〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第7回) 川喜田晶子

  • 2016.08.27 Saturday
  • 10:49

魚住影雄の場合

 

 やはり藤村操の死に激しい衝撃を受け、かろうじて生を択びとった魚住影雄について触れておきたい。

 

 操と京北中学時代の同級生であった魚住影雄(1883年[明治16年]〜1910年[明治43年])。

 中学入学後間もなくクリスチャンになった彼は、操同様、激しい〈煩悶〉を体験しながらも、〈信仰〉によってかろうじて生きながらえるのだが、病を得て若くして死ぬ。明治43年12月のことだ。享年27歳11ヶ月。

 一高の寮制度の改革を図ろうするなど、個人主義を高唱する革命児として影響力の強い学生だった。批評家・魚住折蘆(せつろ)としての活動が、石川啄木の評論「時代閉塞の現状」(明治43年)にとりあげられて名を知られるくらいだが、藤村操事件をめぐる言動においてその表現を見直すなら、当時の操事件に対する反響の浮薄さへの鋭い洞察力は群を抜いていたと言えよう。

 

 影雄の「二十年のおもひで」には、操が自殺する前年の明治35年当時の苦悩が綴られている。(「二十年のおもひで」は、元来、友人に示された書簡の一種であるが、『折蘆書簡集』[岩波書店 1977年]に「自伝」として収録されたものより、以下、引用した。旧漢字は適宜新漢字に改めた。)

 

「懐疑の苦痛は十、十一両月が其頂上であつた。僕は毎日祈りをした、然し天に声はなかつた。僕は落伍した敗兵が荒野の中に渇を覚えて水を求むるが如きさまで水を求めんとして声を放つたが、咽喉がいたくて声は出ず、出ても何の反響もなく、世界は死の沈黙を以て僕に応へた。僕に友なく学問なく恋人なく家庭なく世界もなくなつた。たゞ微かな信仰があつた。僕は此信仰をすてる日は自殺する日であると幾度となく思うた。否毎日のやうに思うた。而して将来のことを考へると信仰は再び磐石の上に立つ見込なく、忠実に理性に従へば信仰は粉砕せらるべきものと思つた。かくて自殺が当然の運命であると思つた。」

 

「忠実に理性に従」うこと、「懐疑」することによって、〈世界〉を不断に殺していた当時の思潮の残酷さが胸に迫る。

 彼が苦しんでいたのは、海老名弾正の自由主義神学(科学的見地による聖書の自由な解釈を許容する神学)に触れたがゆえに「キリスト教の神」の存否であるが、そのことを通して、実は宗教的な〈信〉を支える世界観としての〈信〉の存否を苦しんでいたことが、如実に伝わる。

 現在も私たちは、同じ残酷さで「死の沈黙」を返す世界風景に取り囲まれている。あまりにも当たり前のようにその世界風景の中へ産み落とされ、その中で呼吸することにある種の耐性を獲得しているけれども、影雄の渇きの質を想像することは、思いのほか容易である。彼の言うところの〈水〉によって、自身を含めた世界風景を意味づけたいという痛切な渇きは、今も私たちの深層の渇きそのものであるようにおもわれる。そして世界の成り立ちを私たちの身体とは無縁の無機的なシステムとして了解せよと理性に強いられるとき、誰も何ものもその渇きを充たしてくれないという残酷さの中で、〈生〉の手応えの稀薄さをもてあまして私たちは久しい。そのような残酷さをただ非常に新鮮に感受している時代を想うならば、質としては実に連続感のある苦痛を影雄はここで表白していることがわかる。

 

 同じ酷さに倒れたのが操であったと直感した影雄の共感は、岩波茂雄のセンチメンタリズムよりはるかに根深い虚無との闘いの匂いを感じさせる。

 

「あの『巖頭の感』はいかばかり僕の心を拊つたであらう。僕の曩日の苦痛は藤村君の外に知りうるものなく、藤村君の死んだ心は僕の外に察しうるものはないといふ様な感がした。又藤村君は至誠真摯であつたから死に、僕は真面目が足りなかつたから自殺し得なんだのだと思つた。こまかい事はわからぬが、僕は藤村君の煩悶と僕の煩悶とは甚だ似てゐたものだと思ふ心は今もかはらない。羨しき藤村君の死は僕をして慟哭せしめ悶絶せしめた。僕は生れて以来藤村君の死ほどの悲痛を感じたことはない。僕は死を求めて得ざるに身を倒して泣いた。かヽる思は数日つゞいた。その内に五月はくれた。僕の心は暴風のふきまいた後のやうな感じであつた。然し藤村君は死旅の友を得るには死ぬことが少しく遅かつた。僕には信仰の微光が三月以来東の空にさしてゐたのである。けれども藤村君の死は僕にとつて非常な事件であつて、僕は断じて人生を空じ去るか、主観の神を客観の祭壇に斎き祀るか、二者の一つを決定すべき機会を藤村君によつて与へられたのである。」

 

 岩波と同様の自責と憧憬が見られるが、岩波のように操の死によって苦悩の〈気分〉を代償させてしまおうとする無邪気なセンチメンタリズムはここにはなく、影雄自身の内面と操の内面との酷似を固有のものとして引き受けようとする内省の痕が痛々しい。

 影雄の文体には、当時の〈気分〉を代表したものが操の死であるという、岩波のことばに見られるようなゆるやかな時代との連帯感など微塵もなく、操と自分だけが苦しんだ課題であるという酷薄なプライドが感じられる。

 キリスト的な神を信じるか否かを通して、影雄が荒野に水を求める敗兵のように渇いていたもの。宗教的な〈信仰〉さえも包みこむ、生そのものを根源的に支えるより包摂的な〈信〉のぎりぎりの取捨を、影雄は徹底して苦しみ悩み、その〈信〉がなければ自殺するしかないのがこの〈世界〉であるとの認識を握りしめた状態で、藤村操の死の報に接したのである。文字通り影雄の生の根拠を徹底的に試みるような事件だったろう。

 客観的であること、科学的であること、それがこの世界を把握する唯一の方法であることの〈自由〉が、個人を生かすのか、殺すのか。彼らは非常な鮮度でこの問題を一呼吸ごとに命懸けで苦しんでいたのである。

 

 明治36年7月「新人」に掲載された「藤村操君の死を悼みて」(『明治文学全集50』より引用 筑摩書房 1974年)には、操の死に匹敵する〈生〉を択びとった影雄のプライドが横溢し、操事件に対する世間の共感や称賛にひそむ浮薄さを洞察する筆が冴える。

 

「君は人生の迷疑に苦んで自ら死に我は神の光明に慰められて残りぬ。君は君の生を私せず至誠の動くところに従へり、君が死にまさる清き死は我かつて之を見ず、我たゞ最美しき生を経過して君が友たるにふさはむと欲す、希くは路上犬馬の俗子に悲哀の福音を語り、熱情至誠の君子に安慰の光明を説いて天授の我生を私せざらんことを得むと欲す。若し万有の真相之を悉す能はずして、人間死後の永世なきを観ぜん日は我行かむ所も華厳の瀧のみ、行きて奇寒の洗礼を受け以て此世を辞せむのみ。」

「多くの弔辞之を聞くに概ね悲哀に始まり断念に終り平凡に帰るを見る、かくて人は異常の警覚を受け猶再び塵紅に走り行く也。君を傷む者の声は至誠なき熱情なき軽薄なる社会の懺悔悔謝也、而して君が至誠に比し得べき者あるなし。」

「曖昧と虚偽とは予の身を震はせて嫌ふもの、他力本願予が望みに非ず十字架の贖罪予が安心に非ず。予は神を疑ひて後思想開展し理性の平和を得、予の徳性を疑ひて後人格向上し品性建設の着々歩を進むるを自覚す。煩悶上下の裡一道の光明我を率ゐて天辺に至るを見る、予輩の信仰に理想の復活あり予輩の道徳に希望の光輝存す。」

 

「かくて人は異常の警覚を受け猶再び塵紅に走り行く也。」といった洞察が可能であったところに、操事件の衝撃をまたたく間に解毒し、何ごともなかったかのようにふやけた日常に再帰してゆく同時代人への鋭い異和感が顕著であり、魚住影雄の苦悩の質が濃くたち顕われていると言えよう。

 

 操事件の一周年に当たる明治37年5月、一高生となっていた影雄(年齢の上では操より三歳ほど年上である)は、第一高等学校「校友会雑誌」に「自殺論」と題する論稿を発表した。「二十年のおもひで」には、「藤村君の一週年に草した『自殺論』一篇は実に僕の過去数年間の血潮のかたまりであつた。僕の個人主義―自我の意識―は此文を草した時に其絶頂に居つた。」とある。

