東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第11回) 川喜田八潮

  • 2018.07.17 Tuesday
  • 14:38

 

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 悲哀感と不条理感に打ちのめされた、和魂(にぎみたま)偏重の植物的な生存感覚、東洋的な無常感、ニヒリズム(ペシミズム)、諦観といった、前近代的・伝統的な土俗共同体的美意識によって支えられたエートスが、この時期になって一気に浮上してきたのは、一九六〇年代前半という、経済至上主義に蝕まれた肉食動物的な業界人・サラリーマンの増大する世相に対する、いわばアレルギー的な反動が、高度成長という偽りの〈光〉の裏面に秘められた〈闇〉の鬱屈、苦しみ、渇きの〈表現〉となって、溢れ出てきたせいではあるまいか。

 だが、それはすでに、「五〇年代」の表現にみられた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉と、己れの主体の底、身体の底に、闇と光のダイナミズムを感受するというコスミックな感覚を失っていた。(ちなみに、六〇年代前半には、周知のように、こういった〈和魂〉のみに偏した作品群とは逆に、獰猛な生きるエネルギーと闘争の修羅場を描き、〈荒魂〉のみを強調する作風を示した白土三平の劇画世界があったわけだが、彼の作品群もまた、和魂と荒魂のすこやかな〈均衡〉を逸していたという点では、同じ穴のムジナであり、和魂偏重のペシミスティックな表現と、いわばメダルの表裏のような関係にあったと考えられる。両者は共に、六〇年代という、経済至上主義に汚染された時代の、肉食的な文明によって追いつめられた〈土俗〉の宿命を象徴するものとみなすことができよう。)

 アニメの『安寿と厨子王丸』を覆っている、主人公たちの和魂のみに偏したいびつさ、脆弱(ぜいじゃく)さは、そういう時代の不健康さを如実に物語っている。

 特に、最終部のクライマックスで、山椒大夫とその息子・次郎の罪一切を許すという設定には、唖然とするほかはない。カタルシスも何もあったものではないのだ。

 鷗外の原作では、あたかも〈自然〉現象を記すように、淡々と客観的に姉弟の運命を叙述しているのだから、言語の硬質な〈抽象性〉によって不条理性が緩和され、したがって、このような結末も、「仕方ないなァ」と、変に因果関係のリクツで納得させられて、ついつい、そのまま受け容れさせられてしまうのだが、アニメの方ではそうは行かない。

 姉弟の哀切な運命にわれわれが全身的に感情移入し、悲しみに打ちひしがれてしまうからである。「いくらなんでも、これはないゼ」という気持になってしまう。

 もちろん鷗外の原作を踏まえて創られたアニメなのだから、当然といえば当然の結末ではある。原作では、山椒大夫の一族は、丹後での人買いを禁止され、奴婢の解放を強いられた代わりに、罪を許されたばかりか、解放された元の奴婢たちが大夫から「給料」をもらうことで労働意欲が高まり、その結果、ますます富み栄えることになったというのであるから、考えてみれば、こちらの方も、実にやり切れない、「うさんくさい」設定というべきである。

 私たちは、鷗外の〈文体〉の力に幻惑されて、この作品の背後に隠されている作者の政治理念の「うさんくささ」に対して、判断停止にさせられているのだ。

 この原作の結末は、軍医総監にまで出世し、明治近代国家を支える官僚の一人として、〈治者〉の位相に身を置いていた森鷗外が、天皇制イデオロギーを支える「修身・斉家・治国・平天下」の儒教的教化の理念をさりげなく織り込めた事によるとみてよいだろう。

 

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「目には目を、歯には歯を」の復讐理念を、人情の自然、人間性の道理として、法や掟の内部に一定範囲内で繰り込むことができていた中世や近世のような社会ならともかく、われわれの近代国家において、個人の私的な復讐理念の実力行使を道徳的・法的に容認したならば、収集のつかない、アナーキーな混乱に陥ることは必定(ひつじょう)であるから、国民から、犯罪行為に対する私的な処罰権を取り上げて、それを国家権力による法的判断に委ねるというのは、およそ揺るがすことのできぬ、近代法治主義の理念であり、大義である。

 王朝国家の官吏として出世し、山椒大夫一族に寛仁大度の処置を下す厨子王の〈治者〉としての姿勢の背後には、鷗外が理想として掲げた、明治天皇制イデオロギーと癒着した儒教的な徳治主義が横たわっているとみてよいが、その道徳臭をカッコに入れれば、そこに透けて視えるのは、まぎれもない、近代国民国家の公権力に根拠をもつ、法治主義による裁きの理念なのである。

『山椒大夫』では、怨恨による私的な報復の感情というものは、完全に否定的な扱いを受けており、その徹底ぶりは、丹後での人買いを禁止され、奴婢を解放させられた代わりに、罪一切を許された山椒大夫一族が、その後、かえって「富み栄えた」という叙述によってもうかがうことができる。

 鷗外的理念によれば、一切の不条理は、良き〈法治〉を踏まえた良き〈統治〉によって贖(あがな)われるべきものなのである。

 鷗外の原作を踏まえて作られたアニメの方でも、〈公権力〉に根拠をもつ裁きの理念はそのまま継承されており、所有する奴婢をことごとく解放せよと命ずる厨子王に対して、反抗的な態度を示す山椒大夫と次郎に向かって、「帝(みかど)」の権威を口にし、平伏させるシーンには、それがよく表われている。

 しかもアニメでは、厨子王はなんと、山椒大夫と次郎による過去の奴婢への虐待の罪を許したばかりか、己れを襲撃し暗殺せんとまでした言語道断な所業までも不問に付すのである。アニメの青年・厨子王もまた、王朝国家の一端を担う、理想化された有徳の〈治者〉に成り切っており、己れのこうむった不条理への〈怨恨〉の全てを、ものの美事に抑圧し、法的な〈善政〉の観念へと代償的に昇華してみせているのである。

 もっとも、このアニメの厨子王像は、鷗外の原作のような、明治国家的な儒教的道徳臭をひきずっているというよりは、むしろ、公権力と一体化した戦後民主主義・ヒューマニズムの観念性の象徴とみるのが、当を得ているとおもわれる。

 どっちにしても、同じ穴のムジナである。

 

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 ちなみに、こういった鷗外的理念の行き着く先が、二〇〇〇年代以来、人気テレビ番組としてヒットし続けている周知の刑事ドラマ『相棒』(テレビ朝日放映)の主人公、水谷豊演ずる警視庁特命係の敏腕警部「杉下右京」である事は、言うまでもない。

 杉下右京の信奉する、極度に聖化された法的な〈正義〉の理念とヒューマニズム、そして、そのリゴリズムと矛盾しつつも表裏一体となった、社会へのクールでリアルな観察眼と人間心理の闇への透徹した洞察力……。

 これらの特性は、私には、明治官僚制国家の有能な構成メンバーの一員として勤めながら、その一方で、人間心理にたけた、優れた文学者として日本近代文学の確立に寄与した森鷗外の二面性と重なって視える。

 共に、一面では、極度に観念的な理想主義者でありながら、他面では、それと矛盾する、妙に地に足の着いた、冷徹なリアリストであるという、天上と地上に分裂した〈二重性〉を備えているのである。

『相棒』というドラマが、かくも長年月にわたって根強い人気を保ち、人々を引きつけて止まないのは、杉下右京によるクレバーな謎解きの面白さもさることながら、この主人公の呆れ返るほどに硬直した法治主義的な理想主義がかもし出す、なんとも言えぬ〈息苦しさ〉と、事件の背景に横たわる、不条理な地上の三次元的現実にがんじ絡めとなった被害者や犯人の生態の〈救いの無さ〉のコントラストが、われわれ現代人の視聴者の〈生き難さ〉の感覚、そのマゾヒスティックな痛覚を強烈に刺激するからである。

 われわれ現代人は、これほどにも救いの無い不条理な実相に置かれているのだ、しかもそれは、人間という生き物に元々天から偶然的に与えられた運不運であり、業苦や悪因縁の宿命なのだという、陰惨な近代リアリズム文学的な人生観・世界観が、この社会派刑事ドラマの背後には、常に暗くよどんだように流れている。

 それだけに、杉下右京の振りかざす観念的な理想主義の息苦しさ、押しつけがましさが、(犯人を情け容赦なく追いつめてゆく彼の冷徹な有能さと相まって、)「どこにも出口が無い」というわれわれの〈閉塞感〉を、より一層強く刺激するのである。

 それは一時(いっとき)の間、私たち視聴者を〈マゾヒズム〉の快感によって縛り付ける。

 放送を観終って、そのマゾヒズムの呪縛が解けた時、私たちは、なんという空しさ、うつろさを感じさせられることだろう。

 性懲りもなく何年にもわたって、毎週のように、私はこのテレビドラマを観続けてきた。中には、ごく稀に、後味の悪くない、出来ばえの良い物語の回もあったけれども、総じて後から振り返ってみた時、これほどにうつろで、やり切れない想いにさせられるドラマは他に無い、と言ってもよいくらいだ。*

 このうつろさ、やり切れなさは、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に感じた想いと似ている。(この稿続く)

 

 *この論稿を書いた後、つい先頃(二〇一八年・春)、太田愛の脚本による『相棒―劇場版検戞紛極椣豐篤帖二〇一七年二月公開)のテレビ初放映を観た。私見では、テレビ版・劇場版全て含めた上でも、『相棒』史上、稀有といってもいいほどの、秀逸な出来ばえであった。哀切さが胸に沁みて、しかも後味が悪くなかった。全然期待していなかっただけに、正直驚いた。

 勘どころは、〈国家〉という制度的な虚構と、個々の無名の生活人が置かれた〈生身〉の生の現場の、めくるめくような〈落差〉の痛覚を、きちんと描き切ることで、私たちにとっての真の〈共同性〉のかたちとはいかなるものであるべきか、という問いかけを、観客に真摯に突きつけてみせている点だ。

 風土・民族・伝統といった概念と不可分の「日本人」としてのアイデンティティー、すなわち無名の生活人の「生ける絆」と(あるべき幻としての)〈故郷〉への回帰願望の延長上に紡ぎ出された〈共同性〉のイメージである「日本」という「クニ」のかたちと、「最大多数の最大幸福」の建て前のもとに、法治主義と市民主義的モラルによって強力にガードされた(民主主義的な)「近代国民国家」というメカニックな制度的共同体とを峻別し、後者が強いてくる冷酷な世界風景を、能う限り、しりぞけようとしているという点だ。

 特に注目すべきは、この『劇場版検戮梁静聴Δ竜嗚椶任蓮▲謄譽喩任箍甬遒侶狆貳任之り返し強調されてきた、杉下右京の、法治主義を居丈高(いたけだか)に振りかざす「啓蒙的説教」が全くみられず、ただひたすら、犯人の哀切な心事、心の秘密に迫り、寄り添おうとする優しさがにじみ出ていることである。

 物語の終末部で、私たちは、法・制度・国家といった冷酷な観念の化け物がすーっと風景から消え去り、ひとりの人物の生涯の軌跡、言葉にはならぬ、その無量の哀歓を、ただ静かに受け止めている己れ自身を感受する。

 負傷して車イスに乗った右京が、公園の深々とした樹木の中から、しばし無心に空を見上げているラストシーンも、すばらしい。

 私にとっては、悲しい、嫌な想い出ばかりの『相棒』シリーズだが、この『劇場版検戮蓮⇔匹出逢いの記憶を残してくれた、得がたい作品の一つとなった。

 

 

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