宮沢賢治童話考(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.05.18 Wednesday
  • 17:53
 
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 前にも触れたように、宮沢賢治の自然意識には、存在への異和に根ざしたヴァーチャルで無機的な関係意識と共に、それを緩和し、修復しうるような生身の身体性への渇きが息づいていた。
「めくらぶだうと虹」は、そのような渇きが、穏やかで親和的な生命感覚となって、幸福な形をとって表出された数少ない作品の一つである。
 
 城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟(あは)は刈られました。
「刈られたぞ。」と云ひながら一ぺん一寸(ちょっと)顔を出した野鼠(のねずみ)が又急いで穴へひっこみました。
 崖(がけ)やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐます。
 その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。
 さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向ふの山は暗くなりました。
 そのかすかなかすかな日照り雨が霽(は)れましたので、草はきらきら光り、向ふの山は明るくなって、大へんまぶしさうに笑ってゐます。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで来て、みんな一度に、銀のすゝきの穂にとまりました。
 めくらぶだうは感激して、すきとほった深い息をつき葉から雫(しづく)をぽたぽたこぼしました。
 東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のやうにやさしく空にあらはれました。
 そこでめくらぶだうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。
 
 書き出しの部分であるが、なんとも息を呑むほどに美しい描写である。
 実り、枯れ、刈り取られた秋のさまざまな植物たちの生死の面影が交錯する、廃墟址の蕭条とした風景の中で、ひっそりとたたずむ「めくらぶだう」の息づかいが、皮膚感覚的な鮮やかさをともなって伝わってくる。山脈に抱かれた城あとの風景全体が深々とした陰翳に包まれ、風の香りやかすかな日照り雨を受けた草のきらめきの表情も、驚くほどみずみずしい透明感をたたえている。
 そして、この生死一如のような、生命的な浄福の光景の中に、大きな「虹」が出現するのである。
 宮沢賢治の主・客融合的、アニミズム的な生存感覚が、ここでは、硬質な客観的・写実的な描写力を活かしながら、比類ない鮮度を保って描破されている。
 作品の冒頭で、作者は、山脈を背景とする城あとの風景全体を視野に収め、無駄の無い簡潔な筆づかいでそのみずみずしい生命感を一気にひき出しながら、同時にめくらぶだうの視線に憑依し、次いではるかなる虹への熱い哀しい憧憬のおもいを語りはじめるのである。
 ここからのめくらぶだうと虹は会話体による擬人化をこうむるのだが、読者は、先に引用した客観的な風景描写による身体感覚の励起を経ているために、他の賢治童話にありがちな、息苦しい人間ドラマへの矮小化の感覚を味わわずにすむ。それが、この作品の美事さの秘密である。
 おまけに、めくらぶだうと虹の会話の中味がまた味わい深い。瞬間の中で燦然と輝く虹の天上的な高貴さに比べて、自分などははるかにみすぼらしい、はかない存在でしかなく、すぐに実や葉は風にちぎられ、冷たい雪の中にうずもれ、枯れ草の中で腐ってしまうのだと嘆き、ひたすら虹に崇拝と思慕のおもいを打ちあけるめくらぶだうに対して、虹は言う。
 
「……本たうはどんなものでも変らないものはないのです。ごらんなさい。向ふのそらはまっさをでせう。まるでいゝ孔雀石(くじゃくいし)のやうです。けれども間もなくお日さまがあすこをお通りになって、山へお入りになりますと、あすこは月見草の花びらのやうになります。それも間もなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。/その頃、私は、どこへ行き、どこに生れてゐるでせう。又、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒づつけづられたりくづれたりしてゐます。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらはれるときは、すべてのおとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさへ、たゞ三秒ひらめくときも、半時空にかゝるときもいつもおんなじよろこびです」
 
 あらゆる生きとし生けるものの栄枯盛衰・有為転変・無常なるものを貫く存在の本質についての宮沢賢治の理念が率直に語られている。
 存在の一瞬の光芒の内に顕現しうる、時空を超越した大いなるいのちの働き。善悪美醜、光と闇の織りなす混沌とした存在のドラマを司り、そのうねりの中に内在しつつ超越する、霊妙な力の遍在。
 作者は、深々とした陰翳とみずみずしい透明感をたたえた城あとの風景に象徴される生死一如の境位を体現した虹のすずやかな風貌の中に、己れの世界観の核心を、最もシンプルに、てらいなく込めてみせたのである。
 
