七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2016.10.20 Thursday
  • 11:36

 

     12

 

 「溟い海」のラストで、チンピラに殴られ、ふらふらになりながら深夜に帰宅した北斎は、体の血を洗い流し、全身の痛みをこらえながら喉の渇きをうるおすと、行燈のそばで夜着をかぶって、描きかけの仕事にとりかかる。

 

 絹布の上に、一羽の海鵜(う)が、黒々と身構えている。羽毛は寒気にそそけ立ち、裸の岩を掴んだまま、趾は凍ってしまっている。

 北斎は、長い間鵜を見つめたあと、やがて筆を動かして背景を染めはじめた。はじめに蒼黒くうねる海を描いたが、描くよりも長い時間をかけて、その線と色をつぶしてしまった。漠として暗いものが、その孤独な鵜を包みはじめていた。猛々しい眼で、鵜はやがて夜が明けるのを待っているようだったが、仄(ほの)かな明るみがありながら、海は執拗に暗かった。

 それが、明けることのない、溟い海であることを感じながら、北斎は太い吐息を洩らし、また筆を握りなおすと、たんねんに絹を染め続けた。時おり、生きもののような声をあげて、木枯しが屋根の上を走り抜け、やむ気配もなかった。(「溟い海」)

 

 ここで作者は、広重の風景の根底に横たわる、しんしんとした原初の闇の深淵に目覚め、それに屈服し、己れの奇をてらった、どぎつい前衛的な抽象絵画的曲線を消そうと努める北斎の姿を描いてみせている。北斎芸術のむせかえるような獰猛な生命の協奏は黙殺され、広重的な寂静(じゃくじょう)の時空へと巧みに変換される。

 藤沢周平の広重的な世界にあっては、人は、日常のささやかな哀歓の物語を織り上げながら、現世の不条理をひっそりとくぐもるようにして耐え、くぐり抜けてゆく存在である。

 風景は、北斎画のように、奔放で巨大な生命の燃焼から成るぎらついたものではなく、日常と非日常、夢と現実のあわいを揺れ動く、はるかにわびしくつつましやかで、デリケートな鼓動を伝えるものとしてあった。

 誰にも伝わりようのない〈孤〉としての沈黙の深みをどこかに握りしめながら、それでも、生身の接触とぬくもりによって支え合う無名の人間たちの、切なくささやかな生涯が無数に点在するものとして、この社会、この地上的世界がある。そして、そういう地上的世界をひっそりと包み込み、癒してくれる母胎のごときものとしての、背景の闇のコスモスが息づいている。それは、人も含む森羅万象が、そこからたった一つの固有の存在としてこの世に生まれ落ち、死によって再び回帰していく原初の闇の深淵でもある。

 藤沢周平の原風景としての広重的な世界とは、おそらくそういうものである。

 この原初の闇は、もちろん、「ただ一撃」の刈谷範兵衛の狂暴な野性の目覚めや近松的な情死の衝迫にもつながっている。また、「旅の誘い」に登場する渓斎英泉のような、耽美的な官能世界の探求者、愛欲世界の淪落の淵に自らの肉体を沈め、ひたすら凝視し続けた芸術至上主義者の闇にも通じるものである。

 藤沢周平自身の眼にとって、それは本来、死や破滅と背中合わせになった危険極まる道につながるものであった。

 この作家が、己れの脱社会的な志向を、〈社会〉という秩序空間から絞め出され圧殺されることなく満たし、生の根底に据える道は、唯一つ、広重的な闇への下降に求めるよりほかにはなかった。

 一切の人間的な意味や価値というものを無化する原初の闇の深淵に、己れを消却し得る究極の深々とした静けさと安らぎのイメージを託す以外に、〈関係の絶対性〉に翻弄される、険しくはかない相対的な存在としての人間の我執を超える位相を見出すことはできなかったであろう。

