書評:スピノザ『エチカ』(連載第5回) 川喜田八潮

  • 2016.11.20 Sunday
  • 18:14

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第5回)

 

     8

 

 スピノザは、主著『エチカ』の執筆を一時中断してまで、『神学・政治論』の執筆に心血を注いだ。ドゥルーズは、この書について、次のように述べている。

 

「『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう。なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう。なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう―――ということだった。」(『スピノザ』第一章・鈴木雅大訳)

 

 スピノザは、〈制度〉の担い手としての国家を〈必要悪〉として認めながらも、それが人々の魂を圧殺する装置とならぬために、何が必要かを考え続けた。

 そのために、彼は、自ら「隷属」を求めて「圧制者」を必要とする、大衆の心の暗部=病理にメスを入れたのだった。

 ドゥルーズが的確に指摘している通り、スピノザは、その病理の根源に、「悲しみの受動的感情」と「生に対する怨恨の念(ルサンチマン)」を透視していた。

 生に翻弄されているという無力感・不条理感の累積こそが、ルサンチマンの温床となるのだ。

 そしてまた、人々に愛の教義を説きながら、悲しみ・後悔・憎悪・非寛容を煽り立てている宗教の現状を見据えていた。

 愛することができないものを無理に愛せと強要されることは、憎しみしか生まない。

 悲しみ・後悔そして愛を装った憎悪に染め上げられることで、人は生気を奪われ、観念的な道徳を強要される。

 いきおい、累積した憎しみは、はけ口として攻撃の対象を求める。同胞の内に、あるいは他国人や他民族の内に。

 『神学・政治論』は、神への冒瀆(ぼうとく)の書として、プロテスタント・カトリック・ユダヤ教徒のみならず、デカルト主義者からも、激しい呪詛・攻撃の対象とされ、発禁の憂き目に遭った。

 そして晩年のスピノザは、自由主義・共和性・民主制の敗北の渦中にある祖国オランダに身を置きながら、『エチカ』の刊行すらままならない誹謗・中傷による抑圧の中で、『国家論』を書き進め、未完のまま、病に倒れたのである。

 国家・制度・統治のあり方への痛切な関心は、人性の険しさ・暗部に対する凝視と不可分の形で、スピノザを終生、とらえて離さなかった。

 しかしだからといって、国家論というテーマが、彼にとって第一義的な重要性をもつものであったというわけでは、決してない。為政者の立場に自らを擬して、「天下国家に物申す」といったような思想的立ち位置を、この孤独な哲人は、決してとっていない。

 スピノザにとって〈国家〉とは、彼の追求する価値・理想の観点から視る時、あくまでも第二義的な意味しか持ってはいないのだ。

 すでに『スピノザ』の書評の中でも引用したが、ドゥルーズは、こう言っている。

 

「この哲学者が、民主主義の国家や自由主義的な環境のうちに最も好ましい生存条件を見いだしていたことはまちがいない。だがどんな場合にも、彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。彼は思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。」(『スピノザ』第一章)

 

 スピノザの次の言葉は、この純潔な孤高の哲人にとって、国家などという存在が、己れの生の価値にとって、いかに第二義的なものにすぎなかったか、を示して余りあるといっていい。

 

「(「第四部」定理七三)理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。

 証明 理性に導かれる人間は恐怖によって服従に導かれることがない(……)。むしろ彼は、理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて、言いかえれば(……)自由に生活しようと努める限りにおいて、共同の生活および共同の利益を考慮し(……)、したがってまた(……)国家の共同の決定に従って生活することを欲するのである。ゆえに理性に導かれる人間は、より自由に生活するために、国家の共通の法律を守ることを欲する。Q・E・D・」

(定理七三の「備考」より)

このことおよび我々が人間の真の自由について示したこれと類似のことどもは精神の強さに、言いかえれば(……)勇気寛仁とに帰せられる。しかし私は精神の強さのすべての特質をここで一々証明することを必要とは思わない。ましてや毅然(きぜん)とした精神の人間が何びとをも憎まず、何びとをも怒らず、ねたまず、憤慨せず、何びとをも軽蔑せずまた決して高慢でないことを証明するのはなおさら必要であるまい。

「……毅然とした精神の人間は、一切が神の本性の必然性から生ずることを特に念頭に置き、したがってすべて不快に、邪悪に思われるもの、さらにすべて不敬に、嫌悪的に、不正に、非礼に見えるものは、事物をまったく顚倒(てんとう)し、毀損(きそん)し、混乱して考えることから起こることを知っている。そこで彼は事物をそのあるがままに把握しようとし、また真の認識の障害になるもの―――例えば憎しみ、怒り、ねたみ、嘲笑、高慢その他我々が前に注意したこの種のことども―――を除去することに最も努める。それゆえまた彼は、すでに述べたように、できるだけ、「正しく行ないて自ら楽しむ」ことに努めるのである。」

 

 スピノザが理想とする「理性に導かれる人間」「毅然とした精神の人間」が、〈政治〉や〈国家〉といった制度的な次元をはるかに超越した魂の持ち主として想い描かれていることがわかるであろう。

 

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 しかし、人は思うかもしれない。スピノザの言う「毅然とした精神の人間」など、この世にどれほどいるであろうか?と。何びとをも「憎まず」、「ねたまず」、「軽蔑せず」、「高慢でない」人間など、本当にこの世にいるであろうか?

