『右大臣実朝』と宿命(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2017.10.28 Saturday
  • 22:16

 

     2

 

 先の引用でもうひとつ興味深いのは、母の尼御台政子と実朝の、恐ろしいほどの視線の〈隔絶〉である。

 天上的な次元から、己れ自身も含めたこの世の人々の身体を静かに「見おろしている」かのような実朝とは対照的に、政子は、徹頭徹尾、地上的な視線に身を置いている。政子の眼が象徴するものは、生臭い酷薄な実人生の諸相や醜部を平然と直視し、リアルに生き抜ける人間たちの世界だといっていい。

 実朝は、こういう人間たちのただ中にひとりでぽつんと置かれている。彼の魂を知る者は周囲に誰もいない。

 しかし、実朝の方からは、周りの者たちの場所が本源的な意味でよく視えている。

 実朝の眼に映じた人間どもの実相とは、おそらく、仮りそめの有限な生を、得体の知れない脂ぎった貪欲な生活欲によって、もがきにもがき抜きながら、タフに乗り切ってゆく人間たちの姿である。

 地上的な関係性の場の渦中で翻弄され、極限的に狭い痩せ細った貧しい生活世界の中に、現世的な価値を倦むことなく求め続け、他者をねじ伏せようとあがく、我執にこり固まった悪業深い生きざまであり、蒼白い死の恐怖を無意識の奥底にこびりつかせ、絶えず、生を何ものかによって紛らわし、すり替えようともがき続ける、浅ましく切ない人間のありのままの姿である。

 同類を求めてもがき、傷口をなめ合い、抗争の無限の連鎖の中に、己れの貧寒で散文的で有限な人生の無聊(ぶりょう)を慰めようとする人間どもの狂気の実相。

 それが、実朝が幼時から肌で感じ、凝視し続けた、大人どもの〈気配〉に違いなかった。

 彼が、少年期を通じて繰り返し垣間見、鮮烈な刻印を受けたのは、頼朝亡き後の、有力御家人たちの凄まじい確執・共食いの修羅相であった。とりわけ、自身を二重三重に絡めとっている肉親・一族であり幕府の中枢を握っている祖父北条時政や叔父義時、さらには生母政子の、貪欲な生活欲と権力への飽くことを知らぬ執念であった。

 北条時政によって血まつりにあげられた兄の将軍頼家とその幼な子、さらに兄の妻の実家比企氏のむごたらしい最期。そして、「誠忠廉直の士」であった畠山重忠とその子重保が時政・義時の奸策のため「無実の罪」によって非業の死をとげたこと。これらの血ぬられた記憶は、青年実朝にとって、いまだ、なまなましい傷痕をとどめるものであった。

 年を重ねるごとに「我身ヒトツト思ホユル」実朝の透徹した覚悟性は、肉親・一族といえども寸分も心を許すことのできぬ、ひき裂かれた悪因縁の渦中において形成されていた。

 実朝は、太宰治と同じく、生みの母の乳のぬくもりというものをほとんど知らずに育った。ふたり共、母の妹、つまり叔母の手で育てられたのであり、彼らに共通する本源的な寂寥感は、そういう胎乳児期の原初的な〈欠損〉と〈渇き〉の感触の記憶に根ざしているともいえよう。

 その原風景が、形を変えながら、幼児期・少年期と繰り返し塗り重ねられ、実朝独自の、深い諦念に満ちた、透明な〈孤絶〉の意識を形作っていったようにおもえる。幼時よりの母政子との冷ややかな隔たりの意識や叔父の義時・祖父時政にまつわる北条一族の血なまぐさい空気は、実朝にとって、おそらく、この世に生まれ落ちて以来のひき裂かれた世界風景の象徴でもあったに違いない。

 しかし、北条一族の政敵に対する容赦の無いむごたらしい所業の数々にもかかわらず、意外にも、尼御台政子や執権義時の〈素顔〉は、決して、とり立てて残虐・非道な性情の持ち主ではなく、むしろきわめて律義で、将軍・幕府への忠誠心も厚く、法・秩序の遵守に厳しい、リアルでカラッとした性質の人間たちであったと、「私」は視ている。

 