 冒頭には『旧約聖書』、末尾には『新約聖書』からの数節を引用し、この絶望的な現世に産み落とされた不条理感をベースにしながら、血を吐くような個人主義による世界観の更新を試みた不屈の意気が炸裂する。(以下、『折蘆書簡集』所収「自殺論」より引用 岩波書店 1977年)

 

「何とて我は胎(はら)より死にて出でざりしや、何とて胎より出でし時に気息(いき)たえざりしや。(中略)如何なれば艱難(なやみ)にをる者に光を賜ひ、心苦しむ者に生命(いのち)をたまひしや。」(旧約 約百(ヨブ)記、三章)

「願はくは神われを滅ぼすを善しとし、御手を伸べて我を断ちたまはんことを。」(約百、六)

「我若し俟つところ有らば是れわが家たるべき陰府(よみ)なるのみ、我は暗黒(くらやみ)にわが牀(とこ)を展ぶ。さればわが望はいづくにかある、我望は誰かこれを見る者あらん。」(約百、十七)

「光栄ある生存の意義は自家の要求に絶対の聴従をなすこと唯之れ耳(のみ)、断じて唯之れ耳。彼の宇宙構成の説明を以て人生問題の解釈となすが如き哲学者、豈(あに)深奥なる『意義』に与(あずか)るを得んや。要求は談理に非ざる也。」

「自殺や之れ第二の解脱。第一の解脱を探る者が常に念頭において有事の日に備ふるところの者たる也。」「唯神経過敏の浅人、自己の薄弱なる基礎を震撼せられて狼狽し、直ちに流言を放つて風教に害ありと号す、乃ち訓へて君国の為に貴重すべきの身を以て可惜私情の奴隷となせりと。何等の愚言ぞや、斯の如きの言は一切無意義也。」

「至誠の結論は其空白虚無を観じて自ら此世界を去つて一切と交渉を断つに至らしむ。然かも彼は自ら殺せりと為さゞるなり、宇宙を粉砕せりと自ら思惟する也。此覚了成る、其前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん、我れ豈父母に乞ひて生れ来らんや、君国に誓ひて生れ来らんや。君国の恩は我等が無垢の児心に小学校教員が刻み込みたる迷信に非ずや、此迷信を脱却して自家本然の純なる中心の声を聞かんがために要せし苦心はそも幾何なりけん。人道の盛大と人物の尊貴とは乞ふ我れの此天地の意義あるを認めたる後に聞かん。」

「あゝ自殺よ、自殺よ。汝は誠ある者の隠れ家なり、人生に興味を失し其価値を否む者に咒詛の要求を満足せしむ。」

「予の恥づるなくして選びうるもの三。曰く、狂。曰く、自殺。曰く、信仰。而して予は前二者に近づきて其傍を過(よ)ぎり遂に第三者に達して安んじぬ。」

「われ新しき天と新しき地を見たり、先の天と先の地とは既に過ぎ去りて海も亦有ることなし。(中略)われ大なる声の天より出づるを聞けり、曰く神の幕屋人の間にあり、神人と共に住み、人、神の民となり、神また人と共に在して其神と也りたまふなり。神かれらの目の涕(なみだ)を悉く拭ひとり復死あらず、哀み哭き痛み有ることなし、そは前の事はすでに過ぎ去ればなり。」(新約、黙示録二十一章)

 

 不純な現実の強制を排して自私の要求の充実を第一義にすえる者が、それがかなわぬ時には自殺によって矛盾を超えようとすることを肯定する、という主旨である。つまり、自殺そのものの是非に主眼があるというより、〈自我の充実〉という生の至難を〈自殺〉の手前に据えて、その純度を証しする、悲壮な観念的荒業の様相を呈する論だ。

 折しも日露関係が緊迫し、雑誌「太陽」誌上では、長谷川天渓や坪内逍遥らが操事件に対する批判的な論を展開し、国家主義、忠君愛国が称揚され、個人主義は排斥される時勢であった。

 若者の自殺は忍耐が足りない、といった論調に、影雄は「忍耐の真義は右手人生を攫(つか)み左手死を攫んで其何れかを取り何れかを擲たんとする『要求の子』独り能く解す。」「世人云ふところの忍耐なるものは畢竟降服なり、屈服也。」と激烈な批判を叩きつけ、「唯神経過敏の浅人、自己の薄弱なる基礎を震撼せられて狼狽し、直ちに流言を放つて風教に害ありと号す、乃ち訓へて君国の為に貴重すべきの身を以て可惜私情の奴隷となせりと。何等の愚言ぞや。斯の如きの言は一切無意義也」と坪内らの批判を一蹴する。

 影雄がここで放った矢は、確かに時代のうつろさを射抜いている。

 操の自殺とその影響力を怖れる者たちの〈狼狽〉の本質についての認識の確かさには瞠目すべきものがある。

 彼らは、操の〈死〉を必死になっておとしめることで、自身の〈生〉の基盤を今一度確認せずにはいられないのだが、そこにはうつろで見かけだおしの〈薄弱なる基礎〉しかないことを、そしてそれが故の神経症的なまでの自殺擁護者への批判であることを、影雄はよく洞察している。

 確かに、当時第一級の個人主義の主張が漲っていたと評価してよいだろう。緊迫した時勢の中でこれだけの過激な主張が可能であったことも感銘深い。

 家族や国家によって育てられるのではない〈自我〉の至純を、激烈な文体で挑発的に論じる、影雄の戦闘的な身構えはしかし、その十年ほど前の北村透谷の「内部生命論」(明治26年発表)の文体と比するとき、砂漠の中に火柱を立ち上げているような痛々しさをもおぼえる。

「人道の盛大と人物の尊貴とは乞ふ我れの此天地の意義あるを認めたる後に聞かん」との一文から看取し得るように、影雄もまた、その存在の根拠を、既成のシステムや観念的な倫理によってではなく、深々とこの〈天地〉から汲み上げたかったのであるが、透谷(1868年[明治元年]〜1894年[明治27年])が言わば己れの身体の延長として〈天地〉を素直に感得できたのに対して、影雄の世代、すなわち〈藤村操世代〉は、その延長感の無いところからアクロバティックに〈天地〉にアクセスし、〈水〉を汲み上げねばならなかったのだという印象を否めない。時勢ゆえに「対・国家」の文脈で「自我」を主張せざるを得なかったことも、彼らの渇きの本質を横すべりさせたとも言えよう。

 

 平岩昭三は、『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版 2003年)において、操の自殺も影雄の苦悩も、ともに明治社会に抑圧された〈自我〉の問題と解釈し、「自覚した自我を明治という疑似近代社会のなかに定着させることができなかった若者の悲劇」ととらえているのだが、明治社会のシステムとしての未熟さなどに解消され得る問題ではない。近代的価値観・世界観が存続する限り、いかほどシステムとしての社会が〈個人〉の表層の自由や権利を手厚く保護しようとも、否、手厚く保護すればするほど、隠蔽された不条理感として底流し続ける〈生き難さ〉は、現在に至るまで人々の無意識を不透明に絡め取ってきた。

 

「此天地の間が狭苦しいやうな気持がする」と語って逝った松岡千代の言葉が改めて想起される(本論「連載第5回」の稿を参照)。彼女の想いを当時のいわゆる「知的煩悶」の文脈で最も緊密に噛み砕くならば、魚住影雄の表現となるだけのことなのだ。

 その〈生き難さ〉は、時代の空気を徹底的に浸潤していたのである。(この稿続く)

 

*参考文献

『折蘆書簡集』(岩波書店 1977年)

『現代日本文学大系40』(筑摩書房 1973年)

『明治文学全集50』(筑摩書房 1974年)

平岩昭三『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版 2003年)

 

 

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七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―(連載第3回) 川喜田八潮

  • 2016.08.24 Wednesday
  • 18:42

 

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 ここで再び、藤沢周平の作品に立ち戻ることにしよう。

 「オール読物」一九七三年三月号に発表された「暗殺の年輪」から、同年の六月号に発表された「ただ一撃」への微妙な推移は、以上のような七三年から七四・五年にかけての日本社会の隠微な変容を象徴的に先取りするものであった。

 「ただ一撃」には、脱社会的な野性の生命の息づかいが、藤沢作品中では空前絶後ともいうべきほどの力強さをもって凝縮的に表現されていると同時に、その野性が一瞬の光芒を放ちながら消滅へと向かい、息苦しい恒常的な社会秩序の内部に封印されていく時代の哀切な鼓動を鮮やかに伝えるものとなっている。

