『右大臣実朝』と宿命(連載第1回) 川喜田八潮

  • 2017.09.29 Friday
  • 21:37

 

*この「『右大臣実朝』と宿命」は、「1999年・春」に発行された「星辰」第二号に掲載されたものである。すでに、「『中期』太宰治の変容」の初めにも断ったように、旧「星辰」誌上においては、「太宰治と〈悪〉」という統一タイトルのもとに組まれた連載評論の「第二回目」として発表された。これから、その内容を五回に分けて再掲してゆく予定である。「『中期』太宰治の変容」と併せて味読いただければ、本望である。(二〇一七年九月 筆者)

 

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『右大臣実朝』は美しい小説である。

 太宰治の鮮やかな魂の結晶のうちで、これほどに透明で、抑制された深い静けさを感じさせる作品は他にない。

 太宰にとって、おそらく、〈死〉のかたちをこれほどの澄んだまなざしで間近に見据えながら、同時にそれと拮抗する形で、〈生〉のうたを、いささかの高ぶりも無くきちんと率直にうたい得たという作品は、他にあるまいとおもう。

 その意味では、最も太宰らしくない作品であると共に、魂の孤独な真髄のかたちが、この上なくつつましくデリケートに、純潔な光を放つ形で浮き彫りにされた、珠玉の作品でもある。

 私は、主観的な感情移入によって対象をわしづかみにし己れ自身の固有のうたへと変貌させてしまう小林秀雄の実朝論や、『新古今集』成立に至る和歌の表出史とそれに拮抗する実朝歌の独自性の本質を丁寧に論じた吉本隆明の労作『源実朝』を熟知しているけれども、それでも今もってなお、太宰の実朝像ほど、身近になまなましく感じられながら、『吾妻鏡』を中心とする関連史料に忠実な人間像は、他に無いような気がしている。

 実朝の〈資質〉に己れ自身の〈分身〉を色濃く重ね合わせながら、これほどまでに虚心に、あるがままに対象を浮かび上がらせるには、よほど痛切な愛情がなくてはならない。

 太宰の実朝像は、なによりもまず、『金槐和歌集』に収められた歌を丁寧に読み込むことを通して紡ぎ出された、なまなましい文学的直観の産物であり、太宰治自身の孤独な魂の主調音と同調(シンクロナイズ)させられ、その切り口に沿って抽象化された、独特の純粋な人間像として造型されたものだ。

 そして、その純化された人間像を常に身体的にイメージしながら、『吾妻鏡』を中心とする関連史料を、矛盾の無い形で素直にあるがままに読み解こうとしている。この〈解読〉の仕方は、個々の具体的な場面における小説上の粉飾を別とすれば、私には、ひとつの歴史研究としてもきわめて説得力のあるものにおもえる。

 もし私たちが、『金槐和歌集』を味わうことによって私たちなりの切実な実朝像を彷彿とさせることができ、それが、太宰の実朝像によって強調された生々しい生の〈位相〉と本質的に重なり合うものであるとすれば、私たちは、『右大臣実朝』を、関連史料を整合的に解釈した上で実朝の内面的な生活史の実相にまで踏み込んでみせた、恐るべき歴史的洞察の産物として認めるのに、やぶさかではないであろう。

『右大臣実朝』には、ごく少数ではあるが、実朝自身の和歌が、小説の展開に合わせて随所に配置されている。もちろん、『金槐和歌集』に収められた作品のほとんどは、その具体的な作歌時期を「特定」することが不可能であり、そういう意味では、この配置は、太宰の文学的直観と物語の展開の必要によってなされた、はなはだ恣意的な作業であるともいえる。

 しかし、実朝の生きざまと魂の孤絶した純潔なかたちに対する、太宰治のメタフィジカルな洞察の象徴とみなすなら、歌への読み込み方も、その小説上での配置も、いささかも恣意的なものではないし、史実を歪めたものでもない、と私は考える。

 この作品の実朝には、「中期」太宰の〈分身〉としての、最良の形で蒸留された〈生活思想〉のエキスともいうべきものが、みずみずしい肉体をもって息づいている。この作品「前半」の実朝像には、「かくありたい」と希う、当時の太宰治の祈りと憧憬がたしかに込められているようにおもえる。

