宮沢賢治童話考(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2016.07.27 Wednesday
  • 19:24

 

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 しかし、宮沢賢治の自然描写が、「種山ヶ原」のように、知的な小細工というものの一切無い、闇への強烈な畏怖感をたたえた生身の息吹を感じさせるものとなっているケースは、賢治童話全体の割合からすれば数少なく、彼の自然描写は、動植物であると非生物的自然であるとを問わず、多くの作品の場合、大なり小なり、ヴァーチャルな装飾をこうむっている。

 もちろん、擬人化という手法のせいもあるが、地質学・鉱物学・化学・天文学その他の自然科学の知識が絡んでいるケースも多い。

 産業組合運動と結びついた賢治の農学・農芸化学を中心とする応用科学的な側面については、私の手に余るので、ここでは一切言及するつもりはない。また、飢饉対策を焦眉の課題とした彼の実践的・経世家的側面へのコメントも控えたい。

 それらの方面との関わりを除けば、賢治童話に導入された自然科学的な背景ないし知的装飾についての私の関心は、もっぱら作品のヴァーチャル・リアリティーの構成に関わる点に限定される。

 それは、大きく分けると二点ある。ひとつは、作者の冷やかで幻想的な他界イメージに最も鮮やかに凝縮されているような、例の無機的で金属的な自然描写の隠し味になっているという点である。

 もうひとつは、賢治を生涯悩まし続ける東北飢饉の元凶ともなってきた天変地異の得体のしれない荒々しさ、カオスの脅威を、科学的な因果律による知的な了解と自然の擬人化によって、巧みに「解毒」してみせようとする志向がみとめられるという点である。

 後者の例として、「楢(なら)ノ木大学士の野宿」というすばらしいユーモラスな作品を取り上げてみよう。

 宝石学の専門家である楢ノ木大学士の家に、ある晩、「貝の火兄弟(けいてい)商会」の「赤鼻の支配人」がやって来て、グリーンランドの途方もない成金の注文で、ごく上等の「蛋白石(たんぱくせき)」を探して来てほしいと依頼する。大学士は「葉巻を横にくはへ、雲母紙(うんもし)を張った天井を、斜めに見上げて聴いてゐた」が、「にやっと笑って」葉巻をとると、しゃべり出す。

 

「うん、探してやらう。蛋白石のいゝのなら、流紋玻璃(りゅうもんはり)を探せばいゝ。探してやらう。僕は実際、一ぺんさがしに出かけたら、きっともう足が宝石のある所へ向くんだよ。そして宝石のある山へ行くと、奇体に足が動かない。直覚だねえ。いや、それだから、却(かへ)って困ることもあるよ。たとへば僕は一千九百十九年の七月に、アメリカのヂャイアントアーム会社の委嘱を受けて、紅宝玉(ルビー)を探しにビルマへ行ったがね、やっぱりいつか足は紅宝玉の山へ向く。それからちゃんと見附かって、帰らうとしてもなかなか足があがらない。つまり僕と宝石には、一種の不思議な引力が働いてゐる、深く埋(うづ)まった紅宝玉どもの、日光の中へ出たいといふその熱心が、多分は僕の足の神経に感ずるのだらうね。その時も実際困ったよ。山から下りるのに、十一時間もかかったよ。けれどもそれがいまのバララゲの紅宝玉坑さ。」

 

 それはどうもとんだ災難でした、今度もそんなぐあいに行くでしょうかと支配人が尋ねると、大学士は「それはもうきっとさう行くね。たゞその時に、僕が何かの都合のために、たとへばひどく疲れてゐるとか、狼に追はれてゐるとか、あるいはひどく神経が興奮してゐるとか、そんなやうな事情から、ふっとその引力を感じないといふやうなことはあるかもしれない」と断りながらも、とにかく行ってみよう、二週間目にはきっと帰るからと約束して、旅費を受け取る。(結局、大学士は上等な蛋白石を見つけられないまま早々と帰京し、最後に、もっともらしくハッタリをかましながら支配人に旅費を叩き返して追い帰してしまうのだが。)

