宮沢賢治童話考(連載第3回) 川喜田八潮

  • 2016.04.17 Sunday
  • 16:01

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「十力の金剛石」にみられるようなヴァーチャルで無機的・金属的な風景描写は、賢治童話の重要なモチーフのひとつである他界イメージにもつながっている。
「ひかりの素足」を例にとって、この特質を検討してみることにしよう。
 
「またたくさんの樹が立ってゐました。それは全く宝石細工としか思はれませんでした。はんの木のやうなかたちでまっ青な樹もありました。楊(やなぎ)に似た木で白金のやうな小さな実になってゐるのもありました。みんなその葉がチラチラ光ってゆすれ互にぶっつかり合って微妙な音をたてるのでした。/それから空の方からはいろいろな楽器の音がさまざまのいろの光のこなと一所に微(かす)かに降って来るのでした。もっともっと愕(おどろ)いたことはあんまり立派な人たちのそこにもこゝにも一杯なことでした。ある人人は鳥のやうに空中を翔(か)けてゐましたがその銀いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。すべて夏の明方のやうないゝ匂(にほひ)で一杯でした。ところが一郎は俄(には)かに自分たちも又そのまっ青な平らな平らな湖水の上に立ってゐることに気がつきました。けれどもそれは湖水だったでせうか。いゝえ、水ぢゃなかったのです。硬かったのです。冷たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板でした。板ぢゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光ってゐたので湖水のやうに見えたのです。/一郎はさっきの人を見ました。その人はさっきとは又まるで見ちがへるやうでした。立派な瓔珞(やうらく)をかけ黄金(きん)の円光を冠(かぶ)りかすかに笑ってみんなのうしろに立ってゐました。そこに見えるどの人よりも立派でした。金と紅宝石(ルビー)を組んだやうな美しい花皿を捧げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧(あを)や黄金のはなびらを落して行きました。/そのはなびらはしづかにしづかにそらを沈んでまゐりました。/さっきのうすくらい野原で一緒だった人たちはいまみな立派に変ってゐました。一郎は楢夫を見ました。楢夫がやはり黄金(きん)いろのきものを着、瓔珞(やうらく)も着けてゐたのです。それから自分を見ました。一郎の足の傷や何かはすっかりなほっていまはまっ白に光りその手はまばゆくいゝ匂(にほひ)だったのです」
 
 猛吹雪の中で道に迷い凍死した一郎・楢夫の兄弟があの世におもむき、他の死んだ人々と共に、前生の罪業のために、赤い瑪瑙(めのう)の棘でできた暗い野原を傷だらけになって歩きながら鬼に責められているところへ、突如如来が現われ、風景を一変させて浄土に導いてくれる。
 ここにはその浄福のイメージが、作者の傾倒した法華経の「如来寿量品第十六」による極楽イメージをもとに描かれているのだが、その水晶体のような人工的で無機的な、冷ややかな感触は、まぎれもなく宮沢賢治自身の資質に根ざしたものであるといっていい。
 しかし、「ひかりの素足」に描かれた彼岸的救済のイメージは、「二十六夜」における穂吉の臨終の描写ほどお粗末なものではないにせよ、やはり、いかにも不自然な作為に満ちている。
 作品冒頭の、山小屋での楢夫の、死の予感を暗示するような不吉な夢の与える戦慄的なイメージに始まり、やがて帰途で山道に迷い、猛吹雪の中で兄の一郎が毛布をひろげてマントのまま弟の楢夫を抱きしめながら弟ともども凍死してしまうまでの、岩手弁を活かしたリアルな情景描写や会話は、構成的にも文体的にもおよそ隙のない、自然な手堅さを感じさせるものとなっている。
  死後の世界で、一郎や楢夫をはじめとする夭折した子供たちが受ける地獄の責め苦の情景も、(現世とは一転した標準語によるニュートラルな会話や鞭を振るう鬼の存在といった小細工が鼻につくけれども)読者の痛覚をきちんと励起させる、なんとも残忍な迫力に満ちており、そのリアルで粘着的な描写力は、優に「二十六夜」のそれに匹敵するといっていい。
 現世における兄弟の受難のプロセスと死後の業苦の場面は、内面描写としては完全な連続性を保っており、不条理性の痛覚を漸進的に増幅させようとする、作者の周到な配慮がうかがえる。
 それだけに、その後の如来の出現による彼岸的救済のイメージが、いかにも唐突で白けたものに感じられるのは致し方がない。この点も、「二十六夜」に酷似している。
 現世の不条理性を裏返しただけの、安直で他愛のない〈願望充足〉の世界や、一郎が「にょらいじゅりょうぼん第十六」という言葉を感取すると同時に、それまでの地獄のイメージがヴァーチャルな空虚さをたたえた極楽の風景へと一変するといった、信者の仲間内でしか通用し得ないような、いかにも仏教臭の濃厚な、観念的な構成にへきえきさせられるのである。一郎が、最後まで弟を見棄てず一身を犠牲にして守り通そうとした功徳によって、再び現世へと輪廻転生できるという結末も、説教臭くてかなわない。
「ひかりの素足」や「二十六夜」は、おそらく宮沢賢治の初期童話に属すると思われるが、両作品における他界イメージは、魂の彼岸的救済の造型としては、無惨な失敗に終わっているというほかはない。
 賢治の他界イメージが、芸術作品として真に完成度の高いものになり得るには、主人公の現世における疎外感・孤独感の苦しみが、自然な連続性を保ったままで他界へともち越され、その寂寥の深さが、そのまま、作者の資質に根ざしたある種の透明な生存感覚へと昇華され、静謐な流れと化して宇宙的に遍在してゆくことができねばならない。
 それができた時はじめて、チャチな細工物のような賢治のヴァーチャルな他界イメージは、ヴァーチャルでありながらヴァーチャルではない、ある種のたしかな身体性を獲得しうるのである。
 その完璧な達成は、晩年の「銀河鉄道の夜」までまたねばならない。
 
