宮沢賢治童話考(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2016.08.24 Wednesday
  • 17:46

 

     16

 

 宮沢賢治が、存在との間に、なかんずく人間との間に、自然な〈生身〉の接触と絆を夢見るとき、それはいかなる形をとって、私たちの前に立ち顕われるのであろうか。

 本稿では、その類型を、「ガドルフの百合(ゆり)」「祭の晩」「なめとこ山の熊」「三人兄弟の医者と北守将軍」(及びそれを改作した「北守将軍と三人兄弟の医者」)といった諸作品を素材として抽出してみたい。

「ガドルフの百合」は、街道を歩み続けるガドルフという疲れ切った旅人が、たそがれ時に激しい雷雨に見舞われて、道端にあった誰もいない「巨きなまっ黒な家」へ避難した時のささやかな体験を描いたものである。

 この作品の見事なところは、飢えと疲れでよれよれになったガドルフの眼に映る街道筋の風景のひび割れた陰鬱な表情とその延長上に顕われる雷雨の険しさが、そのままガドルフの生き難さの実感を伝える、生の心象風景となり得ているという点である。

 

 ハックニー馬のしっぽのやうな、巫山戯(ふざけ)た楊(やなぎ)の並木と陶製の白い空との下を、みじめな旅のガドルフは、力いっぱい、朝からつゞけて歩いて居(を)りました。

 それにたゞ十六哩(マイル)だといふ次の町が、まだ一向見えても来なければ、けはひもしませんでした。

(楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉に変ったり、どこまで人をばかにするのだ。殊にその青いときは、まるで砒素(ひそ)をつかった下等の顔料(ゑのぐ)のおもちゃぢゃないか。)

 ガドルフはこんなことを考へながら、ぶりぶり憤(おこ)って歩きました。

 それに俄(には)かに雲が重くなったのです。

(卑しいニッケルの粉だ。淫(みだ)らな光だ。)

 その雲のどこからか、雷の一切れらしいものが、がたっと引きちぎったやうな音をたてました。(中略)

 実にはげしい雷雨になりました。いなびかりは、まるでこんな憐(あは)れな旅のものなどを漂白してしまひさう、並木の青い葉がむしゃくしゃにむしられて、雨のつぶと一緒に堅いみちを叩(たた)き、枝までがガリガリ引き裂かれて降りかかりました。

(もうすっかり法則がこはれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢だ。夢でなけぁ霧だ。みづけむりさ。)

 ガドルフはあらんかぎりすねを延ばしてあるきながら、並木のずうっと向ふの方のぼんやり白い水明りを見ました。

 

 街道筋の楊や空模様の描写には、宮沢賢治らしい、例の無機的で化学的な、ひび割れた自然意識がよく表われているし、その延長上に、ガドルフのささやかな人間的営みなど歯牙にもかけないかのように、凄まじい雷雨が、存在を威圧し翻弄する虚無の象徴の如く、冷酷に立ち顕われる。道路の暗い不気味な空き家に避難したガドルフは、窓越しに、嵐に打たれて咲いている「白百合」の群れを見つける。

 闇夜の中で荒れ狂う稲妻と豪雨に対峙するかのように、けなげにひっそりとたたずむ百合の存在が、やはりガドルフのもうひとつの生のかたちを鮮やかに象徴している。

 

(おれの恋は、いまあの百合(ゆり)の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)

 それもほんの一瞬のこと、すぐに闇は青びかりを押し戻し、花の像はぼんやりと白く大きくなり、みだれてゆらいで、時々は地面までも屈(かが)んでゐました。

 そしてガドルフは自分の熱(ほて)って痛む頭の奥の、青黝(あをぐろ)い斜面の上に、すこしも動かずかゞやいて立つ、もう一むれの貝細工の百合を、もっとはっきり見て居りました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を、一緒に息をこらして見つめて居ました。

 それも又、たゞしばらくのひまでした。

 たちまち次の電光は、マグネシアの焔(ほのほ)よりももっと明るく、菫外線(きんぐわいせん)の誘惑を、力いっぱい含みながら、まっすぐに地面に落ちて来ました。

 美しい百合の憤(いか)りは頂点に達し、灼熱(しゃくねつ)の花弁は雪よりも厳(いか)めしく、ガドルフはその凛(りん)と張る音さへ聴いたと思ひました。

 暗(やみ)が来たと思ふ間もなく、又稲妻が向ふのぎざぎざの雲から、北斎の山下白雨のやうに赤く這(は)って来て、触れない光の手をもって、百合を擦(かす)めて過ぎました。