 この冒頭部の支配人と大学士のやりとりの中に、すでに、主人公の深い孤独感がさりげなくにじみ出ていて興味深い。

 支配人と大学士は「生きている世界」がまるで違う。

 支配人は、もちろん商売の成功の事しか念頭にないし、珍奇な鉱石そのものは、彼にとってただの商品にすぎず、鉱石の由来と変遷の地質学的な悠久の歴史はもとより、その発掘に執念を燃やす大学士の寂しい情熱のありかなど、なんの関心の対象にもならない。

 大学士はそのことをよくわきまえているからこそ、支配人の顔をみようとはせず、「葉巻」をくわえ「雲母紙を張った天井」を眺めながら話を聴くのだし、支配人に決して伝わらないことを百も承知の上で、立て板に水のように、自分と宝石との「不思議な引力」についてハッタリを混じえながらまくし立て、発掘の成功を無邪気に期待する支配人に、誰も立ち入ることのできぬ私的な世界の匂いをほのめかしてクギをさすのである。

「次の日諸君のうちの誰(たれ)かは、きっと上野の停車場で、途方もない長い外套(ぐわいたう)を着、変な灰色の袋のやうな背嚢(はいなう)をしょひ、七キログラムもありさうな、素敵な大きなかなづちを、持った紳士を見ただらう。それは楢ノ木大学士だ」という旅行のいでたちの描写にも、大都会の群衆の中に紛れこみながらぽつんと一人取り残されたようなこの主人公のひょうひょうとした、不思議な寂しさと哀しさを感じ取ることができる。

 以下、この作品は、蛋白石探しに出かけた大学士の三晩にわたる「野宿」の中で起こった独特の幻視体験を、散文詩のように綴ったものとなっている。

 ここでは、そのうちの「第一夜」の情景のみを取り上げてみる。

 肌寒い、春の夕暮時に、大学士は、ひとり石を求めて山伝いの河原をのぼっていく。

 川の両岸にそびえ立つ峻厳な山々を包み込む夜の光景は、大学士の個人的な営みなどとは無関係のように、非人間的な、冷やかな相貌を深めながら、主人公を呑み込んでゆく。

 

「大学士はどこまでも溯(のぼ)って行く。/けれどもたうとう日も落ちた。/その両側の山どもは、/一生懸命の大学士などにはお構ひなく/ずんずん黒く暮れて行く。/その上にちょっと顔を出した/遠くの雪の山脈は、/さびしい銀いろに光り、/てのひらの形の黒い雲が、/その上を行ったり来たりする。/それから川岸の細い野原に、/ちょろちょろ赤い野火が這(は)ひ、/鷹(たか)によく似た白い鳥が、/鋭く風を切って翔(か)けた。」

 

 河原に野宿することに決めた大学士は、野火を恐れて、草の上にではなく、柔らかで白い花崗岩(かこうがん)の石の上に、ひじを曲げて外套のままごろりと横になる。

 広い河原の横を水がごうごうと流れ、「空の桔梗(ききゃう)のうすあかり」には「山どもがのっきのっきと黒く立」っているのが見える。

 大学士は寝たままそれを眺め、あいつらは「岩頸(がんけい)」だなと考えると、急に愉快な気分になって、仰向けのままひとり「岩頸の講義」をつぶやき始める。

 

「諸君、手っ取り早く云(い)ふならば、岩頸といふのは、地殻から一寸(ちょっと)頸(くび)を出した太い岩石の棒である。その頸がすなはち一つの山である。えゝ。一つの山である。ふん。どうしてそんな変なものができたといふなら、そいつは蓋し簡単だ。えゝ、ここに一つの火山がある。熔岩(ようがん)を流す。その熔岩は地殻の深いところから太い棒になってのぼって来る。火山がだんだん衰へて、その腹の中まで冷えてしまふ。熔岩の棒もかたまってしまふ。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。たうとう削られてへらされて、しまひには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残るといふあんばいだ。この棒は大抵頸だけを出して、一つの山になってゐる。それが岩頸だ。……(中略)……そこでそのつまり、鼠いろの岩頸だがな、その鼠いろの岩頸が、きちんと並んで、お互に顔を見合せたり、ひとりで空うそぶいたりしてゐるのは、大変おもしろい。ふふん。」

