宮沢賢治童話考(連載第1回)  川喜田八潮

  • 2016.02.19 Friday
  • 10:46

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 宮沢賢治は、恐ろしい生き難さの業を背負った文学者だった。
 彼は、周知のように、この現世に生きる動物たちの姿を、調和と生命的な歓喜の相においてではなく、酷薄な食物連鎖的視点にアクセントを置いた不条理性の相の下にとらえようとした。生きるために他の罪無き生物を殺め、自らも他の生き物の犠牲になるか、絶えずその襲撃の脅威に備えねばならない。
 宮沢賢治の数々の童話作品からは、己れを取り巻く存在の理不尽な脅威や悪意に蒼ざめ、その潜在的な恐怖で硬直した身体をもてあましている一人の不幸な人物の貌が浮かび上がってくる。
 その恐怖は、決してこの作者の世界観にもとづくものではない。
 食物連鎖的な視点や殺生を宿命づけられた動物の因果応報的な業苦の摂理など、本当はどうでもよいことなのだ。
 彼の恐怖は、存在そのものへの異和、すなわち、己れが生存を与えられ囲い込まれているこの現世の成り立ちそのものへのどうしようもない原初的な異和に根ざしたものであり、疑いもなく、幼児期はもとより胎乳児期にまで遡ることのできる原型的な刻印に由来した世界風景の傷にほかならない。
 何ものにも還元され得ない私たちの存在的な痛覚、嬰児の悪夢のような原初的なおびえを喚起してやまない、彼の作品の恐ろしい手ごたえが、それを証しているのである。
 そして、この存在への異和の中心に位置するのが、宮沢賢治の、人間へのどす黒い嫌悪と愛憎の念であった。
 作者の「山川草木悉皆成仏」による仏教的世界観の先入見を取り払って虚心に作品を読むなら、誰にでも明々白々なことだが、賢治童話に登場する動物たちは紛れもなく人間の象徴にすぎない。「蜘蛛となめくぢと狸」や「ツェねずみ」「クンねずみ」のような作品を挙げるまでもなく、作者の毒念と冷笑の対象となる動物たちの哀れな生きざまには、人間という、他人との「比較」に弱い、見栄っぱりでさもしい卑俗な生き物への暗い憎悪が込められていることは明らかであるし、不条理な因果の連鎖に絡めとられ、孤独や嫉妬や自己嫌悪やはるかなる憧憬や生きる切なさに悶え苦しむ動物たちの生臭いドラマの数々は、人間的な、あまりに人間的な作者のこだわりが生み出した寂しい戯作的な慰め以外のなにものでもない。
 宮沢賢治は、イソップやアンデルセンのような最大級の寓話的力量をもった童話作家だった。
 当たり前といえばしごく当たり前のことではあるが、宮沢賢治が擬人化された生き物を登場させる場合、語り手による客観的な風景描写のシーンを除けば、現実の動植物の生存感覚を想起させることはほとんどない。
 そもそも動植物に人語をしゃべらせるという設定を立てた時点で、あるがままの生身の存在に対するわれわれの共感や想起の能力は大幅に希釈され、あるいは封じられてしまうのである。擬人化をもくろんだ時点で、既に、作者は、動植物を(あるいは動植物以外のあらゆる自然でも同じことだが)あるがままの存在から引き離し、生臭く息苦しい人間ドラマの枠内に封じ込めてしまうのだ。
 本当の動植物は、そもそも賢治童話のような苦悩とは無縁であり、大自然の摂理の中にぴたっと過不足なく収まり、自然に生き、自然に一生を終わる。動物たちは、食物連鎖的な不条理に苦しんだり、悩んだりはしない。恐怖や苦痛に駆られても、自意識をもてあますことなく、全てをごく自然に本能的に受け容れ、可能な限りの対応をし、即自的にたたかい、生き、死んでいく。食物連鎖や生存罪に悩み、もてあますのは、宮沢賢治という、あまりに人間的な一作者にすぎない。
 彼は、人間という生き物へのどす黒い嫌悪や愛憎の念からどうしても逃がれられなかった。そして、それはそのまま、彼の世界風景の原質ともいうべき、存在へのどす黒い異和の中心に位置するものであった。
 この意味で、宮沢賢治は、芥川龍之介や萩原朔太郎などと同じく、なによりも、資本制近代のもたらしたアトム化の病理がひとつの頂点を迎える大正から昭和初年という時代を生きた、一人の正統的な近代文学者というべきであった。
 賢治の文学は、彼の身体を繰り返し硬直させ、ぎりぎりと締めつけてくる、この冷ややかな存在の不条理感への捨て身のたたかい以外のなにものでもない、と私にはおもえる。
 
      2
 
 たとえば、「二十六夜」という陰惨な寓話作品がある。
 旧暦の六月二十四日から二十六日の三晩にかけて、天の川と三日月のはえる北上川流域の松林を舞台に、梟たちの群れを相手に経典の読誦と講釈を続ける坊主の梟の陰鬱な相貌と、その説教の合い間に進行する、「穂吉」といういたいけな子供の梟の不条理な死の、劇的な対比のドラマが活写されている。この寓話の見どころは、ひとえに、殺生を宿命づけられている畜生たちの呪われたる原罪の深さとその因果応報によるどす黒い地獄をこれでもかと粘着的に描出し、忍従と自己犠牲と極楽往生による彼岸的救済の尊さを説こうとする坊主梟の、異様なまでのマゾヒスティックな存在感にあるといっていい。
 この坊主によって詳らかにされる経典は次のようなものである。
 
「爾(そ)の時に疾翔大力(しっしゃうたいりき)、爾迦夷(るかゐ)に告げて曰(いは)く、諦(あきらか)に聴け、諦に聴け、善(よ)く之(これ)を思念せよ、我今汝(なんぢ)に、梟鵄(けうし)諸(もろもろ)の悪禽(あくきん)、離苦解脱(りくげだつ)の道を述べん、と。(中略)疾翔大力、微笑(みせう)して、金色(こんじき)の円光を以(もっ)て頭(かうべ)に被(かぶ)れるに、その光、遍(あまね)く一座を照し、諸鳥歓喜(くわんぎ)充満せり。則ち説いて曰く、/汝等審(つまびらか)に諸(もろもろ)の悪業(あくごふ)を作る。或(あるい)は夜陰を以て、小禽(せうきん)の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄(かばい)跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍して之を握(つか)む。利爪(りさう)深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ち之を裂きて擅(ほしひまま)に噉食(たんじき)す。或は沼田(せうでん)に至り、螺蛤(らかふ)を啄(ついば)む。螺蛤軟泥中にあり、心柔輭(にうなん)にして、唯温水を憶(おも)ふ。時に俄(にはか)に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱(もんらん)声を絶す。汝等之を噉食するに、又懺悔(ざんげ)の念あることなし。/斯(かく)の如きの諸の悪業、挙げて数ふるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟(をは)ることなし。昼は則ち日光を懼(おそ)れ又人及(および)諸の強鳥を恐る。心暫(しばら)くも安らかなるなし、一度(ひとたび)梟身(けうしん)を尽して、又新(あらた)に梟身を得、審(つまびらか)に諸の苦患(くげん)を被(かうむ)りて、又尽(つく)ることなし」(「二十六夜」、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』による。以下、本稿における引用も全て同全集による。ただし、ルビは( )で記し、一部省略した。)
 
 この中に、梟に象徴される禽獣のどす黒い原罪と恐ろしい悪業の無限連鎖の地獄図が集約的に説かれており、作品では、六月二十四日から二十六日の三晩にかけて、計四回にわたってこの文がしつこく繰り返し引用され、逐一その内容が詳述・敷衍されるのである。この粘着的な構成自体が既になんとも異様なこだわりを感じさせる上に、殺生罪の痛苦を生々しく喚起しようとする文章の写実的な描写力も残忍な迫力に満ちている。
 まず二十四日の晩には、「疾翔大力」という仏の由来が語られる。この仏は、「施身大菩薩」ともいい、もとは一匹の雀であったが、あるひどい飢饉の年、米も木の実もならず、草さえも枯れ果て、炎天と飢渇のために人も鳥も親兄弟の区別なく餓鬼道の地獄に堕ちた時、己れが棲みついていた家の親子を餓死から救うために、はるか遠くの林にまで赴いてなけなしの木の実を見つけて運び、ついには、一身を犠牲にして親子の餌食になってその生命を養ったという逸話の持ち主である。その功徳によって雀は疾翔大力という菩薩となり、悪業の衆生を憐れみ、たとえ火の中水の中であろうとも、この仏を念ずる者を必ず飛び込んで救い、浄土に連れてゆく大法力の持ち主であるとされる。
 「爾迦夷」というのは梟の上人で、早くから畜生の身のあさましさを嘆いて出離の道を求め、ついに疾翔大力にめぐり会ってその教えによって魂が救われ、天上に赴くことができたという仏である。
 このような施身菩薩に象徴される悲痛な自己犠牲の理念や浄土志向の法話と併行して、説経に飽き飽きした子供の兄弟の梟の無邪気なじゃれ合いの場面が描かれる。三人兄弟のうちの二匹は坊主の説法などそっちのけで、親の叱責もきかず元気よく枝の上で曲芸を披露し合ったり、にらめっこをして遊んでいる。ただ一人「穂吉」という子供だけが、おとなしくじっと説経に耳を傾けている。
 この穂吉のおとなしさと素直さが、物語の不条理性を増幅させる伏線となる。
 二十五日の晩には、穂吉の姿は、聴衆の中から消えている。あけ方近くに兄弟三人で遊びに出かけた折に、草刈りの子供に穂吉が捕らわれた事情が語られ、穂吉のおじいさんやお母さん、お父さんの打ちひしがれた姿が描かれる。
 その森の中の陰鬱な空気を一段と暗く染め上げるかのように、坊主の嘆きの説経が挿入されるのである。
 穂吉がこのような目に合うのも、前世や現世の数々の罪業の報いの結果であるから何事もよく諦めて受け容れ、己が宿命の不条理を恨むようなことがあってはならない、万一いのちを失うような局面に陥ったなら、ひたすら疾翔大力のおん名を唱えるようにと、父親の梟に穂吉への伝言を言いきかせた上で、坊主梟は、この現世は切ないことばかりで、涙の乾くひまもない苦界・忍土であり、われらは衆生と共に早くこの苦を離れる道を知らねばならぬと語り、昨夜の講釈の続きに入る。
 ここで説かれるのは、先の経典の引用文で生々しく描写された、梟の餌食となる「小禽」たちの運命である。
 