 思えば、藤沢周平の小説中最も優れた諸作品が、彼が作家としてデビューして間もない一九七三・四年に集中しているのは、皮肉なことである。

 この作家は、ほとんどデビューと同時に、己れの純粋な文学的衝迫のありかを完全に燃焼し切ってみせたのである。

 そのような燃焼を許すような闇の息吹が、まだ七〇年代前半の日本社会にはかろうじて残存し得ていたのだ。

 しかし、七〇年代後半の彼の小説では、早くも、初期作品に息づいていた殺気は大幅に希釈され、八〇年代以降になると、文学的には、ひたすら水増しと通俗化による大衆作家の道を安定的に突き進むことになる。

 司馬遼太郎と同様に、大衆からインテリまでの巾広い読者から愛好される、押しも押されもしない大作家の虚名を博するようになるのである。

 このような変貌の背景には、もちろん、七〇年代後半に形成され八〇年代から九〇年代にかけて膨脹を遂げた高度消費資本主義の時空がもたらした閉塞感や内的な風化という要因があったに違いないが、それだけではあるまい。

 資質と時代の課する制約の中で、食うために読者のニーズに懸命に対応しなければならぬという職業作家の業に加えて、おそらく老いと死の恐怖に直面する更年期の苦しみとの闘いが、そのような文学的妥協の道を選択させたのであろう。

 四十代以降に中年男女を襲う更年期障害の中で、まず人は、それまでの己れの世俗的な生涯において無意識の奥に封印してきた暗い非日常的なエロスへの渇きが、突如として表現を求めて溢れ出て来るのを感じ、戸惑う。

 世間で最もよく見受けられるのは、長年の家庭の平和を一瞬の内に崩壊させることも厭わないほどの中年男女の激しい不倫へののめり込みであろう。

 藤沢周平の初期作品「ただ一撃」も、ある意味では、四十代半ばという年齢にあったこの作者の更年期の危機を象徴する作品だとみることもできる。

 七〇年代後半の作品集『隠し剣孤影抄』に収められた秀作「宿命剣鬼走り」の主人公、小関十太夫もまた、このような更年期の苦しみに苛まれる四十代の初老の武士である。

 この小説は、若年からの宿命のライバルとして、剣技を競い合い、同じ女をめぐって激しい恋の争奪戦を演じ、やがては藩内の政策と派閥抗争をめぐる宿敵として相まみえることになった二人の武士が、ささいなことから、己れのはからいを超えた不条理な悪因縁の連鎖に巻き込まれて、次々と息子や娘を失い、ついには、この世への一切の未練を断ち切り、同性愛的な〈道行〉のような決闘によって己れの生涯に決着をつけるという、救いの無い物語である。

 この作品の興味深いところは、主人公小関十太夫が、ライバル伊部帯刀(たてわき)の一人息子の卑劣な策略によって長男を殺されたことに端を発する恐るべき不幸の連鎖の根底に、十太夫の生の〈空洞〉が招き寄せてしまった、得体の知れない、どす黒い〈邪気〉の存在が想定されていることである。

 それは、小説の導入部での、長男の死をめぐる十太夫夫婦のいさかいに象徴される妻との冷え切った関係や、やり場のない孤独な鬱屈を抱えた十太夫が釣りに通う青沼で不意に出くわした黒い不気味な巨魚の描写によって暗示されている。

 

 「大きいぞ、これは」

 十太夫は叫んだ。汀(みぎわ)から延びている松の根に足をかけて腰を決め、しっかりと踏んばったが、竿は手もとからもぎ取られんばかりにしなり、半ばは水に没している。そして竿は右に左にはげしく揺れ走った。(中略)

 ……強い引きだった。十太夫は身体を後に倒すようにして糸をたぐったが、鉤をくわえたものはびくとも動かなかった。そして、不意に沼の水がゆらりとひとところ盛り上がり、つづいて無数の泡が浮き上がって来た。それだけで水面の下にいる物の姿は見えなかった。十太夫は突然全身に汗が噴き出すのを感じた。青黒い水の底に、巨大なものがいた。

 そして、また強い引きが来た。両手で握っている竿がもぎとられそうになった。渾身の力を握りにあつめると、今度は十太夫の身体が浮き上がった。沼に引きこまれそうだった。

「竿放さねば、だめだ、旦那さん」

 ただならない様子に気づいたまきが、悲鳴をあげるように叫んだ。(中略)

 十太夫は竿を放せなかった。水中に潜んでいる物は、おのれの運命にかかわる敵に違いない。竿を放せば運命に打ち倒されよう。呪縛されたように、その思いに取り憑かれていた。(中略)

 そのとき、ぷっつりと糸が切れた。十太夫とまきの身体は、仰のけにうしろにはね飛んで倒れた。その衝撃のために、十太夫は、次に起きたことを確かに見さだめたとは言えない。だが、異様なものが眼に映った。

 ごうとまわりの空気が鳴り、不意に空が暗くなったようである。だがそれは、雨のように、二人の上に降りかかって来た飛沫のせいかも知れなかった。

 その飛沫の中に、躍り上がったものがあった。それがどういうものだったかを、跳ね起きて身構えながら、十太夫の眼は十分に見ていない。眼に残ったのは、黒くぬらりとした、小山のような背、そして確かにこちらを見た、透きとおるほど赤い、まるく大きな眼だった。それは、一瞬泡立つ飛沫の中に立ち上がっただけで、音もなく水中に沈んだ。

 そして沼に静寂と日の光がもどった。まだ郭公鳥が鳴いている。だがいま起こったことが、まぼろしでも何でもないことは、沼の水が異様にざわめき、岸に寄せる波がひたひたと音を立てていることでわかる。(「宿命剣鬼走り」)

 

 十太夫がいや応なく巻き込まれてゆく不条理の本質を、個人のはからいを超えた巨大な〈邪気〉の魔力の顕われとして凝縮的に象徴してみせた、鬼気迫る描写となっている。

 この邪気を醸成したものは、冷え切った夫婦関係となって顕在化した、十太夫の生の〈空洞〉にほかならない。

 妻との不和の直接のきっかけは十太夫の浮気にあったが、その根には、昔の恋人で今は仏門に入っている香信尼への断ちがたい慕情と、長年にわたる妻との血の通わぬ不実な生活が横たわっていた。一見平穏な世俗的生活のヴェールに覆い隠されていた生の空洞は、十太夫が更年期に突入した四十代になって浮上してくる。

 作者は、その事情を次のように的確に描出してみせる。

「香信尼を抱きたいと、日夜狂おしく思いつめた時期がある。そのはげしい肉欲は、不思議にも、生涯の終りがかすかに見えはじめた、四十を過ぎたころに来た。気性が合わぬと思いながらも、その妻にも馴れ、三人の子供も大きくなったそのころにである。/人生の大きな忘れ物に気づいたようでもあった。だがそれは、もっと理屈抜きの、暗く奥深いところから来る衝動のようでもあった。十太夫が、初雁町の路地の奥にるいという妾を囲ったのは、そのころである。そして生き物の暗い衝動は通り過ぎて行ったのだ」

 四十代半ばから五十代初めの藤沢周平の作品には、明らかに、老いと死の意識を契機として浮上する狂暴なエロス的衝動という実存的な危機に対する苦闘の跡が見て取れる。

 七〇年代における彼の作品では、その苦しみは、もっぱら非日常的な衝動に駆り立てられて破滅してゆく人物たちの悲哀の物語となって代償的に吐き出されていた。

 しかし、このような更年期のもちこたえ方は、五十代の半ばにさしかかった八〇年代初めの藤沢周平にとっては、もはや限界に達していたようである。

 一九八二年から八三年にかけて新聞連載された市井物の長編『海鳴り』は、更年期を迎えた中年の紙問屋の主人と人妻の不倫を描いた近松的なモチーフの小説であるが、その結末は、〈心中〉という彼岸的な志向へと収斂するのではなく、江戸を逃れて駆け落ちした男女が、昔の乳母以外誰も知る者のいない他国で、二人だけのひっそりとした小市民的日常を再建しようとする、穏和で半ばハッピイエンド的な希望によって締めくくられている。

 作者はこの小説について、最初は物語の結末を「心中」にするつもりだったが、次第に主人公の男女への愛着が深まり、結局「むごいこと」は書けなくなってしまった、という趣旨のことを述懐している。(「『海鳴り』の執筆を終えて」)