 

 大学士が独り言をつぶやいていると、実際、「向ふの黒い四つの峯」は「四人兄弟の岩頸」で、だんだんと「地面からせり上って」来る。彼は大喜びで、「ははあ、こいつらはラクシャンの四人兄弟だな」と考える。

 やがて、岩頸たちは、大学士の願い通り、「丁度胸までせり出して」「ならんで空に高くそびえ」立つ。

 ここから擬人化された岩頸の四兄弟の愉快な対話の物語が展開されていく。

 四兄弟の内、一番右が「ラクシャン第一子」で、「まっ黒な髪をふり乱し」「大きな眼をぎろぎろ空に向け」しきりに何かをどなっている。右から二番目の「第二子」は、「長いあごを両手に載せ」たまま、噴火が終ってからもう何十万年もぐうぐう睡り続けている。

 次の「ラクシャン第三子」は、優しい眼をした静かな岩頸で、末っ子の「第四子」は、「夢のやうな黒い瞳」をあげて、星あかりの中でじっと「東の高原」を見つめている。

 火のような烈しい気性のラクシャン第一子の雷鳴のようなどなり声がいきなり大学士の耳に響いてくる。

 

「何をぐづぐづしてるんだ。潰(つぶ)してしまへ。灼(や)いてしまへ。こなごなに砕いてしまへ。早くやれっ。」

「全体何をぐづぐづしてるんだ。砕いちまへ、砕いちまへ、はね飛ばすんだ。はね飛ばすんだよ。火をどしゃどしゃ噴くんだ。熔岩(ようがん)の用意っ。熔岩。早く。畜生。いつまでぐづぐづしてるんだ。熔岩、用意っ。もう二百万年たってるぞ。灰を降らせろ、灰を降らせろ。なぜ早く支度をしないか。」

「地球を半分ふきとばしちまへ。石と石とを空でぶっつけ合せてぐらぐらする紫のいなびかりを起せ。まっくろな灰の雲からかみなりを鳴らせ。えい、意気地なしども。降らせろ、降らせろ、きらきらの熔岩で海をうづめろ。海から騰(のぼ)る泡で太陽を消せ、生き残りの象から虫けらのはてまで灰を吸はせろ、えい、畜生ども、何をぐづぐづしてるんだ。」

 

 穏やかなラクシャン第三子と夢想家肌の第四子が微笑みながら大兄をなだめる。

 東の高原にたたずむ「ヒームカ」という、美しい碧(あお)いきものを着た女の火山をほめたたえる第四子に向かって、ラクシャン第一子は、あんな弱虫と付き合うのはよせ、俺たちは「火」から生まれたんだ、青ざめた「水」の中で生まれた奴らとは違うんだ、と叱りとばす。

 第三子が、ヒームカは「火」から生まれた立派な「カンランガン」ですよと抗弁すると、第一子はさらに怒って切り返す。

 

「知ってるよ。ヒームカはカンランガンさ。火から生れたさ。それはいゝよ。けれどもそんなら、一体いつ、おれたちのやうにめざましい噴火をやったんだ。あいつは地面まで騰(のぼ)って来る途中で、もう疲れてやめてしまったんだ。今こそ地殻ののろのろのぼりや風や空気のおかげで、おれたちと肩をならべてゐるが、元来おれたちとはまるで生れ付きがちがふんだ。きさまたちには、まだおれたちの仕事がよくわからないのだ。おれたちの仕事はな、地殻の底の底で、とけてとけて、まるでへたへたになった岩漿(がんしゃう)や、上から押しつけられて古綿のやうにちぢまった蒸気やらを取って来て、いざといふ瞬間には大きな黒い山の塊を、まるで粉々に引き裂いて飛び出す。

煙と火とを固めて空に抛(な)げつける。石と石とをぶっつけ合せていなづまを起す。百万の雷を集めて、地面をぐらぐら云はせてやる。丁度、楢ノ木大学士といふものが、おれのどなりをひょっと聞いて、びっくりして頭をふらふら、ゆすぶったやうにだ。ハッハッハ。

