宮沢賢治童話考(連載第2回)  川喜田八潮

  • 2016.03.30 Wednesday
  • 18:22
 
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 賢治童話における自然描写のアニミズム的性格については、周知のように、作者の仏教的世界観と該博な自然科学的知識の結びついた独自の宇宙論との関連において、多くの論者たちによって取り上げられてきた。しかし、今の私は、洋の東西を問わず、諸々の哲学体系や科学的世界像などには、さっぱり食指が動かないのである。
 今から二十年以上昔の二十代の頃にはそうではなかった。西洋の哲学書の翻訳を貪るように読み耽り、物理学や生物学・天文学などの専門書や啓蒙書の与えてくれる知識を己れの世界観形成のための必須の前提のようにみなしていたし、科学基礎論や認識論の分野にもどっぷりと浸り切っていた。だが、現世への呪詛と社会への嫌悪が昂進し、観念の病に全身を蝕まれて冷え切った身体をもて余し、死の想念に苛まれ続けた二十代後半の日々をくぐり抜ける中で、ある時、転生の契機が訪れた。以来、知的なメッキは急速に剥げ落ちていったようにおもう。
 三十代に入って、生活の試練にもまれる中で、はじめて、生きる上で本当に必要なものは何なのか、わずかずつではあるが、手探りの中でたしかめることができるようになってきた。生きるために痛切に必要とされる、己れの固有の生の文脈に則した手づくりの知と、ただの道楽や気休めにすぎない知的なガラクタとを、きちんと識別できるようになってきたのだ。
 今でも、私は、諸々の哲学や神学を編み出さねばならなかった思想家たちのやむにやまれぬ孤独な衝迫の出所や、そのような知的体系に込められた情念のかたちに対しては、切実な関心を抱くことができる。
 その私なりの固有の切実さの文脈に沿って、出逢いのえにしを得た、過去のさまざまな偉大な哲学者・思想家たちの知的・学的体系は、その意味を組み変えられる。
 彼らの言葉、彼らのコンセプトは、私の固有の生の文脈の中で、新たな意味と表情とを帯び、血肉化された固有の言葉、固有のイマージュとなって甦る。
 科学や医学の知識に対しても、同様のことが言える。
 科学や医学に対する際に特に注意すべきは、科学や医学の知識それ自体が有する、データによって裏付けられた仮説としての蓋然的な確からしさ、すなわち科学的な実証性というものと、その知識の背後にある、なんら実証されてはいない哲学的な世界観を、明確に区別しておくことである。
 私たちが享受している西洋近代科学及び近代医学というものは、なんらかのベーシックな意味をもつ、一連の観念的で記号的な実体概念(実体群)を設定し、それらの実体が従うべき一般法則に基づく因果律と確率論によって、自然・宇宙の事象をメカニックに説明しうるとする世界観、すなわち、要素還元主義的(アトミズム的)な機械論的世界観を、暗黙の前提にしているといっていい。
 私たちが「客観的で科学的な世界像」として受け容れている(受け容れさせられている)諸々の科学知識というものは、実は、そのアトミズム的・機械論的な世界観を作業仮説的な羅針盤として探求され、構築されてきた、巨大な観念的システムのことにほかならない。
 その科学知識なるものは、たしかに、それなりの合理性と実証性を備えた客観的なシステムには違いないが、同時に、前提となる世界観によって、認識論的な〈制約〉をこうむった、偏向的な知の所産であることも、またたしかなことである。なぜなら、それは、「認識する主体」と「認識される客体」とを、あらかじめ存在として「分離」させた上で、すなわち、客体としての世界を、私たちの主体とは何の関係も無い、ニュートラル(没価値的)でメカニックな「客観的自然」とみなした上で、成立させられた観念体系だからである。
 しかし、存在の生生流転の実相とは、本来、主・客が融合し、一体となったダイナミズムの顕われにほかならず、一般法則に基づいた因果律や確率論によって規定された、バラバラな記号的実体の組み合わせによるメカニックな運動などに、一元的に還元できるようなものではない。
 森羅万象の精妙な表情を、主・客を分離させた、科学知識という、ニュートラルで一面的な観念的・記号的システムによって、とらえ尽くすことなどできはしないのだ。
 どんなにささやかな日常風景のひとこまでもいい。
 存在の生ける諸相を、因果律によるメカニックな運動に還元した時、すでに存在の〈意味〉とそれに伴う〈価値〉は見失われ、存在は、風景として「死に体」と化していることがわかるだろう。
 存在の〈意味〉と〈価値〉の諸相というものは、主・客が融合した生ける風景の中で、初めて、たしかな実在としての手応え、リアリティを立ち上がらせるのである。
 それがあって初めて、私たちの生きる手応えも、生まれてくる。
 それは、科学知識の領域ではなく、〈身体〉の領域である。
 存在の生命的な意味と価値の世界は、〈身体〉によって象徴的に感受され、心身が一如となって紡ぎ出されるべき、主・客融合的な認知の領域なのである。
 ニュートラルな科学知識や情報を、どれほど集めようと、存在の生ける実相は、人々の手をすり抜けてしまう。
 もちろん、現代に生きる私たちは、科学技術や医学の成果にお世話にならざるをえないし、科学知識への教養は、私たちにとって、大なり小なり、生きる上での不可欠の必需品たらざるをえない。
 だが、私たちが、情報化社会の中で、マスコミによって、一方的に洪水のように浴びせられている科学知識によって、〈知〉を塗り固め、己れの世界風景を科学一色に染め上げられるとしたら、その時、私たちの魂は、アトミズム的・機械論的世界観という、疑似科学的な非人間的イデオロギーによって蝕まれ、窒息させられてしまうであろう。
 その時、私たちの〈身体〉もまた、存在に対して冷え切り、観念的に硬直した「死に体」と化しているのである。
 だから、私たちは、己れの固有の生活世界を切り拓くというたたかいの中で、心身を呪縛してきた既成観念を打破し、感性をベースに据えた、自らの手づくりの〈知〉を粘りづよく紡ぎ出してゆくという営みに沿って、科学知識を適宜、取捨選択してゆかねばならないのである。
 いかなる知識が己れを毒し、いかなる知識がそうでないか。
 自分にとって本当に必要な知識は、どのようなものか。
 それを単なる知的な判断のみならず、自らの〈身体〉の素直な反応を通して、すなわち、自らの〈無意識〉の微かで精妙なささやき、異和や親和の感覚を通して、嗅ぎ分け、選別しなければならない。
 