 「……小禽とは、雀(すずめ)、山雀(やまがら)、四十雀(しじふから)、ひは、百舌(もず)、みそさざい、かけす、つぐみ、すべて形小にして、力ないものは、みな小禽ぢゃ。その形小さく力無い鳥の家に参るといふのぢゃが、参るといふてもたゞ訪ねて参るでもなければ、遊びに参るでもないぢゃ、内に深く残忍の想を潜(ひそ)め、外又恐るべく悲しむべき夜叉相(やしゃさう)を浮べ、密(ひそ)やかに忍んで参ると斯(か)う云ふことぢゃ。このご説法のころは、われらの心も未(いま)だ仲々善心もあったぢゃ。小禽の家に至るとお説きなされば、はや聴法の者、みな慄然(りつぜん)として座に耐へなかったぢゃ。今は仲々さうでない。今ならば疾翔大力さま、まだまだ強く烈しくご説法であらうぞよ。みなの衆、よくよく心にしみて聞いて下され。
 次のご文は、時に小禽既に終日日光に浴し、歌唄(かばい)跳躍して、疲労をなし、唯々(ただただ)甘美の睡眠中にあり。他人事ではないぞよ。どうぢゃ、今朝も今朝とて穂吉どの処(ところ)を替へてこの身の上ぢゃ、」
 説教の坊さんの声が、俄(にはか)におろおろして変りました。穂吉のお母さんの梟はまるで帛(きぬ)を裂くやうに泣き出し、一座の女の梟は、たちまちそれに従(つ)いて泣きました。
 それから男の梟も泣きました。林の中はたゞむせび泣く声ばかり、風も出て来て、木はみなぐらぐらゆれましたが、仲々誰も泣きやみませんでした。星はだんだんめぐり、赤い火星ももう西ぞらに入りました。(中略)
「みなの衆、まづ試しに、自分がみそさざいにでもなったと考へてご覧(らう)じ。な。天道(てんたう)さまが、東の空へ金色(こんじき)の矢を射なさるぢゃ、林樹は青く枝は揺るゝ、楽しく歌をばうたふのぢゃ、仲よくあうた友だちと、枝から枝へ木から木へ、天道さまの光の中を、歌って歌って参るのぢゃ、ひるごろならば、涼しい葉陰にしばしやすんで黙るのぢゃ、又ちちと鳴いて飛び立つぢゃ、空の青板をめざすのぢゃ、又小流れに参るのぢゃ、心の合うた友だちと、たゞ暫(しば)らくも離れずに、歌って歌って参るのぢゃ、さてお天道さまが、おかくれなさる、からだはつかれてとろりとなる、油のごとく、溶けるごとくぢゃ。いつかまぶたは閉ぢるのぢゃ。昼の景色を夢見るぢゃ、からだは枝に留まれど、心はなほも飛びめぐる、たのしく甘いつかれの夢の光の中ぢゃ。そのとき俄(には)かにひやりとする。夢かうつつか、愕(おどろ)き見れば、わが身は裂けて、血は流れるぢゃ。燃えるやうなる、二つの眼が光ってわれを見詰むるぢゃ。どうぢゃ、声さへ発(た)たうにも、咽喉(のど)が狂うて音が出ぬぢゃ。これが則ち利爪(りさう)深くその身に入り、諸(もろもろ)の小禽痛苦又声を発するなしの意なのぢゃぞ。されどもこれは、取らるゝ鳥より見たるものぢゃ。捕る此方より眺むれば、飛躍して之(これ)を握(つか)むと斯(か)うぢゃ。何の罪なく眠れるものを、たゞ一打(ひとうち)ととびかゝり、鋭い爪でその柔(やはらか)な身体(からだ)をちぎる、鳥は声さへよう発(た)てぬ、こちらはそれを嘲笑(あざわら)ひつゝ、引き裂くぢゃ。何たるあはれのことぢゃ。この身とて、今は法師にて、鳥も魚も襲はねど、昔おもへば身も世もあらぬ。あゝ罪業のこのからだ、夜毎(よごと)夜毎の夢とては、同じく夜叉(やしゃ)の業をなす。宿業の恐ろしさ、たゞたゞ呆るゝばかりなのぢゃ。」
 風がザアッとやって来ました。木はみな波のやうにゆすれ、坊さんの梟も、その中に漂ふ舟のやうにうごきました。(「二十六夜」)
 
 まことに陰惨な坊主の精神というほかはない。旧約聖書にも似た、人間の無力さと存在の不条理性の強烈さを、これでもかと印象づけようとする残忍な作為に満ち満ちている。隠されたマゾヒズム、狡猾に人の魂を蝕む、慈悲を装った冷酷さ。キリスト教や仏教には、宗派を問わず、大なり小なりこの手の死臭がつきまとっているが、ここには、宮沢賢治の最深の暗部が透けてみえる。
 しかしそれと同時に、この坊主梟のうさん臭い、陰湿な存在感の濃密な描写には、作者の強烈な異和のおもいが込められているのも、またたしかなことである。
 賢治の法華経信仰の観念的なご託宣に鼻づらをひきずり回されて、作品を作品として虚心に読むことのできなくなった頭でっかちのインテリか、さもなくば、死の恐怖に全身が麻痺し、生きることの獰猛さの芽を完全に摘み取られて、彼岸への蒼ざめた救済に取りすがるしか能のなくなった人間でもない限り、「二十六夜」に描かれた坊主の説教や洗脳に胸のむかつくような吐き気と憤りをおぼえないはずはない。
 やり切れない不慮の災難に遭遇した穂吉の両親やおじいさんの、必死に嘆きをこらえるけなげな姿やデリケートな心づかいの哀切な描写の合い間に、原罪と因果応報と厭離穢土・欣求浄土の陰々滅々とした説教を読まされるほど、神経にさわることはないのだ。
 作者の宮沢賢治が、そのような死臭に呑み込まれて人間らしい暖かい身体の麻痺し切った冷酷なマゾヒストになり下がった人物でないことは、土俗的な荒々しい闇の息吹や生きる切なさへのゆたかな共感のおもいを表現した彼の童話作品が、なによりも雄弁に証明していることである。
「二十六夜」に描かれた坊主精神のどす黒い陰湿さ・酷薄さの中に、われわれは、現世への不条理感と虚無の妄念をいたずらに煽り立てる観念的マゾヒズムへの賢治の身体的な抗いの激しさを読み取るべきなのだ。
 坊主の説教をよそにのびのびと樹上で戯れる穂吉の兄弟たちの闊達さの描写もまた、作者のすこやかな身体性の無意識的な抗いの姿勢が生み出したものにほかならない。兄弟の内、坊主の説法をありがたがって真剣に聴聞しているおとなしい素直な穂吉が、真っ先に坊主精神の餌食になってしまうという構成にも、作者の無意識の暗い鬱屈が看取される。
 作者のこの意識と無意識の落差は、三日目の二十六夜の描写に至って劇的なピークを迎える。ここでは、解き放たれる時に人間の子供に脚を折られたために飛べずに墜落し、瀕死の痛みの床にありながらけなげに聴聞を望む穂吉の前で、性懲りもなく死の説教が続けられる。
 何の罪もない穂吉の脚をわざわざ面白半分に折った人間たちへの復讐の念に燃える梟たちを、そんなことをすれば血で血を洗う修羅の闘争が繰り返されるだけだと懸命になだめた上で、坊主は、経文の最後の一節について講釈する。
 
「……一の悪業によって一の悪果を見る。その悪果故に、又新(あらた)なる悪業を作る。斯(かく)の如く展転して、遂にやむときないぢゃ。車輪のめぐれどもめぐれども終らざるが如くぢゃ。これを輪廻(りんね)といひ、流転(るてん)といふ。悪より悪へとめぐることぢゃ。継起して遂に竟(をは)ることなしと云ふがそれぢゃ。いつまでたっても終りにならぬ、どこどこまでも悪因悪果、悪果によって新に悪因をつくる。な。斯(か)うぢゃ、浮(うか)む瀬とてもあるまいぢゃ。昼は則ち日光を懼(おそ)れ、又人及(および)諸の強鳥を恐る。心暫(しば)らくも安らかなることなし。これは流転の中の、つらい模様をわれらにわかるやう、直(ぢ)かに申されたのぢゃ。勿体(もったい)なくも、我等は光明の日天子(にってんし)をば憚(はば)かり奉る。いつも闇とみちづれぢゃ。(中略)もし白昼にまなこを正しく開くならば、その日天子の黄金の征矢(そや)に伐(う)たれるぢゃ。それほどまでに我等は悪業の身ぢゃ。又人及諸の強鳥を恐る。な。人を恐るゝことは、今夜今ごろ講ずることの限りでない。思ひ合せてよろしからう。諸の強鳥を恐る。鷹やはやぶさ、又さほど強くはなけれども日中なれば鳥などまで恐れねばならぬ情ない身ぢゃ。……」
 梟の坊さんは一寸(ちょっと)声を切りました。今夜ももう一時の上(のぼ)りの汽車の音が聞えて来ました。その音を聞くと梟どもは泣きながらも、汽車の赤い明るいならんだ窓のことを考へるのでした。講釈がまた始まりました。
「心暫(しば)らくも安らかなることなしと、どうぢゃ、みなの衆、たゞの一時(いっとき)でも、ゆっくりと何の心配もなく落ち着いたことがあるかの。もういつでもいつでもびくびくものぢゃ。一度(ひとたび)梟身(けうしん)を尽して又新(あらた)に梟身を得(う)と斯(か)うぢゃ。泣いて悔やんで悲しんで、つひには年老(と)る、病気になる、あらんかぎりの難儀をして、それで死んだら、もうこの様な悪鳥の身を離れるかとならば、仲々さうは参らぬぞや。身に染み込んだ罪業から、又梟に生れるぢゃ。斯(かく)の如くにして百生(しゃう)、二百生(しゃう)、乃至(ないし)劫(こふ)をも亙(わた)るまで、この梟身を免れぬのぢゃ。審(つまびらか)に諸の患難を蒙(かうむ)りて又尽くることなし。もう何もかも辛いことばかりぢゃ。さて今東の空は黄金(きん)色になられた。もう月天子(ぐわってんし)がお出ましなのぢゃ。来月二十六夜ならば、このお光に疾翔大力(しっしゃうたいりき)さまを拝み申すぢゃなれど、今宵とて又拝み申さぬことでない、みなの衆、ようくまごゝろを以て仰ぎ奉るぢゃ。」
 二十六夜の金いろの鎌の形のお月さまが、しづかにお登りになりました。そこらはぼおっと明るくなり、下では虫が俄(には)かにしいんしいんと鳴き出しました。
 遠くの瀬の音もはっきり聞えて参りました。
 お月さまは今はすうっと桔梗(ききゃう)いろの空におのぼりになりました。それは不思議な黄金(きん)の船のやうに見えました。
 俄かにみんなは息がつまるやうに思ひました。それはそのお月さまの船の尖った右のへさきから、まるで花火のやうに美しい紫いろのけむりのやうなものが、ばりばりばりと噴き出たからです。けむりは見る間にたなびいて、お月さまの下すっかり山の上に目もさめるやうな紫の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派な人が三人まっすぐに立ってゐます。まん中の人はせいも高く、大きな眼でじっとこっちを見てゐます。衣のひだまで一一はっきりわかります。お星さまをちりばめたやうな立派な瓔珞(やうらく)をかけてゐました。お月さまが丁度その方の頭のまはりに輪になりました。(中略)
「南無疾翔大力(なむしっしゃうたいりき)、南無疾翔大力。」
 みんなは高く叫びました。その声は林をとゞろかしました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩(しゃしんぼさつ)のおからだは、十丈ばかりに見えそのかゞやく左手がこっちへ招くやうに伸びたと思ふと、俄(にはか)に何とも云へないいゝかをりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。たゞその澄み切った桔梗いろの空にさっきの黄金(きん)いろの二十六夜のお月さまが、しづかにかかってゐるばかりでした。
「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。
 ほんたうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまゝ、息がなくなってゐました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。(「二十六夜」)
 
 悪業の無限連鎖による応報と輪廻の修羅道の摂理が、これでもかと粘着的に説き尽くされ、そのマゾヒスティックな不条理の地獄図によって聴衆の内に喚起された絶望の果てに、一転して、紫雲たなびくヴァーチャルな浄土イメージによる倒錯的な救済の理念が提示される。旧暦の七月二十六日に疾翔大力をはじめとする三尊が現われるという梟世界の言い伝えがあるが、穂吉と梟たちの信仰の力によって、一月早い六月二十六日に三尊が出現し、穂吉の魂を首尾よく浄土へと導くのである。
 なんとも唐突で安直な、間の抜けた落ちというべきである。
 坊主のじめじめしたマゾヒズムも、ここまで来ると、やり切れなさや憤りを通り越して、作者の乾いたユーモラスな悪意すら感じさせるものとなっている。
 この作品には、他界イメージの闇の象徴であるはずの「月」も、賢治童話でおなじみの「天の川」や「汽車」も、晩年の「銀河鉄道の夜」のような深々とした透明な浄福の感触をたたえてはおらず、ただ痩せ細った現世のうら寂しい酷薄さと他界への悲哀感に満ちた空虚な憧憬を伝えるだけの効果しか与えてはいない。
 穂吉のうすら笑いを浮かべた死相も、成仏などとはほど遠く、われわれの心を冷えびえとさせるだけだ。
 地上的不条理の天上的イメージによる救済という賢治童話の手法が、これほどまでに作者の意図を裏切り、その不自然さに対する作者の無意識的身体的な苦しみと悪意が、これほどに正直に吐露された作品は他にない。
 ここには、宮沢賢治の意識と無意識、理念と身体の分裂・葛藤のドラマが、最も白熱した表現形態をとって顕われているといってよい。
 説教の最中に「上りの汽車」の音が聞こえてくると、「梟どもは泣きながらも、汽車の赤い明るいならんだ窓のことを考へるのでした」というさりげない描写にも、作者の身体的な抗いの姿勢が垣間見えている。
 名作「よだかの星」は、この「二十六夜」で表出されたモチーフが、浄土的彼岸的救済という自己欺瞞の構図に転落することなく、力強く肯定的なイメージで展開された象徴的作品とみなすことができる。
 

