闇の喪失―ある戦後世代の追憶―(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.05.18 Wednesday
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 一九六七年は、急速に消滅に向かいながらもそれまでかろうじて残存し得ていた、六〇年代前半以来の闇の香りが、最後の輝きを放った年であった。
 この年には、幕末社会を舞台とする三本の印象的なテレビドラマが放映された。
 一つは、NHK大河ドラマの『三姉妹』(大佛次郎原作、山崎努主演)であり、他の二つは毎日放送・松竹テレビ室制作による『富士に立つ影』(白井喬二原作、中山仁主演)と『鞍馬天狗』(大佛次郎原作、大瀬康一主演)である。
 『鞍馬天狗』は毎回一話完結の三十分物で、とりわけ娯楽性が強く、他の二作品と比べるとドラマ性の質はかなり劣るが、三本とも、通俗的なメロドラマ風の設定や勧善懲悪の物語を活かしながら、六〇年代後半の日本社会が直面していた情況の本質を巧みに象徴してみせた、良質のエンターテインメント作品となっていた。
 翌年の一九六八年から、大学紛争の嵐が吹き荒れることによってもわかるように、六七年という年には、維新前夜のような、一種異様な政治的熱気がみなぎりつつあった。
 まもなく、アングラ・フォーク歌手の草分け的存在ともいえる岡林信康の歌が若い世代の間で一世を風靡する。
《友よ、夜明け前の闇の中で/友よ、闘いの炎を燃やせ/夜明けは近い/夜明けは近い……》という歌詞が同級生たちの間ではやったのは、私が中学を卒業する直前の六八年の春のことだった。
 幕末物のテレビドラマが制作されたのも、こういう世相の流れに対する敏感な対応によるものだといってよい。当時の情況が明治維新前夜とアナロジカルに重ね合わせられたのは、高度経済成長がほぼ完了に近づきつつあったこの時期が、〈近代〉の前夜のように感じとられていたからである。
 当時の〈近代化〉の主な指標は、封建的な遺制からの個人の解放と、ヒューマニズムにもとづく民主主義的要求と、膨化し、固定化した独占資本主義体制下における階級的収奪へのたたかいという、ブルジョワ市民主義的もしくは社会主義的理念にあったといってよいであろう。もちろん、冷戦構造下における日本の安全保障や基地問題をめぐるアメリカへの反発もあったし、中国・ソ連への社会主義的幻想も、いまだに残存していた。
 要するに、戦後の左翼思想・進歩思想がそれまで保持し続けてきた理念が、特に本質的な部分で変更をこうむっていたわけではなかった。科学的合理主義が社会主義思想を含む主要な近代主義的イデオロギーを認識論的に支える中心的な位置を占めていた点も、それまでと変わりはない。
 にもかかわらず、当時の情況が、若い世代にとって、あたかも革命前夜の如き雰囲気を漂わせたものとして受けとられたとすれば、それは、六〇年代半ば頃までかろうじて命脈を保ってきた前近代的土俗的な共同体社会の闇の残滓が急速に消滅に向かうことで、なにか、日本社会が、それまでには体験したことのない、質的に全く新しい段階に突入しつつあるという、不安と期待に満ちた予感がみなぎっていたせいであると考えられる。
 その予感は、一面では、個人の限りない自由と欲望の謳歌というアナーキーで向日的な近代主義的解放のイメージや、一切の階級矛盾が消滅した社会主義的ユートピアの夢想につながるものであったが、他方では、到来しつつある未知の社会が、個人の幸不幸など歯牙にもかけない、非人間的でメカニックな巨大な制度的構築物にすぎないのではないかという、戦慄的な不安を伴うものであったようにおもえる。
 全共闘世代の多くの若者たちが七〇年前後に示したアナーキーな暴発や社会主義的ユートピズムへの非現世的・幼児退行的なのめり込みの激しさには、高度経済成長の完了によって到来した新たな産業社会への極度の生理的不適応の症状がみてとれる。
 彼らは、新社会への己れの異和感を、個人の解放や社会主義といった近代主義的イデオロギーによって表現したが、彼らが真に苦しんでいたのは、おそらく、土俗的・生命的な闇の喪失であった。
 幼児期に終戦直後の激しい飢えと極貧の時代をくぐり抜けたこの世代にとって、経済的な階級矛盾の問題は、たしかに切実なものがあったろう。
 だが、彼らが、大多数の日本人のように高度経済成長の波に乗ってエコノミック・アニマルとなる道を抵抗なく選びとるのではなく、少なくともひとたびは社会人という大人になることを拒否して、幼児が手足をばたつかせながら泣きわめくように学生運動にのめり込んでいったのは、たしかに、物質的な動機以外の痛切な何ものかがあったからである。
 幼少年期に土俗の闇の香りをたっぷりと吸い込んで育ったこの世代が、社会人となる直前の大学生であった頃、高度経済成長はまさに完成に近づき、日本社会からは、生身の身体性に根ざした人や風景との深々とした生命的な接触の感覚が急速に消え去ろうとしていたのだ。全共闘世代にとって、己れがこれから出て行こうとする産業社会は、幼児期以来見慣れてきた人間的な暖かさの失われていない社会とは、あまりにも異質なものであった。
 私には、彼らのヒステリックな暴発は、このめくるめくような〈落差〉の痛覚がもたらしたものであったようにおもえる。
 彼らが、この落差の感覚を鮮明に意識したのが、一九六八年という年だった。
 先に挙げた三本の印象的な幕末物が放映されたのは、その前年に当たる。
 これらの作品においても、維新に象徴される〈近代〉は、一面では、階級社会の消滅と個人の解放という、希望と憧憬の対象として描かれているが、他方では、革命によって到来する現実の近代社会が、実は、そんなユートピア的志向などとは似ても似つかない、非人間的な制度的虚構にすぎないものであることをアイロニカルに暴露してみせる。
 主人公たちは、いずれも、新しい日本の国体を夢みて、身を捨てて国事に奔走したり、名もなき人々のためにたたかうが、結局、到来しつつある世の中に適応することができず、俗塵に埋もれ、あるいは権力の抗争に巻き込まれて非命のうちに倒れる。
 世俗的な上昇志向や組織の歯車となることから脱落し、アウトローとして生きる彼らは、己れの魂の自由を求めてやまないと共に、つねに、縁(えにし)をもち得た社会の片隅に生きる無名の生活者の人々のためにたたかう。彼らにとって新しき維新の世の中とは、一切の階級的矛盾が消滅するだけではなく、一人ひとりの人間が己れのつつましい幸せを見出し、明日の生活の不安に心をすり減らすことなく、固有の充ち足りた人生を送り得るような、そんな社会のイメージなのである。
 己れのエゴのために、あるいは権力や大義のために、懸命に生きている小さき者の生を踏みにじる者たちを、彼らは断じて許そうとはしない。その熱い血が、これらのドラマに野太い生活思想的な倫理性を与えている。
 彼らの抱いたユートピアの本質は、彼らの生を支えるだけではなく、彼らの有限性を超えて生き延びる力をもっている。
彼らは、〈縁(えにし)〉をもち得た少数の人々の生を照らし、またその人々との固有の出会いによって生きる力を与えられる。
 そこには、生きることの贅肉といったものが全く無い。
 テレビという極度に通俗的なメディアの中で、時代劇のエンターテインメント性を喩的に活かしながら、主人公をこのように造型し得た時代(あるいは年)があったことに対して、私は驚きを禁じ得ないし、いとしさをおぼえないわけにはいかない。
 それに、六七年の幕末物には、とりわけ『三姉妹』や『富士に立つ影』には、日陰者や無名の生活者たちの心のひだが、メロドラマ風ではあるが、なんとしっとりと、ほの暗く抒情ゆたかに表現されていることであろう。白黒映像のすばらしさを、いかんなく堪能できる作品となっている。
 この二作品には、しばらく見失われていた六〇年代前半までのあの闇の深さが、鮮やかに蘇生しているといっていい。
 この闇の香りは、人の表情やしぐさのみならず、背景となっている江戸後期のゆったりとした農耕社会的な時間の流れ方と陰翳に満ちた繊細な風景によって、一層ふくらみを増している。
 中でも、『富士に立つ影』の風景映像は、比類のない美しさをもっている。
 まず、冒頭に、格調のある古風な毛筆の字体で書かれたタイトルと共に、富士の涼やかな気品に満ちた秀麗な姿が映し出される。
 そして、清冽な激流の映像に沿って、六〇年代におけるテレビドラマ音楽の名作曲家であった渡辺岳夫による、人生の哀歓と生涯の重さをしみじみと感じさせる、哀切なリリシズム溢れる名曲が奏でられ、俳優たちの名が、これまた格調のある毛筆体で顕われる。
 この始まりの部分を見るだけで、今の私は、己れの乾き切りひびわれた冷笑的な心に、人間的な抒情の水脈が蘇るのを感じ、限りなく癒されるのである。
 そして改めて痛感する。
 私たちは、このような時空から何と遠く隔たった、酷薄な氷のような世界に住んでいることだろう、と。
 歴史の不可避性という美名の下に、あるいは、価値や倫理の桎梏からの解放という愚かしい近代主義理念の下に、なんと痩せ細った、薄っぺらな自我意識の殻の中に己れを閉じ込めていることだろう、と。
 だが、どれほど懐かしくとも、私(たち)は、過去の時空にそのままの形で回帰することはできない。
 どれほど痩せ細り、険しい神経症的な身構えに苦しめられようとも、いったん極北まで歩み通すことを強いられた己れの近代的自我意識を、まるごと捨て去ることは不可能だ。
 私たちが向かうべき方向は、人類史が登りつめることを余儀なくされた〈個〉の先端と、六〇年代の映像が象徴し得ている〈類〉的な身体性との葛藤を、物語的に止揚し得るような生活思想の地平をおいてほかにはない。
 