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 しかし、「めくらぶだうと虹」は後に「マリヴロンと少女」という作品に改作され、そこでは、めくらぶだうと虹の対話は、父親の牧師と共にアフリカへ行くギルダという少女と歌手のマリヴロン女史の対話へと置き換えられている。
 冒頭の風景描写の文章は、ほぼ「めくらぶだうと虹」と同じようにみえるが、実は、微妙に変えられている。 
 
 城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になって、畑の粟(あは)は刈りとられ、畑のすみから一寸(ちょっと)顔を出した野鼠(のねずみ)はびっくりしたやうに又急いで穴の中へひっこむ。
 崖(がけ)やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐる。
 その城あとのまん中の、小さな四っ角山の上に、めくらぶだうのやぶがあってその実がすっかり熟してゐる。
 ひとりの少女が楽譜をもってためいきしながら藪(やぶ)のそばの草にすわる。
 かすかなかすかな日照り雨が降って、草はきらきら光り、向ふの山は暗くなる。
 そのありなしの日照りの雨が霽(は)れたので、草はあらたにきらきら光り、向ふの山は明るくなって、少女はまぶしくおもてを伏せる。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで来て、みんな一度に、銀のすゝきの穂にとまる。
 めくらぶだうの藪からはきれいな雫(しづく)がぽたぽた落ちる。
 かすかなけはひが藪のかげからのぼってくる。今夜市庁のホールでうたふマリヴロン女史がライラックいろのもすそをひいてみんなをのがれて来たのである。
 いま、そのうしろ、東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のやうにやさしく空にあらはれる。
 
