宮沢賢治童話考(連載第9回)  川喜田八潮

  • 2016.10.17 Monday
  • 15:41

 

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 宮沢賢治の夢みた生身の接触と絆のイメージを、三つの童話作品をサンプルにしながら追跡してきた。

 今まで取り上げてきた作品は、あくまで、孤独な個人の内面のドラマとして造型されたものだが、最後に取り上げる「三人兄弟の医者と北守将軍」は、人間同士の生身の接触に、ある種の社会的な拡がりを与えた野心作であるといっていい。

 作者はここで、極度に単純化され誇張されたユーモラスな童話的牧歌性を巧みに活かしながら、ひとつの理想的な〈自然分業〉の世界を提示してみせている。

 宮沢賢治はこの物語によほどの愛着があったらしく、大正後期から昭和初年にかけての約十年の歳月にわたって執拗に改稿を繰り返しており、最終的に、満州事変の起こった昭和六年(一九三一)に雑誌に発表された「北守将軍と三人兄弟の医者」という散文形式の童話に結実する。

 しかし、初期の草稿段階から最後の発表形に至るまで、物語の基本的な構成は変わっていない。

 三十年にわたって北方の塞外(さいがい)の辺土で厳寒と悪天候と疫病に苦しみながら、悪戦を続けてきた老将軍と兵卒たちが、ようやく凱旋の日を迎えるが、長年の間、重責を担い、馬から降りる暇もなかったために、いつしか北守将軍の両足は馬の鞍にはりついて離れなくなっており、鞍もまた馬の背中から離れようとしない。おまけに、将軍や兵士たちの顔や手からは、いちめんに灰色のもじゃもじゃの植物が生えている。

 王宮から大臣の一行が出迎えに来るが、馬から降りられない将軍の姿を見て、謀反(むほん)だと勘違いし、引き返してしまう。

 将軍はため息をついて部下を呼び寄せ、すぐ王宮へおもむいて馬から降りられなくなったいきさつを説明し、このままではお目通りできないので、これから医者にかかって、その後で参内(さんだい)する旨を申し上げてくるように、と命ずる。

 あとは、疲弊しきった病める老将軍と馬が、人間と馬と植物をそれぞれ専門とする三人兄弟の医師に治療してもらう経過が克明に語られる。

 兵隊たちの顔に生えた灰色の毛も無事除去され、生気を取り戻した将軍と軍隊は、意気揚々と王宮に向かって進んで行く。

 以上のような物語の基本構成は、初期草稿から最終発表形まで共通しているが、内容的には、大正十一年(一九二二)頃成立した初期散文形「三人兄弟の医者と北守将軍」を文体的に大幅に改稿した通称「韻文形(いんぶんけい)」と、満州事変勃発直前の昭和六年七月に発表された「北守将軍と三人兄弟の医者」及びその下書き稿のいわゆる「後期散文形」との鋭い違いに注目する必要がある。

「韻文形」は、地の文を行分けの散文詩形式にした唯一の原稿であり、作品中に挿入されている軍歌の中に、豆太鼓とチャルメラによる「音数律」が詩形式の一環として巧みに活かされている。

 しかし、「後期散文形」では、初期草稿に導入されていた擬音語の音数律は消去され、地の文も完全な散文形式に改められている。

 また、初期草稿では、馬や植物に擬人法が使われているのに対して、後期散文形では擬人法は完全に一掃され、ユーモラスな童話的誇張が薄められると共に、最終部に、北守将軍の隠退と死のエピソードが付け加えられている。

 後に論及するように、このような差異は、実は、昭和初年におけるウルトラ・ナショナリズムの台頭の動向と、決して無縁ではないとおもわれるのである。

 以上のように、初期草稿と後期散文形の間には、ゆるがせにできない重要な相違点がみとめられる。

 ここではまず、初期の「韻文形」の魅力について語っておきたい。

 始まりはこうだ。

 

「ある日の丁度ひるころだった/グレッシャムの町の北の方から/『ピーピーピピーピ、ピーピーピ』/大へんあはれな たくさんの/チャルメラの音が聞えて来た。/その間には/『タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタンペタン。』/といふ豆太鼓の音もする。/だんだんそれが近づいて/馬の足音や鎧(よろひ)の気配/たうとう町の壁の上から/ひらひらする三角の旗や/かゞやくほこがのぞき出す。/(中略)/壁の外には沙漠(さばく)まで/まるで雲霞(うんか)の軍勢だ。/みんな不思議に灰いろや/鼠(ねずみ)がかってもさもさして/天まで続いてゐるやうだ。/するどい眼をしてひげのまっ白な/せなかのまがった大将が/馬に乗って先頭に立ち/剣を抜いて高く歌ってゐる。/『北守(ほくしゅ)将軍のプランペラポラン/いま塞外(さいぐわい)のくらい谷から、/やっとのことで戻って来た。//勇ましい凱旋(がいせん)だと云ひたいのだが/実はすっかり 参って来たのだ/とにかくあすこは寒い処(ところ)だよ。//三十年といふ黄いろなむかし/おれは百万の軍勢をひきゐ/チャルメラを朝風に吹いて出かけた。//それからどうだ一日も太陽を見ない/霧とみぞれがじめじめと降り/雁(かり)まで脚気(かくけ)でたびたび落ちた。//おれはその間 馬で馳(か)けどほし/馬がつかれてたびたびぺたんと座り/涙をためてじっとおれを見たもんだ。//その度ごとにおれは鎧(よろひ)のかくしから/上等の朝鮮人蔘(てうせんにんじん)をとり出して/馬に喰べさせては元気をつけた。//その馬も今では三十五歳/四里かけるにも四時間かゝる/それからおれはもう七十だ。//とても帰らないと思ってゐたが/ありがたや敵が残らず腐って死んだ。/今年の夏はずゐぶん湿気が多かったでな//おまけに腐る病気の種子は/こっちが持って行ったのだ/さうして見ればどうだやっぱり凱旋(がいせん)だらう。//殊にも一ついいことは/百万人も出かけたものが/九十九万人まで戻って来た。//死んだ一万人はかなり気の毒だが/それはいくさに行かなくても死ぬだらうぜ、/さうして見るとどうだ、やっぱり凱旋だらう。//そこでグレッシャムの人々よ/北守将軍プランペラポランが帰ったのだ/歓迎してもいゝではないか。』」

