で、波留の秘密を知っていながら胸に秘し、今では居酒屋をやっている徳兵衛という老人の棲む土俗の闇の世界である。

 この作品では、闇の描写が重要な意味をもっている。

 それは、制度的な日常の空隙を衝いて立ち顕われる、神秘で荒々しいカオスの象徴であり、禍々(まがまが)しい死の匂いとそれに抗う狂おしい生命のうねりを触知させる。

 主人公は、闇の中で全てを察知し、己れの狂暴な野性を解き放ち、闇の懐(ふところ)深く紛れ込んでしまう。

 「暗殺の年輪」が、個を圧殺する冷ややかで巨大な組織悪のかたちを描いていながら、それに拮抗する主人公の猛々しい脱社会的なエネルギーを浮上させることができたのも、私たちの無意識の深層にうごめく原初の闇の手ざわりをそこはかとなく喚起させることに成功しているからである。

 徳兵衛とその娘で馨之介に好意を寄せる酌婦のお葉が棲むような、ほの暗い下町共同体的な庶民世界こそ、七〇年代の藤沢作品が活写した闇のシンボルであった。

 もちろん、長塚節を愛し、不条理な生活の哀歓を乾いた筆づかいでリアルに描写するこの作者にとって、庶民世界を美化するような視点は全く無い。「暗殺の年輪」と同時期に書かれた「囮(おとり)」とか「黒い縄」といった市井物の小説を見ても、それは明らかである。

 庶民の生活世界もまた、貧困と病苦とひき裂かれた人間関係に翻弄される、逃れようのない不条理な生き地獄であった。

 しかしそこには、武家社会には存在し得ない、深々としたアナーキーな闇の空隙というものがあった。

 そこでは、職人や商人の堅実で忍耐づよい日常性やつつましい幸福への祈りとは裏腹に、己れのはかなく不条理な境遇を自然のように受け流してゆこうとする無常感の深さが息づいていた。それは、一歩身をもちくずすと、世間体や慣習・掟の拘束を無化し、自らの生を塵芥のように霧散させることをもいとわない、投げやりで陰鬱なニヒリズムのまなざしでもあったが、制度的な日常の時空から遠く隔たった不思議な安堵感を伴うものであった。

 儒教的な規範意識や家の存続という観念に拘束された武家社会とは異なり、下町下層社会には、生の無常感の深さと表裏一体となったアナーキーな享楽性がみなぎっていた。

 浮世絵や黄表紙・洒落本・落語の世界などに垣間見られるこういう近世後期の町人社会の空気を、藤沢周平や池波正太郎のような時代小説作家は、現代風にアレンジしながら巧みにすくい取ってみせた。

 忍耐づよい苦労人の生活者である四十代の藤沢周平が作家として遅いデビューを果たした一九七〇年代前半の日本社会には、まだ、そのような近世以来の庶民的時空が都市下層社会の内にかろうじて残影をとどめていたのである。

 「暗殺の年輪」が発表された一九七三年は、その土俗の闇の生命が、最後の輝きを放った年であった。それは、一九七〇年に完了を迎えた高度経済成長によってもたらされた高度産業社会の貪欲で非情なメカニズムに対する強烈な生理的アレルギーの顕われであった。

 この年を境に、土俗的な共同体社会の残滓は、ほぼ壊滅の状態に追い込まれてゆくのである。

 

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 このような時代の隠微な推移は、例えば、当時のテレビドラマの変容に鮮やかに映し出されている。

 ここで、しばらく藤沢周平作品から離れて、一九七〇年代という時代を簡単に振り返ってみたい。

 テレビドラマというものは、もしそれが放映当時の人々の無意識の深部に息づく渇きや不安を象徴的に代償させてやるだけの内実をもつものであれば、たとえどれほど娯楽性の強いエンターテインメント作品であろうとも、時代の本質を読み解く上で貴重な示唆を与えてくれるものである。

 一九七〇年代前半の初期必殺シリーズの名作である『必殺仕置人』(一九七三年)・『暗闇仕留人』(七四年)・『必殺必中仕事屋稼業』(七五年)の三シリーズの娯楽時代劇(朝日放送系放映)はまさにそのような作品であり、七三年から七五年という、七〇年代の隠微で劇的な転換点の本質を鮮やかに象徴するものとなり得ている。

 『必殺仕置人』は、二十年以上も続いた必殺シリーズの中でも、空前絶後といってよいほどのアナーキーな破壊力をみなぎらせた異色の時代劇である。藤田まこと演ずる江戸町奉行所同心中村主水が初めて登場した作品であるが、後の七〇年代後半から八〇年代以降のような、スレッからしてくたびれたサラリーマン的凡庸さのイメージが染み着いた主水ではない。奉行所では上司・同僚の侮蔑の的となっているうだつの上がらぬ「昼行燈(あんどん)」であり、家に帰れば嫁や姑のいびりの対象となる「種なしカボチャ」の婿養子である点は同じだが、この世の仕組を冷徹に見切り、寸分たりとも油断なく、己れの本音を慎重に押し隠し、胸の奥に暗い鬱屈と獰猛な野性を秘めた、殺気ある風貌をたたえた人物として登場する。

 ゼニをもらって、理不尽に殺された者の晴らせぬ恨みを晴らすという主水の裏稼業の仲間であり、檀家の人妻と密通して佐渡送りとなった坊主上がりの骨つぎ師である念仏の鉄(山崎努)、それに、琉球出身の無宿人で、権力に親を殺された棺桶屋の錠(じょう)(沖雅也)といった闇の世界のアウトローたちの漂わす、むせかえるような強烈な土俗のエネルギーと、生きることの一切の贅肉を削ぎ落とした捨て身の肉体の輝きが、このドラマの魅力の源泉となっている。

 彼らの棲む、無宿人たちの通称「泥棒長屋」によって象徴される下町下層社会の、享楽的で騒々しく、投げやりで活気あふれるカオスの匂いこそ、七〇年代前半の土俗共同体社会に残存し得ていた反骨の野性の最後の輝きを表現するものだった。