      3
 
「よだかの星」では、作者の存在への異和感・不条理感は、己れの自然な身体性への拒絶の苦しみとなって表出される。
主人公の「よだか」は、顔が「ところどころ、味噌をつけたやうにまだら」で、くちばしは「ひらたくて、耳までさけて」おり、足は「よぼよぼ」で一間と歩けないというみにくい鳥で、他のあらゆる鳥たちから嫌悪され、さげすまれている。鋭い爪もくちばしもないので、どんな弱い鳥でもよだかを恐がることはないし、昼の間はまぶしくて空を飛べず、曇った薄暗い日や夜でなくては活動できない。
本当は鷹の仲間でもなんでもないのだが、よだかという名がついているのは、一つには、その羽が「無暗に強くて、風を切って翔けるときなどは、まるで鷹のやうに見えた」ことと、もう一つは鳴き声が「するどくて、やはりどこか鷹に似てゐた」ためであった。
要するに、まっとうな鳥類の社会では全く存在価値が認められない、忌まわしい〈異形〉(いぎょう)の生きものであり、卑賤視の対象でありながらも、どこかで他の鳥類を脅かさずにはおかない、不気味な闇の気配をまつわりつかせた存在なのである。
 自分に似た名をもつことを激しく嫌悪する鷹は、よだかを訪れて無理矢理改名を迫り、断れば殺すと威嚇する。何一つ悪いことはしていないのに、なぜ自分はみんなにこうも嫌われるのかと打ちひしがれながら、よだかは夜中にエサを求めて巣から飛び立ってゆく。
 
 あたりは、もううすくらくなってゐました。夜だかは巣から飛び出しました。雲が意地悪く光って、低くたれてゐます。夜だかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまはりました。
 それからにはかによだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、まるで矢のやうにそらをよこぎりました。小さな羽虫が幾匹も幾匹もその咽喉(のど)にはひりました。
 からだがつちにつくかつかないうちに、よだかはひらりとまたそらへはねあがりました。もう雲は鼠色になり、向ふの山には山焼けの火がまっ赤です。
 夜だかが思ひ切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたやうに思はれます。一疋(ぴき)の甲虫(かぶとむし)が、夜だかの咽喉にはひって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたやうに思ひました。
 雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいやうです。よだかはむねがつかへたやうに思ひながら、又そらへのぼりました。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はひりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまひましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。(「よだかの星」)
 
 毎晩たくさんの羽虫を食べている己れの殺生罪の宿業を突如として自覚させられるシーンである。ここで重要なのは、食物連鎖的な視点にめざめたよだかの呪いなどではない。「はねをまっすぐに張って、まるで矢のやうにそらをよこぎり」ながら小さな羽虫を次々と呑み込み、闇夜と山焼けの火をバックに、大地すれすれに降り立ちながら鮮やかに反転するよだかのイメージに象徴された獰猛な野性の息づかいと、甲虫を呑み込んだ時の、逃れがたい不条理性の痛覚の、劇的な〈落差〉の感触こそが重要なのだ。
「夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたやうに思はれ」るという生命的な飛翔の感覚と、そういう己れ自身の自然な身体性を封じようとする〈存在への異和〉のメッセージの葛藤の苦しみこそ、「よだかの星」という作品を読み解くキーとなるものである。よだかが己れの殺生を呪われたる絶望的な原罪として意識させられる契機が、闇の化身である〈異形〉の存在としてのよだかのあり方に対する他の鳥類たちの理不尽な〈排除〉のまなざしにあったことは、見逃してはならぬことである。
「よだか」という存在の自然な身体性に対して浴びせられた他者の、あるいは世間の〈負〉のメッセージの累積が、ついには、よだか自身の己れの身体性に対する徹底的な拒絶の視線をひき出したのだ。
 人は、他者や世界に対する異和を、己れの内奥に息づく自然な身体の渇きに根ざした生命的なまなざしを紡ぎ出すことで癒し、修復することは可能である。だが、己れの身体性のあり方そのものに根源的な〈負〉のメッセージを浴びせられ、それを相対化しはね返すことができない時、生き難さのぎりぎりの懸崖にまで追い込まれてしまう。己れ自身の身体性に対する反駁不能の異和こそ、人間を究極的な死へと追い込んでゆく悪しき想念なのである。
 絶望の淵に叩き落とされたよだかは、灼け死んでもいいからあなたの所へ連れて行ってくれと、太陽やオリオンやその他の輝ける星々に訴えかけるが、全く相手にしてもらえない。
 
 よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉ぢて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくといふとき、よだかは俄(には)かにのろしのやうにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲ふときするやうに、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
 それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむってゐたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるへながら、いぶかしさうにほしぞらを見あげました。
 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらゐにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
 寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせはしくうごかさなければなりませんでした。
 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのやうです。寒さや霜がまるで剣のやうによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまひました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。さうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちてゐるのか、のぼってゐるのか、さかさになってゐるのか、上を向いてゐるのかも、わかりませんでした。たゞこゝろもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居(を)りました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のやうな青い美しい光になって、しづかに燃えてゐるのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。
 そしてよだかの星は燃えつゞけました。いつまでもいつまでも燃えつゞけました。
 今でもまだ燃えてゐます。(「よだかの星」)
 
 何度読み返しても、息づまる緊迫感をたたえた美事な文章というほかはない。
 寓話的な象徴手法を駆使しながら、このような実存的な臨場感を描破し切ってみせた作者の力量と不幸をおもうと、感無量のおもいに駆られる。
 世界からの徹底的な拒絶と己れ自身による己れ自身に対する絶望的な負のメッセージの一切を蹴散らし、ありとあらゆる相対的な価値評価のまなざしを消し去って、いかなる他者の場所とも交換不能な、己れ自身という、誇り高い〈孤〉の絶対的な屹立の場所にたどり着いてみせた「よだかの星」の、灼熱の憤怒と生命的な輝きの気高さはどうだ。
 これはひとつの死のイメージだ。だが、ありとあらゆるちっぽけな現世的秩序の桎梏を根源的に超越してみせた、魂の転生の軌跡なのだ。
 私は、「よだかの星」を、無名の巨星として屹立してみせた文学者宮沢賢治の、自己肯定と自立の凄まじい土性骨を示す記念碑的作品とみなしたい。(この稿続く)
 





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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第1回) 川喜田晶子

  • 2016.02.18 Thursday
  • 21:15

はじめに
 
 明治36年(1903年)5月22日、藤村操(当時16歳10ヶ月)という少年が自殺した。
 日光華厳の滝に身を投じる直前、彼が楢の大樹の幹を削って書き遺した「巌頭之感」は呪文のように当時の若者の心をとらえ、後追い自殺者はその後四年の内に未遂も含め百八十五名にのぼったとされる。
 
「巌頭之感」の全文は次のようなものだ。
 
 悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、
 五尺の小躯を以って此大をはからむとす。
 ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。
 万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解。」
 我この恨を懐て煩悶終に死を決す。
 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
(注)
 
 一高の哲学科に入学して半年ばかりの少年の、「不可解」を理由としての自殺は、当時のメディアを通じて測り知れない影響を若者たちに与えた。
 今も、この「巌頭之感」を読み、後追いに走った青少年の世界風景について想いをめぐらす時、藤村操のタナトスのあり方とともに、当時の青少年が彼の死と「巌頭之感」の文体に吸引されて発露させたタナトスの激しさとその遍在の様相にも衝撃を受けざるを得ない。
 日本の近現代精神史に底流する不条理感の質が、ほんとうはどのようなものであったのか、おそらくは幕末に始まり、現在に至るまで途切れることなく大衆的な規模で蔓延していた不条理感というものを、この事件は極めて高度な象徴性を帯びて今も私たちに突きつけているようにおもわれる。
 
 この連載を「〈藤村操世代〉の憂鬱」と題したのは、藤村操と同じ頃に生を享けた表現者たちに、同質の不条理感が強く刻印されているのを感じるからであり、彼らの表現を読み解くことで、当時の青年たちの存在のあやうさの核に、〈近代〉が刻みつけてしまったものの質感を浮かび上がらせることができるかもしれないと考えたからである。
 石川啄木(明治19年生)をはじめ、北原白秋(明治18年生)、若山牧水(明治18年生)、萩原朔太郎(明治19年生)、谷崎潤一郎(明治19年生)、折口信夫(明治20年生)、中里介山(明治18年生)、少し遅れて芥川龍之介(明治25年生)等がいる。
 彼らの前後の世代と比較するとき、仮に同じ課題を悩み、表現していたとしても、生存感覚には異質なものが感じられる。独特の危うさがある。その危うさを初めて病んだ世代ならではの特徴的な資質がある。彼らよりも前の世代ほど身体感覚が野太くはなく、彼らよりも後の世代ほど神経を病み切ってはいない、そのはざまの資質なればこそ、時代の空気を全身的によく感受して痛みとして鮮烈に表現しようとする。
 世界からコスミックなまなざしが剥落し、意味や価値がそぎ落とされ、倫理が地にまみれ、人々の感受性から血や肉がそぎ落とされて神経がむき出しになってゆくプロセスというものを、〈藤村操世代〉は、己れの多感な成長過程を通じて目の当たりにしたのである。
 その〈傷(トラウマ)〉の質感を浮かび上がらせてゆくことで、今なお私たちの存在にしがらんでいる桎梏の本質をとらえて解体できればとおもうし、縁ある読者一人ひとりが深々と奥ゆきのある世界を呼吸し、己れの身体と世界観を更新するための内省のよすがともなればとおもう。
 
 まずは藤村操の自死のいきさつと短い生涯の軌跡、彼の周囲の青少年の反応、彼が影響を受けたであろう表現者の作品、彼の死に衝撃を受けた同時代の表現者の反応や作品などを読み解きながら、「藤村操事件」の意味と、彼が生きた時代の病理や課題の本質をさぐってゆきたい。
 
 藤村操の死をめぐる詳細ないきさつと種々の反響については、『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(平岩昭三著 不二出版 2003年)が緻密な追跡を行っている。(この連載において、操の死をめぐる事実関係について述べる際には、基本的にこの書を参考にしている。)また、土門公記の『藤村操の手紙―華厳の滝に眠る16歳のメッセージ―』(下野新聞社 2002年)といった著作もあるが、いずれの著者も、藤村操をめぐる資料をどのように読み解くかについては控え目な言及しかしていない。彼らに限らず、操事件の意味というものを、この国の近代史にきちんと位置づけた考察はいまだなされていないのである。
 
 事件は直ちに大衆的な規模で人々を震撼させた。その反応は、甘い感傷による一体化願望と、衝撃を解毒しようとする欺瞞の激しさとによって浅薄な潮流を惹き起こしたのだったが、その解毒・欺瞞の激しさによってこそ、事件の衝撃の大きさが推し測られるとも言える。
 また、数少ないけれども、この事件によって実存的な危機を余儀なくされ、自らも死を、あるいは逆により困難な生を、真摯に択びとった者たちもいた。
 いずれにせよその衝撃の深さは生易しいものではなかった。にもかかわらず、その衝撃の意味が真に解き明かされたことは一度もなかったのである。
 近現代を通じて誰もが躍起になってフタをし続けた〈闇〉の、最も高度に象徴的な形、と私がおもうのもその故である。
 少しでもその〈闇〉の姿を明らかにできればとおもう。(この稿続く)
 

(注)藤村操事件の第一報として明治36526日付の「万朝報」に、操の叔父である那珂通世の哀悼文とともに掲載されたものを、平岩の前掲書より引用した。
 

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川喜田八潮公開インタビュー〜失われた闇の世界〜  川喜田八潮

  • 2016.02.18 Thursday
  • 15:47

 この稿「川喜田八潮公開インタビュー〜失われた闇の世界〜」(「星辰」第八号[2004年・春刊行]所収)は、2002年・六月に、当時私が勤務していた成安造形大学の芸術計画クラスの学生諸君が企画・開催した公開インタビューの内容を基に、学生新聞「かうばう」誌上に掲載された文章を再掲させていただいたものである。
 
*****************************
 
 誌上再現・川喜田八潮公開インタビュー(二〇〇二年・六月 於・成安造形大学)
「失われた闇の世界」
 
 昨年六月に行われ、大好評だった川喜田八潮助教授の公開インタビュー。今回、川喜田先生の新訂を加えて「かうばう」誌上に帰ってきた!
 公開インタビューを見た人も見てない人も、失われつつある「闇の世界」について考えてみよう!
 