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 『富士に立つ影』は、毎回約五十分のドラマで、全二十六話から成るが、前半と後半とでは、物語の構成も音楽もがらりと変わる。前半は、富士山麓における幕府の練兵場建設をめぐって築城大軍師の地位を争う、熊木家と佐藤家という二つの由緒ある築城家の確執の物語が中心となっている。
 熊木伯典という、善悪をふみ越えた、野獣のような猛々しい気性の悪魔的な人物の奸計によって両親を殺された佐藤兵之助とおゆきという兄妹の受難の物語と、非道な父伯典に激しく反発して、築城大軍師と赤針流第十一代目の地位をかなぐり捨て、市井の人々との自由な交わりの世界に己れの生きる意味を求めてさすらう自然児熊木公太郎(きみたろう)の苦悩を軸にドラマは回転する。
 白井喬二の原作の方は、幕末から明治初年にわたる熊木・佐藤両家の三代に及ぶ数奇な愛憎の悪因縁が絡まり合う大変複雑な構成をもった、『大菩薩峠』と並ぶ(日本の『戦争と平和』という異名をとるほどの)大長編大河時代小説であるが、テレビドラマでは、原作を叩き台にしながら、全く別のわかりやすいシンプルなストーリーに仕立て上げている。
 しかし、主人公の造型や時代背景には、原作の持ち味が巧みに活かされており、そこには、原作が書かれた大正末から昭和初年という一九二〇年代の世相と、六〇年代後半の高度経済成長完了前夜の価値解体的な情況のアナロジカルな重層性が透けて見えて、大変興味深い。
 白井喬二によって生み出された熊木伯典というユニークな人物には、第一次大戦後の大正後期から昭和初年にかけての独占資本主義体制の形成期に登場する、ある種の近代悪の匂いが感じられる。すなわち、伯典は、飼いならされていない前近代的な土俗の野性が、資本制近代との遭遇において挫折し、傷つき、歪みをこうむる中で醸成された、痛ましい庶民的類型を、そのまま幕藩末期社会に移植させたような人格となっているのだ。
 それは、私たちの戦後社会が飢えと貧困からの脱出の中で増殖させていった、ある種の獣的なエネルギーをもったエゴイストの類型にも深く通ずるものである。
 テレビドラマの舞台となる文政期から天保期にかけての幕藩末期は、〈近代〉の本格的な始動の時代に当たる。伝統的な価値秩序や倫理をふみにじりながら、同時にしたたかにそれを利用することで、己れの欲望を充足させ、エゴを拡充せんとする、特異な近代型の悪党を登場させることは、必ずしも無理な舞台設定ではないのである。
 このドラマの前半の主人公は伯典といってもよく、主要な登場人物たちはすべて、彼に鼻づらをひきずり回され、地獄の辛酸をなめさせられる。
 いわば伯典は、世界の不条理性の源泉ともいうべき悪の権化としての役割を担わされており、彼によってもたらされるこの世の悪因縁・不条理にいかに立ち向かい、それをいかに乗り越えていくかによって、主人公たちの生きざまは大きく別れ、変転を余儀なくされていく。
 熊木家への復讐の念に燃え、どん底の境遇から這い上がり、己れの才覚を武器に権力を握らんとする兵之助(川津祐介)の血みどろの野心と、伯典(内田良平)の邪恋によって入れ墨を入れられ、傷心のあまり己れの許を去ったおゆき(葉山葉子)を慕い続ける公太郎(中山仁)の悲恋が絡まり合って、数奇な運命に翻弄される主人公たちの愛憎渦巻くメロドラマが展開する。このドラマの前半部には、一昔前の日本社会にみられた、家意識と結びついた濃密な血族間の葛藤と、強靭な生身の身体性に裏打ちされた、哀歓の振幅の大きい、メリハリのきいた人生の物語の面影が感じられる。
 すなわち、水上勉や宮尾登美子の小説に典型的に象徴されるような、六〇年代前半までの前近代的土俗的な共同社会の濃厚な体液の匂いが残存しているのである。
 私たちの〈現在〉からみれば、もちろん、こういった風景は、いささかもリアリティーの無い、膜で隔てられた幻燈のような世界にすぎない。
 家族にせよ他者との関係にせよ、互いの生きる場所が隔絶し、生身の共感の根を断ち切られた現在のわれわれの社会においては、かつてのような、精神的な至近距離に置かれた人間同士の生ける葛藤のドラマなど成立しようがないからである。
 現在における愛や憎しみのドラマは、むしろ逆に、家族や他者に対する徹底した断絶意識に由来する、内向的で自閉的な精神病理的色彩を帯びるしかない。そこでは、生身の接触にもとづく人間らしい生臭い悲劇など起こりようがなく、生じ得るのはただ、互いの断絶意識によるパラノイア的な妄想を契機とした陰惨な悲喜劇の地獄のみである。
 一九六七年は、昔日の土俗共同体的な生身の人間関係に根ざした、濃密な愛憎のドラマが、最後の輝きを放ち得た年であった。
 『富士に立つ影』の前半部に立ち込めるこのような前近代的土俗的性格は、先に述べたような、ゆったりとした農耕社会的な時の流れと、気品のある繊細で陰翳に満ちた風景に包摂されることで、実になんともいえぬ艶やかなふくらみを与えられている。
 しかし、後半部は、がらりと雰囲気が変わる。
 後半では、代官殺しの無実の罪でおたずね者となった公太郎が、各地を転々と逃走しながら、そのつど縁(えにし)をもち得た人々の苦境を救おうと悪戦苦闘する、勧善懲悪的な一種の〈貴種流離譚〉の構成をとっている。その一方で、独学で蘭学を学びつつ、海外渡航の夢を抱く、近代志向の若者としての側面も描かれている。
 この二つの側面は、公太郎の中で、一切の階級社会が消滅して、一人ひとりの人間が、個としての自由な生存空間を切り拓き、充ち足りた生を送り得る新世界への夢につながっている。
 つまり、このドラマの後半部は、前半とは対照的に、濃密な血縁・地縁の共同体的空間や制度的な秩序から完全に逸脱し、一匹狼のアウトローと化した若者が、ささやかな幸せを求めて懸命に生きようとする無名の生活者たちのために、いかなる報いも求めず、己れの知力と肉体のすべてを賭けてなすべき事をなそうとする、孤独なたたかいの物語となっているのである。
 そこでは、もはや前半部のような、哀切な生涯のイメージやゆるやかな時の流れや土俗共同体的なエロスの受け皿の匂いは乏しく、果てしなく続く荒野の中を黙々とさすらう単独者の痩せた背中が視えているだけだ。
 この公太郎の姿勢は、あらゆる手づるを利用して立身栄達を図り、家を再興し、幕閣の信頼厚い能吏として頭角を現わしていく兵之助の生きざまと、鋭いコントラストをなしている。
 オープニングの音楽も、映像も、前半と後半ではまるで違う。
 後半では、黒一色の画面に、公太郎と兵之助の殺気溢れる眼や横顔や太刀筋などが映し出されるだけで、前半にみられたような、抒情的な潤いのある映像は全く見られない。
 音楽も、後半では、男性的なマーチ風のメロディーラインとなっている。
 要するに、この作品の前半部が六〇年代前半までの前近代的土俗的な闇の香りを鮮やかに蘇生させたものだとすれば、後半部は、片隅に生きる無名の生活者たちを押しつぶす理不尽な権力や人の弱みにつけ込む薄汚い貪欲な悪人たちへの激しい憤りと、〈個〉としての険しい戦闘的姿勢が前面に出た作りとなっているのである。
 前近代的な風土性の濃密さと近代的な自我意識の鋭さというこの両義性こそ、一九六七年という印象的な年の本質をなすものである。
 一方では、間もなく到来するであろう未知の世の中への期待と人間的な解放の幻に胸躍らせながらも、他方では、その社会が、人や自然への生身の親和性と深々とした抒情性の息づく古き良き伝統社会の香りを抹殺する、非人間的な制度的システムにすぎないことを予感していたからこそ、この年に放映された良質のドラマ作品には、いずれも、なんともいえぬ深い悲哀感がにじみ出ていたのだ。
 まさに社会の中から消え去ろうとしていた闇の気配を渾身の力をふり絞って再現しようとする、制作者たちの白熱した力わざは、このような、時代の決定的な変容への予兆に対する鋭敏な対応の所産だった。
 『富士に立つ影』の前半と後半の折り返し点に当たる第十三回目のドラマの冒頭では、はるかにそびえる富士の映像をバックに、次のような芥川隆行のナレーションが入る。
 
