東映初期カラーアニメーションのコスモスー『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心にー(連載第13回) 川喜田八潮

  • 2018.09.27 Thursday
  • 20:10

     

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 もっとも、大人のみならず、少年少女にも開かれたアニメ『安寿と厨子王丸』のような作品に、説経節の『さんせう太夫』のような、場違いな、殺伐とした残虐な設定を持ち込んでよい、というつもりは毛頭ない。

 ただ、鷗外の『山椒大夫』やアニメの『安寿と厨子王丸』の〈結末〉に垣間見られるような理念、処理の仕方というものは、全くもって、なっていないと言いたいだけである。

 この法治主義と癒着した儒教道徳的な教化理念ないし戦後ヒューマニズムという奴は、アニメで描かれた、和魂(にぎみたま)過剰の、敗け犬根性の強い、めそめそ型の主人公たちのうつろさと、まことにしっくりと調和している。

 なにせ、アニメの安寿ときたら、弟の厨子王を(目と鼻の先にある)山の向こうの国分寺に逃がす時に、なぜか一緒に逃げようとはせず、自分に優しくしてくれる、そのくせ父親の大夫や兄の次郎に対しては一切歯向かうことのできぬ、無力な次男の三郎の、当てにもならない庇護にすがろうとする始末である。

 三郎と愛し合っているのなら、どうして手に手を取って、いちかばちか、駆け落ちしてみようとしないのか。何でも、やってみなければ、わからないではないか。

 三郎も三郎だ。安寿が大切なら、その身を次郎や父親の魔手から命がけで守ろうとするのなら、どうして、彼女を連れて逃げようとしないのか。

 おまけに、安寿に横恋慕し、妻となることを拒んだ彼女に、みせしめに「焼きゴテ」を当てようとした次郎に、必死でつかみかかり、格闘した三郎のおかげで、やっとの想いで「牢」から脱出できたというのに、安寿は、池のほとりまで逃げて来たあげく、「どうせ助かりっこない」と簡単にあきらめて、父母と弟の面影を胸にいだきながら、涙を浮かべ、あっけなく「入水」してしまうのである。

 

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 ここも、鷗外の原作とは、微妙に違うところである。

 原作では、安寿の入水は、前々から彼女が密かに心の準備をし、意を決していた、〈自決〉の覚悟の自然な結果としてなされたものとされている。

 そのきっかけとなったのは、三郎が火箸で、安寿と厨子王の額(ひたい)に十文字の焼き印を押し、地獄の責め苦を味わわせるという、怖ろしい拷問の〈夢〉から、同時に目覚めた直後に、姉弟が視た霊験であった。

 逃亡を企てた科(とが)で、額に十文字の創(きず)をつけられたふたりが、苦痛と恐怖の極みの中で、安寿の守り袋から取り出した地蔵菩薩像にぬかずくと、不思議にも、耐えがたかった額の痛みがひき、創は痕(あと)かたもなく消え失せていた。その時目覚めたふたりは、同じ夢を視たことを語り合い、改めて守り本尊を取り出して、確かめてみると、地蔵菩薩の額には、一対の十文字の疵(きず)が鮮やかに刻み込まれていた。

 安寿は、姉弟を覆っていた災いの〈気〉を、守りの地蔵尊が代わって引き受け、浄化してくれたに違いないと直観する。この体験が、安寿を変える。彼女は、たとえささやかな力であろうとも、自分たち姉弟にたしかに寄り添い、守ってくれている神仏の霊があるのだという信念を抱けるようになったのである。

 この揺るぎない〈信〉の力が、安寿を、孤独な魂を備えた、ひとりの〈大人〉へと脱皮させる。ここは、原作のキイとなる転回点である。

 人が、自己の人生に対して責任感のもてる、きちんとした〈大人〉になるというイニシエーションは、決して、神仏の霊威を嘲笑い、可視的な三次元的現実のみを生きる拠り所とするような、殺伐とした、合理主義的リアリストに脱皮することではない、という思想的メッセージが、ここには込められている。

