書評:スピノザ『エチカ』(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2017.01.29 Sunday
  • 12:39

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第7回)

 

     13

 

 私は、これまでの前半生の中で、四人の偉大な思想者・芸術家と運命的な出逢いを果たしている。

 始めに出逢ったのは、ドストエフスキーで、十四歳の時であった。

 ドストエフスキーは、〈地〉の芸術家である。

 ロシアの大地に跪(ひざまず)き、母なる大地に宿りたる神の懐(ふところ)に抱かれんとした人である。そのことで、〈生活〉という大地を見失い、観念的な根無し草と化した近代人の〈虚無〉を超えんとした。

 次に私がめぐり逢ったのは、中国古代・戦国乱世を孤高の哲人として生き抜いた、〈非知〉の人・荘子(そうじ)である。二十二歳の時であった。

 荘子は〈水〉の人である。

 彼は、紀元前四世紀の戦国乱世という、分立する大国間の抗争の時代、殺戮と不条理に覆われた絶望的な暗黒の時代を、一切の人間的・知的な〈作為〉を捨てて、あるがままの〈自然〉に身をゆだねることで超越せんとした。

 物事への大小・美醜・善悪などの人間的な価値差別を相対化し、解体・一掃せんとした。

 ただひたすらに、生命と虚無の両義性を備えて渦巻く、無限なる闇の渾沌(カオス)=〈水〉の世界(コスモス)との一体化を図ることで、現世の不条理を超越し、解脱せんとしたのである。

 実は、私は、この荘子という思想家に二度、出逢っている。

 初めてその著作に触れたのは、満二十二歳となった一九七四年の秋であった。

 理論物理学者・湯川秀樹のエッセイを通して知り、『荘子』の原典を読みふけった。

 当時の私にとって、荘子は、老子と同様の、「無為自然」を説く、厭世的なアジア的ニヒリストとしてしか映らなかった。しかし荘子は、実は、『老子』にみられるような、没主体的で反生命的な、徹底した脱現世主義=絶望の哲学とは、明確に一線を画する思想の持主であった。

 荘子の主体的な生命思想の真の深み、人性と人間界・宇宙(コスモス)への透徹した畏るべきまなざし、その凄さに真に気づかされるには、自分の二十代後半の実存的な危機の時代、魂の地獄の試練をくぐり抜けた後の、一九八二年の春、二十九歳の時まで待たねばならなかった。その思想的覚惺は、福永光司氏の畢生(ひっせい)の名著『荘子』(中公新書)との出逢いによってもたらされた。福永氏の訳による『荘子・内篇』(中国古典選・朝日新聞社)を、当時私は、繰り返し熟読した。

 三番目に私が運命的な出逢いを果たしたのは、三十代の後半で、D・H・ロレンスであった。ロレンスは、〈火〉の芸術家である。

 彼もまた、ドストエフスキーや荘子と同様、孤高の思想者・表現者であった。

 己れの〈身体〉という窓口を通して、森羅万象のコスモスと共に生き、深々とした水性の〈闇〉の深奥から、情熱的で官能的な〈火〉を紡ぎ出した人物だった。

 そして、最後に、私が運命的にめぐり逢ったのが、〈風〉の人スピノザであった。

 このように振り返ってみると、私は、これまでの前半生の生涯の中で、〈地〉・〈水〉・〈火〉・〈風〉を象徴的に体現する四人の人物と、運命的にめぐり逢ったことになる。(もっとも、ドストエフスキー思想の真髄を「再発見」するには、「四十代初め」まで待たねばならなかったが。)

 それらの出逢いは、いずれも、人生の危機的な節目節目に訪れており、私を支え、ぎりぎりの懸崖から、私を救い出してくれたのである。

 それは、私自身にとっては、まことに霊妙不可思議な縁(えにし)というほかはない。

 というのは、これら四人とのめぐり逢いは、「ソクラテス以前」の古代ギリシア「イオニア派」の自然哲学者エンペドクレスの地・水・火・気の四元素説を想起させるからである。

 地・水・火・気(風)の四元素は、私たちの〈生身〉の具象世界を司(つかさど)る根元的な存在形態であると同時に、空間的・三次元的な、形而下の物質世界に宿りながら、それを包摂し、超越的に司る不可視の四次元的な形而上的実在を象徴するものである。

