『右大臣実朝』と宿命 (連載第3回) 川喜田八潮

  • 2017.11.25 Saturday
  • 17:50

 

     3

 

 実朝の生活者としての持ちこたえ方のかたちは、こういう義時の視線とは全く対照的である。

 彼もまた、義時と同じく、周囲の人間たちから疎隔された場所にあるといっていいのだが、その孤独さの〈かたち〉は似ても似つかないものだ。

 このあまりにも柔らかい繊細な皮膚感覚をもつ青年は、己れとは無縁の、生臭いタフな生活力をもつ人々や権力の亡者や鈍感な小心翼々とした官僚的気質の連中の中に、ひとりぽつんと孤独に置かれている。

 決して、自分自身の場所を他人に「押しつけ」たり、特定の他者に何かを「期待」したり、「同化」されたりはしない。政子や義時とも、表面的にはいたってなごやかで、争論などは一切みられない。特定の「党派」に所属したり、傷口のなめ合いをすることもなく、ナルシシズムや同性愛的な結びつきとも無縁である。

 周囲の者や接する者の内面の動きを「詮索」したり、心理的にかんぐったりするような近代人的な神経症的自意識とはかけ離れているが、人々の生きる場所の本源的な〈寂しさ〉や〈病〉のかたちだけはきちんと見抜いている。

 それゆえ、他者の世俗的な悪あがきや業苦が織りなす、混沌とした悪因縁の修羅相の渦中に、ひとりぽつんと身を置きながら、憎しみとも、地上的な次元での喜びや哀しみともかけ離れた境位にある。

 それでいながら、人情に対して冷えきった、ひねこびた老人のような枯淡や無常感や無為とは、まるで異なった場所にいるのだ。

 実朝の暖かい人間性は、御台所や御所に仕える女房たちへのきめ細かな優しさ、和田義盛のような武骨な老忠臣の一徹者への深い思いやりによくにじみ出ているといっていい。

 これは不思議な場所だが、〈存在の痛覚〉ともいうべき人間の〈生身〉の急所を誤たず洞察し、その実存から、実朝のあらゆる生活上の営みが湧き出てくるかのようである。

 こういう実朝の構えは、とらわれのない生得的な霊感にもとづいて瞬時に決断を下しながら、人情の機微をおさえた、物事の本末転倒をひきおこさない、道義観の透徹した独特の政治のあり方にもつながっている。

『吾妻鏡』には、初期の実朝の熱意溢れる政治ぶりが描かれている。そこには、三浦氏など大身の御家人にも遠慮せず、正邪を公正に裁き、母の政子にも叔父の義時にもいささかも気がねすることなく、さまざまな利害関係や思惑が絡む難題を、さらりと果断に処理してゆく、颯爽とした倫理的な将軍の姿が垣間見える。

 一例を挙げてみよう。作品にも、小説内容と対照できるように、『吾妻鏡』の関連部分が収められているが、和田義盛の乱の二年前に当たる承元五年=建暦元年(一二一一年)六月の記事である。

 

「七日、丁亥、越後国三味庄(さみのしょう)の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せしむるの処、今暁盗人の為に殺害せらる、曙の後、左衛門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と称して、件(くだん)の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に属し、内々尼御台所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々、」(龍肅訳)

 

 幕府御家人である地頭との訴訟争いの為に鎌倉におもむく途中であった、越後国三味庄の荘園領主(領家)の代官(雑掌)が、盗賊の為に殺害されたが、その盗賊は行方をくらまし何者とも判明しなかったので、侍所の別当である和田左衛門尉義盛は、訴訟の敵方に当たるその荘園の地頭代(地頭の代官)を捕え、詮議を加えることになった。

 しかし、その処置に不満を抱いた地頭代の親戚の者たちが、内々に手を回して尼御台政子に訴え、将軍に再考を促すよう圧力をかける。気の強い尼御台のおつきの女房駿河局(するがのつぼね)は、和田の処置を妥当とする実朝に、なおも、処分撤回を求めて食い下がる。

 

「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後国は三味庄の、──」と言いかけたら、相州さまは、ちえと小さい舌打ちをなさって、

「なんだ、それか。あれは、もう、すみました。左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。あなたはまた、なんだって、あんな事件に。」とおっしゃって、少し不機嫌になられた御様子でお眉をひそめ、お口をちょっと尖らせました。