  先に引用した「めくらぶだうと虹」の冒頭部と虚心に読み比べてみると明らかなことだが、「マリヴロンと少女」の風景描写の方が、格段に色あせたものとなっている。
 その理由は二つある。
 ひとつは、「めくらぶだうと虹」では、いかにも童話風の、ゆったりとした優しい「ですます体」の語り口調でリズミカルに描写されているのに対し、「マリヴロンと少女」では、童話風の空気を一掃し、現在進行形の「である調」を使って、淡々と事実を記述的に積み重ねていくような、冷ややかな機械的リズムが支配しているという点である。
 同じような風景を客観的に描写していても、表現意識はまるで異なっているのだ。
「めくらぶだうと虹」のみずみずしいリズムを抽き出しているのは、作者の主・客融合的でアニミズム的な身体感覚の鮮やかさであるといっていいが、「マリヴロンと少女」では、主・客は冷ややかに分離され、主体としての作者は、ただ、客体化された美しい風景を写実的に「記述」しているだけなのである。
 もうひとつは、「めくらぶだうと虹」の冒頭部では、風景の客観描写がなされているとはいえ、その中に、わずかに、ひかえめな形で動植物の擬人化が混入されているのに対して、「マリヴロンと少女」では、一切の擬人化がしりぞけられているという点である。
 前にも強調したように、擬人化という手法は、存在に対するわれわれの共感や想起の能力を大幅に希釈し、あるいは封じてしまうという危険性をもっており、自然を擬人化したとたんに、その作品は、自然に対する真の身体的な開放感とは無縁の、単なる人間ドラマの〈喩〉としての寓話的レベルに限定させられてしまうのである。
 宮沢賢治の擬人化の手法にはほとんど常にこの難点がつきまとっているが、「めくらぶだうと虹」は、逆に擬人化が、風景描写に込められたみずみずしい生命的な身体感と共振し、それを励起させる効果を生み出しているという、例外的な作品の一つであるといっていい。
「めくらぶだうは感激して、すきとほった深い息をつき葉から雫をぽたぽたこぼしました」とか「めくらぶだうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました」といった表現は、作品冒頭の客観的な風景描写の身体的な喚起力を弱めるのではなく、逆に励起し、それに一層の透明感とふくらみを付与しているのである。
 対照的に「マリヴロンと少女」では、一切の擬人化をしりぞけ、冷ややかな写実的描写とあいまって童話的な空気を一掃することで、風景を痩せ細ったものにしている。
 ここでは、秋の蕭条とした夕暮れ時の風景は生命的なふくらみをもたず、むしろ少女の憂鬱に揺れ動く、孤独な冷え切った身体の喩として立ち現われている。
 さらに、少女とマリヴロン女史との会話も、めくらぶだうと虹のそれとは趣きを変えている。
 自分は父親の牧師と共に明日にはアフリカへおもむき、布教・伝道の仕事に携わらなければならない、しかし本当は音楽好きで、マリヴロン女史のように歌いたかった、自分はアフリカなどに行きたくはない、女史のもとに仕え、彼女の仕事を手伝い、教えを乞いたい。そんな溢れるおもいを抱えながら、少女ギルダは、マリヴロンへの熱烈な憧憬のおもいを訴えようとする。
「あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでせう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです」という女史に対して、ギルダは、そんなことはない、「先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派に」なさるお方だと主張する。マリヴロンは少女をさとすように「えゝ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよさうでせう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを一羽の鵠(こふ)がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です」と語る。
 けれども、あなたは、高く光の空にかかり、草花や鳥はあなたをほめたたえて歌うのに、私は誰にも知られずに巨きな森の中で朽ち果ててしまうのだ、と少女はうちひしがれたようにつぶやく。女史は「すべて私に来て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与へられたすべてのほめことばは、そのまゝあなたに贈られます」と励まし、なおも、私を連れて行ってくれと哀願する少女に、「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです」と語りながらその願いを拒否し、進むべき道を指し示す。
 この会話だけでは、少女ギルダの希いやそれへのマリヴロン女史の対応の仕方が妥当なものであったのかどうかはわからない。ただ、ささやかな私見を言わせてもらえば、たとえそれが親の希望だろうが何だろうが、己れの身体の深奥から立ち昇る自然な渇きの声に抗うものであるのなら、人間は、そんな要求を拒否してみせる権利をもっているということだ。
 牧師の布教・伝道の仕事が己れの魂を圧殺しようとする営みだと感じられるのなら、少女には、それを徹底的に拒む権利があるし、マリヴロン女史は、他人の人生の重大な岐路に当たって、無責任なおためごかしを言うべきではない。
 もちろん、だからといって、女史が、安っぽい同情から少女の身元を引き受け、その教育を肩代わりすることで、己れの精神的な自由を自ら拘束してみせる必要もない。
 女史は、自己欺瞞もおためごかしもなく、己れの孤独な表現者としての道を歩み続けるべきだし、少女もまた、己れの心奥の声に耳を傾けつつ、かけがえのない単独者の道を探し当てるべきなのだ。
 ここでのマリヴロン女史の言葉には、宮沢賢治の生活思想者としての自立の理念が込められている。そのポイントは二つある。
 ひとつは、他人への〈比較〉の視線、世間や他者による〈評価〉の視線をいかに超えてみせるか、という問題である。
 己れ自身の固有の生活史の文脈に則した、自然な身体の渇きに根ざした固有の生の営みがつくり出す、ささやかな哀歓の輝きの軌跡。
 それは、それ自身で絶対的に屹立している、ひとつの〈生活〉という芸術なのであり、比較や評価を絶したものなのだ。
 マリヴロンのいう「正しく清くはたらくひと」とは、どのような存在なのか。この作品には、それがきちんと示されていない。それだけに、このマリヴロンの言葉には、己れの実存を疎外した安直な献身や自己犠牲の理念に横すべりする危険性がはらまれている。
 これは宮沢賢治自身の危うさであると共に、賢治文学を受容する者の陥りがちな危うさでもある。
 だがすでに、「よだかの星」に息づいている、宮沢賢治の誇り高い〈孤〉の絶対的な屹立の場所を知っている私(たち)は、「青いそら」の中を飛んでいく「一羽の鵠」の軌跡がつくり出す深々とした清冽な時間の芸術がいかなるものかを、一切の観念的・倫理的な贅肉を削ぎ落とした形で感受することができるはずである。
 マリヴロン女史の言葉に込められているもうひとつのポイントは、そのような一人ひとりの生の絶対的な固有性の営みの場所が、その孤独さを純粋に守りながら、いかにして、他者の固有性と結びつき、出会うことができるのか、という問題である
「すべて私に来て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします」「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです」というマリヴロン女史の言葉は、この問題への解答を指し示している。
 しかし、これらの言葉が生きて成立しうるには、いうまでもなく、「めくらぶだうと虹」で表現されたような、時空を超えて遍在する大いなるいのちの働きに対する作者の信仰心の深さが、きちんと息づいていなければならない。
「めくらぶだうと虹」では、そのような宇宙生命的な理念が、アニミズム的な存在の輝きを象徴するみずみずしい風景描写を前提とすることで、簡潔に、説得的に語られていた。
 しかし、「マリヴロンと少女」では、そういう時空を超越した生命観を生き生きと伝えるような言葉もなければ、その生命観に力を与えるような風景描写のみずみずしさも欠落している。
 だから、せっかくのマリヴロン女史の言葉も、この作品だけでは、ただの観念的なお説教のレベルにとどまっている。独立した作品としては、どうしようもなく痩せているのである。
「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への改作の姿勢には、宮沢賢治の孤立感の深さと冷え切った身体、その裏返しとしての関係への飢えの激しさと孤立感を代償せんとする観念的倫理的志向の危うさが透けて見える。
 私たちは、ここで、またもや賢治の生き難さの業に直面させられているのだ。
 