 もちろん、「毅然とした精神の人間」といえども、常時そのことを実現できているとはスピノザも考えていない。ただそのような人間は、事物を「あるがままに」把握せんとし、また「真の認識」にとって「障害」となる、「憎しみ」「怒り」「ねたみ」「嘲笑」「高慢」その他の負の感情を「除去」することに「最も努める」のだ、というのである。

 なぜなら、「真の認識」の力のみが、〈身体〉を無意識裡に呪縛・拘束している種々の既成観念の正体をあばき出し、そのとらわれを脱した〈未知〉の身体性の領域に向けて、己れ自身を賭け、開いてゆくことを可能ならしめるからである。スピノザは、デカルトのように、理知の力によって、強引に感情を抑えつけようとしたのではなく、透徹した認識の力によって、負の感情の恐るべき力の本質を洞察することで、最もナチュラルな形でそのとらわれを脱し、身体感覚を、己れの「本性」に根ざした欲望に則して、適切に制御し、整えようとしたのである。裏を返せば、彼は、それら負の感情に人一倍苦しめられ、その力に翻弄されることの苦々しさ、痛み、悲しみをしたたかに味わわされた人物だった、ということだ。

 私には、スピノザは、憎悪や怒りや悲しみの呪縛を、易々と断ち切り、超克できるような、「寛仁大度」の人だったとは、どうしても思えない。

 スピノザは、天性の「スピノジスト」であったわけではない。

 生活と認識の両面にわたる、長年月の恐るべき「自己鍛練」によって、スピノジストとなったのだ。

『エチカ』第三部及び第四部における、「感情」の本質、その及ぼす力への執拗なまでの考察の徹底ぶり、繰り返しが、その苦闘の跡を物語っている。

 その自己鍛練を通して、彼は、諸々の負の感情の呪縛、愛憎の執着から解き放たれ、いわば「リビドー」を感情の対象から大巾に引き離し、感情をクールな認知の対象へと変貌させることで、理知によって「統御可能」なものとしたのである。

「引き離されたリビドー」は、新たに、己れの「本性」に根ざした「欲望」に基づいて設定された「能動的」な活動目標・課題に向けて充当される。また、「攻撃衝動」その他の負の感情は、演劇・文学作品・音楽・絵画などの種々の芸術やスポーツのような、他人を害することなしに個人がなしうる〈表現〉手段を通して、あるいは、その「鑑賞」を通じて、代償的に「昇華」することが可能である。これも、「リビドー」の重要な転化の手段であり、前にも引用したように、『エチカ』「第四部」定理四五の「備考」において、スピノザは、この種の「代償」行為を、「自らを爽快にし元気づける」日常的な生活行為の一環として組み込み、「賢者にふさわしい」営みであると称揚している。

 しかし、スピノザには、どうしても処理し切れぬ、暗い鬱屈があったのかもしれない。

 クモ同士をたたかわせたり、ハエをつかまえてきてクモの巣に放ち、大喜びでその勝負を眺めたという、伝記作者の伝える有名なエピソードには、この哲人の深奥に秘められていた寂蓼の深さ、本能に支配される生命の盲目的な衝動ともがきの生態への暗い諦念と冷笑の匂いが透かし視えるような気がする。

 庇護者であった共和派のデ・ウィット兄弟の虐殺という衝撃事件に加え、誹謗・中傷の渦と著書の発禁という抑圧の中で、スピノザが抱え込んでいたストレスは、想像に余りある。この醒め切った眼をもつ哲人とて、さすがに、己れのやり場の無い怒り・鬱屈を持て余すこともあったにちがいない。

