〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第7回) 川喜田晶子
- 2016.08.27 Saturday
- 10:49
魚住影雄の場合
やはり藤村操の死に激しい衝撃を受け、かろうじて生を択びとった魚住影雄について触れておきたい。
操と京北中学時代の同級生であった魚住影雄(1883年[明治16年]〜1910年[明治43年])。
中学入学後間もなくクリスチャンになった彼は、操同様、激しい〈煩悶〉を体験しながらも、〈信仰〉によってかろうじて生きながらえるのだが、病を得て若くして死ぬ。明治43年12月のことだ。享年27歳11ヶ月。
一高の寮制度の改革を図ろうするなど、個人主義を高唱する革命児として影響力の強い学生だった。批評家・魚住折蘆(せつろ)としての活動が、石川啄木の評論「時代閉塞の現状」(明治43年)にとりあげられて名を知られるくらいだが、藤村操事件をめぐる言動においてその表現を見直すなら、当時の操事件に対する反響の浮薄さへの鋭い洞察力は群を抜いていたと言えよう。
影雄の「二十年のおもひで」には、操が自殺する前年の明治35年当時の苦悩が綴られている。(「二十年のおもひで」は、元来、友人に示された書簡の一種であるが、『折蘆書簡集』[岩波書店 1977年]に「自伝」として収録されたものより、以下、引用した。旧漢字は適宜新漢字に改めた。)
「懐疑の苦痛は十、十一両月が其頂上であつた。僕は毎日祈りをした、然し天に声はなかつた。僕は落伍した敗兵が荒野の中に渇を覚えて水を求むるが如きさまで水を求めんとして声を放つたが、咽喉がいたくて声は出ず、出ても何の反響もなく、世界は死の沈黙を以て僕に応へた。僕に友なく学問なく恋人なく家庭なく世界もなくなつた。たゞ微かな信仰があつた。僕は此信仰をすてる日は自殺する日であると幾度となく思うた。否毎日のやうに思うた。而して将来のことを考へると信仰は再び磐石の上に立つ見込なく、忠実に理性に従へば信仰は粉砕せらるべきものと思つた。かくて自殺が当然の運命であると思つた。」
「忠実に理性に従」うこと、「懐疑」することによって、〈世界〉を不断に殺していた当時の思潮の残酷さが胸に迫る。
彼が苦しんでいたのは、海老名弾正の自由主義神学(科学的見地による聖書の自由な解釈を許容する神学)に触れたがゆえに「キリスト教の神」の存否であるが、そのことを通して、実は宗教的な〈信〉を支える世界観としての〈信〉の存否を苦しんでいたことが、如実に伝わる。
現在も私たちは、同じ残酷さで「死の沈黙」を返す世界風景に取り囲まれている。あまりにも当たり前のようにその世界風景の中へ産み落とされ、その中で呼吸することにある種の耐性を獲得しているけれども、影雄の渇きの質を想像することは、思いのほか容易である。彼の言うところの〈水〉によって、自身を含めた世界風景を意味づけたいという痛切な渇きは、今も私たちの深層の渇きそのものであるようにおもわれる。そして世界の成り立ちを私たちの身体とは無縁の無機的なシステムとして了解せよと理性に強いられるとき、誰も何ものもその渇きを充たしてくれないという残酷さの中で、〈生〉の手応えの稀薄さをもてあまして私たちは久しい。そのような残酷さをただ非常に新鮮に感受している時代を想うならば、質としては実に連続感のある苦痛を影雄はここで表白していることがわかる。
同じ酷さに倒れたのが操であったと直感した影雄の共感は、岩波茂雄のセンチメンタリズムよりはるかに根深い虚無との闘いの匂いを感じさせる。
