書評:スピノザ『エチカ』(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2016.08.23 Tuesday
  • 15:55

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第2回)

 

     3

 

「第五部」定理一〇の「備考」で、さらに続けてスピノザは言う。

 

「同様に我々は、恐怖を脱するためには勇気について思惟しなくてはならぬ。すなわち人生において普通に起こるもろもろの危難を数え上げ、再三これを表象し、そして沈着と精神の強さとによってそれを最もよく回避し・征服しうる方法を考えておかなくてはならぬ。」

 

 この言葉を、「備えあれば憂いなし」ということわざと同じ意味合いで受け取るなら、まことに浅薄な思想というほかはない。たしかに、ある行動を起こす場合に、想定しうるリスクの数々に対して、あらかじめ備えておくことは必要であるし、人生において起こりうるある種の危険に対して、クールに対処しうるよう、心がまえを練っておくことが好ましいと考えられるケースもある。

 しかし、人生とは、しょせん、未知なるファクターを無数に抱え込んだ、大いなるカオスの世界である。人の予測や確率などをはるかに超えた、霊妙不可思議なる縁(えにし)と契機の賜物である。人生とは、大海の中をさまよう小舟のようなものだ。われわれは、潮の流れに身をまかせながら、瞬時瞬時に小舟を操る船頭のようなものだ。

 人生には、直面してみなければわからぬことが、無数にある。あらかじめ危難を数え上げ、回避する方法などを練ってみたところで、恐怖を脱する上で、さして役に立つとは思えない。

 むしろ、起こりうる危難・災難のイメージによって、いたずらに、恐怖で心身を萎縮させ、人生という未知なるカオスに対する不条理感を増幅させるケースの方が多いようにおもえる。

 この言説には、理性・知性を過信する主知主義者としてのスピノザのアキレスケンが露呈しているといっていい。肝心なことは、むしろ、物事は、直面してみなければわからないという事実そのものに対する、覚悟・肚のすわりにある。真の理性・精神の強靭さとは、〈未知〉なるカオスへの〈信〉と〈祈り〉と〈覚悟〉があってこそ、活きてくるものではあるまいか。人生に対する、合理的な根拠の無い〈信頼感〉というものは、人をして生かしめる力の根源にあるものであり、それは〈身体〉の力能、すなわち〈身体〉とそれに対応する〈無意識〉的な力能の顕われにほかならない。

 われわれにとって大切なことは、この〈身体〉の無意識的な力能が、恐怖や不条理感によって弱められることで、われわれの生活における活力、すなわち能動的な活動能力が減少し阻害されることのないよう、精神の力能を拡大してみせることである。

 それは、われわれを取り巻く〈未知〉なるカオスとしての世界・人生が、存在を没価値的な因果律によって偶然的に弄ぶ、単なる無意味な不条理ではなく、同時に、存在をして生命的・有意味的に活かしめる根源的なエネルギーとしての次元を兼ね備えていると視るような、新たなまなざしの場所に立つということである。

 その生命的次元は、主・客が一体となって息づくコスミックな生存感覚であり、その覚知は、〈身体性〉によって開示される無意識的な非合理的領域、すなわち心身一如的な感性的認知の領域であり、カオスへの〈信〉のかたちにほかならない。

 この〈信〉に立つとき、われわれの、カオスに翻弄されるという「受動的」な生存感覚は、活力ある「能動的」な生存感覚へと変換される。

 汎神論的な唯物論者であり、主知主義者であるスピノザにも、未知なるカオスへの無意識的で生命的な〈信〉の感覚は、きちんと息づいていたようにおもえる。

 泰然自若たる『エチカ』の〈文体〉がそれを証している、と私には感じられる。

 それは、〈時間〉を超越することのできた者の場所である。すなわち、はかなく移ろいゆく、無常なる存在の実相という〈強迫観念〉の呪縛を脱することのできた者の、〈解脱〉(げだつ)の境地である。

 といっても、プラトンのイデア論のように、無時間的な、永遠の〈観念的実体〉の不完全な〈射影〉(似像)によって、現世の存在・事象を規定=説明しようというのではない。

 存在に内在し、存在を存在たらしめながら、同時に、存在の〈時間性〉を超越している、唯一無二の〈永遠的実体〉たる「汎神論的」な〈神〉への直観的覚知によって、解脱せんとするのである。

 存在と人性の普遍的な形相的特質への明晰な認知の積み重ねが、それらの形相の究極的な〈根拠〉をなす汎神論的な〈神〉の実在への確信をもたらし、また、その〈神〉の直観が、存在と人性への探求の情熱を鼓舞し、認識の〈愉悦〉をもたらす。

