七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.09.24 Saturday
  • 20:29

 

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 ところで、一九七〇年代前半の初期藤沢作品には、「溟(くら)い海」(一九七一年)や「旅の誘(いざな)い」(一九七四年)のような、葛飾北斎や安藤広重を主人公とする風変わりな小説がある。これらは、「暗殺の年輪」や「ただ一撃」のような武家物で追求された脱社会的な闇への渇きというモチーフを、芸術と実生活をめぐる問題を通じて探求した作品であり、今なお、現在的な鮮度を失わぬ、重要な問題作となり得ている。

 最後に、この系列の作品に触れておきたい。

 「溟い海」では、既に「富嶽三十六景」と「富嶽百景」を出した後の七十代の老境に達した北斎が登場する。

 ここでの北斎は、芸術的な新手法の〈奇想〉に憑かれ、己れの〈名声〉に一喜一憂する人物として描かれている。しかし、この老浮世絵師には、もはや、「富嶽三十六景」を出した頃の暗い衝迫は無く、今では他人の仕事を絶えず気にかける小人でしかない。

 広重の「東海道五十三次」の画に己れのそういう〈空洞〉を衝かれた北斎は、広重への嫉妬に苦しみ、チンピラに彼を襲わせようとするが、月明りの夜道で見た広重の暗鬱な表情にうたれ、襲撃を中止する。逆に、金のことでチンピラたちにしたたか殴られ、よれよれになって帰宅した北斎は、描きかけの海鵜(う)の画布に向かい、鵜を包み込む「溟い海」の背景を丹念に染め続ける。

 この作品での藤沢周平は、北斎を、世間のウケを狙って次々と奇想天外な新手法を編み出そうとする、山師スレスレの成り上がり者として描いているが、同時に、その生きざまの底に、お上品で形式的な画壇の枠に納まり切れない、獣の咆哮(ほうこう)のような暗い獰猛な表現への衝迫が疼(うず)いていたことを指摘する。

 北斎の野心的な試みを単なる「人気取り」としかみなさない、正統的な画壇の評価尺度を代表する版元嵩山房(すうざんぼう)の主人小林新兵衛と北斎の冷ややかなやりとりを描いた後、作者は、四十代以後の北斎の生きざまを、次のように概括してみせる。

「昔、画壇の近くにいる、と感じた時期がある。狂歌本潮来(いたこ)絶句の挿絵を、当時二十過ぎで、すでに嵩山房を切り回していた新兵衛が激賞していると聞いたときである。北斎は四十半ばだった。/しかし、北斎の眼は、潮来絶句が戸を開いてみせた抒情の世界を覗くには、あまりに乾いていた。むしろその頃、憑かれたように、新兵衛がいう人気取りに狂奔していたのである。/音羽護国寺の境内で、大達磨(おおだるま)を描いた。本所合羽(かっぱ)干場では馬、両国の回向院(えこういん)で布袋(ほてい)を描いた。評判を聞いて集まった人々が見まもる中で、百二十畳敷きの紙をひろげた上に、藁箒(わらぼうき)で墨絵を描きあげるのである。米粒に、躍動する雀二羽を描いたのもその頃である。指先に墨をなすって描いたり、紙を横にして逆絵を描いたりもした。/新兵衛は、それを香具師(やし)の啖呵(たんか)にすぎないというのだ。北斎はそれを否定することが出来ない。現実に、そうして得た人気をテコにして、読本の挿絵を描いては第一人者という、評判と地位を手に入れた。効果的に、あくどくやったと自分でも思うことがある。/だが新兵衛は、彼からみれば醜悪にさえ見える人気取りに北斎を駆りたてたものを知らない。それが、四十を過ぎてなお無名だった男が、世間を相手に試みた必死の恫喝(どうかつ)だったことを、だ。たとえそのために、画壇に異端視されようと、また卑俗な処世術のゆえに二流扱いされようと、無名であるよりはいい。/しかし、北斎は黙った。/新兵衛の前に自分をひろげてみせることは、北斎には出来ないが、それだけではない。弁明をためらわせるものが、奥深いところにあった。無名でいることに耐え難かったのは事実である。だが、そのためにした曲技じみた画技の披露に苦痛はなかった。むしろ快感がうずいていたと言ってよい。/月並みなものに爪を立てたくなるもの、世間をあッと言わせたいものが、北斎の中に動く。北斎ここにあり、そう叫びたがるものが、北斎の内部、奥深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない。/それは、新兵衛がいう人気取りともまた、違うものだった。つながりはある。得た人気は、内部の暗い咆哮(ほうこう)のひとつの結果ではあるだろう。だが、それは断片にすぎないのだ。それを北斎は新兵衛に言うことは出来ない。それは、なぜか人に言うべきことでない気がしたのである」(「溟い海」)