 それは、消滅に瀕した生き物の、燃え尽きる直前の一瞬のいのちのあかしにほかならなかった。

 藤沢周平の「暗殺の年輪」もまた、このような混沌とした熱い時代を背景として生み出された作品であった。

 そして、翌年の一九七四年には、土俗の生命は燃え尽きていたのである。

 七四年に放映された『暗闇仕留人』は『仕置人』の続編となっているが、そこでは、もはや『仕置人』のような野性のエネルギーは見る影も無い。

 このドラマの中心人物は、高野長英の弟子の元蘭学者で、幕吏から追われ、今では芸人一座の三味線弾きをやって糊口をしのぎながら、労咳の妻と共にひっそりと長屋住まいをしている糸井貢(みつぐ)という浪人者である。

 石坂浩二がデリケートに演じたこの人物は、必殺シリーズではほとんど唯一といっていいほどのインテリの殺し屋であるが、一九七〇年前後に盛り上がりを見せた左翼的な理想主義=社会主義的な革命幻想が挫折し、党派的な内ゲバによる陰惨な自壊の道を辿る中で、政治的な共同幻想のメッキが剥がれ、生活者的な個人と家族の次元に生存の根拠を突き返された当時の若い世代の幻滅と悲哀と空洞を象徴しているといっていい。

 しかし、それは同時に、七三年までかろうじて息づいていた脱社会的な狂おしい土俗の闇の息づかいが圧殺され、社会全体を、均質化された巨大な資本の無機的でメカニックな時空が覆い、人と人、人と風景の繊細な生身の絆が分断されてゆく時代の匂いを象徴するものでもあった。

 『仕留人』の舞台は、ペリー来航直後の幕末の江戸であるが、ここでは、維新物の時代劇にみられる革命への期待感などは微塵もなく、人面獣心の寒々とした世相の中で、やり場のない憤りを抱え込みながら、何も考えず、卑小であてどのない日常を食いしのぎつつもちこたえていく仕留人たちの、わびしく、したたかで享楽的な生きざまが作品のトーンとなっている。

 ちなみに、一九七四年から七五年にかけては、萩原健一・水谷豊主演の『傷だらけの天使』(日本テレビ系)が放映されている。この作品は、大都会をゴミのように浮遊しながら、食うためにしがない探偵稼業のアルバイトを続ける若者たちが、はけ口の無いアナーキーな鬱屈を抱えながら無意味に野垂れ死にしていくドラマである。

 このような、時代の出口の無い閉塞感は、七五年の『必殺必中仕事屋稼業』(緒形拳・林隆三主演)・七六年の『必殺仕業人』(中村敦夫・藤田まこと主演)と、年を追うごとにエスカレートしていく。

 『仕置人』では、下町下層社会の裏長屋に吹きだまりのように集まった無宿人たちの、死と背中合わせになったその日暮らしの生活は、世界を司る得体の知れない混沌とした闇の深淵から、不条理な運命と理不尽な秩序の首かせに全身的に抗う獰猛な野性と、刹那的に燃え上がるみずみずしい生命力をひき出すことができていた。

 近代化による価値破壊の強烈な洗礼を受けた七〇年代にふさわしい、ギラギラした個人主義的な欲望の自己主張とひび割れたニヒルな生存感覚がみなぎっているにも拘らず、このドラマでは、仕置人仲間の絆は、血の通った濃密な共同性の体液を感じさせるものとなっており、地上の生活は、メタフィジカルな闇のふくらみをはらむ風通しの良さをもっている。

 しかし、『仕留人』では、そのような血の熱さやダイナミックな闇の活力は失われ、分断された個人は、冷え切った、死の気配の漂う漆黒の闇の中で、ひっそりとわびしく寄り添うように生きている。光と闇の交錯する華麗で動的な『仕置人』の映像イメージとは全く異なり、『仕留人』は、登場人物の服装から町の景観・路地裏の映像など、あらゆるシーンにおいて、「黒」を基調とした、喪と葬送のイメージを喚起させる配色効果を使っており、音楽もそれに合わせて、どんよりとした重苦しく非哀感の濃いメロディーラインとなっている。

 地上の生活から生命的なぬくもりの気配が大幅に失われ、闇は、ひっそりと生き、ひっそりと死んでいく無数の孤立した男女たちを淡々と無表情に包摂し、回収する巨大な無の静寂として立ち顕われている。

 七五年の『必殺必中仕事屋稼業』になると、そのような死の匂いに包まれた現世への超越的な抗いが、〈賭博〉への破滅的で刹那的な熱狂という表現形態をとって吐き出されることになる。

 賭け事にのめり込む種々さまざまな境遇の人間たちの生態に人生を凝縮的に象徴させてみせたこのドラマは、必殺シリーズの中でも最も文学的な香りの高い異色のエンターテインメントであるが、それは同時に、人々の日常性から闇のふくらみが完全に喪われ、その生存空間が、散文的で実利的な無機質の産業社会的時空へと狭窄されてしまったことの喩でもあった。

 〈賭博〉は、芸術作品の享受やマニアックな耽溺による憂さばらしと同様、貧寒な地上的散文的現実から締め出されてしまった非日常性への、刹那的で断片的な〈超越〉の渇望にすぎない。

 その非日常的な超越への渇きは、それが日常性からはじき出され日常性と対立的に位置づけられている限り、すなわち、日常生活そのものが神秘な闇のふくらみを取り戻さない限り、常に、日常性を破壊する魔力をはらむ毒牙たることをやめないのである。

 『仕事屋稼業』で、常に死や生活の破綻と背中合わせになりながら賭博にのめり込む人物たちの生きざまが、異様な緊迫感を伝えるのも、日常と非日常の分裂と相剋という近代の病を、一種極限的な形でシンプルに凝縮させてみせたからである。

 この一九七五年という年に、日本人の〈日常性〉は、ある荒涼とした極北の地点まで追いつめられたといってよい。

 精神史的にみる限り、この年から七〇年代後半・八〇年代初頭までは完全に地続きだといってよいし、八三年以後九〇年代までの世相は、その荒れ果てた無機質の実存を、ヴァーチャルなイメージ価値の空虚な氾濫と疑似コミュニケーションのヴェールで覆ってきただけにすぎない。

 その意味で、七三年から七五年にかけての日本社会の隠微な変容は、単に七〇年代の性格を決定づけただけでなく、八〇年代から九〇年代という時代の本質を規定するものとなったのである。もちろんその変容は、七〇年前後という高度経済成長の完了によってもたらされた〈土俗性の解体〉という情況の徹底化以外の何ものでもない。

 一九七六年に放映された『必殺仕業人』のオープニングのナレーションは、次のようなものである。

 

