東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2018.02.24 Saturday
  • 13:58

 

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 ここで私が思い浮かべるのは、宮崎駿氏の息子の吾朗氏が監督して制作されたアニメ『ゲド戦記』の「結末」である。

 宮崎吾朗の『ゲド戦記』は、ル=グウィンの原作とは違っている。

 原作者は、アニメの出来ばえに大変不満で、原作に込められたメッセージと人物造型、表現内容の本質が歪められたと激怒しているようだが、原作はあくまでも原作であり、映画は、たとえ原作をふまえていても、芸術作品としては、全く別箇の独立した表現の産物とみなすべきである。

 原作とアニメの違いについて、ここで触れる余地は無い。

 私のここでのこだわりは、次の一点のみである。

 すなわち、宮崎吾朗のアニメ『ゲド戦記』のラストシーンにおいて、主人公の一人である少女の〈本体〉が〈竜〉であることが示され、〈竜〉に化身することが、魂の〈解放〉の象徴として描かれている、という点である。

 このアニメの結末に原作者が激怒したかどうかは、私には分からない。

 だが、宮崎駿氏が、息子の表現した〈竜〉という象徴への〈まなざし〉に対して、内心、ある種の危惧〈きぐ〉の念を覚えたであろうと推察することはできる。

 このアニメを観た後、駿氏がインタビューで、一言、「大人になってない!」と一喝していた光景が、今も私には、印象深く記憶されている。

 はしなくも、ここには、業界人としておそらく空前絶後といっても過言ではないほどの大成功を収めた宮崎駿という天才アニメーターの内に隠された、〈大人主義〉の限界が透かし視える思いがするからだ。

 人間の本体が〈龍〉であって、どこが悪い?

 当時も、今も、私はそう思っている。

 人間は、「人間」などという、ちっぽけなものを超えた、大いなる不可視の〈闇〉としての本体を宿し、その本体によって活かされているにすぎない。

 人間の魂は、三次元の個体としての存在に宿りながら、同時に、その輪郭を超えて森羅万象へと拡がる、広大な〈無意識〉の領域というものを有している。

 フロイトの学説が洞察している通り、私たちの〈身体〉というものは、私たちの〈無意識〉の担い手である。

 脳は、哲学者のベルクソンもその著書(『物質と記憶』『思想と動くもの』)で明晰に論証してみせているように、私たちの精神を現実生活に向き合わせ、なんらかの形で「適応」させるための、「注意」と「想起」(抽象化ないしは改変を施された過去の経験=「記憶」の想起)の器官であって、心の領域全体をカバーするものでは決してない。

 心は、脳のメカニズムの単なる反映などではなく、逆に、心が脳のあり方を規定し、包摂しているとみるべきではないか、というのが、私の考えである。

 ただし、その心というのは、〈意識〉だけではなく、〈無意識〉の広大な領域を含んでいる。

〈意識〉というものは、私たちの身体が、地上の三次元の生活世界に現実的に(支障なく)「適応」するために、〈無意識〉の中から、そのつど必要な情報やイメージを汲み上げ、知覚や記憶、感情、思考といったかたちを通して、私たちを取り巻く環界や接する対象との間に、固有の〈意味づけ〉を成就せんとする働きにほかならない。(ただし、厳密に言うなら、〈意識〉は〈無意識〉に包摂されているのであり、身体を媒介として、無意識のうちに、知覚所与の喚起や記憶の想起を強いられながら、その「制約」の中で、現実への「適応」を成就せんとするのである。)

 その〈意味づけ〉の現実的なプロセス、すなわち一種の「情報処理過程」を担うのは、たしかに脳という器官なのであろうが、しかし、その脳に情報処理を命ずる力、主体というものは、決して、脳でもなければ、意識でもない。

 いわば、脳というのは、一種の「配電盤」のようなものであって、電源そのものではないのだ。

 脳は、身体という媒体を通して不可知なる電源から送られてきた電流を、適切に配備し、〈意識〉という「照明」を、「種」に固有のかたちで、また個々人に固有のかたちで紡ぎ出す、「配電盤」のごとき役割を果たしているといっていい。

 では、「電源」はどこにあるのか?

 言うまでもなく、私たちの〈無意識〉にある。

 そこにこそ、私たちの〈魂〉の中枢があるのだ。

〈意識〉などというものは、私たちの魂の顕われにとって、実は「氷山の一角」にすぎないのであって、私たちの魂の〈本体〉は、水面下の広大な〈無意識〉をつかさどる目に視えぬ力、エネルギーの源にこそある。

 個的な身体のレベルでこのエネルギーの担い手となるのが、(腎臓を調整機能の中枢とする)「内臓」の働きと「血液」の流れであり、またそれらを統合的につかさどる「自律神経叢」である。

 脳は、「視床下部」を通じて、この「自律神経叢」(ヨガやD・H・ロレンスの言葉で言うところの「太陽神経叢」)と相互作用的に結びつき、自立神経叢に担われた〈無意識〉の力に支えられることによって、はじめてすこやかに機能しうるのだ。

 しかし、私たちの個的な無意識は、実は、より巨きな「類的」な〈無意識〉に包摂されている。

 私たちの身体に宿っている〈無意識〉なるものが、私たちの〈個〉の殻を超えて森羅万象へと拡がっているからこそ、私たちの目にし、感じ取る生身の生の〈風景〉というものは、(それが生命的なものにせよ、虚無的なものにせよ、)単なる〈無意味〉としてのカオスではなく、(主体と客体との相互浸透的な感覚を伴う)〈意味〉と〈価値〉の相貌を帯びた「生ける事象」=知覚所与として、すなわち(過去と未来を〈現在〉の内に包摂し、統合するような)「生ける時間体験」=持続として立ち現われるのである。

 その「時間の発生源」ともいうべき類的な〈無意識〉の領域こそが、生命と虚無、創造と解体の両義性を備えてダイナミックに流動する、不可知なる〈闇〉のコスモスにほかならない。

 フロイトはそれをエスと呼び、東洋の道教やヨガ、仏教の禅では〈龍〉と名付ける。

 西洋では、キリスト教の影響もあって、〈龍〉は、聖者によって退治される「悪役」として形象化されることが多い。(エジプト文明をはじめとする「キリスト教以前」の古代文明にあっては、そうではない。)

 東洋では全く逆に、中国でもインドでも、他の東アジア地域でも、〈龍〉は、基本的に、いのちの根源をつかさどる善なる存在であり、森羅万象に宿り、日輪や月や星辰とコスミックに照応し合う高貴なる生命、魂の霊妙なる導き手であった。苛酷な現世の地上的な生を美事に生き抜かしめる聖なる力の源泉であり、龍や蛇の図像は、その力の象徴として描かれた。

 しかし、人が我欲によって他者の生命を損い、ふみにじる時、〈無意識〉に中心を置く〈魂〉には濁り、汚れが生じ、〈龍〉は「悪しき姿」へと変容する。大小さまざまな龍たちが敵対し合い、闘争を繰り返し、悪因縁の轍(わだち)へと巻き込まれてゆく。

 人に宿った〈龍〉の次元、すなわち個々人の個的な無意識とリンクする類的な無意識の次元というものは、互いに交錯し、重なり合い、共振し、あるいは反発し合いながら、霊妙不可思議な〈えにし〉によって結ばれているのだ。

 洋の東西を問わず、古代以来の文明世界において、優れた哲人・宗教思想家たちが取り組んできた最も重要な課題は、〈悪龍〉の邪気・邪念がもたらした災いからいかにして身をかわし、いかにしてそのまがまがしき力とたたかい、それを克服・解毒し、〈善なる龍〉へと変容させてゆくか、という叡智の追求にあったと言えよう。それは、〈本能〉のもつ正しき力に目覚め、それを活かす道を知るということである。

 真の〈叡智〉は、〈本能〉を敵に回すものではない。

 本能の力を忌み怖れ、敵視し、観念的な道徳や合理主義のみによって己れの生を思い通りに「仕切ろう」とするなら、抑圧された本能はかえって歪み、遅かれ早かれ、〈無意識〉の中で〈悪龍〉と化して荒れ狂うであろう。