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 先にも述べたように、宮沢賢治のバーチャルで金属的・無機的な自然意識には、この作者の、存在への冷ややかな異和、孤立感の深さ、生存感覚の希薄さが透けて見える。それは、およそ自然へのアニミズム的な感覚といったような、存在との相互浸透的な、生命的な温かさの匂いをもっていない。
 この宮沢賢治の自然意識の半面は、生得的な要因も含む資質的なものといってよいであろうが、ある意味では、資本制近代のアトム化の病理がひとつの頂点に達した大正後期から昭和初年という不幸な時代に活動期を迎えるという、歴史的な因縁によって強いられたものであると考えることもできる。
 私は、賢治のヴァーチャルで無機的な自然意識に接する時、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』(大正六年〔一九一七〕)でうたい上げられた、自然への冷ややかでグロテスクな奇形意識を連想せずにはいられない。一例を挙げてみよう。
 
《その菊は醋(す)え、/その菊はいたみしたたる、/あはれあれ霜つきはじめ、/わがぷらちなの手はしなへ、/するどく指をとがらして、/菊をつまむとねがふより、/その菊をばつむことなかれとて、/かがやく天の一方に、/菊は病み、/饐(す)えたる菊はいたみたる。》(「すえたる菊」)
 
 ここでうたわれた、萎え切った「菊」への同病相憐れむような感受性や、「ぷらちなの手」といった表現に流れている冷え切った生存感覚は、一見、先の「十力の金剛石」や「ひかりの素足」の描写にみられるようなきらびやかな人工的自然とは異質なもののように見えるが、そこにはある共通の感覚が看て取れる。それは、関係意識の障害感の深さに根ざしたヴァーチャルで無機的な、アトミズム的な生存感覚といってよく、両者の作品は、その苦しみの代償表現とみなすことができる。
 朔太郎は、己れの苦しみをてらいも自己欺瞞もなく、ごく素直に自然への投影を通じて形象化しているのに対して、宮沢賢治は、その障害感の苦しみや生存感覚の希薄さを覆い隠し、あたかもアンデルセンの「雪の女王」の城のように、きらびやかな宝石的・造花的・化学的イメージで己れの冷え切った身体を飾り立ててみせたのである。
 『月に吠える』から、もうひとつ作品を取り上げてみる。
 
《わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、/それがわたくしの顔をうすぼんやりと見せる理由です。/わたしは手に遠めがねをもつて居ります、/それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、/につける製の犬だの羊だの、/あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、/それらがわたくしの瞳(め)を、いくらかかすんでみせる理由です。/わたくしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、/そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、/それがわたくしの顔をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。/じつさいのところを言へば、/わたくしは健康すぎるぐらゐなものです、/それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。/なんだつてそんなに薄気味わるく笑つてゐる。/おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、/そのへんがはつきりしないといふのならば、/いくらか馬鹿げた疑問であるが、/もちろん、つまり、この青白い窓の壁にそうて、/家の内部に立つてゐるわけです。》(「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」・斜体字は原文では傍点)
 
 この詩の文脈における、「れいす」(レース)のかげとか、「につける製」(ニッケル製)の犬や羊とか、「きやべつの皿」とか、「粗製」の「窓硝子」や「青白い窓の壁」とかいった言葉の使われ方には、風土から断絶され、人工的で無機的な欧米近代風のライフスタイルに囲い込まれた人間の生存感覚の希薄さが巧みに象徴されている。
「につける製」の犬や羊には、お手玉や日本人形のような、柔らかで繊細な、親和的な質感をたたえた玩具とは対照的な、無機的で規格品的な冷ややかさを感じさせるし、「あたまのはげた子供たち」という言葉には、地域社会の絆の欠落と崩壊した夫婦関係の下にある不自然な近代的養育環境によって、幼い頃から神経症的なストレスを抱え込み、心身症に苦しめられる今日風の子供のイメージを彷彿とさせられる。
 これがおそらく、作者が透視した欧米近代文明の末路のイメージに違いなかった。
 それは、近代文明の先進国である欧米の市民社会の到達しつつある実態ではあろうが、大正期の日本の現実は、まだそこまでは辿り着いていない。
 だからこそ作者は、かの国の病を「遠めがね」で観ているのであるが、しかし、欧米市民社会を蝕んでいる近代の病は日本のそれと本質的には同じものであり、「遠めがね」に映った欧米の姿は、そのまま、日本の将来を予言するものでもあったのだ。
 中流上層家庭に育ったアダルト・チルドレンであった萩原朔太郎は、当時としては、欧米近代文明の病の本質に対して並はずれた感受性をもつことができた文学者の一人であったが、彼の詩作品は同時に、東京を中心とする大都市の膨張と農村人口の流出が急速に進行した明治末年から昭和初年という時代を生きた日本人大衆のこうむった隠微な魂の荒廃を、拡大鏡にかけたように鮮明に映し出すものでもあった。
 その病理の核心を表わすイメージが、先の詩でいえば、「腰から下」が「はつきりしない」という表現によって象徴されるような、〈生身〉の身体性の空洞化の苦しみにほかならなかった。
 朔太郎の『月に吠える』は、大正末から昭和初年における芥川龍之介・横光利一・川端康成・伊藤整・太宰治らの病理の表現と本質的に重なるものであり、その先駆ともなっている。宮沢賢治もまた、彼らと同じ時代の子であった。
 しかし、賢治のヴァーチャルな自然意識には、単なる近代的なアトム化の病、存在への異和に根ざした身体性の衰弱といった要因には解消できないような、この作者の資質に根ざした独特の透明な生存感覚が潜在していた。
 その資質は、「マグノリアの木」や「インドラの網」といった西域仏教風の作品によって他界イメージの冷ややかな透明性となって表現され、ついに「銀河鉄道の夜」に至って全面的な開花をとげるのである。
 
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 例えば、「インドラの網」では、疲れ切って風と草穂の中に倒れ込んでいる「私」が、夢の中で他界のような冷ややかな黄昏の高原を歩き、やがて銀河の世界に入り込むありさまが、次のように描かれている。
 
 湖はだんだん近く光って来ました。間もなく私はまっ白な石英の砂とその向ふに音なく湛(たた)へるほんたうの水とを見ました。
 砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の微光にしらべました。すきとほる複六方錘(ふくろくはうすゐ)の粒だったのです。
 (石英安山岩か流紋岩から来た。)
 私はつぶやくやうに又考へるやうにしながら水際に立ちました。
 (こいつは過冷却の水だ。氷相当官なのだ。)私はも一度こゝろの中でつぶやきました。全く私のてのひらは水の中で青じろく燐光(りんくわう)を出してゐました。(中略)
 いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとほってゐました。素敵に灼(や)きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流れ、鋼玉の小砂利も光り岸の砂も一つぶづつ数へられたのです。
 又その桔梗(ききゃう)いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片(へきかいへん)や青宝玉の尖(とが)った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろはれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるへました。
 私は又足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたゝいてゐるのでした。恐らくはそのツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思はれました。
 
