書評:スピノザ『エチカ』(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.10.16 Sunday
  • 19:01

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第4回)

 

     6

 

 スピノザは、負の感情に翻弄される、愚かしく浅ましい人間どもの中にあって、いかにして幸福な、喜びに満ちた生の充溢を獲得しうるかを、ひたすら考え続けた。

(「第五部」定理四及び系の「備考」より)

 

 「……我々が特につとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、このようにして精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。/これによってただ愛・憎しみなどが破壊されるばかりでなく(……)、さらにまたそうした感情から生ずるのを常とする衝動ないし欲望も過度になりえないことになろう(……)。

 

 スピノザがまず重視したのは、己れ自身が「感情の奴隷」とならぬように、「認識」の力を研ぎ澄ますことであった。そのことで「愛憎」による〈我執〉のとらわれを壊し、「感情」を、己れの能動的な活動への衝動=欲望と結びつけ、適切に制御することが可能となる。

 しかし、人は一人では生きられない。

 さまざまな良き人々と弱い所・足りない所を補い合い、支え合ってゆかねばならない。

 己れとは疎遠な魂をもった人間たちに囲まれていた孤独な哲人スピノザにとって、それは何よりも困難で苦しいことであった。

 

 (「第四部」定理一八の「備考」より)

「……我々は自己の有を維持するのに我々の外部にある何ものも必要としないというようなわけにはいかぬし、また我々は我々の外部にある物と何の交渉も持たないで生活するというようなわけにもいかない。なおまた我々の精神を顧みると、もし精神が単独で存在し自己自身以外の何ものも認識しないとしたら、我々の知性はたしかにより不完全なものになっていたであろう。これで見ると、我々の外部には、我々に有益なもの、そのゆえに我々の追求に値するものが沢山存するわけである。そのうちで我々の本性とまったく一致するものほど価値あるものは考えられることができない。なぜなら、例えばまったく本性を同じくする二つの個体が相互に結合するなら、単独の個体よりも二倍の能力を有する一個体が構成されるからである。/このゆえに、人間にとっては人間ほど有益なものはない。あえて言うが、人間が自己の有を維持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、すなわちすべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。/この結論として、理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。

 

 ここには、スピノザが「理性」による導きの果てに想い描いた理想的な絆、理想的な共同性、類的一体化への熱い夢想・渇望が、荒削りな形で吐露されている。

 現実は、もちろん、この夢物語からは限りなく隔てられているけれども、この想念は、スピノザの孤独な心を温め、鼓舞したことであろう。

 そしてまた、その夢想とは似ても似つかない、言語道断なまでにおぞましい〈現実〉の汚濁の渦中にあって、「いかにして身を処するか」を考える時、常に、大いなる指標となったことであろう。

 

(第四部「付録」より)

「第七項……もし人間が自己自身の本性と一致するような個体の間に生活するなら、まさにそのことによって人間の活動能力は促され、養われるであろう。これに反してもし自己の本性と全然一致しないような個体の間に在るなら、彼は自己自身を大いに変化させることなしには彼らに順応することがほとんど不可能であろう。」

「第八項 自然の中に存在するもので我々がそれを悪である、あるいは我々の存在ならびに理性的な生活の享受に妨害となりうる、と判断するもの、そうしたすべてのものを我々は最も確実と思える方法で我々から遠ざけてよい。これに反してそれは善である、あるいは我々の有の維持ならびに理性的な生活の享受に有益である、と我々の判断するものが存するなら、我々はそうしたすべてのものを我々の用に供し、あらゆる仕方でこれを利用してよい。一般的に言えば、各人は自己の利益に寄与すると判断する事柄を最高の自然権によって遂行することが許されるのである。」

「第九項 ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって(第七項により)人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の技倆(ぎりょう)と才能を証明することができる。」

 

 この「第八項」には、スピノザの鍛え抜かれた厳しい洞察と生きる覚悟性がにじみ出ているといってよい。

 彼は、我々の「存在」ならびに「理性的な生活の享受」に「妨害」となりうると判断されるもの全てを、我々にとって「最も確実と思える方法」で「我々から遠ざけてよい」と言っているのだ。