 そこには、八〇年代以降の後期藤沢作品への変貌の動機が端的に象徴されているといっていい。

 人は、もし狂気や自死の道ではなく、すこやかな日常生活者として更年期をくぐり抜け、幸福な晩年を迎えようとするなら、己れの狂暴なエロス的欲動を飼いならす術(すべ)を会得しなければならない。

 年中行事の中にさまざまなハレとケのメリハリによる美事なエロス的代償のシステムを備え、老人の経験と知恵に深い敬意がはらわれ、共同体のあらゆる構成メンバーが年齢の階梯に応じてしかるべき役割と位置を与えられていた前近代の土俗社会においては、死と孤立の意識を契機として浮上する更年期障害なるものは、おそらく、大半の人間にとって無縁の産物であったろう。

 だが、近現代の社会に生きる多くの者にとって、それは、老いと共に襲い来る巨大な試練とならざるを得ない。体力の急激な衰えと共に種々の心身症となって表われるこの病の根底にあるものは、死の恐怖にもとづく実存的な切迫感であり、断片化した個の意識を逃れ、母なる子宮に戻りたいという、類的な飢渇感の異常なまでの高まりである。

 現代人の場合、このような更年期の危機を斬り抜ける道は、私の考えでは、大きく分けて三通りあるようにおもえる。

 ひとつは、己れの狂暴なエロス的衝迫になんらかの芸術的な〈表現〉を与えてやると共に、そういう〈表現〉と均衡を保つことのできるような、忍耐づよい世俗人としての生活者的な身体性とリズムを構築してみせるというやり方である。

 このライフスタイルは、基本的に、日常と非日常を次元的に峻別し、使い分けることを意味する。世俗人としての己れの肉体にそれなりの自信と快楽を見出すことのできる人間で、しかも表現の才のあるものなら、こういう生き方も悪くはなかろう。

 しかし、非日常的な夢や美意識の表現への渇きによって、痩せ細った、散文的で殺伐とした日常や疎外された労働の苦役をもちこたえねばならぬ人間にとっては、このようなまなざしは苛酷なものとなる。己れの〈表現〉の質そのものが資質的に険しい、不幸なものである場合には、とりわけそうである。

 もうひとつの道は、己れの非日常的な渇きを、日常的な物語の内奥に繰り込み、〈生活〉そのものを別次元に塗り変えてみせるという生き方である。

 現世と彼岸、日常と非日常、地上と天上というふうに二元的に世界を分裂させ、各々を単色の時空とみなして対立的にとらえるのではなく、〈日常〉という時空そのものを、さまざまな次元が葛藤し合いつつ生々流転する、神秘で不可知なコスモスの顕われとみなすのである。

 このようなまなざしにとっては、芸術=表現も生活の一部であり、生活もまた、ひとつの芸術の表われなのである。

 第三の道は、非日常的な衝迫そのものを再び封印し(あるいは著しく希釈し)、己れのエロス的な欲動を、もっぱら社会的な意義やニーズを有する困難な仕事にふり向け、極力眼を自己の内面に向けないようにしながら、外へ外へと関心を散らし、絶えず忙しく立ち働くようにするというやり方である。

 八〇年代以降の藤沢周平が択んだのは、おそらくこの第三の道であった。

 そういう作者の生きる姿勢の転換は、山本周五郎風の哀切な人情劇の書き割りによって甘く感傷的に処理することのできる市井物の作品よりも、むしろ武家物の中に明瞭に表われてくる。なぜなら、藩という組織に絡めとられてもがき苦しむ武士たちの生きざまは、そのまま、現代のサラリーマン社会の生態に対する作者のまなざしの鮮やかな〈喩〉になっているからだ。すなわち、武家物には、世の中への作者の真向かい方がまことに正直に表現されており、それは作者の更年期のくぐり抜け方と密接につながっているからである。

 七〇年代後半の藤沢周平の武家物においては、先に論及した「悲運剣芦刈り」や「宿命剣鬼走り」のような『隠し剣』シリーズに見られるように、脱社会的な非日常性への渇きは、かろうじて、近松的な悲劇の構図を取って吐き出されていたが、八〇年代以降になるとそれすらも影をひそめてしまう。

 脱社会的な志向は、『用心棒日月抄』とその連作のように、藩と江戸を往還するという微温的で折衷的なごまかしによってすり替えられ、非日常的な渇きは、もっぱら、甘酸っぱくストイックな悲恋の構図と、アララギ派的ないし蕪村的な〈風景による慰藉〉という、隠和な日常性の微小な振幅の次元へと封じ込められてゆく。

 社会と調和した温厚な生活者的英知を備えた大衆小説の大御所藤沢周平が完成するのである。

 それはそれで良きものであり、私自身も、そのような系列の作品を深く愛好する読者の一人であるが、初期藤沢作品に息づいていた、孤独な鬱屈を抱えた野性味のある文学者魂を封印したことの代償は、大きかったようにおもう。

 それは単に藤沢周平の作品のみならず、七〇年代後半以降の私たちの社会が抱え込んだ〈空洞〉でもある。

 

     9

 

 八〇年代以降の藤沢作品の武家物で前面に出て来るのは、さまざまな理不尽な拘束を、日常的な風景を物語的に紡ぎながら、生活者的な忍耐力によってしたたかにくぐり抜けてゆくような主人公の造型の仕方である。

 その原型は、一九八〇年の秀作「孤立剣残月」(『隠し剣秋風抄』所収)によって鮮やかに表現され、八〇年代から九〇年代にかけての後期藤沢作品の中でさらに磨きがかけられてゆく。

 八〇年代以降の藤沢作品においても、〈社会〉は、七〇年代の作品と同様、思いもよらぬ不条理な関係の悪因縁によって主人公を襲い、取り囲み、翻弄する邪悪な牙をもった存在として描かれている。

 しかし主人公は、権力のメカニズムや人間の利害関係の危うさや対人的な接触の皮相さについての細心な洞察と慎重さをもちつつ、家族や友人・師との生身の絆に助けられながら、ひそかに習得された秘剣(これは、主人公の自我の砦=固有の表現世界の喩とみなせる)を武器に、窮地を斬り抜けてゆく。現世を逸脱する非日常的な狂気は影をひそめ、主人公は、〈社会〉を自然のごとき所与のものとみなし、その内側にしっかりと定位しながら、生活者的な英知によってくぐもるように黙々と日常を送ってゆく。

 小林一茶・長塚節・石川啄木への深い愛着を抱いていたこの作者の独特の味わいが出てくる。特に、成熟した近世農耕社会ならではのゆったりとした時間の流れ方と深々とした陰影の息づく繊細な風景描写による慰藉は、重要な意味をもつ。

 このような変貌は、それなりに作者にとっても読者にとっても幸福なことであったろうし、その延長上に、『蝉しぐれ』(一九八六〜八七年に新聞連載)のような後期藤沢小説を代表する名作も生まれた。

 『蝉しぐれ』は、藩上層部の派閥争いの渦中で父を失い、周囲の冷酷な眼に耐えつつ、孤剣を武器に斬り抜けてゆく青年剣士を描いている点で、「暗殺の年輪」と大変よく似た構成をもった小説であるが、両作品における主人公の生きざまは、まことに対照的である。

 「暗殺の年輪」では、主人公は、卑小で俗悪な地上的関係の網の目によってがんじがらめになった藩という組織の枠組みを蹴飛ばし、脱社会的な土俗の闇の世界へと紛れ込んでしまうが、『蝉しぐれ』においては、そのような闇への逃走の経路は遮断され、主人公はどこまでも、藩社会の内部で孤立に耐え、ごく少数の友人や家族の存在に励まされつつ、慎重に身を保ち、剣の修業によって鬱屈を紛らわしながら、日常の風景を塗り変えてゆくことでもちこたえようとする。

 この両作品のコントラストは、いうまでもなく、社会の内部に闇の空隙を生き生きと残存させていた七〇年代前半と、高度消費資本主義の画一化した時空が個人をいや応なく囲い込んでいた八〇年代との、決定的な差異を象徴するものである。

 一九八〇年代から九〇年代前半という時代には、高度消費資本主義の〈枠組〉は、あたかも未来永劫にわたって不変であるかのような堅固な相貌を呈しており、その中で日常生活をすこやかにもちこたえてゆこうとする人間は、『蝉しぐれ』の主人公のように、孤独な自我の砦と、慎重な処世と、風景による慰藉を必須の武器としなければならなかった。