 だが、いかなる科学知識を必要としようと、因果律や確率論による事象の科学的・合理的解釈などというものは、しょせん、未知または既知の制約条件の下で蓋然的な正当性を主張し得る、客観化された相対的真理にすぎず、〈存在の本質〉とは別の次元に属するものであるという事実は、正しく認識されてしかるべきことである。
 われわれは、事象を説明しようとする時、因果律に頼らざるを得ないが、それはあくまで便宜的な道具にすぎないのだ。
 なんらかの事象・存在を、それを包摂するより大きな〈全体〉から〈部分〉として切り離し、その部分的事象を、存在の因果関係のリクツで合理的に説明し、再構成したところで、それはしょせん、実在の不完全きわまる〈近似物〉でしかない。存在の本質を説明したことにはならないのだ。
 存在の本質は、常に因果律や確率論を超えており、それらとは別次元のものである。
 存在の本質とは、事象に宿り、事象を事象たらしめ、それに意味と価値とを付与する神秘なる虚空の如き存在である。われわれの生は、この大いなる存在の神秘にその根拠を置いた時、はじめて真の安心立命を得られるのだ。
 前近代の人間は、もちろんこのことを触知していた。だが、近代人という奴は、哀れなことに、こういう素朴にして直接的な真理までも完全に忘却し去ってしまうほどに、科学と合理主義を化け物じみた玉座へと押し上げ、鈍感きわまる観念的存在になり下がってしまったのである。
 前近代的な宗教的世界観と倫理の観念的桎梏を打破し、地上的な肉体の復権と客観的な経験性・合理性の重視を企図した近代は、結局、科学的因果律とアトミズム的・機械論的宇宙観という、もうひとつの観念的桎梏へと人々のまなざしを封じ込めてしまったのだ。
 科学であれ哲学であれ、私は、宇宙をひとつの閉じられた観念体系の内に包摂しようと企てるいかなる知や学の上にも、己れの生の基盤を打ち立てることはできない。
 知的な認識と倫理の小細工の内に生と自然の本質を還元しようとする試みは、しょせん、神秘で不可知なコスモスの懐に抱かれながら、ひとりの〈生身〉の生活者としてこの現世を生き抜こうとする者の畏怖や歓喜の無量のおもいをすくい上げることはできないのだ。
 宮沢賢治の自然へのまなざしを論ずるにあたって、私はまず、哲学的な知や科学的な知というものに対する、以上のようなスタンスというものを、明確に強調しておく必要を感じる。
 このスタンスに従って私は、本稿で、賢治童話の中に込められている作者の科学的・神学的・宇宙論的な認識の構図や、法華経信仰に基づく自己犠牲の精神や浄土信仰の観念的志向などについては、極力触れずに済まそうとおもうし、これまでもそう心がけてきた。
 
