書評:スピノザ『エチカ』(連載第1回) 川喜田八潮

  • 2016.07.26 Tuesday
  • 17:30

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第1回)

 

     1

 

 これまで、ジル・ドゥルーズの名著『スピノザ』について論じてきた。

 ここからは、一転して、私自身のスピノザ論=『エチカ』論について語りたいとおもう。

 私の『エチカ』論は、ドゥルーズともニーチェとも違う立ち位置にある。

 ただ素直に、とにかく繰り返し、繰り返し、この古典的哲学的名著を再読・三読し(岩波文庫・畠中尚志訳による)、私自身の眼に映じた事のみを語ろうと思う。

 私は哲学者ではない。哲学史家でもない。「学」の構えとは無縁の、一介の在野の文芸評論家であり、ひとりの表現者である。

 哲学的な概念規定による、スコラ的なこちたき論理の轍(わだち)にはまり込む気は無い。

 スピノザが『エチカ』で展開してみせた、「定義」「公理」「定理」「系」による演繹的な論理的連鎖を忠実に辿り直す気など毛頭ないし、そこでの哲学的概念をめぐる厳密かつ煩瑣な認識論的考察に対しても、敬遠させてもらうことにしよう。

 西洋哲学史におけるスピノザ哲学の独自性・位置づけといった問題に関わる気もない。

 私はただ、ひとりの無名の〈生活者〉の場所から、この哲学者の人性の本質への透徹した認識と生きる身構えに、相対してみたいだけだ。

 ドゥルーズは、『エチカ』の最高の到達点を、「概念」と「情動」が「完全に一致」している「第五部」に求め、そこに、官能的な生命の解放による「神」との合体の境地を見出すのだが、私のこだわりは、もっと別なところにある。

 私がこの書に見出すのは、ドゥルーズやニーチェのような、不条理に抗って大地の重力に拮抗し、灼熱の太陽のごとき生命の炎を強引に燃え上がらせんとするような、不自然で過度に非日常的・祝祭的な、ハイテンションの雄叫びではない。

 もっと静かな、深く澄み切った、研ぎすまされた知性と、その上に立つ、「生きる」ことの覚悟性である。

 深々とした静けさ、透明感、比類なき聡明さ。

 それが、『エチカ』という書に流れている主調音である。

 この書の中で、その深奥の秘密が隠されている箇所は、「神」との汎神論的一体化による「至福」の境地を語った「第五部」ではない。

 人間の〈感情〉〈弱さ〉〈隷属〉への険しい凝視を示す「第四部」(「人間の隷属あるいは感情の力について」)である。

 スピノザは、「第四部」の「序言」冒頭で、こう語っている。

 

「感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。」(『エチカ』畠中尚志訳、斜体字は原文では傍点、以下の引用においても同前。)

 

 スピノザは、この「第四部」で、「隷属」を超えてゆくために、さまざまな「感情」に対応する〈身体性〉のあり方について考察する。

 

 「感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態]、また同時にそうした変状の観念であると解する。」(『エチカ』「第三部」の「定義三」より)

 

 スピノザによれば、すべての感情は、「喜び」「悲しみ」あるいは「欲望」に還元される。欲望もまた感情の一種であり、感情の本質を明晰に認識することは、欲望とそれに伴う喜びや悲しみの本質を洞察することを含んでいる。

「隷属」のあり方は、種々の感情を構成する喜びや悲しみあるいは欲望がもたらす身体的な〈拘束力〉のかたちを凝視することによって視えてくる。

 スピノザによれば、「精神と身体とは同一物」であって、したがって「我々の身体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時である」ということになる。(『エチカ』「第三部」定理二の「備考」参照。)

 精神活動の可能性、振り幅は、そのまま、身体感覚の〈変状〉のいかん、振り幅によって左右される。

 さまざまな感情や欲望に対応する身体性(身体感覚や行動様式)のあり方を正しく見きわめることは、スピノザにとって、そのまま、精神が「隷属」を超えるために何をなしうるかを知ることであった。

 それは、精神が、身体性によって開示される〈無意識〉の感性的な領域に認識の力を及ぼすことで、既成観念による意識の〈制約〉を越えて、自らの潜在的な〈力能〉を発見するという営みにほかならない。