 それは、産業社会的時空の枠組の内部に棲息しながらも、自らの日常風景の〈空隙〉を利用して、農耕社会的なゆったりとした融和的な世界視線を紡ぎ出すことで、システムが強いてくる無機的な生存感覚を繰り返し異化し、解体させようとする試みを含むものであった。

 その意味で、『蝉しぐれ』は、デリケートな生活者的英知を秘めた作品だった。

 また、この小説には、真っ黒に日焼けし、汗まみれになって村々を回りながら、農作業の実態や作物の出来ばえについての認識を深め、村人の声に誠実に耳を傾ける農政官吏としての主人公の姿が、生き生きと描かれている。

 藤沢周平には、農民や職人の「手仕事」に対する深い愛着を感じさせる作品がいくつか存在する。

 『蝉しぐれ』では、そういう労働の手ごたえや民の暮らしの哀歓への深い共感をふまえた社会認識のたしかさこそが、上に立つ者の政(まつりごと)の根本にあるべきものだという理念が一貫して流れている。そこには、近世社会をモデルとしながら現代の政治のアキレス腱を批判しようとする作者のおもいが込められているように思われるし、現代の高度消費資本主義の刹那的な大量生産―大量消費システムに毒された大衆の疎外された労働や生活のあり方に対する暗黙の批判すら感じられる。

 〈政治〉という度しがたいしろものに対する、作者の儒教的ともいえる倫理的な思い入れは、ほほえましいといってしまえばそれまでのことであるが、決して悪いものではない。

 後期藤沢作品の武家物には、体制の強固な枠組の内部に逃れようもなく囲い込まれながらも、その中で懸命に生き抜いた主人公の姿を通して、さまざまな生活者的英知を感じさせるものがあった。

 しかし、そこには、同時に明瞭な限界も存在していた。

 後期藤沢作品の安定した枠組は、そのまま、一九八〇年代から九〇年代前半における私たちの消費社会の枠組にアナロジカルに重なるものであったからである。

 九〇年代後半以降の私たちの社会は、もはやそのような堅固な消費社会の枠組にガードされてはいない。

 巨大な未知の大海にさまよい始めた二十一世紀の世界を、ひとりの個的な生活者としてもちこたえてゆくためには、消費社会の枠組そのものを根本から転倒させるような、全く新たなまなざしを必要とする。

 後期藤沢作品には、そのようなまなざしは存在しないのである。

 端的な例を挙げるなら、かつては恒久的と思われていた終身雇用と年功序列のシステムが崩壊し、一寸先は闇のカオスのただ中で、理不尽極まるリストラの憂き目にあって不安に苛まれる毎日を送る中高年サラリーマンが『蝉しぐれ』を読んだとしても、全く癒されることはないであろうし、何の生活上の指針も得られはしないであろう。

 この小説は、藩という永久就職先を確保し、己れのアイデンティティーの究極の受け皿を組織に求めることのできる若者の、忍耐づよく内に秘められた喜怒哀楽の物語としてしか映らないであろう。

 しかし、「暗殺の年輪」はそうではない。

 一九七三年のこの小説は、何の保証もない将来のイメージと生活苦に苛まれる人間が今読んでも、きちんと生きる手ごたえというものが伝わってくるのである。

 その意味で、この作品は、二十一世紀という激動の世を生きるわれわれにとって、今や『蝉しぐれ』よりもはるかに現在的な小説なのである。

 『蝉しぐれ』を頂点とする一九八〇年代以降の後期藤沢周平作品の抱え込む〈空洞〉が、今や私たちの社会の〈空洞〉と重なり合いながら落とし前をつけねばならぬ地点に追い込まれているのとは対照的に、「暗殺の年輪」や「ただ一撃」によって象徴される生命的な闇の位相は、今後ますます、そのなまなましい現在性をあらわにしてゆくように私にはおもわれる。(この稿続く)

 

 

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宮沢賢治童話考(連載第7回) 川喜田八潮

  • 2016.08.24 Wednesday
  • 17:46

 

     16

 

 宮沢賢治が、存在との間に、なかんずく人間との間に、自然な〈生身〉の接触と絆を夢見るとき、それはいかなる形をとって、私たちの前に立ち顕われるのであろうか。

 本稿では、その類型を、「ガドルフの百合(ゆり)」「祭の晩」「なめとこ山の熊」「三人兄弟の医者と北守将軍」(及びそれを改作した「北守将軍と三人兄弟の医者」)といった諸作品を素材として抽出してみたい。

「ガドルフの百合」は、街道を歩み続けるガドルフという疲れ切った旅人が、たそがれ時に激しい雷雨に見舞われて、道端にあった誰もいない「巨きなまっ黒な家」へ避難した時のささやかな体験を描いたものである。

 この作品の見事なところは、飢えと疲れでよれよれになったガドルフの眼に映る街道筋の風景のひび割れた陰鬱な表情とその延長上に顕われる雷雨の険しさが、そのままガドルフの生き難さの実感を伝える、生の心象風景となり得ているという点である。

 

 ハックニー馬のしっぽのやうな、巫山戯(ふざけ)た楊(やなぎ)の並木と陶製の白い空との下を、みじめな旅のガドルフは、力いっぱい、朝からつゞけて歩いて居(を)りました。

 それにたゞ十六哩(マイル)だといふ次の町が、まだ一向見えても来なければ、けはひもしませんでした。

(楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉に変ったり、どこまで人をばかにするのだ。殊にその青いときは、まるで砒素(ひそ)をつかった下等の顔料(ゑのぐ)のおもちゃぢゃないか。)

 ガドルフはこんなことを考へながら、ぶりぶり憤(おこ)って歩きました。

 それに俄(には)かに雲が重くなったのです。

(卑しいニッケルの粉だ。淫(みだ)らな光だ。)

 その雲のどこからか、雷の一切れらしいものが、がたっと引きちぎったやうな音をたてました。(中略)

 実にはげしい雷雨になりました。いなびかりは、まるでこんな憐(あは)れな旅のものなどを漂白してしまひさう、並木の青い葉がむしゃくしゃにむしられて、雨のつぶと一緒に堅いみちを叩(たた)き、枝までがガリガリ引き裂かれて降りかかりました。

(もうすっかり法則がこはれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢だ。夢でなけぁ霧だ。みづけむりさ。)

 ガドルフはあらんかぎりすねを延ばしてあるきながら、並木のずうっと向ふの方のぼんやり白い水明りを見ました。(「ガドルフの百合」)

 

 街道筋の楊や空模様の描写には、宮沢賢治らしい、例の無機的で化学的な、ひび割れた自然意識がよく表われているし、その延長上に、ガドルフのささやかな人間的営みなど歯牙にもかけないかのように、凄まじい雷雨が、存在を威圧し翻弄する虚無の象徴の如く、冷酷に立ち顕われる。道路の暗い不気味な空き家に避難したガドルフは、窓越しに、嵐に打たれて咲いている「白百合」の群れを見つける。

 闇夜の中で荒れ狂う稲妻と豪雨に対峙するかのように、けなげにひっそりとたたずむ百合の存在が、やはりガドルフのもうひとつの生のかたちを鮮やかに象徴している。

 

(おれの恋は、いまあの百合(ゆり)の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)

 それもほんの一瞬のこと、すぐに闇は青びかりを押し戻し、花の像はぼんやりと白く大きくなり、みだれてゆらいで、時々は地面までも屈(かが)んでゐました。

 そしてガドルフは自分の熱(ほて)って痛む頭の奥の、青黝(あをぐろ)い斜面の上に、すこしも動かずかゞやいて立つ、もう一むれの貝細工の百合を、もっとはっきり見て居りました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を、一緒に息をこらして見つめて居ました。

 それも又、たゞしばらくのひまでした。

 たちまち次の電光は、マグネシアの焔(ほのほ)よりももっと明るく、菫外線(きんぐわいせん)の誘惑を、力いっぱい含みながら、まっすぐに地面に落ちて来ました。

 美しい百合の憤(いか)りは頂点に達し、灼熱(しゃくねつ)の花弁は雪よりも厳(いか)めしく、ガドルフはその凛(りん)と張る音さへ聴いたと思ひました。

 暗(やみ)が来たと思ふ間もなく、又稲妻が向ふのぎざぎざの雲から、北斎の山下白雨のやうに赤く這(は)って来て、触れない光の手をもって、百合を擦(かす)めて過ぎました。(「ガドルフの百合」)

 

