〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第14回) 川喜田晶子

  • 2018.07.16 Monday
  • 15:23

 

想い出す世界・忘れる世界

 

 この世界の可視的な成り立ちを根底からひっくり返すことも、定型短詩は得意である。短さのゆえに、読み手は仮構された世界の奥ゆきをいかようにもはるばると想い描くことができる。異世界のほんの欠片を提示されるだけで、私たちは深い呼吸を取り戻すことができる。「もしも」が「ほんとうは」へと壮大に膨らむ。

 

月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ  池田澄子

 

 月の夜の柱の望みを肉感的に感じ取り、応答する作者の口ぶりが微笑ましく躍動的だ。

 そんなに咲きたいのなら、遠慮なくどうぞ。

 家を支える「柱」として加工され、身動きすることを許されなくなってしまった樹木が、「柱」としてなお、呼吸し、世界を感受・感応し、望みを抱きもする。削られた望みが、月の夜には芯からうずくのかもしれない。どこか、社会という建築物の一部として加工され、固定され、本来の息づかいを、芯からうずく望みを、忘れてしまった現代人の姿にも重なる。

 一度咲いた「柱」は、その一夜だけではなく、それからも「咲く」ことのできる命を生き続けるだろう。そんな「柱」とのこれからのひそやかな共同性まで受容しながら、作者は「どうぞ」と勧めているように見える。

 

綿虫に一切をおまかせします  川崎展宏

 

 一切をおまかせするのが神仏ではなく、いかにも非力そうな「綿虫」であることのかわいらしさと切なさ。作者はどれほどの難儀をどのように行き詰まったのだろう。理知の限りを尽くして、神仏にも祈り尽くして、もはや打つ手が無いと感じたときに、冬の日をはかなげにちらほらと舞い飛ぶ「綿虫」に全てをゆだねる愚かしさは、もしや聡明さなのではないだろうか?

 もしこの世の深い摂理を取り仕切っているのが実は「綿虫」だとしたら?

 望みとそれが叶うこととの筋道を、強固で冷厳な権力としての非合理に握られ、操られるくらいなら、いっそ、そのような権力からはるかに遠そうな「綿虫」に祈りたい。ゆだねたい。彼らの、我執も強制力も無さそうな存在感に、この世の摂理も己れの一切も、まかせたときに見える風景に賭けながら祈りたい。

 強固な意味を強いられる冷徹さから逃がれ、ぎりぎりのところでニヒリズムからも逃がれ、合わせる掌の内に捉えようとする〈意味〉の軽やかさと温かさ。

 

満開の森の陰部の鰓(えら)呼吸  八木三日女

 

 むせかえるような満開の桜の森。

 群れとしての桜花の息づかいを濃密に浴びた作者は、水に漬かってうごめく生命体として森の総体を感受してしまう。森の存在ゆえに、世界が〈水〉の相貌を帯びる。その森を一つのコスモス(宇宙)たらしめている「陰部」を探り当てるのは、作者の「目」ではなく、魂の拍動ないし呼吸であろう。めくるめくような〈闇〉のカオスとしての「陰部」において、森とともに作者もまた「鰓呼吸」を始める。原始の息づかいとカオスの記憶に浸潤される時間。

 

霧なめて白猫いよよ白くなる  能村登四朗

 

 霧をなめることで、白猫がいよいよ白くなる、という因果律によって、世界が揺さぶられる一句。

 白猫がいよいよ白くなることで、霧の中でその輪郭が消えてしまいそうな映像が喚起される。その映像は不快ではない。不安をそそるが魅力的である。

 では、私たちも霧をなめることで、存在の輪郭を消すことができようか?

 その問いは、自分の存在を霧に同化して消し去りたいという不穏な渇望を、己れの内にまさぐる契機となる。

 存在とは、そもそも霧から生まれて霧に還るものではないのか?

 不穏な問いが連鎖反応のように湧き出でて、輪郭を保持している己れの肉体の、確かさと不確かさをもてあますようになる。世界の輪郭もまた、不確かなものなのだと気づいた肉体を抱えて、あたりを見まわすようになる。

 

炎えるかもしれぬ薊(あざみ)を束ねおり  永井江美子

 

 薊という花は、異形性と押し殺したような情熱を感じさせる。

「炎えるかもしれぬ薊」は、だから作者の内にあるそのような情念の喩であろう。己れの内に、いつ炎えるかわかったものではない何かを抱えている。「束ねる」という行為は、それをなだめるようでもあり、なだめることで炎えるエネルギーをそそっているのかもしれず。己れの手の為す「束ねる」のゆくえを待ち構える目線が艶やかだ。

 

尾をいつか忘れていたり秋の暮  酒井弘司

 

 作者は狐である。人間に変化(へんげ)して、人間の女と出逢って恋をして、今では女房と子どもとともに穏やかな日常を送っている。誰にも、女房にさえも、狐であったことなど気取られずに。

 秋の暮にふと、夕空を眺めていた刹那、「尾をいつか忘れてしまっていた」ことに気づく。自分がもとは狐であったことや、尾を持っていたことを思い出すのではなく、「忘れちまってたな」ということに気づくのである。

 もとの狐の性(さが)が顔を出した、思い出した、という瞬間が詠まれているのではない。尾があったことなどいつか忘れてずいぶんと長く暮らしていたものだ、忘れられるはずもないものをよくも忘れていたことよ。その気づきに感動の焦点がある。

 狐と尾は、作者の内なる異形性の喩であろう。

 この世の仕組みからはみ出してしまいそうな性(さが)を抱えてひりひりと生きていたのに、よくもまあ、生活というやつは、日常というやつは、自分にそれを忘れさせて、生きさせるものよ。

 作者にとって、句作とは、時々己れの「尾」のありようを確かめる営為であるのかもしれない。

 そして、私たちの〈生〉が、とある狐の転生後の時間だとしたら?

「尾」の想い出し方と忘れ方のはざまに、誰の人生も滲むようにおもわれる。(この稿続く)

 

 

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