 その往復運動こそ、未知なるカオスへの〈恐怖〉を超え、時間性と永遠性の矛盾を止揚せんとするスピノザの叡智にほかならなかった。

 しかしニーチェは、『悦ばしき知識』において、スピノザの主知主義的な姿勢を、次のように痛烈に批判してみせている。

 

「―――理念は、いつも哲学者の「血」を吸って生きてきた、理念はいつも哲学者の感覚を食いつくした、いな、さらに言わしてもらうならば、哲学者の「心臓」をも食いつくしたのだ。これら昔の哲学者たちには、心臓がなくなっていた。つまり哲学することは、つねに一種の吸血鬼的作業であったわけだ。スピノザのようなああした人物にあってさえ、そこに何かしら深く謎を孕んだもの・薄気味わるいもののあるのを諸君は感じないだろうか? そこに演じられている芝居を、たえず顔色蒼ざめてゆくその芝居を、―――いよいよもって理念化的に解釈されてゆく感覚離脱を、諸君は見ないだろうか? その背景に、諸君は、永いこと身をひそめた吸血鬼が、感覚を手はじめに血をしゃぶり最後には骨と骸骨の音しか何一つ残さないようになるのを、感じないだろうか?―――私が言っているのは、範疇(カテゴリー)、公式、言語のことだ(というのは、失礼をかえりみず言えば、スピノザの思想から残ったもの、つまり「神の知的愛」(amor  intellectualis  dei)は、骸骨のガラガラ音である、それ以上の何ものでもない! 何が愛(アモール)であり、何が神(デウス)であるのだ、もしそれらに血の一滴すらないとならば?・・・)。」(『悦ばしき知識』「第五書」一八八六年、信太正三訳、斜体字は原文では傍点。)

 

 ニーチェの手厳しい批判には、たしかに一理ある。

 スピノザのように、理性による明晰な認知というものを生の絶対的な価値の根底に据え、精緻な概念規定とカテゴリーによる演繹的システムによって、世界を俯瞰的に包摂せんとする主知主義的姿勢は、ヘタをすると、頭でっかちの、理性万能主義を振りかざす尊大なモダニストの場所と、同一視されかねない。

 だがすでに強調してきたように、スピノザは、決して、理性と自我意識によって全てを仕切ろうとするような、ごう慢なモダニストではなかったし、〈観念〉に魂を食われて、感覚が鈍麻した、血の気の薄い人物でもなかった。

 『エチカ』の「備考」における、クールな中にも熱を帯びた〈文体〉が如実に物語っているように、澄み切った水のような静けさの中に、火のような烈しさを秘めた哲人だった。

 スピノザの透徹した認識の本領は、精神なかんずく感情の本質への認識にある。

 それは、ニーチェの言ったように、理念化によって〈身体〉を痩せ細ったものにするのではなく、認識の力によって、〈身体〉の無意識的な〈力能〉をつかむことで、既成観念による意識のとらわれを超え、精神の自在性を拡げることによって、能動的な活動能力を高めようとする、逆説的な戦略だった。

 むしろ、ニーチェの批判とは逆に、スピノザの抽象化の能力、対象の〈本質〉をシンプルにわしづかみにしてみせる、認識の透明度の高さが、(たとえこの哲学者が病弱で、かつ理不尽な攻撃・中傷による怖るべきストレスに苦しめられていたとしても)彼の身体性と生存感覚をガードし、それなりに生気ある、すこやかな状態に保たせていたようにおもわれる。(もっとも、その身体性は、ニーチェ好みの「力への意志」に衝き動かされる、血の気の多い獰猛さとはほど遠い、穏やかなものであったろうが。)

 私には、ニーチェの反合理主義的な理念の方が、スピノザの主知主義的姿勢よりも、ある意味では、ずっと観念的なものに視える。

 華麗な修辞と反語的アイロニーに満ちた、ニーチェの詩人哲学者風の饒舌と、表現者としての軌跡を視れば、彼が、スピノザのような清澄な感覚の持主でないことは、明らかだ。

 善悪の彼岸に立つ「力への意志」という観念的な男性原理を振り回し、健康さと情熱・本能の価値を声高に叫び、非日常的・刹那的な芸術的燃焼による虚無の超克をとなえるニーチェには、日常的な〈生活〉のもつ奥ゆきやふくらみ、生の振幅への真の感受性というものが欠落していた。