 それは、地上的な生と天上的な飢渇に分裂した近松的な近代的世界観に呪縛された表現者にとって、己れの天上的な志向をメタフィジカルな〈自然〉という概念に帰着させることによって肯定的な手法で描き上げることのできる、唯一の突破口なのである。

 社会人=世俗人としての正気を逸脱することなく、したたかに社会の内部に定位し、生活者としてのまっとうな日常性の繰り返しに耐え、日々の無数の哀歓の物語の累積に慰安と平安を見出しつつ、ひっそりと生涯を全うする道を歩もうとする者が、己れの非日常的な脱社会的衝迫を飼いならす唯一の道は、作者にとっては、このような万物斉同の風景としての単色の闇への凝視と表現をおいてほかにはなかった。

 広重から見れば、渓斎英泉のようなアウトローの鬼才は、自分にとって得体の知れない魔界の住人であり、越えてはならない一線を越えて現世に帰還不能となった他界の人間であった。

 しかし逆に英泉から見れば、意外にも広重は、まっとうな生活人・社会人の面貌をみせながら、自分のいまだ到達し得ぬ原初の闇をひるまずに直視し、えぐり出してみせた驚くべき力量の持ち主であり、畏怖の対象であった。「旅の誘い」では、少なくともそう描かれている。

 

「朝な夕なにまくらが変わる、まくらかわらぬつまほしや。な、おい、おたえ」

 英泉は引き寄せた女の胸もとに手をさし込んだ。女は黙って英泉に躰を擦り寄せている。眼をそむけて、広重が言った。

「潮来絶句ですか」

「よく知ってるな一立斎先生。そう潮来絶句ですよ。わたしゃあけくれお前を思う、お前わたしを思やせぬ、ってね。北斎先生、あれを描いたころは、詩情溢れんばかりだったなあ。だが、以後親爺の絵には詩がなくなった。富嶽三十六景、結構です。だがあれは詩ではない。あれは力わざです。腕力というもんだ」

 広重は、英泉は北斎がよほど好きなのだと思った。

「しかるにここに安藤広重現われて、だ。風景を歌っている。結構ですなあ」

 英泉は盃を置くと、女にぐらりと躰を傾け、顔をかぶせると音を立てて唇を吸った。女が甘えた声を出した。英泉の右手はまだ女の内懐深くさし込まれている。

 不意に顔だけ捩(ね)じまげて、英泉は広重をじっと見た。鋭い眼だった。

「あんたはしかし、淋しい人だな。よほどの不幸があったと見える」

「どうしてですか」

「なに、あんたの東海道の蒲原一枚を見れば、それは解るさ。一度は人生の底を見た人間でないと、ああいう絵は出て来ねえな」(「旅の誘い」)

 

 ここには、「潮来(いたこ)絶句」に息づく抒情性への共感と「富嶽三十六景」に漲る生命的な自我意識への異和のないまざった畏怖の言葉を通して、英泉の北斎に対するアンビヴァレントな感情が語られているが、それは、いうまでもなく作者自身のおもいと響き合うものである。

 藤沢周平の北斎への反発は、何よりも、生き難さの業に翻弄される卑小な人間存在への共感の欠落、すなわち庶民的な哀歓のこもった演歌的な抒情性の欠落にあったが、その抒情性への飢渇が北斎の生命的な自己主張と真に拮抗し得るためには、広重の画に息づく闇の気配とその根底に透けて視える孤独の深さを対置してみせるよりほかはなかった。

 末尾にある英泉の言葉は、作者のそういう真情を代弁しているといっていい。

 広重に対するこの英泉のまなざしは、そのまま、「溟い海」で東海道五十三次の蒲原の絵に衝撃を受けた北斎の心境や月明りの下で彼が垣間見た広重の暗鬱な表情に重なるものである。

 

 人影は、顔が見えるところに来た。やはり広重だった。雲が吹き飛んで、月に照らされて、肉の厚い丸顔がはっきり見えた。………広重は手に折箱を下げていた。錦樹堂で酒が出たのだろう。木曾街道は、保永堂と錦樹堂伊勢屋利兵衛の共板になると聞いている。今夜の招きも、そういう打合せに違いなかった。もてなされたのだ。