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 擬人化の手法が穏やかで親和的な風景描写と共振し合いつつ、美事な生涯の完結感=〈死〉のイメージを造型し得た童話作品に、「おきなぐさ」がある。私は、宮沢賢治のあらゆる作品の中で、これほどに安らかで軽やかな浄福感をたたえた死の感触にめぐり会ったことはない。成長し切った植物の種子が風に吹かれて散っていく時の、最期の生の輝きが描かれているのだが、これと似たモチーフを扱った童話作品「いてふの実」が、思春期の子供の旅立ち前のような、死と孤立の恐怖に蒼ざめた実存的な悲壮さを漂わせているのに対して、「おきなぐさ」にはそういう悲壮さや感傷の匂いが全くない。
「おきなぐさ」は別名「うずのしゅげ」ともいい、「黒繻子(くろじゅす)の花びら」と青白い「銀びろうどの刻みのある葉」をもち、六月には「つやつや光る冠毛」をつける。なんとも神秘で涼やかな風情をたたえた気品のある植物なのである。このうずのしゅげの花をきらいなものはない、と作者は語る。
 
 又向ふの、黒いひのきの森の中のあき地に山男が居ます。山男はお日さまに向いて倒れた木に腰掛けて何か鳥を引き裂いて喰べようとしてゐるらしいのですがなぜあの黝(くろず)んだ黄金(きん)の眼玉を地面にじっと向けてゐるのでせう。鳥を喰べることさへ忘れたやうです。
 あれは空地のかれ草の中に一本のうずのしゅげが花をつけ風にかすかにゆれてゐるのを見てゐるからです。
 私は去年の丁度今ごろの風のすきとほったある日のひるまを思ひ出します。
 それは小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはづれの西がはでした。かれ草の中に二本のうずのしゅげがもうその黒いやはらかな花をつけてゐました。
 まばゆい白い雲が小さな小さなきれになって砕けてみだれて空をいっぱい東の方へどんどんどんどん飛びました。
 お日さまは何べんも雲にかくされて銀の鏡のやうに白く光ったり又かゞやいて大きな宝石のやうに蒼(あを)ぞらの淵(ふち)にかかったりしました。
 山脈の雪はまっ白に燃え、眼の前の野原は黄いろや茶の縞(しま)になってあちこち掘り起こされた畑は鳶(とび)いろの四角なきれをあてたやうに見えたりしました。
 おきなぐさはその変幻の光の奇術(トリック)の中で夢よりもしづかに話しました。
 
 春の風景のひとこまが、枯草の中にひっそりとたたずむ「うずのしゅげ」の柔らかな空気を中心に、みずみずしく描写されている。「鳥を引き裂いて喰べようとしてゐる」獰猛な山男も、「黄いろ」や「茶の縞」になって横たわる枯れ野や「あちこち掘り起こされた」畑の荒れた風情も、この植物の優しい繊細な気配の内にごく自然に包摂される。
「銀の鏡」とか「宝石」とか「光の奇術(トリック)」といったような、賢治らしい、金属的でアトミックな感覚を示す言葉もわずかに見られるけれども、ここではそれらの言葉も、生身の身体性を励起させる、「おきなぐさ」の風情を中心とした穏やかで生命的な風景描写の中に、抵抗無く溶かし込まれているのである。
 その鮮やかにひきしまった客観描写の延長に、刻々と移り変わる風景のデリケートな表情にみずみずしい驚異の念をおぼえるふたりの「おきなぐさ」たちの対話が続く。
「めくらぶだうと虹」と同様、ここでも、おきなぐさたちの擬人化の手法は、客観的な風景描写の励起させる生命感を弱めるのではなく、むしろ、それと共振し合っている。
 やがて、二ヶ月が過ぎ、春から夏へと季節は移り、「銀毛の房」をたくわえた二つのおきなぐさたちは、まもなくひとつの生涯を終え、散り時を迎えようとする。
 