 しかしそれと同時に、作品全体を通じて、その透明な理想像を包摂するかのようなおもむきで、次第に拡散し浸透する時代の〈滅び〉の予兆が、残照のように静かに描き込まれてもいる。

 この作品は、元、実朝の近習として仕えていた語り手の「私」が、主君の死後、出家して山奥に隠棲し、二十年ほど経た後に、求められるままに「昔語り」をする、という体裁で創られている。

 作品の冒頭において、「私」は、実朝のことを、一切の批評がましい言葉を無意味に感じさせるような、ただ「なつかしいお人」であると語っている。

 

「……そろそろ二十年、憂き世を離れてこんな山の奥に隠れ住み、鎌倉も尼御台(あまみだい)も北条も和田も三浦も、もう今の私には淡い影のように思われ、念仏のさわりになるような事も無くなりました。けれども、ただお一人、さきの将軍家右大臣さまの事を思うと、この胸がつぶれます。念仏どころでなくなります。花を見ても月を見ても、あのお方の事が、あざやかに色濃く思い出されて、たまらなくなります。ただ、なつかしいのです。人によって、さまざまの見方もあるでしょうが、私には、ただなつかしいお人でございます。」

 

 この「なつかしい」という言葉には、語り手の「私」と共に、作者太宰治の、実朝への万感のおもいが重ね合わせられている。今では喪失してしまったが、かつては鮮やかに息づいていたなにものかに対する無量のおもいと、その〈感触〉を、ある及びがたい距離を隔てながら、忠実に「復元」してゆこうとする「私」=太宰治のまなざしが透けて見える。

 この醒めた、深い喪失感を伴った絶妙のスタンスの取り方が、『右大臣実朝』を、無類の透明度を備えた深みのある作品にしている。

 ここでは、作者太宰の分身である「私」が、実朝のふるまいを、溢れるおもいを厳しく抑制しつつ静かに回想しながら、随所で主君の気持を控え目に推し測っているのだが、実朝自身はきわめて寡黙で、ごくたまに、そのセリフが現代風の軽妙な「カタカナ書き」の語り口調で、異邦人のようにぽつりぽつりと吐かれるのみである。

 しかし、「私」の推量と「実朝」の鷹揚(おうよう)なふるまいや言葉の、この〈空隙〉の大きさが、実は、作者太宰治自身の〈無意識〉の領域の大きさの象徴になっているのだ。

 両者の〈ズレ〉が実朝の〈沈黙〉の巨大なふくらみを表現していると同時に、そのまま太宰治自身の秘められた無意識の奥ゆきや陰影を鮮やかに浮き彫りにし、浮上させてみせるのである。

 この作者の視線の多元的なふくらみの大きさが、『右大臣実朝』の魅力の真髄をなしているといっていい。

 ここには、太宰治特有の対人恐怖症的なひねこびた〈自意識〉というものが見られない。

 われわれをへとへとにさせる、あの猫の目のようにすばやく転換する神経症的な話体のリズムという奴が無いのだ。ゆったりとしたのびやかな自然体の文体に成り切っており、近代の時空意識を脱して、実朝自身の体液のリズムと歩調を合わせながらしみじみと語られている。そこには、私たち現代人が完全に喪失してしまった、かけがえのない、柔らかで深々としたアジア的な〈農〉の時間が、いまもなお微風のように優しく息づいている。

 薄幸な実朝の生涯というと、源家の血ぬられた宿命から推し測って、陰鬱で殺伐とした空気の中で張りつめた日常を送っていたかのように見えるが、実際には決してそうではなく、実朝自身は「いつもゆったりして」「のんきそうに見え」る日々を送っていたと「私」は語っている。彼の周囲には不思議と柔らかい光に満ち溢れた空気が漂っていた。

 物語は、「私」が初めて将軍の御所にあがった十二歳の時から始まる。当時十七歳の少年であった実朝には、すでに、御所の誰よりも深く大人びた、思慮深げで透徹したまなざしが備わっていた。

