宮沢賢治童話考(連載第11回) 川喜田八潮

  • 2016.12.20 Tuesday
  • 15:54

 

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「韻文形」に結実する「初期草稿」の表出の中心は、明らかに、資本主義を超える〈自然分業〉の理想社会への憧憬を描くことにあったとみてよい。

 これに対して、「最終発表形」に結実する「後期散文形」では、自然分業の理想が失われたわけではないが、詩的リズムや擬人化が廃され、童話的誇張が大幅に縮小されて、リアルで緻密な描写力が強められることで、ヴァーチャルな童話的牧歌性の匂いはほとんど消失し、表出の中心は、生活者の疲労感や傷の身体的な〈癒し〉のイメージに置かれるようになるのである。

 一体なにゆえに、このような、ヴァーチャルな詩的・童話的構成から〈生身〉の修復のイメージへの転換が行われたのであろうか。

 その理由は、昭和初年におけるウルトラ・ナショナリズムの台頭というファクターを考慮に入れなければ、とうてい説明がつかないようにおもわれる。

 大正後期から昭和初年にかけてのウルトラ・ナショナリズムの台頭の背景について、ここで、詳しく言及する余裕はない。

 この問題についての私の考察は、拙著『脱近代への架橋』(葦書房・二〇〇二年刊行)に収められているので、関心のある方は適宜参照していただければ幸いである。

 ひと言でいえば、昭和初期のウルトラ・ナショナリズムの狂熱とは、資本制近代のアトム化の病に対する、大衆の極度の生理的アレルギーの産物であり、喪われた前近代的・土俗的な共同性への幻想的な回帰志向という表現形態をとった、一種の幼児的退行の病理だということである。

 それは、大正後期から昭和初年にかけて活動した右翼運動者たちの著書やパンフレットにあふれ出ている、熱病にうなされたような独特の神がかり的な文体、すなわち、神秘主義的な難解な漢語を濫用した、反現世的な妖気の漂うペダンティックな漢文調のリズムによって典型的に象徴されるような、一種の終末意識と表裏一体化した、彼岸への〈超越〉の渇望にほかならない。

 宮沢賢治は、このようなヴァーチャルな退行的病理に急速に蝕まれていった大正末から昭和初年の日本社会の様相に対して、醒めた批判的なまなざしをもち得ていた文学者だった。

『脱近代への架橋』の「あとがき」で私が述べたように、賢治は、「土神ときつね」という戦慄すべき寓話作品において、大正末から昭和初年の日本人が蝕まれていた病理の本質を、鮮やかに形象化してみせている。

 近代の象徴ともいえる、富と知識で武装した「狐」の姿態に、嫉妬と不信と憎悪の炎(ほむら)を燃やす不幸な「土神」の魂のかたちこそ、資本制に痛めつけられ、痩せ衰えた、大衆の前近代的土俗のやり場のない鬱屈と暴発の本質を的確に表現したものだといってよい。

 宮沢賢治は、しかし、「土神」と「狐」のどちらにも加担してはいない。

「土神」と「狐」の不幸のありかを内在的な共感をもって生き生きと描き分けながら、両者が、しょせんは同じ穴のムジナにすぎないことをきちんと洞察してみせているのである。

 カネと物と知識によって武装した〈近代〉も、それに対する〈前近代〉への退行的反動も、同じ鏡の表と裏にすぎない。

 いずれも、地上的な不条理に痛めつけられ、虚無に身体を蝕まれた、虚ろな魂の時代の産物にすぎないのだ。

 宮沢賢治は、近代主義者でもなく、前近代への退行的な土俗共同体主義者でもなかった。

 彼は、近代の病の本質を、人々のコスモスの消滅に求めた。

 宮沢賢治を学ぶ者は、だから、彼の構築したコスモスの論理的な構造やその理念と結びついた倫理的実践の姿勢を探求せんと試みる。

 だが、すでに断ったように、私のこだわりはそこにはない。

 私がこだわってきたのは、あくまで、賢治のコスモスへの志向の根底に渦巻いている〈生身〉の身体性への渇きのかたちであり、その渇きと鋭い緊張関係をなす〈存在への異和〉の感触である。