 人が真に強くなれるのは、〈信〉を否定することによってではなく、逆に、己れに宿りながら己れを超えた不可知なる存在への〈信〉の力、すなわち三次元的現実を包摂する四次元的なはからいの力に身をゆだね、賭ける勇気あればこそなのである。

 守護霊の存在を信ずる安寿は、もはや、逃亡を企てた者には焼き印を押すという三郎の脅しを恐れてはいない。

 己れよりも足腰の強い、男の厨子王に、己れの〈志〉の全てを託そうと決意する。守りの地蔵尊を厨子王に譲り、神仏の加護と導きの力を弟一人に集中させることで、彼が脱出でき、追っ手の目をくらまして、無事に都まで辿り着き、父母を見つけ出して幸せになれるよう、祈念を込め、賭けようとするのである。

 弟の開運に全てを託した安寿にとって、もはや今生(こんじょう)への希み・未練はなかった。

 彼女にとって、「入水」という自決の選択肢は、決して、発作的な衝動に駆られてのことではなく、心の迷い、葛藤を突き抜けた上で、おのずから行き着いた場所であった。

 それは哀しい選択ではあるが、ひとりの自立した、責任ある〈大人〉の、考えに考え抜いたあげくの、孤独な肚(はら)のすわりによって支えられた、潔い〈覚悟〉の表われなのである。原作の安寿の「入水」が、陰惨な匂いを感じさせないのは、そのせいである。

 

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 それに対して、アニメの方は全く違う。

 アニメの安寿の入水には、この世への未練タラタラの、陰湿な恨みがましさが立ち込めている。父母と弟への想いを残し、三郎への愛にうしろ髪をひかれたまま、無力感に打ちひしがれて、無念の自死を遂げるのである。

 その安寿の怨念の深さは、入水シーンの直後に描かれた、凄まじい、天の怒りのような、雷鳴とどろく大嵐のシーンとなって顕われる。

 その嵐は、山椒大夫一族を見舞い、造りかけていた新しい館を一気に崩し、吹き飛ばしてしまう。

 その館の工事には、かつて、安寿と厨子王の姉弟が人夫として駆り出され、酷使されていたのだ。嵐はまさに、亡き安寿の内に秘められていた怨念の深さ、憤怒の凄まじさがひき起こした、荒魂(あらみたま)のうねりなのである。

 実際こちらの方が、〈白鳥〉に化身した姿などより、はるかに、安寿の〈本音〉としては説得力がある。

 精一杯、力の限りを尽くして、生きて生きて生き抜いたあげく、ついに力尽きて倒れたのなら、その魂は、想いは、美しい白鳥にも転生しようというものだ。日本神話のヤマトタケルのように。

 しかし、アニメの安寿のように、現世への未練がましい想いを中途半端に抱えたまま、無念の自死を強いられてしまった魂が、易々と成仏して、美しい白鳥に化身できるとは思えない。

 このアニメの敗け犬根性の強さ、空虚さは、ラストシーンにおける、厨子王の母親のセリフで、極まっているといっていい。

 陸奥の任地に向かう青年・厨子王と晴れて解放された母親を乗せた船の上を、安寿の化身である白鳥が優雅に飛んでゆく。

 その姿を息子と共に見上げる盲目の母の瞼(まぶた)には、うっすらと白鳥の幻が映し出される。そして、こう言うのである。

「ねえ厨子王、あの子もあれで、幸せなのかもしれませんね」と。

 冗談ではない。花の蕾(つぼみ)の若さで、愛する人と想いを遂げることもできずに、いのちを燃焼することもなく、自死の道を選ばされているのだぞ。

 どんなに、無念の想い、未練を残して、逝ってしまったことか。

 そのような魂魄(こんぱく)が、どうして浮かばれることがあろう。

 この作品でも描かれているように、出家した三郎が、安寿の霊を手厚く弔(とむら)い、成仏させんと祈り続けることはできよう。

 この世に未練を残したまま、恨みを呑んで死んだ者の霊も、手厚く祀(まつ)ることで、逆に「守護霊」と化し、縁(えにし)ある者たちを守ってくれるという「御霊(ごりょう)信仰」が、古来、わが国には生き続けている。