 

「私が御ところへあがったのは私の十二歳のお正月で、問註所の善信入道さまの名越のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御ところへあがって将軍家のお傍の御用を勤める事になったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御ところへ参りましても、まるでもう呆(ほう)けたようにおなりになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついくすくすと笑ってしまって、はっと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺い見ましたら、あのお方も、私のほうをちらと御らんになってにっこりお笑いになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がっておいでのようなその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生れつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し測ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だったのでございますが、おからだも充分に大きく、少し伏目になってゆったりとお坐りになって居られるお姿は、御ところのどんな御老人よりも、分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。

 老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉(かな)

 その頃もう、こんな和歌さえおつくりになって居られたくらいで、お生れつきとは言え、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術(すべ)がございませんでした。」

 

 ここには、人間の原存在としての〈孤独〉というものを、あたかもこの世に生まれ落ちた時から宿命的に熟知しているかのような、不動の老成ぶりを示す実朝の姿がある。身辺の一切の出来事を、ひとつの〈自然〉のように受容し、受け流してゆくまなざしは、こういう実朝の魂の芯部を成す独特の孤独さのかたちから湧出して来るようにおもえる。

 もうひとつ挙げてみよう。

「私」が御所にあがってまもなく、実朝は突然「疱瘡」にかかって発熱し、危篤状態にまで陥る。ようやく持ち直して病後さめやらぬころ、母親の「尼御台」(北条政子)が実朝の御台所を連れて見舞いに来る時の描写である。

 

「忘れも致しませぬ、二十三日の午剋(うまのこく)、尼御台さまは御台所さまをお連れになって御寝所へお見舞いにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控えて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずっといざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言うような平然たる御口調ではっきりおっしゃいましたので私は子供心にも、どきんとしていたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え堪えず、泣き伏しておしまいになりましたが、尼御台さまは、なおも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでございました。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残って、ひどい御面変りがしていたのでございます。お傍のお方たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしていたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言い出されましたので、私たちは色を失い生きた心地も無かったのでございます。その時あのお方は、幽(かす)かにうなずき、それから白いお歯をちらと覗(のぞ)かせて笑いながら申されました。

 スグ馴レルモノデス

(中略)融通無碍(ゆうずうむげ)とでもいうのでございましょうか。お心に一点のわだかまりも無い。本当に、私たちも、はじめはひどく面変りをしたと思っていたのでございますが、馴れるとでも言うのでしょうか、あのお方がだいいち少しも御自身のお顔にこだわるような御様子をなさいませぬし、皆の者にもいつのまにやら以前のままの、にこやかな、なつかしいお顔のように見えてまいりました。」

 

 ここにも、先の引用の中にあった、驚くべき老成ぶりを示す和歌と同様に、人間存在の本源的・原初的な〈孤独さ〉の不動のかたちを真に見据えた者のみがもちうる、透徹した覚悟性が鮮やかににじみ出ている。すなわち、この世のありとあらゆるめぐり合わせと生の移ろいに対する絶対的な〈受容〉の姿勢が深々と息づいているのである。

 こういう実朝の生きざまへの憧憬に満ちた描き方を見ていると、太宰文学を知悉している読者なら、一切の不条理、災厄を黙々とやり過ごしてゆく兄妹の澄み切ったまなざしを描いた中期初期の名作『新樹の言葉』や、疎開した「私」の妻の実家が空襲で焼けたのに、その焼跡を無邪気にほほ笑んで眺めている子供の眼を描いた『薄明』、さらには、後期の『斜陽』における、直治とかず子の「母」の像を想い浮かべる人も多いであろう。苛酷で数奇な一切のめぐり合わせを、あるがままに受け入れ、従容として死に臨む『斜陽』の「母」の端正な静けさは、「右大臣実朝」の変形した姿だといってもよい。

 こういう実朝の生存感覚に象徴される位相は、「中期」の太宰治が、生活者の純粋な〈原点〉として繰り返し回帰しようとしたアジア的な〈農〉のまなざしなのである。(この稿続く)

 

 

 

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