「下々の口さがない人たちは、やれ尼御台が専横の、執権相模守義時が陰険のと騒ぎ立てていた事もあったようでございますが、私たちの見たところでは、尼御台さまも相州さまも、それこそ竹を割ったようなさっぱりした御気性のお方でした。ずけずけ思うとおりの事をおっしゃって、裏も表も何もなく、そうして後はからりとして、目下のものを叱りながらもめんどうを見て下さってそうして恩に着せるような勿体(もったい)を附ける事もなく、あれは北条家にお生れになったお方たちの特徴かも知れませぬが、御性格にコツンと固い几帳面なところがございまして、むだな事は大のおきらい、隅々までお目がとどいて、そんなところだけは、ふざけたい盛りの当時の私たちにとって、ちょっとけむったいところでございました。そうして、それから、どうもこれは申し上げにくい事でございますが、思い切って申し上げるならば、下品でした。(中略)どうも、北条家のお方たちには、どこやら、ちらと、なんとも言えぬ下品な匂いがございました。そうして、そのなんだかいやな悪臭が少しずつ陰気な影を生じて来て、後年のいろいろの悲惨の基になったような気も致します。」

 

 この指摘は、鋭い洞察だといってよい。『吾妻鏡』に記されたさまざまなエピソードが語るように、「竹を割ったようなさっぱりした」ケレン味の無い直情的な激しさと果断さは、頼朝との馴れ初め以来の政子の人物像に特徴的なものであるし、「御性格にコツンと固い几帳面なところが」ある義時の、私情を殺せる実務官僚的な有能さや律義さも、史実に丁寧に則した自然な見方であるとおもえる。

 つまり彼らは一見まっとうな人間たちなのだが、それにもかかわらず、そのまっとうさの内に秘められた何ものかのために、恐るべき悪業の数々が産み出されてくるというのが、太宰治のこだわりの場所なのである。

 太宰は、この作品で、北条時政や娘の政子のような、己れの感情や欲求を素直に表出できる、人間らしい生臭さや激しさを備えた、生活力の旺盛な脂ぎった人物たちに対しても〈異和〉の念を表明しているが、それよりもむしろ、相州義時のような類型への強烈な 〈嫌悪〉にアクセントを置いている。

「いったいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。」と「私」は語っている。

 

「はじめにもちょっと申し上げて置きましたように、私たちの見たところでは、人の言うほど陰険なお方のようでもなく、気さくでひょうきんなところもあり、さっぱりしたお方のようにさえ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂いがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもさえ、ぞっとするようなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはいって来ると、さっと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよい、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申しているようでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがっている故ではなかろうかとさえ私たちには思われました。父君の時政公でさえ、この相州さまに較(くら)べると、まだしもお無邪気な放胆の明るさがあったようでございます。それほどの陰気なにおいが、いったい、相州さまのどこから発しているのか、それはわかりませぬが、きっと、人間として一ばん大事な何かの徳に欠けていたのに違いございませぬ。その生れつき不具のお心が、あの承久の乱などで、はしなくも暴露してしまったのでございましょうが、そのような大逆にいたらぬ前には、あのお方のそのおそろしい不具のお心をはっきり看破する事も出来ず、或いは将軍家だけはお気づきになって居られたかと思われるふしもないわけではございませぬけれども、当時はただ、あのお方を、なんとなく毛嫌いして、けむったがっていたというのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あのお方がなさると、なんとも言えず、いやしげに見えるのでございますから、それはむしろ、あのお方にとっても不仕合せなところかも知れませぬ。以前はそれほどでもなかったのでございますが、将軍家が立派に御成人なされ、政務の御決裁もおひとりで見事にお出来になるようになってから、目立って下品に陰気くさくなりました。」

 

 ここで太宰は、ある種の不透明な〈悪〉の本質に肉薄しようとしている。

 北条義時のような、職務に忠実な、理知的でエネルギッシュな人物は、近代的な市民社会の価値基準から言えば、少しも非のうちどころの無い、有能で模範的なテクノクラートということになろう。

 しかし、私たちの〈近代〉のメカニズムが繰り返し産出し続けてやまない恐るべき悲惨事というものは、実は、そういう何の変哲も無い、一見「良心的」な無数のスペシャリストたちの生きざまの中に胚胎している、ささやかな〈悪〉の巨大な〈連鎖〉によってひき起こされてゆくのではないか。そして、そういう何でもないように見える不透明な悪の芽というものは、実は、私たち現代人のすべての者の内部に大なり小なり秘められており、その本体を見極め、それに戦慄をおぼえ、その内なる悪と真にたたかうことは、私たちにとって、最も困難な仕事ではないのか。

 それが、太宰治の直面した課題だった。

 義時によって象徴されるこの〈悪〉のかたちは、つかまえようと思えばすり抜けてしまうような、きわめて不透明なものであるが、たとえば、次のような「私」の観察と見解にさりげなく込められているといっていい。