 私の関心は、彼の法華経信仰や科学と結びついた〈理念〉としてのコスモスにあるのではなく、その理念を可能ならしめるベースとなった、〈生身〉の身体性の表現としてのコスモスのかたちにある。さまざまな「学」の知識を披瀝しながら、賢治文学の「記号化」を図り、悦に入っている、世の道楽者の「賢治論者」の仕事などに、私は、一向に心をそそられはしない。

 私たちが本稿でもその一端を見てきたように、賢治童話が切開してみせた身体性の世界は、近代のリアリズムの目線によって囲い込まれた、狭窄した地上的・散文的な身体性を包摂しつつも、それをはるかに超えるゆたかさをもっている。

 近代の病を超える道筋をコスモスの蘇生に求めた宮沢賢治は、実はそのことで、なによりも、近代人の〈生身の喪失〉という病理に真っ向から対峙してみせたのだった。

 ウルトラ・ナショナリズムの狂熱という表現形態をとったヴァーチャルな幼児退行的病理に、全国民が一気に呑み込まれていく、昭和恐慌・満州事変以後の日本社会では、〈生身の喪失〉の病は、ひとつの極限的な様相にまで登りつめつつあった。

 昭和六年の満州事変勃発の直前に発表された「北守将軍と三人兄弟の医者」(最終発表形)における、生活者的な〈生身〉の修復のイメージへの賢治の深いこだわりは、おそらく、このようなヴァーチャルな病の昂進への対峙の一つにほかならなかった。

「後期散文形」には、「韻文形」にはない北守将軍の隠退と死のエピソードが付け加えられているが、それも、このような作者の対峙の姿勢の産物だとみなすことができる。

 王に対面して帰還のあいさつをした将軍は、王からねぎらいの言葉を受けた後、なおも忠勤を励むようにとの頼みを断り、隠退を申し出る。

「最終発表形」では、そのあとの終末部の描写は次のようになっている。

 

「それでは誰かおまへの代り、大将五人の名を挙げよ。」

 そこでバーユー将軍は、大将四人の名をあげた。そして残りの一人の代り、リン兄弟の三人を国のお医者におねがひした。王は早速許されたので、その場でバーユー将軍は、鎧(よろひ)もぬげば兜(かぶと)もぬいで、かさかさ薄い麻を着た。そしてじぶんの生れた村のス山(ざん)の麓(ふもと)へ帰つて行つて、粟(あは)をすこうし播(ま)いたりした。それから粟の間引きもやつた。けれどもそのうち将軍は、だんだんものを食はなくなつてせつかくじぶんで播いたりした、粟も一口たべただけ、水をがぶがぶ呑んでゐた。ところが秋の終りになると、水もさつぱり呑まなくなつて、ときどき空を見上げては何かしやつくりするやうなきたいな形をたびたびした。

 そのうちいつか将軍は、どこにも形が見えなくなつた。そこでみんなは将軍さまは、もう仙人になつたと云つて、ス山の山のいたゞきへ小さなお堂をこしらへて、あの白馬(しろうま)は神馬(しんめ)に祭り、あかしや粟をさゝげたり、麻ののぼりをたてたりした。

 けれどもこのとき国手になつた例のリンパー先生は、会ふ人ごとに斯(か)ういつた。

「どうして、バーユー将軍が、雲だけ食つた筈(はず)はない。おれはバーユー将軍の、からだをよくみて知つてゐる。肺と胃の腑(ふ)は同じでない。きつとどこかの林の中に、お骨(こつ)があるにちがひない。」なるほどさうかもしれないと思つた人もたくさんあつた。

 