『となりのトトロ』と『火垂るの墓』の世界風景
 
インタビュアー(以下I) 先生は宮崎アニメの評論を一番初めにされていますが、なぜそのテーマを選ばれたのですか?
 
川喜田先生(以下K) 僕が宮崎アニメ論によって評論家としてのスタートを切ったのは、今からちょうど十年前の一九九二年です。
 どうしてアニメを評論の対象として選んだのかと言うと、全くの偶然なのです。僕はそもそもアニメーションをさかんに享受するような少年期を過ごしていない。一九五二年生まれで、幼児期と少年期は五○年代から六○年代の前半なんですね。この頃アニメーションはまだ映像の中心的な表現手段ではなかった。ウォルト・ディズニーの原作を白黒で、日本で放映したりしていましたけどね。
 小学校時代になると、アニメーションですごく印象に残っているのは、東映の時代劇なんです。『少年猿飛佐助』とか『安寿と厨子王丸』とかね。東映のアニメーションは素晴らしくて、あのゆるやかな、舞いのような曲線っていうのは、七○年代以降の日本のアニメーションではむしろできていない。失ってしまったものです。今日の「失われた闇」っていう問題にも関わってるんじゃないかと、考えています。
 
I はい。
 
K それで、僕はアニメーションよりも実写で育っているんですね。テレビのアニメーションは、僕が小学五・六年頃になって初めて視野の中に登場してきたんです。よく観たのは、『狼少年ケン』と『少年忍者・風のフジ丸』、それに『鉄腕アトム』です。いずれも、熱狂的にはまりました。でも、白土三平さんの『忍者施風』という血湧き肉踊るマンガを原作とする『風のフジ丸』は、今でも大好きで観直してみたいですが、小学校のときあんなに熱中した『鉄腕アトム』の方は、全くもって印象が希薄なのです。
 
I それはなぜなんですか?
 
K そこがおもしろいところなんですね。宮崎アニメと関係してくるんです。
 自分が大きくなって産業社会の中に生きていて、非常に苦しい。そのとき、子供の頃の懐かしい風景を思い起こすわけですよね。そして、思い起こすものは、ほとんど六○年代までの実写の映像と、僕の育った闇の風景の記憶です。人間の顔、街の通りとかね。あるいは、お地蔵さんの祠とか。それで、アニメの『鉄腕アトム』はあんなに熱中していたのに全く思い浮かばない。『ウルトラマン』は、私が中学校の頃に登場したんですが、これも、全然印象にない。
 だから僕はアニメーションを批評の対象として選ぶ縁の最も薄い人間だと思っています。大人になってからもあんまり観てないんです。かみさんが僕より少々若いんですが、『宇宙戦艦ヤマト』を観て育った世代なんです。それで初めて、それなりにおもしろいなぁと思いました。それから後は、八○年代の半ばすぎまで、僕はアニメーションの世界とは全く縁がなかったんです。
 ところが偶然、『風の谷のナウシカ』をテレビで放映されたときに観たんです。それは、すごくおもしろかった。そこで少し、アニメーションに興味が湧いてきたんです。そして『天空の城ラピュタ』を観て、僕が体験した昔の風景と、つながったんですよ。異国の風景ではあるけど、流れている時間や空気がすごく近かった。そして、宮崎駿という作家にある種の懐かしさを覚えて、この人の作品を真面目に観たいなと思ったんです。
 そんなときに『となりのトトロ』を映画館に観に行ったわけです。そしたら、『トトロ』がとにかく良かったんですね。僕の小さい頃の風景そのままだったんです。でもそのあと、同時上映の高畑勲さんの『火垂るの墓』を観たら、せっかく『トトロ』を観ていい気分になっていたのに、天国から地獄に転落したような気分にさせられたのです。僕の中に眠っていた潜在的な虚無が、高畑さんの映像の衝撃力で引きずり出されていくんですよ。それはすごいもので、体の中からブァーと噴き上げてくると同時に、呪縛され、呑み込まれていくんです。だから、映像から一歩も動けなくされてしまうんですよね。
 僕の近代文学的な評価尺度のひとつとして、その時代の病理をどれだけ深くシンボライズしているか、あるいは写実的に描けているかによって文学的な価値を決めようというのがあるんですが、それから言うと高畑さんの『火垂るの墓』は第一級品なんです。
 だけど、僕は『トトロ』の後にそれを観たときに、何か根本的に許せないものがあったんですよ。それは、映画館に結構子供がいるわけですよ。幼児期の子供にこのような世界風景をインプリントしてはいけないと、まず倫理的に考えたわけです。この作品は、人生は生きるに値しないものであるという負のメッセージによって塗り固められています。清太と節子が生きるためにあらゆる努力をする。その努力は非常に見事に描かれている。僕はそれはすごく高く評価するんです。
 ところが、それもとどのつまりはすべて無意味なもがきでしかないというひとつの暗黙のメッセージが画像全体の隅々にまで流れている。それはね、世界の不条理の極限みたいな世界で、シェイクスピアで言うと『リア王』の世界です。シェイクスピアの場合は劇の形だからまだいいんですけど、高畑さんの場合は、アニメーションの手法でとことんリアリズムにしてしまった。
 そして、それは現在の産業社会に生きている我々大人の虚無までひきずり出してしまう。高度産業社会っていうのはむなしい虚妄の文明であって、人間の健気な努力は無に等しい、そういうメッセージ性を僕は強く感じた。
 それで『トトロ』と『火垂るの墓』は、ものすごい光と闇のコントラストの組み合わせだと思った。この組み合わせを映画館で観せることは、なんかすごくシンボリックなことに感じました。このふたつの作品の世界風景は、僕にとって表現する根底に関わる何かだったんです。それが、僕の批評のスタートなんですね。
 それ以前にも、文章は書いていたんですけど、全て無に思える。もう一度、物を考える原点に立ち帰って、『トトロ』と『火垂るの墓』が示唆している世界風景をめぐる問題をとことんつきつめてみなければならない。そう考えました。
 
I 先生の著書『日常性のゆくえ』の中で、高畑さんを批判している文章がありますね。
 
K 今から考えると、誠に気の毒なことをしたなと思っています。これは僕が書き手として、まだ若々しくスタートしたばかりで、自分の気持ちで頭がいっぱいで、高畑さんのことを思いやることができなかった。だから、彼に対してすごく残酷なことをしたなという傷は僕の中にあるんですよね。
 
ポストモダニズムという敵
 
I 高畑さんの『火垂るの墓』の後の作品についてはどう思われますか。
 
K 僕が『火垂るの墓』をけちょんけちょんにやっつけてしまって、読者の中からものすごく賛否の声がきたんですね。
 僕があの本を書いた後の一番大きな事件は、ある大学の先生でね、名前にさしさわりがあるから言えませんけれども、東大出のエリートで、歳は当時三十代の若手でね。その人物は、ある論文の中で、僕のことを、『火垂るの墓』がどれだけ恐ろしい衝撃力と殺気のある作品であるかを初めて明らかにした、と最大限にほめてくれるんです。
 それは僕にとって名誉なわけですが、だけれどもこの本の生命はそこまでだ! と言うわけですよ(笑)。川喜田という男は、家族とか、身体とか、生活といったような、無意味な概念を擁護する奴だって言うんです。すごいことを言う奴だなって思ったんですね。家族、身体、生活。これは無意味だって言うんですよ。
 その論文を見たとき、この人物は、現世に対して、あるいは自分を育ててくれた親、家族というものに対して、どれほどの憎しみを持っているだろうかと思いました。どうしたらこういう男が育つんだろうかと思ったら、その人物の思想の根底にあるのがどうもポストモダンらしいのです。
 僕はそれまで日本のポストモダニストの文章しか読んだことがなかったんですが、ポストモダンはもっと穏やかなものだと思っていました。つまり、制度的な網の目をしたたかにくぐり抜けながらエロス的な差異と戯れて、意味とか価値などの重苦しい桎梏を越えて軽やかに楽しく生きる、という程度の主張だと思っていたのです。
 でもそのとき初めてフランスの原典のポストモダニストの文章を読んでみようと真剣に考えました。そして(ジル・)ドゥルーズと(フェリックス・)ガタリの『アンチ・オイディプス』という本を徹底的に読み込んだのですが、その本によると、家族は資本主義社会に生きる人間の汚らしい本性、所有の病というものを生み出していく源泉であるから、家族という虚構を壊さないとだめだというような、ごく簡略化していえばそういう趣旨の事が書いてありました。だからこの人物はドゥルーズやガタリから強烈にインパクトを受けているんだなと思いました。それから僕はポストモダニズムに対して最大の敵になってしまいました。
 
I 先生は逆に、生活や家族を大切にしないといけないとお考えですか。
 
K 僕は生活や家族という概念は絶対に壊してはいけないと思います。それ以上に大切なのは身体という概念ですね。僕は、ヴァーチャル・リアリティーを全部否定するわけじゃないんですが、身体を否定したところに生まれてくるヴァーチャルならば、僕の理念にとっては敵になる。身体という概念が生き続けている限りは生活と家族という概念はどれだけ歪んでいても生き残るし、生き残らなければならない。
 そして家族というものが本当にピュアな形を取り戻すためには、まず身体というところから考え直さなければならない、と思っています。
 だから僕は、現在の私たちの社会の家族のあり方を必ずしも肯定しているわけではありませんけれども、家族という概念そのものを否定しているわけでは決してありません。身体、生活、家族といった概念を抜きにしたら、人間は地獄に堕ちるという思いがあるのです。
 
虚無的な闇、生命的な闇
 
I  では、もうひとつの先生の大事な要素である〈闇〉についてお聞きしたいのですが、そもそも闇とはどういうことですか?
 