 

 しかし、雨はますます烈しさを加え、いちばん丈の高い一本の百合がとうとうその華奢な幹を折られて、倒れてしまう。打ちひしがれたガドルフは、背嚢から小さな敷布を取り出して体にまとい、寒さに震えながら睡ろうとする。なつかしい「遠い幾山河の人たち」のことを「燈籠(とうろう)のやうに」思い浮かべたりしているうちに睡りこけたガドルフは、「豹の毛皮」の着物を着けた男と「鳥の王」のように黒く身をかためた男が、青く光る坂の上で烈しく格闘しているさまを夢に見る。やがて二人の大男が暴れわめいて戦ううちに、とうとう大きな音をたてて坂を転げ落ちてしまう。

 ガドルフがふと目を覚ますと、雷雨は既におさまりつつあり、電光がただ一本を除いて「嵐に勝ち誇った百合の群」を真っ白に照らし出す。

 

 窓の外の一本の木から、一つの雫(しづく)が見えてゐました。それは不思議にかすかな薔薇(ばら)いろをうつしてゐたのです。

(これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。南の蝎(さそり)の赤い光がうつったのだ。その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。雨さへ晴れたら出て行かう。街道の星あかりの中だ。次の町だってぢきだらう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずゐぶんいやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ。)

 ガドルフはしばらくの間、しんとして斯(か)う考へました。

 

 一人の孤独な旅人の雨宿りという、何の変哲もないささやかな体験の、微細な心象風景の推移の内に、あたかもひとつの人生ドラマを凝縮させてみせたかのような、巨大な生の振幅を感じさせる美事な作品というほかはない。

 二人の大男の格闘が、作者の分身であるガドルフの秘められた荒魂(あらみたま)の葛藤の象徴、すなわち虚無と生命の両義性による葛藤の象徴となっていることは明白であろう。

 もちろん、その存在の両義性の葛藤は、雷雨と白百合のそれにも重ねられる。

 ただし、百合の花の象徴は、生命的な猛々しさを内に秘めた、繊細で強靱なけだかさのイメージというべきであるが。

 作者は、日常風景のひとこまの中に生の本源的な位相のダイナミズムを織り込めることで、〈物語性〉というものの究極の本質を鮮やかに浮き彫りにしてみせている。

 われわれのささやかで私的な日常の営みとは、実は、虚無と生命の不可視の葛藤による、存在の本源的な物語性の顕われにほかならないのであり、したがって、日々の労役と疲労とささやかな慰安の累積が織り成す固有の身体史=生活史の曲線は、それ自体が本来巨大なものなのであって、それ以外の一切の物語などは、ほんとうは人間の生にとって第二義以下のものでしかない、とでもいうように。

 こういった、日常風景に根ざした本質的な〈物語性〉の取り出し方において、「ガドルフの百合」は、先に論じた「種山ヶ原」に酷似しているといっていい。

 ただし、「ガドルフの百合」には、主人公の百合の花に対する恋にも似た思慕のおもいが表現されており、それはそのまま、作者宮沢賢治の、対(つい)的なエロスの対象への、特有のこだわりのかたちを象徴するものとなり得ている。官能的でありながら清楚な気品を漂わせた百合という植物へのガドルフのおもいは、生命的なみずみずしさと天上的な静謐さへの憧憬という宮沢賢治の両義的な美意識と重なるものであり、白百合に象徴されている美のかたちは、そのまま、作者の分身であるガドルフ自身の魂の風景にほかならない。

 それは同時に、火のような情熱を内に秘めながら、荒れ狂う破壊と虚無の嵐に静かに対峙する、つつましやかで強靱な生命のかたちにも通じている。

 すなわち、この作品には、己れ自身の魂の分身としての〈対(つい)〉の相手に対する、作者の強烈な思慕のかたちが象徴されていることになる。

 このナルシシズム的なエロスのかたちこそ、宮沢賢治が飢渇する〈生身〉の接触と絆の本質をなすものだといっていい。

「黄いろのトマト」のペムペルとネリの、幼児的な純粋さをもつ閉じられた兄弟愛の形を想起してみてもよい。

 ペムペルとネリ、賢治とトシのような、異様なまでの自己完結的な近親愛の世界というものは、フロイト的にいうなら、ナルシシズムの変形といってもよく、ナルシシズムとは、また、母親の〈子宮〉へのエロス的な回帰感情の変形にほかならない。