 あんた、この世をどう思う。

 どうってことねえか。

 あんた、それでも生きてんの。

 この世の顔を見てごらんな。

 石が流れて木の葉が沈む。いけねえなあ。

 おもしろいかい。あんた、死んだふりはよそうぜ。

 やっぱり木の葉はぴらぴら流れてほしいんだよ、石ころはじょぼんと沈んでもらいてえんだよ。

 おいあんた、聞いてんの、聞いてんのかよ。

 あら、もう死んでやがら……。

 ああ……。

 菜っ葉ばかり食ってやがったからなあ。(宇崎竜童の声による。)

 

 このナレーションは、七〇年代を代表する名脚本家であった早坂暁の作である。

 『仕業人』の中村主水は、「牢屋見回り同心」という、囚人たちの日常生活の監視と死刑囚の首実検や死体処理を行う、奉行所で最下級の役人として登場する。

 姑や妻とともに傘張りの内職を行い、怪しげな下宿人を置かねば暮らしの成り立たないうらぶれた薄給生活の中で、主水は、討っ手のかかった指名手配の脱藩者で今では駆け落ち相手の琵琶弾きのお歌(中尾ミエ)と河原の掘っ立て小屋で乞食同然の暮らしをしている大道芸人の浪人赤井剣之介(中村敦夫)らと共に、依頼人のなけなしの金をもらって、悲運に死んでいった者たちの恨みを晴らす殺し屋稼業を続けてゆく。

 一切の生命的な意味づけを剥ぎ取られた地上的生活の不条理な酷薄さの感触は、このドラマにおいてひとつの頂点を迎える。必殺シリーズ全体においても、また、七〇年代という時代においても、である。

 主水ら仕業人たちの裏稼業は、ここでは、彼らの鬱屈の止むにやまれぬ暴力的な代償表現である以前に、何よりも、食うための、死と背中合わせになったぎりぎりの仕事であるにすぎない。

 生活の最低限度のタガをはずしていない主水とは違って、日々、餓死寸前にさらされている剣之介・お歌夫婦の場合、それは一層痛切である。頼み料のはした金を手にして、飢えた野良犬のようにうなぎにむしゃぶりついたり、殺しの仕事を前に、死を予感しつつ掘っ立て小屋の中で狂ったように互いの肉体を求め合うふたりの生態には、ぎりぎりの瀬戸際まで追いつめられた獣的な本能の絶望的なあがきが形象化されている。

 『仕置人』における主人公たちの〈無一物〉のパワーが、土俗的な闇のカオスによってぬくもりを与えられ、尽きることのない火柱のように膨れ上がっていたのと比べれば、『仕業人』のそれは、なんとわびしく、切なく、狂おしいもがきとして表現されていることだろう。この番組の最後に流れるドラマの主題歌「さざなみ」(荒木一郎作詞・平尾昌晃作曲)は、次のような歌詞となっている。

《誰だかばかに気にしてる、私の書いた落書きを/誰だか変に傷ついた、私の愛に/シラけた季節の匂いがするわ/なぜってことでもないのだけれど/私って、いたずらなのね/私って、子どもなの/退屈な一日が、長すぎるの》

 行き着くところまで行き着いて完全に干上がってしまった日常とひび割れた冷笑の匂い。一切の生の意味と価値を解体され尽くし、あらゆる存在・風景に対して不感症となり、ただ断片的で痙攣的な刺激に対するフェティッシュな惑溺にしか、生きる実感を求められなくなってしまった不能性の身体。

 死臭の漂う均質化された無機質の時空と裏腹のように、ヴァーチャルなエロス的幻想へと退行する幼児的な嗜好性。

 こういった特質こそ、七〇年代後半に拡がり、浸透・定着し得た病のかたちだといってよい。

 一九七七年に放映された『新必殺仕置人』は、このような七〇年代後半のただれた病理を、サド・マゾ的な幼児退行による変態趣味の色彩によってどす黒く染め上げながら、集約的に象徴してみせた、(その手の趣味を持ち合わさぬ人間にとっては)なんとも胸の悪くなるような、毒々しい作品であった。

 八〇年代から九〇年代の高度消費資本主義社会は、ただ、こういう病理的な生存感覚をより拡大させ、華やかで空虚なイメージ価値によって覆い隠してきたにすぎないのである。

 それでも、七〇年代後半から八〇年代初頭にかけては、産業社会の死臭への情念的な抗いは、断末魔の悲鳴のような哀切な〈抒情性〉となって表現されていたが、それも、八三年以後のヴァーチャルな消費文化の洪水の中で見失われ、風化してしまう。

 ここでは、これ以上具体的に言及するスペースはないが、そのことは、七〇年代後半から九〇年代にかけて生み出されてきた実にさまざまな芸術作品やエンターテインメントによって、容易に確かめることができる。

 しかし、このような高度消費資本主義の時空は、二十一世紀に入った私たちの〈現在〉において、今や着実に解体にさらされているといってよい。

 空虚で華やかな消費社会の見せかけの平和の底にどのような地獄が秘められていたかを、私たちは既に、阪神大震災・オウム事件以後の九〇年代後半の世相によってまざまざと見せつけられている。そして、九〇年代末から二十一世紀初頭にかけてのわれわれの社会は、メッキの剥がれた消費資本主義の〈亀裂〉の中から、七〇年代以前の、さらには近代以前の時空の気配が新たな相貌を帯びて静かに滲み出てきつつある情況を迎えているようにおもわれる。

 私たちの〈現在〉は、既に、七〇年前後の高度経済成長の完了によって準備され七〇年代半ばに完成された無機質の産業社会的時空の〈正体〉を完全に見切ることのできる場所に立っている。

 今改めて問われねばならないのは、七三年から七五年にかけて進行した日本社会の劇的な変容によって最終的に何が喪われたのかということであり、その問いかけは、ひいては、高度成長完了以前の社会に息づいていた闇の本質を見極めることにも通じているのである。(この稿続く)

 

 

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七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第1回) 川喜田八潮

  • 2016.06.30 Thursday
  • 22:44

 

     1

 

