〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第13回) 川喜田晶子

  • 2018.06.30 Saturday
  • 15:28

 

〈けもの〉の匂い

 

〈けもの〉に喩える営みによって解放されるものがある。

 私たち、あるいは私たちの内なるなにものかを、解き放つための十七音、または三十一音の潔さ。

 

 大いなる鹿のかたちの時間かな  正木ゆう子

 

 梟(ふくろう)や森の寝息の漏るるごと  無田真理子

 

 早春の馬はしり過ぎ火の匂い  穴井太

 

 狼(おおかみ)のごとく消えにし昔かな  赤尾兜子

 

 こめかみは鱗(うろこ)のなごり稲光  秋月玄

 

 秋といふ生(いき)ものの牙夕風の中より見えて寂しかりけり  与謝野晶子

 

 夕月を手に取るやうにやすやすと我が鱗(うろくづ)に触るる君かな  桐島絢子(川喜田晶子)

 

「時間」が「鹿のかたち」に喩えられる新鮮さ。

「大いなる」によっておごそかな聖性が、「鹿」であることによって非日常的でありながら遠ざかり切らない、穏やかさと温かさをはらんで息づく生活の「時間」のとしてのたたずまいが、正木ゆう子の句には保たれている。融合の相貌で顕ち現れる、非日常と日常。手に触れられる距離と生身の体温。それでいて侵すべからざる聖性に充ちた、時間。生活の内にありながら、稀有な。稀有でありながら、この時間が無ければ私たちの存在を支える不可知の気配との接点もまた失われてしまうであろう、必須の時間。

 

 梟の啼き声を、森の寝息が漏れるようだと喩える、無田真理子の句。

 聴覚にだけ訴えかける句ではなく、〈存在〉の不可知の領域の気配を全身で触知する瞬間を生々しく想起させる。梟とは、実は森という巨大で得体の知れないけものの寝息が形になった姿ではないのか。あるいはまた、さらに測り知れない〈闇〉という存在の心の臓や魂がそこに横たわって息づいている姿を、私たちは「森」と呼んでいるだけではないのか。

〈闇〉の在り方への想像力を、ほの暗くそそのかす比喩の力。

 

「早春の馬」がはしり過ぎることで感じとる〈火〉の匂いとは何か。

 真夏の馬ではなく、「早春」であることで、穴井太の句からは、凄烈で若々しい切り裂くような危うさが放たれる。危険も伴う生命的な燃焼への予感と期待。まだ解放されていない、まだ燃やしていない、己れの内なる〈未知〉が、燃やすより前に〈火〉の匂いを発する。そんな領域が己れの内にまだあるならば、いかほどの齢であろうと、人は「早春」を生きているのかもしれない。

 

 日本から「狼」がいなくなったのは明治三十八年だという。

 前近代的な風土性と、それに育まれた人々の精神性が、〈近代〉によって駆逐されたことを嗅ぎ取ったかのように、姿を消した「狼」。

 赤尾兜子の句で消えたものは「昔」である。単に「昔」を懐かしんでいるというより、自分たちにふさわしい居場所ではないことを俊敏に察知して消えた「狼」のように、「昔」もまた、今の世に永らえるべきではないことを悟って消えていってしまったのかもしれない、という把握が滲み、苦さが伝わる句。

「時代」もまた、〈けもの〉のような嗅覚を持ち合わせているのだ。

 

「こめかみ」は、実は「鱗」のなごりなのだという、秋月玄。それも龍の鱗である。

 眼前の稲光に龍の荒ぶる姿を見た瞬間、作者の「こめかみ」もその龍に感応してうずいたのであろうか。かつて、己れが〈龍〉であった証をまさぐる恍惚。己(おの)が肉体のどこかに、聖なるものの痕跡を見出すことで、現実の不条理を踏みにじり、地上的な生の枠組みを揺さぶる。十七音の挑戦。

 

「秋といふ生もの」の「牙」を詠む与謝野晶子。

 無常観に己れを差し出すようになじませていた前近代的な情緒から逸脱し、近代的な自我の「寂しさ」を提示する。「秋」という生きものが夕風の中を晶子の魂へ忍び寄る。同じ孤独を、それも〈けもの〉のような孤独を、嗅ぎ分けるのかもしれない。その「牙」に噛まれて確かめられる「寂しさ」は、他の誰の「寂しさ」でもない、己れひとりの誇り高い、飼い慣らされることのない「寂しさ」である。

 

 自作から一首。相聞歌の体裁をとって解き放ちたかったもののかたち。

「君」は、たやすく「夕月」を手に取ることのできる存在である。人の世の理屈から存分に自在にはみ出した力の駆使。〈水〉の象徴としての「夕月」を、身体の延長のように扱うそのたやすさで、「我が鱗(うろくづ)」にも苦も無く触れることができる。そのたやすさは、逆に言えば、「我が鱗」の触れ難さ、扱い難さでもある。