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 作品の解読に戻りたい。
 宮沢賢治の自然描写には、するどく矛盾する二つのまなざしがみとめられる。
 作品「十力の金剛石」を例にとって、この問題を取り出してみよう。
 ある霧の深い朝、宝石好きの幼い王子と大臣の子が、美しい神秘な金剛石を求めて野原を駆けていくと、霧がすうっと晴れて、空高く目のさめるような虹がかかる。虹のもとにおもむこうとして、二人は真っ黒な森の中に分け入っていく。小藪のそばを通る時、「さるとりいばら」がたくさんの緑色の鉤を出して、王子の着物をつかみ、引き留めようとするが、王子は、剣を抜いていきなり小藪を切り落としてしまう。まもなく日の光は消え、空がうっそうと暗くなり、再び霧が立ち込め、やがて小雨に変わる。途方にくれた二人の耳に歌声が聞こえてくるが、それは、二人の帽子に飾ってあった二羽の青光りする「蜂雀(はちすずめ)」たちのものだった。
 蜂雀たちは、背中や胸に「鋼鉄のはり金」が入っているので、飛び方がぎこちない。
 そのあとについて行くと、にわかにあたりが明るくなり、小雨は突然大粒の雨に変わる。雨はさらに蜂雀の歌に合わせて「あられ」に変わり、森に囲まれた丘の頂に立つ二人の上から降りそそぐ。
 
「ところが二人は全くおどろいてしまひました。あられと思ったのはみんなダイアモンドやトパァスやサファイヤだったのです。おゝ、その雨がどんなにきらびやかなまぶしいものだったでせう。/雨の向ふにはお日さまが、うすい緑色のくまを取って、まっ白に光ってゐましたが、そのこちらで宝石の雨はあらゆる小さな虹をあげました。金剛石がはげしくぶっつかり合っては青い燐光を起しました。/その宝石の雨は、草に落ちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴る筈(はず)だったのです。りんだうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだ)かれた天河石で組み上がり、その葉はなめらかな硅孔雀石(クリソコラ)で出来てゐました。黄色な草穂(くさぼ)はかゞやく猫睛石(キャッツアイ)、いちめんのうめばちさうの花びらはかすかな虹を含む乳色の蛋白石(たんぱくせき)、たうやくの葉は碧玉(へきぎょく)、そのつぼみは紫水晶(アメシスト)の美しいさきを持ってゐました。そしてそれらの中で一番立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は茶色の琥珀(こはく)や紫がかった霰石(アラゴナイト)でみがきあげられ、その実はまっかなルビーでした。/もしその丘をつくる黒土をたづねるならば、それは緑青(ろくしゃう)か瑠璃(るり)であったにちがひありません。二人はあきれてぼんやりと光の雨に打たれて立ちました」
 