K 僕の批評理念の中で、一番大事なものとして、闇という概念があるわけなんですけどね。私は、先程も言ったような闇の豊かな世界で育ちました。だから、『トトロ』を観て、私の小さい頃の世界だと感じたのです。
 
I 闇というとトトロの森のような世界を言うのですか。
 
K そうなんです。例えば『トトロ』の中に出てくるバス停のシーン、そこにお稲荷さんの祠がありますよね、そして裸電球がひとつある。闇が非常に深くて、そこに雨がシトシト降っている。ああいうのは、私の原風景なんです。それから、例えばサツキが薪を抱えて家の中に持っていこうとすると突風が吹いてきて、薪が舞い上がるシーン、ああいうのもまさに僕の原風景。私は『星辰』の中の「闇の喪失」という文章でこう書いています。
 
「私は、子どもの頃の風景をよく憶えている。夜の闇は今よりもはるかに深く、月は冴々とし、風のうねりや樹々のざわめきは身の内にこだまし、しじまのささやきや天地の気配は、はるかに身近に感ぜられた。裸電球やろうそくの灯りに照らされた陰影の深さは、夜道を歩く人の背中や足音にも、また、家族の会話や沈黙にも奥ゆきと落着きのあるわびしさを与えていたし、犬の遠吠えすら、今と昔ではまるで違うのである」
 
 つまり、これが『トトロ』の世界なんですね。そういうイメージを思い浮かべてもらうといいと思うんです。もっと詳しく闇のイメージを規定しますと、闇というのはコスモスだと考えている。コスモスとは宇宙のことなんですが、宇宙には二種類あるんです。
 ひとつは近代科学が我々に見せている宇宙のイメージですね。ひとりひとりの人間とは何の関係もない客体としての物質があり、その物質が集まって地球という惑星ができ、太陽ができ、宇宙ができるというイメージですね。要するに、世界を構成している森羅万象の存在は、全てがバラバラの個体であって、物理の法則に従って、ぶつかったり離れたりしながら、偶然的にいろんな現象が起きている。このような近代科学的な見方をした宇宙がある。
 この宇宙を仮にユニヴァースといいますと、そのユニヴァースに対して、もうひとつの宇宙をコスモスと呼ぶことができます。これは、ひとりひとりの存在と宇宙が別のオブジェクトではないと考えることです。例えば、山の中に霧が深くたちこめている。その霧と私がつながっている、私であると考えることです。
 
I 霧を私だと考える?
 
K 山も、風も、月も、そして闇も、あらゆるものが私だと考える。刻々と変わってゆく風景が、我々と切り離された、無関係な客体としてあるのではなく、そこにある存在と我々とが、我々を超えた大いなる働きによってある意味を与えられている。そしてそれを私の本体なんだと考える。だからその風景は私の前に偶然に現れた風景ではないですよね。私がその風景を見ていることが、まさに私がそこにいるということなんです。
 そのようにして、私は私でありながら、個体としての私を超えている。私の中に宿りながら、私を超えている。これがコスモス、私の闇の原型なんです。
 だから、闇にはいろんなものがあるんですね。太陽のような、みずみずしい生命的な闇。『トトロ』のシーンで言うと、最初にサツキとメイとお父さんが新しい家に着いて川を眺めると、水がキラキラと光るでしょ。ああいう、みずみずしい生命的な風景も、ひとつのコスモスなんですね。
 逆に、世界の中で破壊の狂気が荒れ狂って、この世界がカオスと凶暴さの姿をさらしているときも闇である。それから何も考えず、ボーッと風に吹かれて溶けていくような気持ちになっているのも、闇のあらわれなんですね。
 闇は、常にそのようにして、虚無と生命、猛々しさと優しさが拮抗するような顔を見せながら、我々の身体の中にうねっているわけですね。そのうねってる存在そのものを私として肯定するわけですね。
 だから、高畑さんの『火垂るの墓』のような虚無的な闇も、ちゃんと私の中で場所を与えられている。だけど『日常性のゆくえ』を執筆していたときは、その場所に呑み込まれたくなかった。そういう虚無的な風景だけを闇だとみなしたくなかったんです。だから、『トトロ』と対比したわけですね。
 
I 『トトロ』は穏やかな闇なのですか?
 
K そうですね。穏やかな、あるいは荒々しいけれども軽快な闇。それに対して、『火垂るの墓』の思想は、どす黒い虚無的な闇を世界の根本だとみなすものですね。
 それで、私の本を論文の中で激しく批判した、先程述べた大学の先生も、その破壊的で不条理なものが存在の根本だといってるんです。僕は、そうじゃない、それは世界の半面であって、他の半面には、『トトロ』のような、生命の層がちゃんとあるんだ、と考える。言い換えれば、この世界は光と闇の戦場であり、ひとりずつの心の中で虚無と生命が絶えず争っている、というわけです。
 我々自身がその虚無と生命の両方を持っていると捉えるべきである。それを天使だけしかないとか、悪魔だけしかないと捉えるのは、偏った見方だと思います。存在は、絶えずその光と闇の(もっと正確にいうなら、闇という根源がはらむ、生命と虚無の両義性の)大いなる葛藤の中で演じられるダイナミズムである、と考えている。善とか悪は、そこから生まれてくる相対的で二次的な概念でしかないと考えています。
 
龍と蘇生
 
I 先生がそういうことを言われるようになったきっかけとして「龍を見る」という体験をされたようですが、もしよろしかったら、そのときのお話をお願いします。
 
K はい。今のことは僕の根本的なテーゼなんですね。宗教なら古代ペルシアのゾロアスター教という宗教。それは、この世界が光と闇の戦場である、と僕と同じことを言っている。僕の思想は自分の生活体験から自然に紡ぎ出したものなんですけど、我が同志だと思って、ゾロアスター教のファンになった。
 僕は一九九〇年代半ばには、その考え方をはっきり確立していて、『現代詩手帖』の「〈光〉の源泉としての〈闇〉─宮崎駿『風の谷のナウシカ』の世界視線」という論文で、光と闇の重層的な葛藤によって世界を視るという思想をすでに語っておりました。けれども、まだ自分自身の身体の内部でデモーニッシュな光と闇が自分を超えたひろがりをもって荒れ狂う、みたいな体験はなかったんですね。
 ところがこれは気恥ずかしい、僕の少数の読者の人だけと共有してきた世界なんですけど、実は一九九八年の秋にひどい胃潰瘍にやられたんですね。これまで僕は予備校の講師を十五年間してきたんですけど、その年はちょうど十二年目で、それまでに一言では言いつくせないような、産業社会のストレス、人間関係に対するストレス、それから、組織に対するストレス、そういうものを溜めこんできた結果、とうとう体がもたなくなって倒れてしまったんですね。
 それで、当時僕は、近代医学というものに対して、色々と懐疑的に思う点があったので、どうしても入院する気にはなれず、自宅療養を貫くことにしました。薬を飲みながら、だいたい一ヶ月くらい寝こんで治したんです。その間一度、あの世に行きかけたんですね。三途の川を渡りかけたときがあったんです。そのときに、体の中からね、龍が立ち昇ってきたんです。
 龍は西洋・東洋ともに絵画に繰り返し描かれてきた素材ですね。例えば明治の日本画家の狩野芳崖という人がいる。彼の龍の絵ほどすごいものはない。観る人が観れば、身体の奥底から震撼させられるはずです。
 それから葛飾北斎は晩年に、いくつもの、迫力のある龍の絵を描いている。北斎は一面ではアヴァンギャルドの元祖みたいなところがありますから、モダン・アートの人にとっても、なかなかしゃれた、インスピレーションを受ける龍になっていると思います。
 僕はそういう龍という形象を、昔から人々が神秘的なシンボルのひとつとして描いてきたんだなと考えてきた。ところが、実際に自分が死にかかったときに、本当に龍が見えた。これは信じない人は信じなくても構わないんですけど、僕にとっては絶対に疑うことのできない真実なんです。
 立ち昇ってきた龍の顔は視えないけど、その鱗ははっきりと視えた。濡れた鱗のヒダの感触まで覚えているんですけど、それが僕の身体の中から出てくるんですよ。龍が立ち昇ってくると、それまで降っていなかった雨がダァーと滝のように降ってきて、幻覚かと思って家の者に聞いてみたら、やっぱりそのとき雨が降ってたって言うんだね。そして稲光りがして荒れ狂ってるんですよ。
 そうしたら何か知らないけどすごく楽になったんですね。あんまり死にそうな感じじゃないんですよ。何か自分の生身の肉体だけは離脱しているような感じでした。そしてその鱗が立ち昇ったとき、僕が龍なんだと確信したんです。
 実はその前の四月の末にも、一度夢の中に龍が出たことがあって、その龍も夢にしては異常なくらい生々しくて、そのときも体調を壊していたのですが、龍が現れると楽になって治ったんですよ。そして実際龍が現われたときに、これは本物だなと思ったんですね。
 D・H・ロレンスは『黙示録論』の中で「龍というのは確かに実在しているんだ」そして「龍の偉大な啓示を知るものこそ新しき時代を生むものである」とそんな恐ろしいことを書いている(笑)。それを思い出して、もう一度読み返してみたんですよ。そしたら、これが見事な文章で、なんとも生き生きとした、龍の存在への確信に満ちた表現となっている。ロレンスは確かに龍を知っていた。狩野芳崖も、葛飾北斎も知っていた。そして私も知っている。龍はいるぞ! と思ったんですよ。
 それで僕の『星辰』という雑誌を始めるときの創刊の辞に当たる「龍と蘇生」という一文を書くことになったんです。少し読ませていただくと、
 
「私たち人間は、己れの存在の根底に〈龍〉を抱えもっている、というロレンスの言葉を、私は、己が全身からの共感を込めて首肯せざるを得ない。〈龍〉はまた、我が内なる広大な〈闇〉の深さそのものにほかならない。そして、我が〈龍〉は、森羅万象に宿りそれを司る有機的生命体としてのコスモスにも、天空に燦然ときらめく星辰の息吹にもつながり、照応し合っている。我々の体感の深層に秘められた宇宙的なひろがりの感覚が、龍という〈気〉のかたちを彷佛とさせるのだ。現代人は、いや近代人は、総じて、この〈龍〉の姿を見喪ってしまった」
 
とこう書いてある。もうここまでくると新興宗教の教祖みたいですけど(笑)、自分の雑誌だからここまで書けるんです。他人様の雑誌にはとても書けない。気兼ねしてしまってね。こういうことが書きたくて私は雑誌を始めたのです。
 そこで僕の闇に対する確信がひとつの頂点に達しました。近代文明の人間疎外に対して闘う基盤が完成したということですね。そこから闇の問題に対する論文がだんだん増えていく傾向にあるんじゃないかな。
 
大正、昭和の闇
 
I 闇の説明のために、先生に絵画を持って来ていただいたのですが、それを見ながら説明していただけますか?
 
K はい。僕の美意識というのは、前近代の徳川時代から明治、大正、昭和にかけての日本人が持っていた感覚、だんだん衰弱しながらもなんとか生きのびていた闇の感覚なんですね。それと一番フィットする画家のひとりとして、梥本(まつもと)一洋さんがいます。
 この方は昭和の初期に活躍し、当時はかなり高い評価を受けていました。悲しいことに戦後の日本画の世界ではあまり高く評価されていません。埋もれてしまったといってもいいかもしれません。去年、梥本一洋展を観に行って、非常に共感するところが多々あった。
 そこで梥本さんの絵の中から、こんなところが闇の感覚の一端だというのをお見せしたい。コンピューターにとりこんだものですので実物とは違うところもありますが、だいたい雰囲気は伝わると思います。
 