山も海もみんな濃い灰に埋(うづ)まってしまふ。平らな運動場のやうになってしまふ。その熱い灰の上でばかり、おれたちの魂は舞踏していゝ。いゝか。もうみんな大さわぎだ。さて、その煙が納まって空気が奇麗に澄んだときは、こっちはどうだ、いつかまるで空へ届くくらゐ高くなって、まるでそんなこともあったかといふやうな顔をして、銀か白金かの冠ぐらゐをかぶって、きちんとすましてゐるのだぞ。」

 

 温厚なラクシャンの第三子は、それに対して、兄さん私はどうもそんなことは嫌いです、周りを熱い灰でうずめて自分だけ一人高くなるようなことはしたくない、「水」や「空気」がいつでも低い方へと流れて行き、地面を平らかにしようとしている姿の方が本当だとおもう、と第一子を批判する。

 

   暴(あら)っぽいラクシャン第一子が

 このときまるできらきら笑った。

 きらきら光って笑ったのだ。

 (こんな不思議な笑ひやうを

 いままでおれは見たことがない、

 愕(おどろ)くべきだ、立派なもんだ。)

 楢ノ木大学士が考へた。

 

 第一子と第三子の、「火」と「水」のやりとりのような対話についての大学士の感銘こそが、この不思議な味わいをもつ作品の勘どころとなっている。

 そして、この直後における第一子の言葉と対応が、また、比類のないユーモラスな暖かさと壮快さを感じさせるのだ。

 

 「水と空気かい。あいつらは朝から晩まで、俺(おい)らの耳のそば迄(まで)来て、世界の平和の為に、お前らの傲慢(がうまん)を削るとかなんとか云ひながら、毎日こそこそ、俺らを擦(こす)って耗(へら)して行くが、まるっきりうそさ。何でもおれのきくとこに依(よ)ると、あいつらは海岸のふくふくした黒土や、美しい緑いろの野原に行って知らん顔をして溝(みぞ)を掘るやら、濠(ほり)をこさへるやら、それはどうも実にひどいもんださうだ。話にも何にもならんといふこった。」

   ラクシャンの第三子も

 つい大声で笑ってしまふ。

  「兄さん。なんだか、そんな、こじつけみたいな、あてこすりみたいな、芝居のせりふのやうなものは、一向あなたに似合ひませんよ。」

 ところがラクシャン第一子は

 案外に怒り出しもしなかった。

 きらきら光って大声で

 笑って笑って笑ってしまった。

   その笑ひ声の洪水は

 空を流れて遙かに遙かに南へ行って

 ねぼけた雷のやうにとゞろいた。

  「うん、さうだ、もうあまり、おれたちのがらにもない小理窟(こりくつ)は止(よ)さう。おれたちのお父さんにすまない。お父さんは九つの氷河を持っていらっしゃったさうだ。そのころは、こゝらは、一面の雪と氷で白熊(しろくま)や雪狐(ゆきぎつね)や、いろいろなけものが居たさうだ。お父さんはおれが生れるときなくなられたのだ。」

 

 いつしか明け方となり、ラクシャン四兄弟の夢を見ながら熟睡している楢ノ木大学士の額を、いたずら好きのラクシャン第四子が「光る大きな長い舌を出して」べろりと嘗める。大学士はひどくびっくりして、「それでも笑ひながら眼をさまし」寒さにふるえる。空が晴れ、一面に星がまたたき、まっ黒な四つの岩頸は、再び正しく元の形に戻って、じっと並んでそびえ立っている。

 

 この作品には、宮沢賢治の〈存在への異和〉、とりわけ天変地異の得体の知れない荒々しいカオスの脅威を、科学知識とユーモラスな擬人化の手法を駆使することで、巧みに「解毒」してみせようとする志向がうかがえる。

 それは、何十万年、何百万年という地質学的なタイムスケールにまで拡張されることで、非人間的自然によるケタはずれの破壊と創造の営みを、ものの見事に、人間的なぬくもりをもった生命の光芒の物語へと変容させてみせるのである。