 作者は、この北斎の「暗い咆哮」が、七十代の坂にかかった「富嶽三十六景」の頃までは確実に息づいていたが、「富嶽百景」では既に失われているとみなす。広重の画は、その北斎の空洞を衝くように立ち現われる。

 広重の「東海道五十三次」の評判に苛立つ北斎は、その絵がどの程度のものであるか自らの眼で確かめようとする。「風景の平凡なひき写し」という印象しか受けなかった広重の前作「東都名所」を想い出しながら、北斎は「五十三次」の作品を一枚一枚手に取って丹念に味わってゆく。

「それは、ごく平明な絵だった。一度みたことがあるような風景、ありふれた人物が描かれていて、解らないところはひとつもない。細密な描写、人物の把え方などでは、やはり東都名所を上まわって安定感がある。だが、それだけのことだった。構図も、手法も、北斎がみる前にひそかに懼(おそ)れたような、気がついて眼をみはるような新しさを、隠しているようには見えなかった。(中略)描く前に、北斎が練ったり截(き)り捨てたりする苦渋を、この絵は持たないようにみえる。その意味で、北斎の好みとは違うが、悪い絵ではない。むしろさらりと描きあげたところが俗受けした、そう思うことも出来た。/だが、北斎の中に、執拗にこだわるものがある。絵をみているうちに、その背後に太々しい自信のようなものがあることが、見えてきたのである。それが気持にひっかかった。さらりと描きあげる――それだけのものを、広重は、こんなに自信たっぷりに描いたのか。(中略)一枚の絵の前で、北斎はふと手を休めた。隠されている何も見えないことに、疲れたのである。結局広重は、そこにある風景を、素直に描いたにすぎないのだと思った。/そう思ったとき、北斎の眼から、突然鱗(うろこ)が落ちた。/まるで霧が退いて行くようだった。霧が退いて、その跡に、東海道がもつ平凡さの、ただならない全貌が浮び上ってきたのである。/広重は、むしろつとめて、あるがままの風景を描いているのだった。/描いたというより、あるいは切りとったというべきかも知れない、と北斎は息をつめながら思った。北斎も風景を切りとる。ただしそれはあくまで画材としてだ。それが画材と北斎との格闘の末に絵になることもあれば、材料のまま捨てられることもある。/広重と風景との格闘は、多分切りとる時に演じられるのだ。そこで広重は、無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景を、つまり人生の一部をもぎとる。あとはそれをつとめて平明に、あるがままに描いたと北斎は思った。/恐ろしいものをみるように、北斎は「東海道五十三次のうち蒲原(かんばら)」とある、その絵を見つめた。/闇と、闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。画面に雪が降っている。寝しずまった家にも、人が来、やがて人が歩み去ったあとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない。/その雪の音を聞いた、と北斎は思った。そう思ったとき、そのひそかな音に重なって、巨峰北斎が崩れて行く音が、地鳴りのように耳の奥にひびき、北斎は思わず眼をつむった」(「溟い海」)

 この描写の中に、作者藤沢周平の面目躍如たるアララギ派的美意識の本質とその限界性が、まことに正直に露呈している。

 北斎という、技巧的な幻想世界を砂上の楼閣のように築き続ける、才気走った芸術至上主義者の中に、作者は、七十年に及ぶ〈生活者〉としての空洞を透視してみせようとしているのだ。

 その空洞を際立たせる演出として、作者は小説中で、北斎の長男富之助を、養子先から勘当された女たらしの極道者に仕立て上げ、富之助に捨てられたお豊という薄幸な女を登場させる。乳呑み子を抱え、路頭に迷ったお豊は北斎のもとを訪れ、しばらく子供を預かってほしいと懇願するが、彼は冷たく突き放してしまう。やがて北斎は、夜鷹にまで身を落としたお豊の姿に出くわすことになる。