 ドゥルーズは、その精神の〈力能〉について、次のように語っている。

 

「身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの意識を越えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。身体のもつもろもろの力能についての認識を得ようとするのは、同時にそれと並行的に、意識をのがれているもろもろの精神の力能を発見するためであり、両力能を対比する[対等に置いて理解する]ことができるようにするためなのだ。(中略)無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。」

(『スピノザ』第二章・鈴木雅大訳、下線引用者、斜体字は原文では傍点。)

 

 この精神の〈力能〉を明晰に認識するために、スピノザが中心に据えたのが、欲望とそれを含む感情全般にわたる「能動」と「受動」という一対の概念である。

 スピノザは、人間が己れの活動能力を高め、うつろではない、みずみずしい生の充溢感をもって生きる姿を「善」とみなし、「徳」とみなした人である。

 彼の「徳」という言葉が、「道徳的な善悪」とは切り離された概念であることに注意する必要がある。(スピノザにとって「悪」とは、われわれの「活動能力」を減少ないし阻害するものを指す。)

 その「徳」を生み出すために、彼は、われわれ自身の「本性」というものを凝視する。

 

「我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす[能動]と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける[受動]と言う。」

(『エチカ』「第二部」の「定義二」より)

 

 したがって、「外部」にある「諸物の力」によって規定されない、己れ自身の「本性」のみによって内発的に生ずる「欲望」による「活動能力」の高まりは、スピノザによれば、「能動」的な欲望ということになり、外物によって規定され、翻弄される欲望は、「受動」的な欲望ということになる。

 スピノザの考えでは、人間の「本性」に根ざした「能動的欲望」は、常に「善」なる感情であるが、「外物」によって規定される「受動」の欲望は、場合によっては「悪」となる。

 後者は、時に、人間に充溢した生の喜びを与えてくれる、自身に固有の活動能力というものを見失わせ、また、人を嫉妬や愛憎といったようなさまざまな情念によって翻弄することで、自他を損ねる危険へと陥れるからである。

 スピノザにとって、人が真に充実した良き生を生き抜くということは、「能動」の力をいかにして高め、「受動」による「毀損」ないし「無能力」の状態をいかにして減らしてゆくか、という課題にきちんと応えることにほかならなかった。

 彼が「明瞭判然」な理解を求め、理性・知性を研ぎ澄まし、ひたすら世界=存在のありのままの姿を俯瞰し、「視る」ことに徹しようとしたのは、デカルトのように、あるいは後続する諸々の近代的な合理主義者たちのように、理性や意識や自我を至上神のごとき価値の玉座に据えようとしたからではなく、逆に、冷徹に「視る」ことに徹することで、己れの能力に見合った、内発的な真の「欲望」、すなわち己れの固有の、孤独にして生命的な、純粋で内発的な〈衝動〉を、最もナチュラルな形で解き放ってやるためであった。

 この意味で、スピノザは、ドゥルーズも言うように、まさしく「生の哲学者」であった。

 彼にとって、理性ないし知性を研ぎ澄ますことは、決して、「意識」過剰の自我意識の化け物になることではなく、神経症的な自己主張の身構えにとらわれることでもなかった。逆に、己れの〈身体〉によって開示される〈無意識〉の領域を、最も自然に、無理の無い形で解き放ってやることであった。

 そのために、彼は、己れの生を己れの「意識」で思いのままに「操ろう」とするような近代人的な悪あがきに陥ることなく、己れの感情を正しい「生活律」で制御することで、身体感覚の〈変状〉を秩序づけ、悪しき感情の支配から身を守ろうとしたのである。

 

     2

 

 『エチカ』「第五部」で、スピノザは次のように述べている。(以下、本論における『エチカ』の引用に際して、煩瑣を避けるために「……」で省略した箇所は、スピノザが己れの論旨の根拠として提示した、『エチカ』各部の「定理」「備考」「系」「公理」「定義」などに該当する。ただし、引用文の文頭と末尾の「……」は、文章の略である。)

 