 しかし、雨はますます烈しさを加え、いちばん丈の高い一本の百合がとうとうその華奢な幹を折られて、倒れてしまう。打ちひしがれたガドルフは、背嚢から小さな敷布を取り出して体にまとい、寒さに震えながら睡ろうとする。なつかしい「遠い幾山河の人たち」のことを「燈籠(とうろう)のやうに」思い浮かべたりしているうちに睡りこけたガドルフは、「豹の毛皮」の着物を着けた男と「鳥の王」のように黒く身をかためた男が、青く光る坂の上で烈しく格闘しているさまを夢に見る。やがて二人の大男が暴れわめいて戦ううちに、とうとう大きな音をたてて坂を転げ落ちてしまう。

 ガドルフがふと目を覚ますと、雷雨は既におさまりつつあり、電光がただ一本を除いて「嵐に勝ち誇った百合の群」を真っ白に照らし出す。

 

 窓の外の一本の木から、一つの雫(しづく)が見えてゐました。それは不思議にかすかな薔薇(ばら)いろをうつしてゐたのです。

(これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。南の蝎(さそり)の赤い光がうつったのだ。その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。雨さへ晴れたら出て行かう。街道の星あかりの中だ。次の町だってぢきだらう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずゐぶんいやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ。)

 ガドルフはしばらくの間、しんとして斯(か)う考へました。(「ガドルフの百合」)

 

 一人の孤独な旅人の雨宿りという、何の変哲もないささやかな体験の、微細な心象風景の推移の内に、あたかもひとつの人生ドラマを凝縮させてみせたかのような、巨大な生の振幅を感じさせる美事な作品というほかはない。

 二人の大男の格闘が、作者の分身であるガドルフの秘められた荒魂(あらみたま)の葛藤の象徴、すなわち虚無と生命の両義性による葛藤の象徴となっていることは明白であろう。

 もちろん、その存在の両義性の葛藤は、雷雨と白百合のそれにも重ねられる。

 ただし、百合の花の象徴は、生命的な猛々しさを内に秘めた、繊細で強靱なけだかさのイメージというべきであるが。

 作者は、日常風景のひとこまの中に生の本源的な位相のダイナミズムを織り込めることで、〈物語性〉というものの究極の本質を鮮やかに浮き彫りにしてみせている。

 われわれのささやかで私的な日常の営みとは、実は、虚無と生命の不可視の葛藤による、存在の本源的な物語性の顕われにほかならないのであり、したがって、日々の労役と疲労とささやかな慰安の累積が織り成す固有の身体史=生活史の曲線は、それ自体が本来巨大なものなのであって、それ以外の一切の物語などは、ほんとうは人間の生にとって第二義以下のものでしかない、とでもいうように。

 こういった、日常風景に根ざした本質的な〈物語性〉の取り出し方において、「ガドルフの百合」は、先に論じた「種山ヶ原」に酷似しているといっていい。

 ただし、「ガドルフの百合」には、主人公の百合の花に対する恋にも似た思慕のおもいが表現されており、それはそのまま、作者宮沢賢治の、対(つい)的なエロスの対象への、特有のこだわりのかたちを象徴するものとなり得ている。官能的でありながら清楚な気品を漂わせた百合という植物へのガドルフのおもいは、生命的なみずみずしさと天上的な静謐さへの憧憬という宮沢賢治の両義的な美意識と重なるものであり、白百合に象徴されている美のかたちは、そのまま、作者の分身であるガドルフ自身の魂の風景にほかならない。

 それは同時に、火のような情熱を内に秘めながら、荒れ狂う破壊と虚無の嵐に静かに対峙する、つつましやかで強靱な生命のかたちにも通じている。

 すなわち、この作品には、己れ自身の魂の分身としての〈対(つい)〉の相手に対する、作者の強烈な思慕のかたちが象徴されていることになる。

 このナルシシズム的なエロスのかたちこそ、宮沢賢治が飢渇する〈生身〉の接触と絆の本質をなすものだといっていい。

「黄いろのトマト」のペムペルとネリの、幼児的な純粋さをもつ閉じられた兄弟愛の形を想起してみてもよい。

 ペムペルとネリ、賢治とトシのような、異様なまでの自己完結的な近親愛の世界というものは、フロイト的にいうなら、ナルシシズムの変形といってもよく、ナルシシズムとは、また、母親の〈子宮〉へのエロス的な回帰感情の変形にほかならない。

 ナルシシズム的なエロスというものは、思慕の対象となる相手との精神的な〈合体〉を烈しく希求してやまないのであって、対(つい)の相手と己れ自身の間に、ひとつの自己完結的で非日常的な生命の充足の風景を紡ぎ出そうとするものである。

 この充足への飢渇は、もちろん、この現世において真の表現形態を与えることができなくなった時、〈心中〉という、彼岸への衝迫に転化する本質をもっている。すなわち、生死紙一重の危うさの線上にあるといっていい。

 ナルシシズム的なエロスとは、現世への根深い嫌悪と孤絶感の裏返しである。

 この情動は、己れ自身にとって異物と感じられる他者性を排除したり、異質な他者を無理矢理己れと同一視しようとする渇望を秘めているだけに、現世的にいうなら、死や破滅と背中合わせになった危うさを抱え込んでいる。

 どんなに身近に感じられる者同士であっても、本来、人間は一人ひとり皆異質な存在なのであるから、他者への融合・同化の願望というものは、常に、強制と自閉的な孤立の病に転落する危険性をもっているからである。

 だが、これほどに純粋で力強いエロスの形もまた、ほかにはないのだ。

 それは、〈愛〉の究極的な理想の姿だといってもいい。

 ナルシシズム的なエロスがすこやかさを保持しうるには、少なくとも二つの条件が必要となる。

 ひとつは、己れ自身の生き方を脅かす異質な他者性というものを、きちんと、己れの内部に繰り込んでいること。

 もうひとつは、個としての実存の場所から、己れ自身の生を意味づけ、受け容れてくれるような、なんらかの世界をもち得ているということである。

 宮沢賢治の場合、その世界は、いうまでもなく、己れ自身を生命的に包摂してくれるコスモスとしての宇宙と、法華経信仰による菩薩行の献身の理念にほかならなかった。

 単独者として世界に真向かい、己れ自身の内に宿りながら、己れを超えた存在である、大いなるコスモスの輝きを全身的に感受しうるとき、人は、孤立感の恐怖にもとづく他者への不断の合体の渇望と強制の病から解き放たれることになる。

 その時、他者への性愛は、はじめて、落ち着きのある、しなやかで強靱な関係性へと脱皮することが可能となるのである。

 人と人、男と女は、その時はじめて、魂の深みを通して真にめぐり会うことができるのだ。

 これは、逆に言うこともできる。

 特定の対象への性愛の暖かさが、冷え切った虚無の浸透に拮抗し、生身の身体性を蘇らせる力をもちうるとき、人は、己れの身体というささやかな窓から、偉大なるコスモスにめぐり会い、その息吹を全身の血液に送り込むことができるのだ、というふうに。

「ガドルフの百合」という作品には、その軌跡が象徴的に描出されている。

 疲れ切って陰鬱なガドルフが嵐に遭遇し、(もうすっかり法則がこはれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢だ。夢でなけぁ霧だ。みづけむりさ)と考えるシーンは、虚無の猛威に打ちひしがれて内なるコスモスを喪失した魂のかたちを心象風景としてすくい取ったものである。

 そのガドルフが百合の花とめぐり会い、ナルシスティックで白熱したエロスのイメージを喚起させることで虚無の侵蝕に拮抗し、やがて昏睡状態の中で無意識裡の処理を続ける内に、いつしか嵐をくぐり抜けてしまう。

 身体にぬくもりを取り戻したガドルフの眼に映る、「かすかな薔薇いろ」をたたえた、神秘な木の「雫(しづく)」のイメージは、いうまでもなく、内なるコスモスの蘇生を表現したものだといっていい。

 元気を取り戻した主人公は、一期一会の縁(えにし)をとり結んだ百合の花と別れて、街道の星あかりの中を、颯爽と次の町をめざして旅立ってゆく。

 

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 賢治童話における生身の接触のイメージは、「祭の晩」では、主人公の亮二と山男の関係に表象される。

 山の神の秋の祭の晩、少年亮二は、小遣いをもらって見世物小屋に出かけるが、そこで、不思議な風貌の大男に出くわす。

 男は、「古い白縞(しろじま)の単衣(ひとへ)に、へんな簑(みの)のやうなものを着」て、まんまるの「煤(すす)けたやうな黄金(きん)いろ」の眼をしていた。

 見世物小屋を出た亮二は、やがて掛茶屋の前で、無銭飲食をしたため店の主人や村の若い者にいじめられている男の姿を目撃する。

 男は、額から汗を流して何度も頭を下げながら、あとで「薪(たきぎ)百把(ぱ)」を持って来るからと、どもりながら言い訳をするが、どこの国に、団子二串に薪百把払う奴がいるかと怒鳴り返されて、群衆の中からはぶん殴れという怒声が飛ぶ。