(《玉藻化生》・大正十三年)大正十三年、一九二四年に制作された《玉藻化生》という作品の一部で、まだ右半分が発見されていません。だからモチーフはまだはっきりしていません。ただ、あそこに火が燃えていますね。このイメージが「滅亡の予兆」の旋律をなんとなく体現しているようでならない。というのは、大正時代の末から昭和の初めにかけて、文学や宗教や政治の世界に色濃く表れてくる一種の終末意識があるんですね。近代文明の破局への予兆といってもよいでしょう。
 その流れの中で、近代文明がやがて大いなるカオスのもとへ投げ出され戦争が起こるであろう、そして、その戦争の中で新たなアジアの世界が復活するだろうという、後の大東亜共栄圏の発想につながるような、一種宗教的な観念が出て来るのですが、その観念に重なるものがある。「玉藻化生」の意味は後ではっきりさせます。
(《朝長懺法之図》・大正十五年)これはですね、源義朝が平治の乱で敗れて落ちのびるときに、わずか十六歳の息子の朝長を美濃の国で無理矢理自害させてしまう。そのときの浮かばれない霊魂がずっと残っているんですね。それである僧が、朝長の霊を呼び出してその自害させられた無念の思いと父義朝の横死の悲しみを聞いてやろうとしました。そして朝長の霊が自分の過去の物語を話すというストーリーになっている。
 これを見たら分かるように、非常に気品があるんですよ。どうですか、闇を感じるでしょ? 現在の日本人が持っていないような美意識を感じますよね。
 つまり、太平洋戦争の鬼畜米英とかね、大東亜共栄圏の理念、欧米文明は嫌だ、日本の伝統に帰り、前近代の土俗の文明に帰るんだ、とか言って右翼と一緒になって、戦争にのめり込んでいった日本人の狂気の姿がなんとなく先取りされているような気がするんです。
 これは大正十五年で、つまり昭和元年なんです。これからわずか五年後に満州事変が始まりますが、そういった日本人の狂気がこの中に、かすかな予感のように漂っています。
(《鵺》・昭和十一年)ちょうど二・二六事件が起きた年なんですけど、《鵺》(ぬえ)という作品です。「鵺」というのは、平安時代の末の源頼政という武士が矢で射て、殺したといわれる怪鳥なのですが、それは顔が猿で、尻尾が蛇で、手足が虎という化け物なんです。昼間は醜い化け物で、夜になると美しい女性に変身するといわれています。
 その鵺を源頼政が射殺して、「うつぼ舟」と呼ばれる舟にのせて流したといわれているんですね。原図ではもっと暗いのですけど、これは夜の闇を表しています。ですから美しい女性になっていますね。この三人の女性は、それぞれ、猿、蛇、虎の化身でまさに命が尽き果てようとしている姿を描いた。
 これは要するに、鵺が、仮に前近代の魂の象徴だとしますと、それが近代文明の中で痛めつけられて、まさに意識も絶えようとしている、つまり、三人の女性によって象徴されている神秘的で野性的な闇の生命が今まさにその息の根をとめられようとしている、そんな狂気にも似た苦しみがこの梥本一洋という画家の中にあるということなんです。
(《玉藻化生》・昭和十三年)これも《玉藻化生》なんですが、簡単に説明すると玉藻の前という美女がいて、金の毛皮で、尻尾が九本ある化け物の狐なんですね。妖怪なんです。それが美しい女性の姿に化身しているんです。そして教養もあるし、心も優しく、美しいということで鳥羽上皇に寵愛されるんです。でもそのうち、陰陽師の安倍氏に正体を見抜かれるんですね。それで殺されてしまいます。
 これは全て、ひとつの屏風の中に描かれていて、みなさんには部分を見てもらっています。
 これが矢で射るところなんです。殺されるとこの次がすごいんです。
 これはね、玉藻の前が死んで、ギャーと叫び声をあげて闇に化身するんです。これが昭和の闇なんですよ。黄色い部分が霊ですね。この後、玉藻の前がどうなったか。
 殺生石という石になる。これは玉藻の前の霊魂が浮かばれないまま、怨念が凝りかたまって石になっちゃう。それで、これに触った奴は祟りにあって滅んでしまうんですね。
 梥本さんは京都生まれで大変穏やかな画家です。しかし、ひと皮むきますと、昭和の日本人ならではの近代文明に対する強烈なアレルギーと、闇が失われていくことに対する激しい痛みをもっていた作家であったことがわかります。
(《滋雨》・昭和十六年)これは《滋雨》という作品です。要するに、恵みの雨というわけです。これは昭和十六年、太平洋戦争が起こった年なんです。乾いた大地の上に恵みの雨がかすかにシトシト降って植物たちがほっと一息ついている姿を描いているんです。これも、その当時の日本人の闇の在り処なんですね。
(《出潮》・昭和十八年)これは太平洋戦争終戦の二年前。荒れ狂う海と三日月が描いてあります。
 月は、前近代の人間にとって、我々の闇を司る本体であると考えられていた。月の神々しい光は闇の深さをきわ立たせ、冷ややかで神秘的な死と他界のイメージを喚起します。また、月は我々の血のめぐりを司っています。だから、女性の月経のリズムは月によって司られている。
 それから、潮の干満は月が司っており、あらゆる生命は海から生まれた。月は、母なる〈子宮〉のイメージとも重なり、人間が羊水の中にいた時の身体的記憶は、海洋の世界に連なっています。
 したがって、月は昔から生命の源として、また闇を司る根源として人々から畏敬の念をもってまつられてきたわけです。この月に対する感覚と荒れ狂う波とがシンクロナイズしてますね。これが強烈な闇のイメージをつむぎ出していると思います。
(《午下り》・昭和二十二年)昭和二十年、終戦になって狂気の時代は終わったのです。もののけに取りつかれて、近代に対してアレルギー症状を呈していた時代は終わりました。そこで、ほのかに農家の土蔵の前の風景をぽっと描いただけなんですけど、どうですか。トトロ的な雰囲気を感じるでしょう? 何かファーッとした開放感がありますね。これも僕が言うところの闇なんです。
(《三上山》・昭和二十二年)これは昭和二十二年に描かれた三上山の風景です。この頃は、梥本さんが戦後で一番幸福そうなスタイルで絵を描いた時期です。こういうのもひとつの闇なんです。
 
I ……どこが闇なんですか?
 
K この穏やかで生命的なところが闇なんです。闇とはいつも虚無の姿をしているとはかぎらないし、荒れ狂う凶暴さだけが闇ではない。私にとっては、穏やかで静かなものもまた闇なのです。
(《山居秋静之図》・昭和二十二年)私が幼いときに、母親が絵本を読み聞かせてくれたんです。その絵本は日本の古典を素材にした『源為朝』であったり、『安寿と厨子王』の物語などです。その絵本の色彩感覚が僕の原風景として残っていて、それがこの作品の色なんです。先程の荒れ狂うような闇のイメージとは別に、こういった色も私の原風景なんです。
(《伊勢物語》・昭和二十六年)これは、昭和二十六年、つまり僕が生まれる一年前の作品。ほとんど梥本一洋さんの絶筆に近い作品で、梥本さんが病気で亡くなる直前の作品なんですけれども、「伊勢物語」を素材にしています。
(《芥川》・昭和二十六年頃)これもそうなんですね。「伊勢物語」の「芥川」と呼ばれるシーンなんです。
 これはどういうシーンかというと、ある貴族の男が美しい女性と、親の許しを得ないで駆落ちしてしまうわけです。二人で暗い夜道を必死に逃げていくのですが、芥川という川のほとりで、女が草の露を見て、「これは何でしょう」と尋ねる。この絵はそのシーンを描いたものです。
 このあと、男は、荒れ果てた路傍の蔵の中に女を隠すのですが、女は鬼に食べられてしまうんです。だから、この絵は、その悲劇の直前の一瞬の美しさをすくい取ったものだということになります。この絵に対する結論だけ言うと、この後まもなくすると高度経済成長が始まります。それに応じて、日本の風景の中にかろうじて残存していた闇が、急速に衰えていくことになる。この絵は、まさにその前夜に描かれたんです。梥本さんは、戦後日本の近代社会を内心認めたくなかったんだと思います。戦後社会に対峙する形で、自分の心の中に秘めた美しい古典の世界、伝統の世界を、ヴァーチャルなんですけれども、はるかな憧憬のおもいを込めて描き上げたのではないか、と私は考えています。
 こういったものが、私の幼児期の美意識なんです。
 
二十一世紀の闇
 
I なぜ闇は無くなってしまったのですか?
 
K 一九五五年から高度経済成長が始まります。五○年代はまだ良かったのですが、六○年代になってスーッと闇が消えていきます。それは我々日本人がまなざしを変えてしまったからなんです。日本人というのは日常的なものだけではなく、非日常的なものも大事にしてきた。それから地上の世界だけでなく、天上の世界も大事にしてきた。光の世界だけではなく、闇の世界も大事にしてきた。現世にありながら他界を見るまなざしを持っていた。その豊かなまなざしを日本人は全身で体現してきたのだと思います。
 それが昭和の初めから終戦直後まではかろうじて生きていたんですね。ところが高度経済成長の中で科学と合理主義と、物質的な利益だけを追い求めたり、お金を追い求めたりするうちに、我々の人間としてのまなざしが痩せてきたんだと思います。実は、痩せてきたのにもドラマがあります。まさにそれが戦後の闇の喪失のドラマであると考えて下さい。
 僕がなぜ批評文を書いているのかという話で最後にしたいと思います。私の原風景は、私の世代だけのものではなく、人間の普遍性に根ざした何かだと思います。もちろん、例えば絵を描いたり、何か表現をするときには、それぞれ違ったものになります。だけれども、何か共通するものがあるはずなんです。どの時代であれ、人間である以上、必ず人間が人間らしく生きていく上でなくてはならない闇の世界があるはずなんです。
 それを僕は自分の幼児期にたっぷり持って生きてきたんだけれど、高度産業社会の一九八○年代以降には完全に失われてしまった。失ったものを自分で取り戻さないと僕はこの世界で生きていけないんですよ。僕の息ができる場所がない、つまり僕の生存する場所がないんですね。僕は自分の居場所が欲しかった。
 言い換えれば僕の中に僕の生きていける世界が欲しかった。そのためにものを書こうと思ったのが僕の表現の原点です。だから僕にとっては趣味や道楽ではない、つまりぜい肉ではない。これがないと生きていけないから書く。
 僕は、批評が資質に合ったやり方なのだけれど、みなさんは、みなさんに合ったやり方で自分の表現を見つけていただければいいと思います。これはプロの作家として生きようが生きまいが、芸術家になろうがなるまいが、大切なことなんです。芸術というものは、人間が生きていくために絶対に必要な地の塩なんです。その地の塩を求めてさえいれば、この現世で生きていくことができるんです。
 「人間はパンのみにて生きるにあらず」とはイエス・キリストの言葉ですが、パンのみに生きてはならない。パンは大事なんですよ、パンを侮ってはいけませんよ。でもそのパンは生きたパンであるべきなんだ。パンを稼ぐために、自分の魂を売って、自分の魂が痩せ細って死んでしまうような稼ぎ方をしてはいけない。パンを稼ぎながら、なおかつ自分の魂がイキイキとして生きなければならないので、そのために自分が表現をする、あるいは表現を味わうのも含めて、そういう気持ちが必要なんです。アニメーションに対して筆をとったのは、たまたまで、僕はアニメオタクではない。正直に言うとみなさんに比べて僕の方がはるかにアニメーションに対してアレルギーが強い世代の人間なんです。
 だけど僕は幸福にも宮崎駿というアニメーターに出会うことが出来たんですね。それで、本来ならば一生出会うことのなかったエヴァンゲリオンのようなアニメーションにも出会うことが出来たんです。こういった美意識を持った僕がエヴァンゲリオンにはまったことが面白いんです。だからあなた方もあなた方のやり方で表現すればいいんです。あなた方のやり方で存分にやりたいことをやる方がいいんです。そうすれば自然にあなた方らしい闇が出てきます。その闇は一見すると僕が幼い頃に見た闇とは全く違うように見えるかもしれないが、必ずどこか共通したものになる。それが二十一世紀の闇ではないかと、そう考えています。(了)



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闇の喪失―ある戦後世代の追憶―(連載第1回)  川喜田八潮