 それなのに、この男の表情の暗さは、どうだ、と北斎は思った。ほとんど別人をみるようだった。嵩山房でみた広重の印象は、いま月の光でみる顔に、ひとかけらも残っていないのだ。………陰惨な表情。その中身は勿論知るよしもない。ただこうは言えた。絵には係わりがない。そこにはもっと異質な、生の人間の打ちひしがれた顔があった、と。言えばそれは、人生である時絶望的に躓き、回復不可能のその深傷(ふかで)を、隠して生きている者の顔だったのだ。北斎の七十年の人生が、そう証言していた。(「溟い海」)

 

 北斎の垣間見た広重のこの「回復不能の深傷」は、おそらく作者藤沢周平のそれと重なっている。

 藤沢周平は、昭和三十八年(一九六三)の十月、三十代の半ばで、最初の妻悦子夫人を喪っている。彼女はまだ二十八歳で、おまけに、この年の二月には長女が誕生したばかりであった。あまりにむごい運命だった。彼は、六年後の昭和四十四年に再婚するが、それまでの幼な子を抱えたひとり身の歳月は、到底、筆舌に尽し難いものがあったに違いない。

 若い頃の結核の療養体験とともに、この地獄は、藤沢周平に「人生の底」を見据えさせることになった。彼が、広重と北斎をめぐるモチーフに鬼気迫る取り組み方をするようになったのは、おそらく悦子夫人との死別の後であり、その白熱した格闘が、職業作家としてのデビュー作となった「溟い海」(オール読物新人賞)に結実する。

 藤沢周平は、広重の描いた寂寥の中に、己れの凝視した生の極北の風景を重ね合わせ、そこに、地上の業苦を客体的に見据える非情なリアリズム作家としてのプライドと、業苦を包摂し哀切な抒情の内に受け流す、無常なる〈自然〉としての闇の息づかいを、巧みに織り込めてみせたのだった。

 「溟い海」でスケッチされた広重の秘められた孤絶は、「旅の誘い」において、保永堂の脂ぎった現世的な成り上がり根性と対比されることで、さらに鮮やかに浮き彫りにされる。

 この無名の版元は、最初に広重の前に現われた時から既に油断のならない風貌をしていたが、同時に、広重の風景画家としての資質を鋭く見抜き、彼に東海道を描かせる契機を与えるだけの、暗い芸術的情熱を秘めた人物でもあった。

 しかし、東海道の絵が売れるようになると、保永堂は、儲けに眼を血走らせるだけの、ただの商売人に成り下がってしまう。広重はこの男のあっけない変貌ぶりに苦々しい異和と警戒のおもいを強めるが、そういう版元への鬱屈を、英泉や北斎のように無防備に吐き出すことはせず、慎重に胸中にしまっておく。

 保永堂と広重の関係は、もの書きの世界に置き換えてみるなら、いうまでもなく編集者と表現者の関係に当たる。「旅の誘い」は、版元・編集者と第一級の表現者がいかにして出会うことができ、いかにして袂(たもと)を分かつことになるかを、痛烈に具象化してみせた作品だといっていい。

 東海道五十三次の大ヒットで調子に乗った保永堂は、二匹目のどじょうを狙って、今度はこともあろうに、デカダンな美人画家の渓斎英泉にお門違いの木曾街道の風景画の連作を描かせるというあざとい趣向に走るが、それはものの見事に失敗してしまう。うろたえた保永堂は、英泉と解約し、その後釜を広重にしようともくろむ。

 「旅の誘い」は、木曾街道の続きを依頼された広重の孤独な心象風景の描写で結ばれている。

 