 それは、太古以来の人類の神話的な想像力の源泉であり、コスモスとの主・客融合的な一体化と交流の感覚によって支えられ、その中から紡ぎ出された表象である。

 万物の根元をメタフィジカルな〈水〉に視たターレスも、森羅万象を活かしめる生命の根元に〈火〉を求めた、誇り高い情熱の哲人ヘラクレイトスも、宇宙を司る「炎の輪」を想い描いたアナクシマンドロスも、皆、主知主義的な懐疑の哲人ソクラテスの登場以前に活躍した、イオニア派のコスミックで生命的な自然哲学者たちであった。

 わが国でも、十九世紀の前半に活躍した平田篤胤のように、古代の神話宇宙に、イザナギ・イザナミによって産み出された火・風・水・土の四神の働きを幻視した思想家もいる。

 もっとも、篤胤は、「実(げ)に、火ばかり奇霊(くしび)なる物は有(あ)らじ」(『古史伝』)という言葉にもあるように、ヘラクレイトスやニーチェ、ロレンスと同様、あくまでも〈火〉を価値的に優位に据えんとした。

 だが、私の考えでは、地・水・火・風の四つの次元は、いずれかを価値的に優先すべきものではない。

 その全てを等価に扱うことこそが肝心なのであり、この四つの次元が、私たちの魂を支えるまなざし、存在のメタフィジカルな根元として、価値的な〈均衡〉を保ちながら〈円環〉を成すことが必要なのである。

 

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 もっとも、中心をなすのは、あくまでも〈水〉と〈火〉のイメージである。

〈水〉は、宗教学者のミルチャ・エリアーデも言うごとく、森羅万象を司るメタフィジカルな渾沌(カオス)の次元を象徴するものであり、「生きる」という営みは、生命と虚無の両義性を備えて渦巻く、この〈水〉=〈闇〉の深奥から、〈火〉=〈光〉を紡ぎ出すことだからだ。

 人類にとって、いのちの〈火〉を紡ぎ出し、燃え上がらせることは、大地の〈重力〉に拮抗し、日輪の輝きに呼応することである。それが、「直立二足歩行」するようになった「異形(いぎょう)の猿」である人類の偉大な進化史の〈奇跡〉なのであり、それはそのまま、主・客を分離することによって、自然を対象化し、〈制作〉という行為を通して自然を改造することで、大脳の働きを促し、ひいては、〈文明〉という反自然的な構築物を産み出してゆくプロセスでもあった。

 しかし、その進化史の軌跡は、同時に、人類に、大脳新皮質的な〈知〉の尊大さをもたらし、人類を、自然から切り離された「観念的存在」たらしめるという危うさに導くものでもあった。

 人が「生きる」という営みのエネルギーの源泉は、実は、大脳に在るのではない。

 内臓の働きと血液の流れを支える「自立神経叢」、すなわち、D・H・ロレンスの言う「太陽叢」、近年ヨガや東洋医学で言われるところの「太陽神経叢」の働きにあるのだ。

 脳の視床下部ともつながる、この自立神経叢の働きがあってこそ、内臓はすこやかに機能し、血液が滞りなく全身を循環し、毒素を体外に排出し、栄養が細胞にゆき渡るのである。

 われわれの生きる風景が、五感を通してみずみずしい表情を帯び、生気ある充溢感をもたらしてくれるのは、この太陽神経叢によって司られた内臓や血液の無意識的な働きのおかげなのである。

 この意味で、内臓の働きと血液の流れを支える〈無意識〉の領域は、実は、〈個〉の輪郭を超えた、主・客の融合とダイナミックな交流の感覚の織りなす〈生身〉の生の風景=コスモスを司る、より巨きな、「類的」な〈無意識〉とつながっていることになる。

 神話的・形而上的表象を通して言い換えるなら、われわれの〈無意識〉の世界は、森羅万象に宿り、それを司る、大いなる〈水〉のコスモスに連動し、拡がっているのだということになる。

 人間にとって「生きる」という営みは、この〈水〉の中から〈火〉を紡ぎ出さんとすることであり、それはそのまま、大脳新皮質的な理知=意識によってではなく、〈無意識〉の担い手たる自立神経叢に支えられた内臓の働きと血液の流れによって生きること、すなわち、みずみずしい官能的で生命的な身体感覚によって生きることにほかならない。