 しかし、それはそれとして、このアニメで描かれた安寿の入水の「後味の悪さ」は、いかんともしがたい。

 われわれの心は、少しも晴ればれとしないし、癒されはしない。

 これは違う、違うぞ。こんな結末は、絶対におかしい。

 そう私の心はささやくのである。

 このような、主人公たちの、和魂のみに偏し、荒魂の自然な解放=表現というものが封じられてしまった不健康さは、困ったことに、息を呑むほどに美しい、例の繊細この上ない、気品溢れる日本画的風景の織りなす、透きとおった〈水〉の流れのような、ゆったりとした農耕社会的時空の内に、すっぽりと矛盾なく包摂されてしまっていて、そのために、この哀切きわまりない不条理劇には、その陰惨さにもかかわらず、なんともいえない、しっとりとした優しい抒情性が息づいている。

 田中澄江の脚本も、その演出の空気感にふさわしい、まことにデリケートな言葉づかいや間合いを紡ぎ出している。

 私たちは、その抒情的な潤いにすっかり浸り切ってしまい、主人公たちの〈うつろさ〉に対して判断停止にさせられ、カタルシスの無いままに映像を観終り、不完全燃焼の後味の悪さだけをひきずって、退席させられるのである。

『源氏物語』にも流れている、うつろさと日本的無常感が一体となった、独特のはかなさの美学にも通底するものである。

 正直に言わせてもらえば、私は、この作品が好きなのである。

 このアニメに息づいている麗わしい和魂のかたち、主人公の姉弟やその父母の優しい植物的な生存感覚というものは、私自身にとっては、幼少年期の体験と深く結びついた、この上もなく懐かしいものだからである。

 先にも述べたように、私にとって、一九六〇年代前半から半ば頃にかけて接してきた、このような日本的な花鳥風月の美意識、〈水〉の感覚というものは、己れの資質の半面とも結びついた、郷愁の対象であるといっていい。幼児期に親しんだ絵本の風景とも重なるものがある。

 しかしだからこそ、今の私は、このようなまなざしのいびつさに対して、批判的にならざるを得ないのである。

 一九七〇年代以降の肉食的な高度産業文明のうつろさに対して、そしてまた、現代人が追いつめられている〈生き難さ〉の懸崖、生老病死の酸鼻な実態に対して、このようなアジア的な無常観・諦念と結びついた、非哀感と不条理感に蝕まれた陰鬱な死臭、植物的な生存感覚によってたたかうことはできない。

 かといって、魂の〈内燃機関〉を欠落させたままで、不条理に抗う獰猛なエネルギーをひき出そうとするのも、痛々しく不自然なことである。

 動物は、本能の力によって、大自然の中に過不足なく適応しながら、即自的に生き、たたかい、その生涯を全うする。

 植物もまた、大自然の中に過不足なく収まり、生の自然な循環を全うする。

 しかし、余計な自意識をもて余す、人という生き物は、動植物のように即自的・本能的には生きられない。

 だからこそ、血縁・地縁的な土俗共同体の一員として生きた前近代の民は、己れの身体、己れの生を、大いなる〈自然〉の一部として、ひとつの〈風景〉として、肯定的に感受することのできるような、(〈風土〉の個性と結びついた)宗教的でコスミックな世界観(宇宙観)を紡ぎ出し、それを何千年にもわたって、変容・衰弱させつつも、継受し続けてきたのである。

 しかし、共同体の桎梏(しっこく)と共に、その庇護(ひご)をも失った、先進国に生きる私たち現代人は、メカニックで非情な産業社会のシステムとそれを取り囲む、巨大で非人間的な宇宙的カオスのただ中に、無意味な〈断片〉のように放り出されてしまっている。

 私たちは、かつての共同体とは全く異なった形で、自身の内なる〈自然〉、内なる生命的なコスモスを紡ぎ出さねばならないという課題を負わされている。

 そのコスモスの支えがあってこそ、人と人の絆、共同性もまた、うつろではない、幸せな良き形を成就することが可能となるからである。

 そう考える時、私は、改めて、日本アニメーション映画の黎明期であった一九五〇年代の名作『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』が象徴的に表現してみせた世界観・まなざしの現在的な意義というものを、じっくりと振り返ってみる必要性を痛感する。

