書評:スピノザ『エチカ』(連載第6回) 川喜田八潮

  • 2016.12.21 Wednesday
  • 12:08

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第6回)

 

     11

 

 スピノザは、己れ自身も含めて、人間が自らの「本性」に目覚め、その本性にもとづいて内発的な欲望を解き放ち、活動能力を高めることで、みずみずしい生の歓喜・充溢を味わう姿を視るたびに、そこに、人間をそのように生かしめてくれる「神」の霊妙なる働きを感じないわけにはいかなかった。

 個の内に宿りながら個を超えて森羅万象の無限に拡がり、息づいている、永遠なる実体としての「汎神論」的な神の働きを認めないわけにはいかなかった。

 知性を研ぎ澄ますことで、己れの固有の人生において遭遇する、人も含むさまざまな存在との情動的な〈関係性〉を、ありのままに凝視し、そこに立ち顕われる自他の形相的本質を「明瞭判然」と認識すること。

 その意識的・理知的な鍛練、内省力の行使が、逆説的に、潜在する、自身に固有の身体的・無意識的な欲望を目覚めさせ、生への情熱を正しく解き放ち、「感情」への「隷属」を超え、感情を適切に「制御」することを可能にし、ひいては人を幸福ならしめる力となること。

 スピノザは、そこに、神の働きの霊妙さ・不思議さを想わないではいられなかった。

 スピノザの「神」は、たしかに、人間に憐みや恩恵を垂れる神ではなく、人間的な愛憎とも、人間的な生の意味や価値とも無関係な唯物論的実体なのかもしれぬが、透徹した「認識」の力を通して、存在の「本性」を覚知させてくれることで、逆説的に、人間に生の充溢をもたらしてくれる究極的存在でもあるという、霊妙不可思議な神なのである。

 スピノザは、人をはじめ、さまざまな存在の間に形成される普遍的な形相的特質への認知、すなわち存在の特質についての「共通概念」の形成を、「第二種」の認識と呼び、その第二種の認識がそのまま、無数の存在間の〈関係〉を決定し、存在を存在たらしめている究極の根拠としての「神」の観念につながると考えた。

 その「神」への直感的覚知を、彼は、「第三種」の認識と呼んでいる。

 スピノザは、「第二種」の、存在間に成立する普遍的・形相的特質への認識を、万有に内在する無限なる唯一の実体である「神」の概念と結びつけることで、「第三種」の認識という、存在の究極の〈本質〉(本性)を開示する概念へとリンクさせてみせる。

 そのことで、個々の存在の間に生ずる「反発」と「牽引(けんいん)」のダイナミズムの様相は、単に、個々の存在の〈本質〉(本性)に起因する〈形相〉の表われに還元されるのではなく、存在に内在しながらそれを包摂する、より大きな実体である「神」の本性の〈必然性〉として理解されることになる。

 すなわち、個々の存在の「本質」(本性)という概念は、「神の本性」の分有、「神の属性」の顕われとして、三次元の個物を超える、メタフィジカルな(四次元的な)実在概念の内に包摂される。

 スピノザは、「第三種」の認識という立ち位置をとることによって、本質と形相の分裂を統合し、個と類の矛盾を止揚することで、不条理性を超える、〈永遠性〉の場所へと突き抜けてみせたのである。

 『エチカ』「第五部」は、その「認識」の力によってもたらされた汎神論的な「神」との一体化の境地を語ったもので、深々とした透明感に包まれている。

 まさに、「第四部」で凝視された人間性の地獄を突き抜けた所に初めて生まれ得た〈解脱〉の境地、情動的な〈関係性〉への透徹した認識を通して「感情への隷属」から解き放たれた〈風〉の境地だといってよい。

 人間という「度し難い種族」へのこだわりは、スピノザにとって、常に不条理感の中心に位置するものであった。

 「感情」の力の本質を冷徹に「見切る」ことによって、人間的な愛憎や執着のとらわれを脱し、身軽となり得た精神は、「認識」の喜びの内に「神の属性」を看取することができる。すなわち、存在を存在たらしめている、存在の究極の〈本質〉というものは、万有に内在する「神」の本性の〈必然性〉の顕われにほかならないと「直観」しうる能力が、人間には備わっているのだと、スピノザはみる。

 そのことで、孤立した個的な存在である人間は、汎神論的な「神」という、類的な宇宙的生命の次元に包摂される。

 同様に、無限なる〈差異性〉を示して立ち顕われる、ありとあらゆる存在もまた、個々の差異性を温存しながら、同時に、宇宙生命の純一で透明な抽象性の内に、いわば「絶対矛盾的自己同一性」という形をとって止揚されることになる。