 昂進したストレスは、自傷行為的な表現をとるか、あるいは、他者や敵への不毛な攻撃という形をとって、代償的に吐き出されることになる。

 真の叡智は、〈本能〉に正しい居場所を与えてやること、すなわち、〈善なる龍〉としての生命的なかたちを与え、そのエネルギーを適切に解き放ってやることだ。

 それは、己れ自身の生命の充溢を図ると共に、己れとえにしある者たちとの間に、正しき相互扶助や自然分業のかたちをつくり上げてゆく道を模索することである。

 そのためには、私たちは、己れの内なる〈龍〉のささやきに、すなわち〈無意識〉の深みから立ち昇る微かな声に、正しく耳を傾ける術(すべ)を知る必要がある。

 しかし、私たちの個的な〈無意識〉は、さまざまな既成観念によって、がんじ絡めに縛られている。

 その既成観念のとらわれを脱し、心が真に望むものを見つけることは、容易ではない。

 私たちが何にとらわれ、何に苦しみ、何から解放されたいと望んでいるのか?

 それを教えてくれるものは、〈無意識〉の担い手である、私たちの〈身体〉の感覚である。

 私たちの喜怒哀楽の感情から、対象に対する微かな〈異和〉や〈親和〉の感覚に至るまでの、私たちの身体性の〈揺らぎ〉のあり方こそが、既成観念による呪縛の正体を教えてくれる。

 私たちが既成観念の皮膜を一枚ずつはがしてゆくごとに、私たちは、〈無意識〉の深みから立ち昇る〈渇き〉の声に、正直に耳を傾けることができるようになってゆく。

 魂の〈本体〉に、〈龍〉に近づいてゆく。

 魂の本体が〈龍〉であるというのは、個体としての生命存在をつかさどる不可知なる力の源泉が、個に宿り、個を個たらしめながら、同時に、個を超えた大いなる類的な〈主体性〉の次元にあるということだ。

 われわれ個々人の霊のかたち、(中国哲学風に言えば)心身に内在する固有の陰陽の〈気〉の流れと結びついた、その大いなる〈龍〉の次元こそ、われわれに摩訶不思議なる〈えにし〉をもたらしてくれるものであるに違いない。

 われわれにできることは、その己れを超えた不可知なる〈主体性〉=〈龍〉のはからいに心静かに身をゆだね、祈り、念じつつ、自らの心の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な〈渇き〉や〈促し〉の声に、忠実に耳を傾けることである。

 そして、その〈龍〉の促しの方向性に沿って、(己れの資質が許容する範囲内で)聡明な認識と判断を行い、決断し、己れ自身を賭けるという、固有の〈主体性〉を発揮することである。

 われわれの個としての主体性というものは、個を超えた類的な〈無意識〉をつかさどる、より巨きな主体性の内部に包摂され、活かされることによって、はじめて、固有にして肯定的な生の物語性というものを紡ぎ出せるのではあるまいか。

 己れの〈無意識〉の深奥から立ち昇る、純粋で精妙な渇きや促しの声を無視し続けたり、封印したり、敵対的に取り扱ったりして、幸せになれるなどと思ったら、大間違いだというのが、私の考えである。

 人は至らぬ生き物だが、幸いにして、めぐり逢いの機縁に恵まれるなら、修行し、魂を磨きながら、自分なりに幸せになることはできる。あるいは、少なくとも、幸せになろうと不断につとめることはできる。

 もちろん、〈幸せ〉の形は、人それぞれである。私がここで言う〈幸せ〉とは、「うつろ」ではない、生命的で自己充足的な、その人固有の生のあり方を指す。

 人の生きる営みを〈龍〉の導きと結びつけてとらえるという感覚・モチーフは、人類史における神話的な〈叡智〉の悠久の伝統につながるものである。

 アニメ『ゲド戦記』の難点は、死の恐怖に蒼ざめ、生の意味を見出せぬまま、うつろな魂を抱えてさまよう主人公の少年アレンと、生命の象徴である〈龍〉のイメージとの間の〈ギャップ〉の巨きさを、(少女テルーが代弁する)死生観の観念的な「お説教」によって、強引に埋めようとする不自然さにある。

 観客は、物語の終局部で、死を意識させられ、実存的な不安を励起させられるが、その不安を癒すような身体的な解放感のイメージは得られぬままに、観念的な死生観のメッセージを残像として引きずりながら、くすぶりを抱えた状態で劇場を後にしたのではなかろうか。〈龍〉は、(監督の意欲にもかかわらず)この物語では「生きていない」、つまりリアリティが無いのだ。