 時代小説作家藤沢周平の初期の傑作に、「ただ一撃」(一九七三年)という小説がある。

 私見では、まぎれもなく藤沢周平の最高傑作であるが、その理由を了解してもらうには、物語の展開を丁寧に追跡してみせる必要がある。

 時は寛永三年(一六二六)の秋、三代将軍家光の治世、舞台は出羽庄内藩酒井家。大坂夏の陣が終わり、徳川幕藩体制の礎(いしずえ)は磐石のものとはなったが、いまだ戦国の荒々しい気風の余燼(よじん)さめやらぬ頃である。藩主酒井忠勝の御前で、仕官を望む浪人清家猪十郎の試技の勝負が行われた。普通ならば試技はひと試合で終わり、勝利を得た者は仕官が許されるのが習わしだが、この日に限っては異例で、よりすぐった腕自慢の藩士四人を次々と打ち負かしてみせたのに、清家の仕官は許されなかった。

 理由は、いささかも手加減をせず対戦相手を一人残らず不具者にしてしまうほどの、戦場生き残りとも思える清家の凄まじい豪剣の殺気と、礼節をわきまえず、藩主の方を見向きもしない上に、手洟(てばな)をかむような傍若無人な態度が、忠勝の怒りに触れたためであった。

 忠勝の命で再度試合が行われることとなり、家老の松平甚三郎と兵法指南役菅沼加賀は、家中の侍の中から是が非でも清家を倒せる力量をもつ武士を選ばねばならぬことになる。

 二人は適当な人材が見当たらず頭を抱えるが、松平甚三郎は、ふと二十年ほど昔の記憶に思い当たる。酒井家がまだ高崎で五万石の小藩だった頃に試技によって召し抱えられた刈谷範兵衛という浪人出身の下級藩士がいた。その人物はただ一撃で相手を倒した精妙な剣の使い手だった。

 範兵衛は今はもう六十ぐらいの耳の遠くなった隠居の老人で、家督を継いだ息子篤之助と嫁の三緒(みお)の三人でひっそりと暮らしており、河原に石拾いに出かけたり、雑木林から苗木を持ち帰って植木いじりをしながら、悠々自適の日々を送っていた。

 彼が優れた兵法者であったことを知る者は、今では、家老の松平甚三郎のほかは、息子篤之助も含めて家中に誰一人いない。

 老人は、謹厳実直だが杓子定木で冷ややかな城勤めの息子に対しては隔たりを感じているが、家のことにこまめに気を配り、舅の洟水(はなみず)まで拭き取り、優しく世話を焼いてくれる嫁の三緒との間に、穏やかで親和的な日常の物語を織り上げている。石や植木の手入れの合い間に、嫁のいれてくれた茶を飲みながら楽しい憩いのひと時を過すのが、今では範兵衛にとって最大の慰藉となっていた。

 しかし、菅沼加賀から半ば命令ともいえる清家との果たし合いの懇願を受けた時、範兵衛の体内深く眠っていた兵法者としての荒々しい野性の血が眼を醒ます。

 藩主の面目のかかったこの試合でもし負ければ、切腹はおろか、刈谷家の断絶にもなりかねないにも拘らず、範兵衛は敢えて息子の猛反対を押し切って果たし合いを承諾する。

 その舅の心の推移を正しく見通していたのは、嫁の三緒だけであった。

「菅沼加賀がやってきた夜に、三緒は舅の表情に、刈谷家に嫁入ってきて以来一度も見なかった、ある耀(かがや)きのようなものをみた。眼を瞠る思いで、三緒はそれを見つめながら、夫の篤之助にそれがまったく見えていないらしいことを歯がゆく思ったのである」

 作品には、父親のことを何一つ知ることもなく、己れの保身と家の利害のみに汲々としている散文的で鈍感な精神の持ち主である夫への疎隔感と、舅との間にいとおしむように二人だけの〈秘め事〉のような物語を紡ぎ出してゆこうとする三緒の寂しい心の傾斜がさりげなく描かれている。

 しかし、範兵衛が願い出た試合までの猶予期間はわずか十日間しかない。

 三日目の夜、範兵衛は、三緒に作らせた握り飯を背負い、単身家を出て消息を断つ。試合の二日前になっても彼は戻ってこない。

 家の対面を憂うる篤之助は、帰宅日も行き先も聞かず黙って舅を送り出した妻を厳しく咎める。

 しかし、三緒には、舅のやろうとしていることがおぼろげながら触知されていた。

「三緒は近頃奇怪な噂を聞いている。

 鶴ヶ岡城下から南に半里ほど行ったところに、小真木野と呼ぶ広大な原野がある。その奥にまた村が展(ひら)け、金峰山(きんぽうざん)と呼ぶ山伏の修験場で知られる山の麓(ふもと)に、高坂、青竜寺などの村落があるが、小真木野の一帯は、高台のために未だに狐狸(こり)が出没する場所である。

 その小真木野で、里の者が天狗を見たという。ある夜鶴ヶ岡から高坂に帰る三人連れの百姓が、月に光る芒の原を分けて疾駆する天狗を見たのである。天狗は東からきて、道を横切り西の原に飛び込むと、みるみる姿は小さくなって消えたが、道を横切るとき、一瞬立竦(すく)んだ三人を見た。口は耳まで裂け、眼は真赤で、ひとりの百姓は、天狗が道から西の原に飛び上るとき、脇の下に羽根が羽摶(はばた)いたのを確かにみたのである。

 また、ある朝は原野を横切る道のほとり一帯に、天狗が喰い散らした野犬が数頭、無惨な骸(むくろ)を横たえていたし、ある夜は、月が落ちたあとの闇に突然赤々と火が燃え上り、その火明りに、巨大な天狗の立ち姿が浮んでいた。(中略)

その話を聞いたとき、三緒は咄嗟(とっさ)にその天狗が範兵衛に違いないと確信した。だがそれは人に言うべきことではなかった。夫にも言えない、と三緒は眼を伏せながら、なぜか頑(かたく)なに思った。範兵衛がいましていることは、おぼろ気にしか解らない。だが、範兵衛がそうしていることを、人に喋(しゃべ)ってはいけないのだ、という気が強くした」

 ここには、範兵衛の内に目覚めた野性の本質が、民話的な怪異譚の形をとって象徴的に表現された前近代的な土俗の荒々しい〈闇〉の感触と重ねられながら巧みに描破されている。

 そして、その非日常的な闇の位相が、篤之助の所属する日常的で可視的な秩序世界のかたちと相容れない、狂暴な〈孤〉の生命のうねりにほかならないことが、三緒のまなざしを通して端的に語られている。