 もちろん、存在の時間的な〈有限性〉もまた、時を超越した神の連続性(自己同一性)=〈永遠性〉の内に、止揚的に回収されている。

 スピノザの独特の解脱(超越)への道が、ここに開示される。

 

(「第四部」付録「第四項」より)

「……人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成させることであり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存する。なぜなら、至福とは神の直観的認識から生ずる精神の満足そのものにほかならないのであり、他方、知性を完成するとはこれまた神、神の諸属性、および神の本性の必然性から生ずる諸活動を認識することにほかならないからである。ゆえに理性に導かれる人間の究極目的、言いかえれば、彼が他のすべての欲望を統御するにあたって規準となる最高欲望は、彼自身ならびに彼の認識の対象となりうる一切の物を妥当に理解するように彼を駆る欲望である。

「(「第五部」定理四二)至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。」

 

 スピノザは、己れの認識する喜びの内に、神との一体化による至福の境地を味わった。存在の「本性」への覚知を増すごとに、彼は、より深く、己が内に神の働きを感じた。

 それは、彼の内なる死の恐怖を緩和させ、超えてゆく営みでもあった。

 それゆえに、彼は、死後の霊魂の存在を必要とはしなかった。

 

「(「第五部」定理三八)精神はより多くの物を第二種及び第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。

(定理三八の「備考」より)

「……精神のもつ明瞭判然たる認識が大になればなるほど、したがってまた精神が神を愛することの多ければ多いほど、それだけ死が有害でなくなるということである。さらに、第三種の認識からおよそ存在しうる最高の満足が生ずるのだから(……)、この帰結として――――人間精神は、その中で身体とともに滅びることを我々が示した部分が(……)その残存する部分と比べてまるで取るに足りぬといったような本性を有しうるものである――――ということになる。」

 

     12

 

 私自身は、スピノザとは違い、霊魂の存在を信じている。

 このちっぽけな私自身を守り、生かし、導いてくれている、縁(えにし)ある「守護霊」の存在を信じている。己れが、己れを超えた存在によって「生かされている」ことの霊妙さを常に想い、地獄をくぐり抜けて、奇跡のように甦って、今生きていることの不思議さに涙する。

 日々の風景に立ち顕われる繊細ないのちの営みや気配の移ろいに絶えず新鮮な感銘を覚え、苦難を共に乗り越え、自分を支えてくれている、かけがえのない大切な人に心からの感謝と畏怖のおもいを抱き、また、多くの親切な人たちに助けられながら精一杯生きていることを痛感している。人の優しさが身に沁みる。

 私の〈身体〉に宿りながら、私を超えて森羅万象に拡がっている〈龍〉のいのちのうねりを、私は信じている。私の身体は、私自身の〈個〉としての輪郭を超えて拡がる、広大な〈無意識〉とつながり、また、そのささやかな「窓口」なのである。〈龍〉は、その無意識をつかさどっている。不可知でコスミックな陰陽の〈気〉のうねりこそが、〈龍〉なのだ。

 そして、わが〈龍〉は、同様に他者や存在に宿るさまざまな〈龍〉たちと、交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発しながら、霊妙な縁(えにし)によって結ばれている。

 摩訶不思議なる〈出逢い〉と〈絆〉がそこに生まれる。

 私とえにしをとり結んでいるさまざまな「守護霊」もまた、わが〈龍〉と共にあり、わが〈龍〉と共に、このささやかな、愚かな私を、日々奇跡のように生かしめ、導いてくれているのだ。それが、私の信仰であり、祈りなのである。

 だから、私自身は、スピノジストではない。

 でも、私はスピノザが好きだ。彼の澄み切った知性、ニーチェ風に言えば、ディオニュソス的情念のカオスをひるまずに凝視し、突き抜けてみせたアポロン的知性の透明感、その光のみずみずしさにうたれる。

 誰のものでもない、己れ自身の信ずる道をひたすら忍耐づよく歩み抜き、認識の透徹した力の内に、生気ある情動を解き放ってみせた、孤独な思想者としての芯の強さを、私は愛する。

 私は、齢(よわい)六十を過ぎてから初めて、本当の意味でこの哲学者と出逢った。

 二十代の頃から、スピノザの文章には、なぜか不思議と心ひかれるものがあったが、この人物と本当に出逢うという契機は訪れなかったのだ。

 それが、六十二の歳になってから、初めて出逢ったのである。

 生死のギリギリの境をさまよった地獄の体験が、その出逢いの〈契機〉をもたらしてくれた。

 これは、私にとって、運命的なめぐり逢いであった。(この稿続く)

 

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