「あの『巖頭の感』はいかばかり僕の心を拊つたであらう。僕の曩日の苦痛は藤村君の外に知りうるものなく、藤村君の死んだ心は僕の外に察しうるものはないといふ様な感がした。又藤村君は至誠真摯であつたから死に、僕は真面目が足りなかつたから自殺し得なんだのだと思つた。こまかい事はわからぬが、僕は藤村君の煩悶と僕の煩悶とは甚だ似てゐたものだと思ふ心は今もかはらない。羨しき藤村君の死は僕をして慟哭せしめ悶絶せしめた。僕は生れて以来藤村君の死ほどの悲痛を感じたことはない。僕は死を求めて得ざるに身を倒して泣いた。かヽる思は数日つゞいた。その内に五月はくれた。僕の心は暴風のふきまいた後のやうな感じであつた。然し藤村君は死旅の友を得るには死ぬことが少しく遅かつた。僕には信仰の微光が三月以来東の空にさしてゐたのである。けれども藤村君の死は僕にとつて非常な事件であつて、僕は断じて人生を空じ去るか、主観の神を客観の祭壇に斎き祀るか、二者の一つを決定すべき機会を藤村君によつて与へられたのである。」
岩波と同様の自責と憧憬が見られるが、岩波のように操の死によって苦悩の〈気分〉を代償させてしまおうとする無邪気なセンチメンタリズムはここにはなく、影雄自身の内面と操の内面との酷似を固有のものとして引き受けようとする内省の痕が痛々しい。
影雄の文体には、当時の〈気分〉を代表したものが操の死であるという、岩波のことばに見られるようなゆるやかな時代との連帯感など微塵もなく、操と自分だけが苦しんだ課題であるという酷薄なプライドが感じられる。
キリスト的な神を信じるか否かを通して、影雄が荒野に水を求める敗兵のように渇いていたもの。宗教的な〈信仰〉さえも包みこむ、生そのものを根源的に支えるより包摂的な〈信〉のぎりぎりの取捨を、影雄は徹底して苦しみ悩み、その〈信〉がなければ自殺するしかないのがこの〈世界〉であるとの認識を握りしめた状態で、藤村操の死の報に接したのである。文字通り影雄の生の根拠を徹底的に試みるような事件だったろう。
客観的であること、科学的であること、それがこの世界を把握する唯一の方法であることの〈自由〉が、個人を生かすのか、殺すのか。彼らは非常な鮮度でこの問題を一呼吸ごとに命懸けで苦しんでいたのである。
明治36年7月「新人」に掲載された「藤村操君の死を悼みて」(『明治文学全集50』より引用 筑摩書房 1974年)には、操の死に匹敵する〈生〉を択びとった影雄のプライドが横溢し、操事件に対する世間の共感や称賛にひそむ浮薄さを洞察する筆が冴える。
「君は人生の迷疑に苦んで自ら死に我は神の光明に慰められて残りぬ。君は君の生を私せず至誠の動くところに従へり、君が死にまさる清き死は我かつて之を見ず、我たゞ最美しき生を経過して君が友たるにふさはむと欲す、希くは路上犬馬の俗子に悲哀の福音を語り、熱情至誠の君子に安慰の光明を説いて天授の我生を私せざらんことを得むと欲す。若し万有の真相之を悉す能はずして、人間死後の永世なきを観ぜん日は我行かむ所も華厳の瀧のみ、行きて奇寒の洗礼を受け以て此世を辞せむのみ。」
「多くの弔辞之を聞くに概ね悲哀に始まり断念に終り平凡に帰るを見る、かくて人は異常の警覚を受け猶再び塵紅に走り行く也。君を傷む者の声は至誠なき熱情なき軽薄なる社会の懺悔悔謝也、而して君が至誠に比し得べき者あるなし。」
「曖昧と虚偽とは予の身を震はせて嫌ふもの、他力本願予が望みに非ず十字架の贖罪予が安心に非ず。予は神を疑ひて後思想開展し理性の平和を得、予の徳性を疑ひて後人格向上し品性建設の着々歩を進むるを自覚す。煩悶上下の裡一道の光明我を率ゐて天辺に至るを見る、予輩の信仰に理想の復活あり予輩の道徳に希望の光輝存す。」
「かくて人は異常の警覚を受け猶再び塵紅に走り行く也。」といった洞察が可能であったところに、操事件の衝撃をまたたく間に解毒し、何ごともなかったかのようにふやけた日常に再帰してゆく同時代人への鋭い異和感が顕著であり、魚住影雄の苦悩の質が濃くたち顕われていると言えよう。