 おおかた、飯島虚心の名著『葛飾北斎伝』にある「長男は、其の名詳ならず。一説に、名は、富之助、中島氏を継ぎ、用達の鏡師たりと。又一説に(関根氏。)、長男は、放蕩無頼にして、家にあらず。終りを詳にせず。翁は、常に此の長男の為めに、心を痛め、屡(しばしば)負債を償(つぐな)ひしことありと」という記事をもとにした創作であろう。

 北斎には奇矯なふるまいが多く、常人の寸法をもって計れば、確かに生活破綻者的な生涯というべきであった。

 挿絵の注文も多く、通常の画工に比べてはるかに高い画料を得ていたのに、「常に貧し、衣服破れたりと雖(いえども)厭(いと)はず。金銭を得るといへども、敢て貯(たくわ)ふの意なく、これを消費すること、恰(あたかも)土芥のごとし」(『葛飾北斎伝』岩波文庫版)という有様だった。

 酒を嗜(たしな)むわけでもなく、遊蕩に溺れたという風もないのに、常に赤貧洗うが如き暮らしぶりであったのは、「これ金銭を貯ふに意なく、其の心唯一に絵画に専なる」のゆえであったという。

 しかし、北斎の芸術には、近代の芸術至上主義者にごまんと認められる、実生活や人間への皮相な侮蔑の念によるシニシズムや虚無的なただれた厭世感の匂いは、微塵も感じられない。

 虚心の『葛飾北斎伝』には、北斎が、送られて来た画図の報酬金の包みの中味を確かめることもせず机辺に投げ出しておき、米商や薪商などの借金取りが催促に来ると、その包みのままに投げ出して与えたという逸話が記されている。商人らが家に帰って包みを開けてみると、意外に金額が多いのでひそかにこれを納め取り、少ない場合は催促して不足分を取り立てた。そのため、商人たちにとって、北斎は「良き顧主」であったという。

 北斎の金銭に対する無頓着には、生涯に九十三回の引越しをしたという逸話と同様、物を所有することへの極度の忌避の念が見て取れる。

 それは、現世に背を向けた芸術至上主義者の幻想的な狂気とは紙一重で異なったものであり、むしろ、生きることの絶対感への凄まじい求道的な希求の顕われのように、私にはおもわれる。

 北斎にとって、絵は、生活とは別次元に存在する幻想の領域なのではなく、まさに生活そのものであり、彼は、生活に背を向けて絵を描いたのではなく、逆に、生活そのものを絵の表現の次元に引き寄せ、同化させてみせたのである。

 これは、実生活と表現を二元的に分裂させる近代的な芸術理念とは全く異質なものであるが、同時に、狂気とスレスレの芸術至上主義者の場所でもあり、また、常識をはるかに超えた闊達自在な〈生活者〉の場所でもある。

 北斎は、徹底した老荘思想の信奉者であり、また熱烈な日蓮宗の行者でもあった。

 北斗七星を中心とする星辰をコスモスの担い手として信仰し、その根源を司る宇宙生命としての〈龍〉の存在を確信していた神秘主義者でもあった。(北斎と老荘思想及び道教的信仰との深い関わりについては、諏訪春雄の好著『北斎の謎を解く』吉川弘文館を参照されたい。)

 一見、破滅型の芸術至上主義者に見える北斎の〈非所有〉の実践は、私には、現世の混沌を混沌のままにあらしめつつ、それと即自的に一体化することで生の充溢感を得ようとした、荘子の絶対者の境位を彷彿とさせる。

 こういう人物の生きざまを、近代文学的な散文的リアリズムの目線で推し測り、生活破綻者的な側面を強調してみせても、それは、対象を不当に矮小化させることにしかならない。

 作者がどんなに深刻ぶって凄んでみせても、「溟い海」の北斎像が、みすぼらしい小人ぶりをさらけ出すことにしかなっていないのも、そのためである。

 北斎の芸術に対する藤沢周平の異和は、広重のまなざしを描いた「旅の誘(いざな)い」の中でも鮮やかに表現されている。この作品では、ほとんど無名の絵師だった広重に「東海道五十三次」を描かせて大ヒットを飛ばすことになる、保永堂という得体の知れない野心家の版元と広重の関わり合いが、ひとつの重要なモチーフとなっている。無名だった保永堂は、後に「五十三次」の大成功ですっかり人が変わり、金の亡者に成り果てるのだが、初めて広重の前に現れた時には、内に暗い衝動を秘めた、芸術へのたしかな眼をもつ人物だった。