 その想いを最後に今一度かみしめつつ、この論考を終えたいとおもう。(了)

 

 

JUGEMテーマ:アニメ映画全般

〈生き難さ〉のアーカイブス〜「詩を描く」若者たち〜(連載第16回) 川喜田晶子

  • 2018.09.26 Wednesday
  • 17:49

 

〈うそ〉と〈ほんと〉

 

 人は、表層を裏切るものをたっぷりと抱えて生きている。そのことが、危うさや悲哀でもあれば救いでもある。

 

高々と蝶こゆる谷の深さかな  原石鼎

 

 己れの内にざっくりと深く切れ込んだ〈谷〉があることを憶い出させる一句。平らかに穏やかに見える他者の内にもまた、そのような〈谷〉の底知れぬ深さがあるかもしれない。人生の表層の浮き沈みの激しさと必ずしも比例するわけではない、その深さ。

 その〈谷〉が深ければ深いほど、〈蝶〉はより高々と、悠然と、こともなげに谷を越えてゆく。軽やかな飛翔と目くるめく深さとの対比の鮮やかさ。

 このような〈谷〉を一つ、また一つ、越えるたびにこの〈蝶〉の内に育つ〈闇〉の、他者にも己れ自身にも測りがたい重さと、取り替えのきかなさ。

 

無時間の猫抱けば芒また芒  北原志満子

 

 誕生から死までを線分として、終点を意識しながら青ざめた細切れの時間をせわしなく消費してしまう人間と、そのような時間意識の枠外をまどろんだり、時に爪や牙で枠を蹴散らしたりしている〈猫〉との対比。

 線分を蹴散らし、その延長の直線も蹴散らし、くるりと円環を成して〈無〉を獲得する〈猫〉の時間。

〈無時間〉の猫を抱くことで、その〈猫〉の持つ光景が人の魂に映り込む。「芒また芒」の光景は、誕生以前と死後に時空を拡張しながら、万象を〈無〉に抱き取ろうとするような、甘やかなニヒリズムを感じさせる。有限の「線分」意識に疲弊する魂の裏側に潜む、甘美な〈無〉への前のめりな憧憬。

 

たましひのまはりの山の蒼さかな  三橋敏雄

 

 視覚器官としての目がとらえる山の蒼(あお)さではなく、「たましひ」がとらえた山の蒼さ。

「たましひ」と「山」とは、主体と客体として別物ではなく、「たましひ」のありよう次第でその蒼さを変える「山」である。「山の蒼さ」への感動は、そのまま、そのような蒼さを感受し得る己れの「たましひ」への想定外の讃嘆の念でもあろう。

 己れを真に肯定する力を汲み上げられるのは、このような「たましひ」のドラマの水底からである。

 

時計屋の時計春の夜どれがほんと  久保田万太郎

 

 人も風景も真実も、輪郭がおぼろになる春の夜。

 時計屋の時計がどれも別の時刻を告げている。どれか一つを信じるならば、他の時計は全て嘘になる。しかも、その一つが真実だという保証も無い。

 人の人生は、時計屋の時計のどれか一つだけを買い求めるような大ばくちなのであり、その危うくて切ない賭博性という人生の本質を、ゆらりと一枚の絵にして差し出されたような。相対化され、指の隙間をこぼれ落ちてゆく〈生〉の意味を、「春の夜」が甘くけだるく融かし合わせたような。

 

満開のこみ上げてくる櫻かな  安田鈴彦

 

「櫻」の肉体の雄々しさ、みずみずしさ。

 観念を蹴散らして、有無を言わせぬ欲動としての「満開」が、肉体の深奥からこみ上げてくる。

「肉体」がそのまま清冽な魂ならば、どれほど美しく生きられることか。

 満開の後の散りざまの潔さだのはかなさだのに浸食されぬ、素の肉体の雄渾。意味に満ちた「櫻」への讃美。

「桜」として安易に消費されない「櫻」を感受した瞬間の躍動感が読み手を包む。(この稿続く)

 

 

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