 永く永く、たったひとりで守りぬいてきた「鱗」。誰にも気づかれず触れられず認められず、自らそぎ落とすことなく、守りぬいてきた「鱗」の〈意味〉が、魂の宙宇に潜んでいる。

〈意味〉へのもがきを秘めた「鱗」を、守りぬき解き放つ苦しみと歓びは、短歌という器に載ってどこまで届くだろうか。(この稿続く)

 

 

JUGEMテーマ:日本文学

東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第10回) 川喜田八潮

  • 2018.06.28 Thursday
  • 21:38

 

     18

 

 ちなみに、森鷗外の原作では、安寿と厨子王の姉弟は、苛酷な労働を強いられるが、同僚の婢(はしため)「小萩」の心づかいや、邪険な山椒大夫の三男「三郎」とは違って、自分たちに憐れみをかけてくれる、次男の「二郎」のおかげもあって、かろうじて息をつきながら、黙々とくぐもるように日常をくぐり抜けてゆく。

 

 隣で汲んでいる女子(おなご)が、手早く杓を拾って戻した。そしてこう云った。「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手(めて)の杓でこう汲んで、左手(ゆんで)の桶でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。

「難有(ありがと)うございます。汲みようが、あなたのお蔭(かげ)で、わかったようでございます。自分で少し汲んで見ましょう」安寿は汐を汲み覚えた。

 隣で汲んでいる女子(おなご)に、無邪気な安寿が気に入った。二人は午餉(ひるげ)を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹(きょうだい)の誓をした。これは伊勢(いせ)の小萩(こはぎ)と云って、二見(ふたみ)が浦(うら)から買われて来た女子である。

 最初の日はこんな工合に、姉が言い附けられた三荷の潮も、弟が言い附けられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進(かんじん)を受けて、日の暮までに首尾好く調った。(森鷗外「山椒大夫」新潮文庫版)

 

 姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日(ひとひひとひ)と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。

 とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬ時が来た。小屋を明ければ、奴(やっこ)は奴、婢(はしため)は婢の組に入(い)るのである。

 二人は死んでも別れぬと云った。奴頭が大夫に訴えた。

 大夫は云った。「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引き摩(ず)って往け。婢は婢の組へ引き摩って往け」

 奴頭が承って起(た)とうとした時、二郎が傍(かたわら)から呼び止めた。そして父に言った。「仰ゃる通に童共(わらべども)を引き分けさせても宜(よろし)ゅうございますが、童共は死んでも別れぬと申すそうでございます。愚なものゆえ、死ぬるかもしれません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗(へら)すのは損でございます。わたくしが好いように計らって遣りましょう」

「それもそうか。損になる事はわしも嫌(きらい)じゃ。どうにでも勝手にして置け」大夫はこう云って脇(わき)へ向いた。

 二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。

 或(ある)日の暮に二人の子供は、いつものように父母(ふぼ)の事を言っていた。それを二郎が通り掛かって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐(しいた)げたり、諍(いさかい)をしたり、盗(ぬすみ)をしたりするのを取り締まっているのである。

 二郎は小屋に這入って二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれより又遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つが好い」こう云って出て行った。(「山椒大夫」)

 

 原作の〈文体〉は、淡々とした、無駄のない、的確なリアリズムの目線によって紡ぎ出されており、人が、〈日常〉のささやかな慰藉(いしゃ)の物語によって不条理をくぐり抜けてゆく時の、自然な身構えというものを、ごく簡潔に、象徴的に描き上げてみせている。

『山椒大夫』は鷗外の晩年期の作で、そのさりげない、渋い抑制された文体は、さすがに、日本近代文学確立の一翼を担った作家だけのことはあると感心させられるけれども、残念ながら、アニメの『安寿と厨子王丸』の脚本と演出には、原作のような生活思想的な奥ゆきは感じられない。

 鷗外の原作でも、アニメでも、安寿と厨子王が、邪悪な山椒大夫の息子(原作では三男の「三郎」、アニメでは長男の「次郎」)によって、逃亡を企てた罰に額(ひたい)に「烙印(やきいん)」を押されるという〈悪夢〉を「同時に視る」場面があるが、アニメの方では、ふたりが焼きゴテを当てられる寸前にうなされて目覚めるだけであるのに対して、原作では、悲鳴をあげる中、額に焼け火筯(ひばし)を十文字に当てられた姉弟が、激痛に耐えながら小屋に戻ったあと、安寿の守り袋に入れておいた地蔵菩薩像の霊験によって傷が癒されるという、重要なシーンが描かれている。

 