「ひかりの素足」に描かれた極楽イメージの、仏教色の強い、チャチな細工物のような空虚な冷ややかさと比べてみると、格段のひらきがあることがわかる。同じくヴァーチャルな、金属的で無機的な他界イメージではあっても、「インドラの網」では、語り手の「私」のまなざしを通して描かれた作者の寂寥の深さは、そのまま、すきとおった天上的な身体性となって、静謐な水のように、また砂のようにびまんしていくのである。
 このような生存感覚が、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラの他界風景に受け継がれていくことはいうまでもない。
 銀河鉄道に乗ったばかりのジョバンニが、列車の窓から天の川を見る場面を引用してみる。
 
 そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立ててゐるのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きはめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光(りんくわう)の三角標が、うつくしく立ってゐたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙(だいだい)や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或(ある)いは三角形、或いは四辺形、あるいは電(いなづま)や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに息をつくやうに、ちらちらゆれたり顫(ふる)へたりしました。
 
 もうひとつ、少年二人が「白鳥停車場」の近くにある天の河原に立つシーンを見てみよう。
 
 二人は、停車場の前の、水晶細工のやうに見える銀杏(いてふ)の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通ってゐました。
 さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちゃうど四方に窓のある室(へや)の中の、二本の柱の影のやうに、また二つの車輪の輻(や)のやうに幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。
 カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌(てのひら)にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云ってゐるのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」
「さうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。
 河原の礫(こいし)は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲(しうきょく)をあらはしたのや、また稜(かど)から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光(りんくわう)をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
 
 世界からぽつんと切り離されたようなジョバンニとカンパネルラのわびしく透明な風景が美しく描かれている。
 二人の少年が銀河鉄道の先々で見聞するさまざまな風景が、「ひかりの素足」における極楽イメージと同様、作者の険しい存在への異和、不条理感を単純に転倒してみせただけの、荒唐無稽な〈願望充足〉の世界にすぎないことは明白であるが、それにもかかわらずこの作品が私たちに与えてくれる、なんともいえぬ〈浄化〉の感触は、紛れもなく、カンパネルラと一緒に他界の世界を旅しても決して癒されることのないジョバンニの絶対的な寂寥の深さにもとづいている。
 この寂寥が、銀河世界の暗く深々とした感触と共振することで、青白い透明な天上的身体性を獲得し、少年の遭遇するヴァーチャルな願望充足の風景を静かに冷ややかに包摂しつつ、水のように流れて行くのである。
 
「あすこへ行ってる。ずゐぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまへるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといゝな。」と云った途端、がらんとした桔梗(ききゃう)いろの空から、さっき見たやうな鷺(さぎ)が、まるで雪の降るやうに、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞ひおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだといふやうにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っ端から押へて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、螢(ほたる)のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしてゐましたが、おしまひたうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融(と)けるやうに、縮まって扁(ひら)べったくなって、間もなく溶鉱炉から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしてゐるうちに、もうすっかりまはりと同じいろになってしまふのでした。
 