 富士は今日も変わらなかった
 その美しい姿はあくまで冴えて
 時の流れをみつめて微笑み
 人の世の変転に愁いを含みつつ
 黙して語らない
 
 この素朴な力強さをもった、格調のある言葉は、ドラマの前半部と後半部の〈矛盾〉を包摂し、止揚する要(かなめ)のような役割を果たしている。
 深い哀愁の漂う重厚な主題曲に沿って、芥川隆行の渋い味わいのある声で淡々と語られるこのナレーションに続いて、街道をただ一人往く公太郎の姿が映し出される。
 〈富士〉は、街道を往きかう無数の旅人たちの、それぞれに異なった宿命を担う、固有の生の重さを、どこまでも静かにみつめ、各々の無量のおもいを黙って慈しむように包み込んでみせる。
 この奥ゆきのある端正な美しさは、もちろん、近世後期以来の成熟した農耕社会の伝統に根ざした雪・月・花、花鳥風月の美意識であるが、それは、このドラマの後半部に流れる戦闘的な個我意識と決して矛盾するものではなく、むしろ、ささくれ立った険しい個の身構えをしばしなごませ、癒し、それに弾力とふくらみを与えるようなイメージを提供しているといってよい。
 主人公の公太郎が強いられている苛酷な試練は、この富士のイメージに凝縮的に象徴される風景の深々とした優しさと静けさによって緩和され、浄化され、ついには一切の我執と傷を呑み尽くす限りなく透明な〈自然〉という、類的な身体性の次元へと昇華される。
 通俗的なメロドラマの体裁をとりながらも、この作品では、個と類の止揚という困難な課題が、制作者たちの無意識のレベルで、美事に身体表現的に処理されているのだ。
 一九六七年という、高度経済成長完了前夜の、深い喪失感を伴う鋭いきしみの感覚が、このような奇跡的ともいえる力わざを可能にしたといってよいであろう。
 ただし、このドラマの最終回だけは、まことにいただけない不自然な作りになっている。
 農民たちの窮状を救わんがため一命を投げうった小藩の若き大名との深き縁(えにし)によって、老中水野忠邦の推進しようとした印旛沼干拓の事業に協力し、己れの築城術と蘭学の成果の全てを注ぎ込んで献身した公太郎の労苦も空しく、水野は、反対派の画策によって失脚し、干拓計画は無に帰してしまう。
 その「シーシュポスの神話」の如き不条理な痛手に打ちのめされた公太郎とおゆきに追いうちをかけるように、ようやくめぐり逢えた二人を理不尽な死が見舞うのである。
 それも、水野をかくまった兵之助の屋敷で、たまたま訪れたばかりの二人が、水野の暗殺を企てる反対派の刺客たちの襲撃に巻き込まれて落命するという、交通事故のような、踏んだり蹴ったりの結末になっているのだ。
 なぜ、このような視聴者の神経を極度に逆撫でする、残忍極まる不条理な、しかも不自然この上ないやり口で物語を閉じようとするのか。せっかく、巧みに物語を積み上げてきたのに、最終回で台無しの気分にさせられてしまうのである。
 言語道断な悪趣味であると言ってしまえばそれまでのことであるが、この設定の中には、明らかに二つの背景が見てとれる。
 一つは、カミュ、サルトル流の、存在の不条理性の認識をベースとした実存主義の流行であるが、より重要なのは、そういう若い世代を中心とする実存主義の浸透を可能ならしめた、当時の世相の内に漂うある種の酷薄な匂いである。
 それこそ、先にも述べたような、闇の抹殺の予兆だった。
 すなわち、存在との生身の接触に根ざした生命的な交感の物語と意味づけを完全に解体・一掃しようとする、科学文明と産業社会の不可視の圧力が、人々の魂を深く蝕み、その世界風景を、徐々に、無機的でメカニックな死臭の漂う、不条理で酷薄な色彩に塗り変えつつあったということである。
 一九六八年にはこの実感はさらに一段と深まり、六〇年代前半までの生命的な闇の香りは、確実に消滅寸前に追い込まれていた。
 しかし、科学とヒューマニズムと疑似コミュニケーションによる空疎な〈光の暴力〉の前に、魂の暗がりは封印され、私たちが直面していた真の問題は完全に見失われてしまったのだった。
 
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 一九六八年に放映されたNHK大河ドラマは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(北大路欣也主演)であった。この作品には、自由人竜馬のみずみずしい生命力と、ものにとらわれない大胆で柔軟な構想力、いかなる逆境にもめげない楽天的なプラス思考とひょうきんな性格といった向日的な魅力がみなぎっていて、それなりに優れた出来ばえを示していたが、そこには、もはや、六七年の幕末物にみられたような、繊細な魂の暗がりや抒情の匂いは、全くみとめられなかった。
 六八年から七〇年代初めという時代には、司馬遼太郎という、近代合理主義と経験主義を最もしっくりとした形で体現した、ウィットに富む、良い意味でも悪い意味でも乾き切った、したたかな関西人の作家を、一躍国民的名士にのし上げていくような、奇妙な向日性の強さがあった。
 しかし、この〈光〉は、明らかにまがいものであった。
 翌年の一九六九年は、白黒テレビが国民的な規模で一斉にカラーテレビに切り替わった年である。
 カラーテレビになることで、白黒時代の終りまでかろうじて保たれていた生身の生の陰翳は、完全に茶の間の映像から放逐された。そして、このカラー映像の白昼のような散文的な平板さは、そのまま、現実の市民社会の風景の感触と地続きのものであった。
 この時期、商業・サービス業を中心とする第三次産業の人口は、全就業者数の五十%近くに達し、東京を中心とする大都市に蟻のように群がったサラリーマンたちは、団地・マンションという、何の個性も無い画一的な箱の中にぎゅうぎゅうづめに押し込められ、会社という営利組織に己れのアイデンティティーをゆだね切って、馬車馬のように働いていた。
 六〇年代後半に放映され、大ヒットした『ザ・ガードマン』(TBS)という一話完結のサスペンス・アクションドラマでは、疲弊し切ったサラリーマンたちの内攻するストレスと隠微な犯罪的嗜好、留守を預かる団地妻たちの散文的で退屈な日常と不倫への誘惑、子どもをつめこみ勉強と受験競争へと追い立てる高学歴志向の親たちの自己顕示欲のくだらなさなどが取り上げられ、薄っぺらな世相を戯画的に描き出していた。
 こういう世相にあって、人々の日常風景の中から排除され、正常な表現を封じられた無意識下の闇のエネルギーは、グロテスクで暴力的な表現形態をとって新たな代償のはけ口を求めるようになる。
 一九六六年から六七年にかけて「少年サンデー」に連載された手塚治虫の『バンパイヤ』というマンガでは、主人公のロックという若者が、満月の夜になると狼に変身してしまう、純真な田舎出の少年を操りながら、この世の悪事の限りを尽くして市民社会の平和を震撼させる。ロックは、やがて、息子を悪の泥沼から救出し、必死に守ろうとする少年の母親の狼によって倒され、海に沈むが、最終回の扉絵には、海から上がった狼に変身したロックの姿が描かれ、彼の本体もまた狼であったことが暗示されている。
 『バンパイヤ』は、手塚治虫が、それまでのヒューマニズムによる勧善懲悪の図式を初めて自ら破ってみせた画期的な作品であるが、彼にそのような冒険を試みさせたものは、明らかに、この時代の欺瞞的な光に満ち溢れた市民社会的平和に対する激しい鬱屈の念にあったとみてよいであろう。
 手塚治虫の中からヒューマニズムや科学的合理主義の理念が失われたわけではないが、この作家の無意識の深みによどむ闇のエロスへの渇きは、それらの理念から乖離(かいり)した場所に、鬱積したエネルギーのはけ口を求めるようになったのである。
 『バンパイヤ』では、悪と暴力性の本質は、市民社会によって放逐され表現を封じられた野性の歪んだ代償形態として象徴的に描き出されている。このようなモチーフが、七〇年代以降の闇の表現のひとつの巨大な潮流を形作るのであり、ひいては、現在のわれわれの社会の精神病理や犯罪の本質を照らし出すものであることはまちがいない。その意味で、『バンパイヤ』は、まさに先駆的作品だった。
 ちなみに、一九六九年から七〇年には、手塚治虫の『火の鳥』シリーズの中でも、最も不条理感の強い『火の鳥・鳳凰篇』が発表されている。
 高度経済成長が完了した一九七〇年前後から二十一世紀初頭の現在までは、ある意味で地続きである。
 七〇年代以降、封印された闇は、均質化された産業社会と市民社会の空隙を縫って、さまざまな形式をとりながら執拗な抵抗を繰り返す。それは、悪と暴力性の表現から不条理に抗う獰猛な生命力の追求に至るまで、あるいは、ヴァーチャルな天上的エロスへの憧憬から生身の抒情性への渇望に至るまで、実に多種多様な様式をとって顕われた。
 そういう闇の抵抗線についても語りたいことは多々あるが、今は措く。
 ただ一言断っておきたいのは、七〇年代以降の闇の表現には、五〇年代から六〇年代前半までの社会に残存し得ていた生命的な奥ゆきと輝きの感触を、全き形で蘇生し得た作品は、あらゆる芸術分野を通じてほとんど存在していないという事実である。
 一九六七年は、なにかが決定的に滅び去った年であった。
 その事実が、私たちにとってかけがえのない何ものかの喪失であったという認識を、心ある読者といささかなりとも共有できれば、それで私は本望なのである。(了)



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〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第4回) 川喜田晶子

  • 2016.05.18 Wednesday
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「巌頭之感」の表現意識
 
 明治36年という時代の、荒廃と虚無が人々の無意識に澱んだ空気の中で、都会と農村、知的エリートへの階梯を歩む者であるか否か、といった出自や育ちの違いを超えて、藤村操の自殺は青少年の魂を吸引し、大人たちを震撼させた。
 その広範でかつ深い衝撃は、ひとえに「巌頭之感」の〈表現〉としてのインパクトと、己れの死に対する操のデザインの衝迫力による。
 