操事件の一周年に当たる明治37年5月、一高生となっていた影雄(年齢の上では操より三歳ほど年上である)は、第一高等学校「校友会雑誌」に「自殺論」と題する論稿を発表した。「二十年のおもひで」には、「藤村君の一週年に草した『自殺論』一篇は実に僕の過去数年間の血潮のかたまりであつた。僕の個人主義―自我の意識―は此文を草した時に其絶頂に居つた。」とある。
冒頭には『旧約聖書』、末尾には『新約聖書』からの数節を引用し、この絶望的な現世に産み落とされた不条理感をベースにしながら、血を吐くような個人主義による世界観の更新を試みた不屈の意気が炸裂する。(以下、『折蘆書簡集』所収「自殺論」より引用 岩波書店 1977年)
「何とて我は胎(はら)より死にて出でざりしや、何とて胎より出でし時に気息(いき)たえざりしや。(中略)如何なれば艱難(なやみ)にをる者に光を賜ひ、心苦しむ者に生命(いのち)をたまひしや。」(旧約 約百(ヨブ)記、三章)
「願はくは神われを滅ぼすを善しとし、御手を伸べて我を断ちたまはんことを。」(約百、六)
「我若し俟つところ有らば是れわが家たるべき陰府(よみ)なるのみ、我は暗黒(くらやみ)にわが牀(とこ)を展ぶ。さればわが望はいづくにかある、我望は誰かこれを見る者あらん。」(約百、十七)
「光栄ある生存の意義は自家の要求に絶対の聴従をなすこと唯之れ耳(のみ)、断じて唯之れ耳。彼の宇宙構成の説明を以て人生問題の解釈となすが如き哲学者、豈(あに)深奥なる『意義』に与(あずか)るを得んや。要求は談理に非ざる也。」
「自殺や之れ第二の解脱。第一の解脱を探る者が常に念頭において有事の日に備ふるところの者たる也。」「唯神経過敏の浅人、自己の薄弱なる基礎を震撼せられて狼狽し、直ちに流言を放つて風教に害ありと号す、乃ち訓へて君国の為に貴重すべきの身を以て可惜私情の奴隷となせりと。何等の愚言ぞや、斯の如きの言は一切無意義也。」
「至誠の結論は其空白虚無を観じて自ら此世界を去つて一切と交渉を断つに至らしむ。然かも彼は自ら殺せりと為さゞるなり、宇宙を粉砕せりと自ら思惟する也。此覚了成る、其前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん、我れ豈父母に乞ひて生れ来らんや、君国に誓ひて生れ来らんや。君国の恩は我等が無垢の児心に小学校教員が刻み込みたる迷信に非ずや、此迷信を脱却して自家本然の純なる中心の声を聞かんがために要せし苦心はそも幾何なりけん。人道の盛大と人物の尊貴とは乞ふ我れの此天地の意義あるを認めたる後に聞かん。」
「あゝ自殺よ、自殺よ。汝は誠ある者の隠れ家なり、人生に興味を失し其価値を否む者に咒詛の要求を満足せしむ。」
「予の恥づるなくして選びうるもの三。曰く、狂。曰く、自殺。曰く、信仰。而して予は前二者に近づきて其傍を過(よ)ぎり遂に第三者に達して安んじぬ。」
「われ新しき天と新しき地を見たり、先の天と先の地とは既に過ぎ去りて海も亦有ることなし。(中略)われ大なる声の天より出づるを聞けり、曰く神の幕屋人の間にあり、神人と共に住み、人、神の民となり、神また人と共に在して其神と也りたまふなり。神かれらの目の涕(なみだ)を悉く拭ひとり復死あらず、哀み哭き痛み有ることなし、そは前の事はすでに過ぎ去ればなり。」(新約、黙示録二十一章)
不純な現実の強制を排して自私の要求の充実を第一義にすえる者が、それがかなわぬ時には自殺によって矛盾を超えようとすることを肯定する、という主旨である。つまり、自殺そのものの是非に主眼があるというより、〈自我の充実〉という生の至難を〈自殺〉の手前に据えて、その純度を証しする、悲壮な観念的荒業の様相を呈する論だ。
折しも日露関係が緊迫し、雑誌「太陽」誌上では、長谷川天渓や坪内逍遥らが操事件に対する批判的な論を展開し、国家主義、忠君愛国が称揚され、個人主義は排斥される時勢であった。