  • 2016.02.18 Thursday
  • 15:38
 
      1
 
 私は一九五二年生まれだから、二十世紀後半の五十年近くを生き抜いてきたことになる。
 私が生まれた頃、日本社会は、大量の失業者を生み出したドッジ・ラインによる強引なデフレ政策と朝鮮戦争の特需景気で一気に独占資本中心の戦後資本制の再建を成しとげ、終戦以来の飢えと極貧の時代を抜け出すと共に、アメリカのバックアップの下に自民党の長期単独政権による高度経済成長への途を準備しつつあった。
 しかし、それはまだ古き良き時代だった。
 巨大な犠牲を払いながらも、日本人はこの時期ようやく最悪の貧しさから脱しつつあり、経済的にひと息つけるようになってきたし、まだ産業の中心は第一次産業(農林水産業)、特に農業にあり、農村的な土俗の闇の深さと季節感ゆたかなゆったりとした時間の流れ方が社会を覆っていたからである。
 国勢調査によれば、一九五〇年には全就業者数の四十八・五二%が第一次産業の従事者であり、その内農民は全産業人口の約四十五%を占めている。それに対して、商業・サービス業などの第三次産業の人口は二十九・六二%しか占めていない。しかしこの後、高度経済成長の開始によって、農業人口は一九五五年には約三十九%、六〇年には約三十一%に減少し、さらに六〇年安保以後の高度経済成長の加速度的進展によって、六五年には約二十三%、高度成長完了の一九七〇年には約十八%にまで落ち込んでしまう。
 対照的に、第三次産業の人口は、一九六〇年には約三十八%と、第一次産業をうわ回り、六五年には約四十三%、七〇年には約四十七%と、ついに半数近くに達している。
 一九五〇年と一九七〇年では、ちょうど逆転した産業構造になっていることがわかる。
このことは、日本社会において、巨大な〈風景の逆転〉が生じていたことを示している。
単に農村が消えていったとか、サラリーマンが増えていったとか、環境が物理的に破壊・汚染され、団地・マンションやコンクリートだらけの風景に変貌していったとかにとどまらず、私たちの身体感覚の奥ゆきやふくらみが狭められ、消失し、科学とヒューマニズムと疑似コミュニケーションによる、均質化した、平板で観念的な世界風景に置き換えられていったのである。
 それは、人々の〈孤〉としての固有の身体性を深々と包摂し、賦活していた生命的なコスモスとしての〈闇〉を削ぎ落とし、何の陰影もない、つるつるした偽りの〈光〉に満ち溢れた「市民社会的個人」という、観念的で薄っぺらな断片的存在を析出させていく過程にほかならなかった。
 一九七〇年に私は高校三年生であったから、私自身の誕生から青年期までの歴史は、まさに、己れ自身の身体の〈痛み〉を通して、〈闇の喪失〉という、戦後史の最も劇的な魂の頽落のドラマに立ち会わされた時代だったことになる。
 私は、子どもの頃の風景をよく憶えている。
 夜の闇は今よりもはるかに深く、月は冴々とし、風のうねりや樹々のざわめきは身の内にこだまし、しじまのささやきや天地の気配は、はるかに身近に感ぜられた。
 裸電球やろうそくの灯りに照らされた陰影の深さは、夜道を歩く人の背中や足音にも、また、家族の会話や沈黙にも奥ゆきと落着きのあるわびしさを与えていたし、犬の遠吠えすら、今と昔ではまるで違うのである。
 それは、当時のテレビ・ドラマにも鮮やかに映し出されていた。
 私の幼児期に当る一九五〇年代は、白黒テレビドラマの黎明期でもあった。
 白黒テレビとカラーテレビでは、世界の視え方がまるで違う。白黒の映像は、光と闇のたった二色の濃淡によって、人の表情から風景の陰影、存在の奥ゆきを表現しようとする。森羅万象の彫りの深さは、凡百のカラー映像の平板さとは比べものにならないのである。
子どもたちが当時熱中して見ていた『月光仮面』や『七色仮面』のようなアクション物には、「どくろ仮面」とか「サタンの爪」とか「キング・ローズ」といったような、リアルなしゃれこうべや三日月型に口が裂けた釣り目の怪人の不気味な彫刻の仮面をつけた悪役が登場する。
 彼らの立てる靴音の響きや、漆黒の闇の中から幽鬼のように立ち現われるさまは、子どもにとっては、まさに死と魔界の象徴のような凄まじい妖気を漂わせており、それに対峙する正義の使者としての月光仮面や七色仮面には、闇の中から紡ぎ出されてきた透明な光の化身のような、不思議な静寂と神秘性とがつきまとっていた。
 当時の子ども向けの勧善懲悪ドラマには、単なるヒューマニズムに解消されないような、存在の暗がりと両義性の気配が象徴的に映し出されていた。悪人も善なる主人公も、共に、可視的な個人としての輪郭というものをほとんど備えておらず、むしろ、存在の闇の化身として、仮りそめのこの世に姿を現わしているにすぎない。そう感じさせるような、日常風景の深みとふくらみとが、当時の人々の生活の中にはまだ息づいていたのである。
 こういう神秘な生存感覚は、たとえば、一九五四年に上映された中村錦之介・東千代之介主演の『笛吹童子』という怪奇ファンタジー時代劇にも、生き生きと表現されていた。
 応仁の乱後の荒廃し切った世を舞台とし、「しゃれこうべ」を旗印とする野武士の集団に親を殺された丹波国満月城の城主の子萩丸・菊丸の兄弟が、苦難を乗り越え、やがて「白鳥党」という正義の集団をつくり、悪の化身を滅ぼしてこの世を浄化するというストーリーで、当時大ヒットした北村寿夫脚本によるラジオドラマが原作となっている。
 しかしここでも印象的なのは、五〇年代のあらゆる子供向けアクションテレビドラマと同様、ストーリーの稚拙さや人間描写の素朴さにもかかわらず、映像の中に象徴的に込められた闇の深さであり、また闇と光の葛藤による存在の両義性の鮮やかさである。
 とりわけ美事なのは、白面の美少年だった中村錦之介演ずる菊丸が、しゃれこうべ党に象徴される悪を倒すのに、武力や駆け引きによってではなく、たった一人で「白鳥の面」を作り上げるという特異なたたかい方をする点である。
 すなわち、この主人公は、世俗的な成功や権力や富の力によって何事かを成就しようとするのではなく、ひたすら、己れの深奥の衝迫に根ざした、まじりっ気のない孤独な表現営為によって、世界の〈気〉の流れを変え、この世を浄化せんとする、不可視の、報いを求めぬたたかい方を択んでいるのである。
 こういう、アクションドラマでありながら全くアクションを行わず、一切の現世的な〈作為〉というものを弄さない、地味で穏和で芯の強い主人公の造型の仕方は、勧善懲悪を骨子として象徴的に世界の救済を描いてみせた古今東西のありとあらゆるファンタジーや説話文学や冒険活劇をみわたしてみても、(ロシアや中国などのある種の民話を除けば)あまり類をみないものではあるまいか。
 こういう造型を可能にした要因の一つが、一九五〇年代という時代の前近代的・土俗的な闇の深さの感覚、すなわち、森羅万象とのアニミズム的な交感の感受性の残滓にあったことはまちがいない。
私は、幼児期に母が読みきかせてくれたさまざまな絵本に載っていた、挿絵の姿と色彩の感覚を、今でも鮮やかに憶えている。特に強烈だったのは『安寿と厨子王』や『ゆりわか大臣』『源為朝』の絵で、生きて飛び出してきそうなほど、肉感溢れる、リアルで野性的な、それでいて恐ろしく幻想的な香りを漂わせた日本画の作品だった。
 現代の大人の眼からみて芸術的にどの程度の作品であったかが問題なのではない。子どもの身体感覚をこのように揺さぶることのできた挿絵が存在し得たという事実が、重要なのである。これらの絵には、まぎれもなく、今の児童文学や絵本などには、ほとんど全くといっていいほど見出すことのできなくなってしまった、深々とした生命的な闇の気配が濃厚に立ち込めていたのである。
 ここでも、哀切な業苦と宿命を生き抜く主人公たちの姿は、可視的な物理的肉体をもったアトム的な個人としてではなく、混沌とした存在の闇の化身として、森羅万象のただ中から紡ぎ出されてきた者のように描出されていた。
 物語の真の主人公は、人であって人ではない。
 中世の説経節や幸若舞に材をとったこれらの絵本が幼い私の魂に刻印した世界風景は、禍々しい理不尽なデーモンに抗する獰猛な荒魂(あらみたま)と、己れをはるかに超越した神秘なはからいに身をゆだね、浄化と鎮魂の時を紡ぎ出す、繊細で柔和な和魂(にぎみたま)による、ダイナミズムのドラマにほかならなかった。
 小ざかしく幼稚な、散文的で啓蒙的な文体と、何の陰影もふくらみも無い、平板でマンガチックなイラスト風の画像が我が物顔でのし歩く今日の児童書の世界では、想像もつかないような、こういう深々とした、奥ゆきのある絵本の数々が存在し、その香りを胸いっぱいに吸い込めるような多くの子どもたちが存在し得ていた時代が、たとえ一時(いっとき)にせよ、わが戦後史の中にあり得たという事実に、私は改めて驚異の念をおぼえるし、そういう時空とめぐり会えた僥倖に、心から感謝のおもいを抱かずにはいられない。
 
      2
 
 もちろん、子どもと大人では、視えている世界風景は大きく異なっている。大人には、子どものようなみずみずしい身体感覚のふくらみや躍動はなく、潜在的な死と孤立の意識に備えるために、さまざまな〈観念〉によって支えられた生の代償装置を身につけているからである。
 しかし、映像や画像にせよ、言葉にせよ、子どもを対象としたあらゆる表現は、その時時の、大人性と子ども性の内面的な〈接点〉の生み出した産物である。
 大人たちが、身体的な奥ゆきのない、観念的で薄っぺらな生き方をしている時代には、そういう大人社会の空気に汚染された家庭や学校で時を過ごす子どもたちの内的風景もまた、薄っぺらなものにならざるを得ないし、両者の〈接点〉である子どもを対象とした作品も、薄っぺらなものになるか、さもなくば、毒々しい病理的な苦しみに満ちた表現にならざるを得ない。
 逆に、大人たちが、たとえどれほど限定された領域にせよ、ともかく、生き生きとした自然な生身の感受性を温存し得る固有の生活世界というものをもち、他者や存在への生きた共感能力を備え、濃密な日常の物語を紡ぎ出すことができている時代には、子どもたちの世界風景もまた、陰影とふくらみのある香りゆたかなものになるし、みずみずしい抒情性が育つのである。
 たとえ、そのような生身の共感能力がどれほど小さな領域に限られていたとしても、大人の中にそういう位相が存在し得るという事実それ自体が、子どもにとっての深い救いとなり、彼らの魂を育む力となるのだ。
 まことに、子どもとは、その時代時代を生きる大人たちの生きざまを映し出す鏡なのである。
 一九五〇年代の子どもの内的風景が、深々とした闇とみずみずしい光に溢れたゆたかな内実をもち得ていたとすれば、それは、同時代を生きていた大人たちの生活実体が、たとえどれほど貧困や地上的な不条理に緊縛され、痛めつけられていたとしても、なお、神秘なふくらみと抒情の輝きを備えた、濃密な物語性を生き得るものだったからである。
 次のような詩は、このような五〇年代の内的風景を前提とすることによって、はじめて誕生し得た作品であった。
 
《おれたちの革命は七月か十二月か/鈴蘭の露したたる道は静かに禿げあがり/継ぎのあたった家々のうえで/青く澄んだ空は恐ろしい眼のようだ》《革命とは何だ/瑕(きず)のあるとびきりの黄昏/やつらの耳に入った小さな黄金虫/はや労働者の骨が眠る彼方に/ちょっぴり氷蜜のようにあらわれた夕立だ//仙人掌(さぼてん)の鉢やめじろの籠をけちらして/空はあんなに焼け……/おれたちはなおも死神の真白な唾で/悲しい方言を門毎に書きちらす//ぎなのこるがふのよかと(残った奴が運のいい奴)》(谷川雁「革命」より)
 