 しかし、このような難点にもかかわらず、アニメ『ゲド戦記』は、少なくとも、私たち現代人が直面している〈生き難さ〉の課題を、〈龍〉の伝統的イメージと結びつけているという点で、重要な問題提起をなし得ているといっていい。

 宮崎駿が、息子の勇気ある、優れた挑戦であり結実でもある、記念すべき監督第一作を不当に貶めた事を私は悲しく思うが、しかしながら、駿氏自身の資質からすれば無理もない、とも思うのである。

 彼は、大人社会のまなざしになじめない自身の資質を早くから意識し、子供性(幼児性)を偏愛し、過度に美化せざるをえなかったがゆえに、〈異形の存在〉たる己れ自身をシカトし、はじき出そうとする大人社会を必要以上に怖れ、そこに過剰適応し、成功せんとしたあげく、己れの深奥に宿る、生命的でありながら狂暴でもある〈無意識〉の両義的で広大な〈闇〉の領域への不当な恐怖の念に絡めとられ、〈表現〉を求めて溢れ出ようとする、四次元的な霊力の〈暴発〉を抑えようとして、敢えて、「魔法」に象徴される四次元的感覚そのものを封印し、三次元の〈生身〉のたたかいの内に、人間の生存感覚の〈根拠〉を回収せんとしたのではなかろうか。

『白蛇伝』で、白娘の「妖精」としてのあり方を、不吉なるものとして、かたくなに忌み嫌っていた僧・法海が、霊力を失って、ただの生身の人間の女に成り切った白娘の変身ぶりを見て、許仙との仲をようやく許し、恋人たちの前途を祝福し得たように、「魔法の封印」による絆の成就(幸せの成就)という宮崎アニメの理念的拘束、大衆へのメッセージの背後には、作家・宮崎駿の、己れ自身も含めた人間の内なる異形性に発する非日常的な狂気に対する〈怖れ〉の念が秘められていたようにおもわれる。

 だが、その身構えは、〈生き難さ〉を抱えた人間たちに、生への四次元的なまなざしの〈支え〉無しに、無理矢理強い「大人」になれという、強迫的なメッセージを送ることになりはしまいか?

 例えば、アニメ『もののけ姫』における「生きろ!」のメッセージに、私は、そんな強迫観念を覚えてしまうのである。

 生の内燃機関を枯渇させてしまって、疲労困憊(こんぱい)し切っている人々に対して、無理矢理オーバーヒートした生き方を迫るような〈不自然さ〉を感じてしまうのだ。

 だが、こんなふうに言うと、宮崎アニメファンの人の中には、反発を感じる人もいるかもしれない。

 もちろん私とて、宮崎作品の四次元的なまなざしの深み、その演出の力強さ、〈癒し〉のリアリティのたしかさについては、高く評価している。

『トトロ』論を中心とする宮崎アニメ論(『日常性のゆくえ』1992年刊)によって、評論家としてのスタートを切った自分である。この作家の作品の真価は誰よりもわきまえているという自負はある。

 その上で、敢えて、以上のような批判を行なっているのである。

 問題は、結局、「魔法」という言葉が象徴するものの〈内実〉をどうとらえるかという〈解釈〉の違いに帰着する。

「魔法」を、異形の魂を備えた異能の持主にのみ許された特権的な才能とみなすのか、それとも、人間一人ひとりの内に秘められた、あるべき〈まなざし〉の象徴とみなすのか、という違いだ。

 それはそのまま、私たちの人生への真向かい方、「立ち位置」の違いの問題でもある。

 

     13

 

「魔法」の記憶を温存し、それに「憧れる」ことと、「魔法」を自らの〈身体〉の四次元的な深みにおいて実際に生きることとは、全く違う。

 現代の私たちの社会では、大衆は、大成功を収めた、芸能人・スポーツ選手・アーティストその他の、ひと握りのカリスマ的なヒーローたちに、「魔法」の体現者を幻視し、彼らを崇拝し、魂を収奪されることで、己れの生を鼓舞せんとしている。