 試合の前日の昼過ぎ、範兵衛はふらりと戻ってくるが、その姿は別人のように様変わりしていた。顔は真っ黒に日焼けし、頬は削げ、物乞いのように髪がほつれ、体からは異臭を放っていたが、「眼は底光りし」て、「三緒を見ても微笑もしなかった」。

 疲れ切って帰宅した範兵衛は、着替えもせずに小刀を抱いたまま夕方まで死んだように眠りこける。

 この作品の圧巻は、そのあとの、眠りから覚めた範兵衛と三緒の対話のシーンにある。

 長くなるが引用してみよう。

 

 三緒が支度した茶を、うまそうに啜(すす)りながら、範兵衛は、

「やはり屋根はよい」

と言った。妙な言い方に、三緒はくすりと笑ったが、慌てて口を押えた。

「だが、長年屋根の下に住み馴れると、人間が懦弱(だじゃく)になる」

「ご修行はいかがでござりました?」

「まずまずだな」

「それはようございました」

 そう言ったとき、三緒は舅とひとつの秘密を分け合った気がした。結果がどうあれ、範兵衛にまかせればいいのだ、と思った。

「どうしてそのようにご覧になります?」

 三緒は訝(いぶか)しげに舅の顔を見返した。全身が荒々しい視線に晒(さら)されている感じがあり、そのことが三緒を不安にしたのである。舅といて、これまで感じたことのない、軽い恐怖をともなった感情だった。

「顔に何かついておりますか」

 三緒は膝でいくらか後退(あとずさ)って言った。微笑した積りだが、笑いは途中で凍った。範兵衛の眼は、容赦のない光を宿して、三緒の躰をなぞっている。

「辰枝が死んでから、女子の肌に触れたことがない」

 範兵衛の声は静かだったが、三緒の耳には雷鳴を聞いたように鳴り響いた。

「男のものも、もはや役に立たんようになったかも知れん」

「もうご無理でございましょう」

 三緒は囁くように言った。

「ん?」

 範兵衛は耳に手を当てて聞き返した。

「もうお年ですゆえ、ご無理でございましょうと申し上げました」

 三緒は少し声を張って言い、自分の言葉で顔を紅くした。

 依然として軽い恐怖が心を把(とら)えているが、嫌悪感はない。

「ところが、さっき奇妙な夢をみてな」

「夢、でございますか」

「夢の中で、嫁女を犯した」

 範兵衛は無表情に言った。三緒は耳まで紅くなった。

「無理かどうか、試したい」

 三緒は顔を挙げた。範兵衛の眼は粘りつくように三緒に注がれ、範兵衛の中に、依然として荒々しいものが動いていることを示している。

「明日の試合はどうなりましょうか」

「まず儂(わし)の勝ちかと思うが、まだわからぬ」

 閉め切った障子に、かさと音を立てたのは風に運ばれた落葉である。おりきは使いに出て、暮れるまで戻らない。

 三緒の顔は血の色を失って、粉をふいたように白くなっている。乾いた唇を開いて三緒は言った。

「それがお役に立つなら、お試しなさいませ」

 翌朝、三緒は懐剣で喉を突いて自害した。驚愕して部屋に飛び込んできた篤之助からそれを聞いたが、範兵衛は眉も動かさなかった。(「ただ一撃」)

 

 この描写は、作品全体の要(かなめ)に相当する。

 ここでの三緒の心の推移をきちんと読み解くことができれば、この恐るべき小説の核心をつかまえたことになる。

 その読み解きは後回しにして、物語の結末について先に語ろう。

 昼過ぎに始まった刈谷範兵衛と清家猪十郎の試合は、あっけないほどの経過で範兵衛の勝利に終わる。この立ち合いの描写がまた美事なのである。

「両者の位置が八間に迫ったとき、範兵衛は突如行動を起した。疾風のように範兵衛は地を蹴って前に出ていた。木剣は、ほとんど肩に担ぐように寝ている。白い鉢巻が一本の筋になった。/気合というよりは、獣の咆哮(ほうこう)に似た喉声が交わされ、二人の姿が激突して擦れ違った。きら、きらと二本の木剣が日を弾いたのを人々は見ただけである。/擦れ違う一瞬範兵衛の疾駆は猪十郎の速や足をはるかに凌ぎ、擦れ違ってなお六間の距離を走った。/振向いてもう一度八双に構えをとった範兵衛の眼に、猪十郎の巨躯がゆっくり前に傾き、膝をつき、やがて斜めに崩折れるのが見えた。猪十郎の額は赤い裂目を見せて割れ、顔面は噴き出す血にみるみる朱盆のように濡れた。/ただ一撃だった」

 きびきびとした無駄のない肉体描写の転換の中に、一瞬の内に交錯し、炸裂する二人の剣客の野性が、灼熱の太陽を背景にひとつの凝縮した生命の曲線として鮮やかにつかみ出されている。

 剣術の素人であるはずの藤沢周平の描く剣劇シーンが感銘を与えるのは、それが、剣客たちの強いられた生のかたちを、ひとつの抽象化された身体曲線として、凝縮的に象徴するものとなり得ているからである。

「ただ一撃」のこの立ち合いの描写は、藤沢作品の数々の決闘名場面の中でも、屈指のものであるといっていい。それは、この立ち合いに生命を与えている刈谷範兵衛の野性のもつ闇のふくらみのせいである。

 しかし、試合の後、範兵衛は急速に老衰してしまう。

「好きな石を拾いに行くこともなく、終日濡縁に出てぼんやり庭や空を眺め、やがて雪が降ると部屋に閉じ籠って、行火(あんか)を抱いてうつらうつら眠った」

 武芸熱心な家中の若侍たちが訪ねても、耳の遠い老人の話はとりとめがなく、いつしか水洟を垂れて居眠りをするというありさまで、やがて誰も訪れなくなる。

 試合の半年後、刈谷家は二十石の加増となるが、範兵衛は、息をはずませる息子の知らせに何の感興も示さない。

耄碌(もうろく)しきった老人がただ一度だけ露わな感情の動きを示したのは、三緒の一周忌が済み、篤之助が家柄の良い家中の娘を後添えに貰うことが決まった時であった。

 七年もいて子ができなかった三緒と違い、今度は孫の顔を見せることもできるし、刈谷家は安泰ですぞと話す篤之助の言葉をよそに、範兵衛は、「三緒が哀れじゃ」とつぶやきながらさめざめと涙を流す。