 ナルシシズム的なエロスというものは、思慕の対象となる相手との精神的な〈合体〉を烈しく希求してやまないのであって、対(つい)の相手と己れ自身の間に、ひとつの自己完結的で非日常的な生命の充足の風景を紡ぎ出そうとするものである。

 この充足への飢渇は、もちろん、この現世において真の表現形態を与えることができなくなった時、〈心中〉という、彼岸への衝迫に転化する本質をもっている。すなわち、生死紙一重の危うさの線上にあるといっていい。

 ナルシシズム的なエロスとは、現世への根深い嫌悪と孤絶感の裏返しである。

 この情動は、己れ自身にとって異物と感じられる他者性を排除したり、異質な他者を無理矢理己れと同一視しようとする渇望を秘めているだけに、現世的にいうなら、死や破滅と背中合わせになった危うさを抱え込んでいる。

 どんなに身近に感じられる者同士であっても、本来、人間は一人ひとり皆異質な存在なのであるから、他者への融合・同化の願望というものは、常に、強制と自閉的な孤立の病に転落する危険性をもっているからである。

 だが、これほどに純粋で力強いエロスの形もまた、ほかにはないのだ。

 それは、〈愛〉の究極的な理想の姿だといってもいい。

 ナルシシズム的なエロスがすこやかさを保持しうるには、少なくとも二つの条件が必要となる。

 ひとつは、己れ自身の生き方を脅かす異質な他者性というものを、きちんと、己れの内部に繰り込んでいること。

 もうひとつは、個としての実存の場所から、己れ自身の生を意味づけ、受け容れてくれるような、なんらかの世界をもち得ているということである。

 宮沢賢治の場合、その世界は、いうまでもなく、己れ自身を生命的に包摂してくれるコスモスとしての宇宙と、法華経信仰による菩薩行の献身の理念にほかならなかった。

 単独者として世界に真向かい、己れ自身の内に宿りながら、己れを超えた存在である、大いなるコスモスの輝きを全身的に感受しうるとき、人は、孤立感の恐怖にもとづく他者への不断の合体の渇望と強制の病から解き放たれることになる。

 その時、他者への性愛は、はじめて、落ち着きのある、しなやかで強靱な関係性へと脱皮することが可能となるのである。

 人と人、男と女は、その時はじめて、魂の深みを通して真にめぐり会うことができるのだ。

 これは、逆に言うこともできる。

 特定の対象への性愛の暖かさが、冷え切った虚無の浸透に拮抗し、生身の身体性を蘇らせる力をもちうるとき、人は、己れの身体というささやかな窓から、偉大なるコスモスにめぐり会い、その息吹を全身の血液に送り込むことができるのだ、というふうに。

「ガドルフの百合」という作品には、その軌跡が象徴的に描出されている。

 疲れ切って陰鬱なガドルフが嵐に遭遇し、(もうすっかり法則がこはれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢だ。夢でなけぁ霧だ。みづけむりさ)と考えるシーンは、虚無の猛威に打ちひしがれて内なるコスモスを喪失した魂のかたちを心象風景としてすくい取ったものである。

 そのガドルフが百合の花とめぐり会い、ナルシスティックで白熱したエロスのイメージを喚起させることで虚無の侵蝕に拮抗し、やがて昏睡状態の中で無意識裡の処理を続ける内に、いつしか嵐をくぐり抜けてしまう。

 身体にぬくもりを取り戻したガドルフの眼に映る、「かすかな薔薇いろ」をたたえた、神秘な木の「雫(しづく)」のイメージは、いうまでもなく、内なるコスモスの蘇生を表現したものだといっていい。

 元気を取り戻した主人公は、一期一会の縁(えにし)をとり結んだ百合の花と別れて、街道の星あかりの中を、颯爽と次の町をめざして旅立ってゆく。

 