「話にならんのですよ、先生」

 保永堂は手酌で盃を満たし、一気に酒をあおった。顔が赤くなっている。

「英泉さんにまかせておいたら、この先何年かかることやら、商売になりません」

「それに」

広重は腕組みを解いて、保永堂の酒に濁った眼を、じっと見た。

「売れないのでしょう、保永堂さん」

 保永堂の顔を、無残な狼狽(ろうばい)が走り抜けた。保永堂は持ち上げた銚子を膳の上に戻し、広重の顔を見返したが、その顔は次第に俯いた。俯いたまま、保永堂は小声で言った。

「ご存じでしたか。もうお話になりません」

「………」

「あなたと組んだ東海道の儲けが、ま、あらかた飛んでしまうという感じですよ」

 保永堂は顔を上げた。

「お願い出来ませんか、先生。木曾街道にかかって下さい」

「しかし英泉さんの顔を潰すようなことは、私には出来ませんよ」

 広重は立上がって窓のそばに行った。日は暮れようとしていた。大川の水の上を靄(もや)のようなものが一面に覆い、微かな残照がその靄を染めていた。対岸の町は屋根だけしか見えない。舟が上ってきて、薄墨のような影を滲(にじ)ませて眼の下を通り過ぎた。通りすぎた後も、しばらくの間櫓の音が聞こえた。

 苦い喜びのようなものが心の中にある。危惧していた英泉の風景が、やはり失敗したらしいこと、そして木曾街道を、自分なら描けるだろうという自負が、暗い喜びを押し出してくる。

──英泉さんは女を歌う絵描きで、風景を歌う人間ではないのだ。

「先生、旅に出ませんか。先生なら、木曾街道から、東海道とはまた違った風景を掴んで来られると思いますよ」

 すでに仄暗い部屋の中から、保永堂が囁くように言っている。それは阿(おもね)るような声だった。東海道の話を持ち込んだとき、「あなたは風景描きだ」と迫った気迫はどこにもなかった。

 ただ旅に出ないかというひと言が、広重を動かしていた。そそり立つ岩石と樹立の間を縫う、ひと筋の街道が見えている。十三の時、父母を失った。そのことが埋めつくせない空虚な穴のように、心に棲(す)みついているのを知ったのは、東海道の旅をしているときだった。

 旅はその傷を癒すことはせず、かえって鋭い痛みを誘ったが、その痛みは真直ぐ絵に向かったのである。あんたは淋しい人だと英泉は言ったが、淋しい人間として、今度は木曾街道を歩いてもよいと思った。

──錦樹堂と共板ならばいいだろう。

と思った。

 薄闇の中にいる男とは、遠い昔に別れていたのだ、とも思った。(「旅の誘い」)

 

 ここには、作者藤沢周平のジャーナリズムに対するしたたかなスタンスと強靭な表現者的自意識が、鮮やかに脈打っている。

 保永堂への冷ややかな嫌悪と新たな注文が舞い込んだことへのひそかな安堵のおもい、己れの表現者としての不幸な資質への自意識と英泉への優越感が、日暮れ時の稠密な風景描写のひとこまの中にさりげなく象徴的に込められている。作者のアララギ派的な手法が存分に本領を発揮した名場面といっていい。

 ここで広重は、保永堂の根性を冷笑的に見切った上で、敢えて彼の注文を引き受け、その仕事の中にきっちりと己れの固有のピュアな衝迫を織り込めてみせるという不敵な自信を抱いている。英泉の失敗に対する「暗い喜び」は、その自信の裏返しにほかならない。

 こういうところには、社会人=世俗人としての己れを隙なく全うし、職業作家としても成功を収めた作者のしたたかな自信と、脱社会的な狂気に駆り立てられて、野放図に己れの野性を解放してみせた北斎や英泉のようなタイプの芸術家・表現者に対する、無意識のうぬぼれが透けて見える。

 

     13

 

 ところがどっこい、北斎の晩年の芸術作品は、そんな、藤沢周平の芸術と社会的ニーズを器用に折り合わせようとする職業作家的なうぬぼれなど吹き飛ばしてしまうほどの、脱近代的なスケールの大きさを備えているのだ。