 操の遺した〈表現〉は、「巌頭之感」のみといってよい。
 生前、操が友人に当てた手紙類や、家族や友人への遺書にも、彼の内部で醸成されていた厭世観や憂鬱・煩悶の気分の断片は垣間見えるが、〈表現〉として熟したものではない。
 たとえば、「ドウモ悲観に陥り易くて困る、之れは一は信仰を有せざるによる事であらうし、一は又哲学知識の足らざる為であらう、又一つは現実の俗務がウルサイので、又旧思想の親戚間の感情のメンドウ臭ひ等の事より来たのであらう、ドウモ相変らずの煩悶子であつて困る」「僕は此頃懐疑に陥つて居るのである、僕の脳は今や大破壊を行つて居るのである」「僕は今や哲学的懐疑と、倫理的煩悶とが同時に来襲して来たので、其苦痛は到底言語筆紙の表はし得るところでない」といった私信が友人の南木性海に宛てて書かれている。(平岩昭三『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』不二出版 2003年)
 彼の煩悶の質について把握できる内容ではあるが、自覚された気分の散漫な叙述にとどまるものだ。
 もちろん、「巌頭之感」についても、土門公記が『藤村操―華厳の滝に眠る16歳のメッセージ』(下野新聞社 2002年)で指摘しているように、操の独創によるものではなく、語彙やシチュエーションの上で影響を受けたであろう著作がいくつか想定される。しかし、語彙の出典をいくらあげつらってみても、この「巌頭之感」の衝迫力が薄まるわけではない。
 同様に、藤村操の生育過程や自殺直前の挙動の中に、自殺に至る原因を特定すべく探索してみても、彼が己れの自死のデザインに込めた〈表現〉意識は読み解くことができないだろう。
 彼の死に衝撃を受けた者たちは、操の生育過程にではなく、「巌頭之感」という〈表現〉によって、己れの内奥に潜む同質の、この世界への異和感を象徴的に的確に言い当てられて、その生存感覚を根底から揺さぶられたのである。
 
 もっとも、身近な同級生たちの操の自殺への共感には、質の近しい生育過程にまつわる鬱屈も含まれていたろう。彼らは多かれ少なかれ知的エリートとしての上昇過程を歩む青少年であり、出自は異なれども操と同質の思潮を浴び、学問や人生や国家・社会とのスタンスに多感に苦しみながら、表層的には「知的に」煩悶していたのであり、ひとことで言えば、彼らはその煩悶の本質に的確な表現を与えることができないまま、知的な上昇過程を歩むことを自他に課されて、いわば社会的な〈ペルソナ(仮面)〉を気ぜわしく身につけんと志したエリートたちであった。
 表層的には「知的」煩悶と見えるだろうが、本質には、明治30年代の、不穏な荒廃と空虚が底流しており、己れの「知的」営為の空しさにさえ衝き当たるならば、大衆的な規模で抱え込まれていた得体の知れない不条理感が一気に浮上してきても不思議ではない。その「表層」を剥ぎ取ってしまう威力が、操の「巌頭之感」には潜んでいた。
 
 操の「上昇過程」もまた、かなり極度に観念的に、エリートとしての〈ペルソナ〉を身につけようとした事例ではあった。
「操の父藤村胖(ゆたか)は旧南部藩士藤村政徳の長子で、大蔵省主計官を退任後北海道の屯田兵組織に開拓資金を供給するために作られた屯田銀行の頭取として札幌に在住していたが、明治三十二(一八九九)年六月に死亡した。円山公園で自殺したとも、癌のため病没したとも伝えられている。」(平岩昭三の前掲書より引用、以下の操の生い立ちにまつわる事実も同書を参照したものである)とあるように、操自殺の4年前に父親が死去している。
 操の母晴は東京女子師範学校卒で胖の後妻となり、操(明治19年7月20日生まれ)を長子として4子がいたらしい(「気宇の大きい」女性であったと、後に操の妹と結婚した安倍能成が語っている)。操は札幌中学から開成中学へ編入学、一人上京して母方の実家である蘆野家に身を寄せる。胖の死後、先妻の子が家督を相続し、晴一家は札幌を引き払って東京へ移り住むこととなり、操も家族と再び同居する。
 父の死により、晴の第一子として家の将来が双肩にかかってきた操は、開成中学3年級を終えると京北中学(哲学的な気風の強い中学であった)5年級へと編入学(明治34年4月)、明治35年9月には第一高等学校に入学する。
 操の従弟である蘆野弘が語るところによれば、蘆野家時代の操は、「極めて純情な快活な普通の少年であった」とあり、「京北へ行ってから気風がすっかり変わった」とのことである。操の父の死後、エリートコースを足早に駆け上がろうとしながらも、懐疑・煩悶に呑み込まれていったのであろう、一高入学前後からは哲学にも身を入れず、文学書を乱読するようになっていった。周囲からも、快活から憂鬱に転じたことを気取られていた。
 当時の、このような階梯を歩みながらその空虚さに疑念を抱き煩悶する青年層の遍在の様相は、先述した岩波茂雄の回想からも見てとれるし、明治28年〜明治32年には、年々50人前後の学生が自殺しているという統計結果もあったくらいだから(明治36年「太陽」誌上の「自殺と青年」での大塚素江の言及による)、操の煩悶もその自殺も、それだけならば突出した事件というわけではなかったことになる。
「巌頭之感」が、人々の無意識の鬱屈を広角度で瞬時に噴出させてしまった、その威力の凄まじさを想う。
 
「巌頭之感」の全文を今一度掲げる。
 
 悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、
 五尺の小躯を以って此大をはからむとす。
 ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。
 万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解。」
 我この恨を懐て煩悶終に死を決す。
 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
 
「天壌」と「古今」とが本来どれほど豊かな奥深さとはるかな雄大さとを持つものであるかについて、藤村操がきちんと触知していることを、この文体は伝えている。
 科学的合理的な知識の体系が「天壌」「古今」という言葉のはらんでいたコスミックな意味と価値を解体してゆくことの痛みを感じることができるためには、その本来の振幅への身体的な触知が無ければならない。
 その触知があればこそ、「五尺の小躯」の卑小さに苦しみ、「小躯」と「天壌」との間の絆を裂き、気まずくしている世界観に懐疑を抱くことができる。
〈近代〉による解体が始まっていたとはいえ、前近代的な風土性の豊かに残存する明治20年頃生まれの青年たちは、いかほど根無し草的なエリート養成のプロセスを歩まされていたとしても、まだ天地のなんたるかを生理的に混沌のままに感受して育っていたために、この雄渾の文体が可能だったが、それゆえにこそ、成長過程を通じて目の当たりにする、世界からのコスミックな気配の剥落の急激さは、感受性の鋭敏な若者の魂を追い詰めてやまなかったろう。
 一高に哲学を学ぶエリートでありながら、彼の得た知や観念は、この気まずさに対してものの役に立たないことを察知して操は煩悶する。
 学問は、彼の冷えた肉体と天地との断絶を埋めることはできない。
〈知〉によって測られる世界もあらゆる存在も己れ自身も、いよいよみすぼらしく冷ややかな貌を見せるようになり、生きるに価するこの身と世界であると信じられなくなってゆくばかりだ。
 本来、人の〈知〉で測り得ぬ天地(コスモス)の「不可解」は、人の生を根底において支えるべきものであったはずだ。近代的な〈知〉によって細分化された自意識が登場してはじめて、天地の「不可解」が人の存在を脅かし、不安に陥れ、苛立たせるものとなったのであり、操の〈死のかたち〉の当時における新しさもその点にあった。
 表層的な文字づらを読むならば、煩悶と死の理由は、「不可解」だからということになってしまう。黒岩涙香が操の死を「哲学のための死」と位置付けたのもそのせいである。(操の投身自殺直後の明治36年5月27日付万朝報に、「少年哲学者を弔す」と題し「我国に哲学者無し、此の少年に於て初めて哲学者を見る、否、哲学者無きに非ず、哲学の為に抵死するもの無きなり」と記し、思想に殉じた操の死を称揚している。)これは操の死の新しさの誤読と言うべきである。
 不可解の謎を解くことが出来ないから死を決したのではない。「不可解」が存在を支えてくれない世界観の中で、己れの生存の意義が見出せないから死を決したのである。
 大いなる悲観が大いなる楽観へと転ずるのも、「不可解」の天壌に回帰するために自決するならば、己れの浮き上がった小躯の不条理感が解消されるからである。「巌頭之感」を遺すにあたって、子宮へ回帰するかのように甘美な天壌と我との融和の位相に包まれた心境であったことが察せられる。
 
「巌頭之感」の文体が全身的に訴えているものは、「不可解」それ自身よりも、「不可解」の天壌と五尺の小躯との間を気まずくしている寒々とした世界観への狂暴な憤りであり、その憤りの転じた甘美な跳躍と回帰への昂揚である。
 この狂暴な憤りと跳躍のドラマチックな詩的構想こそが、当時の大衆の無意識の核に触れ得たし、みすぼらしい世界観に立脚して世の仕組みを支える側に居る者を心底おびやかしたのである。
 
 多くの青少年が熱に浮かされたように「巌頭之感」を口ずさみ、苦しい内省を省略して後追いに走りもしたが、その跳躍に至るまでの苦悩の長さ・深さを思いやりながら、自らの生きざまの純度を問い続けた者もいた。
 