     17

 

 賢治童話における生身の接触のイメージは、「祭の晩」では、主人公の亮二と山男の関係に表象される。

 山の神の秋の祭の晩、少年亮二は、小遣いをもらって見世物小屋に出かけるが、そこで、不思議な風貌の大男に出くわす。

 男は、「古い白縞(しろじま)の単衣(ひとへ)に、へんな簑(みの)のやうなものを着」て、まんまるの「煤(すす)けたやうな黄金(きん)いろ」の眼をしていた。

 見世物小屋を出た亮二は、やがて掛茶屋の前で、無銭飲食をしたため店の主人や村の若い者にいじめられている男の姿を目撃する。

 男は、額から汗を流して何度も頭を下げながら、あとで「薪(たきぎ)百把(ぱ)」を持って来るからと、どもりながら言い訳をするが、どこの国に、団子二串に薪百把払う奴がいるかと怒鳴り返されて、群衆の中からはぶん殴れという怒声が飛ぶ。

 ハッタリまがいの見世物小屋で銭を払ってしまったので一文も無く、あんまり腹が空いたので、つい団子を食ってしまったのだと了解した亮二は、泣いて謝罪している大男を気の毒に思い、とっさに、たった一枚残っている白銅を取り出すと、男のそばに歩み寄り、さりげなくしゃがんで足の上に黙って置いてやる。男はびっくりした様子でじっと亮二の顔を見下ろしていたが、やがてかがんで白銅を取ると、「そら、銭を出すぞ。これで許して呉れろ。薪を百把あとで返すぞ。栗を八斗あとで返すぞ」と云うが早いか、群衆をつき退けて風のように逃げ去ってしまう。

「山男だ、山男だ」という人々の叫び声が聞こえ、風がごうごうと吹き出し、まっ黒なひのきが揺れ、あちこちの明かりが消える。

 興奮して家へ戻った亮二が、おじいさんにその話をすると、それは「山男」だと言う。

 二人が山男の噂話をしていると、突然地響きと共に大きな物音がする。

 あわてて外に出てみると、家の前の広場には、太い薪が山のように投げ出されてあり、あたり一面には栗の実がきらきらと転がっていた。

 

 亮二はなんだか、山男がかあいさうで泣きたいやうなへんな気もちになりました。

「おぢいさん、山男はあんまり正直でかあいさうだ。僕何かいゝものをやりたいな。」

「うん、今度夜具を一枚持って行ってやらう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行かう。」

 亮二は叫びました。

「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ。」

 おぢいさんは消えたラムプを取りあげて、

「うん、さういふいゝものあればなあ。さあ、うちへ入って豆をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣りから帰るから。」と云ひながら、家の中にはひりました。

 亮二はだまって青い斜めなお月さまをながめました。

 風が山の方で、ごうっと鳴って居ります。

 

「山男」という、土俗的・民譚的な色彩に染め上げられたキャラクターは、しばしば賢治童話において不気味な狂暴性を帯びて立ち現われるが、この作品では、無垢な善良さを体現した愛すべき人物として登場する。

 亮二が示した親切は、一切の利害関係というものの無い、デリケートな共感に根ざした、おのずから発する慈悲の心のなせるわざである。

 そのささやかな親切に応えようとする山男のおもいもまた、一切の利害や相対的な価値尺度を超越した無心の衝迫によるものである。

 亮二は、そういう山男のハートを全身的に感受し、胸を高鳴らせる。

 ふたりの交流の場において、山男は亮二であり、亮二もまた山男なのだ。

「黄いろのトマト」におけるペムペルとネリのように、山男と亮二もまた、何ものとも比較を許さない、ふたりだけのかけがえのない内面の宝をしばし共有し得たのである。

 しかも山男は、同時に、風の神・山の神の化身のような、濃密な闇の気配を背後にひきずっている。亮二と山男の交感は、主・客の融合した、コスモスとしての闇が紡ぎ出した、生命的で幸福な存在の出会いのドラマでもある。

「ガドルフの百合」における主人公と百合の花の接触のように、「祭の晩」に象徴される生身の交流のかたちもまた、アトム的な個人による近代市民社会の冷やかで相対的な対人関係の対極に位置するものとなっているのだ。(この稿続く)

 

 

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