 その生命的な時空の拡張は、もちろん、さらに何十億年という地球の歴史から、はるか無限大の宇宙のかなたにまで及ぼすことが可能である。

 人類の歴史や人間的な営みをはるかに超えた、古生物の興亡や天然現象や宇宙の営みが、人間の存在の本質とは無縁の、単なる物理的な因果律に支配された偶然と必然の繰り返しにすぎないと考える限り、それらに関する科学的探求の累積は、ただ、われわれの虚無感を深めるだけのものでしかない。

 しかし、それらの非人間的自然と人間との間に、存在論的な共通性があると考えるなら、諸々の科学知識も捨てたものではないということになる。

 むしろ逆に、それら非人間的自然の、地質学的・天文学的悠久さの下での生命的な営みを知ることで、われわれは、人類文明のちっぽけさや人間的な我執の浅ましさ・卑小さを痛感し、ほんの一時ではあれ、その息苦しい桎梏から解き放たれ、ほっと息をつくこともできるのである。

 科学知識を巧みに駆使しながら宇宙を含む非人間的自然を人間化することは、宮沢賢治にとって、単なる個人的な嗜好の問題ではなく、己れの〈類的感覚〉を拡張することで〈存在への異和〉を緩和し、同時に、人間的な我執の険しさへの嫌悪をしばし遠ざけてくれる営みでもあったに違いない。

「楢ノ木大学士の野宿」という作品に一貫して流れている空気は、主人公の孤独感の深さである。

 冒頭の「赤鼻の支配人」との会話から、主人公のいでたち、山々に分け入っていく時の寂寥感の深さ、野宿のおもむき、ひとり言、夢幻世界の現出、すべてが、それを物語っている。

 主人公は、野宿の「第二夜」を、石切場の隅にある、人っ子一人居ない、うら寂しい小さな笹の小屋で過ごすが、「こいつはうまい。丁度いゝ。どうもひとのうちの門口(かどぐち)に立って、もしもし今晩は、私は旅の者ですが、日が暮れてひどく困ってゐます。今夜一晩泊めて下さい。たべ物は持ってゐますから支度はなんにも要(い)りませんなんて、へっ、こんなこと云ふのは、もう考へてもいやになる」とつぶやくほど「人嫌い」なのだ。

 そのくせ、第一夜・第二夜の野宿で見る夢や幻覚は、「岩頸」や、体に付着していた花崗岩のかけらの中の「鉱物」たちによる、自然科学的知識と巧みに結びついた、ユーモラスで暖かい「擬人化」の物語なのである。

 ここには、作者の人間への忌避と親和の微妙なスタンスが透けて見える。

 楢ノ木大学士の人間嫌いの裏側には、人間的なるものへの激しい飢渇が疼いている。

 だからこそ、主人公によって人間化された自然たちは、かくも饒舌なのである。

 人間や動植物ではなく、「岩頸」という非生物的自然を主役とする物語を挿入することで、作者は、かえって、人間や動植物を主人公とする作品では表現しにくいような、存在の闇と光のダイナミズムに関する己れの認識を、一切の倫理的・価値的な桎梏を度外視して、のびのびと自在に解き放ってやることができたようにおもえる。

「火」と「水」によって象徴される、ラクシャン「第一子」と「第三子」「第四子」の鋭いコントラストには、破壊と創造、生命的な猛々しさと豊潤さ、燃え上がる歓喜や飛翔と静謐で透明な優しさや憧憬といった、存在のはらむ両義性・重層性のダイナミズムが、軽やかに、いかにも愉しげに形象化されている。

 ここで作者は、「火」と「水」の価値的な優劣に加担していない。

「火」と「水」を決して中途半端に妥協させることをせず、互いに水と油の如く背反させながらも、不可欠の相補的存在として位置づけている。

 賢治童話お得意の自己犠牲や献身の理念による重苦しい倫理臭や感傷のかけらもない。

 とりわけ、きらきら光って笑うラクシャン「第一子」の、乾いた、軽快で澄んだまなざしには、あらゆる人間的な悲惨と不条理を突き抜け、真の善悪の彼岸に立って生命的な飛翔をとげた、ニーチェの「ツァラトゥストラ」の傲然たる風貌すら彷彿とさせられる。