 彼は、広重の前に北斎の絵を示して、巧みに創作意欲を煽り立てる。

 

 保永堂の指は、また口上を述べながら売る品を揃える香具師(やし)のように、すばやく動いて二枚の絵を胸の前にかざした。

 一枚は画面一パイを痩身の富士が占め、細かな白い雲がその背後に漂っている。異様に赭い肌をした富士だった。もう一枚は、天を突き上げる針のように尖った富士である。空は蒼いが、その裾は漆黒の闇が埋め、鋭い稲妻がその闇をひき裂いている。

 それは、いつも広重を胸苦しく圧迫する風景だった。富嶽三十六景──。大版全四十六枚の前人未到の風景画だった。その風景によって、北斎はいまも江戸の寵児だった。

「どう思われますか」

「言うまでもなく絶品ですな」

 広重は言ったが、不意に衝き上げてきたものに動かされて言った。

「だが言わせてもらえば、臭みがある。たとえば山師風とでもいうか」

 富士は北斎そのものだった。傲然と北斎が聳えている。普段思っていることだ。だが言ってから、広重はすぐに後悔した。言うべきではなかった。北斎の富士がどう匂おうと、それが有無を言わせない絶品であることは疑いようがないのだ。(「旅の誘い」)

 

 保永堂は今度は、富嶽三十六景の中の「遠江山中」の富士の絵を出した。画面を斜めに巨大な木材が横切り、その上に乗った樵夫が鋸を入れている。富士は木材を支えた足場の間に顔を出していた。その富士が、広重には北斎その人のように見えた。やはり自信に満ち、傲然と聳えている。広重はその絵を見つめながら言った。

「こうした絵は、私には描けない」

「こういう絵を描く必要はありません、先生」

 不意に保永堂は囁くような小声になっていた。

「あなたを風景描きだと申しあげました。そうは言っても、失礼ながら今までのところ、お描きになったのは海のものとも山のものとも言えない風景です。だが、お解りになりませんか」

 保永堂の声はいよいよ低くなった。それでいて顔は赤らみ、眼は熱っぽく光っている。

「あなたの風景には誇張がない。気張っておりません。恐らくそこにある風景を、そのまま写そうとなさったと、あたしはみます」

 それは北斎のように奇想の持ち合わせがないからだ、と言いかけて広重はふと声を呑んだ。そうではなかったと思ったのである。たとえ奇想が湧いても、北斎のようには描かないだろう。風景はあるがままに俺を惹きつける、と思ったのである。

「そこが肝心です。北斎先生の手法は、なるほど未曾有のものですが、一回限りのものです」

 保永堂は断定するように言った。(「旅の誘い」)

 

 ここでも「溟い海」と同様、作者は、明らかに広重に己れ自身の場所を重ね合わせながら、北斎の「奇想」の中に傲然と息づく自我の強烈さに対して、アララギ派的な美意識の場所から執拗な拒絶のまなざしを注いでいる。

 広重を「胸苦しく圧迫する」北斎の風景とは、そのまま作者自身を圧迫するものの〈喩〉にほかならない。

 一体、藤沢周平は、北斎芸術の何にそれほど脅かされ、嫌悪をそそられるのであろうか。

 

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 引用の中にも登場する「富嶽三十六景」中の「遠江山中」の富士の絵を例にして、この問題を考えてみよう。

 この絵には、引用にもあるように、画面を斜めに巨大な肌色の木材が横切り、その上に乗った樵夫が鋸(のこぎり)を入れている。木材および木材を支える足場の下には、やはり鋸を使って木材加工の作業をしている職人たちや赤児を背負った女の後ろ姿などが生き生きと描かれ、焚き火の煙が空高くもくもくと立ち昇っている。富士は、それらの人々の楽しげに働く様を静かに見つめながら、木材足場の間から、ひょっこりユーモラスに、しかし晴れやかに顔を出している。

 ここでの富士は、決して、藤沢周平のいうように傲然とした姿はしていない。

 この絵の主人公は、あくまで、巨大な木材とそれを囲んで生き生きと立ち働く庶民たちであり、白い雲の間から顔を出す雪をかぶった富士のたたずまいは、ただ、その庶民たちの生活に漲(みなぎ)る生気に拮抗し、彼らを暖かく見守る、控え目な後景のひとつにすぎないのである。