 だから、彼には、無名の〈生活人〉の寡黙で忍耐づよい生の厚みや生涯の物語性の意味というものが、全く視えていなかった。生活者のつつましい〈幸福〉への祈りも、そのかけがえのない重さもわからなかったし、その分だけ、真の優しさに欠けていた。

 むしろ、日常的な生活が紡ぎ出す〈幸福〉という観念そのものを軽蔑していたし、人間の本性を、自己保存の本能と幸福への意志に求めることを拒絶した。

 人間の本源的な衝動を、なんらかの非日常的な崇高さを帯びた観念的な価値・目的のために、自己を滅却し、不条理を超えて飛翔せんとする、生気溢れる〈力〉への渇望に向けて、解き放とうと夢想した。

 対照的にスピノザは、各人が自己自身を愛し、理性の導きによって、自己固有の「本性」に則した欲望のかたちを発見し、それにもとづく活動能力を通して、その人なりの自然な、充ち足りた生活を成就せんとすることを、「徳」とみなした。

 スピノザには、日常的な生活への愛があった。

 嫉妬や憎しみによる毒念や情念、道徳によって濁らされることのない、はればれとした、落ち着きのある、自己充足的な生というものを、何よりも重んじていた。

 

     4

 

 前節で引用した、「恐怖」への生活律による対処の言葉に続いて、定理一〇の「備考」で、スピノザは次のように語っている。

 

しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から行動へ決定されるようにしなければならぬことである(……)。例えばある人が、自分はあまりに名誉に熱中しすぎることに気づいたなら、彼は名誉の正しい利用について思惟し、なぜ人は名誉を求めなければならぬかまたいかなる手段で人はそれを獲得しうるかを思惟しなければならぬ。だが名誉の悪用[弊害]とか、虚妄とか、人間の無定見とか、その他そうした種類のことは思わないほうがよい。そうしたことは病的な精神からでなくては何びとも思惟しない事柄である。というのは、最も多く名誉欲に囚われた者は、自分の求める名誉を獲得することについて絶望する時に、そうした思想をもって最も多く自らを苦しめるものである。そして彼は、怒りを吐き出しつつもなお自分が賢明であるように見られようと欲するのである。これで見ても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのであることが確かである。

しかしこれは名誉欲に囚われている者にだけ特有なことでなく、すべて恵まれぬ運命をにないかつ無力な精神を有する者に共通な現象である。なぜなら、貧乏でしかも貪欲な者もまた金銭の悪用や富者の罪悪を口にすることを止めないが、これによって彼は自分自身を苦しめ、かつ自分の貧のみならず他人の富もが彼の忿懣(ふんまん)の種であることを人に示す結果にしかなっていない。これと同様に、愛する女からひどく取り扱われた者もまた、女の移り気や、その不実な心や、その他歌の文句にある女の欠点などのことしか考えない。しかも愛する女から再び迎えられると、これらすべてのことをただちに忘れてしまうのである。」

 「ゆえに自己の感情および衝動を自由に対する愛のみによって統御しようとする者は、できるだけ徳および徳の原因を認識し、徳の真の認識から生ずる歓喜をもって心を充たすように努力するであろう。だが彼は人間の欠点を観想して人間を罵倒(ばとう)したり偽わりの自由の外観を喜んだりするようなことは決してしないであろう。そしてこれらのことを注意深く観察し(なぜならそれは困難なことではないから)かつそれについて修練を積む者は、たしかに短期間のうちに自己の活動を大部分理性の命令に従って導くことができるようになるであろう。」

 

 私は、これらの言葉の中に、己れの人生に照らし合わせて、感動を覚えないわけにはいかない。

 人性の愚かしさ、弱さ、険しさに対する、なんともビターな、透徹した洞察の言葉となり得ている。

 そしてまた、人の世の汚濁の渦中にあって、「感情の奴隷」にならぬよう「身を処してゆく」ための、深い叡智が語られている。

 悪しき想念・イメージのもたらす「魂の濁り」への戒めの言葉でもある。

 また、スピノザは、「第四部」定理四五の「備考」で、こう述べている。

 

「……もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことでないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であるために、したがってまた精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種々の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨されるべき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。

 

 ここにも、「生活律」による制御を通して、種々の「感情」を適宜、昇華・解放させ、身体の変状(刺激状態)を正しく秩序づけようとする、スピノザの叡智がよくうかがえる。

 日々の生活において、生命的でアナログ的な全体感がたえず賦活されることの重要性が押さえられている。(この稿続く)

 

 

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