「定理一〇 我々は、我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、知性と一致した秩序に従って身体の変状[刺激状態]を秩序づけ・連結する力を有する。

 証明 我々の本性と相反する感情、言いかえれば(……)悪しき感情は、精神の認識する働きを妨げる限りにおいて悪なのである(……)。したがって我々が我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、物を認識しようと努める精神の能力(……)は妨げられないのである。ゆえにその間は、精神は明瞭かつ判然たる観念を形成し・一の観念を他の観念から導出する力を有する(……)。したがってまた(……)その間は、我々は知性に一致した秩序に従って身体の変状を秩序づけ・連結する力を有するのである。Q・E・D・」(『エチカ』畠中尚志訳、下線引用者、以下の引用においても同前。)

 

 スピノザにとって「善」とは、「喜び」の原因であるもの、すなわち、われわれの「活動能力」を「増大」ないし「促進」するものであり、「悪」とは、「悲しみ」の原因であるもの、すなわち、われわれの「活動能力」を「減少」ないし「阻害」するものである。

 人が自らの生命を維持し、活動能力を高めることで、みずみずしい生の喜びを生み出すことは、「本性」に根ざした衝動によって支えられてこそ可能となる。

「外物の力」によって規定された「受動」の感情にとらわれることで「本性」を歪め、あるいは圧殺することは、まぎれもなく「悪」である、とスピノザはみなす。それは、認識する働きを妨げる。

 もし幸いにして、われわれがそのような悪しき感情の支配を免れる条件の下に置かれているとすれば、その間に、われわれは、自らの身体感覚の〈変状〉を、明瞭判然たる認識に従って、適切に秩序づけ、連結することで、身を守ることが可能となる。すなわち、一定の「生活律」によって、感情を制御しうる。

 スピノザは、「第五部」定理一〇の「証明」に続く「備考」で、具体例に則しながら、「生活律」を適用する時の心がまえについて説いている。

 

「備考 身体の変状を正しく秩序づけ・連結するこの力によって我々は、容易に悪しき感情に刺激されないようにすることができる。なぜなら(……)知性と一致した秩序に従って秩序づけられ・連結された感情を阻止するには、不確実で漠然たる感情を阻止するよりもいっそう大なる力を要するからである。ゆえに、我々の感情について完全な認識を有しない間に我々のなしうる最善のことは、正しい生活法あるいは一定の生活律を立て、これを我々の記憶に留め、人生においてしばしば起こる個々の場合にたえずそれを適用することである。このようにして我々の表象力はそうした生活律から広汎な影響を受け、その生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。」

「例えば我々は憎しみを愛もしくは寛仁によって征服すべきであって憎み返しによって報いてはならぬことを生活律の中にとり入れた(……)。しかし理性のこの指図が必要ある場合に常に我々の眼前にあるためには、人間が通常加えるもろもろの不法を思い浮かべ、これを再三熟慮し、かつ寛仁によってそれが最もよく除去されうる方法と経路とを考えておかなくてはならぬ。このようにすれば我々は不法の表象像をこの生活律の表象と結合することになり、そして(……)我々に不法が加えられた場合に、この生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。その上我々が我々の真の利益について、また相互の友情と共同社会から生ずる善について、たえず考慮するならば、そしてさらに、正しい生活法から精神の最高の満足が生ずること(……)、また人間は存在する他のすべてのものと同様に自然の必然性によってしか行動しえないものであることをたえず念頭に置くならば、不法あるいは不法から生ずるのを常とする憎しみは、単に我々の表象力の極小部分のみを占め、容易に征服されるであろう。たとえきわめて大なる不法から生ずるのを常とする怒りはそう容易には征服されないとしても、それはしかし―――たとえ心情の動揺を経てではあっても―――こうしたことをあらかじめ熟慮しなかった場合よりもはるかに短期間に征服されるであろう。」

 

 スピノザがここで言う「精神の最高の満足」というのは、「第四部」定理五二の「自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、存在しうる最高の満足である」という文章における「自己満足」のことである。この「自己満足」は、「ひとりよがり」の満足ということではなく、「人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜び」のことである。(「第三部」の「諸感情の定義」二五による。)(この稿続く)

 

 

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