 作品は、三緒が死んでから老人の洟にまで気を配る者が誰もいなくなったがらんとした屋敷の中で、無機物のような脱け殻となって静かに死の訪れを待つ範兵衛のうたたねのシーンで結ばれている。

 

     2

 

 三緒が舅に体を与え、その後で自害しなければならなかった経緯について、作者(語り手)は、小説の終末部で次のような説明を与えている。

「三緒を抱いたとき、範兵衛は三緒の舅でもなく、刈谷家の当主ですらない野伏せりに似た一個の兵法者だった。清家猪十郎との試合に勝つことだけに、心身は凝縮されて一本の鋭い牙になっていたのである。/その研(と)ぎ澄まされた孤独な視野に、三緒の美しさと温かさは、思いがけなく危険なものに映った。牙の鈍磨を恐れるために、範兵衛は三緒を野伏せりのようなやり方で、荒々しく犯したのである。/三緒が死んだのはそのためではない、と範兵衛は思っている。信じ難いことだが、賢い三緒はそのことを理解していた。手違いはその後に起った。儀式のようにして行なわれたそのことの最中に、三緒の躰は不意に取乱して歓びに奔(はし)ったのである。/─三緒はそれを恥じて死んだ─。/範兵衛の脳裏で、糸が再び切れる。範兵衛はのろのろとしたしぐさで懐を探り、懐紙を取出して、もう一度涙と洟を拭いた」

 舅に勝利を得させるために敢えて身を犠牲にしたあげく、禁断の愛欲に一瞬溺れた己れを恥じて自害したけなげな嫁という、まことに凡庸な、お涙頂戴式の義理人情的解釈というほかはない。

 三緒という女性は、そのような硬直した倫理的人格としては描かれていない。

 のびやかないのちの温かさと繊細な皮膚感覚をもち、内に靭(つよ)さを秘めた、爽やかな色香の漂う魅力的な女として描かれているのである。

 作者の無意識の肉声を伝える小説の言葉は、作者(語り手)の意識的な解釈をはるかに凌ぐ奥行きをもっているといってよい。

 先に引用した試合前日の三緒と範兵衛のやりとりの場面を味読してみよう。

 そこには、範兵衛の内にめざめた荒々しい野性のかたちを正しく触知していた三緒が、舅の戦慄すべき申し出にたじろぎながらも、彼の全身から発散される獰猛な闇の感触に抗い難く呪縛され、吸い込まれていく心の推移が、乾いた抑制された筆致で、的確に描写されている。

 三緒が舅と交わったのは、決して「儀式」のようにして行われた自己犠牲的献身によるものではない。範兵衛の野性によって触発された彼女自身の狂暴なエロス的衝迫のなせる業であった。

 交わりの最中に、三緒の体が「不意に取乱して歓びに奔った」のは至極当然のことであり、その肉の歓びを「恥じる」気持ちなどあり得ようはずもない。

 もちろん、三緒の表層的な自我を呪縛している「武家の子女」としての倫理的な規範意識は、そのような行為を恥じていたに違いない。しかし、彼女の生命は、生まれて初めて味わう燃え上がるような肉の歓喜に、深い充足をおぼえていたはずである。

 それでは、なぜ作者は、あえて体裁をとりつくろったような、陳腐で通俗的な倫理的解釈を与えねばならなかったのか。

 それは、舅でも嫁でもないひとりの男と女の、獣のような交わりの体験によって、新たに目覚めさせられた脱社会的な生のかたちに対する深い怖れの念が働いたためである、と考えるほかはない。

 存在の芯部まで灼き尽くすような性の歓喜と闇の充足を知った女にとって、世界は、もはや今までの世界ではあり得ない。

 俗事に汲々とする散文的で退屈な夫との冷ややかな日常生活を続けていくことには耐えられない。かといって、舅との禁断の愛を秘め事のように紡ぎ出していくことも許されることではない。どこにも出口は無いのだ。三緒の自決は、ごく自然な選択であり、なんの不思議もないことである。

 作品の表出する作者の無意識の肉声に忠実である限り、倫理的解釈のつけ入る余地などないのだ。

 それなのに、とって付けたような当たりさわりのない解釈をすべり込ませたのは、三緒の内に目覚めさせられた野性が要求する新たな生のかたちというものが、さまざまな利害関係や約束事によって支えられている俗世間の家族や人間関係の卑小さを解体し、吹き飛ばしてしまうような反社会的な本質を持つものであることを、作者が鋭敏に察知していたからである。

 そしてまた、そのような非日常的な闇への衝迫が、穏やかな日常風景の連鎖によって織りなされるささやかな生活者的幸福を破壊する危険性をもつものであると感受されていたからでもある。

 

     3

 

 三緒が自決せざるを得なかったのは、舅への禁断の愛や夫との生活の不能性のためばかりではない。

 かつてのような、舅との罪のない、穏やかで親和的な日常の交感の物語を永久に失ってしまったからでもあった。

 

 ひとしきり石の色をほめてから、三緒は、

「お茶を召しあがれ」

と舅を縁側に誘った。

「む、む、これは旨(うま)い」

 範兵衛は茶を啜(すす)ったあとで、鉢からつまんだ小茄子(こなす)の漬物を頬張りながら言った。歯が欠けているから、含んだ茄子を口の中であちこち転がしながら噛む。

 範兵衛は小柄で痩せている。頬も痩せて、小茄子を口の中で動かすたびに、しなびた頬の皺がのび、眼だけぎょろりとしているので、水中の魚の顔のように剽軽(ひょうきん)な表情になる。三緒は袂(たもと)を口に押しあてて、くすくす笑った。