 ここで作者は、明らかに、将軍の神格化を否定し、その〈生身性〉を強調してみせている。

 しかしそれは、将軍の人生を卑小化せんとするものではない。

 宮沢賢治は、国を守るために命を捧げ、律義に職責を全うしようとする軍人や無名の兵士たちの姿に、まじめな畏敬の念を抱いていた。

 ただ、彼は、そういう将兵たちの生を、社会のさまざまな分野で地道に生きる、あらゆる無名の生活者たちの生きざまと等価なものとみなしていたのである。

 その意味で、彼は、明治人的な感覚を受け継いだ、健全で正統的なナショナリストの一人であるといってよかった。

 そういう賢治の眼からみれば、昭和初年に浮上したウルトラ・ナショナルな、ヴァーチャルな国家イメージは、いかにもグロテスクな狂気の産物に映ったはずである。

 昭和初期における軍人の神格化は、明治期におけるそれとは、まるで意味が違っていた。

 この時期のヒロイズムや天皇・国体への崇拝には、国家理性というものをはるかに超越した、天上的・彼岸的な価値への滅私的な狂熱が息づいていた。

 宮沢賢治が物語の末尾で、わざわざソンバーユー将軍の神格化を拒否し、その生身性を強調してみせるような挿話を付け加えたのも、このような病める国家像に対峙し、生活者の分業と血の通った生身の接触のイメージを強調することで、人々のまなざしを社会の実体に引き戻し、あるべき連帯の姿を提示してみせようとする、痛切な使命感が働いていたためではあるまいか。

 賢治は、「北守将軍と三人兄弟の医者」が掲載された翌年の昭和七年の三月に、同じ「児童文学」という雑誌に、「グスコーブドリの伝記」を発表しているが、それも、同じ抵抗の姿勢が生み出した作品のように私にはおもえる。(ちなみに、「グスコーブドリの伝記」の完成原稿は、すでに、満州事変の勃発した昭和六年の九月か、それ以前に、版元に送られていたことが判明している。)

 この作品は、いうまでもなく、昭和恐慌による大惨事を背景として仕上げられたものであると考えられるが、この凄まじい恐慌に対する国民のヒステリックな反発が、一気に反財閥・反政党・反英米資本主義の気運を高め、ウルトラ・ナショナリズムへのヴァーチャルな狂熱を昂進させたことを思えば、宮沢賢治の醒めた理性的なまなざしと生身の生活者の場所に立つ献身の姿勢は、注目に値するといっていい。

 私の印象では、賢治の晩年の童話作品では、擬人化のウェイトが減り、ヴァーチャルな幼児性が後退すると共に、等身大の生身の身体性への傾斜が目立って増えているようにおもわれる。

 たとえ擬人化や童話的誇張が含まれていても、堅固なリアリズム的描写の内部にきちんと組み込まれているために、ヴァーチャルな空虚さをほとんど感じさせない。(もちろん、純然たる寓話的作品の場合は、擬人化への抵抗感は最初から働かないので、話は別である。)

 しかも注目すべきは、晩年の賢治文学の場合、(例外はあるが)基本的には、地に足の着いた堅固なリアリズム的描写が強まれば強まるほど、すなわち、〈生身〉の手ごたえと痛覚、不安や渇きの繊細なゆらぎがきちんと描破されればされるほど、それが、三次元的な、酷薄な地上への緊縛の目線を超越せんとする、ごまかしのない、強靱な〈癒し〉への志向性を強めてゆくという、逆説的でビターなたたかいの姿勢がみとめられるという点である。

 この流れの中で、〈表現〉行為や、〈他界〉を含む神秘な〈闇〉の次元との接触による癒しや、純粋な孤独の深さと表裏一体となった、他者との真の〈絆〉のあり方への希求や、分業を通じての〈献身〉や〈責任〉の理念といった、賢治童話のモチーフは、再度、面目を新たにして鍛え直される。

「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄道の夜(第四次稿)」「風の又三郎」「なめとこ山の熊」「グスコーブドリの伝記」「北守将軍と三人兄弟の医者」といった、沈潜した、個的な生の厚みを感じさせる、いぶし銀のような作品群は、このような地道な、生活者的なたたかい方の軌跡の中から誕生しえたようにおもえる。

 こういった変貌の背景には、〈生身の喪失〉の昂進という昭和初期の病理に対する、宮沢賢治の地に足の着いた、白熱した芸術的苦闘の跡がみてとれるのである。(了)

 

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