 ここでは、北斎最晩年の肉筆画の絶品数点について触れておこう。

 ひとつは、弘化二年(一八四五)北斎八十六歳の時の作品、信州小布施(おぶせ)の祭り屋台の天井画として描かれた「怒濤(どとう)図」である。

 渦巻き状の、荒々しく幻想的な、それでいてどこかひょうきんな軽さを漂わせた波濤が描かれている。中心部には、青黒い闇の渦が幾重にもうねり、それを取り巻く外縁部の緑色の波の渦は炎のような生命力をたたえている。そして、外縁部の内側には、その陽性の荒々しさと均衡を保つかのように、澄んだ青の波濤がエネルギッシュに渦を巻いている。

 弘化二年に描かれた小布施の上町祭り屋台天井画には、もうひとつ、これと対をなす怒濤図がある。小布施の天井画については、この二作品の他に、前年の天保十五年(弘化元年)に描かれた東町祭り屋台天井画の「龍図」と「鳳凰図」、それに、弘化二年に描かれた岩松院の天井画の「鳳凰図」にも言及しないわけにはいかない。

 いずれも、北斎芸術の頂点に位置する傑作である。

 諏訪春雄が『北斎の謎を解く』で語っているように、これらの五つの天井画は、いずれも、古代中国の宇宙観の中心をなす「太極」の思想を象徴しているとみていい。

 太極は、森羅万象に内在する宇宙生命の根源であり、そこから万物の構成要素たる陰陽の二気を生み出す大いなる〈虚〉の源泉でもある。

 この太極の思想は、易(えき)から老荘の哲学、朱子学、さらには陽明学の「太虚」の思想へと継受されていき、わが国近世の思想界や道教的な習俗の影響を受けた民間土俗信仰の中にも深い痕跡を残している。

 「龍」や瑞鳥「鳳凰」の図は、この太極が、ひとつの壮大な身体イメージによって具象化されたものにほかならない。

 東町祭り屋台の「龍図」では、先に述べた上町の「怒濤図」や有名な富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」の図のように、いかにも北斎らしい、波先が無数の爪のように鋭く分かれた炎のような波濤によって囲まれた円形の闇の中で、巨大な龍が右巻きにうねっている。

 妖気溢れる猛々しい龍ではあるが、どこか人を食ったようなひょうきんな軽さもあり、不思議なぬくもりと超越的な風通しの良さを感じさせる。

 もっとも、〈龍〉については、これよりもはるかに力強い、なまなましいリアルな臨場感にあふれた肉筆画の絶品が、北斎の晩年には、幾つもある。

 岩松院の「鳳凰図」は、円形の極彩色溢れる優美で華麗な羽毛の重なりの中に、宇宙の〈存在の中心〉ともいえる巨大な一つ目が方々に点在し、羽毛の中心には、昂然と斜め正面を凝視する鳳凰の険しいまなざしが据えられている。

 紛れもなく、北斎の最高傑作のひとつといってよい。

 これらの小布施の諸作品は、この地の豪商で北斎の弟子・友人でもあった高井鴻山(こうざん)との縁(えにし)によって制作されたものであった。鴻山は、北斎も認める絵画の技量の持ち主であったばかりでなく、儒学・漢詩・書においても優れた才を示し、また幕末・維新期には志士としても活躍した。人間が薄っぺらでなく、高き志を秘めた、ハートのある器量の大きな人物だったようである。

 諏訪春雄の前掲書には、八十六歳の北斎が小布施に半年余り滞在し数々の作品を残して去った時に作ったという、鴻山の北斎評を示す漢詩の口語訳が紹介されている。

《来るときも招きによらず/去るときも別れを告げない。/行くも来るも自分の意思のままで/他人の拘束をうけることはない。/自在の変化を手中にし、心の欲するところに/生者死者が出現し、鳥獣もむらがる。/画道はすでにぬきんでて/富貴も座してまつことができるが/七度は上に浮かび、また、八度は下にしずむ。/なぜ窮乏の身となるのか。/あなたは見るであろう、冷たい冬をむかえる者は/またよく盛りの夏をむかえる者であることを。/冷冬も盛夏もみずからえらんで世間にかかわらない。/先生の心のおおらかさはまことに計り知れず、人の熱意によらずわれのためだけにわれのことをする。………》