 あふれるような輝きの中で、しかし、りんどうやうめばちそうや野ばらの木は、「十力の金剛石」の来ないさびしさとかなしみを歌い上げる。
 王子が十力の金剛石とはどんなものかとたずねると、花たちは、十力の金剛石は「ただの金剛石のやうにチカチカうるさく光りは」しないし、「春の風よりやはらかくある時は円くある時は卵がた」で、「霧より小さなつぶにもなればそらとつちとをうづめも」する、ある時は「黒い厩肥のしめりの中に埋」もれ、「木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかな脈を」うつ。そして、「人の子供の苹果(りんご)の頬」をかがやかすのだという。
 要するに、十力の金剛石とは、森羅万象に宿り、それぞれにいのちの固有の形と輝きとを与える、不可視の宇宙生命の化身・転生のイメージをかたどったものといっていい。
 草花の祈りが通じたかのように、にわかに蜂雀が「キイーンとせなかの鋼鉄の骨も弾(はじ)けたかと思ふばかりするどいさけびをあげ」、元通り二人の帽子におさまると同時に、空は生き返ったように新しく輝きはじめ、今度は、本物の十力の金剛石がいちめんに下りて来る。
 すべての草花は、今や人間の言葉など話さず、あるがままの生身のたたずまいをもって蘇り、存在は、自然な輝きに満ちあふれる。
「すずらんの葉は今はほんたうの柔かなうすびかりする緑色の草」となり、「うめばちさうはすなほなほんたうのはなびらを」もち、十力の金剛石は「野ばらの赤い実の中のいみじい細胞の一つ一つにみちわた」るのである。
「その十力の金剛石こそは露でした。/あゝ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧(あを)いそら、かゞやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらやしべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになふ丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかゞやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした」
 二人の少年たちは、「つゝましく草の上にひざまづき指を膝に組」みながら、この一瞬の至福の光景に包まれる。二人を捜しに来た家来たちの声が聞こえ、走り出そうとした王子の足を、一本の「さるとりいばら」が青い鉤を出して引っかけるが、今度は王子も切り取ろうとはせず、かがんで静かにそれをはずしてやる。
 
 十力の金剛石が来る以前のきらびやかな宝石的イメージの底に冷ややかで不幸な身体感覚が秘められていたことは、野ばらの木が「赤い実から水晶の雫(しづく)をポトポトこぼしながら」歌う詩の言葉によって明示されている。
「にじはなみだち/きらめきは織る/ひかりのをかの/このさびしさ。//こほりのそこの/めくらのさかな/ひかりのをかの/このさびしさ。//たそがれぐもの/さすらひの鳥/ひかりのをかの/このさびしさ」
 この美しい童話に表現されている二つのまなざし、すなわち、蜂雀や宝石と化した造花的イメージに象徴される無機的・金属的でヴァーチャルな存在感覚と自然な生身の生命感覚の鋭いコントラストこそ、宮沢賢治の自然意識の分裂を示すものであり、それはそのまま、この作者の存在への冷ややかな異和・孤独感の深さ・生存感覚の希薄さと、それを緩和し修復せんとする生身の身体性への渇きの、鋭い緊張関係を資質的に象徴するものとなり得ている。
 
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  たとえば、「黄いろのトマト」という、地味だが、えもいえぬデリケートな優しさを感じさせる味わい深い作品がある。
 語り手の「私」が「まだまるで小さかったとき」のこと、ある朝学校に行く前にこっそり町の博物館のガラス戸棚に収まっている剥製の「蜂雀」と話をしたことがあった。
「蜂雀」は、生きていた頃に見聞したペムペルとネリという兄妹の子どものささやかな哀しい体験の事を物語る。
 兄妹はこの上もなく仲むつまじく、ふたりで小麦や野菜や花を育てながらお父さんやお母さんといっしょに穏やかに暮らしていた。蜂雀はそんなふたりの姿を毎日楽しくながめていた。
「ペムペルとネリとはそれはほんたうにかあいゝんだ。二人が青ガラスのうちの中に居て窓をすっかりしめてると二人は海の底に居るやうに見えた」と蜂雀は「私」に語る。
 兄妹は畑にトマトを十本植えていたが、そのうちの一本だけがまばゆいくらい立派に光る「黄いろ」のトマトになった。ペムペルは、それを「黄金(きん)」のトマトと呼び、大切に慈しみ、採ることもさわることもしなかった。
 二人はこんなに楽しく暮らしていたのだから、「それだけならばよかったんだ」と蜂雀は繰り返しため息をつく。
 ある夕方、はるか遠くの野原の方から何ともいえない奇妙ないい音が聞こえてきて、ふたりは果樹園を出てその音のきこえる方角に向けて一心に走っていった。すっかり陽がくれた頃、ふたりは、サーカスの見世物小屋にたどり着いた。見物客たちが、入口で番人に何か「黄金(きん)」のかけらのようなものを渡しているのを見て、ペムペルは大急ぎで家に戻る。果樹園からあの「黄いろのトマト」の実を四つとって、再び風のように見世物小屋にとって返すと、番人にトマトを渡して小屋の中に入ろうとした。
 