 ハッタリまがいの見世物小屋で銭を払ってしまったので一文も無く、あんまり腹が空いたので、つい団子を食ってしまったのだと了解した亮二は、泣いて謝罪している大男を気の毒に思い、とっさに、たった一枚残っている白銅を取り出すと、男のそばに歩み寄り、さりげなくしゃがんで足の上に黙って置いてやる。男はびっくりした様子でじっと亮二の顔を見下ろしていたが、やがてかがんで白銅を取ると、「そら、銭を出すぞ。これで許して呉れろ。薪を百把あとで返すぞ。栗を八斗あとで返すぞ」と云うが早いか、群衆をつき退けて風のように逃げ去ってしまう。

「山男だ、山男だ」という人々の叫び声が聞こえ、風がごうごうと吹き出し、まっ黒なひのきが揺れ、あちこちの明かりが消える。

 興奮して家へ戻った亮二が、おじいさんにその話をすると、それは「山男」だと言う。

 二人が山男の噂話をしていると、突然地響きと共に大きな物音がする。

 あわてて外に出てみると、家の前の広場には、太い薪が山のように投げ出されてあり、あたり一面には栗の実がきらきらと転がっていた。

 

 亮二はなんだか、山男がかあいさうで泣きたいやうなへんな気もちになりました。

「おぢいさん、山男はあんまり正直でかあいさうだ。僕何かいゝものをやりたいな。」

「うん、今度夜具を一枚持って行ってやらう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行かう。」

 亮二は叫びました。

「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ。」

 おぢいさんは消えたラムプを取りあげて、

「うん、さういふいゝものあればなあ。さあ、うちへ入って豆をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣りから帰るから。」と云ひながら、家の中にはひりました。

 亮二はだまって青い斜めなお月さまをながめました。

 風が山の方で、ごうっと鳴って居ります。(「祭の晩」)

 

「山男」という、土俗的・民譚的な色彩に染め上げられたキャラクターは、しばしば賢治童話において不気味な狂暴性を帯びて立ち現われるが、この作品では、無垢な善良さを体現した愛すべき人物として登場する。

 亮二が示した親切は、一切の利害関係というものの無い、デリケートな共感に根ざした、おのずから発する慈悲の心のなせるわざである。

 そのささやかな親切に応えようとする山男のおもいもまた、一切の利害や相対的な価値尺度を超越した無心の衝迫によるものである。

 亮二は、そういう山男のハートを全身的に感受し、胸を高鳴らせる。

 ふたりの交流の場において、山男は亮二であり、亮二もまた山男なのだ。

「黄いろのトマト」におけるペムペルとネリのように、山男と亮二もまた、何ものとも比較を許さない、ふたりだけのかけがえのない内面の宝をしばし共有し得たのである。

 しかも山男は、同時に、風の神・山の神の化身のような、濃密な闇の気配を背後にひきずっている。亮二と山男の交感は、主・客の融合した、コスモスとしての闇が紡ぎ出した、生命的で幸福な存在の出会いのドラマでもある。

「ガドルフの百合」における主人公と百合の花の接触のように、「祭の晩」に象徴される生身の交流のかたちもまた、アトム的な個人による近代市民社会の冷やかで相対的な対人関係の対極に位置するものとなっているのだ。(この稿続く)

 

 

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書評:スピノザ『エチカ』(連載第2回) 川喜田八潮

  • 2016.08.23 Tuesday
  • 15:55

川喜田八潮評論集『コスモスの風』

書評篇

スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫(連載第2回)

 

     3

 

「第五部」定理一〇の「備考」で、さらに続けてスピノザは言う。

 

「同様に我々は、恐怖を脱するためには勇気について思惟しなくてはならぬ。すなわち人生において普通に起こるもろもろの危難を数え上げ、再三これを表象し、そして沈着と精神の強さとによってそれを最もよく回避し・征服しうる方法を考えておかなくてはならぬ。」

 

 この言葉を、「備えあれば憂いなし」ということわざと同じ意味合いで受け取るなら、まことに浅薄な思想というほかはない。たしかに、ある行動を起こす場合に、想定しうるリスクの数々に対して、あらかじめ備えておくことは必要であるし、人生において起こりうるある種の危険に対して、クールに対処しうるよう、心がまえを練っておくことが好ましいと考えられるケースもある。

 しかし、人生とは、しょせん、未知なるファクターを無数に抱え込んだ、大いなるカオスの世界である。人の予測や確率などをはるかに超えた、霊妙不可思議なる縁(えにし)と契機の賜物である。人生とは、大海の中をさまよう小舟のようなものだ。われわれは、潮の流れに身をまかせながら、瞬時瞬時に小舟を操る船頭のようなものだ。

 人生には、直面してみなければわからぬことが、無数にある。あらかじめ危難を数え上げ、回避する方法などを練ってみたところで、恐怖を脱する上で、さして役に立つとは思えない。

 むしろ、起こりうる危難・災難のイメージによって、いたずらに、恐怖で心身を萎縮させ、人生という未知なるカオスに対する不条理感を増幅させるケースの方が多いようにおもえる。

 この言説には、理性・知性を過信する主知主義者としてのスピノザのアキレスケンが露呈しているといっていい。肝心なことは、むしろ、物事は、直面してみなければわからないという事実そのものに対する、覚悟・肚のすわりにある。真の理性・精神の強靭さとは、〈未知〉なるカオスへの〈信〉と〈祈り〉と〈覚悟〉があってこそ、活きてくるものではあるまいか。人生に対する、合理的な根拠の無い〈信頼感〉というものは、人をして生かしめる力の根源にあるものであり、それは〈身体〉の力能、すなわち〈身体〉とそれに対応する〈無意識〉的な力能の顕われにほかならない。

 われわれにとって大切なことは、この〈身体〉の無意識的な力能が、恐怖や不条理感によって弱められることで、われわれの生活における活力、すなわち能動的な活動能力が減少し阻害されることのないよう、精神の力能を拡大してみせることである。

 それは、われわれを取り巻く〈未知〉なるカオスとしての世界・人生が、存在を没価値的な因果律によって偶然的に弄ぶ、単なる無意味な不条理ではなく、同時に、存在をして生命的・有意味的に活かしめる根源的なエネルギーとしての次元を兼ね備えていると視るような、新たなまなざしの場所に立つということである。

 その生命的次元は、主・客が一体となって息づくコスミックな生存感覚であり、その覚知は、〈身体性〉によって開示される無意識的な非合理的領域、すなわち心身一如的な感性的認知の領域であり、カオスへの〈信〉のかたちにほかならない。

 この〈信〉に立つとき、われわれの、カオスに翻弄されるという「受動的」な生存感覚は、活力ある「能動的」な生存感覚へと変換される。

 汎神論的な唯物論者であり、主知主義者であるスピノザにも、未知なるカオスへの無意識的で生命的な〈信〉の感覚は、きちんと息づいていたようにおもえる。

 泰然自若たる『エチカ』の〈文体〉がそれを証している、と私には感じられる。

 それは、〈時間〉を超越することのできた者の場所である。すなわち、はかなく移ろいゆく、無常なる存在の実相という〈強迫観念〉の呪縛を脱することのできた者の、〈解脱〉(げだつ)の境地である。

 といっても、プラトンのイデア論のように、無時間的な、永遠の〈観念的実体〉の不完全な〈射影〉(似像)によって、現世の存在・事象を規定=説明しようというのではない。

 存在に内在し、存在を存在たらしめながら、同時に、存在の〈時間性〉を超越している、唯一無二の〈永遠的実体〉たる「汎神論的」な〈神〉への直観的覚知によって、解脱せんとするのである。

 存在と人性の普遍的な形相的特質への明晰な認知の積み重ねが、それらの形相の究極的な〈根拠〉をなす汎神論的な〈神〉の実在への確信をもたらし、また、その〈神〉の直観が、存在と人性への探求の情熱を鼓舞し、認識の〈愉悦〉をもたらす。

 その往復運動こそ、未知なるカオスへの〈恐怖〉を超え、時間性と永遠性の矛盾を止揚せんとするスピノザの叡智にほかならなかった。

 しかしニーチェは、『悦ばしき知識』において、スピノザの主知主義的な姿勢を、次のように痛烈に批判してみせている。

 