 ここには、老荘思想の美事な実践者であり具現者であり得た北斎の、天馬空をゆく如き風貌が、鮮やかにうたわれている。

 鴻山が北斎の中に透視したこのような人間像は、私には、次のような『荘子』内篇の一節を彷彿とさせる。

「名(ほまれ)の尸(かたしろ)となること無かれ。謀(はか)りごとの府(くら)となること無かれ。事(しごと)の任(にな)いてとなること無かれ。知の主(あるじ)となること無かれ。窮まり無きものと体(ひと)つになり尽くして、かたち無きせかいに遊び、其(そ)の天より受けし所(もの)を尽(まっと)うして、得(くわ)うることを見(おも)う無し。亦虚(きょ)ならんのみ。至人(しじん)の心を用うるは、鏡の若(ごと)し。将(おく)らず迎えず、応(こた)えて蔵(こだ)わらず。故(ゆえ)に能(よ)く物に勝(た)えて傷つけられず」(「応帝王篇」福永光司訳。ただし、一部漢字をかなに改めた。)

 もちろん、現実の北斎が、この『荘子』の理想とする絶対者=真人の境位にどのくらい近づくことができていたかは、定かではない。

 だが、北斎が、当時の平均寿命をはるかに越えた八十六歳の高齢にあってもなお、絵画という己れの表現手段を通して真人の境位に歩み寄るために不断の精進を重ねるような、凄まじい求道的精神の持ち主であったことを、小布施に残る五つの天井画の絶品と鴻山の詩は物語っているようにおもわれる。

 しかし、これらの小布施の作品以上に私を魅了してやまないのは、嘉永二年(一八四九)北斎九十歳の年の作品「雪中虎図」である。

 雪の降りしきる中を、竹林の方に向かって、ひょうひょうとした表情でゆるやかに虚空を昇ってゆく虎の姿が描かれている。

 まろやかな雲のようなふわふわとした体勢であるが、爪は異様に鋭く、前足で山腹をのそりのそりとよじ登っていくような格好をしており、後ろ足の爪も、鋭く宙を蹴り上げている。

 しかし、なんともゆったりとして楽しげで、尻尾も、ひょうきんに蛇のようにうねっている。

 恐るべき画境というほかはない。

 この年の四月十八日、北斎は、辞世を残し、ひっそりと死去している。

 みじめな空洞を抱え、ライバルの仕事ぶりに戦々兢々とする、「溟い海」の深刻ぶった老絵師の敗残の姿とは似ても似つかず、実在の北斎は、九十歳の死に至るまで、己れのみずみずしい芸術的衝迫を失うことはなかったのである。

 世間や同業者たちのちっぽけな〈評価〉の目線など、歯牙にもかけようか。

 

     14

 

 本当は、北斎の場所は、必ずしも広重の場所と矛盾しているわけではない。

 だが広重の場所は、俳諧でいえば蕪村的なまなざしであり、天地が融合し、森羅万象がダイナミックな生命的流動と化して〈孤〉に宿る芭蕉的なまなざしとは違う。

 広重の場所は、前近代的な土俗共同体の闇の深みを背景に据えながらも、地上的な業苦をその内に包摂し、点在させることで、地上的散文的なリアリズムと天上的神秘的な自然へのまなざしへと二元的に分極する近代的な世界視線の萌芽を指し示している。

 対照的に、北斎の場所は、〈個〉の生命的謳歌を存分に自己主張せんとする姿勢において、紛れもなく近代的な自我意志の先駆となっているが、他方では、大自然と連動する、燃えるようなみずみずしい生命の奔流によって、前近代的アニミズム的な闇のエネルギーを伝えるものとなっている。