 石川啄木にも当時の〈知〉への懐疑的な言及がある。
「煩悶とは? 其当時、教科書を売つたり、湯屋へ行く銭を節したりして、秘かに買つた或種の書籍―先生からは禁じられた旨い旨い木の実―と、自分の心中に起つた或新事件とによつて、朧ろ気に瞥見した「人生」といふ不可測の殿堂の俤と、現在自分の修めて居る学科、通つて居る学校との間に何の関係もないらしいといふ感じであつた。」(「林中書」)
「世に最も貴きもの三あり。一に曰く、小児の心。二に曰く、小児の心。三に曰く、小児の心。」「適者生存の語あり。思ふに、我等恐らくは今の世に適せじ。されば早晩敗れて死ぬべきの時、我等の上に来らむ。然れども、真に永劫に死し果つべき者、我なるべきか、はた彼なるべきか。」(「一握の砂」)
「既にして一元二面論を立し、人生万事解し得たりとしき。」「然れども悲しい哉、予の哲学は予に教ふるに一事を剰したり。曰く、笑ふべきか、はた泣く可きか。」「知識畢竟何するものぞ。人は常に自己に依りて自己を司配せんとす。然れども一切の人は常に何者にか司配せらる。此「何者」は遂に「何者」なり。我等其面を知らず。其声を聞かず。」(「卓上一枝」)
「死といふ問題と面相接した時ほど、過去と現在との距離の急に近くなる事はない。そして若しも此事が無かつたなら、どれだけ世の中に自殺者が増えて来るか知れない。」(「暗い穴の中へ」)(以上、『石川啄木全集第4巻』所収(表記は原文のまま) 筑摩書房 1980年)
 
 断片的な叙述であるが、当時の社会ダーウィニズムの浸透による「適者生存」の世の中で、「敗者」を自認するしかない「小児の心」の持ち主の逆説的なプライドと、彼らにとって学校で教わる〈知〉は〈生〉の本質を見きわめる上でものの役に立たないという認識の、不機嫌な痛みが胸を刺す。
 ここには、藤村操の感受していた〈不可解〉と〈知〉の相容れない世界風景が、啄木によってかなりの精度で理知的に表現されていることがわかる。
「死といふ問題と面相接した時ほど、過去と現在との距離の急に近くなる事はない。そして若しも此事が無かつたなら、どれだけ世の中に自殺者が増えて来るか知れない。」という言葉は、「死」を想うことでかろうじて自殺を思いとどまることのできる者の存在を、普遍的だとみなす、同時代への啄木の透徹した認識を示している。
 この啄木の認識の周辺で、ある者は踏みとどまり、ある者は一線を越え、ある者は啄木と認識を同じくしながらも死を択んでいった。
「巌頭之感」の起爆力は、同じ鬱屈を抱えた青少年を死に追いやりもしたが、内省力の試金石となって死を思いとどまらせもしていたと言えるだろう。その境界線を、多くの青少年がありありと己れの内に見出したのである。(この稿続く)
 


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宮沢賢治童話考(連載第4回) 川喜田八潮

  • 2016.05.18 Wednesday
  • 17:53
 
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 前にも触れたように、宮沢賢治の自然意識には、存在への異和に根ざしたヴァーチャルで無機的な関係意識と共に、それを緩和し、修復しうるような生身の身体性への渇きが息づいていた。
「めくらぶだうと虹」は、そのような渇きが、穏やかで親和的な生命感覚となって、幸福な形をとって表出された数少ない作品の一つである。
 
 城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟(あは)は刈られました。
「刈られたぞ。」と云ひながら一ぺん一寸(ちょっと)顔を出した野鼠(のねずみ)が又急いで穴へひっこみました。
 崖(がけ)やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐます。
 その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。
 さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向ふの山は暗くなりました。
 そのかすかなかすかな日照り雨が霽(は)れましたので、草はきらきら光り、向ふの山は明るくなって、大へんまぶしさうに笑ってゐます。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで来て、みんな一度に、銀のすゝきの穂にとまりました。
 めくらぶだうは感激して、すきとほった深い息をつき葉から雫(しづく)をぽたぽたこぼしました。
 東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のやうにやさしく空にあらはれました。
 そこでめくらぶだうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。(「めくらぶだうと虹」)
 
 書き出しの部分であるが、なんとも息を呑むほどに美しい描写である。
 実り、枯れ、刈り取られた秋のさまざまな植物たちの生死の面影が交錯する、廃墟址の蕭条とした風景の中で、ひっそりとたたずむ「めくらぶだう」の息づかいが、皮膚感覚的な鮮やかさをともなって伝わってくる。山脈に抱かれた城あとの風景全体が深々とした陰翳に包まれ、風の香りやかすかな日照り雨を受けた草のきらめきの表情も、驚くほどみずみずしい透明感をたたえている。
 そして、この生死一如のような、生命的な浄福の光景の中に、大きな「虹」が出現するのである。
 宮沢賢治の主・客融合的、アニミズム的な生存感覚が、ここでは、硬質な客観的・写実的な描写力を活かしながら、比類ない鮮度を保って描破されている。
 作品の冒頭で、作者は、山脈を背景とする城あとの風景全体を視野に収め、無駄の無い簡潔な筆づかいでそのみずみずしい生命感を一気にひき出しながら、同時にめくらぶだうの視線に憑依し、次いではるかなる虹への熱い哀しい憧憬のおもいを語りはじめるのである。
 ここからのめくらぶだうと虹は会話体による擬人化をこうむるのだが、読者は、先に引用した客観的な風景描写による身体感覚の励起を経ているために、他の賢治童話にありがちな、息苦しい人間ドラマへの矮小化の感覚を味わわずにすむ。それが、この作品の美事さの秘密である。
 おまけに、めくらぶだうと虹の会話の中味がまた味わい深い。瞬間の中で燦然と輝く虹の天上的な高貴さに比べて、自分などははるかにみすぼらしい、はかない存在でしかなく、すぐに実や葉は風にちぎられ、冷たい雪の中にうずもれ、枯れ草の中で腐ってしまうのだと嘆き、ひたすら虹に崇拝と思慕のおもいを打ちあけるめくらぶだうに対して、虹は言う。
 
「……本たうはどんなものでも変らないものはないのです。ごらんなさい。向ふのそらはまっさをでせう。まるでいゝ孔雀石(くじゃくいし)のやうです。けれども間もなくお日さまがあすこをお通りになって、山へお入りになりますと、あすこは月見草の花びらのやうになります。それも間もなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。/その頃、私は、どこへ行き、どこに生れてゐるでせう。又、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒づつけづられたりくづれたりしてゐます。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらはれるときは、すべてのおとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさへ、たゞ三秒ひらめくときも、半時空にかゝるときもいつもおんなじよろこびです」(「めくらぶだうと虹」)
 
 あらゆる生きとし生けるものの栄枯盛衰・有為転変・無常なるものを貫く存在の本質についての宮沢賢治の理念が率直に語られている。
 存在の一瞬の光芒の内に顕現しうる、時空を超越した大いなるいのちの働き。善悪美醜、光と闇の織りなす混沌とした存在のドラマを司り、そのうねりの中に内在しつつ超越する、霊妙な力の遍在。
 作者は、深々とした陰翳とみずみずしい透明感をたたえた城あとの風景に象徴される生死一如の境位を体現した虹のすずやかな風貌の中に、己れの世界観の核心を、最もシンプルに、てらいなく込めてみせたのである。
 
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 しかし、「めくらぶだうと虹」は後に「マリヴロンと少女」という作品に改作され、そこでは、めくらぶだうと虹の対話は、父親の牧師と共にアフリカへ行くギルダという少女と歌手のマリヴロン女史の対話へと置き換えられている。
 冒頭の風景描写の文章は、ほぼ「めくらぶだうと虹」と同じようにみえるが、実は、微妙に変えられている。 
 
 城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になって、畑の粟(あは)は刈りとられ、畑のすみから一寸(ちょっと)顔を出した野鼠(のねずみ)はびっくりしたやうに又急いで穴の中へひっこむ。
 崖(がけ)やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐる。
 その城あとのまん中の、小さな四っ角山の上に、めくらぶだうのやぶがあってその実がすっかり熟してゐる。
 ひとりの少女が楽譜をもってためいきしながら藪(やぶ)のそばの草にすわる。
 かすかなかすかな日照り雨が降って、草はきらきら光り、向ふの山は暗くなる。
 そのありなしの日照りの雨が霽(は)れたので、草はあらたにきらきら光り、向ふの山は明るくなって、少女はまぶしくおもてを伏せる。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで来て、みんな一度に、銀のすゝきの穂にとまる。
 めくらぶだうの藪からはきれいな雫(しづく)がぽたぽた落ちる。
 かすかなけはひが藪のかげからのぼってくる。今夜市庁のホールでうたふマリヴロン女史がライラックいろのもすそをひいてみんなをのがれて来たのである。
 いま、そのうしろ、東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のやうにやさしく空にあらはれる。(「マリヴロンと少女」)
 