 宮沢賢治という、過剰な倫理的志向に蝕まれた文学者の底に、その息苦しい生真面目さを吹き飛ばしてしまうような生命的な猛々しさや軽やかさが息づいていたことに、私は深い救いをおぼえる。その意味で、「楢ノ木大学士の野宿」は、まことに貴重で異色な童話作品であるといっていい。

 

     15

 

 宮沢賢治は、「楢ノ木大学士の野宿」の他にも、「毒もみのすきな署長さん」という、やはり己れの硬直したストイックな倫理性に冷水を浴びせかけるような、風変わりな作品を作っている。

「毒もみ」というのは、山椒の皮を剥いでつくった粉と木灰を混ぜ合わせた毒薬を水の中へもみ出して、魚を大量に採ったり殺したりするプハラ国の違法行為を指す。

 この作品は、町を騒がせた「毒もみ」の真犯人が実は新任の警察署長だったという、なんとも人を喰った話なのだが、面白いのは、犯人の署長の、妙に人を化かしているような、いたずら好きで人工的な雰囲気を漂わせた風貌と、とぼけた投げやりな物言いである。

 署長は「どこか河獺(かはうそ)に似て」おり、「赤ひげがぴんとはね」て、「歯はみんな銀の入歯」をしており、「立派な金モールのついた、長い赤いマント」を着て、「毎日ていねいに町をみまは」るのである。

 やがて、町の沼からさっぱり魚が釣れなくなり、時々は死んで腐ったものも浮くようになる。町中の山椒の木がたびたびつるりと皮を剥かれるという事件もあり、子どもたちの目撃や証言から、「毒もみ」の犯人は署長だという噂が広がる。

 プハラの町長も、仕方なく、署長に会って真偽を問いただそうとする。

 

  二人が一緒に応接室の椅子(いす)にこしかけたとき、署長さんの黄金(きん)いろの眼は、どこかずうっと遠くの方を見てゐました。

「署長さん、ご存じでせうか、近頃、林野取締法の第一条をやぶるものが大変あるさうですが、どうしたのでせう。」

「はあ、そんなことがありますかな。」

「どうもあるさうですよ。わたしの家の山椒(さんせう)の皮もはがれましたし、それに魚が、たびたび死んでうかびあがるといふではありませんか。」

 すると署長さんが何だか変にわらひました。けれどもそれも気のせゐかしらと、町長さんは思ひました。

「はあ、そんな評判がありますかな。」

「ありますとも。どうもそしてその、子供らが、あなたのしわざだと云ひますが、困ったもんですな。」

 署長さんは椅子から飛びあがりました。

「そいつは大へんだ。僕の名誉にも関係します。早速犯人をつかまへます。」

「何かおてがかりがありますか。」

「さあ、さうさう、ありますとも。ちゃんと証拠があがってゐます。」

「もうおわかりですか。」

「よくわかってます。実は毒もみは私ですがね。」

 署長さんは町長さんの前へ顔をつき出してこの顔を見ろといふやうにしました。

 

 なんとも、ひょうひょうとした、人を喰ったような文章である。おまけに、この作品の締めくくりは、次のようになっている。

 

 さて署長さんは縛られて、裁判にかゝり死刑といふことにきまりました。

 いよいよ巨(おほ)きな曲った刀で、首を落されるとき、署長さんは笑って云ひました。

「あゝ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」

 みんなはすっかり感服しました。

 

 最後の一行がふるっている。

 この作品は、いうまでもなく、オタク的な病理を扱っている。

 この世の一切のしきたりや人生の浮沈や他人への気づかいという奴を、はるか視界の外へ追いやって、身体的にはいわば〈抜け殻〉のような存在と化して浮き世に身を処しつつ、己れの偏愛する対象にのみ異様なまでの情熱を捧げ、執着する。