 北斎の芸術においては、自我意識とアニミズム的感覚は、分裂し背反し合うのではなく、互いにダイナミックな〈均衡〉を保ちつつ励起し合っている。

 ここで表現された〈個〉は、資本制近代が絶えず疎外し圧殺してきたものであり、資本制近代のもたらした痩せ細った観念的な自我意識としてのアトム的な個とは全く異質な、〈脱近代〉への志向につながる本質をもっている。

 そして、脱近代的なライフスタイルとは、脱社会的なまなざしを生の根底に据えることによって、はじめて可能となるものなのだ。

 藤沢周平の資質と重なる広重的な場所が私たちにとって現在的な意味をもち得るとすれば、それは、風景を包摂しその背景として息づいている脱社会的な原初の〈闇〉の気配をなまなましく触知させてくれるからにほかならない。

 それは同時に、北斎の生命的なダイナミズムのコスモスにも、また、「暗殺の年輪」や「ただ一撃」の獰猛な野性の衝迫にも通じるものである。

 かつて、一九八〇年代から九〇年代においては、初期藤沢作品に象徴的に込められていた脱社会的な過激さは、とうてい世間に受け入れられぬ、極度のマイナー性を強いられざるを得ない条件の下に置かれていた。

 しかし、二十一世紀に入った現在では、繰り返し述べてきたように情況は大きく変わりつつある。

 現在の大衆は、もはや、高度消費資本主義という安定した強固なライフスタイルの枠組に守られてはいない。

 既成の社会・組織・世間という実体に己れのアイデンティティーを委ね切ることによって生を意味づけることの困難な、〈個〉としての実存的な不安と不透明さを強いられざるを得なくなってきている。社会とか世間といった受け皿の中で相対的な〈評価〉の尺度をもとに生を意味づけるのではなく、より根源的な、脱社会的な固有の生の根拠にまで降りてゆかねばならなくなっているのだ。

 もちろん人間は弱い生き物であり、社会や制度や国家なしに調和ある世界を作ることはできない。

 しかし、同時に、近代人の自我なるものが、脱社会的な固有の生の源泉なしにはもはや生きられぬところにまで追いつめられていることも確かなのである。

 私たちの近代文明とは逆に、前近代の社会は、このような脱社会的な〈孤〉の位相と〈社会性〉を両義的に共存させ、均衡させるシステムを備えていた。

 例えば、渡辺京二は、文化人類学者阿部年晴の研究成果を踏まえながら、そのような両義性の最も成熟した形態を、アフリカ文明の独自の歴史的蓄積の内に認めている。

 

 阿部年晴の『アフリカ人の生活と伝統』が私をめまいするような興奮にひきこむのは、それが文明的制度のもっとも始原的なかたちを明らかにしてくれるからだけではない。アフリカ古文明という基底から照らすと、われわれが生きる現代文明が生の原理からいかに特殊化し逸脱して来たか、愕然とするような覚醒を与えてくれるからだ。

 アフリカ諸民族の自我観について、阿部はカセナ族の例をひいて次のように説いている。カセナ族では、人間はジョロとウエの二つの霊魂を持つとされる。ジョロは個人に分与された祖先の魂で、個人の社会的人格として作用する。個人が社会生活に定位しうるのは、ジョロの働きなのである。

 これに対してウエは神から与えられたもので、個人の運命が実現するように働く力である。ウエが実現しようとする運命は、社会のコントロールを超えている。社会を拒否することはウエの本性である。「カセナ族によれば、個人は二つの対極から成る楕円のようなものである。一方の極は社会的なもので祖先と結びつき、他方の極は社会外的なものとして把握された個性的なもので荒野と神に結びつけられている」。

