〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第12回) 川喜田晶子

  • 2018.05.28 Monday
  • 21:08

 

隠し持つ欲望

 

 無意識を表現してこその文学。

 俳句や短歌といった定型短詩において、無意識に隠されているものはどれほどの振幅で表現され得るだろうか。

 

致死量の遊びせんとや犬ふぐり  三木冬子

 

肉体やとりとめもなく青葉して  鳴戸奈菜

 

能面のくだけて月の港かな  黒田杏子

 

馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ  塚本邦雄

 

「致死量の遊びせんとや」は、もちろん『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」を踏まえているだろう。

 後白河院が夢中になったという今様を集めた『梁塵秘抄』には、ニヒリズムをバネとして現世を享楽的に肯定せんとする、時代の転換期の過剰な律動を感じるのだが、この句では、「犬ふぐり」の幼児的な愛くるしい小花が無数に咲き乱れる姿と取り合わせられて、「致死量」の過剰さもどこか日常的な視野に刈り込まれている。

 だが、その可憐な姿の「数え切れなさ」という非日常性への渇望は、他界へのなだらかな跳躍をイメージさせ、このままその渇望が増殖するなら「致死量」を超えるのではないかという不安・誘惑を喚起しているのだ。そこに『梁塵秘抄』のニヒリズムが適確に招き寄せられている。

 

 鳴戸奈菜の句における感動の中心は「肉体」。

「青葉する」のが樹木でもあり自身の肉体でもあるように感じた時間の、突出した手触りをそのまま読み手に差し出している。

「とりとめもない」のは、肉体の主の意図など蹴散らして青葉しているからであり、青葉することでいったい何をしようとしているのかも定かではないからだ。その、因果律とも目的性とも無縁の、無邪気なエロスを撒き散らす森林のような肉体を、己れが隠し持っていたことに感動しているのだ。その感動の青々とした肉感性に、読み手もまた、とりとめもなく感覚がざわめき始める。

 

「能面」が砕ければ、演者の素顔が顕われる。

 フォルムの固定された〈面〉であるがゆえに、多彩な情念を抽象度の高い形でシンボリックに表現し得るが、演者の固有性を隠匿する〈面〉でもある。

「月の港」と取り合わせられることで、砕け散った能面はきらめくさざ波と化して、情念の舞台としての「港」に浮かぶような映像を喚起する。

 砕けてこそ、女。

 破砕されたペルソナ。

 寄せては返す固有の情念のさざ波。

 大海の無辺に連続する「港」という舞台の、不安的な濃密さと底なしの受容力。

 

 塚本邦雄は周知のように、寺山修司・岡井隆らと並んで前衛短歌の旗手として名を馳せた歌人である。絢爛たる芸術至上主義的作風において散文的・地上的日常を拒み続けた塚本の代表歌。

 三木冬子の句が、ニヒリズムを柔和な日常的視野に刈り込んだのとは対照的に、日常の営みに潜む非日常性への渇望が、当然のように過激な境地へと一線を踏み越えてゆく姿を描き、戦後的な〈現実〉の枠組みを異化しようとした。

 下の句に露呈する単純な芸術至上主義的倒錯性の背骨を、厳しく鍛え上げているかのような上の句には、酸鼻で散文的な〈現実〉の裏返しとしての〈幻想〉、といった枠組みを、内側から突き詰めることで超えようとするかのような、塚本の不敵な気概が滲む。

 その馬に騎乗し、人が己れの命を預けるのであれば、馬を洗うという営みは、その魂が冱(さ)えわたるまで為されなければ意味がない。半端な洗い方では、人と馬の一体感は生まれない。人と馬が一体となってもう一つの存在としての魂を獲得することで、馬の疾駆には〈現実〉を超える澄み切った聖性が伴う。その聖性を引き出すように「洗う」という営みは為されねばならないはずだ。それが為されない洗い方では、人は騎乗によって命を落としかねない。

 では、そのような馬の洗い方に匹敵するように人を恋うならば。

 己れと相手が一体と化して、もう一つの新たな存在として生きられるように「恋う」という覚悟、それは、我執によって相手を殺してしまうといったみすぼらしい現代人の病理などではなく、互いをこの〈現実〉から解き放つ行為であり、〈現実〉を殺し、別の次元を獲得する覚悟であるかもしれない。殺めるのは、三次元的現実に拘束された相手の魂を、である。そのように恋うのでなければ、この〈現実〉のみすぼらしいが酷薄な強制力によって、二人とも魂を圧殺されてしまうだろう。

〈現実〉を認めない、筋金入りのニヒリズムに支えられてこその芸術至上主義であり、矮小だが強固な〈現実〉を不断に殺して、己れを別の次元で生かさんがための、危うい命がけの綱渡りを、塚本は作歌によって繰り広げていたのだとも考えられる。

 人は誰でも己れを無化して誰かと一体化してしまいたいという願望を隠し持っている、という倒錯的命題を無責任に垂れ流すことと、〈現実〉を殺さなければ己れの生きる場所が無いという〈生き難さ〉によって命がけで〈表現〉することとの間には、大きな隔たりがある。

 命がけの〈表現〉は、「この場所を超えてみろ」と体を張って訴えかけてくるのだ。少なくともこの一首には、塚本の並々ならぬその覚悟が端麗に吐露されている。(この稿続く)

 

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