 この詩では、比類のない美しさをもった非日常的・天上的な言葉の数々、「鈴蘭の露」「青く澄んだ空」「とびきりの黄昏」「氷蜜」等々は、「禿げあがり」「継ぎのあたった家々」「瑕」「労働者の骨」等々といった、痩せ細った酷薄な地上的現実の匂いを漂わす言葉と鋭く対比されることで、その鮮烈さをきわ立たせている。
また、「仙人掌の鉢」や「めじろの籠」といったような、日常的で微温的なつかの間のいこいの時を象徴するような言葉に対して、「けちらして」と続け、「空はあんなに焼け……」といった悲哀感のこもった非日常的な現世離脱の言い回しをもってくることで、〈日常性〉への嫌悪と拒否の姿勢を強調してみせている。
 そして、締めくくりに、朽ち果てつつあった土俗の無念さのおもいを象徴するかのように「死神の真白な唾」で書きちらされた「悲しい方言」という表現が使われる。
 この詩に透視されるものは、己れ自身の、存在者としての強烈な〈欠損〉の感覚であり、たとえようもない喪失感の深さであり、不条理な地上的緊縛から離脱せんとする、天上的衝迫の強烈さである。
 その意味では、この詩の美意識は、フランス象徴派風のヴァーチャルで観念的な虚構意識によって支えられたものだといってよいが、しかし同時に、ここで紡ぎ出された天上的な言葉の数々ににじみ出ている、なんともいえぬ生々しい官能性の手ざわりは、幼児期以来のこの作者の身体的記憶の数々と、その記憶を生き生きと賦活しうるような、五〇年代という時空の前近代的土俗的な闇の気配が生み出したものであるといってよい。
 「おれたち」という言葉にも垣間みえるような、大衆の土俗的な魂の深みに対する確信に満ちた〈共苦〉の感覚をもちながら、これほどに大衆の〈日常性〉を拒絶し、他者への断絶意識の深さを抱え込んだ現代詩人はいない。
 並外れた〈個〉としての近代意識の鋭さと滅びゆく土俗的な世界への共生感情を、メタフィジカルなレベルで奇跡的なまでに融合し得た空前絶後ともいうべき現代詩人が、谷川雁という人物であった。
 この詩人が夢想した「革命」や「社会主義」のヴィジョンが、彼以外のあらゆる左翼知識人の使ったそれといかにかけ離れたものであったかをおもう時、私は、今でも深い嘆息の思いを禁じえない。
〈日常性の欠落〉こそは、谷川雁のアキレス腱であったが、しかし、この詩人が取り組んだ〈個〉と〈類〉の止揚という人類史の先端的なテーマに対して、散文的で貧寒な地上的リアリズムの眼によって染め上げられた現代人の痩せ細った生活理念をもってきても、何の意味もない。
〈個〉と〈類〉の止揚という、脱近代に向けての課題に対して、〈日常性〉という概念が、真に有効にクロスし、繰り込まれるためには、現代人にとってもはや痼疾と化している既成の均質化された平板な日常感覚=生活風景というものが、全く新たな次元に生まれ変わらなければならないのである。
 
      3
 
 一九五〇年代を生きた日本人の心のかたちというものが、そのことを教えてくれている。
 この時代の日本人大衆の日常生活意識が、六〇年代後半以降の、とりわけ七〇年代以降の日本人のそれと、いかにかけ離れたものであったかは、五〇年代の人々によって愛された歌の数々を味わってみるとよくわかる。
 例えば、次のような歌詞である。
 
《山には山の 愁いあり/海には海の かなしみや/ましてこころの 花園に/咲きしあざみの 花ならば》《高嶺の百合の それよりも/秘めたる夢も ひとすじに/くれない燃ゆる その姿/あざみに深き わが思い》《いとしき花よ 汝(な)はあざみ/こころの花よ 汝はあざみ/さだめの道は はてなくも/かおれよせめて わが胸に》(「あざみの歌」作詞・横井弘、作曲・八洲秀章)
 
 ゆったりとしたメロディーの中に深い哀愁のこもったこの歌は、一九五〇年の「NHKラジオ歌謡」で流された。(もちろん、テレビはまだ茶の間に登場していない。)
 歌謡番組を対象としてこういう作品がつくられ、それを多くの大衆が愛した時代というものを、私は慕わしくおもわずにはいられない。
 なんという、つつましく繊細で、香りゆたかな歌であろう。不自然な情緒の作為というものが全くなく、傷つきやすい、もろく内気な魂が、「あざみ」の可憐で痛々しいたたずまいの中にひっそりと託されている。
 当時の日本人が、貧しさや病や血族との葛藤やひき裂かれた人間関係に苛まれて、もがき苦しんでいたことも否定することはできないが、この時代の人たちは、己れの生活の哀歓を、このような抒情によってしみじみと表現し、享受し得ていたのである。
 もうひとつ引用してみよう。
 
《だれかさんが だれかさんが/だれかさんが 見つけた/小さい秋 小さい秋/小さい秋 見つけた/目かくし鬼さん 手のなる方へ/すましたお耳に かすかにしみた/呼んでる口笛 もずの声/小さい秋 小さい秋/小さい秋 見つけた》《だれかさんが だれかさんが/だれかさんが 見つけた/小さい秋 小さい秋/小さい秋 見つけた/お部屋は北向き くもりのガラス/うつろな目の色 とかしたミルク/わずかな すきから 秋の風/小さい秋 小さい秋/小さい秋 見つけた》(「小さい秋見つけた」)
 
 サトウハチロー作詞・中田喜直作曲の周知の名曲であるが、ここでは、季節の移りゆきの繊細な気配の中に、生活意識の深い陰翳がさりげなく映し出され、日常の瞬時の物語性が鮮やかにすくい取られている。
 ここでも、表現はいささかも不自然さを帯びていない。こういう歌詞を可能ならしめた背景は、この時代にまだ生き生きと残存し得ていた、農村社会のゆったりとした融和的な自然意識と、みずみずしい生身の皮膚感覚であるといってよい。宮崎駿監督のアニメーション『となりのトトロ』と同質の時空意識がここには流れている。
 おもえば、一九五〇年代とは、不思議な時代であった。
 同じく、農村人口の多い時代といっても、戦前昭和初期とも終戦直後とも全く違う。
 昭和初期は、深刻な不況と資本制の膨化によって村落共同体的紐帯が解体にさらされ、それに対する国民のヒステリックな反動が、天皇制共同体国家と大東亜共栄圏の建設という幼児退行的なイデオロギーへの滅私的なのめり込みとなって表現された時代であった。
 終戦直後は、その天皇制イデオロギーの吸引力が崩壊し、生身の現実に突き返された大衆が、飢餓と極貧の渦中で、生きるためのエゴイズムの修羅場を展開した時代であった。
 五〇年代は、そのいずれの世相とも違う。
 戦後社会が、巨大な犠牲を払いながらも、ようやく最悪の貧しさから解放され、人々の気持に一抹のゆとりが生まれると同時に、まだ巨大な農民人口を抱え、農村社会的なゆったりとした時間意識と、生活を取り巻く諸々の存在に対する融和的な生命感覚が温存されていた。科学的合理主義やヒューマニズムや民主主義をベースとする近代主義的イデオロギーは、ひとつの観念的な擬制として大衆の生活意識を侵食し尽くすまでには至っておらず、人々の世界に対する身体のひらき方は、まだ、みずみずしい生身の皮膚感覚によって支えられた、コスモス的な香りを濃厚に漂わせたものであった。
 六〇年代後半以降、とりわけ七〇年代以降に顕著となるアトム化した市民社会的な個我意識に映じた、均質で散文的な世界風景とは、まるで異質なものだったのである。(この稿続く)
 
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ブログ「星辰」開設のごあいさつ

  • 2016.02.16 Tuesday
  • 19:36
ブログ「星辰」開設のごあいさつ                  川喜田八潮
 
「星辰」は、1998年・秋から2006年・秋にかけて、直接購読者を対象として、私が主宰し、刊行した、ささやかな文学・思想個人誌である。
 八年間にわたり、創刊号から第十一号までを出したところで、私の個人的事情のために休刊となった。
 その後、再刊行の志はあったものの、2007年以後の生活の激変と苦闘、及び病のために果たせず、2016年春の今日まで、物書きとして沈黙の歳月を強いられる破目になってしまった。今回ようやく、ブログの立ち上げというかたちで、「星辰」を再開・スタートさせることになり、心から嬉しくおもう次第である。
 新生ブログ「星辰」は、「プロフィール」にもあるように、私の妻であり、最高のパートナーである川喜田晶子が編集責任者となり、私を支えてくれることになった。彼女は、すでに歌人・桐島絢子として数々の優れた短歌や短歌評論を生み出してきた孤高の表現者であるが(「桐島絢子WebSite」参照)、文芸評論家としても、現在の日本で第一級の力量を持つ書き手であることを、私は、この場ではっきりと断言しておく。
 私自身の論考に興味を持たれた読者は、彼女の優れた評論をも、併せて味読いただければ幸甚である。「川喜田晶子KJ法blog」においても、そのエッセイや批評文に触れることができるのでご高覧いただきたい。
私たちの問題意識と志を共有していただける、縁(えにし)ある読者の方々とめぐり逢えることこそが、ブログ「星辰」の立ち上げにこめられた、私たちのささやかな願いなのである。
 
 ブログは、主に「連載」形式をとり、私自身の担当分については、当分の間、旧「星辰」の論考の中から、現在的な〈鮮度〉を失っていないと思われる文章を精選し、分載する予定である。かつて拙論をお読みいただいたことのある読者の方々にも、〈現在〉という地点から、かつてとは違った配列のもとでみつめ直すことで、新鮮な気分で再読いただけるものと考えている。
 たとえていえば、ミュージシャンが、昔発表した歌の数々を新たな気持ちで歌い直して再編したアルバムを出すようなものである。昔の歌であっても、「今」の時点から、全く新鮮な気分で耳を傾けることができよう。
 
「闇の喪失―ある戦後世代の追憶」は、2000年・冬刊行の「星辰」第五号、「七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇」は、2001年・冬刊行の第六号に掲載されたもので、「宮沢賢治童話考」は2003年・春の第七号から2005年・春の第九号までの三回分の連載に、新たに書き下ろした論考(「三人兄弟の医者と北守将軍」及び「北守将軍と三人兄弟の医者」論)を加えたものである。
ただし、旧論考の再掲に当たっては、一部加筆もしくは修正を施した箇所があることを、お断りしておく。
 また、掲載予定の「自我と生命の境界―『新世紀エヴァンゲリオン』再考」は、旧「星辰」では、1999年・夏の第三号と1999年・秋の第四号に、(上)・(下)を分載したが、その内から「(上)」のみを、今回、独立した論考として再掲することとした。
「川喜田八潮公開インタビュー」(「星辰」第八号[2004年・春刊行]所収)は、2002年・六月に、当時私が勤務していた成安造形大学の芸術計画クラスの学生諸君が企画・開催した公開インタビューの内容を基に、学生新聞「かうばう」誌上に掲載された文章を再掲させていただいたものである。インタビューの文章などをブログに載せるのは、なんとも気恥ずかしいことだが、当時親しかったある若い編集者が、「とても分かりやすく、面白い」と言ってくださったので、自分の思想・モチーフを理解していただく一助になるかとも思い、今回思い切って再掲することとした。
 
 2007年から2015年までの九年間もの間、私は沈黙を守り続けてきたが、〈表現者〉としては、決して空白であったわけではない。この間に、私は三本の戯曲と一冊の評論を書きおろしている。そのタイトルは、以下の通りである。
 
戯曲『闇の水脈・愛憐慕情篇』
戯曲『闇の水脈・風雲龍虎篇』
戯曲『闇の水脈・外伝(潮騒の声)』
評論『平田篤胤』
 
 これらの作品は、戯曲『闇の水脈・天保風雲録』と併せて、順次刊行してゆく予定である。
 
 旧「星辰」創刊号(1998年・秋刊行)の「編集後記(竹声記)」の中で、私は、雑誌刊行の志について、次のように記した。今もこの想いは変わらないので、最後に引用することで、ブログ「星辰」開設のごあいさつとさせていただきたい。
 
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 竹は、不動にして無窮の天に通じ、底深き大地に根を張っている。
 己が身を虚ろにし、形無き風の声をしなやかに響かせる。
 限りなく繊細にして、野太い。
 一本一本がくっきりとした個の輪郭を備え、天に屹立しながらも、互いに自己主張し合うこともなく、ひとつの根でつながっている。
 この竹林の姿がなつかしく、編集後記を竹声記とした。
 どんな場所で、どんな契機で書くにせよ、自分なりに可能な限り自在感を失わぬように心がけてきたつもりだが、それでも、他人様の雑誌ではどうしても書けぬことというのがある。それを、誰に気がねすることもなく存分に書けるようにするために、このような雑誌を始めた。
 そうしないと、我が内なる〈龍〉は、どうしようもなくもがき苦しむのである。
 

 
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