  先に引用した「めくらぶだうと虹」の冒頭部と虚心に読み比べてみると明らかなことだが、「マリヴロンと少女」の風景描写の方が、格段に色あせたものとなっている。
 その理由は二つある。
 ひとつは、「めくらぶだうと虹」では、いかにも童話風の、ゆったりとした優しい「ですます体」の語り口調でリズミカルに描写されているのに対し、「マリヴロンと少女」では、童話風の空気を一掃し、現在進行形の「である調」を使って、淡々と事実を記述的に積み重ねていくような、冷ややかな機械的リズムが支配しているという点である。
 同じような風景を客観的に描写していても、表現意識はまるで異なっているのだ。
「めくらぶだうと虹」のみずみずしいリズムを抽き出しているのは、作者の主・客融合的でアニミズム的な身体感覚の鮮やかさであるといっていいが、「マリヴロンと少女」では、主・客は冷ややかに分離され、主体としての作者は、ただ、客体化された美しい風景を写実的に「記述」しているだけなのである。
 もうひとつは、「めくらぶだうと虹」の冒頭部では、風景の客観描写がなされているとはいえ、その中に、わずかに、ひかえめな形で動植物の擬人化が混入されているのに対して、「マリヴロンと少女」では、一切の擬人化がしりぞけられているという点である。
 前にも強調したように、擬人化という手法は、存在に対するわれわれの共感や想起の能力を大幅に希釈し、あるいは封じてしまうという危険性をもっており、自然を擬人化したとたんに、その作品は、自然に対する真の身体的な開放感とは無縁の、単なる人間ドラマの〈喩〉としての寓話的レベルに限定させられてしまうのである。
 宮沢賢治の擬人化の手法にはほとんど常にこの難点がつきまとっているが、「めくらぶだうと虹」は、逆に擬人化が、風景描写に込められたみずみずしい生命的な身体感と共振し、それを励起させる効果を生み出しているという、例外的な作品の一つであるといっていい。
「めくらぶだうは感激して、すきとほった深い息をつき葉から雫をぽたぽたこぼしました」とか「めくらぶだうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました」といった表現は、作品冒頭の客観的な風景描写の身体的な喚起力を弱めるのではなく、逆に励起し、それに一層の透明感とふくらみを付与しているのである。
 対照的に「マリヴロンと少女」では、一切の擬人化をしりぞけ、冷ややかな写実的描写とあいまって童話的な空気を一掃することで、風景を痩せ細ったものにしている。
 ここでは、秋の蕭条とした夕暮れ時の風景は生命的なふくらみをもたず、むしろ少女の憂鬱に揺れ動く、孤独な冷え切った身体の喩として立ち現われている。
 さらに、少女とマリヴロン女史との会話も、めくらぶだうと虹のそれとは趣きを変えている。
 自分は父親の牧師と共に明日にはアフリカへおもむき、布教・伝道の仕事に携わらなければならない、しかし本当は音楽好きで、マリヴロン女史のように歌いたかった、自分はアフリカなどに行きたくはない、女史のもとに仕え、彼女の仕事を手伝い、教えを乞いたい。そんな溢れるおもいを抱えながら、少女ギルダは、マリヴロンへの熱烈な憧憬のおもいを訴えようとする。
「あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでせう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです」という女史に対して、ギルダは、そんなことはない、「先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派に」なさるお方だと主張する。マリヴロンは少女をさとすように「えゝ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよさうでせう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを一羽の鵠(こふ)がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です」と語る。
 けれども、あなたは、高く光の空にかかり、草花や鳥はあなたをほめたたえて歌うのに、私は誰にも知られずに巨きな森の中で朽ち果ててしまうのだ、と少女はうちひしがれたようにつぶやく。女史は「すべて私に来て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与へられたすべてのほめことばは、そのまゝあなたに贈られます」と励まし、なおも、私を連れて行ってくれと哀願する少女に、「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです」と語りながらその願いを拒否し、進むべき道を指し示す。
 この会話だけでは、少女ギルダの希いやそれへのマリヴロン女史の対応の仕方が妥当なものであったのかどうかはわからない。ただ、ささやかな私見を言わせてもらえば、たとえそれが親の希望だろうが何だろうが、己れの身体の深奥から立ち昇る自然な渇きの声に抗うものであるのなら、人間は、そんな要求を拒否してみせる権利をもっているということだ。
 牧師の布教・伝道の仕事が己れの魂を圧殺しようとする営みだと感じられるのなら、少女には、それを徹底的に拒む権利があるし、マリヴロン女史は、他人の人生の重大な岐路に当たって、無責任なおためごかしを言うべきではない。
 もちろん、だからといって、女史が、安っぽい同情から少女の身元を引き受け、その教育を肩代わりすることで、己れの精神的な自由を自ら拘束してみせる必要もない。
 女史は、自己欺瞞もおためごかしもなく、己れの孤独な表現者としての道を歩み続けるべきだし、少女もまた、己れの心奥の声に耳を傾けつつ、かけがえのない単独者の道を探し当てるべきなのだ。
 ここでのマリヴロン女史の言葉には、宮沢賢治の生活思想者としての自立の理念が込められている。そのポイントは二つある。
 ひとつは、他人への〈比較〉の視線、世間や他者による〈評価〉の視線をいかに超えてみせるか、という問題である。
 己れ自身の固有の生活史の文脈に則した、自然な身体の渇きに根ざした固有の生の営みがつくり出す、ささやかな哀歓の輝きの軌跡。
 それは、それ自身で絶対的に屹立している、ひとつの〈生活〉という芸術なのであり、比較や評価を絶したものなのだ。
 マリヴロンのいう「正しく清くはたらくひと」とは、どのような存在なのか。この作品には、それがきちんと示されていない。それだけに、このマリヴロンの言葉には、己れの実存を疎外した安直な献身や自己犠牲の理念に横すべりする危険性がはらまれている。
 これは宮沢賢治自身の危うさであると共に、賢治文学を受容する者の陥りがちな危うさでもある。
 だがすでに、「よだかの星」に息づいている、宮沢賢治の誇り高い〈孤〉の絶対的な屹立の場所を知っている私(たち)は、「青いそら」の中を飛んでいく「一羽の鵠」の軌跡がつくり出す深々とした清冽な時間の芸術がいかなるものかを、一切の観念的・倫理的な贅肉を削ぎ落とした形で感受することができるはずである。
 マリヴロン女史の言葉に込められているもうひとつのポイントは、そのような一人ひとりの生の絶対的な固有性の営みの場所が、その孤独さを純粋に守りながら、いかにして、他者の固有性と結びつき、出会うことができるのか、という問題である
「すべて私に来て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします」「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです」というマリヴロン女史の言葉は、この問題への解答を指し示している。
 しかし、これらの言葉が生きて成立しうるには、いうまでもなく、「めくらぶだうと虹」で表現されたような、時空を超えて遍在する大いなるいのちの働きに対する作者の信仰心の深さが、きちんと息づいていなければならない。
「めくらぶだうと虹」では、そのような宇宙生命的な理念が、アニミズム的な存在の輝きを象徴するみずみずしい風景描写を前提とすることで、簡潔に、説得的に語られていた。
 しかし、「マリヴロンと少女」では、そういう時空を超越した生命観を生き生きと伝えるような言葉もなければ、その生命観に力を与えるような風景描写のみずみずしさも欠落している。
 だから、せっかくのマリヴロン女史の言葉も、この作品だけでは、ただの観念的なお説教のレベルにとどまっている。独立した作品としては、どうしようもなく痩せているのである。
「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への改作の姿勢には、宮沢賢治の孤立感の深さと冷え切った身体、その裏返しとしての関係への飢えの激しさと孤立感を代償せんとする観念的倫理的志向の危うさが透けて見える。
 私たちは、ここで、またもや賢治の生き難さの業に直面させられているのだ。
 
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 擬人化の手法が穏やかで親和的な風景描写と共振し合いつつ、美事な生涯の完結感=〈死〉のイメージを造型し得た童話作品に、「おきなぐさ」がある。私は、宮沢賢治のあらゆる作品の中で、これほどに安らかで軽やかな浄福感をたたえた死の感触にめぐり会ったことはない。成長し切った植物の種子が風に吹かれて散っていく時の、最期の生の輝きが描かれているのだが、これと似たモチーフを扱った童話作品「いてふの実」が、思春期の子供の旅立ち前のような、死と孤立の恐怖に蒼ざめた実存的な悲壮さを漂わせているのに対して、「おきなぐさ」にはそういう悲壮さや感傷の匂いが全くない。
「おきなぐさ」は別名「うずのしゅげ」ともいい、「黒繻子(くろじゅす)の花びら」と青白い「銀びろうどの刻みのある葉」をもち、六月には「つやつや光る冠毛」をつける。なんとも神秘で涼やかな風情をたたえた気品のある植物なのである。このうずのしゅげの花をきらいなものはない、と作者は語る。
 
 又向ふの、黒いひのきの森の中のあき地に山男が居ます。山男はお日さまに向いて倒れた木に腰掛けて何か鳥を引き裂いて喰べようとしてゐるらしいのですがなぜあの黝(くろず)んだ黄金(きん)の眼玉を地面にじっと向けてゐるのでせう。鳥を喰べることさへ忘れたやうです。
 あれは空地のかれ草の中に一本のうずのしゅげが花をつけ風にかすかにゆれてゐるのを見てゐるからです。
 私は去年の丁度今ごろの風のすきとほったある日のひるまを思ひ出します。
 それは小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはづれの西がはでした。かれ草の中に二本のうずのしゅげがもうその黒いやはらかな花をつけてゐました。
 まばゆい白い雲が小さな小さなきれになって砕けてみだれて空をいっぱい東の方へどんどんどんどん飛びました。
 お日さまは何べんも雲にかくされて銀の鏡のやうに白く光ったり又かゞやいて大きな宝石のやうに蒼(あを)ぞらの淵(ふち)にかかったりしました。
 山脈の雪はまっ白に燃え、眼の前の野原は黄いろや茶の縞(しま)になってあちこち掘り起こされた畑は鳶(とび)いろの四角なきれをあてたやうに見えたりしました。
 おきなぐさはその変幻の光の奇術(トリック)の中で夢よりもしづかに話しました。(「おきなぐさ」)
 