若者の自殺は忍耐が足りない、といった論調に、影雄は「忍耐の真義は右手人生を攫(つか)み左手死を攫んで其何れかを取り何れかを擲たんとする『要求の子』独り能く解す。」「世人云ふところの忍耐なるものは畢竟降服なり、屈服也。」と激烈な批判を叩きつけ、「唯神経過敏の浅人、自己の薄弱なる基礎を震撼せられて狼狽し、直ちに流言を放つて風教に害ありと号す、乃ち訓へて君国の為に貴重すべきの身を以て可惜私情の奴隷となせりと。何等の愚言ぞや。斯の如きの言は一切無意義也」と坪内らの批判を一蹴する。
影雄がここで放った矢は、確かに時代のうつろさを射抜いている。
操の自殺とその影響力を怖れる者たちの〈狼狽〉の本質についての認識の確かさには瞠目すべきものがある。
彼らは、操の〈死〉を必死になっておとしめることで、自身の〈生〉の基盤を今一度確認せずにはいられないのだが、そこにはうつろで見かけだおしの〈薄弱なる基礎〉しかないことを、そしてそれが故の神経症的なまでの自殺擁護者への批判であることを、影雄はよく洞察している。
確かに、当時第一級の個人主義の主張が漲っていたと評価してよいだろう。緊迫した時勢の中でこれだけの過激な主張が可能であったことも感銘深い。
家族や国家によって育てられるのではない〈自我〉の至純を、激烈な文体で挑発的に論じる、影雄の戦闘的な身構えはしかし、その十年ほど前の北村透谷の「内部生命論」(明治26年発表)の文体と比するとき、砂漠の中に火柱を立ち上げているような痛々しさをもおぼえる。
「人道の盛大と人物の尊貴とは乞ふ我れの此天地の意義あるを認めたる後に聞かん」との一文から看取し得るように、影雄もまた、その存在の根拠を、既成のシステムや観念的な倫理によってではなく、深々とこの〈天地〉から汲み上げたかったのであるが、透谷(1868年[明治元年]〜1894年[明治27年])が言わば己れの身体の延長として〈天地〉を素直に感得できたのに対して、影雄の世代、すなわち〈藤村操世代〉は、その延長感の無いところからアクロバティックに〈天地〉にアクセスし、〈水〉を汲み上げねばならなかったのだという印象を否めない。時勢ゆえに「対・国家」の文脈で「自我」を主張せざるを得なかったことも、彼らの渇きの本質を横すべりさせたとも言えよう。
平岩昭三は、『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版 2003年)において、操の自殺も影雄の苦悩も、ともに明治社会に抑圧された〈自我〉の問題と解釈し、「自覚した自我を明治という疑似近代社会のなかに定着させることができなかった若者の悲劇」ととらえているのだが、明治社会のシステムとしての未熟さなどに解消され得る問題ではない。近代的価値観・世界観が存続する限り、いかほどシステムとしての社会が〈個人〉の表層の自由や権利を手厚く保護しようとも、否、手厚く保護すればするほど、隠蔽された不条理感として底流し続ける〈生き難さ〉は、現在に至るまで人々の無意識を不透明に絡め取ってきた。
「此天地の間が狭苦しいやうな気持がする」と語って逝った松岡千代の言葉が改めて想起される(本論「連載第5回」の稿を参照)。彼女の想いを当時のいわゆる「知的煩悶」の文脈で最も緊密に噛み砕くならば、魚住影雄の表現となるだけのことなのだ。
その〈生き難さ〉は、時代の空気を徹底的に浸潤していたのである。(この稿続く)
*参考文献
『折蘆書簡集』(岩波書店 1977年)
『現代日本文学大系40』(筑摩書房 1973年)
『明治文学全集50』(筑摩書房 1974年)
平岩昭三『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版 2003年)
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