「尼御台さまのお口添もございまする。」と駿河の局さまは、負けずに声をふるわせて申し上げました。つねから、お気性の勝ったお局さまでございました。「いまいちどお取調のほど、ひとえにお願い申し上げまする。このたびの和田左衛門尉さまの御処置は、まったくもって道理にはずれ、無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上、見るに忍びざるものございまするに依って、尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。」

 尼御台さま、と聞いて相州さまは幽(かす)かにお笑いになられました。そうして、ふいと何か考え直したような御様子で、御病床の将軍家のお顔をちらりとお伺いなさった間一髪をいれず、

 事ノ正邪デハナイ

 お眼を軽くつぶったままで、お口早におっしゃいました。

 さすがの相州さまも虚をつかれたように、ただお眼を丸くして将軍家のお顔を見つめて居られました。

 和田ノ詮議モ終ラヌサキカラ、ソノヨウニ騒ギタテテハ、モノノ順序ガドウナリマス。

 ツマラヌ取次ハスルモノデナイ。

 駿河の局さまは、一瞬醜い泣顔になり、それから胸に片手をあて、突き刺された人のように悶えながら平伏いたしました。決してお怒りの御口調ではなかったのですが、けれどもその澱みなくさらりとおっしゃるお言葉の底には、御母君の尼御台さまをも恐れぬ、この世ならぬ冷厳な孤独の御決意が湛(たた)えられているような気が致しまして、幼心の私まで等しく戦慄を覚えました。

 

 こういう実朝の峻厳な倫理性は、非情なリアリストの相州義時にとって、次第にうとましいものとなってゆく。

「反中央的」な東国武士団の棟梁としては奇異ともいえるほどの、実朝の朝廷への〈赤心〉の厚さは、こういう独特の透徹した道義観の延長の上に形成されたようにおもえる。

 佐藤進一や上横手雅敬をはじめとする優れた中世史家の実証研究が示しているように、元々、関東(坂東)を中心とする東国には、古代以来、畿内・西国を中心とする「朝廷」の支配に対する根強い反抗精神があった。(例えば、上横手雅敬『日本中世国家史論考』[塙書房、一九九四年]中の論文「鎌倉・室町幕府と朝廷」及び「鎌倉時代政治史像の再検討」などを参照されたい。)自ら「新皇」(東国の天皇)と称して、京を中心とする 「本皇」(西国の天皇)に対峙し、東国を中央から切り離した「独立国家」とする構想を抱いていた平将門や、平忠常の乱から前九年・後三年の役を通じて東国に独自の支配を樹立せんとした清和源氏の動きを見てもわかるように、坂東を中心とする東国武士団の「反中央的」権力への志向は強烈なものがあった。

 鎌倉幕府の成立は、そういう何世紀にも及ぶ古代以来の坂東武士の悲願とエネルギーの帰結点であり、集約点でもあった。

 したがって、その幕府の将軍である実朝の朝廷への「赤心」の激しさは、東国武士団全体のエートスと真っ向から対立するものであり、単なる彼個人の京文化への貴族的な憧憬や好みとみなすことはできない。

 

 おほきみの勅をかしこみ千々(ちぢ)わくに心はわくとも人にいはめやも

 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

 

 例えば、こういう歌には、並々ならぬ激しさが脈うっている。坂東武士団のただ中で、ひとり超然と屹立しながら、なお、衆に対峙せずんばやまじとする強烈な気概が伝わってくる。

 こういう実朝のパトスの出所は、東国と西国という地域的=地上的な権力の二律背反的な視座をさらに次元的に超越し、包摂せんとする、「天帝」を頂点とした偉大なる〈自然〉の如きアジア的な道義国家の理念なくしては、到底了解できないようにおもえる。

 すなわち、国家・社会のすこやかさの基底は、民衆・為政者の道徳的な〈神聖さ〉に対する自然な感覚に〈根〉をもつべきであるという、生得的ともいえる直観的信念が透けて視えるのだ。