 そのことは、頭部にかかった雪を除く富士の地肌が褐色であることからもわかる。この地肌の色は、そのまま、鋸や焚き火の煙の色、あるいは火の傍らに座っている子供や職人の着物の色にも連なり、富士と庶民たちとの関係が、対立的なものではなく土俗的な親和性に満ちたものであることを示している。

 しかも、富士や木材の背景となる空の色は、白雲たなびく水色から上方の濃藍色に至るまで美事なグラデーションを構成し、この配色は、巨大な木材の淡い肌色を鮮やかなコントラストによって引き立てると共に、富士の地肌と同様、働く人々の青緑や藍色や褐色の着物と調和し、彼らの生に深々とした奥ゆきを付与している。

 虚心に味わう限り、この一幅の絵が生み出す存在のふくらみは、とうてい、藤沢周平のアララギ派的な近代写実主義風の美意識によって粗雑に裁断できるようなものではない。

 藤沢は、おそらく、この絵にぎらぎらと漲っている北斎の生命的な〈個〉の自己主張に脅かされ、嫌悪しているのだ。

 藤沢作品のモチーフと本質からいっても、作者にとって、このような生命的な野性の息づかいは、この現世の秩序の内にあって無傷であり得るものではなく、常に、押し潰され、〈彼岸〉の世界へと押し出されてしまう運命にあるものなのだ。

 それが、藤沢周平の近松的〈近代〉のまなざしなのである。

 しかし、北斎にあってはそうではない。

 人であれ動植物であれ、それ以外の諸々の風景であれ、ひとつひとつの存在が、全身的に己れの生命の輝きを主張し、時に鋭く葛藤しながら、鮮やかな〈協奏〉を演じている。

 そして、それら万物を包み込む大自然もまた、富嶽三十六景の「赤富士」のように灼熱の生命を燃え上がらせている。

 D・H・ロレンスやヘンリー・ミラーのように、北斎もまた、存在とのみずみずしい身体的交感への〈没入〉の体験と、その体験のメタフィジカルなイメージの復元の中から、美事に、脱近代を体現する〈生活者〉のいのちの手ざわりを描き上げてみせた。

 たとえそれが、対象との間に冷ややかな距離を置く近代的な写実主義的美意識にとらわれた眼にとって、どれほど生活破綻者的に視えようとも、それ自体、誇り高く輝く新生の創出にほかならぬ。

 北斎の最良の作品は、なるほど、「旅の誘い」における保永堂のいうように、その一枚一枚が、〈型〉というものを無視した奇抜な「一回限り」の想いつきの手法によって描かれたものだろう。

 だがその一回性は、同時に、北斎にとって、世界とのそのつどの絶対的に新鮮な固有の〈出会い〉が生み出した、燃えるような生命的交感の結晶でもあったはずだ。

 手法=形式が内容を決めるのではなく、内容の表現への衝迫が最もふさわしい形式を招き寄せるのである。

 北斎自身の生命の源泉が枯渇しない限り、対象との絶対的な固有の出会いもまた枯渇することはなく、したがって、手法=形式も絶対的な新鮮さを失うことはない。

 それが、北斎芸術の恐るべき真髄なのである。

 そういう、いのちのまばゆい奔流が、藤沢周平を脅かしているのだ。

 北斎の芸術は、前近代的な土俗共同体社会に息づく、存在との生命的な相互浸透の感覚に支えられながらも、幕末という、近代的な〈個〉の衝迫が表現を求めて狂おしく湧出するカオスの時代にふさわしい、独特の不逞な〈均衡〉の産物となっている。

 そういう、前近代の土俗と近代的な自我意識のアマルガムともいうべきデモーニッシュな芸術に対して、オーソドックスな近代文学の流れを汲むリアリズム作家の藤沢周平は、身構え、自己正当化を図らねばならなかった。

 そのために、彼は、ことさらに北斎芸術の才気走った技巧的な「奇想」を強調し、北斎という不世出の大天才を、僣越にも、世俗やライバルの眼に汲々とする小人へと卑小化してみせた。その上、北斎の生活破綻者的な側面をどぎつく印象づけようとして、夜鷹にまで身を落としたお豊の哀切な運命を、影絵のように浮かび上がらせる。

 きわめつけは、もちろん、広重的な美意識への北斎の屈服である。(この稿続く)

 

 

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