 スピノザの思想が示すように、理性・知性というものは、その生気ある無意識的な身体性の逆説的な〈解放〉のためにこそ、行使されなければならないのだ。透徹した、澄み切った叡智・聡明さという〈風〉が、それを可能ならしめるのである。

 創造行為における芸術的な直観や手仕事における職人的な技も、本当は、この生気ある身体性に支えられてこそ可能となる。

 だが、人のいのちの〈火〉は、〈生活〉という「大地」に包まれてこそ、すこやかで幸せなものたりうる。そして大地とは、固有の〈風土〉に包まれた存在である。

 風土とは、その土地に固有の風景であり、動植物・自然であり、建造物であり、人々の無数の記憶・想いが沁み込んだ歴史的な場である。

 そしてまた風景とは、そこに縁(えにし)をもった一人ひとりの人間と対象との間に生ずる主・客融合的な固有の〈意味づけ〉によって、日々形作られる固有の感覚にほかならず、人々のその感覚の総体こそが、〈風土〉という生命的な場を紡ぎ出し、織り上げるのである。

 個々の人間の生きる風景が風土をつくり出し、逆に、風土は個々の人間を包摂し、そのいのちを賦活(ふかつ)すると共に、良きにつれ悪しきにつれ、その生を規定するのである。

 風土に根ざした人と人、人と風景のつながりに支えられてこそ、〈生活〉もまた、個々人に固有の輪郭を与え、他者には伝え難い、無量の哀歓の歴史を通して、個々人の身体に生の年輪=厚みを刻みつけ、「生き抜いてきた」ことのたしかな証し、生涯の物語性というものを可能ならしめるのである。

 〈個〉としての真の〈主体性〉というものも、その風土、〈生活〉という大地に支えられてこそ、初めて、人に生の充実をもたらしてくれるものとなりうる。

 だから、大地とは、人間にとって、一方的に征服すべき対象ではないし、また、たまたま「仮りずまい」を強いられて「点在」しているだけの、無機的な生活空間でもない。

「生かされながら共に生きる」という、〈共生〉の場としての風土でなければならないのだ。

 しかし、〈地〉とは、〈水〉の位相のひとつである。

 〈水〉が、海・月・闇と連なる、生命と虚無の両義性を備えた渾沌(カオス)の象徴であり、森羅万象を四次元的に包摂し、司るメタフィジカルな実体である以上、大地もまた、〈水〉によって司られている。

 実際、三次元的な存在としても、大地は〈水〉の一種なのである。

 地球物理学の「大陸移動説」に言うごとく、地球上の大陸や島々もまた、海と同様に、常に地殻と共に移動している流体=〈水〉なのであり、その「マントル対流」の中で、地震やマグマの活動による火山の噴火などの非日常的で不連続的な暴発も発生したりするわけである。人の〈生活〉を成り立たしめ、恵みをもたらしてくれる大地とて、渾沌(カオス)としての〈水〉によって司られている以上、人間を不条理に陥れる危険を併せもった両義的存在であることを忘れてはならない。

 だからこそ、人は、「祈る」という心、祈りつつ身を「ゆだねる」という、大いなる存在への〈畏怖〉の心を大切にしなければならぬのである。

 人もまた、大地・風土と共に、動植物と共に、不可視の〈水〉によって活かされ、〈水〉によって司られている両義的存在にほかならない。

 ドストエフスキーの言うように、人が「大地に跪(ひざまず)く」という行為は、たしかに、大いなる存在=神への〈畏怖〉の心を表わすものではあるが、同時に、己れを超えた自然、運命のはからいによって不条理の淵に叩き落とされ、翻弄されるという不幸に対する、圧倒的な無力感を象徴するものでもある。無常感に蝕まれ、虚無の淵に呑み込まれることを甘受するという、アジア的な諦観=ニヒリズムに通底するものである。