 この言葉は、たとえ「親兄弟」や「親族」であろうとも、どんな「身近」な人間であろうとも、必要があれば、「縁を切ってもよい」という思想・肚(はら)の座りを内包しているといってよい。

 現にスピノザは、それだけの並々ならぬ覚悟をもって、家業(商館経営)を捨て、親族との縁を切り、またユダヤ教会からの破門を甘受して、己れの生の価値追求のために最善だと思われる峻厳な道を、敢えて択びとったのである。信奉者である友人たちから年金や遺贈を受けたので、困窮には陥らずに済んだが、暮らしぶりはつつましかった。己れの性に合い、また光学研究にも役立つ「レンズ磨き」というささやかな職人技を身につけ、貧しい下宿住まいをしながら、独身生活の中で、純潔な孤独を守り抜いた。

 そしてまた、スピノザは、理性による妥当な認識=聡明さからはほど遠い、現実の不完全な人間たちの対立・抗争を収めてゆくために、〈国家〉の民主主義的な法・制度による統治を、〈必要悪〉として承認した。

 

     7

 

(「第四部」定理三七の「備考二」より)

人はみな最高の自然権によって存在し、したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずることを最高の自然権によってなすのである。それゆえ各人は、最高の自然権によって、何が善であり何が悪であるかを判断し、自己の意のままに自己の利益を計り(……)、復讐をなし(……)、また自分の愛するものを維持し、自分の憎むものを破壊しようと努める(……)。

もし人間が理性の導きに従って生活するのだとしたら、各人は他人を何ら害することなしに自己のこの権利を享受しえたであろう(……)。ところが人間は諸感情に隷属しており(……)しかもそれらの感情は人間の能力ないし徳をはるかに凌駕するのであるから(……)、そのゆえに彼らはしばしば異なった方向に引きずられ(……)、また相互扶助を必要とするにもかかわらず(……)相互に対立的であることになる(……)。」

それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して、他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。

「……どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によってでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に害悪を加えたくてももしそれによってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。」

そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性(……)によってではなく、刑罰の威嚇(いかく)によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の機能によって保護される者を国民と名づけるのである。」

これからして、自然状態においては、すべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら、自然状態における各人はもっぱら自己の利益のみを計り、自分の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自分以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがってまた自然状態においては罪過というものは考えられない。しかし一般の同意に基づいて何が善であり何が悪であるかが決定されて各人が国家に服従するように義務づけられる国家状態においてはそれが考えられる。すなわち罪過とは不服従にほかならず、それはこのゆえに国家の機能によってのみ罰せられる。これに反して服従は国民の功績とされる。まさにそのことによって国民は国家の諸便益を享受するのに価すると判断されるからである。」

「次に、自然状態においては、何びとも一般的同意によってある物の所有主であることはない。また自然の中にはこの人に属してかの人に属さないといわれうるような何ものも存しない。むしろすべての物がすべての人の物である。したがって自然状態においては各人に対し各人の物を認めようとかある人からその所有のものを奪おうとかする意志は考えられえない。言いかえれば自然状態においては正義とか不正義といわれうる何ごとも起こらない。」

しかし一般の同意に基づいて何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態においてはこのことが起こる。以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。しかしこれらのことについてはこれで十分である。」

 

 国家を、人間の「自然権」の恣意的行使による衝突への抑制装置とみなすホッブス的な政治思想に通ずる、優れた法・統治理念である。

 特に、〈現実〉の社会で流通している「正義」「不正義」や「罪過」「功績」といった概念が、制度的なフィルターを通して作為された「外面的」な概念であって、「精神の本性」に属するものではない、という認識に注目したい。

 社会的・公共的に流通している〈価値〉というものを、個人の固有の内面的な価値と混同することなく、あくまでも〈必要悪〉としての制度の次元からその意味を冷徹に検討するという姿勢。

 それが、最良の意味における、近代主義的な法治理念というものであろう。

 スピノザの国家論・政治思想へのこだわりもまた、その理念に立っている。

 その上で、彼は、社会的・公共的な〈価値〉を支えている大衆の心性、共同幻想の暗部(ダークサイド)を凝視してみせるのである。(この稿続く)

 

JUGEMテーマ:批評

JUGEMテーマ:日記・一般

 

calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM