「きらめきぷらす」というウェブマガジンからお声かけいただきまして、川喜田晶子の写真短歌の連載が始まりました。
「文学」のコーナーにて、月に一回程度の予定です。
お楽しみいただければさいわいです。
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★川喜田八潮の新作時代小説が11月1日、アマゾンおよび全国の書店で発売となりました。
闇の世間師・音羽と、彼女の許に集結する仲間たちの活躍を描く、
痛快無比の時代小説『闇の水脈 愛憐慕情篇 第一部』『闇の水脈 愛憐慕情篇 第二部』同時発売!
★あらすじ
天保八年(一八三七)初冬、越後から信濃に向かって街道を南下する旅芸人の一座があった。
一座の三味線弾き・音羽と踊り子・美禰(みね)は、ある夜、国境に近い山中で、刺客たちに襲われて重傷を負った、元・美濃岩村藩士・山岡市之進の命を救う。
不義密通の科人(とがにん)である市之進は、岩村藩の重大機密を握って、決死の覚悟で藩を脱け、江戸をめざしていたのだった。
一座にかくまわれた市之進は、やがて、刺客の執拗な追撃をかわすため、音羽・美禰と共に、信州から上州への逃避行を敢行することになる。その一行に、刺客の一員でありながら侍の暮らしに嫌気がさし、江戸へ出て戯作者をめざそうとする、服部慎之助という内気な若者が合流する。慎之助は、藩士の身分を捨てた自分をかくまってくれた音羽を、母親のように慕い、しつこく付きまとうようになる。
上州に向かった四人は、しかし、国境の浅間山の麓(ふもと)で刺客の一団に襲われ、離ればなれとなってしまう。市之進と美禰は上州に逃げのびるが、音羽と慎之助は、信州に舞い戻る羽目になる。
市之進を一途に慕う、情熱的な少女・美禰と、音羽に偏執的な愛欲を抱く若者・慎之助。
二組の男女の愛を乗せて、物語は信州へ、さらには上州・江戸へと激しい展開をとげてゆく。
一年後の天保九年・秋、音羽と慎之助は、信州・小諸の宿(しゅく)の長屋に、ひっそりと隠れ棲んでいた。音羽は小夜(さよ)と名を変え、芝居小屋・信濃座の三味線弾きに、慎之助は誠吉と名乗り、戯作者として頭角を顕(あら)わすべく、世話物(せわもの)の創作に打ち込んでいた。その二人の前に、後に彼らを奈落の底にひきずり込むこととなる、凶悪な奸計(かんけい)の魔手が忍び寄っていた……
蟻地獄のような愛欲と不条理の試練をくぐり抜け、暗黒の中から転生をとげた闇の世間師・音羽と、数奇な縁(えにし)の糸に導かれて、彼女の許(もと)に集結した仲間たちの、絆と活躍を描く、痛快無比の時代小説!
*表紙カバーは川喜田晶子のphotoです。
★「闇の水脈」シリーズとは…
諸価値のせめぎ合う開国前夜を舞台とした時代小説シリーズであり、闇の世間師「音羽一家」の活躍を中心に描かれています。ここで言う世間師(せけんし)とは、法や制度・掟の支配する表の世界では解決不能な難儀を抱えた人々に、ひそかに手を差し伸べ、活路を切り拓く力添えをする、闇の仕事師たちのことです。
昨年10月に発売された『闇の水脈 天保風雲録 第一部』『闇の水脈 天保風雲録 第二部』では、幕末ニートである旗本の青年・刈谷新八郎の苦悩と新生の予兆が描かれました。『闇の水脈 愛憐慕情篇』は、『天保風雲録』でも活躍し、新八郎の転生に関わり合う音羽一家の元締・音羽を主役に据えているものの、それぞれ独立した作品として成立しています。
まだ「闇の水脈」シリーズに出会っておられない方は、本作『愛憐慕情篇』から読み始め、世間師としての音羽の試練と成長、そして仲間たちが彼女の許へ集結して「音羽一家」が誕生する、その波瀾万丈の秘話を味わってから、『天保風雲録』へと読み進めていただくことで、両作品の面白さが倍増することでしょう。
★amazonのリンクは
『闇の水脈 愛憐慕情篇 第一部』→https://www.amazon.co.jp/dp/443430965X/
『闇の水脈 愛憐慕情篇 第二部』→https://www.amazon.co.jp/dp/4434309668/
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寺山修司の『田園に死す』の表現世界の中に、私たちは、高度成長末期以降の〈近代化の最終局面〉によってもたらされた(私たちの現在の消費資本主義の時空へとつながる)産業社会の病と対峙するための、二つの切実なこだわりの場所を見出すことができる。
ひとつは、存在の〈闇〉への深いまなざしの欠落したところに、真の〈主体〉=私というものはなく、真の〈私〉なくして、生ける〈生活〉という充実した物語的実体もまた、成立不能となるのだ、ということ。
しかし、〈闇〉は、六〇年代半ば以降の現代の高度産業社会の可視的風景=現実の中では表現を封じられており、敢えて表現を与えようとすると、ダリの絵画のように、生ける現実界を不条理な「網膜的現実」として貶め、シュールレアリスティックな、あるいは精神病理的な渇きの表現しか可能ではなくなる、というジレンマが待ち受けているという点。
この二律背反的なアポリアを、寺山はいかに超えようとしたのであろうか。
《裏町にひとりの餓鬼あり、飢ゑ渇くことかぎりなければ、パンのみにては充たされがたし。胃の底にマンホールのごとき異形の穴ありて、ひたすら飢ゑくるしむ。こころみに、綿、砂などもて底ふたがむとせしが、穴あくまでひろし。おに、穴充たさむため百冊の詩書、工学事典、その他ありとあらゆる書物をくらひ、家具または「家」をのみこむも穴ますます深し。おに、電線をくらひ、土地をくらひ、街をくらひて影のごとく立ちあがるも空腹感、ますます限りなし。おに、みづからの胃の穴に首さしいれて深さはからむとすれば、はるか天に銀河見え、ただ縹渺とさびしき風吹けるばかり。もはや、くらふべきものなきほど、はてしなき穴なり。》(「悲しき自伝」、「新・餓鬼草紙」所収)
いかなる物質的な代償形態によっても、また、いかなる知識・芸術によっても充足させることのできない、人間存在の深奥に息づく〈闇〉への飢渇のかたちが、戦慄すべき寓喩によって、鮮やかにわしづかみにされている。
この非日常的・天上的な〈闇〉のエロスへの傾斜は、いうまでもなく、地上的・現世的な肉体を囲繞する諸々の限界性・不条理性からの不連続的な〈超越〉への衝動、すなわち死への吸引力と背中合わせのものであり、究極的には、母なる〈子宮〉への幻想的な回帰願望の変形であるといってもよい。
それは、生命と虚無の重層的な両義性の葛藤によるダイナミズムを通して、この世の一切の人間的な営み、一切の日常的で世俗的な生活や野心、生きる努力というものを根底から規定する隠された動因となりうると同時に、ある不条理性のボーダーを越えて生き難さの懸崖に追いつめられた個人を、引き返すことのできない非日常的で彼岸的な美や狂気の棲み家へと吸収してしまうという、現世離脱の衝迫へと駆り立ててゆく。
寺山修司は、こういう非日常的な〈闇〉の極北の位相への圧倒的な吸引力の怖ろしさ、そのようなブラック・ホールへといや応もなく吸い込まれてゆかざるをえない不幸な人間の置かれた地獄の実相、すなわち不条理性の傷の再現・反復のもたらす反現世的な〈超越〉への衝動の痛ましさというものを、よくわかっていた人だった。
そして、そのような、自他を破壊してやまない異形の〈闇〉への歪んだ衝迫・吸引というものが、何よりも、〈闇〉そのものを不吉なものとして排除し、人々の魂を、観念的でヴァーチャルな偽りの〈光〉のコードの内に回収し、社会的・制度的・集団的に飼いならそうとする近代主義的な目線によってもたらされるのだという逆説的なカラクリを洞察していた、稀有の表現者でもあった。
〈闇〉は、〈闇〉を圧殺し封印しようとする近代合理主義のまなざしやキリスト教を淵源とする観念的なヒューマニズムや市民主義によるおためごかしのシステムから真に脱け出したところに、はじめて、私たちの生を真に充足ならしめる、すこやかな表現形態を取り戻すことが可能となる。
それは同時に、合理主義をベースとする産業文明の痩せ細ったヴァーチャルでフラットな光景の裏返しであり、その地上的光景のもたらす空虚さや不条理性に対する幻想的・倒立的な代償形態ともいえる、狂的な、歪んだ闇への偏執的なのめり込みを超える地平に立つ、ということでなければならない。
すなわち、〈闇〉は、一切の近代主義的な、観念的なとらわれを解体させるための粘り強い営みの持続の中で、存在との〈生身〉の身体的交感と意味づけの文脈を紡ぎ出すというたたかいの内に、はじめて、そのすこやかな表現形態を蘇生させることができる。
それはまた、戦後社会をつくり上げてきた旧世代の大人たちを呪縛し、今なお呪縛し続けている〈存在への不信〉の想念を解体し、ふるえるようなおもいで、生命と虚無の両義性の綾なす神秘な闇のはからいによって司られた、存在の未知なる光芒の物語に、己れ自身の身体を賭け、信じ、祈り、修復し、不可知なる闇の中で己れの存在の〈中心〉を保ちながら、日々の生活を無心でくぐり抜けてゆくという、新たなる〈主体性〉の不断の創造の営みに、生きるよすがを求めるということだ。
もちろん、私のこういう生への身構え、覚悟性が、ひとつの思想的な立場にすぎぬことはよくわきまえている。
私とは全く異質な風景を生きる人々、相対立する場所に立つ人々、立たざるをえない人々がおびただしく存在していること、また、これからもおびただしく存在し続けることも、よく了解しているつもりである。それはそれで、一向にかまわないし、人さまざまであってよいと考えている。
ただ、私は、自身がこのような認識の場所に辿り着くまでの必然の流れというものに、ある種の普遍性を感じないわけにはいかないし、己れの思想的な道程や辿り着いた場所が、二十一世紀の〈脱近代〉への大道の一つにつながらんことを祈念しないわけにはいかない、というだけのことだ。
寺山修司は、このような私なりの思想的な文脈の中では、改めて断るまでもなく、今もって畏敬の念を抱かせてくれる先達の一人であるが、それと同時に、私にとっては、超えてゆくべき痛ましいアキレス腱を抱え込んだ旧世代の表現者たちの一人でもある。
彼は、〈存在への不信〉の想念をついに超えることができなかったし、高度成長末期以降の、何の非日常的なふくらみももたない、観念的で空虚な産業社会のアカルイ廃墟の時空の〈空隙〉を縫いながら、日常的にして非日常的な〈生身〉の振幅の物語を紡ぎ出し持続的に織り上げることで、ひとりの固有の生活者として〈闇〉の水脈を掘り当てるという、地味だが、地に足の着いたささやかで強靱な道程に辿り着くこともかなわなかった。
そのように生きることができるためには、幼少期以来の家族関係における愛憎と戦争体験による彼のトラウマや、そのパターン的な再現ともいうべき戦後の生活体験の激動による痛手の不条理感は、あまりにも深かったし、その不条理感に対峙するための、殺気あふれるグロテスクな非日常的美意識の体現者としての華麗なアングラ的才能が、水を得た魚のように自在に遊泳できる表現空間が、高度成長期以降の、〈闇〉を急速に駆逐していく、いびつな戦後近代社会には、申し分なく準備されていたのである。
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しかし、寺山修司は、己れの不幸の本質的なかたちというものがよく視えていた人だった。
彼は、己れの根深い不条理感によって追い込まれる幻想的なシェルターとしての〈闇〉の世界への安住が、〈現在〉を生きる〈生身〉の身体的存在としての己れ自身の実存を巧妙に腐蝕させ、現実の産業社会に生きる無名の大衆=生活者の無意識との〈接点〉を見失わせ、表現者としての志を風化させると共に、この世界をたしかな手ごたえをもってくぐり抜けているという、生の充溢感を喪失させることで、いつしか、己れの存在そのものを、観念的でうつろなものにしてしまうことを恐れていたようにおもえる。
寺山は、「円環的な袋小路─フェリーニ」という短いエッセイの中で、二十代で出会い、自分の創作活動の「決定的なクライシス・モメント」を与えてくれた作品として、文学でロートレアモンの『マルドロールの歌』、映画でフェリーニの『81/2』を挙げ、次のように語っている。
「この二つの作品は、共に作者自身の『記憶』を扱っていた。だが、記憶は必ずしも作者の過去に『実際に起こったこと』ではなかったのである。/たとえば『81/2』の場合、主人公のグイドはフェリーニ自身であり、同時に赤の他人である。フェリーニは、グイドの記憶を利用して(つまり過去の力を借りることによって)現在から身を守ろうとする。だが、同時に『現在』を強化することによって、グイドの記憶(つまり過去)からも身を守ろうとする。/この円環的な袋小路で、多くの幻想が生まれるのである」
このフェリーニの方法へのまなざしは、そのまま寺山修司自身の生きる戦略でもあった。
彼は、よく知られているように、エッセイや詩歌の中で、しばしば、あたかも己れの私小説的な体験であるかのようにみせかけた〈記憶の捏造〉を行なっている。
例えば、エッセイの中で回顧的な体裁で生々しく描出された父母の姿は、口下手で、愛憎の振幅の極度に烈しい、血の気の多い孤独な人格として登場し、一人っ子の作者と不幸な両親によってひっそりと営まれた貧しい家庭は、むせかえるような濃密なエロスが立ち込める、痛ましいけれども、強烈な存在感をたたえた、妖しい反市民社会的な〈闇〉の空間として浮上する。
寺山が自らの家族体験や成長過程におけるさまざまな出会いを回顧的に振り返ったエッセイの数々は、いずれも、作者によって大なり小なり物語的に捏造された〈虚構〉作品といってよいのだが、それを読まされる私たちは、あたかもそれが真実であったかのような幻覚にひきずり込まれるのである。
どんなに、作者自身によって、それらの作品が「作り物」だとコメントされても、拭うことのできない生々しい強烈な身体的リアリティーの手ごたえを、私たちは喚起されざるをえない。
寺山修司は、ヴァーチャルにしてヴァーチャルではない、そういう身体的な〈暗喩〉がつくり出すリアリティーの広大な可能性の領域というものをよく知っている表現者だった。
旧態依然とした近代文学的な写実主義的リアリズム、私小説的リアリズムの表現理念につきまとう、地上に這いつくばらせられたような息苦しい束縛感、想像力の狭量な限定への指向性というものを打破してみせる、身体的なリアリティーの振り幅への純粋な渇きの深さと、その渇きに喩的な表現形態を与えうる天性のエンターテイナー・物語作者としての自在で軽快なフットワークこそが、寺山作品の魅力の真髄を形作っているといっていい。
寺山は、〈記憶の捏造〉という自らの習癖を分析するために制作したといわれる映画『田園に死す』に関する手稿の中で、次のように語っている。
「私は、一人の男が自分の少年時代について語ろうとするとき、記憶を修正し、美化し、『実際に起こったこと』ではなく『実際に起こってほしかったこと』を語っている……という例をいくつか見聞してきた。/未来の修正というのは出来ぬが、過去の修正ならば出来る。そして、実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ、人は現在の呪縛から解放されるのである。そう思った私は、一人の少年を主人公にして、『私の過去』を映像化することからはじめた。/『私』は、荒涼とした東北の村に、母とたった二人で暮らしていることにした。/村にサーカスがやって来ると、一座の空気女にあこがれて巡業のあとについて行くような中学生であった。/隣りの家の美しい人妻にあこがれて、せっせとうそ字だらけのラブレターを書き送り、念願かなって、『二人だけで旅行に出る』約束をとりつけることに成功した。孤独だったので、これといった友人もなく、いつも『少年倶楽部』ばかり読みふけっていたので、その中に登場する冒険ダン吉やのらくろ、鞍馬天狗といった空想の人物たちだけが話相手なのであった。/だが、こうした嘘の少年時代は、私自身を演じる俳優によって映画の中で暴かれることになる。/映画の中で、私は『少年時代の私』と出会って、母のイメージについて語りあい、少しずつ過去の再修正をしてゆくことになった。そして母は、二重にも三重にも仮面を与えられ、虚構化されてゆくことになったのである。//亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり//亡き母の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ//和歌の中で、すでに死んでしまっていた母は、映画の中では、家出した少年をいつまでも待ちかまえている母となって描かれた。/母の家は、恐山のふもとの鴉の群れ集まる寒村の光景のなかに在る、のだった。映画は、切々と母を恋し、同時に憎悪していた。/八千草薫の美しい人妻、春川ますみの空気女、新高恵子の間引き娘といった女たちは『母のイメージの分身』として、一人の少年を誘いこむ迷宮的な存在にみえた」
既に述べたように、寺山修司にとって、烈しい愛憎の対象として幻視された〈母〉の像は、近代化の風圧によって腐蝕し、理不尽な因習的桎梏と化した土俗の象徴であると共に、その地上的な不条理性の緊縛から作者を解き放ってくれる、非日常的で彼岸的なエロスの化身でもあるという、両義的な存在であった。
彼は、己れのエッセイや詩歌や映像などの作品群において、過去の記憶という形で己れの身体感覚の内に沁み込まされてきた、さまざまな瞬間の風景に息づいているイリュージョンの感触を手がかりに、物語的な虚構を織り上げることで、戦後社会の病理の深層に、とぎすまされた〈暗喩〉としてのヴィジュアルでリアルな造形を与えると共に、その干上がった窒息的情況を感覚的・感情的に打破し、己れの身体を痛みと共に幻想的に解き放ちうるような〈闇〉の時空を紡ぎ出すことで、時代に対峙せんとした。
すなわち、「過去」の力を借りて「現在」から身を守ろうとしたのだ。
しかし、その戦略は、もしそこに己れの表現の根拠を完全に回収させてしまうとしたら、過去への退行的引きこもりによって自身の現在的時間を腐蝕させ、生活者としてのうつろさを招き寄せてしまうことになる。
その時、〈過去〉もまた、〈現在〉の閉塞した不条理な産業社会的日常を生きる痩せ細った身体性の〈殻〉を突き崩し、時空意識を更新するような、〈暗喩〉としてのリアリティーの力強さを失い、〈現在〉の倒立的なイマージュへのヴァーチャルな憧憬にすぎない〈虚体〉の夢魔へと変容し、人を、肥大化した〈観念〉を棲み家とする幽体のような存在へと囲い込んでしまう。
だから、この陥穽に転落しないためには、「過去」の力を借りることで「現在」から身を守るだけではなく、同時に、「現在」を強化することによって、すなわち、現在という時空を生きる生身の身体的存在としての己れ自身の痛覚や手ざわりを不断にたしかめることによって、「過去」から身を守ることが必要となるのである。
ここに、毎年毎年が華麗な打ち上げ花火の連続のような、非日常的・祝祭的時間の不断の演出によって構成された、不自然極まる寺山修司の多彩な芸人的生涯が紡ぎ出されることになる。
表現者・芸人としてのオーバーヒートの連続によって四十七年の生涯をひたすら生き急いだ(死に急いだ)寺山の身構えが、私たちにとってどれほどグロテスクで痛ましいものに見えたとしても、おそらく、作家本人にとっては、その不自然さを自然さとして受け止めるほかはないような、どうしようもない生き難さの業苦によって強いられた、ぎりぎりの実存的選択であったのだろう。
だが、戦後の坂口安吾の自爆的な生きざまにも似た、異形の芸人寺山のそのような苛烈な燃焼のかたちに対して、私はここで語る必要を認めない。
私の寺山文学へのこだわりは、あくまで、「過去」のイリュージョンを手がかりに、見失われた〈闇〉の時空を紡ぎ出すことで「現在」に対峙せんとした、この詩人の方法意識にある。
私はここで、その実例を、彼の現代詩や俳句やエッセイや戯曲・小説・映像といった表現領域ではなく、「短歌」作品の軌跡を追跡することの内に限定してみたいとおもう。
なぜなら、短歌という表現形式のみが、この詩人の焼けただれたような不幸な幼少期のトラウマ、生き難さの業苦と、それを幻想的に包み込む闇への渇きという、純粋に孤独な表現のモチーフを、日本的・伝統的な自然意識と結びつく定型詩のリズムによって、ひとつの〈風景〉のように深々と回収してみせるからだ。
寺山修司の表現につきまとう、いかにも昭和初年世代らしい、不条理感の強い、グロテスクな、倒錯的でただれた美意識は、少なくとも私たち日本人にとってはなじみ深い類的な身体感覚を喚起する短歌定型詩のリズムに包摂されることで、緩和され、解毒され、ある種の非日常的な、哀切で透明な自然意識へと昇華されてしまう。
そこに、寺山修司の現代詩の作品群にはほとんど見られないような、凛とした端正な静けさ、良い意味での気品というものが生まれる。
どんなにひび割れた、痛々しい不幸な感覚がうたわれていても、彼の優れた短歌作品を無心に味読する時、私たちはそこに、現世の業苦と不条理を優しく抱き取り、浄化させてくれるような、なんともいえぬ天上的で哀切な、澄んだ気配を感取することができる。
彼の俳句では、そうはいかない。
今ここで、短歌と俳句の本質的な差異について言及する気はないが、一言だけ強調しておきたいのは、千三百年以上の歴史をもつ短歌という表現形式が可能性としてはらんでいる類的な身体性の奥ゆきやふくらみの巨きさ、地上的なリアリズムの匂いと天上的でコスミックな香気の巨大な振幅、そして、具象表現に体現される〈暗喩〉としての抽象的なリアリティーの力強さといった特性である。
寺山修司の短歌作品を振り返るとき、私は、正岡子規から始まり、斎藤茂吉で頂点に達するアララギ派流の写実主義的な現代短歌の陥った狭量な袋小路を打破する、〈脱近代〉のまなざしの地平に向けての短歌本来の巨大な潜在的可能性について、改めて沈思を迫られるおもいがするのだ。
寺山の第三歌集『田園に死す』については既に語ってきたけれども、私の考えでは、この作品は、彼の最良の歌集とはいえない。
『田園に死す』が刊行されたのは、一九六五年という、高度成長末期以降の〈近代化の最終局面〉へと突入する決定的な転回点の年であり、六〇年代後半以降の高度産業社会・消費資本主義社会へと続く時代は、既に強調したように、メタフィジカルでコスミックな〈闇〉の感覚が最終的に抹殺・封印されていく世の中であった。
それは、短歌という類的な伝統美に包摂された形式を使って個的な身体性を解き放っていくのに、最も困難な時代であり、「うたう」という営みを圧殺せんとする不可視の風圧がひたすら強まっていく過程でもあった。
それが、一九九〇年代までの私たちの社会の実相であったといえる。
寺山修司は、高度成長完了直後の一九七一年一月に、過去の己れの短歌作品の全体を総括するべく『寺山修司全歌集』を刊行しているが、「七〇年十一月」の日付をもつその跋文で「歌のわかれ」を宣言し、事実上歌人としての活動に自らピリオドを打ってしまう。
『全歌集』には、既に刊行された三冊の歌集『空には本』『血と麦』『田園に死す』と第一作品集『われに五月を』(詩・短歌・俳句・小品を収録)、それに、未完の歌集『テーブルの上の荒野』の作品群が収められているが、歌人としての彼の表現は、私の見るところでは、一九六五年刊行の『田園に死す』で、実質的に、思想的には完結してしまっているようにおもえる。(「思想的には」という意味は、〈闇の喪失〉をめぐる本稿での問題意識の切り口から見て、ということであるが。)
歌集『田園に死す』は、既に見てきたように、六〇年代半ば以降に展開する〈闇〉の抹殺・封印の最終段階の本質を、断末魔の悲鳴のような感覚によって劇的に象徴化してみせた、哀切な挽歌ともいうべき作品であった。
しかし、それ以前に刊行された二冊の歌集、一九六二年刊行の『血と麦』と一九五八年刊行の『空には本』、そして初期歌篇には、いまだ戦後資本制の膨張、高度成長の産業社会化の流れによって決定的に損なわれてはいない生命的な〈闇〉の気配が、作者の純粋で孤独な身体をさりげなく包み込むようにして、みずみずしく息づいている。
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生命保険証書と二、三の株券をわれに遺せし父の豚め
ピーナッツをさみしき馬に食わせつついかなる明日も貯えはせず
そのなかの弾痕のある一本の樹を愛すゆえ寒林通る
死ぬならば真夏の波止場あおむけにわが血怒濤となりゆく空に
血と麦がわれらの理由工場にて負いたる傷を野に癒しつつ
ダイナモの唸る機械に奪われて山河は青し睡りのなかに
さむき川をセールスマンの父泳ぐその頭いつまでも潜ることなし
無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として
わが内に越境者一人育てつつ鍋洗いおり冬田に向きて
遠き土地あこがれやまぬ老犬として死にたりき星寒かりき
死して鼠軽くなりしやわが土地の真上に冬の日輪あり
古いノートのなかに地平をとじこめて呼ばわる声に出でてゆくなり
わが家の見知らぬ人となるために水甕抱けり胸いたきまで
鷹追うて目をひろびろと青空へ投げおり父の恋も知りたき
晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ
コスモスに暗き風あり抱きねし少年の瞳をもっともねたむ
夾竹桃咲きて校舎に暗さあり饒舌の母をひそかににくむ
けたたましくピアノ鳴るなり滅びゆく邸の玻璃戸に空澄みながら
そそくさとユダ氏は去りき春の野に勝ちし者こそ寂しきものを
その中に一つの声を聞きわけおり夾竹桃はしずかに暗し
剥製の鷹ひっそりと冷えている夜なりひとり海見にゆかん
海の記憶もたず病みいる君のためかなかな啼けり身を透きながら
氷湖見に来しにはあらず母のため失いしわが顔をもとめて
銅版画の鳥に腐蝕の時すすむ母はとぶものみな閉じ込めん
銅版画にまぎれてつきし母の指紋しずかにほぐれゆく夜ならん
母のため青き茎のみ剪りそろえ午後の花壇にふと眩暈(めまい)せり
日月をかく眠らせん母のもの香水瓶など庭に埋めきて (『血と麦』より)
改めて言うまでもないことだが、ここでも私小説の体裁をとった歌の数々は完全な虚構作品であり、高度成長が加速化する六〇年代初頭における日本人の生存感覚の空洞と、いまだわずかに残滓をとどめるコスミックな〈闇〉への感覚が、鮮烈な対比を活かした絵画的情景を通して美事に象徴化されている。
『血と麦』の歌の中には、既に、一九五七年刊行の寺山の第一作品集『われに五月を』に収められたものもあるが、歌集全体の空気感は、あくまでも六〇年代初頭の情況に対応しているとみていい。
各々の歌の具象的な虚構化・象徴化を支えているのは、もちろん、作者の個人的な体験に根ざしたさまざまな身体的リアリティーの手ごたえであり、そのリアリティーを、高度成長期の日本人の病理への異和と闇への渇きの情念を通して普遍的に形象化しうるまでに練り上げてみせる、並々ならぬ鋭敏な皮膚感覚と内省力である。
この第二歌集で作者は、現代人のうつろさの根源を衝くかのように、己れの理想的な分身としての、純粋で孤独な無名の生活人の像を紡ぎ出してみせる。
それは、「いかなる明日も貯えはせず」という言い回しにもあるような、何一つ所有しない魂というものを基底に据え、「無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として」
と歌われるような、コスモスの体現者としての無名の生活人のイマージュとして立ち現われる。
現世的・地上的には無一物であり、野良犬のように野垂れ死にしてゆく存在であったとしても、「遠き土地」を憧れてやまない「老犬」として死にたいと歌われるような、純粋な〈超越〉への渇望に憑かれながらも、同時に、死ぬ時は、「真夏の波止場」で仰向けになりながら、「血」が怒濤のように渦巻きつつ、限りない「空」に向かって昇ってゆきたいと喩えられるように、己れの生存の究極の拠点は、われわれの肉体を支え、司り、コスモスという母胎へとつなぎとめている〈血液の流れ〉に求められている。
「死して鼠軽くなりしやわが土地の真上に冬の日輪あり」という作品にもあるように、歌集『血と麦』の世界では、〈死〉とは、存在の緊縛からの解放と、「空」や「日輪」という言葉によって象徴されるような、コスモスという母胎への〈回帰〉のイマージュとして幻視される。
しかし、存在が存在として生き続けている限り、その営みを支える根源は、あくまでも「血」でなければならず、大いなる自然のはからいに抱かれたものでなければならない。
「血と麦がわれらの理由工場にて負いたる傷を野に癒しつつ」という歌は、野性的な〈血〉とそれを抱き取るメタフィジカルな〈自然〉の延長上に想い描かれた〈農〉のイマージュを、血を貶め、自然を支配すべき〈客体〉として分離した、大脳新皮質的な〈理知〉の専横の上に立脚する近代産業文明の象徴たる「工場」という言葉に対比させてみせたものだ。
寺山修司の歌集『血と麦』の魅力は、ひとえに、〈血〉によって象徴される、みずみずしく荒々しい生身の身体性のイマージュや、究極的には何一つ所有しようとしない、即自的な生命の流れそのものに徹しようとする存在者としての覚悟性と、そのような〈血〉の流れが繋ぎとめられている、「空」や「星」や「海」によって象徴される、魂の原郷のような、コスミックで透明な存在の次元への純粋な憧憬の、巨大な〈振幅〉にあるといってよい。
それこそが、〈闇〉の水脈の開示する巨大な不可知性の領域であり、そのような水脈の喪失・涸渇こそが、すなわち、〈血〉の衰弱・希薄化とコスモスの消失こそが、現代人の病の本体として認識されるべきものであった。
「海の記憶もたず病みいる君のためかなかな啼けり身を透きながら」という秀歌は、そのような作者の洞察を端的に象徴するものである。
あらゆる生命の発祥の地である〈海〉は、〈血〉のふるさとであり、あらゆるコスミックな象徴的存在の内で、最も深く私たちの身体感覚の深層の暗闇に根をはっている。
〈海〉のイマージュが喚起する熱く猛々しい生命のうねりと静謐さの圧倒的な実感、底しれぬ無慈悲さといった、非日常的な両義性の諸相こそ、私たちをして生き抜かせる究極の力の源泉たる野性的な〈血〉の畏怖すべき本質を、巨大な振幅で象徴的に体感させてくれるものだといっていい。
〈血〉の衰弱は、必然的に、私たちが存在者として繋ぎとめられているコスモスへの感覚・まなざしを、他界的=彼岸的な次元へと一義的に収斂させてしまう。
「海の記憶もたず病みいる君」を癒し、吸引する「かなかな」のイマージュは、そのような、透明度は高いが冷やかな〈死〉の感触へと回帰してゆく孤独な魂の、哀切な静けさの気配を、そこはかとなく暗示するものである。
かつて、地上と天上とを幻想的に統合し、〈血〉によって支えられる生身の身体的交感の世界と天上的でコスミックな感覚を宗教と習俗の体系によって融合させていた前近代的な土俗共同体社会は、戦後社会、とりわけ高度成長期の社会においては、既に、明治以降の資本制近代の運動過程の中で、ほとんどその機能を果たしえなくなるまでに、解体され切っていた。
前近代的土俗的遺制は、既に強調してきたように、六〇年代の高度成長期においては、ほとんど腐蝕と形骸化による陰湿な桎梏の具と成り果てていたのである。
『田園に死す』と同様、『血と麦』でも、寺山修司は、そのような腐蝕と桎梏の場と成り果てつつあった土俗共同体的な伝統社会のイメージを、〈母〉の像と重ね合わせ、共同体から離脱せんとする〈個〉の志向を、〈母〉からの〈自立〉のイメージに喩えているようにおもえる。
『田園に死す』のところでも強調したように、この〈自立〉のイメージは、同時に、喪失された存在の〈闇〉の奥ゆきに対する奪回・回帰への渇きを内包するものだった。
「母のため失いしわが顔」を求めてとか、「銅版画の鳥」の「腐蝕」のイメージを、魂の〈飛翔〉への抑圧の感覚と重ね合わせたりとか、「銅版画」に着いた「母の指紋」が「夜」の闇の中で静かにほぐれてゆくとか、「日月」を眠らせんとする母の所持品を庭に埋めてしまうとかいった暗喩は、腐蝕し形骸化した伝統社会のまなざしや美意識や倫理が、かつては温存していた〈闇〉の奥ゆきを減衰させ、いまや〈個〉の生命的な飛翔を圧殺する因習的な桎梏へと堕してしまったという、痛切な実感の裏付けによって生み出されたようにおもえる。
野性的な〈血〉によって支えられたコスモスの蘇生、すなわち〈生身〉の身体性によって担われ、紡ぎ出される〈闇〉の水脈の復活が求められるとすれば、それは、孤独に屹立する純粋な〈個〉の次元においてはじめて可能となるはずだ。それが、『血と麦』が指し示す無名の生活人のイマージュなのである。
「わが内に越境者一人育てつつ鍋洗いおり冬田に向きて」とか「古いノートのなかに地平をとじこめて呼ばわる声に出でてゆくなり」とか「わが家の見知らぬ人となるために水甕抱けり胸いたきまで」といった作品には、地上的・日常的な生活や労働のささやかな営みに黙々と徹しながら、ひそかに孤狼のような魂を養い、この世の桎梏を内在的に超越せんとする、誇りたかい脱社会的な単独者の位相がうたわれている。
それはまた、水の中に潜ることのできない「セールスマンの父」や、知育偏重的な教育の概念と結びついた「饒舌の母」のイメージや、「ユダ氏」という言葉によって皮肉られた、世間の評価や社会的な勝ち負けにせわしなく憂き身をやつす現代人の像とさりげなく対比させられている。
大地から根を断ち切られ、アメリカ型のブルジョア的ライフスタイルにコンプレックスと憧れを抱いてひた走り続けた戦後日本人、とりわけ高度成長期の日本人の生存感覚のうつろな危うさを先取りしつつ、それと鋭く対比させるように、寺山修司は、熱くたぎる血とみずみずしい闇への繊細な感受性を備えた、孤独で誇りたかい単独者の像を紡ぎ出してみせる。
この無名の生活人の像の延長上に、作者は、深い傷痕を抱え込み、不条理と孤立を強いられながらも、ひっそりと無言のうちに、大地の息づかいを通して他者とつながっている、峻厳な「樹木」のごときイマージュを想い浮かべ、そこに、ひとつのあるべき不可視の共同性=孤独な連帯のかたちを幻視しているようにおもえる。
「そのなかの弾痕のある一本の樹を愛すゆえ寒林通る」とか「その中に一つの声を聞きわけおり夾竹桃はしずかに暗し」といったような歌に、私は、そのような〈闇〉の共有による沈黙の連帯と深々とした魂の静けさへの憧憬を感取することができる。
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私自身の感じ方からいえば、『血と麦』は、高度成長期における日本人の魂に刻み込まれた傷の本質を的確に凝視し、いまだ産業社会化の流れによって決定的に損なわれ切っていない生命的な〈闇〉の感覚をみずみずしく立ち上がらせることで、病理への対峙と修復のイメージを紡ぎ出し、透明感のある抒情性へと昇華させてみせているという点で、『空には本』と並ぶ寺山修司歌集の最高傑作であると映る。
一九六〇年代初頭の『血と麦』から五〇年代の『空には本』、さらには「初期歌篇」へというふうに、時代を、高度成長初期へ、さらには高度成長以前の五〇年代前半へと遡れば遡るほど、作品の喚起する身体的な自在感は一層強まり、生命的な〈闇〉の気配は深々とした静けさと温かさを増してゆくようにおもえる。
一粒の向日葵(ひまわり)の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
蟇の子の跳躍いとおしむごとし田舎教師にきまりし友は
路地さむき一ふりの斧またぎとびわれにふたたび今日がはじまる
勝つことを怖るるわれか夕焼けし大地の蟻をまたぎ帰れば
外套を着れば失うなにかあり豆煮る灯などに照らされてゆく
冬怒濤汲まれてしずかなる水におのが胸もとうつされてゆく
頬つけて玻璃戸にさむき空ばかり一羽の鷹をもし見失わば
轢かれたる犬よりとびだせる蚤にコンクリートの冬ひろがれり
火を焚きてわが怒りをばなぐさめぬ大地を鳥の影過ぎてゆき
羽蟻とぶ高さに街は暮れはじむ離れ憩わん血縁なきか
わけもなく海を厭える少年と実験室にいるをさびしむ
ねむりてもわが内に棲む森番の少年と古きレコード一枚
木菟(ずく)の声きこゆる小さき図書館に耳きよらなる少年を待つ
鼠の死蹴とばしてきし靴先を冬の群衆のなかにまぎれしむ (『空には本』より)
わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし
人間嫌いの春のめだかをすいすいと統べいるものに吾もまかれん
一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを
空を逐われし鳥・時・けものあつまりて方舟めけりわが玩具箱
わが埋めし種子一粒も眠りいん遠き内部にけむる夕焼
わが空を売って小さく獲し希望蛙のごとく汗ばみやすし
樅の木のなかにひっそりある祭知らず過ぐるのみ彼等の今日も (「初期歌篇」より)
もはや、ほとんど言葉を費やす必要はあるまい。
歌集全体が醸し出す空気感からいえば、『空には本』で描かれた地上的な不条理感や卑小感は、『田園に死す』の酷薄さには比すべくもなく、『血と麦』におけるそれと比べても、一段と緩和された印象を与える。
現実には、貧しさや病や血族との葛藤の深さや引き裂かれた人間関係の苦しみは、五〇年代の大衆の実生活を痛めつけていたはずなのに、経済的にはむしろ豊かになっていく六〇年代に刊行された歌集の方が、息苦しい不条理感を与えるのはなぜであろうか。
それは、加速度的に膨化する産業社会の風圧が、人々の生存感覚を変容させ、存在から奥ゆきを奪い取り、身体感覚を先細りさせていったからである。
逆にいえば、『空には本』や「初期歌篇」に収められた短歌作品群が作られ愛読された五〇年代の日本社会には、日々の生活の中で強いられる地上的な不条理感や卑小感を、そのつど自然体で浄化させてくれるような脱社会的な〈闇〉のふくらみというものが、人々の身体感覚の内にきちんと息づいていたのである。
高校生であった寺山修司が「初期歌篇」中の秀歌を作った一九五〇年代の初めは、私自身の生まれた頃でもある。
自分が生まれ育ち、生活の激動をくぐり抜けてきた二十世紀後半という戦後史の本質は、そのまま、「初期歌篇」から『田園に死す』に至るまでの寺山作品の展開の中に凝縮された、五〇年代〜六〇年代半ばの日本人の魂の激変のかたちとそれがもたらしたもののなれの果てに帰着するといっても過言ではない。
今から四十年も前の一九六五年という年に、既に私たちの現在の産業社会の〈原型〉がほぼ出来上がっていたという事実は、何度振り返ってみても、私にとっては、ため息をおぼえずにはいられない歴史ではある。
バカは死ななきゃ治らないとは、この事だ。
だが、二十一世紀初頭の私たちの〈現在〉と、高度成長末期以降の二十世紀末の歴史の間には、少なくとも一つだけ、決定的な相違点がある。
それは、私たちの〈現在〉にとって、寺山修司の「初期歌篇」や『空には本』や『血と麦』で表現された時空は、もはや膜で隔てられた幻燈のようなヴァーチャルな風景ではなく、たしかな身体的リアリティーを喚起させてくれる〈暗喩〉としての領域だということだ。
私たちの産業社会的な時空は、九〇年代以来の激動によって、いまや、これらの五〇年代から六〇年代初頭の風景をリアルなものとして受容しうる程度にまでは亀裂を入れられ、さまざまな歴史的時間の感覚を重層的に内包しつつ本質的な変容を遂げようとしているのである。
だとすれば、その事実は、私たちにとって、確実に、〈脱近代〉の地平に向けてのささやかな希望の根拠を提供してくれるものだといってよいのではあるまいか。(了)
初出一覧
一 萩原朔太郎 「道標」第3号(人間学研究会・刊 二〇〇二年・秋)
二 金子光晴 「道標」第4号(人間学研究会・刊 二〇〇三年・春)
三 中原中也 「道標」第5号(人間学研究会・刊 二〇〇三年・秋)
四 吉本隆明 「道標」第6号(人間学研究会・刊 二〇〇四年・春)
五 谷川雁 「道標」第7号/第8号(人間学研究会・刊 二〇〇四年・秋/二〇〇五年・春)
六 寺山修司 「道標」第10号/第11号(人間学研究会・刊 二〇〇五・秋/二〇〇五年・冬)
*本稿において引用した作品の表記の中には、新・旧仮名遣いの混合・誤使用と見られる箇所もあるが、あえて出典における表記のままとした。
出典一覧
『萩原朔太郎詩集』(現代詩文庫・思潮社)
『金子光晴詩集』(彌生書房)
『中原中也詩集』(現代詩文庫・思潮社)
『吉本隆明全集撰1 全詩撰』(大和書房)
『谷川雁詩集』(現代詩文庫・思潮社)
『寺山修司青春歌集』(角川文庫)
『私という謎 寺山修司エッセイ選』(講談社文芸文庫)
『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)
『若山牧水歌集』(岩波文庫)
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六 寺山修司
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一九六五年に刊行された寺山修司の第三歌集『田園に死す』には、「新・病草紙」「新・餓鬼草紙」と題される、数篇の擬古文風の散文詩を集めた異色の番外篇が収められている。
《ちかごろ男ありけり、風病によりて、さはるものにみな、毛生ゆるなれば、おのれを恥ぢて何ごとにも、あたらず、さはらず。ただ、おのがアパートにこもりて、妻と酒とにのみかかはりあひて暮しゐたり。/男の妻、さはらるるたび毛の丈のびて、深きこと一〇メートルをこえたり。妻、おのが毛の密林よりのがれむとして、その暗黒の体毛のなかに、月照るところをもとめてさまよひしが、つひにはてにけり。男、それを葬はむとせしが、棺桶や位牌にも毛の生ゆることをおそれ、無為にすぎたり。//うらがはにひつそりと毛の生えてゐむ柱時計のソプラノの鳩//げに、毛とは怖しきものなり。ひそかにわれわれも毛にて統べられゐるべし。時も、歌も。》(「さはるものにみな毛生ゆる病」、「新・病草紙」所収)
《ある女、まなこ裏がへりて、外のこと見えずなりたり。瞠らむとすればするほどにおのが内のみ見え、胃や腸もあらはなる内臓の暗闇、あはう鳥の啼くこゑのみきこゆ。//女、かなしめども癒えず、剃刀もて眼球をゑぐり出し、もとのやうに表がへさむとすれど、眼球に表なし。耐へがたきまま表なしの眼球を畑に埋めたり。/女、四十にして盲目のままはてしが、畑には花咲かず。ただ、隣人たちのみ、女を世間知らずとして遇せしと伝ふ。//鶏頭の首なしの茎流したる川こそ渡れわが地獄変》(「眼球のうらがへる病」、「新・病草紙」所収)
前者の詩は、触れるものにことごとく「毛」が生えるという流行り病にかかった男が、己れを恥じて、外界や他人との一切の接触を避け、アパートにこもって妻だけと酒びたりの暮らしをしているうちに、彼女の体中に「毛」が生え延びて暗黒の「密林」のようになり、妻はそこから逃がれようとして、体毛の中に「月」が照り映える場所を必死に探し求めたが、遂に死に絶えてしまったというシュールな寓話で、後者の物語は、眼球が裏返って、外界=可視的な現実が見えなくなり、凝視しようとすればするほど己れの身体の内側の「暗闇」だけが見えるという女が、孤独地獄の内に不条理な死を迎えるというものである。
いずれも、己れを取り巻く生活世界に対する関係の障害感の地獄と、その苦しみの渦中で無意識の深部に醸成され、病的に増殖していくグロテスクな〈闇〉への渇きを暗喩として表現した作品だといっていい。
寺山修司の表現営為が象徴する思想的なアクチュアリティーを鮮明に浮き彫りにするには、まず、一九六〇年代における日本社会の巨大な変貌について若干の考察を必要とする。
『田園に死す』に収められた詩歌が書かれた六〇年代半ばは、一九七〇年に完了を迎えることになる高度経済成長が、まさに、最後の仕上げの段階に突入する深刻な転換期にほかならなかった。
一九六四年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催され、この年から六〇年代後半・七〇年代にかけて、新住宅市街地開発法に基づく巨大ニュータウン造成に向けた全国各地の山林の乱開発が進行し、環境破壊、都市への人口集中による住宅難と地価高騰、農村の過疎化が深刻化してゆく。
国勢調査によると、高度成長がスタートした一九五五年には全就業者数の四十%近くを占めていた農業人口は、六五年には約二十三%、七〇年には約十八%にまで激減しており、対照的に、五五年に約三十五%を占めていた、商業・サービス業を中心とする第三次産業の人口は、六五年の段階では既に約四十三%と第一次産業を大幅に上回り、七〇年には約四十七%と、全産業人口の半数近くにまで達している。
民俗学への造詣が深く、ランドスケープ論の立場から優れた独自の近代産業文明批判を展開し、スローライフ運動の推進者の一人でもある異色の建築家大岩剛一は、『ロスト・シティ・Tokyo』(清流出版・一九九五年)において、次のように語っている。
「思えばこの昭和四〇年代という時代は、都市の自然環境も著しく変わったが、日本人の、いわゆる“自然”への関わり方が大きく転換していく節目となった時期でもあった。例えば都市に住む人々の関心が家の内部に集中し始め、観葉植物による室内の景化が進む一方で、別荘やリゾート施設、ゴルフ場、ペンションなどの建設ブームにみられるように、人々は“大自然”の懐に抱かれたライフスタイルやレクリエーションのあり方を強く求めるようにもなったのである。都市化がどんなに進んでも、日本人の『自然を愛する心』はますます健在であることが、まことしやかに囁かれていた。/だがこのような“自然への傾斜”はどれも、自然破壊がもっとも苛烈をきわめた時代のそのただ中に、しかも同時進行のかたちで起こっている、という事実に注目したい。私たちの目はその間、まばゆいばかりに青いゴルフ場の芝生やわが家の観葉植物、身近で整備されながら増えていく緑地などに釘づけにされており、ブルドーザーによってなぎ倒され絨緞のように均されていく雑木の山林はほとんど視えていなかった。まるでこれらの“目新しく、しかもすっきりしたわかりやすい緑”によって、私たち自身の目が眩まされでもしたように」
昭和四十年代(一九六五〜七五年)とは、まさに、今日の私たちの消費資本主義社会、サラリーマン社会の〈原型〉が完成した時代であった。
それは、テクノロジーの飛躍的発展による新製品開発や高速移動手段及びハイテク通信機器の発達と普及、消費水準の急上昇や自然環境の改造、産業構造の激変といった物理的・経済的な側面における大変動と、それを支える個人主義的な欲望原理や散文的で合理主義的な精神の浸透・定着をもたらしたばかりではない。
戦後日本人の存在へのまなざし、生存感覚そのものを根底から変容させてしまう、いわば近代化の最終局面にほかならなかった。
大岩剛一は、先の引用文で指摘されたような昭和四十年代における日本人の自然への関わり方の変化の背後に、「原っぱ」の喪失という現象に象徴される、隠微なまなざしの変容を読み取っている。
彼のいう「原っぱ」とは、戦前から高度成長初期の一九五〇年代頃まで日本の都市部の至る所に残存していた子どもたちの遊び場となっていた空き地のことであるが、大岩は、その原っぱに対する〈原風景〉ともいうべき記憶の内奥に、存在の根源につながる両義的なカオスとしての自然の原形質ともいうべき「原野」のイメージを重ね合わせている。
「子どもの頃、近所の原っぱで仲間といっしょに野球をしていたときのことだ。気がついてみるとあたりはすっかり暗くなっていて、それまでの原っぱの親密さは消え失せ、突然敵意をむき出しにした黒々とした“原野”が取り巻いていた。/原っぱが“原野”に変身したこの瞬間に、ぼくの身体中を恐怖や悲しみ、後悔の念などが一挙に駆けめぐったのである。薄闇の中に浮き出る狂暴な“原野”のシルエットには、ぼくを日常から引き離しては揺さぶり、引き裂いてみせるだけの凄味があった。/地理学者であるイーフー・トゥアンは『トポフィリア』(小野有五・阿部一共訳、一九九二年)の中で、聖書を例に引きながら『原野[荒れ地・荒野]』という言葉が心にもたらす二つの矛盾するイメージについて触れている。それによれば、一方でそれは『神によって非難されている』、『悪魔がよく集まるような』『荒涼とした場所』であり、他方では『避難と瞑想の場所』、『生き物の世界と調和した至福の王国』となる。/荒々しく拒絶する脅威と限りなく吸引する魅力とを合わせもつ“原野”。子どもはこの二つの相反する傾向に触れることで“原野”から疎外される自分を見出す一方、大地との一体化を果たしながら“原野”に容認される自分をも見出したのである」
「原っぱは単なる空き地ではないのである。/それは戦前戦後を通じ、常に人々の自己回復の場であった。しかも明治以降の近代化の過程で、大人たちの注目を集めながら都市の中で次第に増殖していく公園を尻目に、子どもたちによってひそかに発見され続けてきた“聖域としての空き地”でもあった。公園のようなお仕着せの遊び場ではなく、公認されることのない秘密の遊び場であった。/原っぱとは、既成の秩序からは無縁(アナーキー)な“共有地”であり、“アジール(避難所)”でもある。そこへ踏み込んだ途端に何かから解き放たれ、活力を取り戻し、自己を回復し得る、そのような空間である」(『ロスト・シティ・Tokyo』)
一九六〇年代から七〇年代にかけて、このような「原野」のイメージの痕跡をとどめる「原っぱ」は、激しい都市化の波の中で次々と消滅していくのであるが、大岩もいうように、それは同時に、「残り少なくなった原っぱ」が、「子どもたちまで寄りつかなくな」るような「よそよそしい風景として私たちの目に映るようになっ」てゆく過程でもあった。
七〇年代後半から八〇年代にかけての高度消費資本主義の完成期・爛熟期に目立ち始める、「囲い」を施された「人を寄せつけない」空き地は、もはや「原野」のイメージの痕跡とは似ても似つかないものであり、「土」や「雑草」や「灌木」やさまざまな「鳥」や「昆虫」に対する、すなわち、かつては日本人の日常生活風景そのものであった諸々の自然に対する主・客融合的な〈生身〉の身体感覚を封印してしまった私たちが、それら自然を、不潔なるもの、危険なるもの、「穢れ」として葬り去るための「墓所」のような存在へと変質させてしまった空間にすぎない、と彼は洞察している。
それは、人工的な統御や合理的な認知をはるかに超えた本来の自然、すなわち不可知なる神秘なカオスの領域を、ひたすら己れの存在を脅かす得体の知れない不吉なるもの、忌まわしきものとして内面的に疎外し、自身の生活風景の外部へと追いやろうとする、現代日本人の神経症的で近代主義的な身構えを端的に象徴する事例とみなすこともできよう。
すなわち、私たち日本人が、戦前から戦後の五〇年代・六〇年代初めまで、衰弱しつつもかろうじて温存してきた前近代的伝統的な、存在への相互浸透的なまなざし・生存感覚を、高度成長期以後の近代化の最終局面への流れの中で、完全に喪失してしまったことの証しの一つにほかならないのである。
いうまでもないことだが、私はここで、宮崎駿のアニメーション『もののけ姫』で描かれたような、太古以来の趣をたたえた猛々しい野性味溢れる原生林や湖沼の世界のような、いわゆる大自然をいかに守るべきかとか、あるいは、近世農耕社会以来の、適度に人工の手が加えられ、飼い馴らされた温和な里山的自然にいかに復帰すべきかといった、エコロジカルで風土論的な問題の立て方をしているわけではない。
私たちの現代文明が直面する〈自然〉概念をめぐる究極の課題は、そんな、人工か生の自然かといったレベルの違いをめぐる可視的な問題にあるのではない。
あくまでも、私たちの存在へのメタフィジカルなまなざしの変容・再生をめぐる問題にあり、実存的な問いかけにつながる生存感覚のあり方をめぐる課題にあるのだ。
どんなに自然保護運動を推進しようと、省エネやエコロジカルなライフスタイルを提唱しようと、私たちの存在へのまなざしが病んでいるならば、すなわち、私たち個々人の生がうつろで、不条理な物語性の内部に囲い込まれたままならば、それは、決して、私たちを幸福ならしめる文明のあり方につながるヴィジョンにはなり得ないからだ。
大岩剛一が、『ロスト・シティ・Tokyo』で熱い郷愁の念をもって振り返ってみせている「原野」「原っぱ」とは、私の文脈に従えば、生命と虚無の重層的な両義性とその葛藤のダイナミズムによって支えられた生々流転する存在の本質、すなわちコスモスとしての〈闇〉の表出という存在概念に内包されるものである。
大岩のいう一九六〇年代から七〇年代にかけての「原っぱ」の消滅、日本人の自然への関わり方の変貌の本質とは、明治以来の資本制近代の加速度的展開の渦中で徐々に衰弱させられてきた、このような存在に対するメタフィジカルでコスミックな〈闇〉の感覚の、最終的な抹殺・封印のプロセスが完了したことを意味する出来事であった。
寺山修司の第三歌集『田園に死す』は、このような高度成長期における、ひいては明治以来の近代化のプロセスにおける日本人の病の進行が、最終段階を迎える節目となった六〇年代半ばの精神史的本質を、故郷青森の土俗の崩壊という酸鼻な心象風景の劇的な虚構化=暗喩の造形によって鮮やかに皮膚感覚的に描破してみせた、鬼気迫る作品となっている。
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売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄へ行きたし今日も
売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
念仏も嫁入り道具のひとつにて満月の夜の川渡り来る
村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ
子守唄義歯もて唄ひくれし母死して炉辺に義歯をのこせり
生くる蠅ごと燃えてゆく蝿取紙その火あかりに手相をうつす
見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
とんびの子なけよとやまのかねたたき姥捨以前の母眠らしむ
降りながらみづから亡ぶ雪のなか祖父(おほちち)の瞠(み)し神をわが見ず
少年にして肉たるむ酷愛の日をくちなはとともに泳ぎて
少年の日はかの森のゆふぐれに赤面恐怖の木を抱きにゆく
はこべらはいまだに母を避けながらわが合掌の暗闇に咲く (『田園に死す』より)
寺山修司の短歌は、よく知られているように、アララギ派流の写実主義的美意識によって作られたものではなく、彼の心象風景を、物語的な暗喩の形で具象化してみせた完全な虚構意識の産物である。
ここで取り上げた歌においても、決して可視的な現実体験がうたわれているわけではない。
現実の寺山修司はひとりっ子で弟はいないし、母は息子が十三歳の年に出稼ぎに出たままほとんど生き別れの状態にあったが、当時はまだ生存しており、実家も養家も農家ではなく、青年期に上京してからは、青森の故郷に暮らしたこともない。
にもかかわらず、これらの短歌作品が、六〇年代半ばの当時はもとより、現在もなお、私たちにとって異様なまでの生々しい迫真力を喚起しうるとすれば、それは、ここで物語的な虚構形式を借りて幻視された、故郷の土俗の崩壊による遺恨に満ちた死臭のイメージと、その地縁・血縁の密着した人間関係に包まれた少年期における対人的な障害感の深さや、若くして戦争未亡人となった孤独な母親の下で、我執の強い歪んだ溺愛を浴びて育ったエディプス・コンプレックスの根深いトラウマの記憶のかたちというものが、高度成長末期以降の日本社会の病理の深層に、ひとつの〈暗喩〉として垂鉛を下ろしうるものであったからに違いない。
母子関係の密着・歪みとそこからの内面的な母殺しによる自立の苦しみや、対人的な関係の障害感の深さや、「学校地獄」という言葉に象徴される戦後の観念的で画一的な知育偏重教育・学歴社会のおぞましさのイメージは、いうまでもなく、共感能力を失って断片化し孤立した人間たちから成る、現代の崩壊したうつろな核家族や人間関係の病のかたちを想起させるが、なんといっても鮮烈なのは、土俗の崩壊のイメージによって象徴される、コスミックな〈闇〉の感覚の喪失による生の不条理性の苦しみと、失われた闇の世界に対する痛切な渇きの感触である。
「とんびの子なけよとやまのかねたたき姥捨以前の母眠らしむ」でうたわれている「姥捨(うばすて)」は、年老いて死を迎えようとする母親を本人の合意の上でわざと山に置き去りにし、餓死させて、無機物と化した肉体を故郷の大地の土に回収させると共に、霊魂を、氏神信仰を核とする村落共同体のアニミズム的な鎮魂・祭祀体系の内部に吸収・包摂せんとする、一部の地域で伝統習俗的に受け継がれてきた、いわゆる姥捨ではない。
むしろ、近代的な酷薄な地上的リアリズムの目線によってとらえられた、冷え切った、無機的で不条理な〈棄民〉のイメージとしての「姥捨」である。
近代化の風圧の中で形骸化し、無意味で残忍な因習的桎梏と化して、ぶざまな死に体をさらけ出している前近代的共同体的な遺制の喩であるといっていい。
「やまのかねたたき」とか「姥捨以前の母眠らしむ」といった言い回しは、そのような近代化に伴う土俗の崩壊によって生命を失ってしまうより前の、万象が生きとし生けるものとして濃密な〈闇〉のコスモスに包摂され、人々の生身の身体と生活風景=世界とが生き生きと交感し、一体となり得ていた時代の面影、気配を、イリュージョンとしてほのかに立ち上がらせようとする感覚によって発せられたものであるようにおもえる。
しかしそれは、既に、六〇年代半ばの大多数の日本人にとっても、作者寺山修司にとっても、決定的に損なわれ、喪失されてしまった感覚であり、いまや、痛苦に満ちた腐食と死臭の気配が立ち込める中でのヴァーチャルな彼岸的風景として、すなわち滅びゆくものへの愛惜の苦しみという、マゾヒスティックで逆説的な憧憬・飢渇の対象としてうたい上げるほかはないものであった。
「降りながらみづから亡ぶ雪のなか祖父の瞠し神をわが見ず」という歌には、そういう作者の〈闇〉への飢渇が、まことに風格のあるリズムで端正に表現されている。
「祖父」と言う字に「おほちち」というルビを当て、「みし」に「瞠し」という字を当てることで、悠久の土俗の流れと一体化した、前近代の民の累々たる暮らしのコスミックで自己充足的な生存感覚に対する、熱い逆説的な憧憬のかたちが素直に伝わってくる。
「亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり」とか「売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を」のような作品をみてもわかるように、『田園に死す』における土俗の崩壊のイメージは、寺山にとって、内面的な〈母殺し〉のエートスと重ねられている。
終戦前後の荒々しい不条理な世相の渦中で人と成り、ひとりの個的な表現者として世界に実存的に対峙せんとした寺山修司にとって、我執の強い母親の歪んだ溺愛によって囲い込まれた、〈子宮〉のような非日常的で閉じられた母子相姦的なエロスの感触は、なんとしても自らの手で扼殺・葬送し、脱け出してみせねばならぬ恐ろしい呪縛の対象だった。
「少年にして肉たるむ酷愛の日」を泳いできた人間にとって、それは、己れ自身という、この世にふたつとない絶対的に孤独な存在を、全身的に開花させ、無常の世をただ一回の生涯として悔いなく燃焼し尽くしてみせるために、断固としてやりとげてみせねばならぬ〈自立〉のたたかいだった。
それと同様に、寺山修司にとって、好むと好まざるとにかかわらず、近代化の風圧の中で腐食し、形骸化してしまった前近代的共同体的な土俗の遺制の桎梏に対しても、いまや、最終的な死の宣告が下されざるを得ないという酷薄なさだめは、私たちが、血縁・地縁のしがらみや〈世間体〉という、密着的な集団的・習俗的・制度的な幻想の規範への隷従・顧慮による、息のつまるような理不尽な保身と妥協の身構えから解き放たれ、己れのたった一度の人生を、孤独な魂をもったひとりの個人として悔いなく全うするために不可避なものとして受容されてしかるべきものであった。
寺山流アナーキズム・アングラ性ともいうべきものも、その半面には、このような、戦後史における〈価値解体〉の風圧を歴史的な不可避性として肯定的な文脈で受け止めるような、近代主義的な特質が備わっていた。
しかし、他の半面には、そういう近代主義的エートスとは真っ向から対立する、前近代的な土俗の伝統に深く通ずる、メタフィジカルでコスミックな存在の〈闇〉への烈しい飢渇のおもいが息づいていたのである。
「はこべらはいまだに母を避けながらわが合掌の暗闇に咲く」という、母への忌避と慕情の相剋をうたい上げた哀切な秀歌は、単に現実の母親への愛憎を表現したものではない。
〈母〉によって象徴される前近代的・共同体的な、むせかえるようなエロスの濃密さ・密着性と、それによって支えられる集団的・制度的・世間体的な陰湿な〈強制〉のからくりからの〈脱却〉への意志と共に、その脱却によって見失われた存在の〈闇〉の奥ゆきに対する奪回・回帰への烈しい飢渇を背後に隠しもった作品であると、私の眼には映る。
ここでの「はこべら」は、現実における母なるものを「避け」ながら、己れのささやかな生を内的に支える、もうひとつの母なるものの象徴として、ほの暗い孤独な領域で紡ぎ出される。
すなわち、近代化によって蝕まれ、腐食し、いまや桎梏的な形骸と化してしまった共同体的なエロス性・密着性というものを慎重に避けながら、〈個〉としての実存を支え、己れの固有の生を真に生命的に意味あらしめるための、内なる〈闇〉の象徴として幻視され、ひっそりと魂の深部で育まれるのである。
高度産業社会下のうつろで不条理な可視的現実を表層の網膜的現象として拒絶し、切断し、その殺意と痛苦の暗がりの中から、もうひとつのありうべき不可視の現実を夢み、育まんとする幻視者の意志。
「見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし」という凄んだ歌によって表出された、そのシュールレアリスティックな〈虚体〉へのアングラ的な表現意識こそ、科学的合理主義・功利主義・ヒューマニズムのイデオロギーによって塗り固められてきた私たちの戦後社会の可視的風景、すなわち、存在の奥ゆきや陰翳を抹殺し封印した、散文的で地上的な産業文明の光景の拡大の裏面に、常に、抑圧された夢魔のような世界としてうごめき、育まれてきた〈闇〉の領域にほかならなかった。
3
そのようなアングラ的で非合理主義的な〈闇〉への指向性は、ある意味では、終戦直後から既に、アメリカナイズされた向日的な民主主義・自由主義・合理主義の担い手となってゆく(大正生まれを中心とする)大人たちへの強烈な〈不信感〉と結びつく形で、当時思春期にあった(昭和初年生まれの)多感な青少年たちの内部にどす黒く醸成されつつあったようにおもえる。
青森大空襲で母と共に焼け出され、終戦の年に十歳を迎えた、昭和十年(一九三五)生まれの寺山修司もまた、そのような早熟で多感な、病身の少年であった。
終戦前後に、破壊とカオスのただ中で阿鼻叫喚の地獄を目のあたりにし、餓死や極貧や病による死と背中合わせになったあてどのない廃墟の風景を生きた昭和初年生まれの世代の魂に刻まれた傷のかたちは、私の印象では、まことに複雑で哀切で、酷薄かつ隠微な様相を呈している。
彼らはまず、昨日まで「鬼畜米英」を叫び、欧米の物質文明のエゴイズムと道徳的な堕落を呪いながら、信義と友愛にもとづく天皇制共同体国家のユートピア的建設とアジア民族の解放を唱え、それと結びつく、自然や神々と調和した日本的な伝統美の世界や清貧・誠実・謙譲の美徳や玉砕と自己犠牲的献身の精神を鼓吹してきた教師や親や大人たちが、敗戦と同時に、掌を返したようにアメリカ流民主主義と自由主義の徒へと豹変し、自国の民族文化と前近代的・封建的伝統を平然と悪しざまに言うようになるという、信じがたいほどの破廉恥な〈大嘘つき〉の実態をまざまざと見せつけられた世代であった。
それは、彼らにとって、人間という生き物の奇怪な醜悪さを見せつけられただけではなく、同時に、あらゆる神聖な、美しい観念的理想が、地上的現実という、物質主義とエゴイズムと散文的な合理精神や計算が物を言う殺伐とした世界の前に、決定的に敗北してしまうという、不条理きわまる〈幻滅〉の体験として刻印されたはずである。
その傷は、終戦間際に体験させられた破壊と大量死の光景はもとより、彼らが大人へと成長する終戦直後の混乱期における窮乏や病やサバイバルによる、死と背中合わせになった凄絶な世相をくぐり抜ける中で、さらに、世界風景としての象徴的な意味合いを深めていったに違いない。
それは、己れを取り巻く環境の偶然的な変化に対応して、いとも易々と破廉恥に変節してやまない、人間というエゴイストの生き物に対する冷笑的な不信感であり、ひいては、物質的・社会的・形而下的条件に翻弄され、規定される、卑小ではかない肉体的存在としての人間を緊縛している地上的現実の不条理性の痛覚ではなかったかとおもえる。
昭和初年生まれの表現者に私が常に共通して感じるのは、そういう、可視的な生身の地上的現実に対する、人間や人生の正体を冷笑的に見切ったかのような、ビターな幻滅に染め上げられた深い悲哀感、ニヒリズムの廃墟感覚なのである。
しかし、同時に、彼らの表現には、そのニヒリズムと裏腹のように、ある種の矯激なロマンティシズムの匂いが感じられることもたしかである。
いまだ人口の半数近くが農民であり、村や都市下層社会における土俗共同体的な〈闇〉の濃密な気配の残滓の中で幼少年期を送ったこの世代には、身体感覚の内奥に、戦後社会に顕著となる物質主義や散文的リアリズムや合理主義のエートスとは似ても似つかない、非合理的で超越的な存在に対する感受性や憧憬・渇きが息づいていたようにおもわれる。
それは単に、共同体的・風土的な〈闇〉の体感の記憶によって培われたばかりではない。
この世代の幼少年期に当たる戦前昭和初年の日本には、明治以来の性急な資本主義化・近代化の渦中で疲弊し切り、深刻な不況・恐慌の中で痛めつけられた大衆の巨大なストレスによる反英米感情の昂まりの中で、喪失された伝統的な美意識と感受性に対する、ヴァーチャルではあるが熱烈な〈回帰〉への飢渇が渦巻いていた。
その喪失感と背中合わせになった神秘で土俗的な闇の奥ゆきや妖気への非日常的な渇きの感覚は、幼少年期の風土的な体感や生活上の不条理感の記憶とシンクロナイズしながら、昭和初年生まれの多くの子どもたちの身体感覚の内奥に独特の〈闇〉のイリュージョンによる原風景となって沁み込み、根を下ろしていったものとおもわれる。
寺山修司もまた、そのような繊細で哀切な翳りを抱え込んだ世代の作家だった。
昭和初年生まれの表現者には、戦後のアメリカ型の科学的合理主義・自由主義・物質主義的リアリズムの流れを、近代化の必然として認識し、徒労と不条理に満ちた産業文明の殺伐とした地上的散文的現実を、人間に対する冷笑的な不信感と大人的な断念を内に秘めながら甘受すると共に、喪失された非合理的で超越的な闇への渇望を、不可視のイリュージョンの領域として、すなわち、アンダーグラウンドの〈虚体〉の表現領域として疎外的に造形せんとする者が多い。
地上的な不条理感の深さとヴァーチャルで彼岸的な幻想領域への超越の渇望の烈しさという、互いに倒立的に代償し合う〈二重性〉こそ、この世代の宿命的な資質の枠組を規定する傾向性となっているようにおもえる。
戦後のアメリカ型産業文明の最初の中心的な担い手となった近代主義的で物質主義的な、向日的な大正生まれのリベラリストの戦中派世代への幻滅と不信と反発の念を抱え込み、反近代主義的な〈闇〉への狂暴な衝迫を内に秘めた昭和初年生まれの表現者たちの仕事が、戦後近代社会の見せかけの繁栄、空虚なアカルサを痛烈に批判し、その真昼のようなフラットな光景の背後によどんでいる不条理感のどす黒いかたちに照明を当ててきたことの意義は高く評価されてよい。
しかし、高度成長末期に突入する六〇年代半ば以降の高度産業社会の可視的現実を、空虚な網膜的光景として一面的に規定し、貶める時、幻視された〈闇〉の領域は、果たして、人を真に幸福ならしめる未来の地平を切り拓くだけのイリュージョンとしての力強いリアリティーを紡ぎ出せるであろうか。
とても、そんな力量があるとはおもえない。
私たちの生きる色や匂いのある〈生身〉の生存空間、日々の労働や憩いやさまざまな生活のささやかな哀歓によって織りなされる身体的なリアリティーの現場を、高速度で回転する生産─消費サイクルによってひたすら磨耗していく疎外された時空とみなし、うつろな男女によって演じられた薄っぺらな愛憎の悲喜劇の場にすぎないと一面的に規定する限り、すなわち、私たちの生身の身体と存在との交感によって意味づけられるこの日常的な生活世界というものを、ひたすら、不条理で偶然的な網膜的現象とみなす限り、〈闇〉への渇きとは、もしそれに芸術的な表現理念を託するとすれば、せいぜい、無意識に醸成された鬱屈・ストレスに、死や虚無と背中合わせになった、グロテスクで狂暴な破壊や殺意への非日常的な衝動と倒錯的に昂進したエロス的欲動への耽美的な表現形式を与えてやるという、ダンディズム的な芸術至上主義的虚構意識に収斂するほかはないであろう。
さもなくば、冒頭に引用した「さはるものにみな毛生ゆる病」や「眼球のうらがへる病」でシュールレアリスティックに象徴された不幸な男女のような、孤独地獄の中で醸成された精神病理や犯罪の歪んだ〈闇〉の世界が待ち受けているだけである。
私たちは、もし、表現と実生活を二元的に使い分け、狂気とすれすれのところで己れのデモーニッシュな渇きに表現を与えることで、殺伐とした不条理な実生活を観念的にもちこたえるという不自然な意志的方法を拒絶し、なおかつ、精神病理にも犯罪にも陥らずに、現世をくぐり抜け、人として幸せにならんと希うのなら、可視的な現実を、すなわち、私たちの〈生身〉の身体的なリアリティーの世界というものを、決して貶めてはならぬのである。
「さはるものにみな毛生ゆる病」で、「げに、毛とは怖しきものなり。ひそかにわれわれも毛にて統べられゐるべし。時も、歌も」と語られるように、もし私たちの存在が、深々とした〈闇〉のコスモスとの接触によって初めて真に意味あるものとしてこの世界に定位しうるものであるとするなら、その〈闇〉は、存在との〈生身〉の身体的交感と意味づけの文脈の内に改めて奪回されなければならないはずである。
しかし、六〇年代半ばの高度成長期における産業社会化の渦中にいる多くの日本人にとって、〈闇〉とは、忌まわしい前近代の貧しい土俗共同体の遺物として、不吉なるものの象徴として、ひたすら切り捨ててゆくべき対象、封印すべき対象とみなされるようになっていたのである。
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《鬼見る病と云ふあり。ひとりのときに鬼と逢ひ、見られ、ときには嗤はるるもあり。もとより幻覚にはあらず。/鬼、ときには背広を服し、ときには女装し、?笥のかげ、電気冷蔵庫の中、あらゆるところより出でては、ただ見つめ、嗤へるのみ。何もせざるがゆゑにさらにこはし。//鬼を見たる者、レントゲンにて頭蓋を透視せるに異常なく、ただ鳥のごときかたちせる癒着部分のこれるのみ。ひとみな、鬼をおそれ、みづから鬼になることによりて鬼見る病より免がれむとせり。/されば人みな、ただ見つめ、ただ嗤へるのみにて、大いなる嗤ひの街あらはれたりと云へり。いかにも鬼の敵は、鬼なり。》(「鬼見る病」より、「新・病草紙」所収)
いまや形骸化し、理不尽な因習的桎梏と化した前近代的土俗的な共同体の〈闇〉の世界を切り捨て、根無し草のサラリーマン・公務員として、血縁・地縁の濃密な束縛から急速に解き放たれ、マイホームや快適な消費生活への夢を抱きながらせっせと稼ぎまくっていた当時の日本人の中にも、しかし、ひとり孤独の時には、ここで象徴的に描かれた「鬼見る病」のように、切り捨てたはずの〈闇〉の気配が、不意に散文的でフラットな日常の〈空隙〉をつくように、グロテスクな分身としての無意識の渇きの領域を浮上させるのである。
しかし、産業社会を支える無数の集団的機構の中で、容易に取り換えのきく部品のような役割人間と化した高度成長末期以降の日本人にとって、〈闇〉の気配とは、自らのうつろさを気づかせてしまう不吉な幻覚の世界として、是が非とも封印してしまわねばならぬものであった。
当時の日本人の多くは、自らのアイデンティティーというものを、加速度的に膨張する生産─消費サイクルにおける経済的ないし享楽的な価値の追求と社会的な業績・評価のコードに回収させ、あるいは、擬似共同体的なプライドと保障にもたれかかる会社人間や、社会化された文脈の内部に子育てや夫婦生活の内実を解消されたうつろなマイホーム人間に帰着させてしまっていた。
脱社会的な、純粋で孤独な身体的存在としての〈己れ自身〉という固有性の次元にめざめさせ、それを深々と包摂してくれるような〈闇〉への感受性に、己れのアイデンティティーの究極の根拠を求めることのできるようなまなざしをもちうる人間は、ほとんど皆無といってよかった。
高度成長末期以降に形成された産業社会に生きる人々が画一的に強いられてゆく風景へのまなざしとは、すべてが平板でニュートラルな近代合理主義の〈知〉の目線によって解釈されたヴァーチャルな存在の諸相なのであり、断片化されて浮遊する記号化されたモノのランダムな集合体としての、無機的でメカニックな世界風景にほかならなかった。
そこでは、人もまた、奥ゆきのない記号化されたモノの一種に変貌し、己れを取り巻く〈関係の絶対性〉に翻弄されながら絶えず感情や感覚や欲望をめまぐるしく変容させる、不条理で偶然的な断片的存在へと化してゆく。
〈私〉と呼ばれている主体は、実は真の主体でも何でもなく、社会化されたコードによって蝕まれた生活環境の下で、たまたま便宜的なレッテルのように己れに貼りつけている記号化された〈仮面〉のようなものにすぎない。
いくつもの〈仮面〉を使い分け、演戯しながら、外的で偶然的な事物との遭遇・刺激によって変容する〈関係の連鎖〉の中を絶えずさまようほかはない、アトミックな断片と化した哀れな現代人に、真の〈私〉、真の〈主体性〉、真のアイデンティティーというものが生まれるはずはない。
そして、真の〈私〉、真の〈主体〉の無いところに、生ける他者や己れを取り巻く諸々の存在との真の温かい〈生身〉の接触に根ざした幸福な生活の物語が構築されようはずもない。
そのような現代人における〈私〉意識の解体、〈主体性〉の消滅という地獄は、二十世紀芸術が肉薄してみせた現代文明の最大の暗部の一つなのであり、寺山修司もまた、彼のエッセイの中で繰り返し取り上げたテーマでもあった。
この地獄の根底に横たわるものが、存在から奥ゆきと陰翳とを剥奪し、世界風景を記号化されたモノのランダムでメカニックな集合体へと一元的に還元せんとする、真昼のような、ニュートラルな近代合理主義の〈知〉のまなざしなのである。
地平線の彼方までフラットに見通すかのような、その散文的な世界視線は、地球という惑星を、われわれという〈主体〉の存在論的な意味性とは何の関係もない、単なるちっぽけな小土塊へと卑小化させてしまう。
ちっぽけなゴミのような惑星の上にたまたま発生し、ランダムに浮かぶ、人類という雑菌のような生き物。そして、諸々の存在たち。
そのような近代主義的な痩せ細ったまなざし、生存感覚の延長上に、寺山修司は、己れの世界観がいかに異常で、いかに人を死に至らしめる、怖ろしい哀れなしろものであるかを悟ろうとせず、皆で縮めば恐くないとばかりに、ヘラヘラ笑いながら滅びに向かって足並みをそろえてゆこうとする現代人の鈍感極まる主知主義的な阿呆らしさを、痛烈に皮肉ってみせている。
《身のちぢむ病といふあり、ある男、朝、棚の上なる石鹸をとらむとして手をのばしたれど、手とどかざるなり。不審に思ひて身の丈、手の長さなどはかりたれば、あきらかに前日よりちぢみゐることに気づく。医師にあひて、この大事訴へたれど、医師あざ笑ふのみ。男、気に病みつつもほどこすすべなく、しだいに頭上より高くなりゆく鳥籠の文鳥を見上げつつ、ちぢみ、ちぢみゆくなり。日をふるほどに、男、テーブルの丈にちぢみ、靴の丈にちぢみ、桜草の丈にちぢみて、叫ぶこゑさへとどかずなりぬ。/かなしみて詠めるうた。//地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら//されど身のちぢむ病、男のみのものにあらず、万物のさだめにてありと説く学者曰く「地球のちぢむ速度と、ひとの丈のちぢむ速度の比こそ問はるべし。この比の破れたるときのみ小人、巨人の類あらはるるなり。/ただひとり、いそがむとするもののみ恐怖につかれむ。いざ、ゆっくりとちぢむべし。/地球とともにちぢむべし。これ、天人の摂理にして、すこやかなる掟なり。」/――ちぢみたる男、砂礫のなかにまじりて「ああ、ひとなみにちぢみ、おくれもせず、いそぎもせざれば、かく恥かくこともなからざりしを」と嘆息せりときこえしが、いかに。》(「変身」、「新・病草紙」所収)
産業文明の全地球規模への拡大・浸透による消費水準の上昇と科学的・合理的な〈知〉の普及という近代化の歴史的必然に対する進歩主義的な礼賛の評価の高まりとは裏腹に、皮肉なことに、人類の存在へのまなざし・感受性は、ますます痩せ細り、白昼のように空虚でアカルイ、ニュートラルな均質化された〈客体〉の寄せ集まりとしての世界風景の中で、身体感覚は冷え切り、卑小感と不条理感が昂進してゆく。
地球と共に万物が一斉に縮退してゆくという、このアカルイ廃墟のような滅びのイメージに、私は、以前論じた吉本隆明の終戦直後の優れた長編詩「(海の風に)」における、「わたしがひとに変り/うれひが忘れられて/うれひにならないとき/海はかはらぬ色で/折々の壁をつくる/いれかはり去りゆくものに/挽歌をつづける/波がしらと風との交はりで/大地がふち取られ/水平線がまるくなり/あはれ天球のほうに/つらい孤独をつげる/あはれわたしのゐない冬の色で――」という一節を想い浮かべる。
吉本のこの作品は、既に論じたように、近代化の中で解体・喪失へと追い込まれてゆく前近代的な土俗共同体の深々とした〈闇〉のコスモスへの哀切な〈挽歌〉ともいうべきものであり、その喪失感の深傷の追憶が、生命と虚無の両義性の綾なす神秘でコスミックな〈闇〉の気配に抱かれていた少年期から、戦後の荒れ果てた散文的でニュートラルな世界風景の中で、殺伐とした不条理な生活苦と己れを取り巻く関係の絶対性に翻弄される生き難さの業を抱えた青年期への〈変容〉の苦しみを通して、美事に浮き彫りにされていた。
吉本の初期詩篇に生々しく哀切に描き込まれた戦後社会の暗部の本質への洞察と同型の感覚を、私は、寺山修司の『田園に死す』に見出すのである。
しかし、吉本隆明も寺山修司も、一面では、このように戦後近代における〈闇の喪失〉という病のかたちを的確に表現しうる力量をもちながらも、結局のところは、その病の進行を根底的に支えている近代合理主義的な、ニュートラルでフラットな存在へのまなざしをきちんと批判し、その思い上がった主知主義的な身構えを真に解体・超克しうるだけの、深々とした〈闇〉への身体的接触と交感に根ざした生存感覚の〈変容〉の地平に躍り出ることはできなかったのだ。
拭いがたい〈存在への不信〉の想念が、彼らに、それを許さなかった。
それが、とどのつまりは、彼らにとっての戦争体験、終戦前後の不条理性の傷がもたらしたものの意味であったと言えよう。(この稿続く)
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《地獄につづく まっしろな道/狂気と静寂の最大の範疇をつらぬいて/光もなく影もなく/おいつめられた時間の遺跡は/きらめきのぼる/それはゆるやかに深淵にめぐられた/石胎の台/その上にかれは立ち/皇帝のようにオリオンを呼んだ》《仄あかい死の松明にてらされた/村よ 寡婦たちよ/識られざる命の水を汲んで/おれの頂きのかすかな懊悩をさませ/孤独と恥辱と二つの光に曲げられた肉の/かがやく渇きを去れ/まだ何ひとつ始まらぬうちに》《われわれは暗いところから飛んできた/符号にすぎぬ/あわれな偶然が片隅でもえる世界の/無数の柱のうちのひとつにすぎぬ/そしていまおれが待っているものは/「薄明の力学」にすぎぬというのか》《消えろ 塔も王国も/忘却の足跡をつなぐ長い鎖も/弱々しい胞子の願いの言葉は/かれと地球のなかを裂き/かれの足はすばやく/灰いろの骰子(さい)をふんでいた/旅行はすぐに終った/自我は振子の大いなる錘となって縊れ……》(「自我処刑」、『天山』所収)
まるでホメロスやシェイクスピア、あるいはニーチェの『ツァラトゥストラ』やワーグナーの劇空間を想わせるような、身振りの大きい、神話的・古典的な格調を漂わせた孤高の狂気が、コスミックな闇の壮大な背景の中で灼熱の輝きを放っている。
この作者の天性の資質ともいえる、ドン・キホーテ的な、生への男性的な身振りの大きさが、高度に抽象的な劇的虚構性の場を活かした暗喩の痛切さという形をとって、純粋で透明な、張りつめた冷気の中で、虚無に対峙する狂おしい生命のうねりを美事に触知させる。
こういう作品を、ゆとりのない生真面目な倫理的メッセージとして、その空気感ごと素直に受容できた五〇年代までの時代を、私はそれなりにいとおしく感じるけれども、この詩の大振りな劇的ポーズをひとつのエンターテインメントとして愉しみながら、なお、その物語的構成に織り込められた心情の純粋さと透徹した思想性を、己れの身体感覚の深みを通して、新たな生の文脈の中で受け止め返すことができる時代に生きているという実感を、大切にしたいとおもう。
『天山』は一九五六年に刊行された谷川雁の第二詩集であるが、収められた作品群が書かれたのは、『大地の商人』や『伝達』所収の五〇年代の詩より以前の終戦直後、一九四五年〜四八年という、作者の二十代前半の時期に当たる。
この詩人の初期詩篇といってよいが、彼の表現の基底をなす存在へのまなざしが、実存的な緊迫感をみなぎらせながら、剛直なリリシズムをたたえて、みずみずしく息づいている。
奇しくも同じ終戦直後の時期に、ほぼ同じ年齢で、詩人としての資質的な自己形成を行った吉本隆明の表現が、以前にも述べたように、主・客融合的な生身の具象世界に息づく存在のきらめきから距離を置き、ニュートラルで観念的な自我意識の次元に究極の生の拠点を求めて、いわば「色即是空」のまなざしによる〈虚体〉の場所に立脚せんとしたのに対して、谷川雁は、同じく非人間的な〈存在の不条理性〉の想念に苦しめられつつも、吉本とは対照的に、具象世界のコスミックな輝きに全身を燃え上がらせ、死の淵に対峙しながら、一切の冷ややかな客観主義的目線の重圧を超越し、この世の幻想的な秩序を無化する地平に感覚的に躍り出ようとする。
いわば、「空即是色」のまなざしを肉化した独自の個の地平に、アナーキーな天上的夢想を、たしかな手ごたえをもつ主体化されたひとつの〈実在〉として紡ぎ出してみせたのだ。
ドラマチックに描かれた「自我処刑」の思想的構成を見てみよう。
まず、第一連で開口一番放たれた「地獄につづく まっしろな道」という凄んだ言い回しを通して、作者は、己れの魂の軌跡を人類史の足跡と重ね合わせてみせる。
「狂気と静寂の最大の範疇」という曖昧な表現に、私たちは、既に繰り返し触れてきた、この詩人の存在への二元的なまなざしのきしみの痛覚、すなわち、存在の静謐な奥ゆきと地上的な不条理性の暗黒の巨大な〈落差〉に対する痛覚の鋭さを透視することができる。
この痛覚は、一切の哀歓を沈黙の裡に抱き取りながら深々と息づき、年輪を重ねる、〈自然〉の如き自己充足的な生の位相に対する〈異和〉としての、マグマのような狂おしい〈解放〉への夢想のエネルギーを醸成せざるをえない。
作者によれば、人類史とは、そのような、大いなる存在の〈闇〉がはらむ〈静〉と〈動〉の、静寂と狂気の、二元的なダイナミズムの渦中で演じられた、無数の哀切な生のきらめきの集積が生み出した、廃墟址の厖大な地層にほかならない。
それはまた、作者にとって、死と虚無の深淵に対峙しながら、地上的な永続性への我執を超えて孤独に飛翔せんとする、誇りたかい、コスミックな生命の輝き・充溢への燃えるような渇きの表現の軌跡でもある。
深淵に囲まれた不妊の「石胎の台」の上で「皇帝のようにオリオンを呼」ぶとは、そのような、ひとり天地に屹立する、孤狼のような魂の咆哮のイメージを指す。
ひるがえって第二連では、「仄あかい死の松明にてらされた/村よ 寡婦たちよ」とうたわれ、地上の不条理の脅威にさらされた民衆の生の実相に対するまなざしが提示されるが、その対象が「村」であり、「寡婦たち」でなければならないのは、虚無に蝕まれた作者の魂の傷を癒してくれるものが、決して近代化された工業社会の労働者や市民のまなざしではなく、あくまでも、存在の〈闇〉のコスモスを深々と息づかせてきた前近代的・前プロレタリアート的な、共同体民の伝統的土俗的な生存感覚だったからである。
いかなる不条理も死も、ひとつの自然のように深々と抱き取り、優しく鎮め、ゆるやかな時の流れの中で癒し、浄化してゆく、存在の繊細な沈黙の奥ゆきの深さとみずみずしい生命の輝きが、そこにはたしかに息づいていたからだ。
それは、根無し草の近代インテリとしての作者の蒼ざめた観念的な自我意識がとり憑かれてきた非人間的な〈存在の不条理性〉の想念を、しばしなだめてくれるものであった。
だからこそ詩人は、「村」や「寡婦たち」に向かって、「識られざる命の水」を汲んで「おれの頂きのかすかな懊悩をさませ」と呼びかけることができるのだ。
それはまた、地上的な存在者としての肉のくびきの重さにもがき苦しみながらも、その内部を貫いて飛翔せんとする、天上的でコスミックなまなざしへのめざめでもある。
だからこそ彼は、一面では、さまざまな関係の貧しさや生活の窮乏や理不尽な差別・排除に痛めつけられることでどうにもならない屈辱を抱え込み、現世への代償を求めてやまない、大衆の我執に満ちた卑小な実生活上のもがきと浮沈の実相に対して、「孤独と恥辱と二つの光に曲げられた肉のかがやく渇きを去れ」と、憤怒を込めた〈飛翔〉へのメッセージを叩きつけることができるのだ。
そして第三連では、一転して、第一連・第二連の生命的な飛翔への渇きのイメージと対比されるように、いかにもマルクス主義の唯物論的洗礼を受けた近代インテリらしい、作者の近代主義的なニュートラルな存在観の不幸さとそれへの強烈な〈異和〉のおもいがうたわれる。
ユダヤ・キリスト教的世界観における、宇宙を司る唯一神と神の気まぐれに由来する被造物の不条理性という、天上と地上の〈分裂〉のまなざしに端を発し、近代科学のバックボーンとなったコペルニクス=ガリレオ的宇宙観の延長上に形成された西欧のアトミズム的・機械論的存在観。
主体と客体を分離して、存在から一切の生命的で神秘的な意味づけと価値づけを剥奪し、万物の生起消滅を、因果律と確率論というニュートラルな自然法則に翻弄される〈記号的存在〉による必然と偶然の哀れな運動に解消せんとするのが、その西欧近代主義的な存在観の正体である。
近代科学の実証的成果なるものは、それはそれで、既知または未知の一定の制約条件の下で蓋然的に妥当しうる相対的な客観的真理とみなしてもさしつかえないが、その科学的研究なるものが、西欧近代の生み出したアトミズム的・機械論的存在観という、偏狭ないびつな世界視線によって導かれ、その視線によって限定された存在の局面に沿って量産されてきたしろものにすぎないという点は、きちんと認識しておく必要がある。
そのまなざしの下では、地球は、化学反応によって偶然的に発生した哀れなゴミのような惑星にすぎず、人類は、そのゴミの上にたまたま繁殖した雑菌のような生き物でしかない。
谷川雁もまた、近代の病理に全身を蝕まれた芸術家や知識人のご多分にもれず、こういう哀れな、無条件に本気で受け容れるならば人を狂気に陥れるような宇宙観に呪縛されて苦しんでいるのだ。
近代科学に武装された観念的な知がささやく「暗いところから飛んできた符号」にすぎないという無意味なわれわれの生命が、いかにして蒼白い死と虚無の想念を超えて、生気溢れる物語を織り上げてみせることができるのか、と。
近代科学を一面的に肥大化させ、その成果をひっさげて客観的真理を装い、観念的によろずってみせる近代主義的な存在観の呪縛を、全身的な憤怒を込めて断ち切らぬ限り、待ち受けるものは「薄明の力学」でしかないのだ。
生の源泉を〈理知〉に還元することで、己れ自身の生や社会や自然を統御し支配せんとする、思い上がった近代主義的・主知主義的な〈自我意識〉の殻を打ち破れ。
本能の内に眠る、主・客融合的で直接的・即自的な、存在との生ける〈接触〉の圧倒的な実感を蘇生させよ。
谷川雁の無意識の〈渇き〉は、そのような未踏の地平をめざす。
「自我処刑」というタイトルは、そこにはらまれ、産み落とされたのだ。
《焔のなかに炎を構成する/もえない一本の糸があるように/おれはさまざまな心をあつめて/自ら終ろうとする本能のまわりで焚いた》(「或る光栄」より、『天山』所収)
このような〈本能〉を軸とする燃焼のイマージュによって存在を照り返すとき、宇宙を自然法則による偶然と必然の機械的な運動の集積体にすぎないとみなす、冷え切った客観主義的なまなざしは解体され、万象は完全に相貌を新たにする。
『天山』に収められた「たうん・あにま」は、そのような、存在観の根源的な変容への渇きが紡ぎ出した、異色の作品であるといっていい。
《かれの否定する霊魂のごとき町の/かたつむりに負われた夜/このかがやく種子に渦まくものは何か/若い薔薇の茂る空/かの橋を渡る一つの眼に/ささやく息吹きは何か/無名の草 おまえ 一本の絃が/ゆうべの牢獄を鳴らすとき/ああ すべては砂漠/それを逃れるこころがあろうか/泉があろうか/階段という階段を降りた風は/ゆうひの遺した金を疑い/冷い素顔を吹く/町びとのかざす桃花心木(マホガニ)の燭台に/森のけものの骨はやかれ/地球のへりだけが緑色にかがやく夜/一滴の霊魂のごときこの町で》
すき透ったはかなさに包まれた、森羅万象のみずみずしい息づかいを、淡々と沁み入るようにうたい上げた、息を呑むほどに美しい作品である。
こういう作品についてあれこれと言葉を弄するのは、野暮というものだろう。
ここで作者は、己れを苦しめてきた〈存在の不条理性〉の想念に対して、一切の近代的な〈観念〉のフィルターを払拭した上で、存在との主・客融合的な身体的接触による本能的・直観的な覚知のイメージを点綴しながら、一枚の深々としたコスミックな風景画を織り上げることで、鮮やかに象徴的に塗り変えてみせる。
「すべては砂漠」とうたい上げられながらも、この詩では、移ろいゆく存在の輝きとはかなさは、なんと透明な静謐感をたたえていることだろう。
「地球」もまた、ここでは単なる物理的な球体ではなく、存在の神秘を司る聖なる〈闇〉の息づかいを伝えるひとつの生き物なのだ。
地球とは、「一滴」の「霊魂のごとき町」と呼応し、それを包摂する、それ自体霊的な存在であり、敷衍的にいうなら、無数の星辰を司る宇宙もまたそうである。
地球とは、存在の神秘を象徴的に開示するひとつの場であり、「たうん・あにま」もまたそうなのだ。
そして、私たち自身の〈身体〉もまた、そのようなコスミックな〈照応〉の場にほかならない。
この異色の詩作品がはらんでいる〈非知〉としての思想性は、本来、そのような脱近代的なまなざしに通底するものであった。
作品「自我処刑」の第四連で発せられた、一切の現世的・幻想的秩序を無化せんとする「消えろ 塔も王国も/忘却の足跡をつなぐ長い鎖も」という激烈な叫びは、おそらく、このような〈本能〉を軸とする存在との生身の〈接触〉の直覚に根ざした、たしかな手ごたえをもつコスミックな生存感覚に支えられるとき、はじめて、単なるアナーキズムのヴァーチャルなうわ言ではない、永続的なリアリティを獲得しうるのだ。
それは、一見ヴァーチャルな非在としてのユートピズムの夢想にしか見えないけれども、実はそうではなく、ヴァーチャルでありながらヴァーチャルではない、たしかな生存感覚に裏打ちされた、主体化された〈実在〉としての夢想なのである。
詩人は、ふるえるようなおもいで、観念的な自我意識ではない本能的な直覚を支えとするこの夢想のリアリティに賭けようとする。
そのリアリティの手ごたえ・痛覚が全きものへとせり上がる瞬間、おそらく彼の生命はスパークし、みずみずしい奔放な自在感をみなぎらせるようになる。
《ああ ゆうひ/ひとすじの道をこえ/ありふれた草をふみ/おれの賭けた砂っぽい背骨/死面(デスマスク)/二十代の馬鹿/すべては谷にころげおち/おれは山の高さと谷の深さを/いっしょに見ている/おれの目に狂いがなければ/たしか自由とは/こんなことであろう/おれを射ぬいたものを/おれがやり返した その日から/そんな自由が住んでいる/古びた火薬庫のような胸に》(「ゆうひ」、『天山』所収)
この作品は、「自我処刑」で語られた作者の透徹した実存的な生命感を、平易な言い回しで端的に表現したものだ。
やはり口ずさみたくなるような、キザでかっこいい詩だが、存在の本質を「山の高さと谷の深さ」というわかりやすい〈自然〉に喩えながら、己れのコスミックな生存感覚に根ざしたアナーキーで生命的な〈自在感〉を軽快に愉しげにうたってみせている。
6
谷川雁の「革命」幻想とは、彼が詩の世界で肉化した表現を与えてきた、以上のようなコスミックな身体的感応=照応による非日常的な〈飛翔〉のイマージュを共有しうる大衆によって構成された、〈非所有〉の魂を備えた、倫理的な共同体=コミューンへの彼岸的な夢想にほかならなかった。
しかし、卑小な日常的哀歓やあるがままの生身の人間関係のどうしようもないくびきの重さへのどす黒い嫌悪を抱え込み、まっとうな〈生活〉への不能性を宿命づけられたこの詩人が、己れの彼岸的夢想を、なんらかの現実的な共同体の実験的な構築や政治的な変革の路線へのプログラムという形で具体化せんとする時、そこには、生身の身体性を削ぎ落としたグロテスクな観念的人格の同志的結合によるスターリニズム的な陥穽の地獄が口を開けて待ち受けていたはずである。
先にもふれたように、庶民世界の卑小な地上的現実の肉のくびきに対して繊細な感受性をもち、また、純粋な観念的大義への献身が酸鼻で不毛な地上的・政治的結末をもたらさずにはおかないというシニカルな逆説をわきまえていたこの人物が、己れの志向する「革命」の政治的な具現化への道につきまとう、どうしようもない阿呆らしさ・空しさに気づかぬはずはなかったとおもえる。
だとすれば、私たちは、谷川雁の紡ぎ出したコスミックな〈飛翔〉のイマージュが、不特定の〈他者〉に向けて解き放たれた時のリアリティをどこに求めるべきなのであろうか。
もちろん、現実的な運動の担い手としての谷川雁を考える上では、詩集『大地の商人』や『伝達』でうたわれた「革命」のイメージをひっさげて、不遇感を抱えたプロレタリアート的意識をもつ、偏りの強い男女を集めて、「書く」行為を通して彼らの深層に眠る夢想に表現を与えようと試みた一九五〇年代末の「サークル村」の活動とその中でしたたかになめさせられたであろう挫折感や、詩作を断念した後の六〇年代前半の「大正行動隊」における体験のもつ深い意味についての考察は欠かせない。
特に、「大正行動隊」における谷川の、どこか突き抜けたような爽やかなリーダーシップや仲間の労働者たちとの生気溢れるダイナミックな交流の内に息づいていたであろう、〈非知〉の匂いと生活者的なリアリティは、まことに魅力的な印象を与えてくれるし、それらは、「サークル村」のさまざまな重苦しい挫折体験なくしては、決して生まれ得なかったものであろうことは推測できる。
それはおそらく、この詩人にこびり着いていたスターリニズム的な政治革命的志向への思い入れの放棄、さらには革命への現実政治的なプログラムそのものへの思い入れの放棄へと彼を導く要因の一つともなったかもしれない。
だが、現実的な行動者としての谷川雁についての私の知見はあまりに乏しく、これ以上の推測は控えるしかない。私は、あくまで、彼の詩的表現の内に込められたリアリティの範囲内に己れの考察をとどめておくことにしよう。
『大地の商人』で表現された谷川雁の革命思想の総決算ともいえる「人間A」は、この詩人のコスミックな生存感覚に根ざした独特のコミューンへの想いが、現代社会の中で、とりわけ戦後社会の中で強いられざるをえない、深い孤立感・断絶感の純粋なかたちを美事に浮き彫りにしてみせた感銘深い作品である。
《存在ははな欠け 現象はゆるみ/もはや祖国に正しい円のひとつもなく/含羞草(ねむりこ)がうつむき水を吸っていたとき/小銃をつきつけられた曙があらわれ/その彼方にかれはよろめいた》《世界中がぷらすであったときに/かれひとりまいなすであったので/薄明のなかのかれは一点の深夜だった/陶器の模様ほどの栄華をすて/頭蓋に露はしたたって/ありうべき刑罰を思っていた/森にふる雪のように あざやかに》《かれの座標は名もしらぬ村界にあって/倫理の異様な深さのなかを/あたらしい罪が魚眼でみまわした/さまざまのはげしい形がめざめようとする/それよりもわずかな昔であった》《ああ未来の国家 それだけのこと/そしてめのまえの一本の杉/不定の位置に立つときかれは没落する/この赤らみゆく樹木の無意味に対して》《国々の都も静かに鳴っているであろう/かれの原点にうつ時のひびきを/体温表に似た森は聴いたのだった/また聞いたのだろうか それは/むなしく驕るものの絶えまない死を》《かれが人間Aであるならば Bあるいは/Cとしての人間も見なければならなかった/陰画のようにぬけだした思考の獣が/薄い輪郭をもって染められ/まだ昇らない地下なる空へむかうのを/かれらは避けがたくそれを見るだろう》
現世の卑俗さから飛翔せんとする気高い魂が強いられる孤絶感の深さが、淡々とした剛直なリズムで鮮やかに紡ぎ出されている。
表出の核心をなすのは、第四連と最終連だ。
第四連で作者は、「赤らみゆく樹木の無意味」に拮抗しながら、己れの「未来の国家」を想い描いてみせる。
改めていうまでもないことだが、この「未来の国家」というコミューンの夢想は、決して「樹木の無意味」を外在的なものとみなして対峙させられているわけではない。
作者は、人間的な意味づけをはるかに凌駕しながらも圧倒的な存在感をもって優しくかつ峻厳に屹立している、生命的な〈自然〉の象徴である「樹木」の息づかいに、人間の生をも含む存在そのものの本質をみてとって、その位相を繰り込んだ形で、未来のコミューンを紡ぎ出してみせるのだ。
死と不条理の想念に全身的に抗い、地上の卑俗さを超えてどこまでも生命的に飛翔せんとする、見果てぬアナーキーな夢への衝迫とは、一切の生の哀歓を深々と抱き取り、風雪に耐えて年輪を重ねる〈自然〉の如き自己充足的な生の位相と、それに対する〈異和〉としての狂おしい解放のエネルギーをマグマのようにはらんだ、それ自体もまたひとつの〈自然〉としかいいようのないデモーニッシュな位相から成る、大いなる存在の〈闇〉のコスモスによって演じられる二元的なダイナミズムの仮りそめの表現と言い換えることもできよう。
「ああ未来の国家 それだけのこと/ そしてめのまえの一本の杉」という端的だが味わい深い言い回しには、本当は、未来の国家などどうでもよい、ましてや、政治的な変革のプログラムや現実的な運動形態など、己れの生の究極の意味にとっては何ものでもないという、いわば大いなる〈自然〉の営みに一切の価値の源泉を帰着させようとするアジア的な生存感覚が、ひそやかに息づいているようにおもえる。
「かれの原点にうつ時のひびきを/体温表に似た森は聴いたのだった」という第五連の言葉にも、こういう深々としたコスミックな自然の位相に純粋に下降せんとする作者の資質がよくにじみ出ている。
このようなまなざしに己れの存在の中心を置いて紡ぎ出された革命の幻が、国家だの政治だの運動だのといったような、地上的・散文的な、卑俗なリアリズムと集団的な力学への透徹した洞察を必須の前提とする技術的コードに、不毛な形ではなく直接的にリンクする回路など、およそありえないことである。
作者は、コスミックな生存感覚に根ざした自らのコミューン幻想を共有しうる人物の類型を「人間A」と名づけ、それに対して縁なき魂をもつ人間たちの諸類型を、仮りに「人間B」とか「人間C」と呼んでいる。
この詩人がどれほど熱く高鳴る胸で「革命」の幻を夢みようと、どんなに現世に身を乗り出して運動を組織してかかろうと、あれこれの政治的プログラムにコミットメントしようと、戦後社会の大衆や知識人に苛立とうと、「人間A」としての彼の場所は、常に、内面的には縁もゆかりもない「人間B」や「人間C」のまなざしや生きざまによって、たちまちのうちに相対化されてしまうほかはないのだ。
それは、この誇り高く自意識の強い、純粋な魂の持ち主にとって、どれほどの不条理な屈辱であったことだろう。
彼にできることは、本当はただ、「人間A」の魂をいくぶんなりとも感受しうる能力を備えた、この詩人の生きることの哀しみにどこかで触れることのできる、繊細で純真な、えにしある他者とつながることだけだったはずだ。
本当は、彼のむつかしい革命のリクツなどはわからなくとも、感覚を沈黙の内に共有できる人たちがいれば、それでよかったはずではないのか。
本当に大切なものは、リクツではない。知識でもない。存在への感覚的なまなざしの変容である。
それのみが、脱近代の新生への地平を切り拓くものであり、未来のいかなる国家も社会も、大衆のまなざしの変容がもたらすものへの現実的な対応を迫られることで脱皮を強いられることによってしか、生まれ変わることはできないのだ。
だとすれば、谷川雁のコスミックなまなざしに根ざしたコミューンの夢想も、人類の未来への不可知の〈希望〉にとって、まんざら捨てたものではないではないか。
政治とか国家とかいった卑俗で大仰なコンセプトには、ご退場願おう。
まじりっ気のない、この詩人の「原点」にうつ「時のひびき」に、つつましくひっそりと耳を傾けようではないか。
もちろん、人類の未来への〈希望〉などという奴はあるに越したことはないし、〈絶望〉の想念というものは、それ自体人々の魂と身体を蝕む、反生命的な邪悪なしろものなのだから、ないに越したことはない。
だが、こういったたぐいの大言壮語の次元というものは、本当は、私たちの生の意味づけにとって、決して第一義的な重要性をもってはいないのだ。谷川雁にとってもしかりである。
なぜなら、「未来の国家」であろうが何であろうが、しょせん、人間という度しがたい生き物が作る〈社会〉という不完全きわまる器には、いつの時代でも、「人間A」を愚弄する無数の「人間B」や「人間C」が繁殖してやまないのだから。
彼の生の充足にとって本当にかけがえのない第一義的な問題は、本当は、存在へのまなざしを感覚的に共有しうる、えにしある他者との絆のかたちであったはずである。
そのような絆が、まじりっ気のない、ひとつの独立した存在の次元において、私たちの生を象徴的な風景として深々と充たす時、私たちは、縁もゆかりもない魂をもった無数の他者の織りなす〈世間〉という疎遠な風景によって相対化されるという傷から、さらには、この世の不条理の脅威や傷から瞬時に遠ざかり、己れの魂をひっそりと修復することができるのだ。
だからこそ「人間A」の詩人は、この世から「陰画のようにぬけだした」己れの内なる「思考の獣」によって、「まだ昇らない地下なる空」へ向かうのである。
すなわち、己れの存在の根源たる〈闇〉の次元へ降りてゆくことで、痩せ細った卑俗な地上的次元の桎梏から飛翔せんとするのだ。
その〈飛翔〉は、リクツや知識によってなされるのではなく、あくまでも感覚によって、さらには感覚を根源から支える〈本能〉の力にめざめることによってなされうる。
なぜなら、理知ではなく〈本能〉のみが、存在を存在たらしめている〈闇〉のコスモスの次元にひらかれた、いのちの源泉にほかならないからだ。
だからこそ、作者のまなざしは、思考の「獣」と呼ばれるのである。
7
〈本能〉の力にめざめることで、〈存在へのまなざし〉を転倒せんと試みる谷川雁の詩意識は、えにしある魂を備えた〈他者〉とのエロス的な〈接触〉のかたちを、次のように描き上げてみせる。
《なぜか野菜畑をおそれる/情欲がこんなに静かな形をとっているのは/そのままおれだと疑う/牛の脳髄ではかるならば/おれのこわした幾人かの女に似た道具は/明日よりも強く存在する/存在こそ角あるものを鳴かせるのだ》《小さな村の月光いろした独裁よ/おれは熱い尻を追廻すただの軍曹だが/麦という器械の美しさに惚れて/さてどんなアフリカがほしかろう/かぜばかりひく義勇兵たちよ あれが愛/岩のうえをこぐ舟がみえないというか》《では水晶のしらみをつぶさねばならぬ/きみたちの夜を襲うために/冷たい毒蚊をひとすくい飼わねばならぬ/たたかう掌が何をひるむのか/わらを冠った乳房に世界は載っている》《王と王妃をあざける者は/輪切りにされた大根のように殺意を保ち/蜜柑の木のしたで重なるがいい/だれのものとも見さかいつかぬ脇腹で/すべての戸籍を消すがいい/おお きみたちの黒い毛であるおれ》《鐘はがらすの血を落す 男は迷う/みずうみのきたないところへ感覚は集まる/ゆっくりとおれの色情はみちていく/鹿皮の日ざしは加害者の園だ/もっとも神経質な石は納屋にある》(「色好み」、『伝達』所収)
大変難解な作品だが、この詩人のアナーキーで戦闘的な性愛観がダイナミックに息づいている。
おそらく相当に奔放で華やかだったであろう谷川雁の恋愛や同棲の真相がどういう内実のものであり、彼と彼を取り巻く女性たちの関係がはたして幸福なものでありえたのかどうかについて、私はほとんど何も知らない。また知りたいともおもわない。
しかし、この「色好み」という詩に、私は、近代及び前近代の社会に固定観念として遵守されてきた一切の既成のみみっちい性意識を蹴飛ばすような風通しの良さを感じる。
谷川がここで呈示しているエロスのかたちは、存在との生ける接触から切り離されて断片のように浮遊する、根無し草のような寂しい男女が、互いに疑心暗鬼に駆られながら、我執にとり憑かれて愛を貪り合うという、現代社会の神経症的な性愛の病態でもなければ、精神主義的な愛と肉欲を二元的に〈分裂〉させるようなキリスト教的・西欧近代主義的な恋愛観とも全く違う。一夫一婦のタガもとうにはずれてしまっている。〈社会意識〉に汚染された観念的な性意識にすぎないフェミニズム風の男女の平等観や痩せ細った近代的な個我意識とも無縁である。
もちろん、作者には、世間体や「戸籍」という言葉に象徴される制度的な結婚・家族意識などは眼中に無いし、家柄だの家風だの嫁─姑だの親類・縁者だの家門や子孫の隆盛だのといった、地上にへばりついたような前近代的共同体的な性的役割分業や掟の拘束も、クソくらえである。
この作品で描かれた男女は、一切の世俗的な秩序も、地上的な目線による我執の桎梏も蹴飛ばして、「だれのものとも見さかいつかぬ脇腹ですべての戸籍を消す」のである。
ここで描かれた肉欲=「黒い毛」は、精神と肉体を二元的に「分裂」させることで生み出された卑小極まるフェティッシュな肉欲ではない。近世の遊郭から近代の歓楽街に至るまで衰弱しつつ延々とよだれのように持続されてきたような、また、現代のサラリーマンたちの火遊びのような不倫やテレクラ風の売春にみられるような、男の精液のはけ口と刹那的な憂さばらしとしての、いわゆるエッチな恋愛なんぞではない。
この地上をたしかな手ざわりで生きる生身の男女の〈肉体〉が、互いの存在の〈闇〉に触発されて火柱のように燃え上がるのだ。
その〈闇〉のかたちは、この作品では、同時に、「野菜畑」や「牛の脳髄」や「麦という器械の美しさ」といった言葉に象徴される〈農〉や〈村〉のイメージとも重ねられている。
もちろん、村のイメージといっても、農民の日常生活に対するリアリズム文学的な目線によって捉えられたような、散文的で現実利害的な生の諸相とは何の関係もない。
あくまでも、この作者が透視した、コスミックな奥ゆきをもつ、ゆったりとしたアジア的な自然の如き生の位相を指している。
そして、その〈農〉や〈村〉の深々とした静謐な空気感のさらに根底には、「アフリカ」という、灼熱の太陽と狩猟採集民的な体液のイメージを彷彿とさせる言葉によって象徴されるような、みずみずしい野性味が息づいているのである。
作者の愛した女たちとの暖かい交わり、血の交流こそが、その野性味をひき出し、燃え上がらせるのだ。
だからこそ、「存在こそ角あるものを鳴かせるのだ」とうたわれるのである。
〈農〉や〈村〉によって象徴される、奥ゆきのある深々とした自然的な生の内奥に息づいている、〈解放〉への生命的な灼熱の渇きに火をつけるものこそ、〈男〉にとっての〈女〉という存在であるべきなのだ。詩人は、そう言いたがっているようにおもえる。
だからこそ、「わらを冠った乳房に世界は載っている」のだ。
「小さな村の月光いろした独裁よ」でいう「独裁」とは、むろんプロレタリアート独裁というマルクス主義的な革命権力のイメージなのであろうが、そんな、今ではお払い箱となったスターリニズムのコンセプトなどはもちろんどうでもよいことで、美しいのは、息苦しい卑小な諸々の地上的・制度的・観念的桎梏を蹴飛ばして飛翔せんとする、猛々しい血の高揚とみずみずしい生命的燃焼への陽気で純粋な衝迫のかたちなのである。
〈本能〉の力にめざめることで存在へのまなざしを根源から転倒し、世界風景そのものを更新してみせること。
それは、〈虚体〉の眼を通して夢みられた〈非在〉としてのユートピアの幻なんぞではない。
存在との生ける〈接触〉の実感によって裏打ちされた、たしかな〈実在〉として幻視された、もうひとつのアナーキーな世界風景なのだ。
己れの固有のいのちの輝きとは縁もゆかりもない近代主義的な均質化された科学的・客観的風景とは対極的なところにある、〈主体化〉された生の物語を生きようとする者にとってのエロスのかたちであり、絆の基底をなすまなざしを究極的に象徴化したものだ。
描かれているのは性欲のかたちだが、むろん、このまなざしは男女の肉体的な交わりのイメージにとどまるものではない。
肉欲をその一部として含みながら、それを超えて、はるか広大に拡がっている男女の一切の愛の営みの領域においても、男と男、女と女の友愛の世界においても、また、日々の生活風景との瞬時瞬時の身体的接触による魂の修復の局面においても、キイとなりうる生存感覚だといっていい。
しかし、私は同時に、「おれのこわした幾人かの女に似た道具」という自虐的・自嘲的な言い回しの中に、己れの見果てぬ夢のために、いや応なく傷つけてしまった女性たちに対する、この作者の鋭い自責の痛覚を垣間みないわけにはいかない。彼を愛し、彼との日常生活に当たり前の幸せを夢みたかもしれぬ女たちのおもいをどうしようもなく損ねてしまった不幸な男の、つらい代償の重さを想わずにはいられないのだ。
だが、谷川雁は、己れの私生活上の傷を自虐的になめ回し、その醜悪さを告白的に吐き出すことで地上的な関係の地獄図を紡ぎ出して存在証明としたり、自己処罰的な形式を代償として俗世間に許されようとするような、不毛な「私小説」作家流のじめついた表現意識とは無縁な人物だった。
彼は、他者にはとうていまともに了解されるはずもない己れの私生活上の傷や罪の想念を、さだめとして強いられためぐり合わせによる地上の不条理を超越して、より高い生命的なまなざしの地平に自らを拓いてゆくことで、昇華せんとするような、剛直で倫理的な資質の持ち主であったようにおもえる。研究者たちの好餌となって、実生活上の「年譜」を易々とつくらせるようなたぐいの表現者・芸術家ではなかった。
だからこそ、この詩人は、「おれのこわした幾人かの女に似た道具は/明日よりも強く存在する」というふうに、敢えて屈折したうたい方をすることができたのだ。
「女に似た道具」という言い回しには、単に、作者の非日常的な見果てぬ夢のために「道具」のように己れの生身の日常性を犠牲にされた女たち、という自虐的な意味合いが暗示されているだけではない。
同時に、その作者の純粋な夢想の衝迫力によって、通常の世間で「女」と呼ばれている社会化された観念的範疇の〈鋳型〉を解体させ、自らに課せられていた無意識の封印を解き、未知の存在者としての〈闇〉の地平に躍り出ることが可能となった女性たちという、ポジティヴで戦闘的な含みが込められている。
だからこそ、作者の愛した女性たちは、「明日よりも強く存在する」と、誇り高くうたわれるのである。
そしてまた、〈本能〉に根ざした己れの存在へのまなざしが、みじめで卑小な地上的緊縛による不条理を次元的に転倒し、超越することで、性愛を蘇らせる唯一の力となりうることを、ひそかに自負し得ていたからこそ、この作者は、「おお きみたちの黒い毛であるおれ」と、敢えてしゃあしゃあと言ってのけられるのである。
この詩人の魂に、どれほどの私生活上の傷や罪の痛みが秘められていたとしても、えにしある男女たちに架橋せんとするときの彼のまなざしの根底に、罪の意識や悔恨の念によっては決して濁らされることのない、ある晴ればれとした、突き抜けたような、陽気な力強さが脈打っていたことを、私は信じられる。
過去の傷や罪の人知れぬ痛みは、繰り返し疼くことはあったとしても、そのまなざしの光の下では、そのつど、ひとつの透明な哀しみの感覚へと昇華されていったにちがいない。
己れの私生活上の業苦を沈黙の裡に抱き取ろうとするこの詩人の男らしい身構えを、私は、限りなくいとおしいものに感じる。
そしてこの男性的資質の背後に、私は、谷川雁の純粋で強靱な〈孤独〉の深さをみてとるのである。
しずかに問え この道に
す裸かの夜の法廷
内側からの誘いに
ふと青ざめる
孤独の冠の重さを
暗い機にはう経糸(たていと)
ひとすじの力のごときこの道に
ああ 硬い雪のすすりなき
無色の都はもう近いのか
言葉の群落を離れ
木作りのいのちは雪をあゆむ
その蹠(あしあと)に斧のようなひとみを投げ
天象(しるし)はまたも降ってくるのだ (「道」、『天山』所収)
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五 谷川雁
1
谷川雁について語ることは気が重い。
大正生まれで、終戦時に二十代初めという点で、吉本隆明と同世代の文学者といってよいが、私にとっては、吉本よりはるかに論じにくい詩人だ。
この詩人について語ろうとすると、まず、一九四〇年代後半〜五〇年代という、人々が飢えと極貧に苛まれたあてどのない終戦直後の混乱期から、ドッジ・ラインによる強引なデフレ政策と特需景気による独占資本の復活を経て、米国の強力なバック・アップの下、自民党の単独政権による高度経済成長へと向かう過程と、その戦後資本主義の再編・膨張に対する左翼的な反発と革命幻想の潮流について、あれこれ言及することを強いられる。
一九六〇年に刊行された定本『谷川雁詩集』の「後書き」で、「私の中にあった『瞬間の王』は死んだ」と述べ、詩作を止めたこの詩人の作品について論及しようとすると、いきおい、「革命」とか「階級意識」とか「プロレタリアート」とかいった言葉がまだ「死に体」となっていなかった、終戦直後〜高度成長初期という、死と背中合わせになった生活の窮迫感や労働の苛烈な痛覚やアナーキーな夢の疼きといったものが渾然一体となって燃え上がっていた、るつぼのような時代の、あの独特の空気感について触れないわけにはいかなくなるからだ。
これは、今の私にとっては、なんともうっとうしい限りである。
なぜなら、そこには、二十世紀という革命と戦争の狂気に翻弄され続けた時代特有の匂い、すなわち、哀切だが毒念に満ちた階級的怨念と、酷薄な物質主義的目線と、硬直した観念的な倫理性と、生身の個を容赦なく押しつぶす画一的な集団主義と、熱にうなされたような彼岸的夢想の狂気の匂いが立ち込めているからだ。
この手のエートスにこってりとお付き合いする気は、今の私には毛頭無い。
谷川雁の詩作品や散文には、こういう、衰弱し切った前近代的共同性の残滓がなおも強力に生き残っていた第二次大戦前後という時代に特有の匂い、資本制に対する退行的な反動形態であり近代主義のひとつの歪んだ過渡的な表現形態ともいえる〈スターリニズム〉という不幸で酷薄なイデオロギーの匂いがどっぷりと染み着いており、しかも、その匂い無しには空前絶後ともいうべき彼の天才的な詩的表現そのものもまたあり得なかったのだから、なんとも困りものなのである。
おまけに、その匂いと不可分の形で紡ぎ出されたこの詩人の独特の「革命」のイマージュが、今やほとんどの日本人のご老体にとって膜で隔てられた遠い幻燈のような風景と成り果ててしまった時代、すなわち、谷川雁の詩でうたわれた「船乗り」や「百姓」や「旋盤工」や「坑夫」といった前近代的な労働形態のエートスをひきずった階級がかろうじて実体として息づいていた時代の「書割」の中にぴたりとはめ込まれた古風な格調をたたえたものであるだけに、彼を論じる知識人たちは、この詩人の表現を、自分たちにとってはもはや何のリアリティも感じさせないにもかかわらず、自然と一体化した労働や脂と汗と血の沁み込んだたしかな生活の手ざわりやアナーキーな共同性への熱い夢想が脈打っていた古き良き時代の古典的なロマンティシズムと抒情性の香りをひきずる〈挽歌〉の産物として、易々と疎外し、ノスタルジックな感傷の対象として愉しもうとするのである。
まったくもって始末の悪い、論じにくい詩人というべきである。
かつて谷川雁は、『文藝』(一九八六年冬号)誌上に載った「戦後精神の行方」という鶴見俊輔・松本健一との鼎談において、次のような発言を行ったという。
清水昶「谷川雁覚書」(『現代詩手帖』一九九五年六月号〔思潮社〕所収)より孫引きさせていただくと、
「戦後というものの実態とか、雰囲気とかについて、松本さんの世代、特にそれより若い人達が当たり前といえば当たり前ですけれどもよく知らない。それなのに事実の骨だけを化石のように掘り出しますね。それを意外や意外、変な組み立て方をして、ずっと肉づけしていくと、かなり違うものになっちゃっているんじゃないかと思うんですね」「少なくとも僕は、その化石のように取り出された戦後の骨の組み立て方の問題よりも、まず、それがどういう皮膚をしていたか、どういう血液が流れていたか、あるいはどういう体臭がしていたかというふうなことのほうから言いたい気が、いつもするんですね」。
私は、いささかも僭越な気持なしに、谷川のこの発言のハートがとてもよくわかるような気がする。
だが、谷川雁がここで言う戦後の「皮膚」や「血液」や「体臭」なるものが、先に述べてきたスターリニズム特有の、階級的怨念と現世への不条理感に蝕まれた、不幸な硬直した、観念的な狂気の匂いを発散するものであったことも否めないのだ。
この詩人がうたい上げた戦後の「皮膚」や「血液」や「体臭」を、私たちにとって不毛ではない、リアルな感覚・イマージュとして継受しうるには、戦後の左翼運動や革命理念にどっぷりと染み込んでいるこの毒々しい残忍な目線を完全に解体・濾過し去った上で、現在的な鮮度をもった思想的な〈暗喩〉として抽象的に読み換えてやる必要がある。
どんな時代に生きたどんな人々の表現営為であれ、もし私たちがその時代を実際にくぐり抜けたことがないならば、その表現を可能ならしめ、根底から支えてきた、時代の「皮膚」や「血液」や「体臭」といったもののイマージュを、完全に腑に落ちるかたちで了解することはできないはずである。
批評営為にとって本当に必要なのは、過去の表現者の「皮膚」や「血液」や「体臭」の全体的イマージュを忠実に再現することではない。過去のそれらのイマージュの中から何をリアルなものとして切り取ってみせるか、すなわち、過去の表現者たちの営為と今を生きる私たち自身の偏見に毒されていない素直な〈出会い〉の内実こそが勝負なのであって、過去のイマージュに対する抽出の仕方・切断面のかたちのもつ妥当性と意義は、私たちの生きる〈現在〉の本質に対する思想的な認識力とそれにもとづくモチーフの切実さによって規定されるはずである。
私もまた、ひたすら、〈現在〉に対する己れ自身の思想的な切り口をベースに据えて、谷川雁という、今や人々から忘れ去られ、「途方もない一回性の夢」(鮎川信夫)として体裁よく戦後精神史の死せる目録の中に放り込まれてきた表現者の営みに、ささやかな光を当ててみたいとおもう。
2
いなずまが愛している丘
夜明けのかめに
あおじろい水をくむ
そのかおは岩石のようだ
かれの背になだれているもの
死刑場の雪の美しさ
きょうという日をみたし
熔岩のなやみをみたし
あすはまだ深みで鳴っているが
同志毛のみみはじっと垂れている
ひとつのこだまが投身する
村のかなしい人達のさけびが
そして老いぼれた木と縄が
かすかなあらしを汲みあげるとき
ひとすじの苦しい光のように
同志毛は立っている(「毛沢東」、『大地の商人』所収)
一九五四年、作者三十一歳の年に刊行された第一詩集『大地の商人』に収められた有名な作品である。
見ての通り、表層的に解釈するなら、この詩の内容は、絵に描いたような、通俗的で古風なスターリニズムの「書割」を示すものにすぎない。
恐ろしい理不尽な収奪に気の遠くなるほどの永い歳月を自然のように耐え抜いてきた無告の大衆の内に醸成される、無尽蔵の階級的憎悪をエネルギーに、非所有の情念と一体化した農民のアナーキーな彼岸的・共同体的夢想を倒立的に吸収することで成し遂げられた、革命的帝王毛沢東による東洋的専制の逆説。
その底流に息づいてきた情念、革命の〈大義〉に一切を賭けて善悪の彼岸に生きようとした冷徹な不退転の覚悟と深い孤独と悲哀のかたちが、時を遡るようにして戦慄的な〈予兆〉のメロディーを奏でながらうたい上げられている。
まるで、安物の浪花節的な任侠ドラマの美意識を見せつけられているようだ。
しかし、「毛沢東」という主題性が喚起するスターリニズム風の「革命」の図式性の固定観念を取り払って、虚心に、この詩が慎重かつ簡潔に刻み込んでいる前半の絵画的イマージュの奥ゆきと後半の音楽的な予兆の気配を味読してみるなら、中国革命という錯誤に満ちた悲痛な地上的・政治的実験の権力的視座とは全く次元を異にするまなざしが透けて視えてくるはずである。
この作品の主人公は、むしろ毛沢東という歴史上の人物を越えて、作者谷川雁の憧憬するある理想的な風貌のメタファーとして立ち顕われている。
主人公は無量の沈黙を胸に秘し、忍耐づよく何かを待っている。
黙々と移ろいゆく季節の中にすべてを受け流しながら自然のように生を繰り返し、風雪に耐えた巌のようにどっしりと存在の輪郭を刻み込んできた。
薄明を微かに忍ばせた大いなる闇の深さと暗く清冽な水の冷やかな気配がその生を包み込んでいる。
どこまでも沈静な空気の中で、彼は「きょうという日」をみたし、くぐり抜け、自然の内に解き放たれていく。
しかし、その静けさの内には、いなずまの、嵐の予感がはらまれている。
巌のような不動のかたちの深奥には、マグマのような猛々しい生命のたぎるような解放への想いが表現の道を求めてうごめいている。
それは、みじめな、貧寒な地上的生のいわれのない不条理・緊縛への無尽蔵の怒りのエネルギーであり、地上的な桎梏を超えて飛翔せんとするデモーニッシュな生命的燃焼への衝迫の激しさにほかならない。
この詩の見どころは、大いなる自然の内に深々と包摂された無名の生活人の即自的な生の重厚で沈静な空気感と、その闇の透明な深さの内奥にはらまれた生命的なダイナミズムの予兆の、コントラストの鮮やかさにある。
「同志毛のみみはじっと垂れている」までの前半の〈静〉の奥ゆきと、後半部の「かすかなあらしを汲みあげるとき」に転ずる〈動〉の戦慄のリズムの対比が、良い意味での、こぶしの効いた通俗的なドラマ性による見事な物語的〈暗喩〉を構成し得ているのだ。
クソまじめなリアリズム風の作品と見るのではなく、ドラマチックな虚構作品として見るならばまことに愉しい作品であり、しかも、軽快なフットワークの中に、作者の資質に根ざした深い思想性を極めてシンプルな形で巧みに象徴的に織り込めてみせている。
谷川雁の他の多くの詩に見られるようなひねこびた観念的な難解さがなく、素直に身体に沁み込むように受容できるし、スターリニズム的な書割の匂いが表面的に鼻につく点を除けば、決して出来の悪い作品ではないのだ。
ちなみに、谷川雁の詩作品は、どれもこれも大なり小なり、こういった大仰な、芝居がかった、こぶしの効いた節回しをしており、その虚構性が、今からみると、かえって作品にある種の〈軽さ〉を与えており、音楽的・劇空間的な効果の中での言葉のキザな美しさと相まって、まことにサービス精神旺盛な戯作性を備えたものとなっている。
つまりこの詩人は、今日ではメッキの剥げてしまったスターリニズム風のこけ脅しの観念的な皮膜をきれいさっぱり取り除いてやると、意外にも、天性のエンターテイナーの資質の持ち主、天性のたぐいまれな純度を備えたナルシシスティックなエロスのつくり手であり、しかも、緊迫した思想性を物語的時空に巧みに絵画的に織り込めてみせる大変な作家的力量の持ち主とみなすことができるのである。
谷川雁の詩をクソまじめに受け止めることができた一九五〇年代という時代には、たしかに今日の私たちの時代には無い、ある種の重々しい、深刻めかした倫理的な生真面目さ・品格といったものがあったろうが、私は、谷川の詩をたぐいまれなエンターテイナーの産物とみなすことのできる時代となった今日の私たちの情況を、負性を帯びたものであるとはみなしたくない。
むしろ、スターリニズムの神話的宗教的負性を完全に拭い去ることのできる今日の情況下において初めて、私たちは、この詩人の表現の真価をきちんと測定できる位置に立つことができるようになったと考える。
話を元へ戻そう。
この「毛沢東」という作品には、以上の〈静〉と〈動〉の対比の他に、もうひとつ見過ごすことのできない特質がある。
それは、理不尽な緊縛と収奪からの〈解放〉への荒々しい闇のエネルギーが、可視的な地上的現実となって代償的に表現される時に立ち現われる、卑小極まりない、痩せ細った不条理な光景に対する苦々しい自意識を、この詩が同時に内包しているという点である。
例えば、「かれの背になだれているもの/死刑場の雪の美しさ」というフレーズには、「死刑場」という、収奪者の地主たちや党への裏切者に反革命の徒というレッテルを貼って処刑する、陰惨で卑小な地上的・政治的現実の場が、一切の人間的な悲喜劇を超越して、無名の生活人の生涯を静かに慈しむように包摂してみせる、厳かな〈自然〉の象徴としての「雪の美しさ」と、さりげなく対比的に組み合わされている。
主人公の生を骨格のように支えているエートスは、自然のように淡々と生涯を全うせんとするひとりの無名の生活人の自己充足的な位相と、その内部にエントロピーのようにいや応なく醸成されてしまうアナーキーな狂気がはけ口を求めて収斂してゆかざるを得ない、地上的な、残忍で不条理な掟と秩序のうら哀しい卑小な現実への目線から成り立っている。
自然性の象徴としての「老いぼれた木」と反革命分子を絞首刑に処するための「縄」の間にも、同型の位相が重ねられ、対比させられているといっていい。
この「毛沢東」という詩に悲劇的な緊迫感を与えているのは、この二つの生へのまなざしの間に開いている巨大な深淵ときしみの感覚をさりげなく表出しているところにある。
それはひとえに、最終連の「ひとすじの苦しい光のように/同志毛は立っている」という詩句に凝縮されている。
前半の〈静〉から後半の〈動〉へと展開するすべての連が共振し、累積しながら、この最終連の〈きしみ〉のドラマ性という不可視の一点に向かって登りつめてゆくのだ。
前半の、静謐で神秘的なといってもいい自然的な生の位相とその深部でひそやかに醸成されるマグマのような猛々しい渇きの不可視のきしみが、後半の「ひとつのこだまが投身する/村のかなしい人達のさけびが」という不条理性の発火点を契機に、「かすかなあらし」を呼び込む時、両者の葛藤は、一切の人間的なるものを超越した天上的な透明感をたたえた聖なる次元、すなわち、一切の人間的なるものを超越した無限の奥ゆきをはらむ純一で澄み切ったコスモスの次元への憧憬と、あまりにも人間的な、地べたに這いつくばったような、卑小で不条理な社会的現実への失墜の感覚に引き裂かれた人間の、孤独な苦渋といった趣きをとる。
この〈分裂〉のかたちとその苦しみへの独特の屈折した自意識のあり方こそ、詩人谷川雁の資質的な悲劇の核心をなすものであり、今なお、現在的な鮮度を失っていない特質であるとおもえる。
3
おれたちの革命は七月か十二月か
鈴蘭の露したたる道は静かに禿げあがり
継ぎのあたった家々のうえで
青く澄んだ空は恐ろしい眼のようだ
鐘が一つ鳴ったら おれたちは降りてゆこう
ひるまの星がのぞく土壁のなか
肌色の風にふかれる恋人の
年へた漬物の香に膝をつくために
革命とは何だ 瑕(きず)のあるとびきりの黄昏(たそがれ)
やつらの耳に入った小さな黄金虫
はや労働者の骨が眠る彼方に
ちょっぴり氷蜜のようにあらわれた夕立だ
仙人掌(さぼてん)の鉢やめじろの籠をけちらして
空はあんなに焼け……
おれたちはなおも死神の真白な唾で
悲しい方言を門毎に書きちらす
ぎ な の こ る が ふ の よ か と
(残った奴が運のいい奴)(「革命」、『大地の商人』所収)
徹底的に煮つめられ、クリアに研ぎ澄まされた思想的な暗喩のかたちが、存在の二元的な葛藤の鮮烈な具象絵画的イメージをとって美事にわしづかみにされ、香気溢れる緊迫したリズムを獲得し得た秀逸な作品である。
こういう作品を読むと、この詩人の「革命」のイマージュが、当時の他の左翼知識人たちのそれと、どれほどかけ離れたものであるかがわかるし、政治的な文脈など消し飛んでしまうような、生の本源的なまなざしの変革に関わるものであることがわかる。
ここでは、まず最初の二連で、「鈴蘭の露したたる道」「青く澄んだ空」「ひるまの星」「肌色の風」といったような天上的・神秘的な香気の漂う言葉が、「禿げあがり」「継ぎのあたった家々」「土壁のなか」「年へた漬物の香」といったような地上的・生活臭的な言い回しと対比させられることで、その鮮烈さをきわ立たせ、同時に、両者が補い合い、きしみ合いながら、深々としたコスミックで清澄な空気感の内に包摂されてゆく。
そしてこの対比のかたちは、第三連以降に至って、作者の「革命」のヴィジョンに一気に収斂する。
ここでは、「労働者の骨」とか「死神の真白な唾」で書き散らされた「悲しい方言」といったような酷薄な言い回しによって表現された、痩せ細った地上的・散文的現実のイメージが、「瑕のあるとびきりの黄昏」とか「耳に入った小さな黄金虫」とか「ちょっぴり氷蜜のようにあらわれた夕立」といったような、ある種の欠損や異和を抱え込んだ天上的・非日常的な美のかたちと鮮烈に対比されながら、その不条理感をきわ立たせている。
これは、逆にいうこともできる。
地上的現実の卑小さ・酷薄さと鋭く対比されながら、なおもそれを超越し、包摂しながら瞬時に立ち顕われる天上的でコスミックな美の位相に対する、みずみずしい官能的な触知感と、それにもかかわらずその永遠性の美的イマージュの身体的な喚起力に完全には同化し切れない、〈余剰〉としての自意識を抱え込んだ微妙なきしみの感覚が、人々の世界=存在へのまなざしの変革を夢みたこの詩人の「革命」のヴィジョンを支える基底的なエートスであった、というふうに。
「男だって虹みたいに裂けたいのさ/所有しないことで全部を所有しようとする/おれは世界の何に似ればよいのか」(「破船」、『伝達』所収)とうたわれた谷川雁の〈非所有〉の観念やコミューン幻想と結びついた天上的でコスミックな生存感覚が、常に、ひとつの〈欠損〉を抱え込んだ風景として描出されるのも、このきしみの感覚の鋭さのゆえであると考えてよいだろう。
存在の静謐な奥ゆきやみずみずしい官能性への〈驚異〉のおもいと、その充足の手ざわりへの鋭い〈異和〉を醸成せずにはおかない、あまりにも反生命的な、冷え切ったこの世の不条理性の暗黒への凝視という、どうにも嚥下することのできないコントラストへの原初の痛覚こそ、おそらくこの詩人の資質の原形質を宿命的に規定した〈生の原風景〉のかたちを示唆するものである。
この痛覚の鋭さを抱え込んでいたからこそ、彼は、「仙人掌の鉢」や「めじろの籠」といったような、大衆の〈日常性〉の微温的なつかの間の「いこい」の象徴ともいえる風景を拒絶するのだ。
《おれたちの故郷のどぶ河の/水底にもだえる赤い蛭よ/おしだまっている小さな巻貝よ/戦争で死にそこねた息子達のダンスよ/おれたちはみな田舎者である》《汗くさい雨がふって/一片れの夕暮れを買いにきた妻たちが/窓をつついて去ってゆく/その窓の彼方にぐるぐる廻る若者よ/背骨に優しい病気の虫が泳いでいても/青い眼帯の女につかまって/おまえはまだやっぱり伍長なのだ》《踊り場の二階から馬糞のようなゆうひは/首つり人の足もとを流れる河に垂れ/あそこにも瀬戸物の欠けに似た/おれたち田舎者の心が沈んでいる》(「故郷」、『大地の商人』所収)
九州水俣出身のこの詩人が、故郷の貧しい庶民たちの〈日常性〉の中に見出したものは、己れの生の不条理感・不遇感の鬱屈を、人妻たちとのケチくさいアヴァンチュールにうつつをぬかすことでつかの間晴らそうとする若者のイメージに象徴されるような、哀れな「どぶ河の水底にもだえる赤い蛭」のような、ちっぽけな代償的表現のかたちであった。
「戦争で死にそこねた息子達」の「ダンス」は、今や、その程度の卑小な享楽的・日常的感覚の振幅の内でしか、身動きのとれないものとなり果てていた。
「とびきりの黄昏」や「氷蜜のようにあらわれた夕立」などとは似ても似つかない「馬糞のようなゆうひ」が、「首つり人の足もとを流れる河」に垂れ下がるようにふり注ぎ、不条理に打ちひしがれた田舎者の心は、「瀬戸物」のかけらのように、無意味な生活の断片と化してこの地べたに散乱しているにすぎない。
存在へのまなざしを根底から変革することで痩せ細った地上的・現世的桎梏を離脱し、生命的に飛翔せんとする、誇りたかいまなざしをもちうる者は、今やどこにもいないのだ。
詩人谷川雁が、日常的な哀歓や慰藉の位相への繊細な感覚と慈しみの心というものがはらむ思想的な課題性に対して感受性を欠き、地上的な不条理と貪欲さに蝕まれた卑俗さを超える道を、どこまでも非日常的で天上的なコスモスのイマージュと結びついた〈非所有〉の生存感覚に支えられたコミューンの幻に求めた背景には、おそらく、彼の身体を無意識のうちに締めつけてくる、戦後社会の人々の日常性につきまとう、どうにもやり切れない、地べたに這いつくばったような息苦しい、貧寒で散文的な、ちっぽけな生活への目線に対する〈嫌悪〉というものが横たわっていたにちがいない。
だが同時に、終戦直後の日本人大衆の内に、なかんずく前近代的共同体の心性を根強く温存していた前プロレタリアート的な、地方の土俗的な大衆の内に、そのような矮小な地上的目線によっては決して解き放つことのできないような暗い鬱屈が抱え込まれていたことを痛感していたからこそ、この詩人は、不在のコミューンへの見果てぬ夢とそれを支えるコスミックな美のイマージュをうたい上げようとしたのだ。
そのような美のかたちに、ヴァーチャルではない、官能的な奥ゆきを与えるような非日常的な〈闇〉の気配というものが、前近代的・農村的な風景がまだ広範囲にわたって残存し、生身の身体性に支えられたゆったりとした生活リズムがかろうじて息づいていた五〇年代までの日本社会では、身近に感じられたのである。
谷川雁がうたうことを止め、詩作を放棄する決意をした一九六〇年の段階では、すでに、そのような、人々の無意識の深部に疼いていた鬱屈=新生への渇きのおもいを解き放つにふさわしい大衆の土俗的なエートスの基盤は、高度成長の加速度的進展の渦中で失われてしまったと実感されていた。
〈日常性の欠落〉こそは谷川雁のアキレス腱であったといってよいが、「イメージからさきに変れ!」と唱えたこの詩人が根底から塗り変えようと欲した存在へのまなざしとその変革に根ざした転生のかたちをめぐるモチーフは、二十世紀後半という〈近代化の最終局面〉がその運動を展開し切り、終焉を迎えている二十一世紀初頭の現在、全く相貌を新たにして蘇りつつあるとおもえる。
日常性と生活の総体を根底からみつめ直すための基盤となる〈存在へのまなざし〉は、今や、生身の身体性という生の究極の拠り所を不可視の窓口として、森羅万象の声なき声を招き寄せ、固有の生命の輝きを物語的に織り上げるような、不可知でコスミックな〈場〉として、非政治的な文脈の内部で更新されねばならないのだ。
4
おれは大地の商人になろう
きのこを売ろう あくまでにがい茶を
色のひとつ足らぬ虹を
夕暮れにむずがゆくなる草を
わびしいたてがみを ひずめの青を
蜘蛛の巣を そいつらみんなで
狂った麦を買おう
古びておおきな共和国をひとつ
それがおれの不幸の全部なら
つめたい時間を荷造りしろ
ひかりは桝に入れるのだ
さて おれの帳面は森にある
岩蔭にらんぼうな数字が死んでいて
なんとまあ下界いちめんの贋金は
この真昼にも錆びやすいことだ (「商人」、『大地の商人』所収)
ここでも、作者の「革命」のイメージは、存在者としてのある種の〈欠損〉の感覚を抱え込んだコスミックな生存感覚を通して表出される。
第一連・第二連で、たたみかけるように繰り出される「茶」「虹」「草」「たてがみ」「ひずめ」といった表象は、前近代的土俗的な風土性を背景にもつ、ゆったりとしてほの暗い、しかもみずみずしい野性味をたたえた、奥ゆきのある暮らしの匂いを、実に簡潔に、鮮やかに浮かび上がらせてみせる。
すばらしい官能的な解放感を喚起してくれるイメージではあるが、しかしそこには同時に、なんともいえぬ苦々しい異和のおもい、どうにも埋め尽くすことのできぬ生命的な欠落の意識、生きることのわびしさ、蒼ざめた面貌が、さりげなくすり込まれている。
日常的にして非日常的ないこいの解放感やみずみずしい生命的な虹の輝きや深々とした夕暮れの静寂や颯爽と風になびくたてがみや大地にこだまするひずめの溌剌とした猛々しさとは似ても似つかない、陰鬱な不条理感がこびり着いており、この古典的な風格を備えた一幅の浄福でわびしい風景画には、今や「蜘蛛の巣」がはびこっているのだ。
しかし、谷川雁の資質的な不幸ともいうべきこの二元性のきしみの痛覚の延長上にしか、彼のユートピア的な「革命」のイマージュは想い描きようがなかった。
それは彼を、微温的な〈日常性〉への残酷な拒絶者とし、〈生活者〉としての不能性へと導く。
生命的な〈欠損〉を抱えたコスモスのイメージを「売る」ことで彼が「買おう」としたものは、「狂った麦」であり、「古びておおきな共和国」だという。
それは、暖かい生身の生活の哀歓の手ざわりや生きたあるがままの人間関係から成るまっとうな〈日常性〉を削ぎ落としてゆく果てに想い描かれた、天上的な非所有の美意識と硬直した献身の倫理に取り憑かれた観念的な人格の同志的結合による、冷酷でヴァーチャルなコミューンの幻想へと収斂しようとする、グロテスクな偏執狂の世界である。
生ける〈生活〉の不能者であることを強いられたこの詩人は、そのことで必然的に彼岸的な夢想の狂気に追いやられることで、同時に、生活者的な生身の痛覚や渇きに根ざした、生の本源的なまなざしの変革を志向するつつましい思想的な単独者の位相を拒まれた、不能者としての〈虚体〉の宿命を強いられたのだ。
しかし谷川雁は、観念的・彼岸的なコミューン幻想の政治的メッセージに代償的に転化されざるを得ない、己れの不幸な表現者的資質のはらむ、いわく言い難い〈空洞〉のかたちを、どこかでよくわきまえていたようにおもえる。
作品「故郷」でその一端が凝視されたような庶民世界の卑小な哀歓の実相や、「毛沢東」でさりげなく表現されたような苦々しい逆説、すなわち、〈解放〉に向かって解き放たれた革命のエネルギーが、その純粋な観念的大義への献身のゆえに、痩せ細った陰惨な地上的・政治的現実となって結実するほかはないという悲劇的な構図を想えば、この詩人が、彼岸的なコミューン幻想をうたい上げようとする自らの〈虚体〉の身構えに、何のリアリティも感じられないという、どうしようもない空虚さをおぼえなかったはずがない。
「蜘蛛の巣」の張った夢を大衆に売ることで「狂った麦」の繁る「古びておおきな共和国」を買おうとうたう己れの情念に対して、「おれの不幸の全部」と言い切ってみせるだけの醒めたまなざしをもちうる人物が、その阿呆らしさに気づかぬはずはないのだ。
だとすれば、そのような空虚さに耐えてまで、彼に虚体的な政治的ユートピストのメッセージをうたわせるべく強いてきた衝迫とは何であったのか。いかなるまなざしのリアリティが、その衝迫を真に支えていたのか。
そう問いかける時、私たちは繰り返し、谷川雁のあの二元的なまなざしのきしみの痛覚、すなわち、存在の深々としたコスミックな輝きと不条理性の暗黒の想念の巨大な〈落差〉の痛覚に立ち返るほかはない。(この稿続く)
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四 吉本隆明
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《暗い火影にあつまつて貧しい物語をした/ひとはおき忘れ歳月はおき忘れ/ちろちろ燃える火のみが/彼をまもり彼を老ひさせた//彼は夜の人界に付火しては/あの星宿のしたでもろもろの情慾の門を守つた》(「夜番」)
《夢は視なかつた/働き食ひ酒を含み 酔へば日々はみな照れくさかつた/すべて生きものは機械……/ただ時々の不協和が妖しい糸を曳いて彼をときめかした/未来は架空であり過去はみんな幕の外である//厚いガラス窓の外は陽が暖かく/たくさんのきらびやかな物語が描かれてゐた/彼は別乾坤にゐるひとりの観客だつた/(感動)(憧憬)みな遠いところに忘れてきた/彼こそほんたうに生きた ただ生きてゐた//もろもろの夢は彼を置いてきぼりにした/花開き 鳥唱ふ みなかかはりなかつた/(あの遠い時間よ)――/彼は積んだ材木のうへに腰を降ろし長い烟管を採り出した》(「老工夫」)
《大道は無門である/ただおまへは千差諸異のみちをゆくのだ/もしおまへが孤独な無の門を透ることができたら/いゝか/そのときさびしい天の河原に立つだらう》(「童子像」)
《老境のひとびとを集め/しぐれふる幽の舞楽を演じ/その外廓は/夕日に幾何学の射影を刻り出す/あの因果みずいろの天空のなか――》(「劇場」)
これら四篇の詩は、吉本隆明がまだ東京工業大学化学科の学生だった一九四六年〜四七年頃に書かれた彼の初期作品に属している。吉本のおびただしい著作をきちんと読み込んだことのある読者なら、これらの短い作品群の中に、既に後年の彼の思想の根底をなすキイ概念ともいうべき「大衆の原像」や、「マチウ書試論」から『最後の親鸞』に至る、いわゆる「関係の絶対性」にもとづく、一切の意味性と価値性を剥奪されたニュートラルな存在概念、すなわち、アジア的な〈無〉の境位にも一脈通ずる客体化された〈自然〉の概念を見出すことができるはずである。
「夜番」での「ひとはおき忘れ歳月はおき忘れ」「あの星宿のしたでもろもろの情慾の門を守つた」という言い回しや、「老工夫」での「夢は視なかつた」「未来は架空であり過去はみんな幕の外である」といった言葉に表わされているように、ここで描かれた老境にある無名の生活人を貫く人生へのまなざしは、直線的で累積的な時間観念の呪縛を解体し、不可知でコスミックな静けさを感じさせる〈自然〉の内に包摂された、何の変哲も無い生涯のイメージである。
こう書くと、いかにも透明感のある、すっきりとした像のようにみえるが、実体は決して単純なしろものではないのだ。
ここで詩的に造型された生活人の姿は、「働き食ひ酒を含み、酔へば日々はみな照れくさかつた」というさりげない表現にあるように、一切の社会的な意味づけや観念的な意味づけとは無縁の、ただ必要不可欠の「生きる」という身体的な営みに日々即自的に徹しながら、同時に、どこかでそういう生活者としての己れ自身に対するシャイでデリケートな〈自意識〉を微かに握りしめた孤独な人物の貌を浮かび上がらせる。
人間世界=生活世界という自然の内に自らを溶かし込ませながらも、そういう自分自身への拭いがたい異和を抱え込み、己れの身体とそれを取り囲む世界に対して、永遠の相の下に俯瞰しているもうひとりの自分がいる。
だからこそ、「彼」は「夜の人界に付火」するのだし、「酔へば日々はみな照れくさ」いのである。
ここで重要なのは、これらの詩に表現されている〈自然〉の概念が、微妙に次元を異にする二種類の自然に分裂しているということだ。
ひとつは、ただひたすら無名の生活者として「生きる」ことに徹している身体的な存在としての己れ自身と交感し、それを包摂する、色や匂いを備えた、多彩で情感ゆたかな官能的風景としての自然である。
すなわち、生きる手ごたえと哀歓に満ちた、不可知なるカオスとしての生命的な自然である。
もうひとつは、そういう生活者としての己れ自身やそれを取り囲む官能的・感覚的世界を冷徹に突き放し、俯瞰する、もうひとりの自分が棲んでいる、色や匂いの無い、ニュートラルでモノクロームな、冷ややかで澄み切った〈理知〉の世界としての自然である。
すなわち、没価値的な、神の如き〈認識者〉の世界である。
肝心なのは、若き表現者吉本隆明が、この二種類の〈自然〉概念のうち、後者のニュートラルな〈認識者〉の次元に価値的なアクセントを置き、そのメカニックな観念世界を、己れの究極の棲み家に、すなわち、生の基底的な根拠に据えんとしているという点である。
「厚いガラス窓の外は陽が暖かく/たくさんのきらびやかな物語が描かれてゐた/彼は別乾坤にゐるひとりの観客だつた/(感動)(憧憬)みな遠いところに忘れてきた」「もろもろの夢は彼を置いてきぼりにした/花開き 鳥唱ふ みなかかはりなかつた/(あの遠い時間よ)――」
ここには、日々刻々と流れゆく事象との〈生身〉の身体的接触・交感によって意味づけられた、色や匂いのあるみずみずしい生命的存在としてのコスモスを生きる即自的な生活者の風景を、敢えてひとつの擬似感情のように客体化して突き放し、永遠の相の下に、透明な膜を通して冷ややかに俯瞰しようとする、没価値的・没倫理的な観念的自我の持ち主としての作者が描かれている。
これら四篇の詩作品が物語る理想化された無名の生活人の像は、己れを取り囲む〈関係〉の不可避な連鎖によって翻弄され、生きる手ごたえと痛覚に満ちた無量の哀歓の物語によって織りなされる自然の如き身体的存在を、改めて、ニュートラルな理知による構造化された光の下にふるいにかけることで、ひとつの透明で純一な不動の生存感覚へと昇華せんとする独特のまなざしによって造型されたものだ。
「千差諸異のみち」を歩みながら、「孤独な無の門」を透ることができたとき、「さびしい天の河原」に立つ、という言い回しが語るように、この冷やかで静謐な生存感覚は、一面では、老荘思想による「万物斉同」の「道」の概念や仏教の「色即是空」の無常観のような、アジア的な〈無〉の境位としての自然思想に通じている。
これらの詩によって表現された、二重化された〈自然〉の概念によって構成される無名の生活人の像こそ、後の吉本思想の価値的な基底をなすキイ概念となる「大衆の原像」の本質を指し示すものであるといっていい。
2
「大衆の原像」という理想化されたイメージの放つ魅力の真髄は、私の考えでは、二つある。
ひとつは、一切の社会的・制度的な生の意味づけと一切の観念的な生の意味づけというものを濾過し去った彼方に浮上する、ただひたすら「生きる」ことのみに徹した即自的な生活者の像を通して、生産─消費サイクルの渦中で摩耗し、観念的で虚ろな身体性に蝕まれた現代人の哀れな生きざまを逆照射してみせることである。
しかし、いうまでもなく、吉本隆明が「大衆の原像」という理念型を抽出し得た時代と、高度経済成長完了後の一九七〇年代から八〇年代初頭にかけて完成された、第三次産業人口が圧倒的多数を占める高度消費資本主義社会の現代とは全く異なっている。
「大衆の原像」が定立され、左翼的な党派理念による観念的な収奪の陥穽に対する強烈な批判原理としてその有効性が光り輝いていた一九五〇年代〜六〇年代には、まだ、生身の身体性に根ざした〈生活〉の哀歓の手ざわりというものが、たしかに大衆の間に息づいていた。
だが、市場原理の膨張に伴うモノと情報の洪水の渦中で、個々人の欲望と自意識の肥大化・細分化が進み、人間関係の解体が行き着くところまで行き着いて、観念的でヴァーチャルな生存感覚に蝕まれた、砂粒のような虚ろで孤独な現代人にとって、かつて「大衆の原像」という概念を暗黙の内に支えていた、世界に対する〈生身〉の身体的接触に根ざした生ける〈生活〉という実体は、見喪われて久しい。
働き、食い、結婚し、子を育て、やがて成長した子に裏切られ、老いさらばえて死ぬといった〈自然〉の如き無名の生活者の生涯を、人間の理想的な生きざまとして定立してみせた「大衆の原像」という概念を、今の世で、もし吉本が定義した言葉の表面的な枠内で解釈しようとするなら、それは、まことに浅はかな、散文的で物質主義的なエゴイストの痩せ細った生活理念にしかなりようがないのだ。
サバイバルと孤独地獄を生きるアメリカ人がオアシスを求めるようにすがりつくマイホーム幻想が貧寒でうら哀しいように、吉本の「大衆の原像」が薄っぺらな次元で適用され得る現代日本人のマイホームもまた、うら哀しい。
「大衆の原像」というコンセプトが新たな形で蘇るためには、吉本思想が等閑に付してきた、〈生身の身体性〉とそれに根ざした世界との生命的な〈接触〉と〈意味づけ〉の蘇生をめぐる問題というものを避けて通ることはできないのである。
そのためには、「大衆の原像」を構成的に支えるもうひとつの概念である没価値的な〈認識者〉としての観念的な自我意識の次元というものが問題とされなければならない。
なぜなら、先にも述べた如く、吉本の「大衆の原像」は、ただの即自的な〈生活者〉の次元のみによって構成された理念型ではなく、同時に、個的な生活者の生涯のイメージをニュートラルな理知の光の下に繰り込むことで、個々人の固有な生活者的身体に備わっていた生の〈意味性〉と〈価値性〉を相対的なものとして解体し(すなわち、個々の生活者に固有の、主観的で相対的な幻想とみなし)、抽象化することによって定立されられたものだからである。
もちろん、この抽象化が、今でも完全に無意味なものと化したわけではない。
先にも言及したように、それは、一面では、老荘思想や仏教にも通ずる、透明でコスミックな、アジア的な〈無〉の境位としての大いなる〈自然〉のイメージにつながるからだ。
それは、「万物斉同」の深々とした神秘で純一な闇のイメージによって、人生の不条理と業苦の記憶を浄化し、静謐ですき透った哀しみへと昇華させてみせる。
「大衆の原像」のもうひとつの魅力も、そこにある。
しかし吉本には、「色即是空」のまなざしはあっても、「空即是色」のまなざしは無い。
「空即是色」の視座が欠落している以上、「生きる」という営みを根底的に意味あらしめる上で欠くことのできない、〈生身〉の身体性に根ざした世界=風景との生命的な接触と不可知なる生への神秘的で有機的な意味づけもまた、「相対的で主観的な、虚妄なる幻」として価値的に貶められるほかはないのだ。
生きる手ごたえと哀歓に満ちた、日常の生身の物語の累積によって支えられるたしかな生活実体が生きていた五〇年代〜六〇年代は、このような生ける身体性をめぐる問題をことさらに強調しなくとも事足りる世相だったのである。
それは、いまだ、かろうじて前近代的な共同体的遺制の残滓が生きていた時代だからであり、血縁・地縁を中心とする濃密な人間関係への愛憎に彩られた哀切な演歌的色調をたたえながら、それでも暖かい泥のようなぬくもりが社会全体を覆っていたからである。
当時の盛んな思想的潮流は、科学と合理主義と観念的なヒューマニズムや社会主義の理念によって前近代的・封建的な伝統的価値を解体し、近代人的な個や家族を析出させることにあった。
国家権力を支える制度的な虚構や左翼的な党派性の支配を共同幻想の呪力に求め、その発生の由来とメカニズムを読み解くことで共同性から個や家族を解放することをめざした吉本思想もまた、「価値解体屋」が猛威をふるうという当時の近代主義的思潮の一環として、その存在意義をアピールし得てきたといってよい。
しかし、ポスト・モダンに至る多種多様な「価値解体屋」がその運動を終え、今や孤独地獄とサバイバルの中で、冷え切った虚ろな身体を抱えてさまよう無数の観念的な大衆・知識人たちが溢れ返る〈廃墟〉の時空を前に、私たちがなさねばならぬことは、いうまでもなく、見喪われた生命的な〈価値〉や〈意味〉の再発見以外の何ものでもない。
それは、決して旧き共同体社会に帰ることではなく、あくまでも、この〈廃墟〉としての現実を前提にして、すなわち、極限的に痩せ細り、無意味なゴミのような存在と化して〈虚無〉の淵に沈められた、この個的な〈生身〉の身体という固有の生の究極の基盤を立脚点として、〈非知〉と〈脱社会〉の魂を携えて不屈の再起を果たすことだというのが、思想者としての私の立場なのである。
そのような私の視座にとって、吉本思想における「空即是色」の欠落は、致命的なアキレス腱におもえる。
私が、吉本のニュートラルな観念的自我意識のあり方を問題とし、それを転倒せんとするのもそのためである。
私が志してきたのは、吉本隆明とは全く逆に、ニュートラルな〈認識者〉の次元を、即自的な生活者であり生身の身体的存在である己れ自身の内に繰り込むことで、非知と脱社会の魂を備え、不可知なるカオスとしての生命的自然=コスモスと神秘で意義深い結合を果たしつつこの現世を生き抜き、心ある人々と無言の連帯を育み、〈脱近代〉の世を招来するために、ささやかながら己れのなすべき事をなしとげることである。
3
「千差諸異のみち」を行く個々の人間たち、すなわち、固有の「関係の絶対性」に翻弄されながら、固有の価値観と物の見方を形成し、それに規定されながらもがき抜く個々の生活者の生きざまを客体化=相対化し、没価値的な認識者の位相に立って世界を俯瞰しようとする吉本隆明の観念的なまなざしは、一面では、アジア的な「万物斉同」「色即是空」の自然思想に通じるが、他方では、西欧近代的なアトミズム的・機械論的な世界観につながっている。
「老工夫」で、「すべて生きものは機械……/ただ時々の不協和が妖しい糸を曳いて彼をときめかした」とうたわれ、「劇場」で、「しぐれふる幽の舞楽」を縁取る「外廓」が「夕日に幾何学の射影を刻り出」し、「みずいろの天空」の中に「因果」の連鎖の綾なす業苦に彩られた生のドラマが冷やかに内包されるとき、作者がとろうとする認識論的な身構えは、存在の本質を、主体と客体の融合した、神秘で不可知な生命的カオスとしての〈造化〉の働きに求めようとするアジア的なホーリズムのまなざしではない。
それはむしろ、存在から意味性と価値性を剥奪し、事象の本質を、ニュートラルな因果律と確率論によって規定されたアトム的な実体のメカニックな運動に帰着させようとする西欧近代的なアトミズム的・機械論的な合理主義のまなざしに通ずるものである。
化学者の道から文芸評論家へと転じていった吉本隆明の軌跡は、彼の認識論的な資質の開花にとって、きわめて自然で、本質的な意味をもつものであった。
共同幻想・対幻想・自己幻想という三次元からなる後年の吉本思想の観念的システムは、周知のように、ヘーゲル=マルクス的な〈疎外〉概念を応用することによって構築されている。
ヘーゲル=マルクス的な〈疎外〉というコンセプトは、基本的にアトミズム的な認識論の一形態である。
例えば、彼らは、生命という概念を、無機的な自然に対する〈異和〉としての有機的な秩序創造のエネルギーの表われとみなし、それを無機的な自然からの〈疎外〉の産物とみなす。
〈無〉に対して〈有〉がひとつの疎外の表出であるように、有機体としての生命とは、無機的存在に対するひとつの疎外の表現なのである。
しかし、〈疎外〉は同時に、疎外の〈打消し〉の運動をその内部にはらむ。
例えば、生命という疎外形態は、同時に、疎外の〈打消し〉としての生命の否定、すなわち自らの有機的システムを解体して無機的自然に回帰せんとする〈死〉への衝動をはらんでいるということになる。
〈生〉への運動は、同時に、生命的な秩序の生成・発展の流れの中に絶えず解体と死の運動をはらみ、エントロピーを排泄すると共に、〈生〉の営みの延長上に〈死〉への回帰をはらむという逆説を抱え込んでいる。
フロイトは、それをタナトスと呼び、〈性〉のエネルギー=リビドーやその源泉をなすエスという非合理的・生命的な〈闇〉への衝動の内部に、同時に〈死〉への衝動が両義的に息づいていることを指摘してみせた。
フロイトのエスもまた、無機的自然に対する異和=疎外の表出であると同時に、疎外に対する打消しの運動をはらんでいる。
そして、エスと並んで彼の精神分析を支える重要なカテゴリーである自我や超自我もまた、エスに対する疎外形態として産出されたものであり、エス・自我・超自我は互いに疎外し合う関係にある。
このように、マルクスやヘーゲルと並んで吉本隆明に強い影響を与えたフロイトの思想もまた、〈疎外〉というコンセプトをその枠組の支柱としているのである。
吉本隆明の幻想論もまた、根底においては、生命及び心的世界の発生・由来を存在からの疎外形態に求めようとするヘーゲル・マルクス・フロイトの認識論に通じるものであり、また、そこでは、自己幻想(個人としての心的世界)・対幻想(対としてのエロス的な心的世界)・共同幻想(国家や共同社会・集団・組織を支える観念的紐帯)の三次元の心的世界は、互いに目に視えない異和と緊張をはらんだ〈疎外〉関係にさらされているとみなすことができる。
ここで注意すべきことは、吉本理論では、人間世界を、互いに倒立的な関係にある地上的=物質的・形而下的世界と天上的=観念的・形而上的世界に二元的に分裂させ、共同幻想や自己幻想を、主として後者の天上的な幻想領域とみなそうとするマルクス的な認識論がベースとなっているという点である。
すなわち、存在を、天上的幻想と地上的現実に〈分裂〉させ、人間の生きる営みや心的世界を、主として、非人間的な客観的・物質的自然=地上的現実を「人間化」することでそれを支配し、あるいはそれに適応せんとする幻想的な努力の産物とみる理念が横たわっているということだ。
要するに、自己幻想や共同幻想のような心的世界の本質を、非人間的な物質的ないし形而下的現実からの〈疎外〉の形態に求めようとするのである。そして、不条理な地上的現実に対する幻想的な代償装置の一種として生み出された〈共同幻想〉もまた、一個の社会的・制度的な支配イデオロギーとして定着してゆくことで、不条理な地上的・形而下的桎梏の一種へと転化し、自らの内に、それに対する反逆としての新たな〈自己幻想〉や〈共同幻想〉を胚胎させ、〈疎外〉の一形態として産み落としてゆく。
このような認識論が、国家権力の起源を解明し、共同幻想の呪縛の正体を見切り、それに対峙し得る〈個〉の砦を可能ならしめる優れた武器となり得たことは事実であり、吉本隆明を戦後思想界の強靱でラジカルな闘士にしてカリスマたらしめた要因となったこともたしかである。
私もまた、そのような吉本理論の果たし得た功績を正当に評価したいとおもう。
しかし、それにもかかわらず、吉本やマルクスの思想的前提となっている「天上と地上の分裂」という存在概念が、近代主義的な認識論としての明瞭な限界をもっていることも、またたしかなことである。
先にも強調したように、存在から意味性と価値性を剥奪し、ニュートラルな自然法則に基づく因果律と確率論に規定されたアトム的な実体の運動に現象の本質を解消せんとするのが、近代主義的世界観の本性だといってよい。
近代主義的なまなざしとは、本質的にアトミズム的・機械論的な性格をもつ。
例えば、量子力学の「不確定性原理」のような主・客分離的(客観主義的)な認識論を否定し得る理論を打ち立ててみせても、あるいは、電磁気学や一般相対性理論の〈場〉の理論のように、アトミズム的な存在概念を否定してみせたとしても、存在の本質を、なんらかのニュートラルな自然法則に基づく因果律や確率論によって規定せんとする限り、そして、科学と合理主義によって己れの生や社会のあり方を人工的に設計・統御せんともくろむ限り、そのようなまなざしは、アトミズム的・機械論的な枠組の内にあるとみなすことができるのだ。
〈場〉という概念であろうが、〈波動〉という概念であろうが、なんらかの〈生命的実体〉であろうが、ニュートラルな自然法則によってその運動を規定された〈記号的存在〉とみなされる限り、それらは、機械化されたアトム的な実体以外の何物でもない。
周知のように、近年では、デジタルな予測の不可能な非線型の現象、アトミックな要素に還元不能なカオスの生成を説明しようとして、「複雑系」の科学というモデル理論が提唱されているが、それもまた、私にいわせれば、近代主義的発想の悪あがきの産物にすぎない。
そもそも、科学だの合理主義だのといったまなざしが通用しえない、主・客融合的で神秘的生命的な、大いなる不可知性の領域があればこそ、「複雑系」ではないか。
人間中心主義的な私たちの尊大な近代文明が欠落させてきたかけがえのない価値は、小賢しい理知や合理的な統御をはるかに超えた、不可知で広大な、存在の〈闇〉の次元に対する謙虚な〈畏怖〉の心であり、そのような〈闇〉の次元への、われわれ自身の身体を通じての生ける〈接触〉の実感と、その実感に根ざした、コスモスとしての生活世界へのみずみずしい〈意味づけ〉なのである。
吉本隆明の理論体系を支えてきた〈疎外〉というキイ・コンセプトが、人間の幻想領域の矛盾や支配のメカニズムを切開し得る優れた武器たり得たという長所にもかかわらず、今や、冷え切った虚ろな身体性を抱えてもがき苦しむ観念的な現代人の実存的課題にとって、ほとんど何の有効性ももち得なくなってしまった要因は、彼の思想の根底に横たわる近代主義的な認識論の枠組の貧しさにあるといっていい。
意味性と価値性を解体された、冷ややかなアトミズム的・機械論的な近代主義的存在概念を前提とする限り、自己幻想・対幻想・共同幻想という三次元から成る心的世界とは、しょせん、〈疎外〉という、存在の織りなすニュートラルでアトミックな運動によって産み出された、哀れではかない主観的な幻影でしかなく、存在との生ける身体的接触によって支えられた生の意味づけとは無縁なしろものにすぎない。
アトミズムという存在へのまなざしは、たしかに世界の半面の実相を物語ってはいる。
しかし、その半面の真理への認識が真に幸福な形で生きて働くには、森羅万象との主・客融合的で生命的な絆の存在というホーリスティックな他の半面というものが、表裏一体のように備わっていなければならない。
アトミズムという西欧近代的なまなざしは、それと一見矛盾するアジア的なホーリズムのまなざしと〈止揚〉された関係の内に置かれてこそ、生きる手ごたえと生の根源的な充足の位相をもたらしてくれるものとなるのであり、その時はじめて、〈疎外〉という概念は、生命と虚無の緊迫した葛藤の重層的なダイナミズムが紡ぎ出す存在の諸相の内に、しかるべき位置を占め得るのである。
4
若き詩人吉本隆明がなぜ己れの生の究極の拠点を、没価値的で冷徹な〈認識者〉の次元に置こうとしたかという秘められた動機を、何よりも生々しく伝えているのは、終戦直後の一九四七年頃に書かれた「かなしきいこひに」と「(海の風に)」と題する初期詩である。
《冷たいいこひの日から/わたしはいつぱいの夢をこしらへた/時間は固有にながれ/特異の方向にむいていつた/それから運命は萠えてゆくやうだつた//なげきよ/すべてのひとをおとづれないで/わたしだけをおとづれたものよ/わたしは手ぶらなのだ/わたしはうすものをいちまいまとつてゐるだけだ/赤い上衣をきた少女ほどにも/わたしはしつかりと立つてはゐないのだ――/暗い冬がきて/わたしはまた熱を病んで/たくましい言葉をもとめやうに――/それから失つた時をもとめやうに――/かこまれたさだめのうちから/ただもう生きつづけやうに――//街から拾つてきた玩具のやうな辛さ/それはまきちらした/濁つたもえぎの野原にまきちらした/あとには出水のあとはじめての月が出た――//暗い冬がきて/あいする自刻の立像が/わたしのうれひを模倣するだらうか/わたしはたすかるだらうか/これからはたつたひとり/兎小屋の兎をみたりして/おたまじやくしの尾をみたりして/またひとりでゆけるだらうか/さあれそれは/さびしいゆめのひとつづき/ゆくかたなきうれひのあえかなうた/かかはりなくゆく時間が/わたしの肉体をまねぶだらう/やがてまたの日に――》(「かなしきいこひに」より)
この繊細な作品に流れている主調音は、たとえようもない生き難さの実感である。
それは、作者の身体を囲繞し、個人の夢やはからいを超えて容赦なく翻弄する関係の絶対性に対する、いいようのない不条理感であり、かつては息づいていたみずみずしい日常の時への回帰不能の喪失感の深さであり、精神的な拠り所をいまだ確立しえず浮遊するほかはないはかなさの感覚である。
「わたしはたすかるだらうか/これからはたつたひとり/兎小屋の兎をみたりして/おたまじやくしの尾をみたりして/またひとりでゆけるだらうか」というくだりは切ない。
ここには、日々の生活風景との交感によって紡ぎ出される固有の身体的な物語の連鎖によっては、もはや己れ自身を根底的に支えることのできない、蒼ざめた繊細で過敏な若者の不安がうかがえる。
己れ自身を包摂し、理不尽に翻弄する、生命と虚無の両義性を備えた〈時間〉という得体のしれない不可知な生き物の脅威を前にした、ちっぽけな肉体的存在としての己れに対する圧倒的な無力感と、その〈時間〉という怪物から懸命に身をもぎ離し、生身の具象世界を司るその不可避性の力に対峙するかのように、観念的な自我の砦を構築せんと志していた若き吉本隆明の哀しみと憤りと渇きの深さが、ここには息づいているにちがいないとおもえる。
「かかはりなくゆく時間が/わたしの肉体をまねぶだらう」というさりげない言い回しには、存在との〈生身〉の身体的交感によって意味づけられ支えられる〈持続〉としての時間とは別次元に、その地上的な具象世界に従属しないもうひとつの、いわば超時間的な時間ともいうべき、スタティックで自己完結的な観念宇宙を棲み家として仮構せんとする、〈虚体〉への意志が看取される。
この〈虚体〉への自己形成の決意の背後に、どれほどの喪失と断念の苦しみが横たわっていたかは、「かなしきいこひに」と同時期に書かれた、若き吉本の内的な自己形成史の総括ともいうべき哀切な長詩「(海の風に)」に、あますところなく描破されている。
五百四十八行という長大な詩ではあるが、天草出身の船大工を親にもつこの作者の、父祖の代からの前近代的な共同体民としての生活者的伝統の厚みをも感じさせる、古典的ともいってよい風格を備えた力強い深々とした抒情性が息づいており、今の世においてこそ、じっくりとふり返り味読すべき作品だとおもうので、敢えて以下に部分引用させていただきたくおもう。
「(海の風に)」は、私の見るところでは、その喪失と断念に彩られた悲劇性の緊迫感といい、この作者の深奥に秘められた繊細で奥ゆきのある女性的資質の匂い立つような香気といい、また、〈戦後〉さらには〈近代〉という時代が強いてきた魂の惨劇ともいうべき最深の暗部を鮮やかに照射してみせた点といい、まぎれもなく、吉本隆明の全詩作品の内でも、空前絶後の最高傑作であるといっていい。
《暗い時のうしろに/乱れてゐる花々の匂ひ/わずかにすてられた我執のため/ゆかなくてはならないのか/ひろびろとした持続のうちで/わたしはすでに従属しない/いつさいの生きてゐるものに/河石のみどりの底に/うづくまるひとかげ――/すべてが救はない/清澄なかげのひとを/風がとほりすぎるとき/卑しいうたのひびきを/くぐりさるひとときをみつける/あたへられた形/盲目のさまでみてゐる/空や樹々のうつろつてゆく色どりを/すべてはしづかに/ひびきはかげをおとさないで/まるくたひらかな地のはてを/なにものか正しくそよぐ/すでに死にたへたいのちが/いまだ無用に呼吸するおり/かがやきは暗く/ときはおとたてず/いつかあゆんでゐる/ひとにあはないみちを/すぎてゆくものに/手をふりながら/ひとりに決められて/海べはとほく匂ひ/花々はむなしく乱れ/ひかりは照し出さない/一枚のそらの雲さへ/つらなる山々のさびしささへ/あゆみが描き/せめてかたくなの地図のうへ/わたしは終焉をくりかへす》(「(海の風に)」より・以下の引用も同前)
「ひろびろとした持続のうちで/わたしはすでに従属しない/いつさいの生きてゐるものに」というフレーズに、作者の〈虚体〉への構築の意志が端的に語られている。
「清澄なかげのひとを/風がとほりすぎるとき/卑しいうたのひびきを/くぐりさるひとときをみつける」とか、「すべてはしづかに/ひびきはかげをおとさないで」とか、「すでに死にたへたいのちが/いまだ無用に呼吸するおり/かがやきは暗く/ときはおとたてず/いつかあゆんでゐる/ひとにあはないみちを/すぎてゆくものに/手をふりながら」といった言い回しには、人の世の険しさと浅ましさに痛めつけられ、生き難さの懸崖にまで追い込まれたあげく、ちっぽけな社会的引力の圏外に脱け出ることのできた孤独で純粋な魂の持ち主の、不思議な透明感と静けさが息づいている。とても冷え切った硬直した身構えを感じさせるのに、奇妙に優しく澄み切っている。
《あぢさゐのやうにひらく波/それからあぢさゐのやうにわかれる/いつの季節がまたの季節につがれる/とほい由来のむかふから/赤肌の夕陽――風の目覚めから/眠つてゐる岬と雲との裾に/衣裳のやうにかがやき/また暗くたひらかになる青い布紗――/わたしには視える/魚族が骨になつてつまれ/巨きな夢のやうに/灰色に積まれてゆくさまが/不変の住居をつくつて/わたしは聾のやうにきいてゐる》
地上の歴史的時間の累積を人類の系統発生的な祖に当たる魚類にまで遡りながら、自然の綾なす悠久の時の流れという〈観念〉のフィルターにかけられた風景を、永遠の相の下に置かれた己れの〈認識者〉としての位相とシンクロナイズさせてみせている。
この作者を嫌悪と愛憎の念によって苦しめてきた一切の生臭い人間的な営みを構成する〈意味〉と〈価値〉の世界を解体させ、遠ざけようとする姿勢がうかがわれる。
《いためられた孤立/おかれた均衡のいただきで燃える/炎のまた炎――/いつからか不安がなくなつて/すべては他界のやうになる/暁の雲にかんじ/夕べの茜にのこしてきた/山脈や神のやうな反映》
ここも同様である。この作者が強いられてきた関係への異和=障害感の深さと、相対立する相対的・現世的な諸価値への我執がもたらす人の世の愛憎の険しさが透視されると共に、その関係の地獄をくぐり抜けて到達した神の如き中立的な〈認識者〉の場所から俯瞰しうる、「他界」のような観念世界のイメージが、「暁の雲」や「夕べの茜」に照り映える「山脈」の神々しい気配と重ねられている。
以下、この作品では、作者の幼児期からのみずみずしい身体的な交感の記憶とその劇的な喪失の痛手、祖母によって夜ごと語られた土俗的な伝説・民話の世界が醸し出す、自然とのコスミックな交感に彩られた人間の暗い業と生命的な蘇生の物語、そして、「大衆の原像」のモデルともなったであろう父親の忍耐づよい寡黙で重厚な風貌が、華麗な絵巻物のように展開されてゆく。
長くなるけれども、一気に引用してみる。
《ふりきられた鈴のやうに/幼い日は鳴り出さない/あのみづみづしいひびきを/〈鶏や子牛の行列〉/〈絵あそびや積木など〉/〈平安のいらかや寺院〉/〈銅色の扉〉/日ざしが織つてゐた/蟻のやうな静かないとなみ/さまざまのあそびを/よるべない虚無がかはつた/わたしのうしろに/暗い魔法の建物のやうに/わたしにもつてきた/とりどりの眠りを/おそろしい紡ぎ糸を/わたしは窓から放す/痛々しい幻覚をのせて/糸はくり出され/いつまでもつないでゐる/わたしの渇きのやうに/幾日かは風のひびき/氷雨のつめたさ/眼に見えないうごきにつれて/いはれない堅固さがつづく/わたしは蟲をたべる/くものやうに/もはや眠りから/とほいさびしい作業をつづける》(中略)《老ひたるひと〈父よ〉/いくらかの風が頭上を超へる/としつき岸壁を歩みつづけるとき/暗くしてはるかな海から/あなたはなにもみない/あなたはすべてをみてきたおりも/屈辱であり瞋りであり/あなたはきたへられた/ほろびる相になぞらへて……/今日あたらしい季節がひらく/かろやかに転身しながら/あなたの歩むその前から/あなたのたどりついたそのさきから/樹々は揺れ日がこぼれる/あたたかな風のあとに/不当にしてさびしいいのち/だがやがてくるだらう/すぎゆくものは何ものでもない/変らない千年の生きかたが/子らをとらへる日が……》《嘆きはそれていつた/とほい雲のささやきのほうへ/すぎていつた/ひとの一生のすがたが/眼のまへがなにも識られずに/ゆきついたところ/花はひらいていた〈季節よ〉/刻々に疲れとやつれが/面を古りさした/ふきたえない風が/暗くしていつた/いくすぢかのみちが曲りくねつて/あなたはたどつていつた/みちに沿つてたどたどしく/ゆきつかなかつたのに――/冬の夜ふけ/古佛のやうな無表情が/ほころびてわらつた/かすかな風の音のやうに/それから語りつづけた/蟲のひびきのやうに/一瞬のあひだ/すべての重さから脱れて/夕明りのやうなさはやかさが/あなたを照し出した/かはらぬ色とかたちとで/あなたのわらひがすぎていつた……》《嘆きは架空の風/そのきらめきのうち/悲しみはむなしいうつくしさのなか/かはらない真実は/能面のやうに/寺院のしづかさにすはつてゐる/つみかさなる業に/おどろきを刻みながら/すぎてゆく季節のあかりに/うきあがつて語りつづける/その緘黙のつよさでもつて》(中略)《あやまられた夜語りのなかで/老婆の唇がつげる/すでにかへらないゆめを/いつか偶像化をとほして/むだなく枯れた骨ばかりが/うつくしい幻のやうに残される/雪や木枯しの窓からは/見知らぬ人形のやうな/人や獣の声がしてくる/それからときおり/老婆のしはぶく声がまじる/わたしが目覚めるやうにと――》《とほくから時が追つてくる/夜ガラス窓がはげしく叩かれ/嵐がすぎてゆく/あたへられた恐怖の座で/わたしはさまざまに描きつづける/とほい暗い業のかずかずを/朝きららかなひかりがさめる/はにかみがわたしをうつむかせ/晴れわたつた空が/緑いろの雲を残してくれる/樹木が裸になつて垂れ/いろいろなこはれ物が散らかつてゐる/わたしはたとへやうもなく/大人になつた気がしてゐる/たくさんな祕かな夜語り/おそらくはほかにたれも知らない/そのつづきをその終末を……/ひとたちは聴いてゐる/歳月がすすめてゆく物語りを/幼児が眠りについたあひだに……/夜な夜なおもひつづける/蛾や夜の虫にまじつて/真昼の花々が描かれ/明るい灯がお伽のランプに変り/現実が夢に代られる/幼児はこのやうな夜大人になる/〈誰も知らない〉とつぶやきながら》《閉ぢられたあはれな世界――/煙突や野鳩や学校が視え/ひとたちは忙はしげに往つてしまつた/幼児はへだてられる/すべてはかへりみないので/とほい昔からつづいてゐるあの世界に/幼児は降りてきた魔法使ひのやうに/呪文をうたふ/〈はやく大人になるな〉》(中略)《幼ないとき/海はしぜんの霊廟であつた/わたしは壁畫のやうに描いた/風寒い夕べ/芦の枯れ枝をわけて/ひとりのぼんやりした少女と出会つて/ほとりをあゆんでゐた/描かれた水のいろそらのきらめき/わたしの夢のままに彩どられ/風さへ夢の方向から吹き/きらめいてゐる夕べの陽も/緑や青まで矢のやうにそそいで/わたしは幼くして青年であつた/あやふかつた〈!〉/そして海が冬になるとき/もう寒く火を抱きながら/陰絵のやうな異国のうちに/マンダラの飾り畫のなかに/のがれてゆかねばならなかつた》《たくさんの夢がうしなはれ/風や夜がこころをしづめない/在りし日のかはらぬうたごえのなかで/面かげはやつれ/ふかいみぞがきざまれる/海べは形をかへられ/白壁の倉庫が立ち竝んで/異国のマストがとまつてゐる/岸壁は堅く石垣でくまれる/自由な?が沖のほうに移つて/水が鉛いろにくすんでしまふ/且て砂地がはるばるとつづき/蟹などが穴に住んでゐた/少女は小さく憩ひてゐた/いま/白いみちのつづきに/並木が風にふかれてゐる/海の風に/とりどりの姿勢で/いつまでも孤立しながら》《わたしがひとに変り/うれひが忘れられて/うれひにならないとき/海はかはらぬ色で/折々の壁をつくる/いれかはり去りゆくものに/挽歌をつづける/波がしらと風との交はりで/大地がふち取られ/水平線がまるくなり/あはれ天球のほうに/つらい孤独をつげる/あはれわたしのゐない冬の色で――》《すでに海辺をはなれ/海をうしなつた/うつくしいうしをのうたを/こころがうたひつづける/鳥のやうにそらを翔びつつ/枯れたおもひはもうきかないのに/わたしにかはつて/海辺に佇むものに/せめて壁をつくり/わたしが祝ひ/なつかしむひとかげが/影のやうに風のなかの/くらい砂丘に面してゐる/かはらず/すでにわたしがそのため失つた/かずかずのものを失つて/あたかもわたしのやうに/うちかへす波を確める/かはらぬ音としぶきのかずとを――》《もはやおとづれて/わたしの身代りを知り/わたしの歳月を告げられない/疲れうしなはれたゆたかさが/わたしをひきとめる/すでに夜が/灰色のとばりのやうにあり/わたしは断たれてしまふ/わたしを模倣し/わたしを想ひ起させるものから――/どのやうな宿命が/わたしの身代りをおとづれても/きんいろの夕べ/わたしは視る/わたしが亡びるさまを/あたかもすでにわたしが亡びたとほりに――》《炎がもつれてゐる/すでに燃えつきやうとする相から/巨きく変つてゆく季節/そのなかの樹木や風たち/無用のうたをよせる鳥など/わたしはかへりみない/いくらかはあいすることに/いくらかは生きることに/ふりわけられて/もはやうつろになる》
もはや、執拗なコメントは要らぬであろう。この作者の幼少期の人や自然や日々の生活風景との身体的な交感の記憶が、いかにみずみずしい、奥ゆきのある、彩りゆたかなものであったかがわかる。生活苦や人としての業苦の重さをひっそりと包み込む無数の哀歓の物語が、夕ばえや暁や夜の闇の深さと共に、あるいは、風や海や樹々の表情と共に息づき、固有のいのちあるコスモスを紡ぎ出し、厚みのある年輪を身体に刻みつけたのである。
この生身の身体性によって支えられた存在との生命的な接触・交感とそれに根ざした生への沈黙の意味づけの累積のかたちが、本来、「大衆の原像」の半面をなす、〈自然〉の如き無名の生活人の生涯のイメージにつながっていたはずであった。
「大衆の原像」というコンセプトは、先にも指摘した如く、この存在との生ける身体的交感にもとづく〈意味〉と〈価値〉に支えられた、主・客融合的で即自的な生活者としての次元と、そのような生活者の相対的ではかない具象世界を〈空〉なるものとして客体的に突き放し、永遠の相の下に俯瞰しようとするニュートラルな観念的自我意識の次元の、二種類のまなざしのダブルイメージによって構成されていた。
このコンセプトが、観念的な害毒に蝕まれた人々の虚ろな生きざまを批判し、私たちの生を幸福ならしめる理念型として今もなおその有効性を保ちうるとすれば、この二種類のまなざし(次元)の均衡のあり方が、吉本隆明のそれとは逆の形をとらなければならない、というのが私の考えなのである。
つまり「色即是空」ではなく、「空即是色」の境位にまで進んでみせねばならないのだ。
作品「(海の風に)」は、作者の幼少期に全身的に体感され、作者自身の身体的な強靭さとゆたかさのベースを培ってきたはずの、存在の両義性としての生命と虚無のダイナミズムによって織りなされる、みずみずしいコスモスとしての生活史の累積を、痛苦に満ちた〈喪失〉のうたを奏でることによって、自らの手で価値的に扼殺してみせた痛ましい挽歌となっている。
この作品の終末部に表われる「わたしの身代り」という衝撃的な言葉の中に、私たちは、生身の身体に支えられた己れの生活史を墓標と共に葬り去り、これから立ち向かおうとする戦後史という悪しき時代を生きる〈生活者〉としての己れ自身を「仮りそめの存在」とみなし、孤独な〈観念の砦〉に拠って立つ〈虚体〉としての自己と、そういう自己を包摂する〈他界〉のような超時間的でニュートラルな、冷ややかな抽象的観念空間としての〈自然〉を、究極の棲み家に据えんとする、孤独な思想者吉本隆明の貌を透かし視ることができるであろう。
「すでに夜が/灰色のとばりのやうにあり/わたしは断たれてしまふ/わたしを模倣し/わたしを想ひ起させるものから――/どのやうな宿命が/わたしの身代りをおとづれても/きんいろの夕べ/わたしは視る/わたしが亡びるさまを/あたかもすでにわたしが亡びたとほりに――」とか「そのなかの樹木や風たち/無用のうたをよせる鳥など/わたしはかへりみない/いくらかはあいすることに/いくらかは生きることに/ふりわけられて/もはやうつろになる」といったフレーズが吐かれるまでに、どれほどの喪失と断念の劇痛があったことだろう。
一九五〇年代以降、吉本隆明を戦後思想界のカリスマへと押し上げる要因の一つともなった詩作品『固有時との対話』や『転位のための十篇』のような、酷薄なまでに乾いた、孤独な険しさに満ちた男性的資質の所産の背後に、私たちは、「(海の風に)」や「かなしきいこひに」にみられるような、この上もなく繊細で傷つきやすい、抒情ゆたかな女性的資質が秘められていたことに注目しなければならない。
五〇年代以降の、強靭な観念的自我意識による独自の知識体系を打ち立てた、戦闘的で孤独な、男性的な意志の化身としての思想家吉本隆明の誕生が、このような柔らかな、優しい人間味のある生命的な女性的資質を封印することを代償としてなされたことを、私たちは決して忘れてはならないのである。
なぜなら、他者の秘められた〈痛み〉へのデリケートな共感能力を含む、このような女性的な優しさの圧殺こそ、〈戦後〉という、さらには〈近代〉という、悪しき鈍感な観念的奴隷が支配する社会がもたらしたものであり、その内なる女性的資質を封印し、〈知識〉によってよろずった「こわもて」の男性的意志を生の拠点とし、前面に押し出したからこそ、吉本は、〈戦後〉という時代の巨大なカリスマたりえたからである。
この吉本の悲劇は、「斜陽」を書かねばならなかった太宰治の悲劇と酷似しているといっていい。
「斜陽」で太宰治は、痛めつけられた形ではあるが、己れの女性的資質の理想化された人物類型を、主人公である「かず子」の母の像に託している。繊細な共感能力をもつ、透明で静謐なこの女性は、同じく太宰にとっての理想像であった「右大臣実朝」の変形であるといってよい。「斜陽」で、作者は、戦前最後の精神的貴族であったこの母親を死に至らしめ、それと入れ代るように、主人公の「かず子」を、純粋で優しい女性的資質を内に秘めながらも〈戦後〉をなりふりかまわず生き抜こうとする獰猛な男性的意志の化身へと変貌させてみせている。
この「かず子」の痛々しい捨て身の〈変身〉のかたちこそ、「(海の風に)」に表出された若き吉本隆明の喪失と断念のかたちとパラレルなものなのであり、戦後社会の、さらには近代社会の最深の暗部を照らし出すものである。
ちなみに、「斜陽」が執筆されたのは昭和二十二年であり、「(海の風に)」と同時期に当たる。
太宰は、「かず子」のように、非情で獰猛な生活欲の修羅場と化した戦後社会に生き残ることはできなかった。
しかし、吉本は、鋼鉄のような観念性で全身を武装し、家族を守りつつ、凶悪なサバイバルの世をなりふりかまわずたたかい抜いてみせた。
吉本にデリケートな女性的資質を封印させ、観念的で戦闘的な男性的意志を前面に出すことを強いた不可視の圧力、そして、そういう変貌した吉本の表現を熱狂的に受け容れた、孤独な不遇感を抱える多くの政治青年・文学青年たちを産み出した時代の風圧とは、直接的には、貧困とひき裂かれた人間関係の苦しみであり、その背景をなす階級的な収奪という悪、即ち、労働・分業システムの理不尽さや富の分配の不公平さ、さらには、個を圧殺する共同幻想の支配的メカニズムにほかならなかった。
このような階級的ないし共同体的桎梏へのたたかいの視座に立つ限り、たしかに、私たちは、『固有時との対話』や『転位のための十篇』のような系列の詩作品を、吉本の思想表現の頂点的な位置に立つものとして評価せざるを得ないことになる。
しかし、視点を変えて、当時の吉本や彼の表現を受容した読者たちを追いつめていた不可視の軋轢のかたちを、階級矛盾という古典的な問題設定が完全に無効と化してしまっている現在的な場所から、もう少し広い文脈に置いて照射してみると、いささか異なった相貌が視えてくる。
そこでは、階級的な支配─被支配のあり方の別なく、両者を共通に貫く近代的な病理のかたちが問題となってくるのであり、当時の戦後日本人全体のまなざしの近代主義的な貧しさと価値観の歪みが透けて視えてくるのである。
戦後資本主義の復興期から高度経済成長期へと向かう戦後史の過程が人々に強いた風圧とは、経済的な利益の追求への偏執と科学や合理主義への尊大な信仰、観念的なヒューマニズムや社会主義の理念がはらむ欺瞞と空洞、今やほとんど形骸と化しつつあった前近代的封建的遺制の強いてくる、ぬくもりと表裏一体となった嫉妬・羨望の念や利害関係や個の圧殺のメカニズム、そして、やがては時代の前面に浮上してくる個人主義的・功利主義的なエートスの酷薄なエゴイズムの匂いであった。
一言でいうなら、産業社会化の流れの中で次々と脱皮・変容を強いられることになる戦後社会を根底から支える、観念的でかつ物質主義的な男性的原理であった。
近代産業社会とは、ごく簡単にいって、抑圧する者もされる者も、権力を握るものも反体制に属する者も、共に、アトミックで機械論的な世界観に立った、観念的なアトム的個人とその集合体に還元されるような社会なのであり、それこそが、私がここでいういびつな男性原理を支え育むベースとなるものである。
存在の本質を無意味なアトム的実体のメカニックな運動の集合とみなす現代人が、不条理で酷薄なカオスとしての現世を生き抜くためにすがりつこうとする武器は、カネと合理的な計算と情報=知識であり、それによって追求されるべき価値の中心は、利便性を含む快適さと、さまざまなエロスの対象へのフェティッシュな享楽の渇望と、富や名声や社会的地位による支配的・優越的な力の感覚である。
要するに、貨幣を含む観念的な実体を支配原理とするものである。
それに対して、個々の人間や生命や風景への繊細な生身の身体的交感と存在の奥ゆきへの感受性のあり方に、意味や価値の源泉を求めようとするのが、ここでいうところの女性的な原理である。私の言い回しに従えば、存在の〈闇〉への感受性ということになる。
私たちの生や社会が幸福な良きものとなるには、生活のさまざまな局面において、観念性や物質的な価値を追求する男性原理と繊細な身体的感応を生の拠り所とする女性原理の間に、ある種の適切な〈均衡〉と〈融合〉が保たれることが必要となる。
女性原理が大きく欠落する時、男性原理もまた、もろく、いびつなものと化してしまう。
家父長的な封建的遺制がさまざまな抑圧の悲劇を生み出していた戦前日本社会も、ある意味ではいびつな男性原理の支配する社会ではあったが、同時に、前近代的な共同体的紐帯の残滓に守られることで、生身の共感能力や存在の奥ゆきへの感受性がいまだゆたかに息づいていたという点では、かろうじて女性原理を生きた形で温存し得ていた時代であったといえる。
しかし、二十世紀後半の〈戦後史〉という、近代化の完成と終局の段階は、個人の解放と欲望の謳歌という向日的な側面とは裏腹に、社会の全面にわたって、ひたすら、鈍感で肉食的な、いびつな男性原理が浸透・拡大し、繊細な女性原理が急速に衰弱・消滅の一途を辿ってゆく時代であった。
特に、産業社会の脂ぎった形成期であった一九七〇年代までは、良い意味でも悪い意味でも、まことに男臭い時代だった。
八〇年代以降、爛熟した高度消費資本主義の中で、疲弊し切った日本人の男性原理は一気に衰弱していくが、それは決して、デリケートな、すこやかな女性原理の回復をもたらすものではなく、孤独地獄とサバイバルの風潮が拡がる中、ヴァーチャルで空虚な身体感覚に蝕まれた人間たちが増殖する世相で、いびつな男性原理は内攻し、フェティッシュな幼児退行的性格を強め、さまざまな精神病理的症状をとるようになってきている。
しかし、同時に、七〇年代後半以降、さまざまな芸術の分野で、心ある少数の表現者によって、蘇生すべき女性原理のかたちが追求されてきたこともたしかである。
私たちの社会が〈脱近代〉に向けて幸福な脱皮を遂げるためには、男女を問わず、一人ひとりの人間が、己れの内なる女性原理をみつめ直し、観念的な男性原理との間に、適切な均衡と融合の形を蘇らせる必要がある。すなわち、生命と虚無の両義性を備えた存在の〈闇〉への繊細で奥ゆきのあるまなざしが再発見されなければならないということだ。
それができた時、初めて、男性は生気を回復し、卑屈なところのない、決断力と責任感と透徹した判断力と高き志を備えた、思いやりのある真に「男らしい」存在となりうるのであり、女性もまた、繊細でゆたかな共感能力にあふれた、生活へのみずみずしい意欲をもつ、優しく力強い「女らしい」存在となりうるであろう。
一九五〇年代以降、観念的な男性原理を支柱に据えてきた、戦闘的な思想者にして生活者であった吉本隆明も、八〇年代に入ると、己れの女性的な抒情的水脈の枯渇に苦しむようになる。
八〇年代の吉本の批評作品の内、今でも色あせない内実をもつものとして、私が最も高く評価するのは、繊細なアジア的・伝統的感性へのまなざしが光る西行論である。また、五〇年代以降の吉本の仕事の内、彼の秘められた女性的資質が時折光彩を放つのは、島尾敏雄論をはじめとする少数の作家論と実朝論や西行論などの日本古典論である。私は今でも、彼の仕事の内、初期詩に次いでは、この系列のものが一番気に入っている。
私は、かつて、さまざまな作家論を中心とした吉本の文芸批評作品の内に散見される珠玉のような洞察に心うたれ、己れの生活と表現の実践を通して、彼から学んだ数々の認識を再確認し、血肉化してきたようにおもう。
日本近代精神史への自分なりの探求を始める上で強烈な刺激を与えてくれた「日本のナショナリズム」を中心とする彼の一連の政治思想評論を別とすれば、私にとっての吉本隆明は、あくまでも文芸批評の大先達の一人であり、決して、「共同幻想論」や「心的現象論」を書いた(フーコーと並び称される)現代的な体系的哲学者の吉本ではなかった。
吉本隆明という表現者がもし存在しなかったならば、戦前以来アカデミズムやジャーナリズムを権威主義的に牛耳ってきた、学閥を中心とする文化サロンのエリート知識人たちによる知的な評価尺度の公認と独占のシステムは、打破されなかったかもしれない。
吉本という、在野の孤独で強靱な思想者にして生活者であった人物が独自の道を切り拓いたからこそ、在野精神をもつさまざまの屈強な自立した表現者・物書きが後に続くことができたのであり、私のような書き手もまた、己れの取り組むべき課題にめぐり会うことができているわけである。
私は、その恩恵に対する感謝の心を失ったことは決してない。
しかし、全体としての印象からすると、いわゆる戦後思想界の巨人としての吉本隆明の仕事に対しては、今では、痛ましさの印象をどうしても拭うことができないのである。
思想家として彼の果たすべき役割は終わった、と私は痛感せざるをえない。
彼は、〈戦後〉という近代化の最終局面に登場し、それを〈終焉〉にまで導いた偉大な指導者の一人だった。
私たちが、二十一世紀における〈脱近代〉への困難な道程を思想的に切り拓く上で、もしなにがしかのささやかな責務を果たさねばならぬとすれば、それは、錯誤や痛ましさをも含む彼の数々の表現者としてのたたかいの足跡を踏まえることによってのみ可能となるであろう。
吉本が、彼の大先達であった小林秀雄や太宰治や宮沢賢治や夏目漱石から数々の刺激と洞察と啓示を受け取ったように、私たちもまた、吉本隆明から学び取ったものを己れの生と表現の文脈の内に組み込み、あるいは血肉化することで継受し、さらに次世代の心ある孤独な表現者たちに伝えてゆかねばならない。
それが、吉本隆明の文学を真に未来に活かしてゆく道だと私は考える。
〈近代〉という時代の認識論的制約の枠組の内にあり、したがってもはやその思想的使命を果たし終えた吉本理論のカテゴリーにしがみつくことで、彼を神格化せんとするある種の吉本主義者たちの姿勢は、決してこの巨大な批評家の仕事を正しく受け継ぐことにはならないし、自立した表現者の姿とはほど遠いものであろう。
吉本隆明は、戦後史という運動を終局に導いた最大の知的リーダーの一人であり、ひいては、わが国における〈近代〉という歴史過程の最後を飾る思想的巨人にほかならなかった。
彼は、近代という悪しき観念的な時代の毒牙に対して、同じく観念的な身構えを取ることによって精一杯対峙してみせることで、痛ましくも自らの思想的なアキレス腱を露呈させ、そのことを通じて、逆説的に、私たちに近代の病の本体を黙示し、青年期において扼殺・封印してしまった幼少期以来の己れのみずみずしい身体史の累積と繊細な女性的資質のかけがえのない価値を逆照射することで、〈戦後〉という時代の何たるかを再確認させてくれたのである。
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三 中原中也
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《トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏かです/アンダースローされた灰が蒼ざめて/春の日の夕暮は静かです//吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい/馬嘶くか――嘶きもしまい/ただただ月の光のヌメランとするまゝに/従順なのは 春の日の夕暮か//ポトホトと野の中に伽藍は紅く/荷馬車の車輪 油を失ひ/私が歴史的現在に物を云へば/嘲る嘲る 空と山とが//瓦が一枚 はぐれました/これから春の日の夕暮は/無言ながら 前進します/自らの 静脈管の中へです》(「春の日の夕暮」、『山羊の歌』所収)
周知のこのとぼけた味のする難解な詩には、中原中也の方法意識、すなわち現実への対峙の姿勢が実に鮮明に映し出されている。
一方では、「アンダースローされた灰」が「蒼ざめ」るとか、「案山子」や「馬の嘶き」の欠落のイメージとか、「ポトホトと」紅く照らされた野の中の「伽藍」とか、「油」を失った「荷馬車の車輪」といったような言い回しを通して、大正末・昭和初年という独占資本主義の形成期における農村社会の荒廃したイメージがさりげなく匂わせられている。
他方では、その疲労感と喪失感の漂う地上的現実のよどんだ風景と対比される形で、静穏な春の夕暮のけだるい空白のイメージが淡々とうたわれているのである。
《ただただ月の光のヌメランとするまゝに/従順なのは 春の日の夕暮か》とか、《私が歴史的現在に物を云へば/嘲る嘲る 空と山とが》とか、《これから春の日の夕暮は/無言ながら 前進します/自らの 静脈管の中へです》といった言い回しには、一見意味性を解体させた、空虚さとの戯れのようにみえるこの詩作品の中に込められた、作者の並々ならぬ強靱な、時代への真向かい方が透視される。
彼は、一見何の変哲もない日常のささやかなひとこまに息づく暖かくゆったりとした弛みの時に、超歴史的な、日常的にして非日常的な〈自然〉の位相を見出すことで、維新以来の六十年に及ぶ性急な近代化の中で不条理な歴史的規定性を受けた大正末・昭和初年という時代の痩せ細った地上的現実に、ひっそりと対峙せんとしているのだ。
膨化した独占資本主義の渦中にある寄生地主制下の農村や都市下層社会に生きる大正・昭和の大衆の生活苦の実相というフィルターを通して見るなら、そこには、地上に這いつくばらせられた、貧困で寒々とした世界風景がひろがっているだけだ。その逃れようのない卑小な散文的地上的実相にアクセントを置く限り、中也のみつめたような風景は、他愛ない、つかの間の微温的な憩いや放心のひと時に過ぎない。
だが、逆に、そのささやかな弛みのひと時が象徴的に開示する永続的な〈自然〉の位相にまなざしのアクセントを置くことができるならば、〈近代〉という歴史的規定性を受けた現実なるものを後景に退かせ、ひいては、仮象のような、影絵のような存在へと希薄化させてゆくことも可能なのだ。
中原中也の生活者的な詩意識は、そのような方向性を暗示しているのである。
《幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました//幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました//幾時代かがありまして/今夜此処での一と殷盛り/今夜此処での一と殷盛り//サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ/見えるともないブランコだ//頭倒さに手を垂れて/汚れ木綿の屋蓋のもと/ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん//それの近くの白い灯が/安値いリボンと息を吐き//観客様はみな鰯/咽喉が鳴ります牡蠣殻と/ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん//屋外は真ッ闇 闇の闇/夜は劫々と更けまする/落下傘奴のノスタルヂアと/ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん》(「サーカス」、同前)
ここには、戦争と生活苦の激動に翻弄され続けた近代という時代の歴史的な規定性を、天災のようにやり過ごしながら、日常の空隙を通して立ち顕われる、闇の中での祝祭的な解放のひと時を享受する人々の生存感覚が、独特のけだるいリズムを伴った浮遊感・遊泳感となって表現されている。
中原中也の詩には、いつも名状しがたいけだるさが流れている。
輪郭のくっきりとした存在の織りなす生気溢れるダイナミズムとはおよそ隔たった、喪失感と疲労感の漂う、静かでゆったりとした優しい風景のひとこまがすくい取られる。
《燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに/一枝の花、桃色の花。//月光うけて失神し/庭の土面は附黒子(つけぼくろ)。//あゝこともなしこともなし/樹々よはにかみ立ちまはれ。//このすゞろなる物の音に/希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。//山虔(つつま)しき木工のみ、/夢の裡なる隊商のその足並もほのみゆれ。//窓の中にはさはやかの、おぼろかの/砂の色せる絹衣。//かびろき胸のピアノ鳴り/祖先はあらず、親も消ぬ。//埋みし犬の何処にか、/蕃紅花(さふらん)色に湧きいづる//春の夜や。》(「春の夜」、同前)
《天井に 朱きいろいで/戸の隙を 洩れ入る光、/鄙(ひな)びたる 軍楽の憶ひ/手にてなす なにごともなし。//小鳥らの うたはきこえず/空は今日 はなだ色らし、/倦んじてし 人のこころを/諫めする なにものもなし。//樹脂の香に 朝は悩まし/うしなひし さまざまのゆめ、/森並は 風に鳴るかな//ひろごりて たひらかの空、/土手づたひ きえてゆくかな/うつくしき さまざまの夢。》(「朝の歌」、同前)
「春の夜」では、生活のささやかな空白のひとこまを通して立ち顕われる超歴史的な自然意識は、「祖先」と「親」によって象徴される血族意識や、「希望」や「懺悔」という言い回しに表われる現世的な個人史の桎梏を離脱し、直線的で累積的な時間観念を解体させる方向に進んでいる。
また「朝の歌」では、さまざまな気遣いや心労や愛憎、現世的な夢や野心の挫折と幻滅、不自然な努力や倫理による意志の緊張といった諸々の人間的な我執や悪あがきを全て濾過し去った果てに浮上する、日常の虚ろで透明な瞬間が映し出されている。
はつらつとした生の躍動とはほど遠いが、懐かしく暖かい、心地良い疲労感をおぼえさせる穏やかなひと時である。
中原中也のこういう、地味で繊細でささやかな空白の時をひたすら純化してゆくならば、ついには、資本制近代によるアトム化の風圧がひとつの極相に達した大正末・昭和初年の痩せ細った散文的で酷薄な生活風景というものを完全に視界から追いやり、無化することも可能となる。
《毎晩々々、夜が更けると、近所の湯屋の/水汲む音がきこえます。/流された残り湯が湯気となつて立ち、/昔ながらの真つ黒い武蔵野の夜です。/おつとり霧も立罩めて/その上に月が明るみます、/と、犬の遠吠がします。//その頃です、僕が囲炉裏の前で、/あえかな夢をみますのは。/随分……今では損はれてはゐるものの/今でもやさしい心があつて、/こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、/感謝にみちて聴きいるのです、/感謝にみちて聴きいるのです。》(「更くる夜」、同前)
《なんにも訪ふことのない、/私の心は閑寂だ。//それは日曜日の渡り廊下、/――みんなは野原へ行つちやつた。//板は冷たい光沢をもち、/小鳥は庭に啼いてゐる。//締めの足りない水道の、/蛇口の滴は、つと光り!//土は薔薇色、空には雲雀/空はきれいな四月です。//なんにも訪ふことのない、/私の心は閑寂だ。》(「閑寂」、『在りし日の歌』所収)
《畳の上に、寝ころばう、/蠅はブンブン 唸つてる/畳ももはや 黄色くなつたと/今朝がた 誰かが云つてゐたつけ//それやこれやと とりとめもなく/僕の頭に記憶は浮かび/浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち/いつしか 僕は眠つてゐたのだ//覚めたのは 夕方ちかく/まだかなかなは 啼いてたけれど/樹々の梢は 陽を受けてたけど、/僕は庭木に 打水やつた//打水が、樹々の下枝の葉の尖に//光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた》(「残暑」、同前)
これらの詩で繊細にいとおしむようにすくい取られた、一見何の変哲もないささやかな空白のひと時が、たとえ逃がれようのない生活苦と徒労感の繰り返しに覆われた日常的な物語的持続の中に断続的に立ち顕われる、はかない一瞬の幻像にすぎぬように見えようとも、それは、まぎれもなく、一切の現世的な濁りと一切の価値や倫理の桎梏から解き放たれた異次元的風景の現出による魂の修復の営みにほかならぬのであり、ひいては、私たちの生の基底に連なるなにものかのありかを指し示すものなのだ。
中也がここで紡ぎ出してみせた、奥ゆきのある透明な静けさに包まれた極微の生活風景によって喚起される身体イメージは、いかなるナショナルな幻想にも、いかなる国家や社会や共同体の理念にも回収されることのない、個的な生命の基底に根ざしたものであり、時代のいかなる変遷・風雪にも廃墟感覚にも耐え得るような、つつましく誠実な強靱さを備えているのである。
2
しかしながら、中原中也の詩作品がはらむ課題は、このような、歴史的社会的規定性を解体させる、微分化された繊細な自然意識による魂の修復という対峙のあり方にとどまらない。
ひとりの生活者としてこの現世を生き抜こうとする時の、たとえようもない生き難さの実感を、どう処理してゆくべきか、という痛切な負荷を担わされざるを得なかった。
地上的散文的な生活苦の実相や生き難さの苦悩を吐き出し、あるいはその現世的桎梏を異化し、しばし離脱し得るような美の世界を夢見ることで強靱に生き抜くことのできる表現者には、縁の無いような難題に、中也はさらされていた。
彼は、芸術と実生活を二元的に使い分けることでこの世を乗り切ることのできるような、タフでストイックな生活者的肉体を備えてはいなかった。
混沌とした脂ぎった俗世を楽しみながらしたたかに切り抜け、その合間を縫って芸術的精進をするようなダンディストには、さらになれなかった。
さりとて、表現の世界に魂の一切の根拠を預け、芸術の鬼となって破滅型の生きざまを貫くようなタイプでもなかった。
したり顔のイヤな大人にもなれなかったし、甘ったれたガキにもなり切れなかった。
自他の生身の肉体というものを見捨てることのできない、デリケートで暖かく、傷つきやすい表現者だった。
思うようにはいかなかったが、きちんとした生活者として幸福な一生を送りたいという切なる願いを侮ることも踏みにじることも、ついにできなかった。
こういう詩人が、もし、不条理な生活の愚痴を吐き出し、反現世的な透明な自然美の追求にのめり込んだとしたら、到底まっとうな生活者としての充足など得られるはずもなく、自堕落で観念的なアダルト・チルドレンに終始するほかはなかったであろう。
彼が、ある種の汚れ無き幼児性を温存したまま、一人のまっとうな大人としてこの世を生き抜くには、現世の空隙を縫いながら透明な生活風景の位相を紡ぎ出すにとどまらず、総体としての現世そのもの、世界そのものにどう真向かうか、が問われなければならなかった。
ただし、単なる〈認識者〉としてではない。あくまで、生身の〈身体的存在〉としての生活者として、である。
《私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた/起きれば愁はしい 平常のおもひ/私は、悪い意志をもつてゆめみた……/(私は其処に安住したのでもないが、/其処を抜け出すことも叶はなかつた)/そして、夜が来ると私は思ふのだつた、/此の世は、海のやうなものであると。/私はすこししけてゐる宵の海をおもつた/其処を、やつれた顔の船頭は/おぼつかない手で漕ぎながら/獲物があるかあるまいことか/水の面を、にらめながらに過ぎてゆく》《昔 私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと//今私は恋愛詩を詠み/甲斐あることに思ふのだ//だがまだ今でもともすると/恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい//その心が間違つてゐるかゐないか知らないが/とにかくさういふ心が残つてをり//それは時々私をいらだて/とんだ希望を起させる//昔私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと//けれどもいまでは恋愛を/ゆめみるほかに能がない》《それが私の堕落かどうか/どうして私に知れようものか//腕にたるむだ私の怠惰/今日も日が照る 空は青いよ//ひよつとしたなら昔から/おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ//真面目な希望も その怠惰の中から/憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ//あゝ それにしてもそれにしても/ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!》《しかし此の世の善だの悪だの/容易に人間に分りはせぬ//人間に分らない無数の理由が/あれをもこれをも支配してゐるのだ//山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく/つぐむでゐれば愉しいだけだ//汽車からみえる 山も 草も/空も 川も みんなみんな//やがては全体の調和に溶けて/空に昇つて 虹となるだらうとおもふ……》《さてどうすれば利するだらうか、とか/どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと//要するに人を相手の思惑に/明けくれすぐす、世の人々よ、//僕はあなたがたの心も尤もと感じ/一生懸命郷に従つてもみたのだが//今日また自分に帰るのだ/ひつぱつたゴムを手離したやうに//さうしてこの怠惰の窗(まど)の中から/扇のかたちに食指をひろげ//青空を喫ふ 閑を嚥む/蛙さながら水に泛んで//夜は夜とて星をみる/あゝ 空の奥、空の奥。》《しかし またかうした僕の状態がつづき、/僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、/自分の生存をしんきくさく感じ、/ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。//そして理屈はいつでもはつきりしてゐるのに/気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。/それがばかげてゐるにしても、その二つつが/僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。//と、聞えてくる音楽には心惹かれ、/ちょつとは生き生きしもするのですが、/その時その二つつは僕の中に死んで、//あゝ 空の歌、海の歌、//僕は美の、核心を知つてゐるとおもふのですが/それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!》(「憔悴」、『山羊の歌』所収)
ここではまず、個人の認識や価値・倫理や意志の力の統御をはるかに超えた、無数の関係の連鎖、無数の因果の継起に翻弄される人間存在のあり方が押さえられている。
人生とは、大海の中に浮かぶ小舟のようなものであるという、個人のはからいを超えた、存在を司る大いなる不可知な力の脅威に対する無力感と諦念と、混沌とした存在の流れの端々からほの視える、透明で深々とした〈自然〉の位相への想いがうたわれている。
そして、その旋律の合間に、現世的世俗的な希望と労働と生活に熱意をもってあくせく生きることのできる世の普通の人々に対する、驚嘆とコンプレックスとある種の拭いがたい憧憬のおもいが、まっとうな生活者的肉体からどうしようもなく反り返ってしまう倦怠感の苦しみのうたを通して、切実でユーモラスな不協和音を奏でている。
この詩人は、問題の核心が、〈認識〉のあり方などによって処理できるレベルのものではないことに気づいている。
もしわれわれが、ニュートラルな〈認識者〉としての位置に己れの世界視線の究極の基盤を置き、そこから己れの生の意味をかろうじて健康な外面を保ったかたちで導き出そうとするならば、われわれは、己れの〈主体〉とは切り離された、不条理なカオスとしての〈客体〉=世界の非人間的な冷酷さにひそかに蒼ざめつつ平気を装い、ある種の空虚さをこらえながら、世界の限定された卑小な一部分に理知=知識の光を当てることで精神的ないし物理的な統御を試みるか、あるいは、不自然な社会的当為としてのヒューマニスティックな努力や集団的社会的な価値・目標を自らに課すほかはない。
幸か不幸か、そのようなニュートラルな世界視線に耐えられないような、繊細な自意識と傷の深さとぬくもりへの渇きを負わされ、生きる手ごたえを求めてやまぬ人間ならば、問題の核心が、主・客一体となった世界=存在の総体に対する〈身体性〉のあり方に帰着することがわかるはずである。
反現世的・非日常的な、透明で純一な〈自然〉への離脱の衝動と、現世的・地上的な生身の生活に息づく暖かい血の流れへの憧憬。
詩人中原中也の深奥の渇きは、その二極の間を揺れ動いていた。
彼の指向する世界視線は、その両者を〈止揚〉させるような魂のかたちにほかならなかった。
《理窟はいつでもはつきりしてゐるのに/気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯》であり、《それがばかげてゐるにしても、その二つつが/僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしか》なのだと語るとき、詩人は、非日常と日常、天上的なるものと地上的なるものの〈分裂〉の止揚への希求を言わんとしている。
《と、聞えてくる音楽には心惹かれ、/ちよつとは生き生きしもするのですが、/その時その二つつは僕の中に死んで、//あゝ 空の歌、海の歌、//僕は美の、核心を知つてゐるとおもふのですが》と続くフレーズで表現された「空の歌」や「海の歌」は、もはや、第五連で「怠惰の窗」の中から「扇のかたちに食指をひろげ」るようにして紡ぎ出された反現世的・天上的な〈自然〉のイメージではあるまい。
それは、反現世的・非日常的な〈自然〉への離脱の衝動と、異和や抵抗やあつれきに満ちた現世的な生身の地上的生への憧憬の、〈止揚〉のイメージの上に立ち顕われてくる、個的にして類的な、生きる手ごたえとぬくもりと解放感を兼ね備えた新たな生存感覚=身体感覚を指向した言葉なのではあるまいか。
第二連で、《昔 私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと//今私は恋愛詩を詠み/甲斐あることに思ふのだ》とか、《昔私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと//けれどもいまでは恋愛を/ゆめみるほかに能がない》という風に、「恋愛」という営みを己れの詩意識の前面に押し出し、また、「恋愛」という言葉に象徴される何ものかに己れの表現意識を追いつめていったのも、不可知なる存在である大いなるカオスとしての世界の営みに対して、主知主義的な対峙の仕方をとるのではなく、自我意識の殻を解体させた、主・客融合的な血の交流のイメージを紡ぎ出すことで真向かおうとするような、未知の身体性の地平を夢見ていたからではあるまいか。
なぜなら、「恋愛」という営みは、その純化された形態においては、現世的なさまざまな抵抗やあつれきを乗り越えて、未知なる生身の現実に己れの身体をアクティヴに賭ける、という主体性を必要とすると共に、他者とのエロス的な合体という、個的な殻を超えた反現世的な夢想へと、身を捨てて衝動的に邁進するような自己放棄の情熱を必要とするからである。
すなわち、「恋愛」とは、主体的に生きることが、そのまま客体の内に自己を滅却するような、血の交流によって支えられた主・客一体の境地を生き生きと象徴し得る営みにほかならないからである。
古来、恋愛が常に変わることなく文学・芸術の中心テーマであり続けてきたのも、ひとつには、このような本質があずかっていたからに相違ない。
しかし、もちろん、ここで問題としているのは、恋愛という営みの特殊性ではない。
あくまで「恋愛」によって最も鮮烈に象徴され得るような世界への身体的な真向かい方にある。
《風が立ち、浪が騒ぎ、/無限の前に腕を振る。//その間、小さな紅の花が見えはするが、/それもやがては潰れてしまふ。//風が立ち、浪が騒ぎ、/無限のまへに腕を振る。//もう永遠に帰らないことを思つて/酷白な嘆息するのも幾たびであらう……//私の青春はもはや堅い血管となり、/その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。//それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛へ、/去りゆく女が最後にくれる笑ひのやうに、//厳かで、ゆたかで、それでゐて侘しく/異様で、温かで、きらめいて胸に残る……//あゝ、胸に残る……//風が立ち、浪が騒ぎ、/無限のまへに腕を振る。》《これがどうならうと、あれがどうならうと、/そんなことはどうでもいいのだ。//これがどういふことであらうと、それがどふいうことであらうと、/そんなことはなほさらどうだつていいのだ。//人には自恃があればよい!/その余はすべてなるまゝだ……/自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、/ただそれだけが人の行ひを罪としない。//平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、/朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!》《私の聖母!/とにかく私は血を吐いた!……/おまへが情けをうけてくれないので、/とにかく私はまゐつてしまつた……//それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、/それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、/私がおまへを愛することがごく自然だつたので、/おまへも私を愛してゐたのだが……//おゝ! 私の聖母!/いまさらどうしやうもないことではあるが、/せめてこれだけ知るがいい――//ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、/そんなにたびたびあることでなく、/そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。》《せめて死の時には、/あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。/その時は白粧をつけてゐてはいや、/その時は白粧をつけてゐてはいや。//ただ静かにその胸を披いて、/私の眼に輻射しゐて下さい。/何にも考へてくれてはいや、/たとへ私のために考へてくれるのでもいや。//ただはららかにはららかに涙を含み、/あたたかく息づいてゐて下さい。/――もしも涙が流れてきたら、//いきなり私の上にうつ俯して、/それで私を殺してしまつてもいい。/すれば私は心地よく、うねうねの瞑土の径を昇りゆく。》(「盲目の秋」、『山羊の歌』所収)
ここでも作品「憔悴」と同様、個人のはからいをはるかに超越した存在のうねりに対する無力感と諦念がうたわれ、その不可知なる生の流れに対して、因果律を踏まえた主知主義的な対峙の仕方をとるのではなく、あくまでも、生身の身体性の次元を通して真向かおうとする姿勢がうかがわれる。
作者は、己れを己れたらしめている究極の存在の根ともいうべきものを、「自恃」という言葉で表わしているようにみえる。
それが、個としての人間存在に宿りながら同時に個を超えた、主体的にして衝動的な、ある種の〈身体性〉の次元を指し示すものであることは、続く《平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、/朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!》というフレーズによって美事に表現されている。
「藁束のやうにしむみりと」という言い回しには、暖かく素朴で、哀歓のこもった生活史のしっとりとした手ざわりが感じられる。
その個人史のほの暗さと疲労感を引きずりながらも、日々のみずみずしく奥ゆきのある風景を友としながら、血の通った生気ある暮らしを送りたい。「平気で、陽気で」「朝霧を煮釜に填めて、跳起き」るというイメージには、そんな祈りが込められているようにおもえる。
この即自的な身体性のイメージは、さらに、破局に終わった長谷川泰子との恋愛体験をもとに象徴的に紡ぎ出された、刹那的で官能的な、深々とした哀切なふれ合いのかたちと微妙な不協和音を奏でながら、シンクロナイズさせられている。
3
詩集『山羊の歌』を締めくくる「いのちの声」は、以上のような中也の、個的にして類的な生存感覚に支えられた生活思想の真髄を、回らぬ舌で総括してみせた力作である。
《僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。/あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。/僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。/僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。//僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。/僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。/恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れてゐる。/そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。//しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。/それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。/しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。/それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆分つたためしはない。//時に自分を揶揄ふやうに、僕は自分に訊いてみるのだ。/それは女か? 甘いものか? それは栄誉か?/すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!/それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?》《否何れとさへそれはいふことの出来ぬもの!/手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、/説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる/それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!//人は皆、知ると知らぬに拘らず、このことを希望してをり、/勝敗に心覚き程は知るによしないものであれ、/それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み/誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!//併し幸福といふものが、このやうに無私の境のものであり、/かの慧敏なる商人の、称して阿呆といふでもあらう底のものとすれば、/めしをくはねば生きてゆかれぬ現身の世は、/不公平なものであるよといはねばならぬ。//だが、それが此の世といふものなんで、/其処に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、/それに因て我等自身も構成されたる原理であれば、/然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。》《されば要は、熱情の問題である。/汝、心の底より立腹せば/怒れよ!//さあれ、怒ることこそ/汝が最後なる目標の前にであれ、/この言ゆめゆめおろそかにする勿れ。//そは、熱情はひととき持続し、やがて熄むなるに、/その社会的効果は存続し、/汝が次なる行為への転調の障げとなるなれば。》《ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。》(「いのちの声」)
バッハの音楽によって象徴される生への身構えが、理知的でスタティックで自己完結的な観念体系によるニュートラルな世界認識とストイックな倫理の構築を示すものであり、モーツァルトのそれが、脱構築的で反現世的な軽快さの流れを不断に創出せんとする営みであるとするなら、中也がここで夢み、提示せんとしたまなざしは、そのいずれでもない、未知の身体性の地平だといってよい。
私たちのこれまでの考察を踏まえるなら、それは、地上的にして天上的、日常的にして非日常的、個的にして類的な、主・客一体となった、主体的にして没我的な身体性の止揚のイマージュである。
「それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!」「それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み/誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!」
中也が回らぬ舌で懸命に言わんとしているのは、異和と抵抗と理不尽なあつれきを抱え込みながらも、蒼ざめた神経症的な自意識を放棄し、神秘で不可知なる存在の根源と身体的に一体化したところに顕われてくる、生命的で即自的な流れとしての、暖かく透明な生存感覚のことである。
「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ」という締めくくりのフレーズが示唆しているように、それは、カオスとあつれきを乗り越えんとする熱情を内包しながらも、究極的には深々とした宇宙的な静寂へと収斂し得るような、極小にして無限をはらむ独特の境位でもある。
私たちがこれまで使ってきた言葉で言い換えるなら、身体というささやかで個的な場を通して育まれ、芽吹き、花開く、生命的なコスモスとしての〈闇〉の感覚ということになる。それは、前近代的アジア的な生存感覚にも深く通ずるものである。
例えば、古代中国の「易」の思想から始まり、老荘哲学から朱子学、さらには陽明学へと継受されていった「太極」の思想というものがある。
万物の構成要素である陰陽の二気を生み出し、その二気の流れに宿りながら森羅万象を司る、虚空のごとき存在としての宇宙生命のことである。
古代以来、中国哲学において追求されてきた〈解脱〉への道は、この「太極」との合体の境地にほかならなかった。
共同体的生存とはおよそ縁のない、孤独で繊細なボヘミアンであった中原中也の夢みた、神秘で不可知なる存在の根源との身体的な一体化のイマージュには、このようなアジア的なコスミックな生存感覚の匂いが感じられるのである。
4
明治から昭和初期に至る戦前日本の近代精神史は、常に、鏡の表と裏のように、二つの相反する方向性へと分裂するジレンマを抱え込んでいた。
ひとつは、存在の本質を、互いに分裂・葛藤するアトム的な実体の寄せ集まりとみなし、生の本質を、存在からの疎外とその疎外への打ち消しのたたかいの連鎖とみなす西欧的なアトミズム的世界観であり、もうひとつは、存在の本質を、メタフィジカルで宇宙的な造化の意志のあらわれと解し、価値の源泉を、万物に内在しながら超越する生命的で神秘的な力のあらわれに求め、一切の対立を全体的な調和の相の内に解消し、安心立命の究極の根拠を、存在の本源たる造化の働きそのものとの合体の境地に置こうとする前近代的・東洋的な世界観である。
戦前に活躍した第一級の優れた芸術家たちは、つねに、近代が抱え込んできたこの二極分裂をめぐるアポリアを、己れ自身の実存を通して表現上の課題として引き受けてきた。
文学の世界では、例えば明治期には、北村透谷・二葉亭四迷・国木田独歩・夏目漱石らがこの課題との取り組みにおいて、最も深みのある考察を展開し得たし、大正から昭和初期にかけては、宮沢賢治・太宰治・横光利一・川端康成・小林秀雄らはもとより、萩原朔太郎・金子光晴・中原中也・伊東静雄のような現代詩人たちが、深度の差はあれ、独自の切り口を表現してみせている。
文学のジャンルに限らず、戦前の第一級の力量を持つ表現者たちには、この欧米型近代とアジア的な世界観のどちらか一方を切り捨てて他方を択ぶという安直さがなかった。
常に、その両者の鋭い葛藤に身をさらしていた。
それが、戦後の知識人・芸術家たちとの大きな違いである。
ちなみに絵画の世界で言えば、戦前の日本画の第一級の力作には、存在の調和と静謐さを追求するアジア的なまなざしの背後に、常に、欧米型近代の強いてくるアトム化の隠微な風圧に対する息苦しい緊張感の匂いが感取される。
特に、資本制の膨張による共同体的コスモスの解体がひとつの頂点に達し、天上的でヴァーチャルな幻想性と不条理な地上的リアリズムへの〈分裂〉の苦しみに苛まれた昭和初年には、例えば、徳岡神泉・梥本一洋・土田麦僊・小野竹喬らのような京都画壇の巨星たちによって、近代の強いてくる廃墟感覚に厳しく対峙しながら、透明感のある深々とした静けさや、生命的な繊細で柔らかな存在の息づかい、濃密でしっとりとした闇のコスモスの気配を比類ない鮮やかさで描破し切った恐るべき作品群が生み出されている。
しかし、戦後の、特に高度経済成長期以後の日本画の世界では、このような澄み切った緊張感を体現した作品はほとんど見受けられなくなってしまう。
それは、完成した欧米型市民社会と第三次産業中心の膨化した消費社会を背景に、砂粒のようなアトミックな生存感覚が日本人全体を覆っていったことの、いわば当然の帰結というべきであった。
戦前の昭和初期の日本は、いまだ人口の五十パーセント近くが農民であり、独占資本主義の膨張による共同体的紐帯の解体が一つの頂点に達していたとはいえ、日本人の身体感覚の中には、幼児期以来の前近代的土俗的な共同体的生存感覚の記憶が根強く残存していた。風景や時間の流れ方にも、牧歌の余地が残されていた。
そのノスタルジーは、一方でファシズムの温床ともなったが、他方では、近代の病理に対する痛覚を強烈なものにし、心ある繊細な表現者に、病の本質への内省力とそれに対峙し得るアジア的な世界観・身体感への洞察力を喚起し得る貴重な契機を与える要因ともなったのである。
しかし、敗戦を日本人は、近代に対する前近代の敗北とみなし、戦後のアメリカ主導の近代化による物質的繁栄と前近代的土俗的遺制(アジア的共同体的遺制)の解体・消滅を、基本的には、〈解放〉の過程としてのみ享受してきた。
近代精神の歴史的展開の象徴的反映ともいえる現代文学や現代美術の世界においては、ひたすら、伝統的・定型的価値の解体が推し進められ、それは最終的に、一九八〇年代から九〇年代にかけて、ポスト・モダンの〈脱構築〉の嵐による、一切の生命的価値を解体させたニヒリズムの廃墟へと行き着くことになる。
すなわち、存在の奥ゆきとしての生命的な〈闇〉を喪失した、空虚な偽りの〈光〉だらけのエロス的な差異との戯れと、それとは裏腹の、断片化した砂粒のようなアトム的個人の無意識に内向するグロテスクな精神病理の歪んだ闇の表現へと収斂してゆくのである。
文学にせよ絵画にせよ、その他のあらゆる芸術領域にせよ、二十世紀後半の戦後史においては、かつて戦前の第一級の表現者たちが抱え込まざるを得なかった、欧米近代的なアトミズム的世界観とアジア的前近代的なコスモス的世界観の分裂・葛藤のアポリアが、真に生産的な形で、すなわち〈止揚〉の方向性に向けて担われてきたことは、ほとんどなかったといってよい。
しかしだからこそ、今や、近代という歴史的運動の極北と終焉に位置する私たちは、近代化の病理がひとつの極相に達する昭和初期に生きた優れた表現者たちの作品を、戦後に活躍したほとんど全ての芸術家たちの作品よりも、はるかに新鮮で生々しい手ざわりをもつものとして改めて受容することができるのである。
中原中也の詩もまた、そのような現在的な鮮度をもった作品として読み解かれねばならない。
中也の詩のアジア的コスモス的な側面における貴重な特異性は、何ものをも所有しない、卑小な無一物としての個の生存空間から、これまた、何の変哲もない卑近な日常の空白のひとこまに向けて身体をひらいてゆく時の独特の透明感、静けさにある。
《僕にはもはや何もないのだ/僕は空手空拳だ/おまけにそれを嘆きもしない/僕はいよいよの無一物だ//それにしても今日は好いお天気で/さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる/――欧羅巴(ヨーロッパ)は戦争を起すのか起さないのか/誰がそんなこと分るものか//今日はほんとに好いお天気で/空の青も涙にうるんでゐる/ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて/子供等は先刻昇天した//もはや地上には日向ぼつこをしてゐる/月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない/デーデー屋さんの叩く鼓の音が/明るい廃墟を唯独りで讃美し廻つてゐる//あゝ、誰か来て僕を助けて呉れ/ヂオゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが/けふびは雀も啼いてはをらぬ/地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡い!//――さるにても田舎のお嬢さんは何処に去つたか/その紫の押花はもうにじまないのか/草の上には陽は照らぬのか/昇天の幻想だにもはやないのか?//僕は何を云つてゐるのか/如何なる錯乱に掠められてゐるのか/蝶々はどつちへとんでいつたか/今は春でなくて、秋であつたか//ではあゝ、濃いシロップでも飲まう/冷たくして、太いストローで飲まう/とろとろと、脇見もしないで飲まう/何にも、何にも、求めまい!……》(「秋日狂乱」、『在りし日の歌』所収)
注意深く読んでみれば明らかだが、ここで一分の隙もなく描かれている、何の存在の奥ゆきも陰翳も無い、一切の抒情性というものの枯れ果てた、明るく空虚な地上に這いつくばらせられたようなひびわれた軽さの、なんと私たちの〈現在〉に似ていることか。
作者は、この廃墟感覚に、何も考えず、何も求めず、ひたすら「シロップを飲む」という、卑小でありふれた空白のひと時のイメージを対置させる。
一切の意味性と価値を解体させる日常風景のひとこまの中に、いかなる社会的・イデオロギー的・倫理的・観念的な意味づけの文脈にも回収されることのない、すなわち他律的な一切の物語性というものを拒絶した、いわば意味性を解体させた意味性ともいうべき極微の生存感覚の位相を求めようとしているのである。
だが、それだけならば、現在の私たちにとっては、もはや、八〇年代から九〇年代にかけてポスト・モダン系の表現者たちによって使い古された陳腐な文学的テクニックであり、まなざしであるにすぎない。
中原中也の詩作品にあらわれたこの種の目線が、今もって新鮮な思想的意義をもち得るのは、この卑近でありふれた空白のひとこまが、そのまま、繊細で奥ゆきのある、透明で深々とした静けさのコスモスへと接続し、ひろがってゆくからである。
日常的にして非日常的な、地上的にして天上的な、限りなく透明でありながら不思議なぬくもりをおぼえさせる、極小にして無限のひろがりを備えた独特の時空。
それが、この詩人のスケッチするささやかな空白の風景を点綴していく時に立ち顕われるイマージュなのである。
このイマージュは、繰り返し述べてきたように、ナショナリズムをはじめとするいかなる国家理念にも、社会や共同体の理念にも、いかなる観念的・倫理的システムにも回収されることのない、生身の個人の生の基層に根を下ろしている。そこが、他のあらゆる四季派の詩人たちと中也の決定的な相違点であるといっていい。
そしてそれゆえに、この詩人の身体イマージュは、〈脱近代〉へと向かう二十一世紀の私たちの生活思想の課題に掛け値なしに連結し得るだけの内実を備えている。
なぜなら、近代の終焉に位置する私たちの文明の課題は、個々人の直面する魂の変容をめぐるアポリア、すなわち、人々の世界視線の根源的な転換とその具現化としての身体性の転生のあり方のいかんに帰着するのであり、決して、総体としての「あるべき社会」のモデル作りにあるのでもなければ、社会の構造改革にあるわけでもないからである。
そういう大情況的な発想の破産宣告こそ、二十世紀という政治の狂気と観念的な大言壮語の時代をくぐり抜けた私たちが測り知れぬ代償を支払って学び取ることのできた、かけがえのない英知なのではあるまいか。
幸せになるために日々の生活をくぐり抜ける中で、個々人のまなざしと身体のあり方が深く根底的に変容を遂げること。
真の構造改革も、国家の脱皮・変容も、無数の人々のそのような営みの集積の上にしかあり得ないし、そのためには、私たちの文明は、なお数十年の長きにわたる〈浄化〉の歳月を必要とするであろう。
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二 金子光晴
1
大正五年(一九一六)、数え歳二十二の時に書かれた金子光晴の初期詩篇に、「反対」とか「おこたりの歌」という、この詩人の面目躍如たる作品がある。
《僕は、少年の頃/学校に反対だった。/僕は、いままた/働くことに反対だ。//僕は第一、健康とか/正義とかが大嫌いなのだ。/健康で、正しいほど/人間を無情にするものはない。//むろん、やまと魂は反対だ。/義理人情もへどがでる。/いつの政府にも反対であり/文壇画壇にも尻をむけている。//なにしに生れてきたと問われれば/躊躇なく答えよう、反対しにと。/僕は、東にいるときは/西にゆきたいとおもい、//きものは左前、靴は右左。/袴はうしろ前、馬は尻をむいて乗る。/人のいやがるものこそ、僕の好物。/とりわけ嫌いは、気の揃うということだ。//僕は信じる。反対こそ人生で/唯一の立派なことだと、/反対こそ、生きていることだ。/反対こそ、じぶんをつかんでることだ。》(「反対」)
《おこたりは/白い錆、/音もなく/ふりつもる塵。//血も凍り/髄もしびれて/われはただ、人に/忘られてあり。//くされたる/乳のにおいと/すり硝子/ねむる陽ざしと。//無窮から/無窮につづく、/ながき日の/きょうのおこたり。//わがいのち/ついになすなく/おこたりに/はてなばはてよ。//争わず/ものほしがらず/右の足/左にもやらず//おこたるは/うつくしきかな。/おこたるは/いさぎよきかな》(「おこたりの歌」)
ここには、ある固定した生命の型、すなわち、ある特定の社会や集団を支配する規範や価値意識、一定方向に整序づけられた人生とか、選択的に固定された個人の価値観といったものを一掃し、直線的で累積的な時間観念の呪縛を解体して、〈無一物〉の裸形の生による自在な躍動の連鎖に生きるよすがを還元しようとする、この詩人の資質が直截にスケッチされている。
一見ひどく素朴で簡明にみえる作品なのに、その実、己れの資質の本質に対する、何一つ無駄の無い的確な認識力と、「白い錆」「音もなくふりつもる塵」「血も凍り髄もしびれて」「くされたる乳のにおいとすり硝子」といったような〈腐食〉と〈滅び〉の匂いの中に、形あるものを超えて恒常的に息づく、不羈奔放でひそやかな生命の曲線が完璧に表現されているのである。
《どこへいっても、石よ。/君がころがってない所はない。/青い扁豆、丸い砂礫。/どれも、初対面ではなさそうな。//土ぼこりで白い雑草の根方、/電柱や、道標の周りに、垣添いに、/車輌に砕かれ、荷馬の蹄にはじかれ、/靴底にふまれ、下駄にかっとばされ、//だが、誰もこころに止めないのだ。/君を邪険にあつかったこと、君がいることさえも。/たまさか、君を拾いあげるものがあっても、/それは、気まぐれに遠くへ投げるためだ。//君のようなもののことを、支那では、/黎民とよび、黔首と名づけた。/石よ。君は、黙々として、/世紀から世紀へ、なにを待っている?//君がみているのは、どっちの方角だ?/石は答えない。だが、私は知っている。/この地上からがらくたいっさいが亡びた一番あとまで、/のこっているのが君だということを。》(「石」・『大腐爛頌』所収)
こういう作品を、東洋的アナーキズムなどという政治づいた言葉で規定してはなるまい。
ここで徹底的に拒絶されているのは、ありとあらゆる世俗的・制度的・社会的な価値体系にとどまらない。個人としての人間を取り囲み、翻弄する一切の境遇と運命の不条理のいわれのない悪意と力に対する、存在の根源から発せられる獰猛な憤りと不屈の意志のかたちが、あらゆる贅肉を削ぎ落とした「石」という純粋でシンプルな表象に結晶化されているのだ。
金子光晴は、この「石」のイマージュに無名の大衆の生きざまにおける存在の究極の〈核〉のようなものを重ね合わせ、それをわれ・人共に分かち合うことの中に、何ものにもとらわれない、己れの孤独でまじりっ気のない実存を通じての生の〈連帯〉の形を幻視してみせている。
しかし、この詩人が一切の価値規範や生への我執を超えて、闊達自在な生命の曲線を紡ぎ出そうとするとき、それは、無常観をベースとするはかなさの美学や枯淡の境地に立つ東洋的隠者の風貌とは全く異質な匂いを発散する。
《世に地獄よりも怖ろしい/きっかいなものは、あの医書。/解体と、病毒の図解こそ、/わが身がつつむ嫌悪のみなかみ。//ああ、あのおぞましい懐胎図。だが、/心ひそかに一人の女を恋いそめた日から/畏れ、いとうた人間のからだが、/実用の機関から、仄々と花咲きくゆり、//この口は、貪食の底抜穴ではなく、接吻のためにあり、/この眼は商品をみわけるためでなく、君を迎える東道の炬火。/この鼻は、いのちのふいごではなくて、/そこはかとただよう香りに誘われるためにあり、//この手はつかみとるやっとこではなく/君をかい抱くため、また、この心は、/損益や、真偽を思量するためではなく、そのまま/君にあずけるためにあると知った。》(「五体」・『大腐爛頌』所収)
私は、この作品を読み返すたびに、胸がいっぱいになる。
一切の存在の神秘を扼殺し、人間を無意味で酷薄な地上的・物質的メカニズムの内に解消せんとする、〈近代〉という呪われたる時代において、私たちがいかなる究極の〈敵〉に直面し、闘い抜かねばならないか。この詩人は、それを知り抜いていた。
あらゆる物質主義的な残忍な目線をひるまずに受け止め、それを徹底的に解体させ、匂い立つようなみずみずしい生命的な身体的イマージュで塗り変えてゆくこの力わざはどうだ。
しかも、この生命的な身体性は、あらゆる有為転変、無常なるもの、歳月がもたらす一切の腐食と風化の宿命という、存在の足枷を超えて、恒常的に息づいてゆく。
「すべて、腐爛らないものはない!」という鮮烈な言葉で始まる長詩「大腐爛頌」には、あらゆるニヒリズムの沼地をくぐり抜け、濾過し去った彼方に、メタフィジカルな生命の奔流を幻視し、大河のようにうたい上げようとする、このケタはずれのスケールをもった放浪詩人の凄みがいかんなく表現されている。朽ち果ててゆく森羅万象の生臭くリアルな諸相の中に、刹那にして永遠の美を燃え上がらせんとする捨て身の覚悟に、私たちは圧倒されずにはいられない。
《ものの腐ってゆくにおいはなつかしい。/どこやら、強い酒のようだ。/私の肺は、錆びた色の/朽葉のにおいが染みつき、/私の心は、透明な空にかかって、青い。/だが、私の足もとだけは、危うげで、/一本の白樺の杖にすがらねばならぬ。//くれがた、/たった一人で、自分の部屋にかえって耳をすませると、/静寂が無数の輪を送り出し、/一つの言葉となって、ささやく。/「すべて、くさらないものはない!」//星かげ一つないくらいま夜なかに、/ねられないままに起き出し、冷えきった囲炉裏に、そだをくべる。/螢光の焔の舌に照されて、/私のさしかざす掌。/ばらいろに透く指の股、/その血の赤さも、いつかは黒くさびつき、/壁におどる私のおどけた頭の影。/そのかたちも、いまのうちなのだ。//私の書物。愛読して、/胸おどらせた傑作も、/紙から活字が、ばらばらにくずれ散るときがくる。/窓に弾いてゆく霰。明日のしののめ。/わが貴い時も、友情の交りも、/すべてみな、一瞬に明滅する焔。燃えさかっては灰になってゆくもの。/去歳の落葉。朽ちて重なる形骸。//ああ、しかし、こころ怯れ、虚しさのためにむかしの賢人、見者たちを真似て、/人生を、最後の用意のために味気なく費すのは馬鹿気た話だ!/むしろ、この大腐爛のなかを、こころの住家として、/虫どもの友となり、愚かな今日を、昨日のように、また明日も、/よろこび迎え、かなしみ送りたいものだ。》(「大腐爛頌」より)
死の恐怖に蒼ざめ、立ちすくみ、そこから脱け出そうとワラにもすがるように他者や物や諸々の観念や美にすがり、我執と貪欲さの奴隷と化してもがき抜くという、人間の哀れな業苦の宿命を透視し、その狂気を逆手にとって転倒することで、刹那の中に息づく歓喜と哀惜の歌を全身的に燃え上がらせ、かつ、無常なるもののすえた匂いに「なつかしさ」をおぼえつつ、まなざしはあくまでも、「透明な空」にかかって「青い」のである。
正直にいえば、私は、腐食の中にむせかえるような不滅の美を幻視しようとするこの詩人の、フィジカルな生理をむき出しにした酷薄なエロス性に、強烈な異和感をおぼえずにはいられない。
「幽界の屍は、地の轟音をきき、/うす皮を貫いて虫は這いあるき、/やがて、肋骨の橋桁のしたに、/臓腑を食いあらした一斗の蛆は、/激流となって、ゆきつ戻りつする」とか、自分の恋人がそんなふうに亡びても「だが、私はそんなことではへこたれない。/私にとって、腐臭も、血泥も、膿汁も、/あの人を愛着するはじめから/計算のなかに入っているのだ」とうたい上げ、「散る葩を追って/むかしの姿を求めて、/私は、この爪を血だらけにして、墓土を掘る。/なかば朽ち、骨のあらわれたあの人を、/もう一度、この胸にかい抱こうと」と凄んでみせるのに接する時、この詩人の雄々しい醒めた覚悟性にある種の敬意をおぼえつつも、そのフィジカルで自虐的な生理の匂いには、嘔吐のようなおもいを抱かずにはいられないのである。
ここには、日本の近世農耕社会以降の風土的な伝統の中に息づいてきた、あるいは、平安貴族文学以来の花鳥風月の美意識の中で脈々と受け継がれてきた、無常観に根ざした優しい繊細な存在へのまなざし、植物的で親和的な生存感覚というものが全くみとめられない。
この詩人は、われわれ日本人にとって、あまりにも異邦人的であり、乾きすぎているのだ。
だがそのぬぐいがたい異和感を前提とした上で、彼が次のようにこの詩をしめくくる時、やはり、深く胸をうつものがあることも否めないのである。
《兀々とした岩石も、/風雨にさらされて、亀裂し、ぼろぼろになり、/風景と、顔は痕も止めず、/いっさいは、黄ばみ、萎れ、/ちぢくれ、皺だち、よれよれになり、/または、崩壊し、溶け、にごった泡をふき出し、/毒素を発散し、風に散らされ、/遂に、なにものも完全ではいないのだ。/いかなる血統も純粋を保つことができず、/いかなる美も陳腐となり、/頽破し、精神を失い、おもてばかりを塗り立てて、むなしい残骸を彩る。/思想も、自由も、モラルも、愛も、/すべて、老いざるものはなく、/また、腐爛し、朽ちはててゆかないものはない。//おお。日夜の大腐爛よ。//私が目をふさぐと、腐爛の宇宙は、/大揚子江が西から東にみなぎるように/私達と一緒にながれる腐爛の群の方へ、/轟音をつくってたぎり立ち、/目をひらけば、光洽く、目もくらみ、/生命の大氾濫となって、/戦いの旌旗のように、天にはためくのだ!》
一切の理想も、イデオロギーも、近代的及び前近代的な一切の共同的価値体系も、すべて懐疑と幻滅の波に洗われて解体し尽くされ、ニヒリズムの底無し沼をくぐり抜けた者のみがもちうる、そしてそのニヒリズムに全身を蝕まれながらも尚かつ得体の知れない原始的ともいうべき獰猛な野性の血をもち合わせ、愛情ゆたかな人々の下で幼少期にめいっぱい手足を伸ばしながら存分に暴れ回ることを許された人間のみがもちうるスケールの大きさが、ここには息づいている。
詩人金子光晴の資質ともいうべき、およそ徹底した脱社会性と、純粋な孤独の深さと表裏一体となった宇宙的な生命的律動は、原初の魂の傷の深さと存在との暖かい血の交流や生命的交感の累積をベースとして醸成されたものに違いあるまいと私は考える。
この詩人は、産業革命期と資本制の急激な成長期であった日清・日露戦争間の明治三十年代に幼少期をすごし、維新以来の四十年にもわたる性急な近代化によって、わが国の前近代的な共同体社会が隠微なアトム化の風圧を受けてその紐帯を蝕まれ、すえた匂いを漂わせはじめた日露戦後の明治四十年代から大正期にかけて思春期・青年期を迎えるという成長過程を送っている。
いわば、資本制近代による最初の強烈な〈価値解体〉の荒波をまともにこうむりつつも、なお、江戸期以来の地縁・血縁的な共同体的風土性の暖かい恩恵に守られて育つという、なんとも不安定でアンビヴァレントな〈均衡〉のただ中に置かれた世代の人間なのである。
金子光晴の表現者的資質の本質をなす、幻滅と喪失に彩られた脱社会的な〈孤〉としての陰翳の深さと〈類〉的な身体性のみずみずしい生命的なひろがりの繊細な均衡とダイナミズムは、明治中期までわが国の前近代的な共同体社会の風土の中に色濃く残存しえていたコスモスとしての生命的な〈闇〉の気配と、明治末年から大正期にかけて一気に進行した資本制の膨張と浸透によるアトム化の風圧によってもたらされた〈闇の喪失〉の傷の、劇的な落差を背景にもっているようにおもわれる。
近代化がもたらす〈闇の喪失〉とは、前近代以来、人々が伝統的な生活様式の中で形を変えながらも温存しえてきた不可知で神秘な存在の奥ゆきとふくらみへの感受性を削り落とし、この世界を、科学と合理主義による観念的で薄っぺらな偽りの〈光〉の下に包摂し、統御せんとする思い上がった人間中心主義的な姿勢、すなわち、客観化された対象世界を、偶然と必然によるメカニックな合理的運動に解消せんとするニュートラルなまなざしによって産み出された干からびた酷薄な世界風景のことにほかならない。
それはまた、人間を、完全に「社会化」され「制度化」された存在へと卑小化し、飼いならそうとする強制力の浸透とパラレルな関係にある。
恣意的で断片的な欲望と合理的な計算と社会・制度による評価や序列のシステムの外側に、人としての固有のアイデンティティーを作らせまいとする眼に視えない隠微な権力が広く深く大衆を包み込んでいくのが、〈近代〉という時代なのである。
金子光晴の徹底した脱社会的な〈孤〉のまなざしは、このような近代化による魂への強制に対する不屈の抵抗の姿勢が生み出したものとみなすことができる。
そして、その〈孤〉のまなざしの背景をなし、それと相補的な関係にある〈類〉的な身体性のみずみずしさは、人間の魂を散文的で不条理な地上的現実に這いつくばらせようとする、死の恐怖に由来した〈社会〉という俗悪でちっぽけな観念的装置を蹴とばして、近代人が忘却し去った生命的な〈闇〉のコスモスを奪回せんとする誇りたかい力わざのあらわれにほかならなかった。
それが、わが国の近代精神史にあっては空前絶後ともいうべき、不羈奔放な、不敵な安定感をもった異形の単独者金子光晴という詩人であった。
2
この詩人の思想的な強靱さが、いかんなくその面目を発揮するのは、いうまでもなく、昭和十一年(一九三六)以降のファシズムの確立期・戦中期である。
象徴的手法の自在な駆使によって検閲の目をくらまし、命がけの思想的抵抗をくりひろげた金子光晴の反体制詩は、日中全面戦争開始の昭和十二年に出版された詩集『鮫』に集約され、やがて、昭和十九年の山中湖畔疎開の時期に集中的に書かれた『落下傘』『蛾』所収の未発表詩に結実していく。
金子の日本ファシズム批判の特質において、まず注目すべきは、ニーチェ的な視座による画一化された大衆社会・俗衆への毒々しい嘲笑のまなざしである。
《そのいきの臭えこと。/くちからむんと蒸れる。//そのせなかがぬれて、はか穴のふちのようにぬらぬらしてること。/虚無をおぼえるほどいやらしい、/おお、憂愁よ。//そのからだの土嚢のような/ずずぐろいおもさ。かったるさ。//いん気な弾力/かなしいゴム//そのこころのおもいあがってること。/凡庸なこと。/(中略)/鼻先があおくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、/おいらは反対の方角をおもっていた。//やつらがむらがる雲のように横行し/もみあう街が、おいらには、/ふるぼけた映画でみる/アラスカのように淋しかった。》
《そいつら。俗衆というやつら。//ヴォルテールを国外に追い、フーゴー・グロチウスを獄にたたきこんだのは、/やつらなのだ。/バタビヤから、リスボンまで、地球を、芥垢と、饒舌で/かきまわしているのもやつらなのだ。//嚔をするやつ。髯のあいだから歯くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互いに夫婦だ。権妻だ。やつらの根性まで相続ぐ忰どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるいは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあいの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるようにみえた。//おしながされた海に、霙のような陽がふり濺いだ。/やつらのみあげるそらの無限にそうていつも、金網があった。/(中略)/のべつにおじぎをしたり、ひれとひれとをすりあわせ、どうたいを樽のようにころがしたり、そのいやらしさ、空虚しさばっかりで雑鬧しながらやつらは、みるまに放尿の泡で、海水をにごしていった。/たがいの体温でぬくめあう、零落のむれをはなれる寒さをいとうて、やつらはいたわりあうめつきをもとめ、かぼそい声でよびかわした。》
《おお、やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうえをしずかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにいた。/みだりがましい尾をひらいてよちよちと、/やつらは氷上を匐いまわり、/……文学などを語りあった。//うらがなしい暮色よ。/凍傷にただれた落日の掛軸よ!//だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝礼している奴らの群衆のなかで、/侮蔑しきったそぶりで、/ただひとり、/反対をむいてすましてるやつ。/おいら。/おっとせいのきらいなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/ただ/「むこうむきになってる/おっとせい」》(「おっとせい」より、『鮫』所収)
ここには、地球を資本主義の世界市場へと一元的に組み込もうとする欧米や日本の帝国主義支配によって支えられた近代市民社会に生きる制度化され社会化され切った「畜群」(ニーチェ)としての俗衆への批判と共に、日本ファシズムを支えた、独特の擬似共同体的なぬくもり・もたれあい・集団的画一的規制と、〈無〉としての自然へと滅私的に回帰せんとする陰鬱なアジア的ニヒリズムへの嫌悪が、たたきつけるように吐き出されている。
とりわけ「はか穴のふちのようにぬらぬらし」た背中とか、「土嚢のような」「ずずぐろいおもさ」「かったるさ」をもった体とか、「いん気な弾力」「かなしいゴム」といったような言い回しには、地に足の着いたひとりの独自な生活者としての生気ある弾力を失い、〈個〉としての輪郭を消し去って、天皇制共同体国家という、幻想的な子宮のようなヴァーチャルな前近代的夢想へと退行しようとした、昭和初期の日本人の〈死臭〉が、なまなましい身体的なイマージュとして鮮やかに表出されている。
「やつらがむらがる雲のように横行し/もみあう街が、おいらには、/ふるぼけた映画でみる、/アラスカのように淋しかった」とか、「バタビヤから、リスボンまで、地球を、芥垢と、饒舌で/かきまわしているのもやつらなのだ」といった言い回しを見ても明らかなように、この批判の刃は単に日本のファシズムだけに向けられているのではない。欧米も含む昭和初期の帝国主義列強、近代国家に生きるすべての群集の病める実存とその幻想的な収奪機構としての国家権力のあり方に対しても向けられているのである。
俗衆の「かぎりもしれぬむすびあいの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるようにみえた」とか、「やつらのみあげるそらの無限にそうていつも、金網があった」という表現は、生気ある自在な生命の躍動や輝きの気配など微塵もない、社会化され記号化された近代社会の群衆への手きびしい批判であると共に、維新以来の七十年に及ぶ近代化の中で今やほとんど形骸と化してしまったわが国の前近代的共同体的遺制の哀れな末路と、喪われたかつての共同性への幻想的退行がもたらす擬似的なぬくもりともたれあいと排除のまなざしへの透徹した洞察の言葉でもある。
昭和初期のファシズムの狂乱が、〈生身〉の身体性に根ざした真の人間的接触と連帯にもとづくものでも何でもなく、近代化のもたらした魂の荒廃による、すなわち孤立と虚無に蝕まれた病める群衆による擬似的共同性への飢渇の苦しみが産み出したヴァーチャルな幻想的代償の表現であったことが、身体性の〈喩〉を通して、的確に押さえられている。
資本制近代によってもたらされた酷薄な地上的現実とその倒立形態ともいうべき前近代的共同体的な天上的夢想にひき裂かれた昭和初期の人々の哀れな自己欺瞞の構図に対して、金子光晴は、どこまでも仮借ない批判の眼を向ける。
「たがいの体温でぬくめあう、零落のむれをはなれる寒さをいとうて、やつらはいたわりあうめつきをもとめ、かぼそい声でよびかわした。」「うらがなしい暮色よ。凍傷にただれた落日の掛軸よ!」
資本制近代の帰結点である天上と地上の〈分裂〉の病に対して、この詩人は、感性的なレベルにおいてなんと透徹したまなざしを注いでいたことだろう。
このような金子光晴の皮膚感覚的な洞察に対して、おそらく、戦後日本の近代主義的な知識人たちは完全に誤読し続けてきたに違いない。彼らは、日本ファシズムの本質を、近代化の不徹底な日本社会に残存する前近代的封建的遺制による単なる〈反動〉のあらわれと解し、ファシズム再発の阻止を、近代化の徹底に、すなわち、科学と合理主義と観念的なヒューマニズムや社会主義の理念の浸透を通じての前近代的伝統的な風土的感性の解体・一掃に求めた。
金子のファシズム批判も、日本の前近代的共同体的倫理性と美意識への徹底した批判者という、近代主義的価値意識の文脈に組み込んで解釈し、得々としていたに相違ない。
もっとも、そのような一面的な解釈を許すような甘さが金子自身の表現にもあったことは否めない。
例えば、作品「紋」(『鮫』所収)や「風景」「寂しさの歌」(『落下傘』所収)にも鮮明にうたい上げられているように、このアナーキーな放浪者型の詩人には、あらゆる人生の不条理、貧苦・業苦を諦念と共に自然のように受け流していこうとするアジア的なニヒリズム=無常観や、それと深く結びついた、近世農耕社会以来の伝統である日本的な花鳥風月の美意識やつつましさ、血縁・地縁の共同体的な桎梏や忍従に対する、生理的ともいうべき強烈な嫌悪感がある。
そのため、彼の日本ファシズム批判には、ともすれば、なだれをうって戦争にのめり込む昭和日本人の非合理的な情念の淵源を、わが国の封建的共同体的体質や農耕民的エートスと結びついたアジア的なニヒリズムへと一元的に還元しようとする、近代主義的な皮相さ、危うさがみとめられる。
しかし、もし戦中期の金子の抵抗が、そのような文脈に解消して事足れりとする程度のレベルのものならば、今さら彼の詩業を改めて振り返る必要など私たちにとっては全く無いのである。
金子光晴の日本ファシズム批判が、今日でもなお色あせないだけの思想的内実を備えているのは、近代化によって衰弱し切った昭和初期の日本封建制の残滓に対する批判などによってではなく、むしろ逆に、その封建的共同体的桎梏と結びついた倫理や美意識への憧憬の裏面に隠されていた人間関係の荒廃や虚無の深淵に対する、とぎすまされた嗅覚の表現によってなのである。
すなわち、擬似共同体的な一体感へのヴァーチャルな幻想的収奪と、貧苦と孤立の病に蝕まれた酸鼻な地上的現実にひき裂かれた昭和初期の日本人の絶望的な生態を、なまなましい身体的な〈喩〉のかたちを通して鮮やかに浮き彫りにしてみせたところにあるのだ。
戦後の進歩知識人たちは、そういう天上と地上の分裂の病によって支えられたファシズム権力の二重構造についての金子の皮膚感覚的な洞察を、完全に誤読し続けてきたといっていい。
戦後民主主義者・戦後左翼などという連中は、しょせん、その程度の器しかもち合わせてはいないからである。彼らは、〈近代〉という人類史の鬼っ子がもたらした地獄の本質について、真の痛覚を伴う洞察を表現しえたことは決してなく、右翼と左翼の対立などにわれわれの戦後史の究極の課題があるなどと錯覚し続けることのできる人々であった。
金子光晴も、坂口安吾も、太宰治も、彼らにかかっては、自由と解放の名の下に一切の伝統的な価値を破壊してかかる、皮相この上ない「脱構築主義者」と化してしまう。金子や坂口や太宰がたたかい続けた真の〈敵〉の姿など、左翼と右翼の間をぐるぐる回るだけしか能のない戦後知識人たちにはとうてい了解できはしなかったのである。
3
読者の中には、「おっとせい」にみられるような痛烈な俗衆批判から、金子光晴が、度しがたい大衆蔑視の精神的貴族主義者であると誤解する人もいるかもしれない。
だが、それは違う。
《かつて大きな悲歎もしらず/眼前がゆき止りになったおぼえもなく/また、水のせせらぎ、雨の音の/すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、//妻は生涯背かぬもの、/日や月の運行とともに/一生は平穏無事なもの、/きょうが昨日と同じだったように/あすも又なんの屈託なしとおもう、//そういう人をさわがせてはならぬ。/そういう人のうしろ影もふまず、/気のつかぬようにひっそりと、/傍らをすりぬけてゆかねばならぬ。//そういう人こそ今は貴重である。/そういう人からにおいこぼれる花、/そういう人の信頼や夢こそ、/ほんとうに無垢なのだ。荒い息もするな。》(「信頼」・『女たちへのエレジー』所収)
たとえば、金子光晴は、こういう詩を書くことのできた人であった。
彼は、何よりも、一人ひとりの人間が、己れの固有のつつましい幸せを追求し、全うできることを希い、夢みていた。平々凡々たる日常の繰り返しの中に深い安らぎと至福の時を味わうことのできる無名の生活人の一生を、人間本来の理想として想い描くことのできた詩人だった。
たとえ私たちが、己れの険しい不幸な資質のかたよりと遭遇する数奇なめぐり合わせの連鎖によって、そのような静けさに満ちた人生からどうしようもなく逸脱することを宿命的に強いられたとしても、なお、それは、私たちにとって繰り返し立ち返り、仰ぎ見る幻像として存立しうる。
だからこそ、この詩人は、次のようにうたうこともできた。
《母は子供を抱いていた。/甘い乳のにおいと、/露っぽい薔薇の花びらの柔かさ。/父はそっとそれを抱きとる。//蒼空のまんなかへ、父が/両腕をのばして子供をさしあげると、/天使がおりてきて/それを抱きとった。//父はまた、破れ丹前の/ふところのなかへ入れて歩いた。/子供は、そこで/すやすやとねむった。//父と母の貧乏も/生活の苦汁も/子供にはよそごとだった。/父と母がいればそれでよかった。//それから二十年たった。/父と母とは猶、/成人した子供から/乳と薔薇とを味わう。//よその子供たちが/その父や母の手から/むりやりにもぎとられ/屠場へひかれるのをみるとき//わるいこの国の教育が、/正気を失った嗅薬が、/人間の厳粛な悲しみをも/うかれ唄でごまかすとき、//父はもう一度破れ丹前の/ふところに庇おうとする。/おびえきって/蒼ざめた子供を。//母も唇をふるわせ、身を盾にして/天使のいない青空をみる。/ひくくまいさがった一機が/掃射していったあと。》(「おもいでの唄」・『蛾』所収)
金子光晴の仮借ない俗衆批判の裏には、このような命を賭しての〈生身〉の情愛の深さが息づいていた。
というより、このような血の通った情愛の深さがあればこそ、彼は、昭和初期・大戦期の日本人の観念的退行的な自己欺瞞による擬似的共同性のあり方に対して、あれほどに容赦ない醒めた批判をなしえたのであり、また、作品「富士」(『蛾』所収)にみられるように、天皇制ファシズムによってナショナリズムのシンボルとして悪用された伝統的な(近世農耕社会的な)花鳥風月の美意識に対しても悪態をついてみせたのである。
体の弱い息子に召集令状がきた時、どしゃぶりの雨の中に息子を裸のまま立たせたり、生松葉でいぶしたりして気管支の炎症を起こさせ、二度にわたって徴兵を回避させるという、父親としての金子の死にもの狂いの抵抗も、いかなる観念的な共同性にも生の根拠を置こうとしない不屈の単独者としての姿勢が生み出したものである。
「昭和二〇・五月。特別攻撃隊のニュースをきいて憤懣やる方なく。」という註のつけられた作品「鷹」は、単に特攻隊や空爆による死のイメージを表現しただけではなく、第二次大戦の本質そのものへの金子光晴の洞察を凝縮させた、冷徹にして煮えたぎった反骨の結晶となっている。
《あのそらの奥の天国は/こわれちゃった!//あそこはいまいちめんに/青草がざわめいている。/あの青さは凍りついて/魚一尾棲めない。//ひっつったような湖面の光。//芝居の小道具のように/どっかのすみへ忘られて/ほこりをかぶって/面やつれした/月や星。//その空のまんなかへ舞いあがる鷹!/義眼をした蒼鷹!//鈎なりの嘴につららをさげた/硝子のような/透明な大鷹!//もはや、あの天は、救いをもとめて/人がみあげる神座ではない。//あれは、重たいふた石だ。/磨ぎあげた/首斬刀だ。/あれをみてるといらいらする。/澄んでなんかいるものか。/酢のようにとごってるじゃないか。//あのむなしさを一ぱいにしてるのは鷂らの/死の飛翔だ。/羽ばたきの恐怖だ。》
《藻くずをかついで浮きつしずみつしている正覚坊のように、/地球よ。頭から血ぼろを浴びて、何度流転しなければならないのだ。//空の恐怖をみあげてくらす人人に、安堵はなく、まるで凍土帯にでも起伏すようだ。/なぜ人は鷹を放した。その日から人は天の高さを失い、じぶんの放した猛鳥の影に脅えて、さすらうのだ。//分別らしいものは誰ももってない。泥まみれな奴らが、爆弾で穿たれた大穴のまわりにあつまり、/斬新なむごたらしさの到来をたのしんでいる。//血のにじんだ/剥がれ雲よ。/胃袋までもとりあげられて/呆然と/なすところをしらない人間よ。/怖れる馬鹿があるか。もともと、/おまえたちがはじめたことじゃないか。/ふるえるな。みっともない。/おまえたちが加担して、/人の夫を、人の子を戦争に追いやったんじゃないか。//おまえたちの手で空へ放たれて/すでに戻ることのできないのを/気づかないもの。/いたいけなもの。//酸乳のように空をかきにごす/鵟(のすり)だ!/隼だ!》(「鷹」・『落下傘』所収)
一切の社会的制度的な価値規範と観念的な生のすりかえを拒絶し、ひとりの〈生身〉の肉体をもった孤として森羅万象のコスモスに真向かい、存在とのみずみずしい生命的で官能的な交流の中に、生きることの意味と人間的な連帯の根拠を夢みたこの詩人にとって、大戦とは、己れの〈生身〉の身体性を喪失し、ヴァーチャルで冷ややかな天上的幻想によって不条理な現世の風景をすりかえ、空虚さに全身を蝕まれて生きることの誇りを失った病者たちが、自他を破壊し続ける憎悪の苦痛の中に絶望的な生の証しを求めて〈死〉というブラックホールに向かってなだれをうってゆく、酸鼻な自己欺瞞の光景以外のなにものでもなかった。
萩原朔太郎論のところでも部分的に言及したように、視点を変えるなら、私たちは、ファシズムへと幻想的に収奪されてゆく昭和初期・大戦期の日本人のウルトラ・ナショナルな非合理的情念の内に、今もなお、救抜しうる何ものかを見出すことが可能である。
それは、近代化のもたらす〈闇の喪失〉という究極の病理に対する本質的な批判の視座につながるものとして、である。
この点に関する限り、金子光晴の脱社会的で生命的な〈孤〉のまなざしは、彼の思想的な敵対者たちである朔太郎や日本浪曼派や四季派の詩人たちと深く通ずる一面をもっていた。
しかし、ただ一点、〈生身〉の身体性に根ざした個的な生活者の暖かい血のぬくもりと生の息吹を徹底的に擁護する場所から、イデオロギーの相違を超えて、戦争と近代への根源的な批判を展開しえた思想者は、同時代の知識人の中では、彼以外には存在しない。
この詩人のケタ外れの非日常的な生の振幅の大きさと生活者的な哀歓への日常的できめ細かな優しさの絶妙な〈均衡〉のあり方は、今もって私たちをひきつけてやまない思想的な永続性を備えているのである。
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*この評論は、2002年から2005年にかけて、雑誌「道標」に連載されたものである。当時、この雑誌の編集責任を担当されていた評論家の渡辺京二氏より、寄稿・連載を依頼されたことが機縁となった。
戦前・戦後の六人の優れた詩人たち(萩原朔太郎・金子光晴・中原中也・吉本隆明・谷川雁・寺山修司)の作品論を通して、日本近代精神史の深層を辿ろうとする試みであった。自分にとっては、とてもスリリングな仕事で、また誰にも気がねすることなく、伸びのびと論じさせて頂いたので、ありがたかった。その時の論の鮮度は、今も落ちていないと自負できるものである。
しかし、なにせ20年近くも前の文章なので、当時の雑誌を入手するのも、今や困難な状況となった。
そこで改めて、ブログ「星辰」の中で、全論考を再掲することとした。 発表当時のタイトルは、「闇の水脈―日本近代詩人論―」であったが、「闇の水脈」という言葉は、今や私の時代小説のキーワードとなっており、まぎらわしいので、「反逆の詩魂」に改めさせて頂いた。
六人の各詩人についての論は、それぞれが一応独立して読める内容にはなっているが、筆者としては、各詩人論を統一的な見地からとらえ、六人の詩人論全体をもって、ひとつの「著作」として扱いたいという想いが強い。
そこで、旧稿をブログに再掲するに当たっては、冒頭に、新たに「まえがき」を加え、本論考全体に対する筆者の統一的見解を提示することとした。
各詩人論と併せて味読頂ければ、本望である。
二〇二二年秋
筆者
まえがき
この論考は、戦前・戦後の六人の近代詩人たちの作品を読み解くことで、日本近代精神史の根底に息づいてきた〈闇〉の感覚を浮上させようとする試みの産物である。
とはいえ、私は詩人ではなく、在野の一文芸評論家である。
これまで詩壇ジャーナリズムとはほとんど関わりはなく、また、文壇・論壇にも背を向けた場所で、孤独に己れの思想営為を持続し、表現を紡ぎ出してきた。
そんな偏屈者の思想的単独者=表現者である自分の長年の探求のはてに辿り着いた、日本近代精神史の総括ともいうべき著作が、二〇〇二年の春に刊行された『脱近代への架橋』(葦書房)である。
私は、この著作において、幕末以来の日本の近代史を、人々の〈まなざし〉の巨大な転換・変容によってもたらされた、ひとつの悲劇の軌跡としてとらえ、その本質を〈闇の喪失〉の過程とみなした。
私の言う〈闇〉とは、一人ひとりの生身の人間とそれを取り巻く森羅万象との、固有の生命的・身体的な意味づけを有する、生活宇宙としてのコスモスのことを指す。
コスモスとは、個の内に宿りながら、個を超えて森羅万象へと拡がる類的な無意識の次元に対する、たしかな〈接触〉の実感と、それにもとづく生命的・身体的な〈照応〉の感覚であるといってもよい。私たちは、その〈照応〉の実感を、人と人、人と存在、人と出来事のめぐり逢いと絆の〈えにし〉の感覚を通して、象徴的に感受することができる。いわば、人生における運命的なめぐり逢いや、たたかい、生き抜いた事の実感というものを、私たちは、己れの固有の世界風景の〈象徴〉として感受する能力を持っているということだ。
この能力は、決して合理的なものではなく、私たちの〈本能〉に支えられた「生き抜く力」のあらわれとしての非合理的な能力なのである。
私たちの〈知〉というものは、知を超えた、存在の〈闇〉に対する、この本能的な力に支えられたものでなければならない。合理主義的な知に生の究極の〈根拠〉を置こうとすることは、人類にとって、自殺行為となる危険性をもつ。それは、人のすこやかな生命力を蝕み、枯渇させるからである。
近代化とは、ひと口に言って、合理主義的な知とそれによってもたらされた物質的な豊かさ・利便性・市民主義的秩序と引き換えに、この不可知なるコスモスとしての〈闇〉への感覚を衰弱・喪失させてゆく過程にほかならなかった。
それは、人々が観念的になり、生と存在の〈奥ゆき〉に対する、生身の感受性を鈍麻させ、「生きる意味」の究極の〈根拠〉というものを奪い去られてゆく、という歴史でもあった。
私たち現代人が強いられている、生老病死をめぐる究極の地獄とは、とどのつまりは、そういうことではないのか。
だとすれば、この地獄から脱する道は、私たち一人ひとりの「生き抜く」ためのたたかい、すなわち、死と虚無の強迫観念を超える、生活人としての〈まなざし〉の根源的な変容をおいてほかにはあるまい。
悪しき既成観念のとらわれを脱し、生身の身体性に根ざした生存感覚の脱皮をはかると共に、それに応ずる新たな世界視線を紡ぎ出すこと。そのためのたたかいを、私たち一人ひとりが粘りづよく持続すること。
それ以外に、道はないのではないか。私自身は、そう信じている。
政治や経済における提言や改革などの手に負える領域ではない。
指導者などどこにもいないのだ。
人間は、本当は一人ひとり「生き物」として異質な、固有の存在である。
Aという人にとっての「薬」はBという人にとっては「毒」となりうる。
Aにとっての「毒」は、Bにとって「薬」となることもある。
それが、この世界の真相である。
だから、私たちは、己れ自身に固有のやり方で、自らの〈まなざし〉を変容させ、それを日々の生活の中で鍛え上げるという営みを粘りづよく持続することで、たたかい抜くほかはない。
縁ある者たちと支えあい、共に生きながら。
一人ひとりのたたかい方は皆違うし、一人ひとりの〈まなざし〉もまた、他の誰とも違っていてよいのである。
自分は自分らしくあればよいのだ。
本論考に登場する六人の孤高の詩人たちは、生けるコスモスとしての〈闇〉の感覚の喪失に苦しみ、「生きる意味」の根源を問い直し、己れの固有の資質にかなったやり方で、痛ましくも美事にたたかい抜いた純潔な魂の持ち主である。
その白熱した力わざは、まさしく、闇の喪失に対する「反逆」の詩魂と言うにふさわしいものであった。
私なりに読み解いた、その詩魂の香りを、えにしある読者に伝えることができるなら、幸いである。
一 萩原朔太郎
1
現代詩は萩原朔太郎から始まる。何をもって現代詩というのかという定義は、詩人でない一文芸批評家の私にとってはどうでもいいことだ。ただ、現代とは、近代の病理の極相の時代を指し、したがって近代という歴史過程の究極の本質とその黙示録的な末路をいや応なく露呈させずにはおかない時代である、という認識を強調しておけば足りる。
大正初めの朔太郎の登場から現在まで百年近くも続いている現代詩の諸相とは、そのような病的特質を最も簡潔な様式で鮮明に多彩に浮き彫りにしてみせる営みの繰り返しであったとみなすことができるが、ただ、それだけのしろものにすぎないとすれば、二十一世紀初頭の現在、ことさらに批評の対象として取り上げる必要など、私にとっては全くないのである。
私が朔太郎の詩作品を取り上げてみたいと思うのは、この詩人の痛ましい病理のかたちのみならず、その病理に対する彼の狂おしい転倒と超越のもがきが指し示す、〈脱近代〉のヴィジョンに心をそそられるためである。私の見るところでは、朔太郎の詩は、今や、彼以後のほとんどすべての現代詩人たちの作品よりもはるかに生々しく、現在的な意味をもって私たちの前に立ち現れているといってよい。
《地面の底に顔があらはれ、/さみしい病人の顔があらはれ。//地面の底のくらやみに、/うらうら草の茎が萌えそめ、/鼠の巣が萌えそめ、/巣にこんがらかつてゐる、/かずしれぬ髪の毛がふるえ出し/冬至のころの、/さびしい病気の地面から、/ほそい青竹の根が生えそめ、/生えそめ、/それがじつにあはれふかくみえ、/けぶれるごとくに視え、/じつに、じつに、あはれふかげに視え。//地底の底のくらやみに、/さみしい病人の顔があらはれ》(「地面の底の病気の顔」・『月に吠える』所収)
《光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶる繊毛が生え、/かすかにふるえ。//かたき地面に竹が生え、/地上にするどく竹が生え、/まつしぐらに竹が生え、/凍れる節節りんりんと、/青空のもとに竹が生え、/竹、竹、竹が生え》(「竹」・『月に吠える』所収)
いうまでもなく、萩原朔太郎は、人間や世界に対する関係の障害感の深さを、なまなましい生理的な奇形意識に染め上げられた自然への触知感によって多彩に象徴化してみせた初めての現代詩人である。
大地に強靭に根をはり、己れの存在の中心をなす虚空の内に森羅万象の響きを包摂し、無窮の天に屹立する「竹」という、アジア的なコスミックな象徴性を担ってきた植物に対して、これほどまでに病的で冷え切ったイメージを重ね合わせた詩人はいない。
「鼠の巣」に「こんがらかつてゐる」「かずしれぬ髪の毛」とか、青竹の「根の先」より生えた「かすかにけぶる繊毛」とかいった言い回しは、もちろん、この作者の極度に細分化され過敏にふるえる病的な神経の喩であり、そのささくれ立った神経繊維の束のような「根」と対比される形で「かたき地面」に「するどく」「まつしぐらに」生える真冬の地表の青竹は、硬直し冷え切った作者の身体性のイメージを痛々しく形象化したものにほかならない。
2
このような自然への感受性は、明治期の詩意識にはほとんど全くといってよいほど見られないものである。
明治期、とりわけ、日露戦争(明治三十七〜三十八年)前後までの詩人たちの自然観は、近世以来の前近代的共同体社会の風土の中で醸成された人・物・風景へのアニミズム的な親和感の伝統を色濃くとどめるものであった。
与謝野晶子の短歌より
ゆあみして泉を出でし我が肌に触るるは苦るし人の世の衣
髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま 『乱れ髪』(明治三十四年)
かざしたる牡丹火となり海燃えぬ思ひみだるる人の子の夢
われと燃え情火環に身を捲きぬ心はいづら行方知らずも
春雨やわがおち髪を巣に編みてそだちし雛の鶯の鳴く
わが宿の春はあけぼの紫の糸のやうなるをちかたの川
ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲
遠かたに星のながれし道と見し川のみぎはに出でにけるかな
五月雨春が堕ちたる幽暗の世界のさまに降りつづきけり
夏のかぜ山よりきたり三百の牧のわか馬耳吹かれけり
やはらかき少女が胸の春草に飼はるるわかき駒とこそ思へ
天人の飛行自在にしたまふとひとしきほどのものたのむなり 『舞姫』(明治三十九年)
地はひとつ大白蓮の花と見ぬ雪のなかより日ののぼる時 『夢之華』(明治三十九年)
若山牧水の短歌より
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海を見る
夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が聲を聴く
樹に倚りて頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
山戀しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた
静けさや君が裁縫の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛長う鳴る
みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
われら両人相添うて立つ一點に四方のしじまの吸はるるを聴く 『海の聲』(明治四十一年)
われひとり暮れのこりつつ夕やみのあめつちにゐて君をしぞおもふ
星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち揺ぐ見ゆ
時として涙をおぼゆ草木の悠々として日を浴ぶる見て
けだものの病めるがごとくしづやかに運命のあとに従ひて行く
海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ 『独り歌へる』(明治四十三年)
与謝野晶子の短歌には、近代の黎明期にふさわしい、共同体的な緊縛とまどろみから解き放たれた個のみずみずしい生命的な飛翔と、幼児期以来の地縁・血縁のぬくもりと明治三十年代までかろうじて息づいてきた自然への融和的なアニミズム的感受性の恩恵に守られた者の、深々とした安定感のあるリズムが感じられる。
牧水の短歌は、孤として近代をさすらう者の寂しさをうたいながら、同時に、己れの身体を深々と包み込む自然の、みずみずしいゆったりとした息づかいを伝えることで、晶子の歌と同様、近代的な個我意識と前近代的伝統的なアニミズム性の鮮やかな均衡と相互浸透の感覚を表現してみせている。ここでは、日本人の伝統的なコスミックな生存感覚と深く結びつく「青」「白」「魂」「闇」「あめつち」といった言葉がきちんと生きている。
日清・日露戦争間の明治三十年代は、晶子や牧水の歌をはじめ、国木田独歩の小説「武蔵野」や「忘れ得ぬ人々」、正岡子規の作品にもうかがえるように、個と類の融合を、理念としてではなく、あるいは、繊細な言葉の技巧によるヴァーチャルな細工物としてではなく、〈生身〉の身体性の次元で美事に達成してみせた奇跡的な表現を生み出した時代であった。
しかし、それは、前近代的な伝統社会のコスモスが一気に衰退と消滅へと向かう大正から昭和という時代の直前に顕われた、ほんの一瞬の輝きにほかならなかったのである。
3
日露戦争後の明治四十年代には、早くも、晶子や牧水の歌に象徴されるようなみずみずしいコスミックな生命感は急速に文学の世界から消え去ってゆく。明治四十四年の歌集『路上』には、一転して、息苦しい閉塞した地上的現実に這いつくばらせられたような牧水の不条理感がよどんだように流れている。
おとろへしわが神経にうちひびきゆふべしらじら雪ふりいでぬ
獣あり混沌として黄に濁る世界のはてをしたひ歩める
光線のごとく明るくこまやかにこころ衰へ人を厭へり
おとろへの極みに来けむ眼に満てるあらゆる人の憎し醜し
おもひやるかのうす青き峡のおくにわれのうまれし朝のさびしさ
われ二十六歳歌をつくりて飯に代ふ世にもわびしきなりはひをする
あかつきの寝覚の床をひたしたるさびしさのそこに眼をひらくなり
かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
わがいのち闇のそこひに濡れ濡れて螢のごとく匂ふかなしさ
酒嗅げば一縷の青きかなしみへわがたましひのひた走りゆく
わが部屋に朝日さす間はなにごとも身になおこりそ日向ぼこする 『路上』(明治四十四年)
「光線のごとく明るくこまやかにこころ衰へ人を厭へり」という歌は面白い。牧水の作品では、「闇」という言葉は肯定的なイメージで使われており、己れの存在の中心を支え、包摂してくれる深々としたコスモスを象徴するものである。この歌での「光線」は、逆に、魂の闇を圧殺する、人工的で神経症的なまなざしを暗示しているようにおもわれる。
明治末年における牧水の魂の落魄のイメージは、そのまま、日露戦後の文学の変容に対応しているといっていい。
明治三十年代まで色濃く痕跡をとどめていた伝統的コスモス的な生存感覚は、日露戦争後には急速に衰弱し、代わりに、貧困と引き裂かれた関係性に苛まれる酷薄な地上的現実に緊縛された人間たちの浅ましい獣的欲望や不条理な運命を写実的に描く自然主義文学と、その倒立形態ともいうべき耽美主義が登場する。
大正六年(一九一七)出版の詩集『月に吠える』に集約される萩原朔太郎の前期作品は、このような日露戦後に登場する地上的リアリズムの目線の延長上に成立したものだといってよい。
岡井隆が既に指摘しているように(現代詩文庫『萩原朔太郎』思潮社)、朔太郎の一見幻想的に見える象徴詩は、実は、この詩人の「私小説」といってもよいもので、彼が散文や詩でいかんなくその才能を発揮した、精緻で的確な客体の描写力や生々しいグロテスクな身体的喚起力をもつ緻密な象徴表現の鮮やかさは、自然主義文学以来のリアリズム的な文体の成熟を発展的に継承したものであるとみなすことができる。
日露戦後の自然主義文学の台頭は、『それから』以後の漱石の後期小説や石川啄木の散文・口語詩と並んで、明治三十年代まで文学の世界に残存し得ていた擬古文調・漢文調の匂いを一掃し、言文一致体を完成させると共に、対象への冷徹で精緻な客観描写と内面描写の微細なゆらぎを有機的に結合させた文体上のひとつの完成形態をもたらすものであった。
その本質は、資本制の膨脹の渦中で、明治三十年代までかろうじてすこやかな生命力を保ち得ていた前近代的共同体的な生存感覚が急速に解体にさらされ、主体と客体の分離が進行し、人々の世界視線が不条理な地上的散文的現実にいや応なく緊縛・狭窄されたことの反映でもあった。
朔太郎の神経症的な奇形意識も、このような日露戦後の病理的な流れの中から浮上したものだといってよい。
《その菊は醋え、/その菊はいたみしたたる、/あはれあれ霜つきはじめ、/わがぷらちなの手はしなへ、/するどく指をとがらして、/菊をつまむとねがふより、/その菊をばつむことなかれとて、/かがやく天の一方に、/菊は病み、/饐えたる菊はいたみたる》(「すえたる菊」)
例えば、このように詠まれた『月に吠える』の「菊」と、「静けさや君が裁縫の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき」と歌われた牧水の「菊」のあまりの違いに、私は絶句せざるを得ないのである。
ただ、同じく近代的な病理の表現といっても、朔太郎の詩と自然主義文学の間には大きな差異が存在する。自然主義文学には、地上的な生活苦や人間関係の地獄図を、究極的には、ひとつの〈宿命〉として受容し、自然のように受け流していくアジア的な諦観=無常観が息づいており、また、作者の中に、己れの醜悪な病理や痴態を私小説的なリアリズムの手法で恥も外聞もなくさらけ出すことで、自らの内奥の苦悶を易々と読者に伝え得るという楽天的な「自意識の無さ」と、そういう私小説的暴露趣味が衆目に許容されると考える甘ったれた日本人的「身内意識」が横たわっている。
朔太郎には、四十歳近くまで親がかりのアダルト・チルドレンであったにもかかわらず、このような甘えも諦観も存在していない。
彼の象徴詩は、リアリズムの手法をもってしては、なんとしても己れの内奥の苦しみを他者に伝えることはできないという、関係意識の障害感の深さのしからしめたものであり、また、自然への強烈な断絶意識をそのベースとしているのである。
しかし朔太郎には、日露戦後の痩せ細った酷薄な地上的現実とそれをもたらした時代の構造的な病理への冷徹な認識を踏まえた、生活者的な〈自立〉の場所に立つ、石川啄木のような自我の強靭さというものは、全く認められない。
《春になって、/おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、/どんな粗製の歩道をあるいても、/あのいやらしい音がしないやうに、/それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる/それがなによりけんのんだ。/さあ、そろそろ歩きはじめた、/みんなそつとしてくれ、/そつとしてくれ、/おれは心配で心配でたまらない、/たとへどんなことがあつても、/おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。/おれはぜつたいぜつめいだ、/おれは病気の風船のりみたいに、/いつも憔悴した方角で、/ふらふらふらふらあるいてゐるのだ》(「危険な散歩」)
《ながい疾患のいたみから、/その顔はくもの巣だらけとなり、/腰からしたは影のやうに消えてしまひ、/腰からうへには藪が生え、/手が腐れ、/身体いちめんがじつにめちやくちやなり、/ああ、けふも月が出で、/有明の月が空に出で、/そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、/畸形の白犬が吠えてゐる。/しののめちかく、/さみしい道路の方で吠える犬だよ》(「ありあけ」)
ここにも、極度に細分化された神経繊維の束のような自意識の病によって、存在との無数のあつれきを抱え込み、魂を痛めつけられたこの詩人の不幸さがよく滲み出ている。
古典的な伝統美の中で鍛えられてきた幽暗の象徴としての「有明の月」も、彼にかかっては、ただの貧相な神経症の反映の産物でしかない。
詩作を通じてのこのような冷え切った、荒れ果てた心象風景の増殖は、彼の自我意識を鍛えることにはならず、逆に、生存感覚の稀薄さと生活への恐怖と嫌悪の念をますます増幅させていったようにおもわれる。
「ありあけ」にみられる、「腰からした」が影のように消えてしまうという言い回し、すなわち〈下半身の欠如〉という喩は、軟体動物のようなこの詩人の自我意識の脆さ、頼りなさと生活者的な身体性の空洞を巧みに表現し得ている。肉を通してのエロス的な灼熱の交感の香りなど、この詩人には、薬にしたくとも無い。
『月に吠える』の爆発的なヒットと数多くの熱狂的な心酔者の出現は、朔太郎の病が当時の青年層の中にある確かな普遍的基盤をもっていたことを示している。
『月に吠える』に集約的に象徴される朔太郎の関係意識の障害感の深さと自然への断絶意識、〈生身〉の身体性の空洞と自我の脆弱さこそ、まさに、〈現代〉という近代の病の極相の本質をなすものであり、彼の詩作品が青年層を中心に一世を風靡するようになる大正期こそ、現代のプロローグというべき時代であった。
昭和初期は、この朔太郎的病理が、巨大な規模で日本大衆を包摂し始めた時代であり、その意味で〈現代〉の本格的な始動期に相当するとみなすことができる。*
現代詩は、まさに、朔太郎から始まるのである。
*昭和初期の日本社会の病理に関する私見は、拙著『脱近代への架橋』(葦書房・二〇〇二)を参照されたい。
4
朔太郎は己れの不幸な病の本体を正しく認識し得ていた。
《なまぐさい春のにほひがする。/おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。/人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。/人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。/あるとき人間が馬のやうに見えること。/人間が人間の愛にうらぎりすること。/人間が人間をきらふこと。/ああ、厭人病者。/ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。/それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。/心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう》(「雲雀の巣」より)
己れの病の本体が、精神と肉体の〈分裂〉という不幸にあることが的確に押さえられている。
他者も含めて、あるいは己れ自身の肉体も含めて、自己の〈意識〉の外部にある(と認識されている)一切の存在に対して、もっぱら理知と神経を通して接触し、みずみずしい〈生身〉の交感に根ざした、即ち、対象との血と肉の交流による直接的な接触に根ざした生命的な意味づけを与えることができない時、この地上的現実は、われわれにとって、ただ冷ややかな、よそよそしい無機的でメカニックな客体の偶然的な寄せ集まりにすぎず、われわれの〈精神〉もまた、その地上的外在的存在から切り離された、冷ややかで孤立した観念的自我意識でしかない。
それが、〈現代〉の病の究極の本質なのであり、〈近代〉という歴史過程の精神史的な帰結点なのである。
萩原朔太郎は、いち早く、この現代の病理の極北のかたちを全身的に体現してみせた先駆的詩人であった。
したがって、その病の苦しみからの脱出への希求の念もまた激烈なものがあった。
大正十二年(一九二三)に刊行された詩集『青猫』には、己れの冷え切った生存感覚、孤立感の深さからの脱却へのもがきが、頼りがいのある強靭な母性(父性を兼ね備えた母性)や大衆の共同性へのエロス的な飢渇感の激しさとなって表現されている。
《風にふかれる葦のやうに/私の心は弱々しく いつも恐れにふるへてゐる/女よ/おまへの美しい精悍の右腕で/私のからだをがつしりと抱いてくれ/このふるへる病気の心を しづかにしづかになだめてくれ/ただ抱きしめてくれ私のからだを/ひつたりと肩によりそひながら/私の弱々しい心臓の上に/おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ/ああ 心臓のここのところに手をあてて/女よ/さうしておまへは私に話しておくれ/涙にぬれたやさしい言葉で/「よい子よ/恐れるな なにものをも恐れなさるな/あなたは健康で幸福だ/なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません/ただ遠方をみつめなさい/めばたきをしなさるな/めばたきをするならば あなたの弱々しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ/いつもしつかりと私のそばによりそつて/私のこの健康な心臓を/このうつくしい手を/この胸を この腕を/さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」》(「強い腕に抱かる」)
《私はいつも都会をもとめる/都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる/群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ/どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ/ああ ものがなしき春のたそがれどき/都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ/おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか/みよこの群集のながれてゆくありさまを/ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり/浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ/人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない/ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか/ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影/たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。/うらがなしい春の日のたそがれどき/このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで/どこへどうしてながれ行かうとするのか/私のかなしい憂欝をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影/ただよふ無心の浪のながれ/ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい/浪の行方は地平にけむる/ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ》(「群集の中を求めて歩く」)
こういう作品を読んでいると、萩原朔太郎という詩人が、いかに大正から昭和初期という時代の日本大衆の実存のありかと見事に重なり合い、その渇きの方向を先取りしていたかを思い知らされる。その意味で、この詩人は、本質的に大衆的な詩人であるといってよく、彼の詩を読み解くことは、そのまま、大正から昭和初期という時代の日本人の精神史を鮮明に浮き彫りにすることになるのである。
大正末から昭和初年にかけて、芥川龍之介・太宰治・横光利一・川端康成・伊藤整などの作家が次々と切開してみせた精緻な病理的風景は、朔太郎の『月に吠える』の作品群と本質的に重なり合うものであり、当時の日本人大衆の荒れ果てた実存のなまなましい象徴にほかならなかった。
昭和五年(一九三〇)に発生した昭和恐慌による農村社会の壊滅的打撃とそれを引き金とする翌年の満州事変を契機として浮上する大衆のウルトラ・ナショナリズムへの狂的なのめり込みは、このような魂の荒廃に対するヒステリックな反近代的・退行的衝動のあらわれとみなすことができる。
それは、近代化のもたらした神経症的な孤立の恐怖に対する、すなわち〈生身の喪失〉の病に対する反動としての、エロス的な〈子宮〉への回帰感情の歪んだ代償表現にほかならない。
「強い腕に抱かる」や「群集の中を求めて歩く」に滲み出ている、〈個〉の輪郭を消し去りたいという強烈なエロス的渇望こそ、まさしく昭和初年にせり上がってくる日本大衆のエートスの核心を象徴するものである。
「精悍」な腕や乳房でしっかりと抱きしめられ、「めばたき」をせず、ひたすら「遠方をみつめ」る人間、「群集」と共に無心に「ただひとつの『方角』ばかりさして」流れ行こうとする人間の姿こそ、〈虚無〉の波間に漂いながら、喪われし幻の日本、幻のアジアを夢見た昭和初期の日本人の宿命を先取りするものだった。
5
大正十四年刊行の『純情小曲集』に収められた「郷土望景詩」中の一篇「大渡橋」は、朔太郎自身の転機にとって決定的な意義をもつばかりでなく、昭和初年におけるこのような日本人大衆の反近代的・退行的衝動の暴発の〈予兆〉を示す戦慄的な文語詩となっている。
《ここに長き橋の架したるは/かのさびしき惣社の村より直として前橋の町に通ずるならん。/われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり/往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり/あわただしき自転車かな/われこの長き橋を渡るときに/薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。//ああ故郷にありてゆかず/塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり/すでに孤独の中に老いんとす/いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん/いまわがまづしき書物を破り/過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。/われは狼のごとく飢ゑたり/しきりに欄干にすがりて歯を噛めども/せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出で/頬につたひ流れてやまず/ああ我れはもと卑陋なり。/往くものは荷物を積みて馬を曳き/このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす》(「大渡橋」)
「かのさびしき惣社の村」と「前橋の町」を結ぶこの「長き橋」=「大渡橋」は、いうまでもなく、前近代的アジア的な土俗と近代の間に横たわる深淵を象徴するものである。「われ」は、「狼のごとく飢ゑ」たる感情を抱いて、薄暮の中に息づくこの「長き橋」を、ひたすらアジアの土俗の村に向かって渡り続ける。
かつてヨーロッパ文学に傾倒し、一時期キリスト教にも接近したことのある、この神経症的な自意識の塊のような近代詩人、かつて「田舎を恐る」で《わたしは田舎をおそれる、/田舎の人気のない水田の中にふるへて、/ほそながくのびる苗の列をおそれる。/くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる》とか、《土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、/冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。//田舎の空気は陰鬱で重くるしい、/田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、/わたしはときどき田舎を思ふと、/きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる》とうたい上げ、故郷への侮蔑と呪詛の念を吐き出していた近代主義者が、今や、「烈しき痛恨の怒り」に駆られ、かつて己れが心酔してきた欧米近代文明のすべてを洗い流さんとする狂気に身をゆだねつつ、故郷の幽暗の胎内へ、前近代の土俗の闇へとまっしぐらに回帰せんとするのである。
この情念世界が、そのまま、昭和九年(一九三四)刊行の詩集『氷島』の激烈な反近代的パトスにつながることはいうまでもない。この詩集によって、朔太郎の神経症的な孤絶意識は、前近代的な土俗の闇に表象されるエロス的な〈子宮〉へと回収され、同時に、近代文明への狂おしい破壊の意志となって、あたかも『古事記』の須佐之男命のような、一切の社会的規範を踏み越えた荒々しい野性の息づかいを伝える美しい文語体の律動へと昇華されてゆく。
《虎なり/曠茫として巨像の如く/百貨店上屋階の檻に眠れど/汝はもと機械に非ず/牙歯もて肉を食ひ裂くとも/いかんぞ人間の物理を知らむ。/見よ 穹窿に煤煙ながれ/工場区街の屋根屋根より/悲しき汽笛は響き渡る。/虎なり/虎なり//午後なり/広告風船は高く揚りて/薄暮に迫る都会の空/高層建築の上に遠く坐りて/汝は旗の如くに飢えたるかな。/杳として眺望すれば/街路を這ひ行く蛆虫ども/生きたる食餌を暗鬱にせり。//虎なり/昇降機械の往復する/東京市中繁華の屋根に/琥珀の斑なる毛皮をきて/曠野の如くに寂しむもの。/虎なり!/ああすべて汝の残像/虚空のむなしき全景たり》(「虎」)
《赤く燃える火を見たり/獣類の如く/汝は沈黙して言はざるかな。//夕べの静かなる都会の空に/炎は美しく燃え出づる/たちまち流れはひろがり行き/瞬時に一切を亡ぼし尽せり。/資産も、工場も、大建築も/希望も、栄誉も、富貴も、野心も/すべての一切を焼き尽せり。//火よ/いかなれば獣類の如く/汝は沈黙して言はざるかな。/さびしき憂愁に閉されつつ/かくも静かなる薄暮の空に/汝は熱情を思ひ尽せり》(「火」)
これらの詩には、物質文明の非情でメカニックな力への意志にひれ伏し、地上に這いつくばったような、痩せ細った散文的でちっぽけな日常生活の中でもがき苦しむ現代人の野性への渇きと、一切の文明的虚構と富や社会的成功や形あるものへの執着を転倒し掃滅せんとする、原初のカオスへの狂おしい夢想がうたい上げられている。
一切を無に帰そうとして、巨大な〈死〉のブラックホールへと吸い込まれていった昭和初期の日本人のウルトラ・ナショナリズムの狂気の中に、もし現在の私たちを魅了し得る何ものかが今もなお息づいているとすれば、それは、ひとつには、このような、地上的緊縛を超越せんとするある種の生命的な飛翔への、地獄と紙一重の非日常的な渇望のかたちなのではあるまいか。
《見よこの飛翔する空の向うに/一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。/暮春に迫る落日の前/われら既にこれを見たり/いかんぞ人生を展開せざらむ/今日の果敢なき憂愁を捨て/飛べよかし! 飛べよかし!》(「遊園地にて」)とうたわれた、〈虚無〉と背中合わせになった生命的な灼熱の生への飢渇のかたちこそ、今もなお色褪せぬ『氷島』の神髄であり、あらゆる悲惨を踏み越えてなお、私たちが大戦期の日本人の狂気と錯誤の内から救抜し得る何ものかのありかを指し示している。
「大渡橋」で朔太郎が回帰せんとした前近代的な土俗の村=「かのさびしき惣社の村」とは、決して無傷の、すこやかなコスモスを温存し得ていたかつての前近代の共同体社会と同じものではない。それは、近代によって痛めつけられ、コスモスとしての生命的なふくらみを喪失し、地上的不条理に打ちひしがれた、痩せ細った貧困で酷薄な大正・昭和の村である。
《わがこの村に来りし時/上州の蚕すでに終りて/農家みな冬の閾を閉したり。/太陽は埃に暗く/悽而たる竹藪の影/人生の貧しき惨苦を感ずるなり/見よ 此処に無用の石/路傍の笹の風に吹かれて/無頼の眠りたる墓は立てり》(「国定忠治の墓」)とうたわれた上州の寒村であり、その延長上に想い描かれた、「無頼」の徒の情念が息づく、鬱屈した不遇な闇の世界である。国定忠治や、「監獄裏の林」で作者自身の影と重ね合わせられた囚人たちのイメージにつながる、反市民社会的で非知識的な、およそ生きることの贅肉というものを一切もたない無名の生活者の路傍の世界なのである。
《蒼白の人/路上に書物を売れるを見たり。/肋骨みな瘠せ/軍鶏の如くに叫べるを聴く。/われはもと無用の人/これはもと無用の書物/一銭にて人に売るべし。/冬近き日に袷をきて/非有の窮乏は酢えはてたり。/いかなれば涙を流して/かくも黄色く古びたる紙頁の上に/わが情熱するものを情熱しつつ/寂しき人生を語り続けん。/われの認識は空無にして/われの所有は無価値に尽きたり。/買ふものはこれを買ふべし。/路上に行人は散らばり去り/烈風は砂を巻けども/わが古き感情は叫びて止まず。/見よ! これは無用の書物/一銭にて人に売るべし》
(「無用の書物」)
《我れの持たざるものは一切なり/いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。/独り橋を渡るも/灼きつく如く迫り/心みな非力の怒に狂はんとす。/ああ我れの持たざるものは一切なり/いかんぞ乞食の如く羞爾として/道路に落ちたるを乞ふべけんや。/捨てよ! 捨てよ!/汝の獲たるケチくさき名誉と希望と、/汝の獲たる汗くさき銭を握つて/勢ひ猛に走り行く自働車の後/枯れたる街樹の幹に叩きつけよ。/ああすべて卑穢なるもの/汝の非力なる人生を抹殺せよ》(「我れの持たざるものは一切なり」)
一切の〈知〉の体系、一切の地上的現世的価値体系の呪縛を解体し、〈非所有〉の狂気に駆り立てられて原初のカオスのヴィジョンへと回帰せんとする狂暴なパトスが、ヒステリックにうたい上げられている。
もちろん、人が幸せになり得るには、堅実な労働によって稼いだ金銭と、身体を憩わせ疲れをいやしてくれる気持のよい住みかと、他者の眼や評価に脅かされずに己れの居場所を保持し得る生活環境や職場が必要である。
なかなか思うにまかせぬとはいえ、疎外された労働の中で生み出される無心の没入、劣悪な住居環境の中で味わう、一切を放念したくつろぎの時、冷ややかな他人の眼をかわし、競争や実績作りに追い立てられる生活の中で息をつく、といった営みがなければ、すなわち、卑小なる日常の中に息づく無数の哀歓の重さへのいとおしみというものがなかったとしたら、人々の生は、不条理と徒労の内に埋没してしまうほかはないであろう。
生身の日常生活へのつつましい愛着と尊重の念を貶め、踏みにじろうとする者の思想は、しょせん呪われたるものでしかない。
だが、われわれの生の実相とは、己れを超えた未知の大海の中に浮かぶ小舟のようなものである。
もし、われわれの生身の実生活を支える究極の基盤というものが、地上的現世的な諸価値への〈我執〉の念にすぎないとしたなら、すなわち、己れの人生を思い通りに仕切ろうとする小ざかしい合理的な〈計算〉であったり、世間や組織や他人の相対的な〈評価〉の目線であったり、金銭や物や人間への〈所有〉の病にあるとしたならば、あるいは、種々の観念的な〈知〉の体系にすぎないとしたならば、われわれの生は、ついに、真の充足と安心を得ることはできないのではなかろうか。
私たちの魂が、あらゆる未知なる運命への恐怖を乗り越えて、真の平安を見出すには、己れの内に宿りながら同時に己れを超えた存在である大いなる龍の如き神秘に、自らの身体をゆだねるという、ふるえるような捨て身の勇気が必要なのではあるまいか。
それは、一切の知の所有とも、形あるものへの執着の念とも次元を異にする存在を、生の基底に据えるということである。
すなわち、虚無と生命の両義性を備え、深々とした静寂や優しさと灼熱の如き獰猛な野性を併せもった、混沌たる〈闇〉の次元に下降し、その時空を真に体得した上で、再度新たな肉体をもってこの現世に立ち帰り、生き抜くという、非知と脱社会とをふまえた個的な生活者の覚悟性の場所に立つことを意味する。
朔太郎の『氷島』が開示してみせた〈非所有〉の狂気は、このような、私(たち)の〈脱近代〉への渇きのありかとなまなましくクロスしているようにおもわれるのである。
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]]>川喜田八潮 著、時代劇戯曲『闇の水脈 天保風雲録』が、本日2021年10月15日、発売となります。第一部・第二部、2冊同時刊行です。
アマゾンおよび全国の書店で発売されます。
アマゾンのリンクはこちら↓
『闇の水脈 天保風雲録 第一部』https://www.amazon.co.jp/dp/4434293494/
『闇の水脈 天保風雲録 第二部』https://www.amazon.co.jp/dp/4434293508/
あらすじ
天保十四年(一八四三)晩秋の閏九月、江戸下町・本所回向院の境内で、生き別れとなっていた、ふたりの中年の男女が、十年ぶりに劇的な再会を果たした。
男は、今は、浅草で私塾・水明塾を営む市井の陽明学者・河井月之介、女は、常磐津の師匠・音羽。
ふたりは、互いの数奇な運命について語り合い、今、再びめぐり逢ったことの不思議さの中に、この世の裏に秘められた、目に視えぬ霊妙な〈闇〉の気配を感受するのだった。
そこには、同時に、六年前に起こった大塩平八郎の乱に象徴される、天保期の荒廃した不条理な世相が影を落としていた……
一方、水明塾の塾生で、月之介の愛弟子である旗本の青年、刈谷新八郎は、己れの生きる意味を見出すことができずに、〈引きこもり〉の部屋住み暮らしを続けながら、もがき苦しんでいた。
心の通わない家族と冷やかで殺伐とした大人たちのつくり出す、閉塞した空気感の中で、ひとり無意味に朽ち果てていくような不遇感に苛まれながら、懸命に〈出口〉を探し求める新八郎は、月之介の娘である恋人の絵師・お京の助言で、彼女の師匠である葛飾北斎の娘・お栄に出会い、北斎の肉筆画の世界に息づく〈龍〉の気配に、思わぬ〈生〉の啓示を受けることになる……
水明塾の仲間で、秘密結社・革世天道社のメンバーであった親友・小幡藤九郎の思いもかけぬ〈悲劇〉に、いや応もなく巻き込まれてゆくことで、新八郎の運命もまた、大きく狂い出し、この世の秩序を超えて妖しくうごめく〈闇〉の世界へと転生を遂げてゆく……
徳川幕藩体制が大きく揺れ動き、近代と前近代の諸価値が烈しくしのぎを削り合う、黒船来航前夜の、アナーキーな空気感の漂う天保期を舞台に、「幕末ニート」刈谷新八郎の劇的な生の軌跡を描き上げる時代劇巨編。
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]]>川喜田八潮 著、時代劇戯曲『闇の水脈 天保風雲録』が、本日2021年10月15日、発売となります。第一部・第二部、2冊同時刊行です。
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『闇の水脈 天保風雲録 第一部』https://www.amazon.co.jp/dp/4434293494/
『闇の水脈 天保風雲録 第二部』https://www.amazon.co.jp/dp/4434293508/
内容紹介(「あらすじ」はこちらの記事でお読みください)
激動の天保期。諸価値のせめぎ合う開国前夜。
巨大な陰謀の渦に巻き込まれていく刈谷新八郎。
家族にも、大人たちのつくり出す世界にも、心の居場所を見出せない青年・刈谷新八郎は、北斎の〈龍〉に出逢い、生きる意味を掴みかける……
時代を動かそうとする者たちと、踏みにじられる者たちとのはざまで、新八郎が転生を遂げることとなる〈闇〉の世界とは?
幕末ニートの苦悩と新生の予兆を描く時代劇巨編!
著者コメント
文芸評論家・川喜田八潮の、劇作家としての初めての著作となります。
今回刊行の『天保風雲録』は、実は、私の時代劇戯曲『闇の水脈』シリーズ四部作の「第一作」に当たります。残りの三作品は、その「続篇」として、すでに書かれ完成しています。それらのタイトルは以下の通りです。
『闇の水脈 愛憐慕情篇』
『闇の水脈 風雲龍虎篇』
『闇の水脈外伝 潮騒の声』
これらの『闇の水脈』シリーズ四部作は、本年も含め、これから四年間かけて、毎年一作ずつ(それぞれ二巻本の形で)順次刊行してゆく予定です。本作『天保風雲録』を面白くお読み頂けた読者の皆様が、続篇の方も楽しみにしてお待ち頂けるなら、作者としてとても嬉しく思います。
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]]>吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり 『桐の花』
『桐の花』の末尾に置かれたこの歌によって、作者の追い詰められた場所が推しはかられる。
「夕」はいつも抒情のあふれる時刻として、昼と夜とのあわいにあって作者のおもいの流れ出る頃合いとして、また世界がその隠された表情を露わにするときとして、さまざまにこの歌集を彩ってきたが、この歌では「夕」になることで「蝋燭に火の点く」ように作者の心に起こる現象は「ひもじさ」である。
それは魂が非日常的な世界に餓え渇いてひもじいのではなく、非日常的な世界に向かう魂のありようそのものを無残にたたき潰されて、ただ現世に存在する肉体のひもじさへと散文的にうちひしがされた状態を示している。
萩原朔太郎が、白秋の歌集においてはこの『桐の花』のみを高く評価し、それ以降のものはほとんど顧みなかったというのも、白秋の中で消えて戻らぬものを歌のいのちとして最も大切に考えていたからであり、それなくして作歌に骨身を削るとしても、それは本質的に不毛なたたかいであることを感覚的によくとらえていたからだとおもわれる。
『桐の花』という歌集そのものが、ちょうど「夕」のように、時代と時代のはざまのとらえがたく繊細な光と闇の交錯する抒情空間が、もっともその空間を表現するにふさわしいひとりの歌人の身体を通してたち顕われた稀有な世界だったと、私には感じられる。
JUGEMテーマ:詩
]]>犬が啼き居り乾草のなかにやはらかく首突き入れて犬が啼き居り 『桐の花』
もう一度、犬が乾草のなかに首を突き入れて甘く啼くように、もう一度、以前の世界のやわらかさに身をゆだねることが出来るならば。
だがそれがかなわぬことの脱力感が、「犬が啼き居り」の字余りと気のぬけたリフレインに滲んでいる。
犬の仕草への羨望によって露わになるのは、白秋にとって監獄体験以前の世界との関わりの本質に、退嬰的なものがひそんでいたことである。
ただ、彼が退行してゆく場所そのものが、世界が他者としてたち現れたときの鮮やかな恐怖をも含んでいたために、幼児性・女性性とともにその作品世界には清潔で透明な決断力に富む男性的な理知のエネルギーも満ちており、繊細かつダイナミックな魅力を持ち得ていたのだとおもう。
JUGEMテーマ:批評
]]>どれどれ春の支度にかかりませう紅い椿が咲いたぞなもし 『桐の花』
「母の云へらく」との詞書がある。
たまたま耳に入ってきた母の言葉をそのまま短歌にしてしまったという体裁だが、母の言葉に敢えてなんら加工を加えなかったことに、読み手は不安をそそられる。
ふんわりと意味の抜けた言葉のリズムに、吸い込まれるようにすがるように表現との接点を求める作者の心の傷痕がかえって生々しい。自分のまなざしとして世界を捉えなおす意志を放棄したかのような歌の表情が、私には痛々しく感じられる。
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