 春の風景のひとこまが、枯草の中にひっそりとたたずむ「うずのしゅげ」の柔らかな空気を中心に、みずみずしく描写されている。「鳥を引き裂いて喰べようとしてゐる」獰猛な山男も、「黄いろ」や「茶の縞」になって横たわる枯れ野や「あちこち掘り起こされた」畑の荒れた風情も、この植物の優しい繊細な気配の内にごく自然に包摂される。
「銀の鏡」とか「宝石」とか「光の奇術(トリック)」といったような、賢治らしい、金属的でアトミックな感覚を示す言葉もわずかに見られるけれども、ここではそれらの言葉も、生身の身体性を励起させる、「おきなぐさ」の風情を中心とした穏やかで生命的な風景描写の中に、抵抗無く溶かし込まれているのである。
 その鮮やかにひきしまった客観描写の延長に、刻々と移り変わる風景のデリケートな表情にみずみずしい驚異の念をおぼえるふたりの「おきなぐさ」たちの対話が続く。
「めくらぶだうと虹」と同様、ここでも、おきなぐさたちの擬人化の手法は、客観的な風景描写の励起させる生命感を弱めるのではなく、むしろ、それと共振し合っている。
 やがて、二ヶ月が過ぎ、春から夏へと季節は移り、「銀毛の房」をたくわえた二つのおきなぐさたちは、まもなくひとつの生涯を終え、散り時を迎えようとする。
 
「丘はすっかり緑でほたるかづらの花が子供の青い瞳のやう、小岩井の野原には牧草や燕麦(オート)がきんきん光って居(を)りました。風はもう南から吹いて居ました。/春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房にかはってゐました。野原のポプラの錫(すず)いろの葉をちらちらひるがへしふもとの草が青い黄金(きん)のかゞやきをあげますとその二つのうずのしゅげの銀毛の房はぷるぷるふるへて今にも飛び立ちさうでした」(「おきなぐさ」)
 
 ひばりがやって来て、飛んで行くのはいやですかと聞くと、おきなぐさは、なんともありません、僕たちの仕事はもう済んだのです、僕たちがばらばらになってどこへ飛ぼうと、お日さまはちゃんと見ていらっしゃる、何も恐いことはありませんと答える。
 すがすがとした二本の草は、風の訪れを心静かに待ちうける。
 
 奇麗なすきとほった風がやって参りました。まづ向ふのポプラをひるがへし、青の燕麦(オート)に波をたてそれから丘にのぼって来ました。
 うずのしゅげは光ってまるで踊るやうにふらふらして叫びました。
 「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがたうございました。」
 そして丁度星が砕けて散るときのやうにからだがばらばらになって一本づつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のやうに北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のやうに空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんの一寸(ちょっと)歌ったのでした。
 私は考へます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに空の方へ飛んだか。
 それはたしかに二つのうずのしゅげのたましひが天の方へ行ったからです。そしてもう追ひつけなくなったときひばりはあのみじかい別れの歌を贈ったのだらうと思ひます。そんなら天上へ行った二つの小さなたましひはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星になったと思ひます。なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えずあるときは蟻が云ったやうに赤く光って見えるからです。(「おきなぐさ」)
 
 このように暖かくはればれとした、しかも透明で深々とした〈死〉の瞬間を、私たちの近代文学は、他に生み出すことができただろうか。リアリズム的な小説技法が逆立ちしてもとうてい真似のできないような、酷薄さや悲壮さというものを完全に突き抜けた、生命的な軽やかさがここには息づいている。
 自然に帰するが如く、とはこのような表現をいう。
 擬人化とみずみずしい生身の風景描写が一体となった「童話」という喩的形式を通してしか、このような死の受容のあり方を描出することは不可能であろう。
 われわれの見ている星は、はるか昔に輝いていた(あるいは滅び去った)星の光がたまたま今われわれのもとに届いて網膜を刺激している物理的現象にすぎないなどという、科学的な因果律のゴタクを並べ立てるような鈍感な愚か者たちには、この「おきなぐさ」の啓示する偉大な真理は、とうていわかりはしない。
 物質的な星の寿命や滅亡などという知識は、われわれが今、この瞬間に見上げ、めぐり会っている星辰の高貴燦然たるきらめきというおごそかな事実にとっては、全くもって何ものでもない。
 そういう因果律的説明は、〈存在の本質〉とは全く別次元に属することである。
 驚くべき事は、因果律的説明それ自体にあるのではなく、はるか昔に輝いていた、あるいは滅んだ星のまたたきを、今、われわれが、ここで、このような天空の配置とたたずまいを通してみつめているという事実そのものにあるのだ。
 その星の輝きは、まさに、今ここで私たち自身と出会うべくして出会ったのであり、私たちの心身に宿りながらも私たちの有限な肉体や意識のあり方をはるかに超えてひろがる偉大なるコスモスの息吹の顕われとして、今ここに私たちの〈本体〉の一部としてその生命を開示してみせているのである。
 私たちの死後の霊のゆくえもまた、この無窮なるコスモスのうねりの中に包摂され、そこで生きる。
「おきなぐさ」の転生のイメージと私の死生観が出会う場所はそこである。
「銀河鉄道の夜」に描かれた透明で冷ややかな、天上の水の如きイメージが、宮沢賢治の〈存在への異和〉に根ざした孤絶感の裏返しとしてのヴァーチャルで無機的な生存感覚の延長上に形成されたものであるとするなら、「おきなぐさ」は、逆に、作者の生身の身体性への渇きが生み出した穏やかで親和的な生命感覚の延長上に成立し得る幸福な臨終のイメージを象徴するものであった。
 私には、この二元性の〈均衡〉のうちに、一切の不自然な悪あがきを排した上で私たち現代人が心静かに死に対座しようとする時の、究極の〈安心〉のありかをめぐる課題の本質が、鮮やかに凝縮されているようにおもえてならないのである。(この稿続く)



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書評:ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2016.05.18 Wednesday
  • 17:41
川喜田八潮評論集『コスモスの風』
書評篇
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(鈴木雅大訳)平凡社ライブラリー(連載第2回)
 
     3
 
 ドゥルーズは、ミシェル・フーコーの権力概念を受け継いでいる。
 フーコーのいう<権力>とは、国家によって定められ、大衆に押しつけられた、垂直下降的な制度的システムのことではない。
 個々人が人生において遭遇する、生の<選択>を迫られる無数の局面において、そのつど、意識的・無意識的に<選択>を強いてくる、微視的(ミクロ)な内面的権力のことである。
 それは、個々人が直面させられる対象によって喚起された<情動>のあり方によって決定される、対象との間の作用と反作用の関係にほかならない。
 国家の制度的な権力とは、大衆一人ひとりが置かれた、そのミクロな権力関係によって自ずと情動的に強いられた生の<選択>の無数の集積、<積分体>への<統合作用>の結果として紡ぎ出されたものにすぎない。
 
権力関係は、様々な特異性(情動)を決定する差異的な関係である。それらを安定させ、地層化するような現実化とは、一つの統合作用である。つまり一つの「普遍的な力線」を引き、様々な特異性を結びつけ、それらを整序し、等質化し、系列化し、収束させるような作用である。」
あらかじめ直接的に、全体的な統合作用が存在するわけではない。むしろ、多様な局所的、部分的な統合が存在し、そのそれぞれが、何らかの関係、何らかの特異点に似ているのである。統合を行なう諸要素、地層化する諸要因は様々な制度を構成する。<国家>、また<家族>、<宗教>、<生産>、<市場>、<芸術>それ自体、<道徳>‥‥‥。制度は、源泉でも、本質でもなく、本質も、内部性ももたないのだ。制度は、実行であり、操作のメカニズムであって、権力を説明するものではない。」
制度の方が関係を前提とし、生産ではなく、再生産の機能において関係を「固定する」ことで満足するのだ。<国家>というようなものはなく、ただ国家化があるだけで、これは他の場合についても同じことである。」
「だから、おのおのの歴史的形成に対して、このような地層の上にあるそれぞれの制度に属するものが何か、つまり制度はどんな権力関係を統合し、他の制度とどんな関係を保ち、どのようにして、このような配分は地層から地層へと変わっていくのか、と問わなければならないだろう。
「私たちの歴史的形成において、国家という形態が、かくも権力関係をとらえてしまったとすれば、それは権力関係が国家から派生したものだからではない。逆に、「不断の国家化」の作用が、確かに、場合によってかなり変化するのだが、教育、司法、経済、家族、性などの秩序において、全体的な統合をめざして生み出されたからである。いずれにしても、国家の方が権力関係を前提とするのであり、国家は権力関係の源泉なのではない。」(ジル・ドゥルーズ『フ―コー』宇野邦一訳、河出文庫、下線引用者、以下の引用においても同前。)
 
 フーコー、ドゥルーズが洞察してみせた、個々人が強いられるミクロの<権力>の本質とは、家族、宗教、道徳、教育、性、生産、市場、芸術や言論‥‥‥といったような、生の現場における可視的な具象的・実体的関係そのものではない。
 それとは別次元に存在している不可視の力のことであり、その隠微な力は、個々人と対象との間に生ずる<情動>関係による<揺らぎ>を通して、それら可視的な具象的関係の内に、<表出>の場を持つのである。
 すでに存在し、己れを囲い込んでいる生の具象的な現場(家族とか学校のような)において内面的な規定性を受けながら、(好むと好まざるとにかかわらず)そのつど生の<選択>を強いられるという形で、己れの置かれた不可視の<権力>関係を、可視的な権力関係へと変換させられているのだ。
 しかし、その可視的な具象的・実体的な場における権力関係は、あくまでも、権力そのものの<本質>ではなく、日々の対象とのヤリトリ、<情動>関係による揺らぎを通して強いられる権力が、歴史的な地層の場において、局所的・部分的に「統合」されたものにすぎないのだ。
 