 かつて平城京を中心とする律令国家は、中国文明の巨大な権威を巧みに借用しつつ、いっさいを包摂する偉大なる〈自然〉のごとき天皇制の幻想的権威を確立することによって、日本国中の豪族と人民を強力に統治し得ていた。しかし、平安中期(十世紀)以降の律令国家の解体によって、朝廷は、畿内・西国を中心とする「地域的」権力へと縮退し、逆に、それまで中央権力によって幻想的に収奪されてきた東国の民俗的・土俗宗教的な共同性は、天皇制という〈重し〉を徐々に取りはずしつつ、新たな「地域」権力(地域国家)への志向を高めつつあった。実朝の朝廷への熱烈な忠誠の姿勢は、こういう平安期以降の東西の〈緊張〉を、再び、天皇を頂点とするアジア的な道義国家の幻想によって次元的に修復しようとする試みとして位置づけることができよう。

『吾妻鏡』からは、参詣や荒廃した社寺の復興に異様なまでの熱意をみせる将軍の姿が浮かび上がるが、こういう実朝の敬神崇仏の念の深さの根底には、おそらく、己れを超えた大いなる神秘な力のはからいに生をゆだねるという、アジア的な自然思想が横たわっている。

 この世の諸々の〈悪〉というものが、究極的には、〈死〉の恐怖に由来する〈我執〉にもとづくものであるとするなら、その我執を離れる境位を魂の内に繰り込み、根づかせることによって、はじめて人は、己れの〈生身〉の痛覚に根ざした、真正の〈倫理〉というものを蘇生させることが可能となる。

 実朝の孤独さは、我執を生み出すのではなく、己れを超えた神聖なるものに身をゆだねることで逆に我執を離れ、〈存在の痛覚〉という生身の急所へ眼を向けることで、血の通った倫理を生み出してゆく源泉となる。

〈悪〉を生み出す源が、〈死〉の恐怖にもとづく孤立感にあるとするなら、逆に、〈死〉をバネとすることによって、我執を超える視線を生み出し、倫理を蘇生させることも可能となるのだ。

 道徳的な〈神聖さ〉の自然な感覚というものは、この意味において、己れを超えた、〈未知〉の大いなるはからいに身をゆだねるという、アジア的な〈畏怖〉のこころと不可分のつながりをもっている。

 実朝の道義観──朝廷への赤心──敬神崇仏の念という、独特の円環のあり方も、こういうアジア的な自然思想の伝統に深く根ざした生存感覚を象徴するものだといってよい。

 所領の保持と拡大に血まなこになって狂奔し、荘園領主である貴族や寺社との〈所有権〉をめぐるトラブルの絶えない、我執の強い獰猛な御家人層を束ねる将軍として、実朝は、自ら率先して、あるべき共同的な倫理の〈範〉を垂れようとしていたとおもえる。

 彼の政治理念は、明らかに、政治という、利害を調整する〈技術〉の領域を超えて、大衆の魂のあり方までも倫理的に「変革」せんとする天上的な〈夢想〉の領域にまで踏み込んでいた。『吾妻鏡』に垣間見える、実朝の「聖徳太子」への傾倒の深さも、おそらく、こういう観念的な思い入れに根ざすものとみていい。

 私には、実朝のアジア的な政治理念は、ドストエフスキーの、ギリシア正教とツァーリ権力への思い入れを想起させる。

 ロシア農民のアジア的な感覚にもとづく自然=神への〈畏怖〉の念と結びついたギリシア正教への信仰と、それに根ざしたツァーリ権力の宗教的・道徳的な秩序への幻想的な思い入れを彷彿とさせるのだ。

 教会の中に国家を解消するという、独特の道義的国家=倫理的共同体のユートピアを夢みたドストエフスキーと同様に、実朝もまた、おそらく、アジア的な生存感覚に根ざした独特の宗教的な〈信〉にもとづく、スメラミコトの道義的国家を夢想していたに違いない。

 こういった実朝の観念的な理想主義と倫理性は、幕府と御家人層の利害のみを重んじ、それを「技術的」合理的に防衛しようとする北条義時や大江広元の法治主義的・政治力学的(マキャベリスティック)な近代主義的政治理念や官僚実務的発想とは、早晩、鋭く対立する宿命にあったはずである。

『右大臣実朝』後半の、和田義盛の乱に端を発する〈悲劇〉の芽は、この両者の位相の決定的な断層の内に胚胎していたといってよい。(この稿続く)

 

 

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