 番人は『えゝ、いらっしゃい。』と言ひながら、トマトを受けとり、それから変な顔をした。
 しばらくそれを見つめてゐた。
 それから俄(には)かに顔が歪んでどなり出した。
『何だ。この餓鬼(がき)め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝(おまへ)たちを押し込んでやってたまるか。失(う)せやがれ、畜生。』
 そしてトマトを投げつけた。あの黄のトマトをなげつけたんだ。その一つはひどくネリの耳にあたり、ネリはわっと泣き出し、みんなはどっと笑ったんだ。ペムペルはすばやくネリをさらふやうに抱いて、そこを遁(に)げ出した。
 みんなの笑ひ声が波のやうに聞えた。
 まっくらな丘の間まで遁げて来たとき、ペムペルも俄かに高く泣き出した。ああいふかなしいことを、お前はきっと知らないよ。
 
 兄妹は、黙って時々しゃくり上げながら元来た道を戻っていった。
 ただそれだけの話なのだが、蜂雀はしゃべり終ると、再び物言わぬ「剥製」の鳥に戻ってしまう。
 この寓話の見事なところは、ペムペルとネリというこの上なく親密な兄妹の、ふたりだけの閉じられた幼児的で自己充足的な世界の甘美な感触と、それが現実の他者や大人の存在によっていや応なく破られていく時の、なんともいえぬ失墜感の哀しさが、兄妹のおもいを伝えようとする「蜂雀」の淡々とした孤独で優しい語り口とそれに無心に耳を傾ける幼い「私」の、これまたふたりだけのひそやかな物語的共有のあり方と、微妙にシンクロナイズさせられているという構成にある。
 この二重化の手続きを踏むことで、兄妹の哀しみの〈伝達不能性〉がいっそう際立ち、作者の孤絶感の苦しみが、さりげない形で、縁ある読み手の元にひっそりと届けられるのである。
 この孤絶感は、また、「私」に語りかけている時の「蜂雀」の優しい生身の息づかいと、「剥製」に戻った時の冷ややかで無機的な表情の〈落差〉の大きさによっても強調されている。
 作品の初めの部分で、蜂雀はいきなり「私」にガラス越しに話しかけ、唐突にペムペルとネリの物語を語り始めるのだが、兄妹が汗まみれになって生き生きと幸せそうに働いている情景を語り終えると急に沈み込み、「ペムペルといふ子は全くいゝ子だったのにかあいさうなことをした。/ネリといふ子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいさうなことをした」と言ったなり、黙り込んでしまう。
 いくらガラス越しにそれからどうなったのと尋ねても、蜂雀は向うの四十雀(しじふから)の剥製の方を見たまま二度と答えてはくれないので、「私」はとうとう泣き出してしまう。
 
「なぜって第一あの美しい蜂雀がたった今まできれいな銀の糸のやうな声で私と話をしてゐたのに俄(には)かに硬く死んだやうになってその眼もすっかり黒い硝子玉(ガラスだま)か何かになってしまひいつまでたっても四十雀ばかり見てゐるのです。おまけに一体それさへほんたうに見てゐるのかたゞ眼がそっちへ向いてるやうに見えるのか少しもわからないのでせう。それにまたあんなかあいらしい日に焼けたペムペルとネリの兄妹が何か大へんかあいさうな目になったといふのですものどうして泣かないでゐられませう。もう私はその為(ため)ならば一週間でも泣けたのです」
 