 人間の魂の本性に関するこのような二面的了解は、なにもアフリカ特有のものではあるまい。とくにそのジョロ的側面は、先祖というものに自我の碇を繋ぎとめて来た戦前日本人にとって、きわめてわかりやすくさえあるだろう。個人を動かす離群、あるいは反社会の衝動についても、むかしの日本の村人は個々の「性分」としてある種の運命ふうな了解をとげていたはずである。

 共同体に生きる人間を集団的人格としてのみ単純化するのは、文字からものを考えようとするものの悪弊である。ムラ的な拘束は離群の強い衝動とつねに表裏していた。群から離れて個でありたいというのは知識人だけの心性ではない。文字と縁なき労働する人にこそ、むしろその衝動の原型が保持されている。小川国夫の『試みの岸』はそのことを語った感動的な小説であった。

 しかし、日本も含めて高文明の社会は、このような自我の双極性を、社会に生きて作用する人格観として完成したことが歴史的になかったばかりでなく、今日では、この双極から生じる人格的不安定の統合を、まったく個我の甲斐性にゆだねてしまっている。アフリカの文明において、祖先を通じて人を社会に繋ぐと同時に、神意という了解によって人を社会から解き放つ、きわめて深い双極的自我観の古典的完成がみられたのは、おそらく阿部のいうように、その歴史的「停滞」にかかわるにちがいない。立ちつくすことによる熟成がここにある。日本も含めて高文明は、変化への刺戟をたえず内部から生成することによって、このような熟成の機会を失って来た文明かも知れないのだ。

 (「アフリカという基底」一九八三年毎日新聞西部版・『渡辺京二評論集成掘拿蠎)

 

 アフリカ古文明にみられるような古典的な完成度はないにせよ、前近代の文明は、何千年もの間、共同体の中に個を包摂しつつ、同時に、〈社会性〉と〈孤〉の間に微妙なバランスをとるような英知を保持し続けてきた。

 しかし近代は、一見、個を共同体から解き放ち、自由にしたかのようにみえながら、実は、原初的な、神秘な〈闇〉の位相を削り落とすことで、個の存立根拠を〈社会性〉の中に一元的に解消せんとしてきたのである。

 

「近代人は前近代の様々な社会形態のうちに、集団の専横と個人の抑圧をかぎとって来た。だが人間が個として生きる次元をまったく欠いて、集団に吸収され尽したり、集団的規制に画一化されてしまうような事態が、何千年も続きうるものなのか。むしろ個の全体主義的撃滅は、この二十世紀に生じた出来事なのだ」(渡辺京二「いま何が問われているのか」前掲書所収)

 

 前近代の文明が、地域・風土により、また時代により、貧困や専制をはじめとするさまざまな悲惨な暗部を抱え込み、それに対して近代文明が優位性を誇り、高度な物質的繁栄を達成してきたとしても、個的な生命の源泉を枯渇させずにはおかないという近代文明の無機的な浸食作用の異様さは、否定することができない。

 ファシズムやスターリニズムは、そのような資本制近代の無機的な浸食作用に対する、ヒステリックで退行的な代償の病理が産み出した狂気にほかならなかった。

 そして、その狂気は、資本制近代よりもさらに酸鼻な「個の全体主義的撃滅」をもたらしたのである。

 現代社会を構成しているアトム的な個は、実は、真の〈個〉ではないのだ。

 私たちの社会は、真の〈個〉を創出するために、脱社会的な〈闇〉の位相を必要としている。

 そのような脱社会的な生の基底があってはじめて、人は、孤立感の恐怖に由来する他者への〈強制〉という病や、社会・組織への〈過剰適応〉という病から解き放たれるからである。

 人々が真の〈個〉に向かって歩み寄る時、はじめて、〈社会〉もまた、それと均衡をとるかたちで、現在の産業社会的な狂気から新たな段階へと脱皮してゆくに違いない。

 初期藤沢作品に息づく闇への渇きは、このような脱近代へと向かう二十一世紀の課題とクロスしているのである。(了)

 

 

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