 二人の子供は創(きず)の痛(いたみ)と心の恐(おそれ)とに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家(こや)に帰る。臥所(ふしど)の上に倒れた二人は、暫く死骸(しがい)のように動かずにいたが、忽(たちま)ち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」と叫んだ。安寿はすぐに起き直って、肌の守袋(まもりぶくろ)を取り出した。わななく手に紐(ひも)を解いて、袋から出した仏像を枕元に据えた。二人は右左にぬかずいた。その時歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛が、掻(か)き消すように失せた。掌(てのひら)で額を撫(な)でて見れば、創は痕(あと)もなくなった。はっと思って、二人は目を醒ました。

 二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じ時に見たのである。安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕元に据えた。二人はそれを伏し拝んで、微かな燈火の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。白毫(びゃくごう)の右左に、鏨(たがね)で彫ったような十文字の疵(きず)があざやかに見えた。(「山椒大夫」)

 

 この霊験を境に、安寿は変貌する。

 

 二人の子供が話を三郎に立聞(たちぎき)せられて、その晩恐ろしい夢を見た時から、安寿の様子がひどく変って来た。顔には引き締まったような表情があって、眉(まゆ)の根には皺(しわ)が寄り、目は遥(はるか)に遠い処を見詰めている。そして物を言わない。日の暮に浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんな時にも詞(ことば)少(すくな)にしている。厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」と云うと、「どうもしないの、大丈夫よ」と云って、わざとらしく笑う。

 安寿の前と変ったのは只これだけで、言う事が間違ってもおらず、為(す)る事も平生(へいぜい)の通である。しかし厨子王は互に慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。二人の子供の境界(きょうがい)は、前より一層寂しくなったのである。(「山椒大夫」)

 

 安寿の秘められた心の変化が、表情とふるまい方への簡潔な叙述を通して、的確に描出されている。

 夢とそれに続く霊験を機に、安寿の中では、弟の厨子王を脱出させるという考えが、ただの絵空事ではなく、確固たる決意として根を下ろしてゆく。

 何でも打ち明けていた弟に対しても心を閉ざし、ひそかに〈自決〉の覚悟を定める。

 十五歳になった彼女は、ひとりの孤独な〈大人〉へと脱皮したのである。

 守りの地蔵菩薩像を厨子王に譲り、神仏の導きと加護に弟の未知の運命をゆだね、父母との再会の志を託した安寿は、もはやこの世に一切の未練はなく、厨子王を脱走させた直後に「入水」してしまう。

 そこには、なぜか、陰惨な匂いが無い。

 しかし、アニメの方は全く違う。原作に比べて、はるかに湿っぽく、めそめそした空気感が漂っているのである。

 同じような不条理を扱いながら、どうして、このような差異が生じたのであろうか。

 

     19

 

 もちろん、小説という、言語による表現手段と、映像との違いということもある。

 言葉による表現には、たとえそれがどんなに真に迫った、リアルな描写であろうとも、必ず、大なり小なり硬質な〈抽象性〉というものが備わっている。

 なまなましい、陰惨な写実的描写に溺れる作家はごまんといるが、映像や画像のリアリズムには及ばないのだ。(もっとも、一つひとつの言葉の表現に、そのつど、自分なりのなまなましい具象的なイメージを喚起させられてしまうという「ヴィジュアル派」の人もおり、そういう人にとっては、言葉と映像・画像の間の〈ギャップ〉は少ないのかもしれないのだが。)

『山椒大夫』も、実写映像にしてしまうと、たとえ原作に則していても、全く空気感の違うものになってしまう。溝口健二監督の作品のように。

 もちろん、アニメの『安寿と厨子王丸』の方は、溝口作品のような、泥臭い、酷薄でどぎつい写実主義的演出による映像とは全く違う。

 少年少女向きの作品でもあるから、悪役の表情は陰険でどす黒いが、主人公の姉弟は素朴に可愛らしく描かれている。登場人物のデッサンは、今風の細密なアニメ画像とは違って大らかなものだが、陰翳と奥ゆきのある繊細な風景描写と身体表現の丁寧な演出に包摂されることで、見事にリアルな感覚を誘発することに成功しているのである。(この辺は、宮崎アニメの作りにも似ている。)

 ファンタジックな場面もあるが、全体としては、ひき裂かれた親子・姉弟の哀切な不条理ドラマとしての、手堅いリアリズムの感触を伝えるものとなっており、「映像」表現としての強味はいかんなく発揮されているといっていい。

 一方、「書き言葉」の表現は、刺激の強さという点ではたしかに映像には及ばないけれども、その代わりに、その場その場で読者を立ち止まらせ、時に釘付けにする力をもっている。映像や音楽・歌・会話の場合には、瞬時瞬時に繰り出される新たな刺激の流れの中で、過ぎ去ったシーンや音声は、たちどころに忘れ去られ、あるいは、残像・残響として無意識の内に沈み込んでゆくが、書き言葉の作品では、そうはいかない。