 クモの挿話には、そういう己れのストレスを、誰に打ち開けることもなく、じっと内にたくわえながら、隠微な手段で寂しく代償していた不幸な姿が垣間見える。(ちなみに、ドゥルーズは、このクモの挿話を、スピノザの世界観の顕われとして解釈してみせている。[『スピノザ』第一章の「原注9」を参照。]すなわち、「死の外在性(偶発事の必然性)」という観点と、本能に則した生命に固有の「環世界」同士の「構成関係」という、「エトロジー(動物行動学)」的なまなざしが表現されていると視るのである。しかし、私は、むしろ、そういった世界観を〈憑き代〉(つきしろ)として正直に吐き出された、スピノザの人間臭い、暗い鬱屈のかたちに心をそそられる。ドゥルーズのように、この挿話を、必ずしも生命の本能的な姿への「肯定的」なまなざしの顕われと視るのではなく、むしろ逆に、本能・感情の圧倒的な力の前に「隷属」し、その力を、生気溢れる「能動的」な欲望と活動能力に向けて、生産的に活かすのではなく、「負の感情」によって歪んだ形で表出し、自他を損ねるほかはない、愚かしい「人間」という種族の盲目的な生態への、スピノザの秘められた〈毒念〉の〈喩〉と解したい。)

 しかし、スピノザは、誹謗・中傷の渦中にあっても、決して挑発に乗ることはなく、負の感情に心をかき乱されることもなく、慎重に身の危険を避けながら、病の悪化に苦しみつつも、黙々と粘りづよく、己れの取り組むべき課題に精神を集中させていった。

 そこには、心気の濁りは無く、不思議な静けさが漂っていた。

 スピノザは、「感情に対する精神の能力」と「精神の自由」について論じた『エチカ』最終部(第五部)の「末尾」に当たる定理四二の「備考」において、「自己・神および物」を「ある永遠の必然性」によって意識することで、死の恐怖を超え、負の感情によってほとんど心を乱されることなく、常に「精神の真の満足」を享有している「賢者」の像について語り、その賢者の境地への道は「峻険」なものではあるが、なお「発見」可能なものであると断っている。

 そして、『エチカ』を、次のような言葉でしめくくっているのである。

 

 「……実際、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら、もし幸福がすぐ手近にあって大した労苦なしに見つかるとしたら、それがほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。/たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。」

 

 理知の力を研ぎ澄まし、精神及び感情の力の本質を明晰に押さえ切ることで、憎しみや怒り、悲しみの受動的感情から自らを解き放ち、精神とそれに対応する身体の可能性の振り幅を拡げるという、スピノザの自己鍛練の道は、たしかに峻厳なものであり、彼の希求する「理性に導かれる人間」「毅然とした精神の人間」というものが、どこまで行っても、「マイナーな存在」でしかないことを、誰よりも彼自身がわきまえていた。

 しかし、彼のいう「賢者」への道は、たとえどれほどマイナーなものであろうと、しかるべき〈修練〉の契機に恵まれるなら、誰にでも、澄み切った〈認識〉のステップを忍耐づよく積み重ねてゆくことで、「近づいてゆく」ことのできる道でもある、という点で、ある種の潜在的な〈出逢い〉の可能性をはらむものとして、すなわちある種の〈普遍性〉に向けて開かれたものとして提示された道でもあった。

 そう考えると、スピノザの想い描いた「理性に導かれた人間」による共同社会のイメージというのも、ただの「願望充足」としての空虚なユートピアではない、ということがわかる。

 それは、たしかにユートピアには違いないが、同時に、スピノザの課題に〈縁〉のある魂をもった人々、すなわち、現世の不条理とたたかい、雄々しく生き抜かんとする無名の生活者の人々の生を力強く鼓舞するだけの、たしかなリアリティーを備えた、生ける〈幻〉でもあったからである。

 

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 人間が己れの「本性」を「明瞭判然」と覚知し、そのことで、「本性」によって内発的に生ずる純粋な「欲望」を探り当て、それを「能動的」な活動能力へと高めることができる時、そしてまた、そのような人間たちによる出逢いと絆の〈縁〉(えにし)が生まれる時、スピノザは、そこに、あるべき理想の〈自然分業〉の姿を視てとっていた。

 そこでは、各人の「欲望」は対立し合うことなく、互いの能力を補い合い、各々の生の充溢・喜びは、そのまま互いの喜びをもたらすものとなる。各々の生の固有性が活かされ、互いの魂を「強制」するようなことは、一切無い。

 このような〈自然分業〉の世界は、産業革命以後の近代資本主義の世界、「経済至上主義」と「疎外された労働」によって支配された世界とは、まことに対照的である。

 スピノザは、人間が幸福のために、〈自然〉を自由に利用することを認めている。

 しかしそれは、近代人が己れの物質的欲望=貪欲さのために自然を無制限に収奪・改造・破壊することとは全く違う。

 彼は、「第四部」定理六六の「証明」の中で、「もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう」と語り、「未来の悪」の原因となる「現在の善」を「断念」すべきことを説いている。

 彼がもし私たちの〈現代〉に生きていたなら、生態系の破壊を決して認めなかったはずだし、「脱原発」論者になっていたことは間違いない。

 スピノザが理想とする〈自然分業〉の風景は、近代資本主義文明のごとき、〈生のうつろさ〉を抱え込み、それを代償せんとする〈貪欲さ〉の病にとり憑かれた世界とは、ほど遠い。