「丘はすっかり緑でほたるかづらの花が子供の青い瞳のやう、小岩井の野原には牧草や燕麦(オート)がきんきん光って居(を)りました。風はもう南から吹いて居ました。/春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房にかはってゐました。野原のポプラの錫(すず)いろの葉をちらちらひるがへしふもとの草が青い黄金(きん)のかゞやきをあげますとその二つのうずのしゅげの銀毛の房はぷるぷるふるへて今にも飛び立ちさうでした」
 
 ひばりがやって来て、飛んで行くのはいやですかと聞くと、おきなぐさは、なんともありません、僕たちの仕事はもう済んだのです、僕たちがばらばらになってどこへ飛ぼうと、お日さまはちゃんと見ていらっしゃる、何も恐いことはありませんと答える。
 すがすがとした二本の草は、風の訪れを心静かに待ちうける。
 
 奇麗なすきとほった風がやって参りました。まづ向ふのポプラをひるがへし、青の燕麦(オート)に波をたてそれから丘にのぼって来ました。
 うずのしゅげは光ってまるで踊るやうにふらふらして叫びました。
 「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがたうございました。」
 そして丁度星が砕けて散るときのやうにからだがばらばらになって一本づつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のやうに北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のやうに空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんの一寸(ちょっと)歌ったのでした。
 私は考へます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに空の方へ飛んだか。
 それはたしかに二つのうずのしゅげのたましひが天の方へ行ったからです。そしてもう追ひつけなくなったときひばりはあのみじかい別れの歌を贈ったのだらうと思ひます。そんなら天上へ行った二つの小さなたましひはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星になったと思ひます。なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えずあるときは蟻が云ったやうに赤く光って見えるからです。
 
 このように暖かくはればれとした、しかも透明で深々とした〈死〉の瞬間を、私たちの近代文学は、他に生み出すことができただろうか。リアリズム的な小説技法が逆立ちしてもとうてい真似のできないような、酷薄さや悲壮さというものを完全に突き抜けた、生命的な軽やかさがここには息づいている。
 自然に帰するが如く、とはこのような表現をいう。
 擬人化とみずみずしい生身の風景描写が一体となった「童話」という喩的形式を通してしか、このような死の受容のあり方を描出することは不可能であろう。
 われわれの見ている星は、はるか昔に輝いていた(あるいは滅び去った)星の光がたまたま今われわれのもとに届いて網膜を刺激している物理的現象にすぎないなどという、科学的な因果律のゴタクを並べ立てるような鈍感な愚か者たちには、この「おきなぐさ」の啓示する偉大な真理は、とうていわかりはしない。
 物質的な星の寿命や滅亡などという知識は、われわれが今、この瞬間に見上げ、めぐり会っている星辰の高貴燦然たるきらめきというおごそかな事実にとっては、全くもって何ものでもない。
 そういう因果律的説明は、〈存在の本質〉とは全く別次元に属することである。
 驚くべき事は、因果律的説明それ自体にあるのではなく、はるか昔に輝いていた、あるいは滅んだ星のまたたきを、今、われわれが、ここで、このような天空の配置とたたずまいを通してみつめているという事実そのものにあるのだ。
 その星の輝きは、まさに、今ここで私たち自身と出会うべくして出会ったのであり、私たちの心身に宿りながらも私たちの有限な肉体や意識のあり方をはるかに超えてひろがる偉大なるコスモスの息吹の顕われとして、今ここに私たちの〈本体〉の一部としてその生命を開示してみせているのである。
 私たちの死後の霊のゆくえもまた、この無窮なるコスモスのうねりの中に包摂され、そこで生きる。
「おきなぐさ」の転生のイメージと私の死生観が出会う場所はそこである。
「銀河鉄道の夜」に描かれた透明で冷ややかな、天上の水の如きイメージが、宮沢賢治の〈存在への異和〉に根ざした孤絶感の裏返しとしてのヴァーチャルで無機的な生存感覚の延長上に形成されたものであるとするなら、「おきなぐさ」は、逆に、作者の生身の身体性への渇きが生み出した穏やかで親和的な生命感覚の延長上に成立し得る幸福な臨終のイメージを象徴するものであった。
 私には、この二元性の〈均衡〉のうちに、一切の不自然な悪あがきを排した上で私たち現代人が心静かに死に対座しようとする時の、究極の〈安心〉のありかをめぐる課題の本質が、鮮やかに凝縮されているようにおもえてならないのである。(この稿続く)



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