 

「またあの元久二年に、時政公は牧の方さまにそそのかされ、重成入道などと謀(はか)り、当時の名門、畠山御一族に逆臣の汚名を着せ、之を誅戮(ちゅうりく)しようとなさった時にも、相州さまは、平気な顔をして御父君に対し、およしなさい、あれは逆臣でありません、と興覚めな事を言って、少しも動こうとなさらず、父君や牧の方さまが何かと猛(たけ)り立って興奮すればするほどいよいよ冷静におなりになって、あれは逆臣でありません、畠山父子は共に得がたい忠臣ですよ、ばかな真似はおやめなさい、何をそんなに血相をかえて騒いでいるのです、みっともない、などとずけずけいやな事を申すので、牧の方さまはとうとう泣き出して、なんぼう私が継母(ままはは)だからとてそんなに私をいじめなくてもいいではないか、継母というものはそんなに憎いものですか、いや、憎いだろう、憎いであろう、これまでも何かにつけて私ひとりを悪者にして、いったいどこまで私を苦しめるおつもりか、たまには私にも親孝行の真似事でもいいからして見せておくれ、と変な事を口走る始末になったので、若い相州さまは、苦笑して立ち上り、じゃまあ、こんど一度きりですよ、と言って畠山御一族討伐に参加なされたとかいうお話でございます。普通のお人の場合では、一度きりですよ、とは言っても、またさらにもう一度と押してたのまれると、だから前に一度きりと断って置きましたのに、仕様がないな、などと言いながらも渋々また応ずるものでございますが、相州さまの場合には決してそのような事はなく、一度きりと言えばまさにそのとおりに一度きり、冗談も何もなく、あとはぴたりとお断りになるのでございます。その証拠には、すぐつづいて時政公が、またも牧の方さまにそそのかされ、当将軍家弑逆(しいぎゃく)の大それた陰謀をたくらんだ時には、もうはじめっから父君、義母君を敵として戦い、少しの情容赦もなくそのお二人の御異図を微塵に粉砕し、父君をば鎌倉より追放なされ、継母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただいておしまいになりました。その御性格には優柔不断なところが少しもなく、こわいくらいに真面目に正確に御処置なさってしまうのでございます。(中略)少しも間違った御態度ではなく、間違いどころか、まことに御立派な、忠義一途の正しい御挙止のように見えながらも、なんだか、そこにいやな陰気の影があるような心地がいたしまして、正しさとは、そんなものでない、はっきり言えませぬが、本当の正しさと似ていながら、どこか全く違うらしい、ひどく気味の悪いものがあるような気がするのは、私だけでございましょうか。」

 

 北条時政の後妻牧の方が自害させられたというのは太宰のデフォルメで、実際には、政子・義時姉弟のクーデターによって、時政共々伊豆に隠退させられたらしい。もっとも、実朝を廃し、その代わりに将軍に据えようとはかったといわれる牧の方の娘婿平賀朝雅は、まもなく京都で殺されている。『吾妻鏡』の元久二年の記事には、なぜか、時政失脚後の牧の方の消息が全く記されていないので、太宰は、義時の性格から判断して、てっきり自害させられたものと推測したのであろう。

 しかし、そういう事実の誤認は、ここでは大して重要なことではない。肝心なのは、『吾妻鏡』にも記されているように、畠山重忠の潔白を主張し、一度は父親を諫めておきながら、継母にゴネられただけで易々と討伐の大将に豹変するような北条義時の人間性の不気味さである。しかも、彼は、重忠を殺害した後でさえ、その無実を時政に主張してゆずらない。この時代、武士社会における親の権威はたしかに絶大なものがあったが、それにしても、長年姉の政子と冷ややかな関係にあり彼女とさほど年も違わぬ継母のいいなりになるような、しおらしい人物とは、到底思えないのである。そんなけなげな親孝行者ならば、父や継母と、二か月間にもわたって軍事的な一触即発のにらみ合いを続けたあげく、姉と共にクーデターを引き起こしてふたりを追放するような措置を講ずるはずがない。

 畠山重忠の人柄の廉直さを知りながら平然と彼を殺戮できる義時という人物は、たとえそれがどんなに非道なことであっても、必要とあらば、敢えて鼻をつまんでさっさと事務的に片付けてしまうことのできる人間であるようにおもえる。