 

 城の壁の中では人々の大歓声が起き、厚い城門の扉が開いて、顔や体中に灰色の「猿おがせ」の生えた将軍や兵士たちが、チャルメラと豆太鼓による楽隊の音に合わせて軍歌をうたいながら静かに町に入って来る。

 

「灰いろになったプランペラポラン将軍が/わざと顔をしかめながら/しづかに馬のたづなをとって/まっすぐを向いて先登(せんとう)に立ち/それからチャルメラ豆太鼓/ぎらぎらのほこ三角の旗/軍勢は楽隊の音に合せて/足なみをそろへ軍歌をうたひ/門から町へ入って来た。/『タンパララタ、タンパララタ、ペタン、ペタン、ペタン、/月はまっくろだ、/雁(がん)は高く飛ぶ/やつらは遠く遁(に)げる。/追ひかけようとして/馬の首を叩(たた)けば/雪が一杯に降る。//タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタンペタン、/北の七つ星/息もとまるばかり/冷えは落ちて来る/斯(か)うしては居られないと/太刀(たち)のつかをとれば/手はすぐこゞえつく。//タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタンペタン、/雪がぷんぷんと降る/雁のみちができて/そこがあかるいだけだ、/こゞえた砂が飛び/ひょろひょろのよもぎが/みんなねこぎにされる。//タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタンペタン。』/みんなはみちの両側に/垣(かき)になってぞろっとならび/北から帰った軍勢を/大悦(おおよろこ)びで迎へたのだ。/『あゝプランペラポラン将軍は/すっかり見ちがへるやうおなりだ。/おからだいっぱい灰いろだ。/兵隊たちもみなさうだ。/頭も肩ももじゃもじゃだ。/どんなに難儀しただらう。』」

 

  作品導入部におけるこの詩形式とチャルメラや豆太鼓のリズムは、戦前から終戦後の一九五〇年代前半までに幼少期をすごした中高年世代にとっては、おそらく大なり小なり、なんともいえぬ、わびしい郷愁の匂いをおぼえさせるはずである。

 それは、ひと言でいうなら、他人には伝えがたい、哀歓の降り積もった歳月の重みと人生の疲労感のイメージである。

 自然の流れの中に溶かし込まれた、〈生涯〉という、たしかな充実した手ざわりとぽっかり穴のあいたような空虚さとを併せもった、不思議な生き物の体液の匂いである。

 老将軍と兵士たちの表情がほのかに漂わせるものはそれであり、作品のひょうひょうとした詩的リズムは、彼らのその沈黙の重さをユーモラスに優しく包み込んでみせる。

 この擬音語の音数律と一体化した詩形式は、一面ではたしかに無名人の生涯の哀歓の匂いと沈黙の深さを想起させながら、他面では、その重さを、淡々と突き放したうら哀しい〈語り〉のリズムに包摂することで巧みに希釈し、幻灯のようなヴァーチャルなおもむきをもった観照者的な風景へと変容させてみせるのである。

 今や食傷気味といってもいいほど乱用され、陳腐と成り果てた、現代詩や現代短歌の世界における擬音語(オノマトペ)の奇抜な使用は、意味の〈重力〉を解体させ、空虚と戯れることで、生の浮遊感をかもし出す。

 宮沢賢治は、いうまでもなく、このような価値解体的なオノマトペのユーモラスなリズムの考案者として、達人であった。

 詩も含めて、広い意味で「うたう」という行為は、個的な険しさを、個を超えたある種の〈自然〉の流れの中に溶かし込むことで、いわば傍観者的に突き放しながら同時に己れ自身の固有性に引きつけるという、二重性のきしみを活用した、美事なカタルシスの療法であるといってよい。

 それは、人々の無意識が風土的・伝統的に継受してきた〈沈黙〉の言語的意味性を活かすことで生み出された、〈リズム〉という摩訶不思議な生き物のなせる、自然=コスモスとの緊迫した切断と融合のドラマなのである。

「うたう」ことによってわれわれは、どれだけ救われるかしれない。

「うたう」ことを排除した詩歌は、芸術として死んだも同然だ。

 散文ですら、その文体の生命は〈リズム〉によって支えられる。

 リズムの欠落した散文は文体の欠落した文章であるといってよく、したがって個と共同性、個と類の鋭い緊張関係をもたぬ、ふやけた意識の産物であり、書き手の〈貌(かお)〉というものの存在しない、のっぺらぼうの文章なのである。

  人間は、きちんと生き抜くためにきちんと「うたう」ことができなければならぬし、物書きは、きちんと己れの文体のリズムというものを体得していなければならない。(この稿続く)

 

 

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