 もちろん、それも悪くはなかろう。

 なんらかの偉大な才能に恵まれ、それを磨き、発揮し得た者たちを己れの「神」として敬うことは、生きる上での励みともなり、温かい風を身体に送り込む営みでもありうるからだ。

 だが、「魔法」の体現者としてのカリスマ的な天才たちに、人生の〈奇跡〉の成就を視ようとする現代の大衆の中には、その憧憬とは裏腹に、〈奇跡〉とは縁遠い、不条理な、三次元的・地上的現実に這いつくばらせられている己れ自身の生きざまへの侮蔑や嫌悪の念を抱え込み、人知れず苦しんでいる人たちも、少なからずいるのではなかろうか?

 だとしたら、それは、不幸なことである。

 誰のものでもない、自らの固有の人生に、他者との比較を超えた、真のプライドと生きる手応えを見出し、さまざまな人との〈えにし〉に助けられつつ、幾多の苦難・障害をそのつど〈奇跡〉のようにくぐり抜け、人生における〈出逢い〉の不思議さをかみしめつつ、ひたすら、黙々と一本の道を歩み続けてゆく。

 そこにこそ、真の〈魔法〉があるのだ。真の花道があるのだ。

 生きるとは、己れの内に宿りながら己れを超えた力によって活かされることであり、また、己れの深奥から立ち昇る内的な促しに従って、悔いの無いように、未知の流れに自らを賭け、いのちの〈火〉を紡ぎ出すことだ。

 自らの人生に〈魔法〉の働きを視ずして、どこに視ようというのか。

 自らの人生に、生き抜いてきた事の、生かされてきた事の〈奇跡〉を視ずして、どこに視ようというのか。

 カリスマもけっこうだ。天才もけっこうだ。彼らの偉業や生きざまから、インスピレーションを受けるのも良い。

 私は高校野球ファンで、毎春・毎夏、球児たちが繰り広げる「一期一会」のなまの闘いのドラマには、大いなる感動を与えられている。

 また、テレビの特集番組などで、さまざまな、その道一筋の職人さんや無名の生活者の人たちの仕事ぶりや暮らしぶりの一端に触れるのも好きだ。

 私の知人たちが時に垣間見せてくれる人生の表情・哀歓にも、胸打たれることがある。

 そこには、人生の修羅場を斬り抜け、己れの固有の生を美事に織り上げてきた者の年輪の厚みと、人と人とのえにし、めぐり合わせの不思議さ、人生という〈物語性〉の霊妙さがにじみ出ている。

 こういったさまざまな人たち、同朋の姿を凝視してみることは、実に味わい深いことであり、私たちにとっても大きな励みとなるものだ。

 だが、どんな天才・ヒーローたちの生きざまも、また、有名無名のどんな人たちの生きざまも、そのドラマに感動するだけでは、何にもならない。

 他ならぬ己れ自身の人生の内に、生き抜いてきた事の〈奇跡〉、その霊妙不可思議さに対する、〈畏怖〉の感覚を覚えないならば……。

 改めて、繰り返しておきたい。

「魔法」に「憧れる」ことと、「魔法」を自ら「生きる」こととは、全く違う。

 この「紙一重」の差が指し示す〈まなざし〉の相違こそ、私たちが近代文明の強いてくる〈閉塞感〉を超えて、「脱近代」の生へと転生できるか否かの、〈分岐点〉なのだ。

 宗教的なコスモスを、己れの身体の内に、ひとつの〈実感〉として抱え込んでいた「前近代」の共同体民の、四次元的な生存感覚が、近代人であるわれわれの痩せ細った、三次元的な感覚の〈虚〉をつくのも、そこなのだ。

 己れの身の内に四次元の働き、力を感じ得ぬ者の生は、究極において「うつろ」である。

 そして、「うつろ」であることは、私たちの三次元の〈生活〉という、〈未知〉の恐怖にさらされた現場を生き抜く、究極の拠り所とはなり得ないのである。

 そこには、「生きる」ことの〈絶対感〉というものが欠落しているからである。

『白蛇伝』のアキレス腱、宮崎アニメのアキレス腱は、単にアニメ史だけの問題ではない。私たちの現代文明の暗部の根源を象徴するアキレス腱の問題でもあるのだ。(この稿続く)

 

 

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