 殺生の罪を犯さずに次々と天の川の砂からできた鷺(さぎ)をつかまえる鳥捕りの姿や、天災や飢饉や収奪から解放されて易々と出来ばえのいい大きな果実や穀物を収穫できる農業のあり方や、タイタニック号の沈没をモデルとした溺死者によって象徴される、不条理な悪因縁に見舞われた人々の鎮魂のイメージといったような設定のヴァーチャルな空虚さを指摘することは易しい。
 だが、それらの空虚な願望充足の風景を追跡する時に私たちが味わうものは、「ひかりの素足」の極楽イメージのような白々しい観念的な空疎さではなく、生身の肉体をしばし離脱することで、生活の疲労感とこの世の生き難さの実感を優しくいたわるように包み込み、すきとおった天上の水脈に全身をさらしてやるような、なんともいえぬ〈浄化〉のイメージなのである。
「銀河鉄道の夜」が造型してみせたこのような天上的なカタルシスのあり方は、ひとえに、現世から他界へと受け継がれていくジョバンニの寂寥の深さと、その〈生身〉の感触を青白い透明な天上的身体性へと転化し拡張させていく、作品の暗く深々とした幻想性のたまものだといっていい。
 私たちが死を極度に恐れるとすれば、それはひとつには、現世と死後の世界との間に〈断絶〉をみているからである。もちろん、死後の世界があるとすれば、それは現世とは全く異質なものであろうから、どこまで行っても死という未知なる対象に対する恐怖を完全に払拭することはできまい。
 だが、それを能う限り緩和し、死の想念にいたずらに心をわずらわせることなく、心静かに老いを迎えようと思うのなら、死後の世界と現世との間に、ある種の〈連続性〉を見出すことができねばならない。すなわち、現世の生活風景の中で、他界的な次元を生きることができなければならない、ということだ。私たちが日々の暮らしの中でめぐり会うことのできるさまざまな非日常的・神秘的な次元そのものが、すでに、ある意味では他界の風景だといってもよいのではあるまいか。
 もちろん、生と死は別ものだが、私たちは、日々の生の中で、同時に死後の次元をさまざまなかたちで生きていると考えることもできる。
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」も、現世と死後の間に、ある種の〈連続性〉を見出そうとする試みの産物として位置づけることができよう。
 この作品の重要な特質は、主人公ジョバンニの現世における疎外感や孤立感を安直に打ち消すような他界イメージを創るのではなく、逆に、その冷え切った身体性を、青と白と銀色を基調とする自然風景の深々とした清浄な奥ゆきに変換し、類的に拡張することで、美事な癒しのイメージへと昇華させてみせているところにある。
 このような自然な連続性と昇華があるからこそ、私たちは、肉体を離脱し人生の疲労とたたかいから解放されたさまざまな銀河鉄道の乗客たち(死者たち)のヴァーチャルな成仏と転生の形に対して、「お疲れさまでした」と優しくいたわるような心持ちになれるのだし、また、主人公のジョバンニが現世へ舞い戻った時のはればれとした表情に深い共感を抱くこともできるのである。
 ただ、この作品で描かれた他界風景を自らにとっての十全な死後のイメージとして受け容れることができるかということになると、人さまざまであろう。
「銀河鉄道の夜」第四次稿(最終稿)において、作者は、夢から醒めたジョバンニが病気のお母さんのために熱い牛乳をもらい、漁に出ているお父さんが無事に帰りそうだという知らせを一刻も早く届けようと一目散に帰宅するという、貴重な「末尾」を書き加えている。
 私は、この締めくくりの挿話を読み返すたびに、なにかほっとしたものを感じるのである。
 それは、銀河鉄道の乗客たちの険しく冷ややかな業苦の感触や自己犠牲の匂いとはきわめて対照的なものだ。
 宮沢賢治が最晩年に、この末尾の挿話を付け加え、第三次稿まであった「ブルカニロ博士」とその分身の啓蒙的なお説教を抹消したことは、私には、きわめて重要な改変におもえる。
 この地味でささやかな挿話の中で、銀河鉄道に乗る前にジョバンニを覆っていた不吉な影は見事に払拭され、主人公の〈気〉の流れは生命的なものに転じている。
 その変容が、ジョバンニの銀河世界での〈浄化〉の体験によるものであることを、私たちは自然に受け止めることができる。カムパネルラの死のエピソードも描かれているが、その悲しみも、少年たちの旅と別離のプロセスを通じて再確認された、存在者としての本源的な〈孤独〉の宿命によって緩和され、ひとつの成仏のかたちへと昇華されているのである。銀河鉄道による他界体験があって、はじめて、この締めくくりも生きてくる。
 しかし、それにもかかわらず、末尾の挿話に流れる生命的な暖かさの気配がそれまでの物語の青白い冷ややかな感触と鋭いコントラストをなしていることもまた、否定することはできない。
 私は、このコントラストの中に、作者宮沢賢治の生存感覚の両義性と生の均衡感覚を読み取るのである。(この稿続く)




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