 ここには、太宰治が、生涯を通じて凝視し続けた〈近代悪〉の不透明な本質が象徴されている。それは、本質的に「鈍感な」人間たちのもたらす〈悪〉のかたちだといってよい。

 畠山一族を滅ぼす際に、親子の義理のために仕方なしに協力する義時は、人並みの肉親の情や世間的な義理は備えているが、本当は、きわめて冷ややかな情しかもってはいない。制度的な規範の中で与えられた社会的な〈役割〉の内に、己れ自身のアイデンティティーを完全に解消しうるような人間であるようにおもえる。

 義時は、鬱病親和気質の強い、謹厳実直なエリートであるが、病理の〈本体〉は、彼のそういう真面目さにあるのではない。

 この人物の不気味さは、〈血〉のぬくもりを通じた人との生ける〈接触〉のできぬタイプだという点にある。

 政子には、夫頼朝の浮気のために嫉妬で荒れ狂うような〈血〉の熱さがある。しかし、義時には、そういう血の通った人間らしいぬくもりや切なさの匂いは微塵も無い。

 常に、〈観念〉と〈規範〉のフィルターを通して他者と関わり、世俗に対処し、徹頭徹尾の「リアリスト」であり、「現世主義者」である。

 真の倫理を可能ならしめ、他者や世界との真の〈生身〉の接触を可能ならしめる、人の子としての原初的な〈渇き〉や〈痛覚〉というものの欠落した人間なのだ。

 こういう人間たちは、本質的には決して「傷つかない」し、常に良心の「免罪符」というものを持っている。しかも、はなはだ「悪気の無い」好人物ですらありうる。

 太宰治が『新ハムレット』で「新型の悪」として造型した「クロージヤス」や、「後期」の作品『家庭の幸福』で見据えた「官僚悪」の世界に通じる類型だといっていい。

 こういう人間は、本当は、誰とも心を通わすことのできないままに、無機的な〈断片〉のように冷ややかな〈観念〉と〈制度〉の海の中に浮遊しているにすぎないのだが、そういう己れ自身の孤立した生きざまを「孤独」だと感じることさえできない。

〈生身〉の寂寥感を〈痛み〉として感じ取る能力というものが、初めから完璧に封じられているからだ。

 義時は、ひたすら幕府と将軍の安泰のために、敢えて、冷徹で果断な合理性を発揮して、実朝の愛顧深かった武骨で忠義一徹の老臣和田義盛とその一族を挑発し、容赦無く全滅させてしまうが、その乱の二ヶ月後に開かれた歌会のありさまを、「私」は次のように描写している。

 

「相州さまも、その頃は故左衛門尉義盛さまのお跡を襲ってこのたびは侍別当をも兼ね、いきおい隆々たるもので、けれども決してあらわには高ぶらず、かえって頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒(ふりま)き、将軍家に対しては、また別段と、不自然に見えるくらいに慇懃鄭重(いんぎんていちょう)の物腰で御挨拶をなされ、将軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに応対なさるようになり、うわべだけを拝見するとお二人の間は、まえにもまして御円満、お互いにおいたわりなされ、お睦(むつまじ)げでございまして、そのとしの七月七日に、仮御ところに於いて、合戦以来はじめての和歌御会がひらかれました時にも、めずらしく相州さまがその御会に御出席なされ、松風は水の音に似ているとか何とかいう、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお作りなさったりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、将軍家だけはそのようなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出来ているお方はお歌もしっかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなさそうな真面目の御口調でおほめになりまして、なるほどそうおっしゃられて見ると、相州さまのお歌は、松風は水の音にしても、また鶉(うずら)が鳴いて月が傾いたとかいう歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられない事もないような気もいたしまして、まことに相州さまというお人は、あやしいお人柄の方でございます。」

 

 相州の歌云々については、もちろん、作者の虚構ではあるが、ここには、義時のようなタイプの人物の眼に映るであろう世界風景の酷薄な感触というものが、太宰治特有の反リアリズム文学的な視線によって、さりげない形で鮮やかにすくい取られている。

 義時の和歌は、あるがままの景物をあるがままの景物としてうたい、一切の私情や感興を削ぎ落とした〈客体〉としてのモノそれ自体の、非情でリアルな光景を淡々と描写したものだ。こういう視線には、伝統的な自然詠の風土的な潤いも、アララギ派的な生活苦に即した苦吟や感傷や自虐も無縁だ。そこに漂うのは、己れ自身の〈身体〉すらひとつの〈モノ〉として客体化しうるような冷やかで無機的な地上的リアリズムの匂いだけである。(この稿続く)

 

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