 子供がいないから、いつまでも娘のように軽々しい、と範兵衛は思う。だが三緒の笑い声を聞いているのは楽しい。

「何だ、何がおかしい」

「あの、お茄子を切って出せばようございました」

「なに、このままで結構。おりきが漬けたか」

 僅か八十七石の軽輩の家だから、女中一人と、あとは通いの下僕がいるだけである。

「私が漬けました」

「結構な味だ」

「秋茄子は嫁に喰わすな、と言い伝えがあるそうですよ、お舅(とう)さま」

「あん?」

「あのね、秋茄子はおいしいので、嫁に喰わせるものじゃございませんて。でも、私も頂きますよ」

 う、うと範兵衛は唸って、茶碗をつき出してお代りを頼んだ。

 鶴ヶ岡の城下から三十丁ほど離れたところに、民田という村がある。ここで栽培する茄子は小ぶりで、味がいい。春苗を育て、初夏に畑に植えつけて、六月の炎天下に日に三度も水を遣(や)って育てる。このように苦労して水を遣るために皮は薄く、浅塩で漬けた味は格別なのである。茄子の木は次々と可憐な紫色の花をつけて実を結び、七月一杯成り続けるが、八月になると、さすがに木に成る実の数はめっきり減り、水を遣ることもなくなるから皮は硬い。だがその実はまた捨て難い風味を宿すのである。(「ただ一撃」)

 

 まだ清家猪十郎との試合の話がもち上がるより以前の、一見なんの変哲もない牧歌的な日常風景のひとこまであるが、範兵衛と三緒の生活者としての風貌を、淡々としたさりげない筆づかいで的確にスケッチしてみせている。

 藤沢周平は、日常性への深い愛着をもった作家である。

 ただし、その日常性は、現代人が今ではほとんど喪失してしまった、季節のうつろいの気配への繊細な感受性と風土と融合した暮らしの知恵が息づく、穏やかでほの暗い、近世農耕社会的な生存感覚の残滓である。

 範兵衛と三緒のやりとりにも、ささやかではあるが、そのような感性の一端が垣間見えている。

 この作者は、食べ物の描写がうまい。それも、グルメ風の凝った食材や料理ではなく、労働の合い間に茄子の漬物やひときれの梨を頬ばるとか一杯の茶を啜(すす)るといったような、平々凡々たる飲食のひとこまを、実に新鮮な味わいですくい取ってみせる。

 背後に、残照に輝く稲穂のうねりや雑木林の深々とした陰影や蝉しぐれや風や土の匂いのような、ゆったりとした親和的な〈農〉の風景が感じられるからである。

 一九八〇年代から九〇年代にかけての藤沢周平の後期の作品群では、とりわけ、こういう近世以来の成熟した農耕共同体社会の伝統的な香りが濃厚に表われており、それが、多くの生活者の読者を藤沢小説の愛読者たらしめた主な要因の一つとなっていたようにおもわれる。現代人は、均質化した無機的な産業社会的時空の〈空隙〉をすくい取りながら、このような前近代的な〈農〉の時空による癒しの物語を紡ぎ出さねばならないという課題を負わされている。

 藤沢周平が範兵衛と三緒の交わりを肯定的に描き上げることができなかったのも、ふたりの内に目覚めさせられた非日常的な闇への狂暴な衝迫に、穏やかで繊細な日常の交感の物語を破壊する危険な匂いを感じ取っていたからである。

 というより、このような野性の表出を、社会秩序や日常性を解体する危険極まる衝動とみなすような認識があらかじめ存在していたからこそ、作者は、敢えて舅と嫁の禁断の交わりという背徳的な設定を生み出さねばならなかったのである。

 

     4

 

 しかし、その悲劇的な結末にも拘らず、「ただ一撃」における男女の交わりの、なんと妖しく甘美であることか。

 具体的な性交描写は何ひとつ無いのに、薄汚いフェティシズムの匂いをぷんぷんさせただけの現代小説の萎え切ったポルノシーンなど足元にも及ばない、むせ返るようなエロスがみなぎっている。

 この小説を読むと、改めて、性の本質をつかみ出すことは、必ずしも性行為を描くことではないという重要な教訓を痛感せざるを得ない。

 われわれの性の根底にあるものは、実は、われわれの世界へのまなざしの問題なのであり、生きることへの根本的な姿勢の問題なのである。

 存在への無機的な触知感に全身を蝕まれた、冷え切った生存感覚しかもてぬ人間には、所詮、死臭の立ち込めるフェティッシュなセックスしか描くことはできない。

「ただ一撃」の性描写がみずみずしい官能性を漂わせるのは、刈谷範兵衛の平々凡々たる日常生活者としての隠居の風貌と変身した孤狼のような老武芸者の発散する野性の血の匂いの劇的な落差のせいであるが、同時に、その野性が、先の引用にもあったように、柳田国男の『遠野物語』を想わせる前近代的アジア的な土俗の闇の深さと重ねられることで、文明に飼いならされる以前の、森羅万象と響き合う原初の孤独ないのちの狂おしい手ざわりをほのかに立ち昇らせているからである。

 この小説の時代設定が、幕藩体制の基礎固めがほぼ終結した寛永年間となっていることは、きわめて象徴的である。

 寛永年間は、戦国期まで残存し得ていた中世的な荒々しい闇の息吹がようやく終熄に向かい、近世的な身分秩序のヒエラルキーが定着し、各藩は、城下町を中心とする都市と領内の大半を占める農村によってひとつの独立した小宇宙としての王国を構成し、武士・農民・職人・商人が各々の共同体における職能分化と棲み分けによって、安定した均衡と分業の体制を完成させた時代であった。

 農耕社会的なゆったりとした時間の流れを背景に、親和的で礼節に厚い温和な人間関係に包まれた成熟した文明社会が到来したともいえるが、同時に中世的なアナーキーで野性味のある猛々しい生命の躍動は著しく衰弱し、封印されつつあったといってよい。

 とりわけ、主君への忠節と家格のヒエラルキーを重視する武士階級の規範意識は強く、息苦しさを増しつつあった。

 清家猪十郎の悲劇は、このような、文明社会に飼いならされつつあった時代における、中世的な闇の圧殺を象徴するものだった。

 作者は、この時代の性格を、家老の松平甚三郎の眼を通して次のように語っている。

「甚三郎は、権威ということを考えていた。藩主も家臣も、そして新たに支配下に入った農民も荒々しかった。だが荒々しさで均衡が保たれた時代が終ろうとしていることを、甚三郎は感じている。/藩主を中心に据えて、折目を正して行く。そのためには、清家という浪人者の不遜な身構えも許すべきではないのだと思った」

 この清家の悲劇は、そのまま、この浪人者によっていや応なく己れの内なる闇を覚醒させられた刈谷範兵衛の悲劇にも重なっている。

 範兵衛が凄腕の剣客でありながら己れの爪をひた隠し、誰にも知られることなく何十年もの間下級藩士としての平凡なサラリーマン的日常に甘んじてきたのも、個の生命的な飛翔を圧殺せずにはおかない、武家社会の巨大な官僚的秩序が形成されてゆく時代の重苦しい空気を鋭敏に察知していたからであった。