「―――理念は、いつも哲学者の「血」を吸って生きてきた、理念はいつも哲学者の感覚を食いつくした、いな、さらに言わしてもらうならば、哲学者の「心臓」をも食いつくしたのだ。これら昔の哲学者たちには、心臓がなくなっていた。つまり哲学することは、つねに一種の吸血鬼的作業であったわけだ。スピノザのようなああした人物にあってさえ、そこに何かしら深く謎を孕んだもの・薄気味わるいもののあるのを諸君は感じないだろうか? そこに演じられている芝居を、たえず顔色蒼ざめてゆくその芝居を、―――いよいよもって理念化的に解釈されてゆく感覚離脱を、諸君は見ないだろうか? その背景に、諸君は、永いこと身をひそめた吸血鬼が、感覚を手はじめに血をしゃぶり最後には骨と骸骨の音しか何一つ残さないようになるのを、感じないだろうか?―――私が言っているのは、範疇(カテゴリー)、公式、言語のことだ(というのは、失礼をかえりみず言えば、スピノザの思想から残ったもの、つまり「神の知的愛」(amor  intellectualis  dei)は、骸骨のガラガラ音である、それ以上の何ものでもない! 何が愛(アモール)であり、何が神(デウス)であるのだ、もしそれらに血の一滴すらないとならば?・・・)。」(『悦ばしき知識』「第五書」一八八六年、信太正三訳、斜体字は原文では傍点。)

 

 ニーチェの手厳しい批判には、たしかに一理ある。

 スピノザのように、理性による明晰な認知というものを生の絶対的な価値の根底に据え、精緻な概念規定とカテゴリーによる演繹的システムによって、世界を俯瞰的に包摂せんとする主知主義的姿勢は、ヘタをすると、頭でっかちの、理性万能主義を振りかざす尊大なモダニストの場所と、同一視されかねない。

 だがすでに強調してきたように、スピノザは、決して、理性と自我意識によって全てを仕切ろうとするような、ごう慢なモダニストではなかったし、〈観念〉に魂を食われて、感覚が鈍麻した、血の気の薄い人物でもなかった。

 『エチカ』の「備考」における、クールな中にも熱を帯びた〈文体〉が如実に物語っているように、澄み切った水のような静けさの中に、火のような烈しさを秘めた哲人だった。

 スピノザの透徹した認識の本領は、精神なかんずく感情の本質への認識にある。

 それは、ニーチェの言ったように、理念化によって〈身体〉を痩せ細ったものにするのではなく、認識の力によって、〈身体〉の無意識的な〈力能〉をつかむことで、既成観念による意識のとらわれを超え、精神の自在性を拡げることによって、能動的な活動能力を高めようとする、逆説的な戦略だった。

 むしろ、ニーチェの批判とは逆に、スピノザの抽象化の能力、対象の〈本質〉をシンプルにわしづかみにしてみせる、認識の透明度の高さが、(たとえこの哲学者が病弱で、かつ理不尽な攻撃・中傷による怖るべきストレスに苦しめられていたとしても)彼の身体性と生存感覚をガードし、それなりに生気ある、すこやかな状態に保たせていたようにおもわれる。(もっとも、その身体性は、ニーチェ好みの「力への意志」に衝き動かされる、血の気の多い獰猛さとはほど遠い、穏やかなものであったろうが。)

 私には、ニーチェの反合理主義的な理念の方が、スピノザの主知主義的姿勢よりも、ある意味では、ずっと観念的なものに視える。

 華麗な修辞と反語的アイロニーに満ちた、ニーチェの詩人哲学者風の饒舌と、表現者としての軌跡を視れば、彼が、スピノザのような清澄な感覚の持主でないことは、明らかだ。

 善悪の彼岸に立つ「力への意志」という観念的な男性原理を振り回し、健康さと情熱・本能の価値を声高に叫び、非日常的・刹那的な芸術的燃焼による虚無の超克をとなえるニーチェには、日常的な〈生活〉のもつ奥ゆきやふくらみ、生の振幅への真の感受性というものが欠落していた。

 だから、彼には、無名の〈生活人〉の寡黙で忍耐づよい生の厚みや生涯の物語性の意味というものが、全く視えていなかった。生活者のつつましい〈幸福〉への祈りも、そのかけがえのない重さもわからなかったし、その分だけ、真の優しさに欠けていた。

 むしろ、日常的な生活が紡ぎ出す〈幸福〉という観念そのものを軽蔑していたし、人間の本性を、自己保存の本能と幸福への意志に求めることを拒絶した。

 人間の本源的な衝動を、なんらかの非日常的な崇高さを帯びた観念的な価値・目的のために、自己を滅却し、不条理を超えて飛翔せんとする、生気溢れる〈力〉への渇望に向けて、解き放とうと夢想した。

 対照的にスピノザは、各人が自己自身を愛し、理性の導きによって、自己固有の「本性」に則した欲望のかたちを発見し、それにもとづく活動能力を通して、その人なりの自然な、充ち足りた生活を成就せんとすることを、「徳」とみなした。

 スピノザには、日常的な生活への愛があった。

 嫉妬や憎しみによる毒念や情念、道徳によって濁らされることのない、はればれとした、落ち着きのある、自己充足的な生というものを、何よりも重んじていた。

 

     4

 

 前節で引用した、「恐怖」への生活律による対処の言葉に続いて、定理一〇の「備考」で、スピノザは次のように語っている。

 

しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から行動へ決定されるようにしなければならぬことである(……)。例えばある人が、自分はあまりに名誉に熱中しすぎることに気づいたなら、彼は名誉の正しい利用について思惟し、なぜ人は名誉を求めなければならぬかまたいかなる手段で人はそれを獲得しうるかを思惟しなければならぬ。だが名誉の悪用[弊害]とか、虚妄とか、人間の無定見とか、その他そうした種類のことは思わないほうがよい。そうしたことは病的な精神からでなくては何びとも思惟しない事柄である。というのは、最も多く名誉欲に囚われた者は、自分の求める名誉を獲得することについて絶望する時に、そうした思想をもって最も多く自らを苦しめるものである。そして彼は、怒りを吐き出しつつもなお自分が賢明であるように見られようと欲するのである。これで見ても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのであることが確かである。

しかしこれは名誉欲に囚われている者にだけ特有なことでなく、すべて恵まれぬ運命をにないかつ無力な精神を有する者に共通な現象である。なぜなら、貧乏でしかも貪欲な者もまた金銭の悪用や富者の罪悪を口にすることを止めないが、これによって彼は自分自身を苦しめ、かつ自分の貧のみならず他人の富もが彼の忿懣(ふんまん)の種であることを人に示す結果にしかなっていない。これと同様に、愛する女からひどく取り扱われた者もまた、女の移り気や、その不実な心や、その他歌の文句にある女の欠点などのことしか考えない。しかも愛する女から再び迎えられると、これらすべてのことをただちに忘れてしまうのである。」

 「ゆえに自己の感情および衝動を自由に対する愛のみによって統御しようとする者は、できるだけ徳および徳の原因を認識し、徳の真の認識から生ずる歓喜をもって心を充たすように努力するであろう。だが彼は人間の欠点を観想して人間を罵倒(ばとう)したり偽わりの自由の外観を喜んだりするようなことは決してしないであろう。そしてこれらのことを注意深く観察し(なぜならそれは困難なことではないから)かつそれについて修練を積む者は、たしかに短期間のうちに自己の活動を大部分理性の命令に従って導くことができるようになるであろう。」

 

 私は、これらの言葉の中に、己れの人生に照らし合わせて、感動を覚えないわけにはいかない。

 人性の愚かしさ、弱さ、険しさに対する、なんともビターな、透徹した洞察の言葉となり得ている。

 そしてまた、人の世の汚濁の渦中にあって、「感情の奴隷」にならぬよう「身を処してゆく」ための、深い叡智が語られている。

 悪しき想念・イメージのもたらす「魂の濁り」への戒めの言葉でもある。

 また、スピノザは、「第四部」定理四五の「備考」で、こう述べている。

 

「……もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことでないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であるために、したがってまた精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種々の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨されるべき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。

 

 ここにも、「生活律」による制御を通して、種々の「感情」を適宜、昇華・解放させ、身体の変状(刺激状態)を正しく秩序づけようとする、スピノザの叡智がよくうかがえる。

 日々の生活において、生命的でアナログ的な全体感がたえず賦活されることの重要性が押さえられている。(この稿続く)

 

 

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