 映像のような「どぎつさ」は免れる代わりに、読者を言葉づかいや描写の前で立ち止まらせ、意識を絡め取ってしまう。絵画や写真のようにである。

 その描写が、陰惨酷薄なものであれば、読み手の柔らかな感性・魂を、とり返しのつかないほどに傷つけてしまうことも起こりうる。

 生老病死の救いようのない地獄を冷徹に描き切ったリアリズム小説やルポルタージュ、私小説の恐ろしさ、害毒というものも、そこにある。

 鷗外は、さすがに、写実的な陰惨さに溺れるような愚は犯していない。

 原作の文体は、幼い姉弟とその母親の不条理な運命を、ひたすら客観的に、能う限り簡潔に、淡々と叙述してゆくだけで、いささかも安っぽい感傷は無く、かといって、乾き切った、潤いの無いものでもない。主人公を中心とする登場人物たちへの、作者の内在的共感の距離感が、ほど良いのである。

 それが、散文的な書き言葉としての硬質な〈抽象度〉の水準と相まって、美事に落着きのある、ほど良い抒情性をかもし出している。

 虚構の時代劇という形式をとることで、現代小説にありがちな、生臭い息苦しさを免れ、私小説的な濁り、思い入れ、偏執といったものも拭い去られている。

〈物語〉を、人生の実相の象徴として、ごく自然に、無意識的に感得させることができているのである。

 無理もないことではあるが、その原作のもつ象徴的な思想性、姉弟の生きざまを通して感受される生活思想的な奥ゆき、生存感覚というものは、アニメの『安寿と厨子王丸』の方には、全く描かれていない。

 不条理をくぐり抜けてゆく時の、生活者としてのくぐもるような目線、苛酷な生の内に立ち顕われる一瞬の癒し、恐怖と安堵、痛覚と手応え、放心と充足、休息と眠り、……といったような、一日一日の〈瞬間〉の繰り返しと点綴(てんてつ)によって織りなされる哀歓の起伏、日常的な〈物語性〉のもつ思想性は、当然のことながら、当時の(黎明期の段階にある)アニメ表現の手に負えるモチーフではない。(ちなみに、この地味で困難なモチーフに対しては、すでに、一九九二年刊行の拙著『日常性のゆくえ』の中で詳細に論じたように、宮崎アニメ『となりのトトロ』が、牧歌的な空間ではあるが、美事に象徴的な取り組み方をしてみせている。)

 アニメ『安寿と厨子王丸』にみられるまなざしは、ただ、不条理を運命として甘受し、耐え忍び、やりすごしてゆくだけの、風になびく葦のような、優しいけれども、あまりにも悲哀感の強い、無常感に彩られたペシミスティックな生存感覚なのである。

 

     20

 

 この和魂(にぎみたま)のみに生きることの意味と根拠を一元的に回収せんとする植物的な生存感覚・世界観が、奇妙なことに、よりにもよって「一九六〇年代前半」という、高度経済成長が加速してゆく日本社会において蔓延していくのである。

 この現象は、(もちろん例外はあるが)当時の小説・演劇・映画・テレビドラマ・少年少女マンガ・歌謡などのさまざまな芸術・エンターテインメントに広くみとめられる傾向といってよいだろう。

 私は、六〇年代前半に小学生時代をすごしたが、当時の少女マンガの主要モチーフが、不条理な運命に翻弄される主人公の哀切極まるメロドラマにあった事を、よく覚えている。大人向けのテレビドラマも、このような感覚が強かったし、演劇でも、例えば、中村嘉葎雄と森光子が主演した、水上勉原作の『越前竹人形』の舞台などは、子供なりにも紅涙を絞らされて、忘れがたい。

 私にとっては沁み入るような、懐かしい作品が、この時代には多いのであるが、このような、和魂に偏した、陰鬱で湿っぽい植物的な生存感覚(もちろん、大衆的には、演歌的な抒情性[例えば、橋幸夫のダークで不条理感の強いヒット曲である「江梨子」のような]にも通じる心性であるといってよいが)は、「一九六四年」頃までは濃厚に息づいており、この年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通を境として、急速に消えてゆくエートスなのである。

 ただし正確に言えば、「一九六七年」までは、この感性は、まだ残影をとどめていたといってよい。

 日本人のエートスが、大衆的な規模で、植物的ないし草食的なものから肉食動物的なものに変容したのは、正確には、「一九六八年」という年である。この年から〈現在〉までは、ある意味で「地続き」なのである。

 しかし、その〈変容〉は、すでに、「六〇年代前半〜半ば」という高度成長の加速化の時期に進行していたのであり、アニメ『西遊記』にみなぎる資本主義根性丸出しの演出姿勢などは、ほんのささやかな一例にすぎないが、その〈予兆〉のシンボルであったといっていい。(この稿続く)

 

 

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