 それがオタク的な病理であるといってよいが、「毒もみのすきな署長さん」において、作者は、このような、現世的な一切の価値規範や倫理のタガのはずれた幼児退行的な主人公を、単純化され誇張された童話的設定を背景として活かしながら、まことにユーモラスに、ひょうひょうと描いている。

 このいかにも人を喰ったような愉しげな文体は、どこか、「楢ノ木大学士の野宿」に通ずるものがある。

 宮沢賢治もまた、毒もみの署長や楢ノ木大学士のように、己れの生真面目で悲壮な倫理的使命感を笑い飛ばし、余計な人生の荷物や気づかいを何もかも捨て去って、オモチャと無心に戯れる幼児のように、好きな自然科学や文学の世界にひたすら没入しうる生涯を送ってみたいという衝迫を、どこかに抱え込んでいたようにおもえる。

 しかし、彼には、それができなかった。

 なぜなら、彼は、そのようなオタク的な生き方の愉しさの根底に、同時に、恐るべき〈空洞〉が秘められていることをも、痛感していたからである。

 鉱石探しにいそしむ楢ノ木大学士の自然科学へののめり込みの底に陰鬱な孤絶感が秘められていたように、オタク的な生きざまの裏面には、現世への深い幻滅と人間へのぬぐいがたい嫌悪がこびり着いている。

「毒もみ」のマニアである署長さんが「どこか河獺(かはうそ)に似て」いるという言い回しは面白い。カワウソはイタチの仲間で、川・沼・池の近くに住み、水にもぐって魚を獲る夜行性の動物である。

 いうまでもなく、作者は、「毒もみ」という隠微な趣味におぼれて常軌を逸した人間が、まっとうな倫理を備えた生身の人間にちゃっかり成りすましているありさまを、あたかもカワウソが署長に化けているかのような、ユーモラスな妖怪譚的イメージによって、さりげなく表現してみせているわけである。

 署長の風貌にも服装にも、なんとも人を小バカにしたような、芝居っ気たっぷりの「やつし」の姿勢が垣間見えるし、歯が「みんな銀の入れ歯」であるとか、署長さんの「黄金(きん)いろの眼」が「どこかずうっと遠くの方を見て」いたという言い回しにも、現世的な生身の肉体をとうの昔に放棄した、人工的でうつろな匂いが漂っている。

 さしたる証拠もないのに、わざわざ自分が真犯人だと名乗りをあげ、ここらで退屈な人生や人間どもからきれいさっぱりとおさらばしたいと言わんばかりに死に急ぐ、署長のあっけらかんとした最期には、オタク的な嗜好の根底にうごめくどす黒い〈虚無〉のかたちが、いささかも陰惨さを感じさせずに、乾いたブラック・ユーモアとして巧みに形象化されているといっていい。

 たかが「毒もみ」程度の犯罪で死罪に処せられ、斬首の刑を受けるというのもひどい話だが、そのいい加減さが、かえって、この作品の重苦しいモチーフに絶妙の救いを与えているのである。

 極度にシンプルで誇張された童話的設定を活かすことで、作者は、逆に、〈生身の喪失〉という幼児退行的な病理のグロテスクさを、ひょうひょうとした軽やかなタッチで、鮮やかに浮き彫りにしてみせた。

 宮沢賢治は、このような病の痛ましさをどこかで知っていたからこそ、オタク的な嗜好に身をゆだねることを潔しとしなかったのだ。

 既に繰り返し強調してきたように、存在への異和に根ざした賢治の孤絶感、なかんずく人間への嫌悪の深さの裏面には、逆に、〈生身〉の接触と絆への強烈な渇きが息づいていた。冷え切った彼の身体の底には、自然な暖かさへの欲求が渦巻いていた。

 献身と自己犠牲の理念に彩られた彼の痛ましい実践家の営みも、そのような飢渇のしからしめたものであったし、数々の童話作品にもまた、そのような生身の身体性への渇きと夢が表象されていた。

 私たちがその一端を見てきたように、宮沢賢治の文学的営為は、この二元性の鋭い緊張関係の下で、その生命的な光芒の物語を紡ぎ出してきたのである。(この稿続く)

 

 

 

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