 その彼が、己れの死を賭けた生涯最後の燃焼を決意した時、文明という名の秩序は、その原罪を黒々と浮かび上がらせたのである。

 この文明の原罪のかたちは、そのまま近代社会あるいは現代社会の病理のかたちとアナロジカルに重なっている。

 範兵衛と三緒の脱社会的な衝迫のもつ悲劇性は、長年業界紙記者として企業社会の泥水を潜ってきた作者藤沢周平の現代人的な鬱屈の〈喩〉でもあったはずである。

 非日常的な闇への衝迫を、社会秩序や日常性への敵対物として描き上げるという資質は、多くの優れた近代文学者に共通するものである。

 それは、人間の神秘へのまなざしを圧殺し(あるいは衰弱させ)、人々の魂をひたすら卑小で不条理な地上的現実へと緊縛せんとした〈近代〉という時代の痩せ細った生活実体に対する、苦しみの表現にほかならなかった。

 藤沢周平は、小林一茶や長塚節・石川啄木を愛し、アララギ風の写実主義的美意識をもつオーソドックスなリアリズム小説の流れを汲む作家であるが、彼もまた、社会的世俗的な自我の内に己れのアイデンティティーを解消することをいさぎよしとしない、北村透谷以来の、非日常的な狂気を内に秘めた、孤独で誇り高い近代文学者の系列に属する一面をもっていたのである。

 

     5

 

 一九七〇年代後半に書かれた藤沢周平の武家物の連作集『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』には、運命のいたずらによってどうしようもなく日常的秩序を逸脱せざるを得なかった、非日常的な狂気を抱え込む破滅型の人物たちが描かれているが、それも、このような作者の近代文学者的な資質のなせるわざであった。

 代表作としては、例えば『隠し剣孤影抄』に収められた「悲運剣芦刈り」という作品を挙げることができる。この作品は、婚約者がありながら周囲の目をあざむき続け、未亡人の嫂(あによめ)との禁断の愛欲に溺れて破滅してゆく若侍の物語である。この小説のみどころは、不倫を重ねるうちに生ずる、主人公曾根次郎の変貌ぶりにある。

 兄が死んで一周忌も経たぬ内に、自分の寝間に忍んで来た嫂の卯女(うめ)との度重なる交わりに、取り返しのつかない深みにはまり込んでゆく恐怖を感じていた次郎が、やがて藩中に広まった不義の噂にもふてぶてしく居直るようになり、ついには、密通の証拠を握って藩に届け出ようとした婚約者の兄を斬り捨てて出奔してしまうという展開に、社会秩序を転倒し超越せずにはおかない狂おしい非日常的な衝迫の本質が巧みに象徴されている。

 次郎にとって、卯女との交わりは、あくまでふたりだけの秘められた闇の中での燃えるような輝きと充足の体験にほかならず、断じて、世間という白日の下にさらされてはならないものであった。物語は、逐電し江戸に潜伏していた次郎が、討っ手となった親友に倒され、その報を聞いた国元の卯女が後追い自殺を遂げるという心中的な幕切れとなって終わる。

「悲運剣芦刈り」のように、七〇年代後半の藤沢作品には、主人公が卑小な契機によって己れのはからいを超えた悪因縁の泥沼に引きずり込まれたあげく、社会的な規範や平穏な日常性を踏みにじり、彼岸的な〈死〉への渇望へと追いやられるという、近松的な悲劇の構図をとった小説がいくつか存在する。

 近松門左衛門こそは、まさに、日常と非日常の相剋、地上と天上の分裂という近代の病理の本質を、劇的なエンターテインメントの形式を通して喩的に表現した最初の近代文学者であった。近松の世話浄瑠璃が登場する十八世紀の初頭こそ、その意味で、日本近代の序曲の始まりを告げる時代であるといっていい。

 そして、近松が町人社会の内に垣間見た近代の病理の先駆的形態は、すでに、十七世紀初めの寛永年間という、徳川幕藩体制の官僚的秩序がほぼ完成を迎えた時代の武家社会において、中世的な闇の圧殺という文明の原罪の形をとってアナロジカルに浮上していたのである。

 刈谷範兵衛と三緒の悲劇もまた、広い意味では、近松的な心中の一種にほかならない。

 近世社会は、近現代社会とは大きく隔たった、親和的で穏やかな成熟した農耕共同体社会としての側面をもつと共に、近代社会の病理を萌芽的に先取りするという二重性を備えた社会であった。

 藤沢周平が純文学作家の資質をもちながら敢えて時代小説作家としての道を択んだのも、社会的共同的な秩序からいや応なく反りかえってしまう非日常的なエロスへの狂的な衝迫と、温和で繊細な農耕社会的日常への深い愛着という、己れの両義的な資質にとって、近世社会という舞台装置が最もふさわしい表現形態を与えてくれるからであった。

 もし藤沢周平が、刈谷範兵衛や三緒の変貌によって象徴されるような野性=脱社会的な闇の深さを、敢えて肯定的なものとして描き上げ、そういう野性の魂を己れの生の根底に据える主人公を創造し得るだけの力量と勇気をもち、制度的に囲い込まれた惰性的な日常の殻を打ち破り、転生を遂げた場所から、新たな生活を築き上げるような物語を夢見ることができたとしたら、すなわち、日常と非日常の葛藤、地上と天上の分裂を止揚し得るような新たな世界視線を提示し得たとしたら、彼は、大衆的な小説家としては成功しなかったろうが、〈近代〉の枠組を超える方向性を示唆し得る、真に偉大な文学者となり得たことであろう。

 しかしそれは、ひたすら不条理な地上的生活の哀歓を堅固なリアリズム的文体で活写し、風景による慰藉を得意とする、古風なアララギ派的感性の枠組をもつこの作者の資質からいって、至難の業であるといってよかった。

 それに第一、大衆相手の職業作家=売文家として日々の暮らしを支えねばならぬ立場からいっても、そんな冒険は所詮無理な注文というべきであろうし、七〇年代後半に形成され八〇年代から九〇年代にかけて膨脹を遂げた高度消費資本主義の時空そのものも、作者に思想的な脱皮を許すような契機を与えなかったのである。(この稿続く)

 

 

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