 そこに博物館の番人であるおじいさんがやって来て、優しく声をかけてくれる。
 おじいさんは事情を聞くと、ガラス越しに蜂雀の剥製を叱りつけ、「私」に話の残りをちゃんと伝えるように言い置いて去ってゆく。蜂雀は再び剥製から〈生身〉の鳥に変身し、物語の残りを「私」に語り出すのである。
 この蜂雀の変貌のイメージには、作者宮沢賢治の、他者への、また読者への険しい孤独なスタンスのあり方が鮮やかに象徴されているようにおもえる。
 ペムペルとネリの、人見知りしないですむ閉じられたエロスの世界には、おそらく作者宮沢賢治と妹トシの関係が重ねられているといってよく、ペムペルとネリがこうむった失墜感の哀しみは、そのまま、賢治の他者への(あるいは大人への)関係の障害感の深さを象徴的に表現するものだといってよいだろう。
 このような障害感の深さを抱え込んでいたからこそ、宮沢賢治は「書く」必要があった。そして、賢治にとって「書く」営みとは、一般化された大衆や知識人に向かって物を言うことではなく、〈生身〉と化した「蜂雀」が繊細な子どもである「私」に向かって内奥の秘密を打ちあけるように、選ばれたる魂をもった他者、すなわち、しかるべき資質と内的契機をもった孤独な読者に向かってのみ語りかけることにほかならなかった。
 並はずれた生き難さを背負った孤独な病者が、同じく生き難さを担った己れの〈分身〉としてのもうひとりの内なる他者に向かって語りかけるささやかな営み。
 真の文学や芸術とは、そういうものである。
「剥製」と化した蜂雀の凍てついたような無機質の表情には、内奥の真実を他者に伝えることのどうしようもない困難さ、障害感の深さが象徴されており、この蜂雀のイメージは、そのまま、賢治童話に繰り返し形を変えて顕われる、ヴァーチャルで金属的・鉱物的な自然意識につながるものであるようにおもわれる。ちょうど「十力の金剛石」で、背中や胸に「鋼鉄のはり金」の入った「蜂雀」が、ヴァーチャルな造花的・宝石的イメージに彩られた自然につながっていたようにである。
 すなわち、宮沢賢治の描くヴァーチャルで華麗な風景、無機的で冷ややかな存在感覚の底には、この作者の癒し難い孤絶感が横たわっていた。
 そして、宮沢賢治は、そのような関係への障害感の険しさと共に、「蜂雀」が「私」に向かって兄妹のこわれやすいデリケートないのちの手ざわりをひっそりと手渡そうとしたように、己れの内奥に疼く伝え難い渇きのおもいを、存在にひらかれた生身の身体性の、荒々しくまた優しい鼓動の表現を通して、心ある読者のもとに届けようとしたのである。
 彼の童話作品では、この二つの次元が鋭い緊張関係を保ちながら、時に葛藤し、時には融合しながら、繰り返し立ち顕われてくる。
「十力の金剛石」は、この両次元を、自然意識の分裂という形をとってきれいに象徴的に腑分けしてみせた点において、賢治童話に対する貴重な分析視角を示唆してくれる得がたい作品となっている。
 しかし、作者は、「十力の金剛石」に対して改作を企図し、のちにはそれを放棄して「構想全く不可/そのうちの/数情景を/用ひ得べきのみ」とメモを書き残している。
 何が不満だったかは定かではないが、少なくとも、蜂雀や造花的イメージによるヴァーチャルな風景描写に対して生身の身体性のイメージを対置し、前者に対して完全に否定的なまなざしを注いでいる点は、たしかに賢治の本意を損ねる結果になっているとはいえよう。
 賢治文学の本質からいって、この二つのまなざしのコントラストは、どちらか一方を否定的にとらえるべきものではなく、作者の生存感覚の両義性のあらわれとみなすべきであり、両者の分裂・葛藤あるいは融合の白熱したダイナミズムこそ、おそらくは、賢治文学生成の秘密に触れるものだからである。(この稿続く)



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