 人間が、他の何者とも比較され得ない、己れ自身の固有性に根ざした、満ち足りた生活感情の中で、ゆったりと静かに、しかし生き生きと働き、創造する姿が、そこにはある。

 まことにしみじみとした、懐しい風景である。

 痙攣的な、せわしない、不自然な刺激とハイ・テンションの世界ではない。

 私にとって、スピノザの『エチカ』の風景とは、ドゥルーズの幻視したようなポストモダン風のダイナミックで非日常的・祝祭的な、炎のような雄叫びのイメージではない。

 〈火〉の哲学のイメージではないのだ。

 ドゥルーズは、『エチカ』の内に〈風〉を視た。その〈風〉は、「公理→定理→系」の論理的証明の連鎖が生み出す「概念」による静かなる風と、それとは対照的な、「備考群」が醸し出す「火山」のごとき、烈しい「情動」的な風の二種類から成っている。

 そして、ドゥルーズに言わせれば、『エチカ』「第五部」において、「概念」と「情動」は「完全に一致」し、「概念と生のあいだに、もはや差違は全くなくなってしまう」のである。ここでは、二つの異質な〈風〉はひとつに統合され、「器官なき身体」のごとき非人間的・汎神論的な宇宙感覚へと解き放たれてゆくのである。

 私もまた、『エチカ』「第五部」に〈風〉を感じる。だが、その〈風〉は、優しく涼やかな風である。そしてまた、哀しいまでに澄み切った、果てしなく高い秋の蒼空のもと、清冽な〈水〉の流れにみずみずしい陽光がきらめく中を、爽やかに吹き抜ける風である。

 音楽にたとえるなら、十八世紀前半のイタリアのバロック作曲家アルビノーニの「オーボエ協奏曲」のような、地中海的な陽光が紡ぎ出す繊細な陰翳とみずみずしさ・温かさに通じるものがある。

 鳴り物入りの派手な交響楽の世界ではなく、つつましい室内楽の小宇宙なのである。

 モーツァルトのような、一瞬も存在の〈型〉に停滞することの無い、「脱構築的」(ポストモダン的)な、流れるような透明感ではなく、あくまでも、理知的で幾何学的な神的秩序に支えられた古典的(バロック的)な〈美意識〉を通して「存在に安らう」ことのできた者の、独特の涼やかな透明感なのである。もちろん、ベートーヴェンやショパンをはじめとするロマン派音楽の、感情の起伏の烈しい、情熱的でダイナミックな物語的空間(ニーチェ好みの空間)とは、対照的である。

 といっても、無縁なのではない。ロマン派の天才たちにも通じる、現世の卑俗さへの烈しい〈超越〉の意志、その情熱の深さ、魂の熱さを内包しつつ、自らを統御し、解脱できた者の、澄んだ哀しさを秘めた明るさの場所だといっていい。

 文学でたとえるなら、私は、十八世紀末から十九世紀初めにかけて生きたイギリスの作家ジェイン・オースティンの最晩年の傑作『説得』の空気感を想起する。その哀しくも澄み切った、深々とした、穏やかで温かい気配は、『エチカ』「第五部」の〈風〉に通じている。

 だが、こういった爽やかさ・優しさの背後には、『エチカ』「第四部」にみられたような、人性の険しさ・弱さ・愚かしさへの冷徹な凝視が横たわっている。

 それは、やはり音楽にたとえるなら、イエス・キリストの受難の本質を見据えながら、その一方で、無名の生活者の忍耐づよい一生、沈黙の内に秘められた無量の哀歓、生涯の物語性、生の厚みに深く想いを馳せたバッハの、理知的な、端正にして壮大・静謐(せいひつ)なバロック空間を想わせる。

 この「第五部」と「第四部」のコントラスト、光と闇の振幅の大きさこそ、私にとっての『エチカ』の魅力の真髄である。「第四部」の重厚な〈闇〉の深さがあってこそ、「第五部」のみずみずしい〈光〉、いささかも「感情」へのとらわれの無い、爽やかで優しい、涼やかな〈風〉が可能となったのである。

 私はここに、スピノザという哲学者の比類ない〈強靭さ〉を視てとる。

 ある意味では、スピノザは、たしかにドゥルーズの言うように、〈火〉の烈しさを内包した哲人であった。だが、その〈火〉はなんとつつましい、内に秘められた、抑制の力に支えられたものであったことか。

 己れの伝えんとする思想・熱い想いを、何のてらいもなく、卒直に語りながらも、この哲人の言葉はなんとクールで、静謐な気配に包まれていることか。

 その静けさが、そのまま、スピノザの鍛え抜かれた〈強靭さ〉を物語っているのである。(この稿続く)

 

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