 それはまた、大地によって象徴される〈闇〉のカオスの中から紡ぎ出され、大地に育まれ、包摂されながらも、母胎たる大地との闘争によって自らの世界を開示せんとする、存在の生成史のドラマを、酒神の戯れのごときものとみなし、その興亡の物語を通して、逆説的に、存在を回収する根源としての大地=〈闇〉の圧倒的な巨大さを浮上させるという、ハイデガーのドイツ・ロマン主義風の陰鬱な〈無〉の思想にも通じている。

 大地の〈重力〉に屈服し、全身をまるごと〈闇〉に包み込まれる事を運命として甘受し、それをもって、存在の母胎たる大いなる原初の〈自然〉(ピュシス)への回帰とみなす、歪んだ「地母神」信仰の姿だ。

 同じく、ディオニュソス的な生の陶酔をうたいながら、闇の深奥から炎を紡ぎ出し、日輪に向かって屹立(きつりつ)し、生命的に飛翔せんとしたニーチェの思想との、紙一重の、しかし決定的な、倫理の身構えの差異でもある。

 世界を盲目的な〈意志〉の戯れによって司られた不条理な幻影(マーヤ)とみなすショーペンハウアーの被虐的なペシミズムも、もちろん、ハイデガーの陰鬱な地母神崇拝と同じ穴のムジナであるといっていい。

 ハイデガーもショーペンハウアーも、重々しい深刻ぶった哲学者づらをしながら、陰鬱な諦観を披瀝したり、ロマン主義的な挽歌をうたい上げたりしてみせるが、その背後には、死と不条理の想念を弄び、絶えざる痙攣的な刺激の中で感覚をマヒさせ、苦痛の中に快楽の昂進を求めて止まない、倒錯的な美学のカラクリという奴が透かし視える。

 人間のサド・マゾ的病理の底知れぬ闇という奴が。

 人類が、〈文明〉と呼ばれる巨大システムを生み落としてからこのかた、何千年も昔から、性懲りもなく繰り返してきた、陳腐極まりないニヒリズムの系譜だ。

 それこそ、まさに、スピノザが凝視してみせた「悲しみの受動的感情」の一種にほかならない。

 それは、己れの本性に根ざした、純粋で内発的な欲望を解き放ち、開花させ、生気溢れる喜びに満ちた感情の内に生きんとする姿勢とは対極にあるものであり、〈生活〉を肯定し、幸せになりたいと希う者にとっては、明瞭に悪なのである。

 人類が大地の〈重力〉に拮抗して直立二足歩行し、太陽に向かって屹立することが、人類にのみ許された、偉大な進化史の第一歩であり、日輪と呼応する、いのちの〈炎〉を赤々と燃え上がらせる営みであった事、〈水〉の深奥から〈火〉を紡ぎ出さんとする官能的で生命的な力わざであった事を忘れてはならないのだ。

 だから、私たちには、二つの次元へのまなざしの〈均衡〉が必要なのである。

 大いなる〈水〉への畏怖の心と、〈水〉に拮抗し、いのちの〈火〉を立ち上がらせんとする雄々しき魂の二つが必要なのだ。

 そして、この二元的均衡を支えるものこそ、透徹した理性・知性の導きによるスピノザ的な〈風〉であり、また、〈火〉を生活の内に根づかせる、風土=〈地〉への共生と畏怖の両義的なまなざしなのである。

 このように、人が幸せに生きんとする上で、地・水・火・風の四つの次元へのまなざしは、相補いつつ均衡を保ちながら、円環を成すべきなのである。

 私がこれまでの己れの恥多き、試行錯誤の繰り返しであった悪業深い前半生を、とにもかくにも生き抜いてこられたのは、もちろん己れの力を超えた摩訶不思議な加護と導きがあったればこそであったが、それと同時に、その過程で、四人の思想家・芸術家たちに象徴される四つの次元によって、からくも、奇跡的に支えられてきたからであった。この四大次元の円環的均衡を握りしめて離さぬこと、内省的な導きの糸とすること。それが、これからの、六十代以後の自分の後半生を支えてくれるまなざし、生の心棒であると、私は確信している。

 スピノザとの運命的な出逢いは、私にとって、その円環の最終局面、すなわち完成の局面を準備してくれるものとなった。

 この私のささやかな主観的感慨・思想が、私以外の縁(えにし)ある読者にとっても、どうか、普遍的な意義をもつものとなりますように。(了)
 

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