権力は形態を経由するのではなく、様々な点を経由する。それぞれの場合に、ある力の適用、ある力の他の力に対する能動または反動、つまり「つねに局在的で、不安定な権力の状態」としての情動をしるす特異点を経由するのだ。
「権力関係は、同時に局在的、不安定、そして拡散的であり、一つの中心点や主権という唯一の焦点から放たれるのではなく、それぞれの瞬間に、「点から点へ」力の場のなかを移動し、屈折、跳ね返り、反転、渦巻き、方向転換、抵抗などを示すのである。」
だから、権力関係は何らかの審級に「局限しうるもの」ではない。それは、地層化されないものの実践として、一つの戦略を構成し、「無名の戦略」は、可視的なものと言表可能なものの安定した形態をのがれてしまうのだから、ほとんど無言で盲目である。
戦略的環境あるいは地層化されないものを定義するのは、権力関係の不安定性である。だから、権力関係は、知られるということがない。
「確かに、フーコーによれば、すべては実践的である。しかし権力の実践は、どんな知の実践にも還元できないのだ。このような性格の違いを明確にするために、権力は一つの「ミクロ物理学」に関わる、とフーコーは述べるだろう。ただし、「ミクロ」を、可視的あるいは言表可能な形態の、単なる小規模化と受け取ってはならない。そうではなく、別の領域、新しいタイプの関係、知には還元できない思考の次元、つまり動的な、局限することのできない関係として受け取らなくてはならないのだ。
こうして、国家であれ他のものであれ、制度の最も普遍的な性格を定義しようとするなら、それは権力‐統治の分子的または「ミクロ物理学的な」前提的関係を、ある種のモル的な審級の周囲に組織することであるように思われる。モル的な審級とは、国家にとっての<主権者>または<法>、家族にとっての<父>、市場にとっての<貨幣>、<金>、あるいは<ドル>、宗教にとっての<神>、性的制度にとっての<性>である。」(『フーコー』、斜体字は原文では傍点。)
 
 このような<制度化>の働きにおいて要(かなめ)となるのが、<知>の役割である。
 <知>は、権力の究極の本質をなす不安定な<情動>的関係を、<制度化>に向けて統合する。
 
私たちは、権力の情動的なカテゴリー(「煽動する」、「誘発する」といったタイプ)と、知の形式的なカテゴリー(「教育する」、「世話する」、「罰する」‥‥‥)とを混同しないようにしよう。知のカテゴリーは、見ることと話すことを通じて、権力のカテゴリーを現実化するのだ。しかしまさにこのようにして、一致を排除するこの移動によって、権力関係を現実化し、調整し、再配分する知を構成しながら、制度は権力関係を統合することができる。そして、問題となる制度の性格にしたがって、あるいはむしろその作用の性格にしたがって、可視性と言表はそれぞれに一定の敷居に到達し、この敷居は、それらを政治的にしたり、経済的にしたり、美学的なものにしたりする‥‥‥(確かに、一つの問題は、可視性がまだ敷居のこちらにあるとき、言表だけが、例えば科学的な敷居に到達することがありうるかどうか知ることである。あるいはその逆がありうるか。しかしこのことによって真理が問題となるのだ。国家、芸術、諸科学の可視性があり、同じくたえず変化する言表がある)。」(『フーコー』)
 
 ドゥルーズは、「知のカテゴリー」は、「見ること」と「話すこと」、すなわち「可視性」と「言表」を通じて、「権力のカテゴリー」を「現実化」するのだ、と言う。
 そして、<知>によるこの「現実化」こそが、「制度」による権力の「統合」をもたらすのである。
 ドゥルーズが見据えている、<知>によって支えられた、権力の可視的・言説的な制度的統合が、法、政治、経済、教育、道徳、宗教、家族、性、芸術といった領域にとどまらず、「科学」にまで踏み込んでいることに、注意する必要がある。
『臨床医学の誕生』で、フーコーが、「近代医学」の「言表」=<知>によって、人間の<身体>概念が「可視的」な実体として固定され、狭窄され、「制度化」されるというカラクリを辿ってみせたように、<知>の言説が生み出す「制度的」権力は、有無を言わさぬ「科学的」な真理という形をとった強迫観念となって、私たちを囲い込んでいるのである。(もっとも、私たちを真に脅かしているのは、実は、「実証的」な「科学的真理」そのものではなく、暗黙の裡に科学を導き、あるいは科学をヒントにして紡ぎ出された、ある種の疑似科学的なイデオロギー、世界観や存在論だと言ってもよいのだが。)
 ドゥルーズ的に言うなら、<権力>の本質を洞察する上で肝心な事は、こういった、諸々の「モル的な審級」の周囲に組織された、可視的で「制度的」な実体概念にとらわれずに、その根底に潜む「ミクロ物理学的」な不可視の隠微な力、すなわち、個々人と対象との間に生ずる<情動>の揺らぎのあり方を、ありのままに透視することだ、ということになる。
 <脱権力>への戦略は、そこから初めて生まれうる。
 それは、人間の感情とその感情に対応する身体性(身体感覚や行動様式)のあり方を明晰に認知することで、われわれの身体を無意識裡に拘束しているさまざまなとらわれから、己れ自身を解放してみせるという営みに通じている。
 
「スピノザは言っていた。人間の身体が、人間の様々な規律から解放されるとき、この身体にとって可能なことは測りしれないと。そしてフーコーにとって、「生きているものとしての」人間、「抵抗する力」の総体としての人間にどんなことができるか、測りしれないのだ。」(『フーコー』)
 
 さまざまな負の情念や迷信にとらわれ、翻弄される人間の険しさや弱さ、愚かしさを、あるがままに凝視し、その呪縛からの脱却による<身体性>の解放を求めたスピノザの叡智に、ドゥルーズは、己れの<脱権力>への戦略を重ね合わせる。
 例えば彼は、スピノザの思想にもとづいて、「道徳的な善悪」に代わって、<いい><わるい>という概念を対置してみせる。
 
「<いい>とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の合一をみて、その力能の一部もしくは全部が私たち自身の力能を増大させるような、たとえばある食物[糧となるもの]と出会う場合のことである。私たちにとって<わるい>とは、ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの・合わないものという客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。」
「また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、当の人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを形容する主体的・様態的な意味ももつようになる。いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)といわれるのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能を増大させようとする人間だろう。<よさ>とは活力、力能の問題であり、各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だからである。
わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、ただ行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受けとめるばかりで、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、嘆いたりうらんだりしている人間だろう。いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかもおかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことができるだろうか。どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、自身の毒素や害毒をまき散らしてその輪を広げずにいられるだろうか。ひとはもう自分でも自分がわからなくなってしまうことさえあるのである。」
かくて<エチカ>[生態の倫理]が、<モラル>[道徳]にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き[判断]であり、<審判>の体制にほかならないが、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(<いい><わるい>)がとって代わるのである。」(ドゥルーズ『スピノザ』第二章、斜体字は原文では傍点。以下の引用においても同前。)
 
 生の<力能>を徳とみなし、「悪しき関係」を断ち切り、「良き出逢い」を能う限り招き寄せようとするスピノザの叡智を美事に押さえた言説となっている。
 特にスピノザが諸悪の根源として見据えているのが、「悲しみの受動的感情」という概念であると、ドゥルーズは指摘する。
 
スピノザはその全著作をつうじて、たえず三種類の人物を告発しつづけている。悲しみの受動的感情にとらえられた人間、この悲しみの受動的感情を利用し、それを自己の権力基盤として必要としている人間、そして最後に、人間の条件や人間のそうした煩悩としての受動的感情一般を悲しむ人間(憤慨したり嘲笑したりするかもしれないが、その嘲笑自体にも毒が含まれている)である。奴隷[隷属者]と暴君[圧制者]と聖職者と‥‥‥まさに三位一体となった道徳の精神。エピクロス、ルクレチウス以来、これほどみごとに隷属者と圧制者とのあいだの深い暗黙のきずなを示した者はいなかった。」
悲しみの受動的感情は、際限ない欲望と内心の不安、貪欲と迷信がひとつに結びついた観念複合体にほかならないからだ。「あらゆる種類の迷信に最も激しくとらえられずにおかないのは、世俗的な幸福を最も飽くことなく追い求めるひとびとである」。圧制者はそれを成功させるためにひとびとの心の悲しみを必要とし、悲しみに心をとらえられたひとびとはそれを助成しその輪を広げるために圧制者を必要とする。いずれにしても、この両者を結びつけているのは生に対する憎しみ[嫌悪]、生に対する怨恨の念(ルサンチマン)なのである。『エチカ』には、あらゆる幸福がその眼には侮辱としてうつり、ただひたすらみじめさや無力感をおのれの情念として生きている怨恨の人の肖像が描かれている。
スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考えるひとびとには属していない。彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼讃しているにすぎないのだと。」
それがどんなかたちをとり、どんな理由にもとづくものであろうと、悲しみの受動は私たちの力能の最も低い度合を表している。私たちが最大限にみずからの能動的な活動力能から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄想や圧制者のまやかしにとらえられた状態である。『エチカ』[生態の倫理]は必然的に喜びの倫理でなければならない。喜びしか意味をもたないし、喜びしか残らないからだ。ただ喜びだけが私たちを能動に、能動的活動の至福に近づかせてくれる。悲しみの受動は、どこまでも[自身の]無力の感情でしかない。」(『スピノザ』第二章)(この稿続く)



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